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聖書はどのように現代まで伝わってきたか ― 第2部ものみの塔 1997 | 9月15日
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聖書はどのように現代まで伝わってきたか ― 第2部
ごうごうと燃えるたき火の中に燃料がどんどん積み上げられてゆくにつれ,火炎は空に向かって吹き上がりました。しかし,それは普通のたき火ではありませんでした。司祭や高位僧職者たちの見守る中,激しく燃え盛るその大きな火炎の中には聖書が燃料として次々にくべられていたのです。しかしロンドンの司教は聖書を買い取って処分することにより,それと知らずに,翻訳者のウィリアム・ティンダルがさらに聖書の出版を続行できるよう,何と資金面で助けていたのです。
この戦いの当事者双方はどうしてそのように断固たる信念を抱くようになったのでしょうか。本誌の以前の号では,聖書の出版に関する歴史を中世の末期まで考慮しました。今回は,神の言葉の音信と権威が社会に重大な影響を及ぼそうとしていた新時代の黎明期のことから取り上げましょう。
開拓者が現われる
オックスフォードの立派な学者だったジョン・ウィクリフは,『神の律法』,つまり聖書の権威に基づいて,カトリック教会の慣行が聖書に反していることを力強く説き,また非難する文書を書きました。また,だれでも耳を傾ける人に聖書の音信を英語で伝えさせるため,彼の教えを奉ずる人々,つまりロラード派の人々を英国の田園地方の至る所に派遣しました。そして,1384年に亡くなる前に,聖書をラテン語から当時の英語に翻訳する仕事を手がけました。
教会には,ウィクリフを嫌悪する色々な理由がありました。まず第一に,彼は僧職者の不節制や不品行を責めました。しかも,ウィクリフの心酔者たちの中には,彼の教えを誤用して武力反乱を正当化した人も少なくありませんでした。ウィクリフは過激な暴動を決して支持しませんでしたが,死後にも僧職者から非難されました。
1412年に教皇ヨハネス23世に書き送った手紙の中で,大司教アランデルは,「忌まわしい記憶のつきまとう,あの卑劣な厄介者のジョン・ウィクリフ,あの年経た蛇の子,ほかならぬ反キリストの使者なる子」に言及しています。アランデルはその非難の言葉をクライマックスに持っていき,こう書きました。「彼はあくまでも自分の悪意を遂げようとして,聖書を新たに母国語に翻訳するという方便を編み出したのである」。確かに,教会の指導者たちを大いに激怒させたのは,ウィクリフが庶民に自国語の聖書を与えたいと願ったことだったのです。
とはいえ,少数ながら著名人の中にも自国語の聖書を利用できる人がいました。その一人はボヘミアのアンで,彼女は1382年に英国王リチャード2世と結婚しました。アンはウィクリフの英訳福音書を入手し,終始それを研究しました。王妃になった彼女の好意的な態度は,聖書を普及させる運動を推し進めるのに一役買いました。しかもそれは英国だけの話ではありませんでした。アンはボヘミアのプラハ大学の学生にオックスフォードに来るよう勧めました。学生たちはそこでウィクリフの著作を熱心に研究し,その幾つかをプラハに持ち帰りました。ウィクリフの教えがプラハ大学で好評を得たことは,後日同大学で勉強し,やがてそこで教えたヤン・フスにとって支えになりました。フスは古スラブ語訳から読みやすいチェコ語訳を作りました。その努力が功を奏し,ボヘミアとその近隣の諸国では聖書が一般に用いられるようになりました。
教会は反撃する
また,ウィクリフやフスが,“あるがままのテキスト”つまり霊感を受けて記された,何も付け加えられていない元の聖書こそ,“欄外注”つまり教会の公認聖書の欄外にある伝統的なぎごちない説明よりも権威があると説いたので,僧職者は憤慨しました。しかし,これらの説教者は神の言葉の純粋な音信を庶民に得させたかったのです。
通行権を保証されたフスは,自説の弁明を行なうよう,1414年にドイツで行なわれたカトリックのコンスタンツ公会議に召喚されたものの,結局は裏切られました。同公会議は2,933人の司祭,司教,および枢機卿により構成されていました。フスは,自分の教えの誤りを聖書によって証明できるなら,自説を撤回すると述べました。同公会議にとっては,それが問題ではありませんでした。教会の権威に挑戦したことだけで,1415年に大声で祈るフスを焚刑に処する十分の理由とされたのです。
同公会議はまた,英国でウィクリフの遺骸を掘り起こして焼き捨てるよう命じることにより,ジョン・ウィクリフを断罪し,侮辱する最終的意志表示を行ないました。この命令は余りにも不快なものだったため,教皇の要求にしたがって,1428年になってやっと遂行されました。しかし,いつの場合もそうですが,そのような猛烈な反対も他の真理愛好者たちの熱意を鈍らせるものではなく,むしろ神の言葉を広めようとする彼らの決意を強めさせるものとなりました。
印刷術の及ぼした影響
フスが亡くなってからわずか35年後の1450年にはすでに,ヨハネス・グーテンベルクがドイツで活版印刷を始めていました。その最初の重要な印刷版はラテン語ウルガタ訳で,1455年ごろ完成しました。1495年までに聖書は全巻もしくは一部がドイツ語,イタリア語,フランス語,チェコ語,オランダ語,ヘブライ語,カタロニア語,ギリシャ語,スペイン語,スラブ語,ポルトガル語,およびセルビア語に,この順序で印刷されてゆきました。
オランダの学者デシデリウス・エラスムスは1516年にギリシャ語本文全巻の最初の印刷版を出版しました。エラスムスは,聖書が「あらゆる人々のあらゆる言語に翻訳されること」を望んでいました。しかし,自ら聖書を翻訳することによって自分の偉大な名声を危うくする気にはなれませんでした。とはいえ,もっと勇敢なほかの人々が後を引き受けることになりました。中でも際立っていたのはウィリアム・ティンダルでした。
ウィリアム・ティンダルと英訳聖書
ティンダルはオックスフォードで教育を受け,1521年ごろジョン・ウォルシュ卿の家に子供の家庭教師としてやって来ました。昼食時になると,ウォルシュ家の食卓で気前よく出される食事を取りながら,若いティンダルは地元の僧職者とよく激論を交わしたものです。ティンダルは聖書を開いて聖句を示し,僧職者の意見に対して平然と異議を唱えました。やがてウォルシュはティンダルの主張の正しさを確信するようになり,僧職者はあまり頻繁に招かれなくなり,あまり熱烈な歓迎を受けなくなりました。当然のことながら,そのために僧職者はティンダルとその信条に対する憎しみを一層募らせました。
ある論争の際に,ティンダルの宗教上の反対者の一人が,「教皇の法がなくなるぐらいなら,神の律法のない方がましだ」と主張しました。それに対して次のように答えたティンダルの確信のほどを想像してください。「私は教皇もそのすべての法も退ける。もし神が私の命を長らえさせてくださるなら,多年を要せずに,鋤引く牛馬を駆る少年をしてあなた以上に聖書を理解させてみせよう」。ティンダルの決意は具体化していました。彼は後日,こう書きました。「母国語の聖書が眼前にありのままに置かれて,聖句の骨子,順序,および意味を理解できるようにされない限り,いかなる真理も平信徒に確信させるのは不可能であることに経験から気づいた」。
当時,英国で聖書はまだ印刷されていませんでした。それで1523年に,ティンダルはタンスタル司教に翻訳計画の支援を要請するためロンドンに赴きましたが,その申し出をはねつけられたティンダルは目的を追求するため英国を去り,二度と戻りませんでした。ドイツ,ケルン市のティンダルの最初の印刷所は手入れを受けましたが,彼は製本されていない,ページのままの貴重な印刷物の一部を携えて,かろうじて逃げ去りました。それでもドイツのウォルムスで,ティンダルの英訳した「新約聖書」は少なくとも3,000部完成しました。それらの聖書は英国に送られ,1526年の初めには英国で頒布されるようになりました。それらの聖書を買い取っては焼き捨てていたタンスタル司教は,それと知らずに,確かにティンダルを助けて仕事を続行させていたのです。
研究はより明確な理解をもたらす
ティンダルにとってそれは明らかに楽しい仕事でした。「ケンブリッジ版,聖書の歴史」は,「聖書が彼を幸せにしたので,幸せな気分を伝えるそのリズムには速くて快活なところがある」と述べています。ティンダルの目標は,聖書をして,できるだけ正確かつ簡潔な言葉遣いで一般の人々に語りかけさせることでした。色々研究した結果,教会の教理のために何世紀にもわたって覆い隠されていた聖書用語の意味が分かってきました。ティンダルは,殺すと言って脅されようと,強敵トマス・モア卿の悪意のあるペンによる攻撃を受けようともおびえることなく,研究した結果を翻訳に取り入れました。
ラテン語からではなく,エラスムスの作った原語のギリシャ語本文から翻訳を行なったティンダルは,ギリシャ語のアガペーという言葉の意味を一層十分に表現するため,「慈善」(charity)ではなく,「愛」(love)という語を使いました。また,「教会」(church)の代わりに「会衆」(congregacion),「告解する」(have penance)ではなく「悔い改める」(repent),「司祭たち」(priestes)ではなく「長老たち」(elders)という言葉を使いました。(コリント第一 13:1-3; コロサイ 4:15,16; ルカ 13:3,5; テモテ第一 5:17,ティンダル訳)こうした調整は教会の権威,および司祭に対する告解などの伝統的な宗教上の慣習に壊滅的な影響を及ぼしました。
同様に,ティンダルは「復活」(resurrection)という言葉を固守し,煉獄や,死後も意識があるという考えを聖書に反する教えとして退けました。また,死者に関してモアに,「[あなたは]死者を天や地獄や煉獄に入れて,復活を証拠立てたキリストやパウロの論議を無効にしている」と書き送りました。ティンダルはマタイ 22章30節から32節やコリント第一 15章12節から19節に言及しました。そして,死者は将来,復活させられる時まで無意識のままであるということを正しく信ずるようになりました。(詩編 146:4。伝道の書 9:5。ヨハネ 11:11,24,25)これは,マリアや“聖人”に祈りをささげる取り決め全体が無意味なものであることを意味しました。なぜなら,彼らは無意識ですから,祈りを聞き届けたり,執り成したりすることはできないからです。
ティンダルはヘブライ語聖書を翻訳する
1530年に,ティンダルは五書<ペンタチューク>,つまりヘブライ語聖書の最初の五つの書を刊行しました。こうして彼は,聖書を直接ヘブライ語から英語に翻訳した最初の人になりました。ティンダルはまた,エホバというみ名を初めて英訳に使用した翻訳者でした。ロンドンの学者デービッド・ダニエルは,「ティンダルの読者は神のみ名が新たに啓示されたという強烈な印象を受けたはずである」と書きました。
明快な訳を目指したティンダルは,ヘブライ語の一語を訳すのに英語の幾つかの言葉を使いました。しかし,ヘブライ語の構文には忠実に従いました。その結果,ヘブライ語の簡潔な文章の持つ力強さが保たれています。彼自身こう述べました。「ヘブライ語の特性はラテン語よりもはるかに英語に似ている。発話の様式は同一であり,それゆえに多くの場合,ヘブライ語は一語ずつ英語に訳せばよいのである」。
このように基本的には字義どおりに訳されたので,ティンダルの訳文にはヘブライ語表現の趣がありました。そのあるものは初めて読むと,かなり奇妙に思えたに違いありません。しかし,その聖書はやがて非常になじみ深いものになったため,そのような表現の多くが,今日では英語の一部になっています。「その心にかなう人」(a man after his own heart)(サムエル第一 13:14),「過ぎ越し」(passover),「身代わりのやぎ<スケープゴート>」(scapegoat)などはその実例です。それだけでなく,その英訳聖書の読者はこうしてヘブライ人の思想にも通じるようになり,霊感を受けて記された聖書に対する,より深い洞察が得られるようになりました。
聖書とティンダルの活動は禁じられる
自国語で神の言葉が読めるというのは胸の躍るようなことでした。英国の民衆はこたえ応じ,布地その他の商品の梱のように見せかけて貨物として自国にこっそり持ち込まれた聖書をみな買い求めました。一方,僧職者は,もし聖書が究極の権威とみなされるようなことになれば,自分たちは地位を失わざるを得なくなると考えました。したがって,状況は翻訳者とその支持者たちにとっていよいよ死活問題となりました。
ティンダルは教会と国家から絶えず追い回されたので,ベルギーのアントワープに潜伏して仕事を続けました。それでもなお,1週間のうち二日をいわゆる気晴らしとして,英国からの他の難民や貧しい人々や病人に仕える奉仕に充て,そのようにして資金の大半を費やしました。ティンダルはヘブライ語聖書の後半を翻訳し終えないうちに,友人になり済ましていたある英国人に金目当てで裏切られました。そして1536年にベルギーのビルボールデで,「主よ,イングランド王の目を開きたまえ」という最後の熱烈な言葉を述べた後,処刑されました。
