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  • 何が子供の最善の益となるか
    目ざめよ! 1997 | 12月8日
    • 何が子供の最善の益となるか

      離婚すべきか,すべきでないか。不幸な結婚生活を送る多くの人々にとって,それは大きな問題です。昔は離婚というと,人々は公然と非難しないまでも,道義的また宗教的理由から眉をひそめたものです。そして親は,たとえ不幸な結婚生活を送っていても,子供のために一緒に暮らすのが普通でした。しかし,この世界の規準は比較的最近になってがらりと変わってしまいました。今日では,離婚は一般に容認されています。

      ところが,離婚が容認されているにもかかわらず,離婚が子供に及ぼす悪影響を懸念する親,裁判官,社会学者などは増えています。注意を促す声は今高まっています。離婚が子供に破壊的な影響を与え得ることを示す証拠も増加しています。親は離婚が自分と子供にもたらす結果を考えるよう勧められています。プリンストン大学の社会学者,サラ・マクラナハンは,「離婚する家庭の3分の2ないし4分の3は,自分たちのしていることが正しいかどうかを,もっと多くの時間をかけて,もっと真剣に考えてみるべきではないか」と述べています。

      最近の調査によると,離婚家庭の子供は他の子供たちに比べ,十代で妊娠したり,学校を中退したり,うつ病になったり,自分の結婚生活も離婚に終わったり,生活保護を受けるようになったりする率が高くなっています。西洋諸国では,6人に一人の子供が離婚の影響を受けています。歴史家のメアリー・アン・メーソンは,米国における親権について書いた本の中で,「1990年に生まれた子供がどこでだれと暮らすかに関する件を裁判所が判定することになる公算は約50%だった」と述べています。

      残念なことに,親は子供に一層のストレスを感じさせながら親権と面接交渉権をめぐって法廷で争い続ける場合があるので,対立は必ずしも離婚によって終わるわけではありません。法廷における敵意に満ちた雰囲気の中での感情的なやり取りは,親に対する子供の忠誠心を試みるものともなり,子供に無力さや恐れを感じさせることも少なくありません。

      ある家庭問題カウンセラーは,「離婚が子供を救うことはない。大人を救うことは確かにあるが」と述べました。実際,離婚によって親自身のジレンマは解消するかもしれませんが,その一方で親は子供に大きな打撃を与える恐れがあります。そして,子供はその痛手を埋め合わせることに残りの人生を費やすかもしれないのです。

      親権はどうなるか

      夫婦別れに伴う対立と感情的なストレスの中で,子の親権をどうするかを取り乱すことなく理性的に話し合うのは極めて困難です。親同士が顔を合わせる機会を最小限にし,訴訟による争いを避ける目的で,訴訟によらない調停など,他の手段で争いを解決するよう勧めている行政区もあります。a

      調停がうまくいけば,親は子供をどちらの手元に置くかを裁判官の決定に委ねることなく,自分たちで話をまとめることができます。調停が不可能であれば,親は弁護士を通して親権と面接交渉権についての取り決めを設けることもできるかもしれません。親が合意に達し,それを書面にしさえすれば,裁判官は親の意向を含む命令書に署名することができます。b

      親権をどうするかで折り合いがつかない場合,ほとんどの国の法律制度は子供たちの最善の益が確実に守られるようにするための手段を設けます。裁判官が最も重要視するのは,親ではなく子供のことです。裁判官は,両親の意向,子供と父母との関係,子供がどちらの親を好んでいるか,また日々の子供の世話をする能力がそれぞれの親にどれほどあるかなど,関係する様々な要素を考慮します。その後,裁判官は子供の将来に関する重要な決定を親がどのように行なうかだけでなく,子供がどこでだれと暮らすかをも決定します。

      単独親権の取り決めにおいては,決定を行なう権限は一方の親が持つことになるかもしれません。共同親権の取り決めにおいては,子供が受ける医療や教育など,重要な決定に関しては両方の親が同意しなければなりません。c

      生じ得る問題

      親権をめぐる訴訟が生じると,エホバの証人である親たちは,子供の霊性にとって何が最善の益になるかということも考慮しなければなりません。例えば,もしエホバの証人でない親が,子供の聖書教育に全面的に反対しているならどうでしょうか。あるいは,エホバの証人でない親がクリスチャン会衆から排斥された人であるならどうでしょうか。

