ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • サムエルは「予見者」でしたか,それとも「預言者」でしたか
    ものみの塔 1999 | 7月15日
    • サムエルは「予見者」でしたか,それとも「預言者」でしたか

      「予見者」とは,恐らく,神によってご意志を識別できるようにされた人,またそのような洞察力を持っている人,一般の人に明らかにされていない事柄を見る,つまり理解することができるように,いわば目から覆いを外されている人です。「予見者」と訳されているヘブライ語ローエは,文字通りにも比喩的にも「見る」ことを意味する語根語から派生しています。予見者とは,人が問題に直面した時に賢明な助言を求めて相談する人のことを言いました。(サムエル第一 9:5-10)聖書は予見者として,サムエル(サムエル第一 9:9,11,18,19。歴代第一 9:22; 29:29),ザドク(サムエル第二 15:27),ハナニ(歴代第二 16:7,10)の名を挙げています。

      「予見者」,「預言者」,「幻を見る者」という名称は聖書の中で互いに密接に関係しています。これらの語の違いを示すとすれば,「予見者」という語は識別力に関係し,「幻を見る者」は神のご意志が知らされる仕方に関係し,「預言者」はどちらかといえば神のご意志を語ることや宣明することに関係していると言えるかもしれません。サムエル,ナタン,ガドはみな預言者と呼ばれましたが(サムエル第一 3:20。サムエル第二 7:2; 24:11),歴代第一 29章29節は,「予見者サムエルの言葉,預言者ナタンの言葉,幻を見る者であるガドの言葉の中に」と述べて,三つの語の間の違いを示唆しています。

      サムエル第一 9章9節は,「今日の預言者は昔は予見者と呼ばれていた」と述べています。これは裁き人の時代の終わりごろから(サムエルの時代にはじまった)イスラエルの王たちの治世中にかけて,神のご意志を公に宣明する人としての預言者が以前よりずっと目立った存在になったからかもしれません。一般にサムエルは「預言者」と呼ばれた歴代の人々の最初の人と呼ばれています。―使徒 3:24; 13:20。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1999 | 7月15日
    • 読者からの質問

      テサロニケ第二 3章14節で「注意する」と述べられているのは,会衆の正式な手続きを指すのでしょうか。それともこれは,無規律な人を避ける点で個々のクリスチャンが行なうことなのでしょうか。

      テサロニケの人々にあてて使徒パウロが書いた事柄は,そのように「注意する」点で会衆の長老たちがはっきりした役割を担うことを示しています。そして個々のクリスチャンとしては,それに応じて行動し,霊的な目標を念頭に置いてそのようにします。パウロの助言のそもそもの背景を考慮することによって,この点をよく理解できます。

      パウロはテサロニケ会衆の設立を助け,その地の人々が信者になるのを助けました。(使徒 17:1-4)後に,それらの人をほめ,励ます手紙をコリントから書きました。パウロは必要な助言も与えました。「静かに生活し,自分の務めに励み,手ずから働く」ようにと促しました。そのようには行動していなかった人もいたために,パウロは,「兄弟たち,……あなた方に勧めます。無秩序な者を訓戒し,憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え……なさい」とも書き添えました。助言の必要な「無秩序な」a 人たちがいたことは明らかです。―テサロニケ第一 1:2-10; 4:11; 5:14。

      数か月後,パウロは,イエスの将来の臨在について注解を加えた2通目の手紙をテサロニケの人々に書き送りました。パウロはさらに,「働かないで,自分に関係のないことに手出ししている」無秩序な人たちをどう扱うかに関して指針を与えました。そうした人たちの行動は,骨折って働くパウロの模範に,また自らの生活を支えるために働きなさいというパウロのはっきりした命令にも逆らうものでした。(テサロニケ第二 3:7-12)パウロは,一定の処置を講じるように指示しました。その処置は,長老たちが無秩序な人をすでに訓戒し,助言を与えた後に取るものでした。パウロは次のように書いています。