1538年までには,ヘンリー8世が自分なりの理由で英国のすべての教会に聖書を備えるよう命じました。選定されたその訳には,ティンダルによるものであると記されてはいませんでしたが,実質上,それは彼の訳でした。こうして,ティンダル訳はたいへん有名になり,愛されたので,「それ以後のほとんどの[英]訳の基本的な特性を確定するものとなった」のです。(「ケンブリッジ版,聖書の歴史」)ティンダル訳の約90%は1611年版のジェームズ王欽定訳に直接取り入れられました。
聖書を自由に利用できるようになったことは,英国にとって重大な変化をもたらしました。教会に備えられた聖書に焦点を当てた話し合いがあまりにも活発に行なわれたため,実際,教会の礼拝が妨げられることさえありました。「年取った人々は直接神の言葉をひもとくことができるよう読み方を学び,子供たちは年長者たちに加わって話に耳を傾け」ました。(「英訳聖書小史」)また,この時期にはヨーロッパのほかの国でも自国語訳の聖書の頒布数は劇的に増加しました。しかし,英国で起きた聖書を擁護する運動は,世界的な影響を及ぼすことになりました。どのようにしてそうなりましたか。また,その後の発見や研究は,今日使用している聖書にどのような影響を及ぼしたでしょうか。この一連の物語は次の記事で完結します。
[26,27ページの図表/図版]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
聖書の伝達にかかわる重要な年代
西暦
ウィクリフ訳聖書の翻訳が始まる(1384年以前)
1400年
フスが処刑される 1415年
グーテンベルク ― 初めて印刷された聖書 1455年ごろ
1500年
印刷された初期の自国語訳聖書
エラスムスのギリシャ語本文 1516年
ティンダル訳,「新約聖書」 1526年
ティンダルが処刑される 1536年
ヘンリー8世が教会に聖書を備えるよう命ずる 1538年
1600年
ジェームズ王欽定訳 1611年
[図版]
ウィクリフ
フス
ティンダル
ヘンリー8世
[26ページの図版]
ティンダル訳,「新約聖書」,1526年版 ― 焼却を免れて完全な形で残ったものとして知られているただ1冊の書
[クレジット]
© The British Library Board
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アリスタルコ ― 忠節な友ものみの塔 1997 | 9月15日
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アリスタルコ ― 忠節な友
アリスタルコは使徒パウロから信頼された多くの同労者の一人でした。アリスタルコという名前を聞くと,どんなことが頭に浮かぶでしょうか。何か思い浮かびますか。初期キリスト教の歴史を完成する上でどんな役割を演じたかを述べることができるでしょうか。アリスタルコはわたしたちにとってとりわけなじみ深い聖書中の人物の一人ではないかもしれませんが,それでもクリスチャン・ギリシャ語聖書の中で述べられている数多くのエピソードとかかわりを持っていました。
では,アリスタルコとはどんな人でしたか。パウロとはどんな関係を持っていましたか。どうしてアリスタルコは忠節な友だったと言えるのでしょうか。また,その模範を調べると,どんな教訓が得られるでしょうか。
アリスタルコは使徒たちの活動の書の記述の中で,エフェソス市の逆上した暴徒が叫び声を上げ,混乱を起こしているさなかに劇的な仕方で登場します。(使徒 19:23-41)デメテリオやエフェソスのほかの銀細工人たちにとって,偽りの女神アルテミスの銀製の宮の製作は有利な事業でした。ですから,パウロが同市で伝道活動に携わったため,かなりの数の人々がこの女神の汚れた崇拝をやめた時,デメテリオは他の職人たちを扇動しました。そして,パウロの伝道によって自分たちの経済的安定が脅かされているばかりか,アルテミスの崇拝が無に帰してしまう可能性もある,と彼らに語りました。
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