      こうした状況のもとでは,クリスチャンである親にとって決定はいっそう複雑な問題になる可能性があります。彼らは賢明で道理をわきまえた行動をとりたいと思っていますし,祈りをこめて子供の最善の益を考慮しつつ,エホバのみ前で正しい良心を保ちたいとも思っています。

      続く記事では,以下のような質問を考慮します。子供の親権を定める場合,法律は宗教をどのようにみなしていますか。親権をめぐる訴訟という難事にどうすれば首尾よく立ち向かえるでしょうか。子供の親権を失った場合,どのように対処できるでしょうか。排斥された親との共同親権をどのようにみなしたらよいでしょうか。

  • 親権 ― 宗教と法律
    目ざめよ! 1997 | 12月8日
    • 親権 ― 宗教と法律

      離婚と親権をめぐる訴訟において,宗教は重要な,また複雑な要素になる可能性があります。例えば,次のような問題が生じるかもしれません。

      片方の親が,ある宗教,とりわけ少数派の宗教の信者であるという理由で,その親が子供の親権者になるのは不適当だとする証言を,裁判官は考慮に入れるべきでしょうか。裁判官は自分の見解で子供にとってどの宗教が最善かを決定するために,両親の宗教の信条や実践についての証言を考慮すべきでしょうか。そして,子供を一方の宗教によって育てるよう命じ,もう一方の宗教に接することを禁じるべきでしょうか。

      今日,宗教的また民族的背景を異にする相手と結婚する人がますます増えています。ですから,そのような夫婦が離婚する場合,子供たちはすでに二つの宗教社会と関係を持っているかもしれません。時には,離婚訴訟で係争中の親の片方が最近になって,以前とは異なる特定の宗教を受け入れたということもあります。新しい宗教との交わりはその親にとって生活を安定させる要素,また非常に大切なものとなるかもしれませんが,子供にとってはなじみが薄いかもしれません。そこで,別の問題が生じます。裁判所は,その親が以前とは違う宗教を奉じているというだけの理由で,その宗教の集いに子供を連れて行くことを禁じることができるのでしょうか。

      これらは難しい問題です。これらの問題を解決するには,裁判官は子供の必要のみならず,両親の益と権利をも考慮に入れる必要があります。

      親と子の基本的権利

      確かに,裁判官は自分個人の宗教観に影響される場合があります。しかし,多くの国では,親あるいは子の宗教上の権利が無視されることはないようです。それらの国には,教育面および宗教面での子供の指導を含め,子供のしつけを行なう親の基本的権利を裁判官が制限することを禁じる憲法があるかもしれません。

      一方,子供にも親からそうした訓練を受ける権利があります。裁判官が合法的に子供の宗教教育に介入できるのは,「特定の宗教行為が子供の当面の福祉に緊急かつ重大な害を及ぼす恐れがある」ことを示す説得力のある証拠が裁判所に提出された場合だけです。(下線は本誌。)宗教についての意見の相違だけでは,あるいは宗教をめぐる親同士の対立でさえ,政府の介入を正当化するには不十分です。

      米国ネブラスカ州で,エホバの証人である母親が親権をめぐる争いで取った道理にかなった立場は,これらの法的な備えが親子双方の保護になることを示しています。エホバの証人ではない父親は,娘が王国会館で行なわれるエホバの証人の集会に出席することを望みませんでした。下級裁判所は父親の言い分を認めました。

      そこで,母親はネブラスカ州の上級裁判所に上訴しました。そして,エホバの証人の活動の中に,子供の福祉に緊急かつ重大な脅威となることを示すような証拠など何もないと主張し,こう証言しました。「両方の親の宗教活動に出席し,参加するなら,……子供は十分に理解できる年齢に達する時にどちらの宗教を選ぶかを決めるための基盤が得られます」。

      上級裁判所は下級裁判所の判決を覆し,「[下級]裁判所が未成年の子供に宗教教育を施す母親の養育権に制限を設けたのは裁量権の濫用である」としました。子供が,エホバの証人の王国会館で行なわれる集会に出席して害を受けたことを示す証拠など全くありませんでした。

      親権者ではない親の権利

      時には,離婚した親は子供を監督する権利を得る手段として,宗教教育をめぐる争いを利用しようとします。例えば,米国ニューメキシコ州のカールサ対カールサ事件の場合,婚姻中は両親ともシーク教を実践していました。しかし,離婚後しばらくして母親はカトリックに改宗し,子供たちにシーク教の実践をやめさせようとし始めました。

      父親は怒り,自分の宗教であるシーク教に沿った宗教教育を子供たちに施す権限を強化しようとして,問題を裁判所に持ち込みました。事実審裁判所は父親の要求にどう反応したでしょうか。その要求を退けたのです。事実審裁判所は,「子供たちは[父親]といる時は,自発的にせよ非自発的にせよ,シーク教のキャンプや託児所などの教会活動を含めて,シーク教のいかなる活動にも参加してはならない」と命じました。

      父親はこの判決を不服とし,ニューメキシコ州上訴裁判所に上訴しました。この上級裁判所は父親の言い分を認め,一審の判決を覆しました。上訴裁判所はこう述べました。「裁判所は宗教を平等に扱うという方針を固守すべきであり,子供への害が明白かつ確実である場合にのみ,この微妙な,憲法により保護されている領域に介入すべきである。この領域で制限を設けるなら,法廷によって課された制約が,憲法に反して親の崇拝の自由を侵害したり,あるいはそのような影響を及ぼすものとみなされたりする危険性がある」。

      そのような判決は,多くの国で確立されている,連綿とつづく原則にかなったものです。道理をわきまえる親はそうした原則を考慮に入れるでしょう。加えて,クリスチャンである親は,子供には母親にも父親にも敬意を示す義務があるだけでなく,両親との交流が必要であることも注意深く熟考するでしょう。―エフェソス 6:1-3。

      訴訟によらない調停

      訴訟によらない調停は裁判官の前での審理ほど形式ばらないものかもしれませんが,親は安易な気持ちでこの方法を利用すべきではありません。親権を定めるこの方法において双方が行なった合意や約束はいずれも,その後の裁判所命令によって拘束力のあるものとされる可能性があります。a ですから,親が家族法を扱う経験の豊富な法律家に相談し,親権に関係のある事柄がすべて必ず適切かつ公正に扱われるようにするのは賢明なことです。

      どちらの親も時間をかけて調停に備えるべきです。調停手続中の親の態度や振る舞いは,事の成り行きに大きな影響を与える場合があります。離婚しようとしている親は往々にして,離婚の法的手続に心を奪われているため,大切な問題,つまり何が子供の最善の益になるか,子供が精神的,感情的,また身体的に成長するには何が必要かといった問題を見失ってしまいます。

      覚えておきたいのは,法的な観点から調停で第一に問題にされるのは,宗教的不和や他の個人的な不和ではなく,どうすれば両親が共通の基盤を見いだし,子供の益になる合意に達し得るかということです。親は宗教その他に関する偏見,予想外の質問,動揺させ混乱させようとする巧みな操作に直面するかもしれません。双方の欠点が暴露され,誇張されることさえあるかもしれません。しかし,関係者が道理をよくわきまえていることを常に示すなら,解決に至ることは可能です。

      時には,調停手続が長引いて気持ちがくじかれるように思えることがあるかもしれません。他の方法としては,長期に及ぶ訴訟がありますが,これには世間体の問題,経済的な負担,子供への悪影響などが伴います。そのほうが望ましくないのは確かです。クリスチャンである親は,生活上のあらゆる重大な問題の場合と同様,「あなたの道をエホバの上に転がし,神に頼れ。そうすれば,神ご自身が行動してくださる」という霊感による勧めを心に留めつつ,祈りのうちに調停に臨むことを願うでしょう。―詩編 37:5。

      しかし,解決が得られず,裁判官が子供の親権を相手方に与える場合はどうでしょうか。あるいは,離婚しようとしている親の一方がクリスチャン会衆から排斥されているならどうですか。また,共同親権や単独親権をどのように見るべきでしょうか。次の記事はこれらの質問やそれらと関係のある聖書の原則を取り上げています。

      [脚注]

      a 日本の場合,調停で合意した事柄は調停調書に記され,法的拘束力を持ちます。

      [6ページの囲み記事]

      三つの大切な特質

      「目ざめよ!」誌がインタビューした家庭裁判所のある裁判官は,自分が親に求める大切な特質は次の三つであると語りました。

      道理をわきまえていること ― 相手に子供と会う機会をできるだけ多く与えることをいとわない(子供に身体的あるいは道徳的な害がない場合)

      思いやり ― 子供の感情的な必要を認識している

      自制 ― 子供がのびのびと成長できるような穏やかな雰囲気を作るのに役立つ平衡の取れた家庭生活を送っている

      [6ページの囲み記事]

      裁判の指針

      一部の裁判官は幾つかの指針を設けることによって,親の宗教的価値観をめぐる不必要な論争を避けることに努めてきました。例えば,

      1. 子供と両親が有意義な関係を築くよう励ますこと。カナダの最高裁判所の判事ジョン・ソピンカは,どちらの親も,「ありのままの自分を明らかにするのに役立つ活動[自分の奉じる宗教の実践を含む]に携わること」を許されるべきであり,「親権者でない親は,子供と面会する時に別の自分を装ったり,実際とは違う暮らし方を見せたりすることは求められていない」と述べている。

      2. 子供にすぐにも重大な害が及ぶという明確な証拠がある場合を除き,親権者でない親が子供と面会する時に,子供に自分の宗教信条を教えることを禁じるのは,親の信教の自由に対する侵害である。

      [7ページの図版]

      親権をめぐる訴訟において,裁判官は重大な責任を負っている

      [8ページの図版]

      調停委員は,長い時間のかかる裁判によらずに不和を解決するよう親たちを助けることができる

  • 親権 ― 平衡の取れた見方
    目ざめよ! 1997 | 12月8日
    • 親権 ― 平衡の取れた見方

      真の試練は多くの場合,離婚後にやって来ます。子供の愛情と監督をめぐる争いが始まるのです。「二人いないと,けんかにならない」という言葉は,必ずしも真実ではありません。片方の親が横暴で,自分の思うとおりに物事をしたい人であれば,一人だけでもけんかになる場合があるのです。カナダのトロントで家庭問題を扱っているある法律家は,「家族法においては,すべてのことが人々の感情と深いかかわりを持ち,人々にとって大切なものなのである」と述べています。

      子供の最善の益を考える代わりに,筋違いの問題で申し立てをすることにより,争いを長引かせる親もいます。例えば,別れた相手はエホバの証人の一人なので子供に『正常な生活』をさせないだろう,という口実のもとに,親権の変更が必要であることを証明しようとした親もいます。

      エホバの証人でない人は,誕生日,クリスマス,あるいはハロウィーンのことでさえ問題にするかもしれません。もし子供が国旗に敬礼しないことを決意すれば,子供の交友や社会への順応は限られたものになる,と言う人もいるかもしれません。中には,他の人に聖書のことを話す親と行動を共にすれば,子供は心理的にダメージを受けるのではないか,と言う人もいることでしょう。エホバの証人ではない親の中には,エホバの証人である親は子供に輸血をさせないので,子供の命を危険にさらす,と主張する人さえいます。

      クリスチャンは,そうした感情的になりがちな論議による挑戦にどう応じるでしょうか。感情的に反応し,「火で火を消そうとする」なら,うまくいかないでしょう。もし問題が裁判官の前に持ち出されるなら,どちらの親にも発言する機会があります。最も重要なのは,聖書の次の助言を心に銘記していることです。「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。そうすれば,神が自らあなたを支えてくださる。神は義なる者がよろめかされることを決してお許しにならない」。(詩編 55:22)このことを黙想し,聖書の原則を当てはめることによって,親はエホバの助けを得,子供の親権に関して最終的にどんな結果が出ようとも,それに対処することができます。―箴言 15:28。

      道理をわきまえていること

      要は子供の最善の益を図ることです。もし過度に不当な要求をするなら,その親は親権を失い,面接交渉権まで制限されることになるかもしれません。賢明な親は,聖書の次の助言を念頭に置いて,穏やかに振る舞います。「だれに対しても,悪に悪を返してはなりません。……神の憤りに道を譲りなさい。……悪に征服されてはなりません。むしろ,善をもって悪を征服してゆきなさい」。(ローマ 12:17-21)法廷にいるときであれ,弁護士の事務所にいるときであれ,あるいは親権を審査する人と一緒にいる時であれ,親は「[自分]が道理をわきまえていることがすべての人に知られるように(する)」必要があります。―フィリピ 4:5。

      別れた配偶者が他の人々を欺こうとして,人々に間違った考えを持たせるような憶測に基づいた問題を持ち出すこともあります。そのような言葉による攻撃に過度に反応する傾向はだれにでもあるものですが,そうした傾向と闘うのは賢明なことです。健康,宗教,教育は,別れた配偶者が親権争いの裁判の際,相手に不利な事柄をでっち上げるのに好んで利用する問題です。―箴言 14:22。

      道理をわきまえていることには,事実を考慮し,話し合って公平な合意に達する能力が含まれます。離婚した後でさえ,子供にとっては二人とも依然として親であるということを親は忘れるべきではありません。親同士は離婚しても,子供と縁を切ったわけではありません。ですから,子供がいるなら,極端な状況のもとにある場合は別として,どちらの親にも親として行動する自由が与えられるべきです。どちらにも自分の感情や価値観を言い表わし,宗教的なことであろうとなかろうと,自分が行なう合法的な活動に子供を参加させる自由が与えられるべきです。

      では,裁判で決定されそうな事柄,すなわち,(1)共同親権,(2)単独親権,(3)面接交渉権の制限について考えてみましょう。共同親権と単独親権にはどのような違いがあるのでしょうか。親権を失った場合はどのように対処すればよいのでしょうか。親の一方が排斥された人である場合はどうでしょうか。

      共同親権

      裁判官の中には,子供が両方の親と接触を保つのは大切なことだと考えている人たちがいます。そうした考えの根拠になっているのは,離婚後も両親が一緒に親権を行使できるなら,子供が受けるストレスや感情面での悪影響は減少する場合があるということを示す調査結果です。子供は片方の親に見離されたと感じるのではなく,両方の親に愛され,両方の家庭にかかわっていると感じるでしょう。「共同親権は,両方の親に子供とのかかわりを持たせ続ける方法である」と,家庭問題を扱うある法律家は述べています。

      しかし,カリフォルニア州コーテ・マデラにある,「変わり目にある家族のためのセンター」の常務理事ジュディス・ウォーラースタイン博士は,共同親権が機能するには,親が協力的で,子供が柔軟性を持ち,他の人とうまくやってゆけるようでなければならないと警告しています。こうした特質は不可欠です。というのは,共同親権においては,両方の親が子供の健康,教育,宗教教育,社会生活にかかわる重要な問題について決定を下す法的権利を持っているからです。しかし,この取り決めがうまくいくのは,二人の親が道理をわきまえ,自分自身の個人的な益ではなく,子供の最善の益を考える場合だけです。

      単独親権

      法廷は,子供の必要を満たすのにより良い備えがあると思える親のほうに,単独親権を与えるかもしれません。裁判官は,親権を得た親だけが子供の福祉に関する大切な事柄について決定を下すよう定めるかもしれません。法廷は裁判官を補佐する人の所見を聞いた上で決定を下す場合が少なくありません。裁判官を補佐する人は多くの場合,心理学者,精神科医,ソーシャル・ワーカーなどです。a

      単独親権に賛成する人たちは,この取り決めのほうが子供を落ち着かせると考えています。親同士の意思疎通がうまくいかない場合,あるいはいきそうにない場合,多くの裁判官は単独親権を指定することを選びます。もちろん,親権者でない親が子供の生活から締め出されることはありません。親権者でない親にはたいてい面接交渉権が与えられ,どちらの親も子供に必要な導きや愛や愛情を与え続けることができます。

      面接交渉権

      親が,子供の親権を得れば「勝者」,得なければ「敗者」と考えるのは,現実的ではありません。子供が円熟した,有能で立派な大人になったのを見て初めて,親は成功し,「勝利を収めた」と言えるのです。子育てにおける成功は,法的な親権者であるかどうかに直接結びついているわけではありません。子供の親権の問題で裁判所が最終的に決定した条件が不当と思える場合でも,クリスチャンはそれに従うことによって,『上位の権威に対する服従』を示します。(ローマ 13:1)また,子供の愛情や忠誠心を求めて争い,別れた配偶者と子供との関係を壊そうとして相手をけなしたりする時ではないことを覚えておくのも大切なことです。

      聖書には,様々な事情で子供と引き離された敬虔な親の例が記されています。例えば,モーセの親であるアムラムとヨケベドは,子供の最善の益を図り,モーセを小さなひつに入れて,「ナイル川の岸辺の葦の間に」浮かべました。その幼子がファラオの娘に発見された時,二人はエホバを信頼しつづけました。これらの賢明で忠実な親たちは,十分に与えられた“面接交渉”権を活用して少年をエホバの方法で訓練することにより報いを得ました。モーセは成長して,まことの神の傑出した僕となりました。―出エジプト記 2:1-10; 6:20。

      では,親の一方が排斥された人である場合はどうですか。クリスチャンである親は子供をその親に会わせるべきでしょうか。会衆の排斥処置は,その人とクリスチャン会衆との霊的な関係を変えるだけです。それによって霊的なきずなは実際に断たれます。しかし,依然として親子であることに変わりはありません。親権者である親は,排斥された親の面接交渉権を尊重しなければなりません。しかし,親権者でない親が子供の身体的あるいは感情的福祉にすぐにも重大な害を及ぼす恐れがある場合,(親権者である親ではなく)法廷は第三者が子供との面会を監督するよう取り決めるかもしれません。

      決して孤立無援ではない

      離婚訴訟と,それに付随して起こる親権争いは,神経をすり減らすような経験です。前途洋々たるスタートを切った結婚は,二人の夢や計画や期待ともども打ち砕かれてしまいました。例えば,配偶者の不倫や甚だしい虐待ゆえに,忠実な妻は自分と子供に対する法的な保護を求めざるを得なくなる場合があります。しかし,何が悪かったのだろうか,どうすれば問題をもっとうまく扱えたのだろうかと考える時,罪悪感や無力感につきまとわれるかもしれません。家庭の崩壊に対する子供の反応を心配する夫婦は少なくありません。法廷で親権を争うときは,感情がジェットコースターに乗っているかのように激しく上下するかもしれないので,愛情深い親としての誠実さのみならず,エホバへの信仰と信頼までもが試みを受けます。―詩編 34:15,18,19,22と比較してください。

      子供が虐待されるか,自分が配偶者にひどく虐待されるために,あるいは不倫な配偶者から性感染症をうつされないよう自分の健康を守るために,潔白な配偶者の側が行動を起こす場合,潔白な配偶者が罪悪感を感じたり,エホバから見捨てられたと考えたりする必要はありません。(詩編 37:28)結婚の神聖な契約を破り,自分の配偶者に「不実な振る舞いをした」のは,不倫な配偶者または虐待する配偶者のほうなのです。―マラキ 2:14。

      聖書の原則を適用し,別れた配偶者には誠実な態度で接し,親権に関する合意事項については融通性を示すことにより,人とエホバのみ前で「正しい良心を保ち」続けてください。「善を行なって苦しみに遭うほうが,もし神がご意志によってそう望まれるのであれば,悪を行なって苦しみに遭うより良いこと……です」。―ペテロ第一 3:16,17。

      子供は,自分のせいで家庭が崩壊したわけではないという安心感を必要としています。計画どおりに事が運ばない時もあります。しかし,聖書の原則を適用するなら,親子の間の率直で思いやりのある会話が促され,離婚の衝撃を和らげることができます。例えば,離婚後の家族生活を計画するとき,子供に積極的に参加させるなら,そのようにできます。忍耐強く親切であれば,また子供の気持ちに関心を払い,その言葉に耳を傾けるならば,子供が新たな予定や,生活に関係した取り決めをうまくこなしていく上で大きな助けになります。

      他の人も助けになれる

      家庭の崩壊を経験する子供を助けられるのは,両親だけではありません。家族の成員,教師,友人も,離婚家庭の子供を支え,安心させるのに多くのことが行なえます。特に祖父母は,子供の落ち着きや感情面の福祉に大きく貢献することができます。

      クリスチャンである祖父母は,霊的な教えを与えたり,健全な活動を行なわせたりするかもしれませんが,宗教教育に関する両親の決定は尊重しなければなりません。そうした決定を行なう道徳的また法的権限を有しているのは祖父母ではなく両親だからです。―エフェソス 6:2-4。

      そうした支えがあれば,離婚家庭の子供たちは両親の結婚の破綻を乗り切ることができます。そして,引き続き神の新しい世での祝福を待ち望むことができます。その新しい世では,すべての家族が「腐朽への奴隷状態」から自由にされ,「神の子供の栄光ある自由を持つ」ようになるのです。―ローマ 8:21。ペテロ第二 3:13。

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