      「さて,兄弟たち,わたしたちは,……あなた方に命じます。あなた方がわたしたちから受けた伝統にしたがわないで無秩序な歩み方をするすべての兄弟から離れなさい。兄弟たち,あなた方は,正しいことをする点であきらめてはなりません。しかし,この手紙によるわたしたちの言葉に従順でない人がいれば,その人に特に注意するようにし,交わるのをやめなさい。その人が恥じるようになるためです。それでも,その人を敵と考えてはならず,兄弟として訓戒し続けなさい」― テサロニケ第二 3:6,13-15。

      それで,さらに取る処置には,無秩序な人たちから離れること,注意するようにすること,交わるのをやめること,それでも,兄弟として訓戒することなどが含まれていました。どのような状況の時に,会衆の成員はこうした処置を取る必要が生じるでしょうか。この点を明確にするために,パウロがここでは取り上げていなかった三つの状況を確かめておきましょう。

      1. クリスチャンも不完全で,いろいろと落ち度のあることは分かっています。しかしそうではあっても,愛は真のキリスト教のしるしであり,他の人の間違いに理解を持ち,それを許すことを求めます。例えば,あるクリスチャンが,ごくまれであるにせよ,バルナバとパウロの間で起きたように怒りを爆発させることがあるかもしれません。(使徒 15:36-40)疲れているせいで,だれかが厳しく,とげとげしい言い方をすることもあるでしょう。そのような場合には,愛を示すこと,また聖書の助言を当てはめることによって過ちを覆うことができ,仲間のクリスチャン同士としての生活や交わりや活動を続けてゆくことができます。(マタイ 5:23-25; 6:14; 7:1-5。ペテロ第一 4:8)パウロはテサロニケ第二の手紙の中で,この種の落ち度について述べていたのではありません。

      2. パウロはまた,行動の仕方や態度のよくない人,例えばレクリエーションや物質的な物事に過度に傾いているような人がいる場合に,あるクリスチャンが個人的にその人との交わりを制限するといった状況について述べていたのでもありません。また,親が自分の子供に,親の権威を軽んじたり,荒々しくて危険な遊びをしたり,あるいはキリスト教を真剣に考えていない若者との交友を制限することもあるでしょう。それは,「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり,愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う」という,箴言 13章20節に沿って個人的に決める事柄にすぎません。―コリント第一 15:33と比較してください。

      3. パウロは,重大さがまったく違う状況,つまり由々しい罪を習わしにして悔い改めていない人について,コリントの人々に書き送りました。そのような悔い改めない罪人は会衆から除かれなければなりませんでした。その「邪悪な」者は,いわばサタンに引き渡されなければならなかったのです。忠節なクリスチャンはその後,そうした邪悪な者たちと交わるべきではありませんでした。使徒ヨハネは,あいさつさえしないようにと促しています。(コリント第一 5:1-13。ヨハネ第二 9-11)しかしこれも,テサロニケ第二 3章14節の助言が当てはまる状況ではありません。

      テサロニケ第二の手紙の中で論じられている「無秩序な」人たちに関する状況は,上の三つの場合とは異なっています。パウロはそれらの人たちが依然「兄弟」であり,そうした人として訓戒され,扱われるようにと書きました。つまり,「無秩序な」兄弟たちに関する問題は,単にクリスチャン相互の個人的な事柄ではなく,またコリントの不道徳な状況に関してパウロが述べた,会衆の長老たちが排斥処置を取らなければならないような深刻な事柄でもありませんでした。この「無秩序な」人たちは,コリントで排斥された人のように重大な罪があるわけではありませんでした。

