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「自分を神の愛のうちに保ちなさい」
愛 第4章 36–49ページ
家族を教えている父親

第4章

権威に敬意を払うべきなのはなぜですか

『あらゆる人を敬いなさい』。―ペテロ第一 2:17。

1,2 (イ)権威に関して,どんな葛藤を経験しますか。(ロ)これから,どんな質問について考えますか。

しなさいと言われた事をしたくない時に幼い子がどう反応するか,見たことがありますか。顔には,困惑がありありと表われています。親の声は聞こえていますし,親の権威に敬意を払うべきことも分かっています。でも,この言いつけには従いたくないのです。現実問題として,わたしたちのだれもが同じような葛藤を経験します。

2 権威に敬意を払うのは必ずしも容易ではありません。あなたに対して何らかの権威を持っている人に敬意を払いにくく感じることがありますか。そうだとしても,そうした葛藤を経験するのはあなただけではありません。今の時代,権威に対する敬意が非常に薄れているのではないでしょうか。それでも聖書によれば,わたしたちは,権威ある立場にいる人に敬意を示す必要があります。(箴言 24:21)神の愛のうちにとどまりたいなら,そうすることが不可欠なのです。それで,次のような質問が生じるでしょう。権威に敬意を払うのが時としてたいへん難しいのはなぜか。そうするようエホバが求めておられるのはなぜか。そうするのに何が助けになるか。そして,どのようにして権威に敬意を示せるか,という質問です。

難しいのはなぜか

3,4 罪と不完全さはどのようにして始まりましたか。罪深いわたしたちが権威に敬意を払いにくいのはなぜですか。

3 権威を持つ人に敬意を示すのが非常に難しい理由を二つ,手短に考えましょう。一つは,わたしたちは不完全さを負っているということ,もう一つは,権威を持つ人たちも不完全さを負っているということです。人間の罪と不完全さが生じたのは,遠い昔,エデンの園でアダムとエバが神の権威に反逆した時のことです。罪は反逆とともに始まったのです。それで今日のわたしたちも,反逆する傾向を生まれつき持っています。―創世記 2:15-17; 3:1-7。詩編 51:5。ローマ 5:12。

4 罪深さゆえに,人は誇りや傲慢さを抱きがちなのに対して,謙遜さはまれな特質で,培って保つのに懸命な努力を要します。長年にわたって忠実に神に仕えてきた人でも,強情さや誇りに屈することがあります。一例として,コラのことを考えましょう。コラは,数々の苦難に面しても忠実にエホバの民とともに歩んできました。しかし,より大きな権威を欲し,ずうずうしくもモーセに対する反逆の先頭に立ちました。当時の最も柔和な人モーセに対してそうしたのです。(民数記 12:3; 16:1-3)ウジヤ王はどうでしょうか。誇りのゆえに,エホバの神殿に入り,祭司だけに許された神聖な務めを行ないました。(歴代第二 26:16-21)こうした人たちは,反逆による悲惨な結果を身に招きました。わたしたちすべては,これらの悪い手本から教訓を学べます。権威に敬意を払うのを難しくする誇りと闘う必要があるのです。

5 不完全な人間はどのように権威を誤用してきましたか。

5 一方,権力のある立場にいる人も不完全で,権威に対する敬意を損なうようなことをいろいろ行なってきました。残虐,横暴,圧制的な人も少なくありません。人間の歴史は,おおむね権力の乱用の記録です。(伝道の書 8:9)例えばサウルは,エホバに王として選ばれた時には謙遜な良い人でしたが,後に誇りとねたみの気持ちに負け,忠実な人ダビデを迫害するようになりました。(サムエル第一 9:20,21; 10:20-22; 18:7-11)その後ダビデは,イスラエルの歴史の中で際立って良い王となりました。しかし,そのダビデも権力を誤用し,ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い,無実のウリヤを前線に送って戦死させました。(サムエル第二 11:1-17)不完全な人間にとって,権力を正しく行使するのは容易なことではないのです。権力を持つ人がエホバに敬意を抱いていないと,さらにひどいことになります。ある英国の政治家は,カトリックの教皇たちによる広範な迫害について論じた後,「力は腐敗しやすく,絶対的な力は絶対に腐敗する」と述べました。では,こうした歴史を踏まえて,権威に敬意を払うべきなのはなぜかを考えましょう。

権威に敬意を払うべきなのはなぜか

6,7 (イ)エホバへの愛は,何をするようわたしたちを動かしますか。なぜですか。(ロ)柔順にはどんな態度が含まれますか。どのように柔順を示せますか。

6 権威に敬意を払う最も優れた理由は,いずれも愛を基盤にしています。エホバへの愛,仲間の人間への愛,そして自分自身への愛です。わたしたちは何よりもエホバを愛しているので,エホバの心を歓ばせたいと願っています。(箴言 27:11。マルコ 12:29,30)わたしたちが知っているとおり,エホバの主権つまり宇宙を支配する権利はエデンでの反逆以来ずっと地上で挑戦を受けており,人類の大多数はサタンの側についてエホバの支配を退けてきました。それとは正反対の立場を取るわたしたちの胸は高鳴ります。啓示 4章11節の荘厳な言葉を読むと心が奮い立ちます。エホバが宇宙の正当な支配者であることに一点の疑問もないのではないでしょうか。わたしたちはエホバの主権を支持し,毎日の生活の中でエホバの支配を受け入れます。

7 そうした敬意には,単に従う以上のことが関係しています。わたしたちはエホバを愛しているので,進んでエホバに従います。とはいえ,従うのが非常に難しい時もあります。そのような時,冒頭に出てきた幼い子のように,柔順を学ぶことが必要になります。イエスのことを思い出してください。イエスは,服するのが極めて難しいと思える時にもみ父のご意志に柔順に服したのではないでしょうか。み父に向かってこう述べています。「わたしの意志ではなく,あなたのご意志がなされますように」。―ルカ 22:42。

8 (イ)今日,エホバの権威への柔順にはしばしば何が含まれますか。この点でのエホバの見方を何が明らかにしていますか。(ロ)助言に聴き従い,懲らしめを受け入れるのに,何が助けになりますか。(「助言に聴き従い,懲らしめを受け入れよ」という囲みをご覧ください。)

8 もちろん,エホバは今日,わたしたち一人一人に語りかけることはなさいません。み言葉,および地上の代表者である人たちを用いておられます。ですから,ほとんどの場合にわたしたちは,エホバが権威ある立場に置いておられる人たち ― その立場にとどまることを許しておられる人たち ― に敬意を払うことによって,エホバの権威への柔順を示します。その人たちに逆らうなら,神を不快にさせることになります。例えば,その人たちの聖書的な助言や矯正を受け入れようとしない場合です。イスラエル人がモーセに対してつぶやいて反逆した時,エホバはそれをご自分に対する反逆とみなされました。―民数記 14:26,27。

9 仲間の人間への愛は権威に敬意を払うよう人を動かす,と言えるのはなぜですか。例えで説明してください。

9 わたしたちが権威に敬意を示すのは,仲間の人間を愛しているからでもあります。どうしてそう言えますか。例えば,あなたが軍隊の一兵士であるとしましょう。軍隊の勝利,さらには生き残りそのものも,指揮系統に兵士一人一人が協力し,従い,敬意を払うかどうかによって左右されます。あなたが反逆してその系統を損なうなら,仲間の兵士全員が危険な状況に置かれるかもしれません。人間の軍隊が今日の世界に大破壊をもたらしているのは確かですが,エホバの軍隊は良いことだけを行ないます。聖書は,その方を何百回も「万軍のエホバ」と呼んでいます。(サムエル第一 1:3)エホバは強力な霊者たちで成る大軍の司令官なのです。エホバは,地上の僕たちも軍隊になぞらえておられます。(詩編 68:11。エゼキエル 37:1-10)エホバが権威を与えておられる人たちにわたしたちが反逆するなら,霊的な仲間の兵士たちを危険にさらすことにならないでしょうか。一人のクリスチャンが,任命された長老たちに逆らうなら,会衆の他の人たちも苦しみます。(コリント第一 12:14,25,26)一人の子が反抗すると,家族全体が苦しみます。ですからわたしたちは,敬意に満ちた協力の精神を培うことによって,仲間の人間への愛を示すのです。

10,11 自分の益を適度に願う気持ちは,権威に従う点でどのようにわたしたちを動かしますか。

10 また,わたしたちが権威に敬意を払うのは,それが自分にとって最善の事だからでもあります。エホバは,権威に敬意を払うよう求める際にしばしば,その益を述べておられます。例えば,幸せに長く生きるために親に従いなさい,と子どもに命じておられます。(申命記 5:16。エフェソス 6:2,3)また,霊的な害を被ることのないように会衆の長老たちに敬意を払いなさい,とわたしたちに命じておられます。(ヘブライ 13:7,17)自分自身の保護となるので世俗の権威に従いなさい,とも命じておられます。―ローマ 13:4。

11 エホバはわたしたちが従うことを望んでおられますが,その理由を知っていれば,権威に敬意を払いやすくなるのではないでしょうか。では,生活上の主な三つの分野でどのように権威に敬意を示せるかを考えてみましょう。

家庭内での敬意

12 エホバは夫(また父親)に家庭内でのどんな役割を与えておられますか。男性はその役割をどのように果たせますか。

12 家族という取り決めは,エホバがお造りになりました。秩序の神エホバは,うまく機能するように家族を組織しておられます。(コリント第一 14:33)夫(また父親)に,家族の頭として行動する権威を与えておられます。夫は,自分の頭であるキリスト・イエスに敬意を示し,会衆に対するイエスの頭の権の行使の仕方に倣います。(エフェソス 5:23)自分の責任を放棄せず,雄々しく担います。横暴だったり厳しかったりせず,愛があり,道理をわきまえ,親切にします。自分の権威が相対的なものであることを忘れません。その権威がエホバの権威を超えることは決してないのです。

クリスチャンの父親は,頭の権の行使の仕方に関してキリストに倣う

13 妻(また母親)はどのように,エホバに喜ばれる仕方で家庭内での役割を果たせますか。

13 妻(また母親)は,夫の助け手また補うものとして行動します。彼女も家庭内での権威を授けられており,聖書は「母の律法」について述べています。(箴言 1:8)もちろん,その権威は夫の権威に従属するものです。クリスチャンの妻は,夫が家族の頭としての役割を果たすのを助けることにより,夫の権威に敬意を示します。夫を軽んじたり,操ったり,夫の立場を奪い取ったりはしません。夫を支え,協力します。夫の決定が自分の望みと合わないとき,敬意をこめて自分の考えを述べることもありますが,柔順さを保ちます。夫が未信者の場合,妻は難しい状況に直面するでしょう。とはいえ,夫は妻の柔順な行状に動かされてエホバを求めるようになるかもしれません。―ペテロ第一 3:1,2。

家の中を泥で汚した息子に愛をもって矯正を与えている父親

14 子どもはどのように親とエホバに喜びをもたらせますか。

14 子どもは,父や母に従うことによって,エホバの心を喜ばせます。親にも誉れと喜びをもたらします。(箴言 10:1)ひとり親家庭の子どもも,従順に関する同じ原則を当てはめます。親が支えや協力をいっそう必要としているかもしれないと考えて,そうします。神の定めた役割を家族全員が果たす家庭は,平和と喜びにあふれます。そしてそれは,すべての家族の創始者であるエホバ神の賛美となるのです。―エフェソス 3:14,15。

会衆内での敬意

15 (イ)エホバの権威に敬意を抱いていることを,会衆内でどのように示せますか。(ロ)どんな原則は,指導の任に当たっている人たちに従う助けになりますか。(『指導の任に当たっている人たちに従いなさい』という囲みをご覧ください。)

15 エホバは,み子をクリスチャン会衆の支配者に任じておられます。(コロサイ 1:13)そしてイエスは,地上の神の民の霊的な必要を世話する割り当てを「忠実で思慮深い奴隷」に与えています。(マタイ 24:45-47)その奴隷級を,エホバの証人の統治体が代表しています。1世紀のクリスチャン会衆の場合と同じく,今日の長老たちは統治体からの指示や助言を,直接に,あるいは旅行する監督などの代表者を通して受けます。わたしたち各人は,クリスチャンの長老たちの権威に敬意を払うとき,エホバに従っていることになります。―ヘブライ 13:17。

16 どんな意味で,長老は聖霊によって任命される,と言えますか。

16 長老と奉仕の僕も完全ではありません。わたしたちと同様,欠点があります。それでも長老たちは,会衆が霊的な強さを保つ助けとして与えられた「人々の賜物」です。(エフェソス 4:8)長老は聖霊によって任命されます。(使徒 20:28)どうしてそう言えますか。まず,その人は神の霊感による言葉に記されている資格を満たしていなければならないからです。(テモテ第一 3:1-7,12。テトス 1:5-9)さらに,その兄弟の資格を考慮する長老たちは,エホバの聖霊の導きを真剣に祈り求めます。

17 会衆の活動においてクリスチャンの女性が頭の覆いを着けることがあるのはなぜですか。

17 会衆において,野外奉仕のための集まりの司会など,通常なら長老や奉仕の僕に割り当てられるべき仕事を果たせる長老や奉仕の僕がいない,という時があるかもしれません。そうした場合,バプテスマを受けた他の兄弟が代わりを務めます。そのような兄弟もいないなら,資格ある姉妹がその必要を満たします。とはいえ,通常ならバプテスマを受けた男子に割り当てられるべき役割を果たす場合,女性は頭の覆いを着けます。a (コリント第一 11:3-10)この要求は女性を低めるものではありません。この要求に従うとき,家庭でも会衆でも頭の権に関するエホバの取り決めに敬意を示すことができるのです。

世俗の権威に対する敬意

18,19 (イ)あなたはローマ 13章1-7節の原則をどのように説明しますか。(ロ)わたしたちは世俗の権威にどのように敬意を示しますか。

18 真のクリスチャンは,ローマ 13章1-7節の原則を良心的に固守します。その部分全体を読むと分かりますが,そこに出てくる「上位の権威」は世俗の政府を指します。そうした人間の政府は,エホバによって存在を許されている間,重要な役目を果たし,ある程度の秩序を保つとともに必要なサービスを提供します。わたしたちは,法を守ることにより,そうした権威に敬意を示します。払うべき税をすべて支払い,政府の求める用紙類にきちんと記入し,自分や家族や仕事や所有物に関する法律を遵守するよう心がけます。とはいえ,神に背くようなことを要求される場合には,世俗の権威に服しません。昔の使徒たちと同じく,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」という態度を取ります。―使徒 5:28,29。「だれの権威に従うべきか」という囲みをご覧ください。

だれの権威に従うべきか

原則: 『エホバはわたしたちの裁き主,エホバはわたしたちの法令授与者,エホバはわたしたちの王である』。―イザヤ 33:22。

自問できる点

  • わたしは,エホバの規準に反する事を行なうように要求されたら,どうするだろうか。―マタイ 22:37-39; 26:52。ヨハネ 18:36。

  • エホバの命令を果たさないようにと命じられたら,どうするだろうか。―使徒 5:27-29。ヘブライ 10:24,25。

  • 権威ある立場の人に従いたいという気持ちを培うのに何が助けになるか。―ローマ 13:1-4。コリント第一 11:3。エフェソス 6:1-3。

19 人との接し方によっても世俗の権威に敬意を示します。政府の役人と接する場合などです。使徒パウロは,王ヘロデ・アグリッパや総督フェストに会った際,重大な欠点のあったそれら支配者たちにも敬意をもって語りかけました。(使徒 26:2,25)わたしたちは,相手が権力のある支配者であれ地元の警察官であれ,パウロの手本に倣います。若いクリスチャンは学校で,先生や学校職員に同様の敬意を示すように努めます。わたしたちは,信条を認めてくれる人だけに敬意を払うのではありません。エホバの証人に敵意を抱く人にも敬意をもって接します。実のところ,不信者全般がわたしたちの敬意を感じ取れるようであるべきなのです。―ローマ 12:17,18。ペテロ第一 3:15。

20,21 権威に対してふさわしい敬意を示すなら,どんな祝福が得られますか。

20 敬意を示す点で,出し惜しみしないようにしましょう。使徒ペテロは,『あらゆる人を敬いなさい』と書いています。(ペテロ第一 2:17)人々は,わたしたちが抱く真の敬意を感じ取ると,強く心を動かされるでしょう。この特質はますますまれなものとなっています。ですから,敬意を示すことは,イエスの次の命令に留意していることになります。「あなた方の光を人々の前に輝かせ,人々があなた方のりっぱな業を見て,天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい」。―マタイ 5:16。

21 この闇の世にあって,心の優しい人たちは霊的な光に引き寄せられます。わたしたちが家庭や会衆や世俗的な場で敬意を示すなら,人々は魅力を感じ,ともに光のうちを歩むようになるかもしれません。何と喜ばしい見込みでしょう。そうならないとしても,一つのことは確かです。わたしたちが人に敬意を払うなら,エホバ神はお喜びになり,わたしたちは神の愛のうちにとどまれるのです。これに勝る報いがあるでしょうか。

a 付録の「頭の覆い ― いつ,またなぜ」という項目で,この原則の当てはまる具体例が取り上げられています。

「助言に聴き従い,懲らしめを受け入れよ」

今日の世には,サタンの霊つまり反抗的で争いを好む精神態度が満ちています。聖書は,サタンを「空中の権威の支配者」と呼び,その者が生じさせている「不従順の子らのうちにいま働いている霊」について述べています。(エフェソス 2:2)今日,他者の権威からの完全な独立を望む人は少なくありません。残念なことに,そうした独立の精神はクリスチャン会衆内の一部の人にも影響を及ぼしています。例えば,不道徳な娯楽や暴力的な娯楽の危険について長老から親切な助言を受けた場合に,その助言を退ける人や,憤慨する人さえいます。わたしたち各自は,箴言 19章20節のこの言葉を当てはめる必要があります。「助言に聴き従い,懲らしめを受け入れよ。それは,将来,あなたが賢くなるためである」。

この点で何が助けになりますか。助言や懲らしめを退ける人がよく口にする三つの理由を分析し,次いで聖書の見方を考えましょう。

  • 「この助言は見当違いだ」。その助言は自分の状況には当てはまらないとか,助言した人は事の全体像をつかんでいない,と感じるかもしれません。考えもせずに助言を軽く受け流すことさえあり得ます。(ヘブライ 12:5)しかし,だれもが不完全なので,その件に関する自分の見方のほうが調整を要するということもあり得ませんか。(箴言 19:3)助言を受ける何らかのもっともな理由があったのではないでしょうか。そうであれば,それに注意を集中すべきです。神の言葉はこう勧めています。「懲らしめをとらえよ。それを放してはならない。それを守れ。それはあなたの命だからである」。―箴言 4:13。

  • 「助言の与え方が気に食わない」。確かに,神の言葉は助言の与え方に関して高い規準を定めています。(ガラテア 6:1)とはいえ聖書は,「すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しない」とも述べています。(ローマ 3:23)完全な助言を全く正しい仕方で受けたいのであれば,完全な人から受けるしかありません。(ヤコブ 3:2)エホバは不完全な人間を用いて助言を与えておられるのですから,助言の与え方に注目しないようにするのが賢明です。助言の内容に目を向け,それを当てはめる方法を祈りのうちに考えましょう。

  • 「彼に助言される筋合いはない」。助言を与えた人の欠点ゆえにその助言の価値を認めないのであれば,上述の点を思い起こす必要があります。また,わたしの年齢や経験や会衆での責任からすれば助言など不要だ,と考えるのであれば,やはり考えを調整する必要があります。古代イスラエルの王は大きな責任を担っていましたが,預言者や祭司といった臣下からの助言を受け入れなければなりませんでした。(サムエル第二 12:1-13。歴代第二 26:16-20)今日,エホバの組織は,助言を与える者として不完全な男子を任命しており,円熟したクリスチャンはその助言を喜んで受け入れ,適用します。他の人に勝る責任や経験を有しているのであればなおのこと,手本を示す必要性を意識すべきです。助言を受け入れ適用することによって,道理をわきまえた態度と謙遜さとの手本を示すのです。―テモテ第一 3:2,3。テトス 3:2。

助言の不要な人は一人もいません。ですから,助言を快く受け入れて従順に適用しよう,命を救うこの賜物を与えてくださったエホバに心から感謝しよう,という決意を抱きましょう。助言はまさにエホバの愛の表明であり,わたしたちは神の愛のうちにとどまりたいと願っているのです。―ヘブライ 12:6-11。

『指導の任に当たっている人たちに従いなさい』

古代イスラエルで組織が緊急に必要になりました。危険な荒野を旅する幾百万もの民をモーセ一人では監督できません。モーセはどうしたでしょうか。「モーセはイスラエル全体の中から有能な男子を選び,千人の長,百人の長,五十人の長,十人の長として,民の頭としての地位をその人々に与え」ました。―出エジプト記 18:25。

今日のクリスチャン会衆でも同様に,組織が必要です。ですから,野外奉仕の群れには監督がおり,会衆には長老,一群の会衆には巡回監督,一群の巡回区には地域監督がいて,国には国内委員会や支部委員会があります。この組織のおかげで,牧者である男子それぞれは,ゆだねられたエホバの羊にしっかり注意を払うことができます。それらの牧者には,エホバとキリストに言い開きをする責任があります。―使徒 20:28。

わたしたち各人は,この組織的な取り決めに従い,柔順に服することが必要です。デオトレフェスのような態度を取りたいとは思いません。彼には,指導の任に当たる人への敬意が全くありませんでした。(ヨハネ第三 9,10)わたしたちは使徒パウロの次の言葉に留意したいと思います。「あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い,また柔順でありなさい。彼らは言い開きをする者として,あなた方の魂を見守っているのです。こうしてあなた方は,彼らがこれを喜びのうちに行ない,嘆息しながら行なうことのないようにしなさい。そのようなことはあなた方にとって損失となるのです」。(ヘブライ 13:17)ある人たちは,指導の任に当たる人の指示に同意できる時には従うものの,同意できない時や理由が分からない時には柔順に服しません。しかし覚えておくべき点として,柔順には,従う気持ちになりにくい時でも従うということが含まれます。ですから,各人はこう自問すべきです。『自分は,指導の任に当たる人に従い,柔順だろうか』。

神の言葉は,会衆が機能するのに必要な取り決めや手順を全部挙げているわけではありません。とはいえ聖書は,「すべての事を適正に,また取り決めのもとに行ないなさい」とはっきり述べています。(コリント第一 14:40)統治体はこの指示に従い,会衆の円滑で秩序正しい運営に役立つ様々な手順や指針を定めています。責任あるクリスチャンの男子は,それらの取り決めどおりに物事を行なうことにより,従順の手本となります。また,『道理にかなった』者であることを示し,監督する立場の人に「進んで従い」ます。(ヤコブ 3:17)こうして,群れ,会衆,巡回区,地域区,国において,信者たちは秩序正しく結び合わされ,幸福な神の誉れとなっています。―コリント第一 14:33。テモテ第一 1:11。

ヘブライ 13章17節のパウロの言葉は,不従順の精神が有害である理由も際立たせています。その精神が見られると,責任ある立場の人は「嘆息しながら」務めを果たすようになるかもしれません。羊の群れの中の非協力的で反抗的な精神に対処せざるを得ない時には,神聖な奉仕の特権とみなされるべきものが重荷のように感じられることがあります。そしてそれは,「あなた方」つまり会衆全体にとって損失となるのです。とはいえ,神権的な秩序に服さない態度は,別の損失も生みます。誇りのゆえに服さず,自分と天の父との間に距離を置くなら,当人の霊性が損なわれるのです。(詩編 138:6)ですから,わたしたちすべては,これからも従ってゆこう,柔順であり続けようと決意しましょう。

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