      テサロニケにいた「無秩序な」人たちは,キリスト教の道からかなり逸脱していました。キリストの帰還を目前と考えたか,あるいは怠惰であったかの理由で,働こうとしていませんでした。さらに,「自分に関係のないことに手出し」して,かなりの騒ぎを起こしていました。会衆の長老たちは,パウロの最初の手紙にあった忠告や,神の他の諭しに沿って,そうした人たちに繰り返し助言を与えていたことでしょう。(箴言 6:6-11; 10:4,5; 12:11,24; 24:30-34)それでもそれらの人たちは,会衆に非難をもたらし,他のクリスチャンにも広まるような道をあくまで続けていました。そのためクリスチャンの長老であったパウロは,その人たちの名前を挙げないながらも,その人たちの無秩序さについて公に注意を促し,その誤った歩みをあらわにしました。

      パウロはさらに,無秩序な人たちについては,個々のクリスチャンも「注意する」ことがふさわしいという点を会衆に知らせました。これは,会衆が公に注意を促されたような行動をしている人々に,一人ひとりが注意しなければいけないという意味でした。パウロは,「無秩序な歩み方をするすべての兄弟から離れ(る)」ように忠告しました。「兄弟として訓戒し続けなさい」とありますから,そうした人を完全に避けるようにという意味でなかったことは確かです。集会や,おそらく宣教奉仕でもクリスチャンとしての接触を保ったことでしょう。そうした兄弟が訓戒にこたえ応じて,秩序を乱すその行動を捨てることを期待できました。

      そうした人からどのような意味で「離れ(た)」のでしょうか。社交的な面においてであったことは明らかです。(ガラテア 2:12と比較してください。)その人との社交的な付き合いやレクリエーションを共にするのをやめることで,原則に基づいて行動する人々はその歩みを好んでいないことを示すことになったでしょう。その人が恥じて改めなかったとしても,少なくとも他の人たちがその生き方をまねて同じようになることはほとんどなかったでしょう。同時に,それら個々のクリスチャンは,積極的な事柄に専念すべきでした。パウロは,「兄弟たち,あなた方は,正しいことをする点であきらめてはなりません」と勧めました。―テサロニケ第二 3:13。

      明らかに,使徒によるこの助言は,ささいな失敗や間違いをした兄弟たちを見下したり裁いたりする根拠にはなりません。むしろこの助言の目的は,秩序を乱す歩みをし,クリスチャンの道と少なからず対立している人を助けることです。

      パウロは,込み入った手続きを設けるかのように細かな規則を作ろうとはしていません。長老たちがまず助言を与え,無秩序な人を助けようとすることが基本です。それがうまくいかず,その人が秩序を乱す歩みを続け,それが広まる可能性があるなら,長老たちは会衆に注意を促したほうが良いと判断するでしょう。そのような無秩序をなぜ避けるべきかについての話を取り決めることができます。名前を挙げることはしませんが,注意を促すために長老が行なう話は,会衆を守る助けとなるでしょう。それにこたえ応じる人々は,そうした無秩序さをはっきり示す人との社交的な活動を制限する点で特に注意を払うからです。

      うまくいけば,無秩序な人はやがて自分の行ないを恥じて改めるようになるでしょう。会衆の長老たちや他の人々は,その変化を見るにつれて,個人的な交際に関して設けた制限は終わらせてよいと個々の人が判断できます。

      要約すると次のようになります。無秩序な歩みをしている人がいるなら,会衆の長老たちが率先して援助と助言を差し伸べます。物事の行ない方について誤りを認めず,引き続き不健全な影響を与えるようであれば,長老たちは,不信者とのデートその他のふさわしくない歩みに関する聖書の見方をはっきりさせる話を行なって,会衆に注意を促します。(コリント第一 7:39。コリント第二 6:14)そのような形で注意を促された会衆のクリスチャンたちは,明らかに無秩序な歩み方をやめようとしないながらも依然兄弟である人との交際に,個人的に制限を設けようと決めることができます。

      [脚注]

      a このギリシャ語は,隊列を乱したり規律に従わなかったりする兵士や,学校の授業を無断欠席する怠け癖のある生徒を指して用いられました。

      [31ページの写真]

      クリスチャンの長老たちは無秩序な人を訓戒するが,それでも信仰の仲間とみなしている

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする