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イチジクの木を使って信仰について教えるイエス 道,真理,命
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105章
イチジクの木を使って信仰について教える
マタイ 21:19-27 マルコ 11:19-33 ルカ 20:1-8
枯れたイチジクの木から信仰について教える
イエスの権威が批判される
イエスは月曜日の午後にエルサレムを出て,オリーブ山の東斜面にあるベタニヤに戻ります。友人のラザロとマリアとマルタの家に泊まるようです。
ニサン11日の朝を迎えました。イエスと弟子たちは再びエルサレムに向かいます。イエスが神殿で過ごすのは今回が最後です。また,人々に伝道するのもこの日が最後です。その後しばらくして,過ぎ越しを祝い,自分の死の記念式を制定し,裁判を受けて処刑されることになっています。
ベタニヤからオリーブ山を通ってエルサレムに向かう途中,ペテロがあのイチジクの木に気付きます。昨日の朝イエスから災いを宣告された木です。それで,「ラビ,見てください! あなたが災いを宣告したイチジクの木が枯れています」と大声で言います。(マルコ 11:21)
それにしても,どうしてイエスはこの木を枯らしたのでしょうか。その理由は,次のイエスの言葉から分かります。「はっきり言います。信仰を持って疑わないなら,私がイチジクの木にしたようなことができるだけでなく,この山に,『持ち上がって海に入れ』と言っても,そうなります。信仰を持って祈り求めるもの全てを受けるのです」。(マタイ 21:21,22)ここでイエスは,信仰は山をも動かせるという教訓をもう一度取り上げているのです。(マタイ 17:20)
イエスはイチジクの木を実際に枯らすことにより,神に信仰を持つことの必要性を教えました。こう言っています。「祈って求めることは皆すでに与えられたという信仰を持ちなさい。そうすれば,それを受けることになります」。(マルコ 11:24)イエスの弟子たち全てにとって大切な教えですが,使徒たちにとってはまさにタイムリーなものでした。間もなく試練に直面するからです。さらに,枯れたイチジクの木は信仰の質について別のことも教えています。
イスラエル国民はこのイチジクの木のように,見掛けと中身が違っていました。彼らは神と契約を結んでおり,律法を守っているように見えましたが,国民全体としては信仰に欠け,良い実を結んでいませんでした。さらに神の子を退けることまでしました。ですからイエスは,実を結ばないイチジクの木を枯らすことにより,実を結ばない信仰に欠けた国民が最後はどうなるかを示したのです。
しばらくして,イエスと弟子たちはエルサレムに入ります。イエスはこれまでと同じように神殿に行き,人々を教え始めます。すると,祭司長と長老たちがやって来ます。恐らく,前日イエスが両替屋に対して行ったことを問題視しているのでしょう。こう詰め寄ります。「どんな権威でこうしたことをするのか。こうしたことをする権威を誰があなたに与えたのか」。(マルコ 11:28)
イエスは答えます。「1つ質問します。それに答えるなら,私もどんな権威でこれらのことを行うかを言いましょう。ヨハネによるバプテスマは天からのものでしたか,それとも人からのものでしたか。答えてください」。今度は反対者たちが答える番です。祭司長と長老たちはどう答えればよいか話し合います。「『天から』と言えば,『では,なぜ彼を信じなかったのか』と言うだろう。かといって,『人から』と言えるだろうか」。彼らは群衆を恐れていました。群衆は,「ヨハネは確かに預言者だったと思っていた」からです。(マルコ 11:29-32)
反対者たちは良い答えが思い付かず,「私たちは知らない」と言います。それでイエスは,「私も,どんな権威でこれらのことを行うかを言いません」と答えます。(マルコ 11:33)
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ブドウ園についての2つの例え話イエス 道,真理,命
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106章
ブドウ園についての2つの例え話
マタイ 21:28-46 マルコ 12:1-12 ルカ 20:9-19
2人の息子についての例え話
ブドウ園の耕作人たちについての例え話
イエスは神殿で,祭司長や長老たちの質問を上手にかわしました。彼らは,どんな権威でこうしたことをするのか,とイエスに迫りましたが,答えを聞いて黙り込んでしまいました。それからイエスは例え話をします。彼らが本当はどんな人間かを暴くためです。
「ある男性に2人の子供がいました。その男性は年上の子の所に行き,『今日,ブドウ園に行って働きなさい』と言いました。その子は,『行きません』と答えましたが,後になって,後悔して出掛けていきました。父親は年下の子に近づいて,同じことを言いました。その子は,『行きます,父上』と答えましたが,出掛けていきませんでした。2人のうち,どちらが父親が望んだ通りにしましたか」。(マタイ 21:28-31)答えは明らかです。父親が望んだ通りに行動したのは年上の子です。
イエスは反対者たちにこう話します。「はっきり言いますが,徴税人や娼婦があなた方より先に神の王国に入りつつあります」。徴税人や娼婦は最初,神に仕えようとしませんでした。しかし,年上の子のように後悔し,神に仕えるようになりました。対照的に,宗教指導者たちは年下の子のように,神に仕えると言いながら,実際にはそうしていません。イエスは言います。「[バプテストの]ヨハネが来て正しい道を示したのに,あなた方はヨハネを信じ[ませんでした]。ところが,徴税人や娼婦は信じました。あなた方は,それを見ても,後悔して信じるようにはなりませんでした」。(マタイ 21:31,32)
イエスはさらに別の例え話をします。宗教指導者たちが神に仕えていないどころか,邪悪であることを示す話です。「ある男性がブドウ園を造り,周りを柵で囲い,ブドウ搾り場用に大きな穴を掘り,塔を立てて,耕作人たちに貸し出し,外国へ旅行に出ました。時期が来て,耕作人たちの元に奴隷を遣わしました。ブドウ園の収穫を幾らか受け取るためです。ところが耕作人たちはその奴隷を捕まえて殴り,何も持たせずに去らせました。再び別の奴隷を遣わすと,耕作人たちは奴隷の頭を殴りつけ,恥をかかせました。それで別の人を遣わすと,耕作人たちはその人を殺してしまいました。ほかにも多くの人を遣わしたのですが,耕作人たちはその人たちを殴ったり殺したりしました」。(マルコ 12:1-5)
聞いていた人々は,次のイザヤの非難の言葉を思い浮かべたかもしれません。「エホバのブドウ園はイスラエルの家であり,神の大切な栽培地はユダの人たちなのである。神は公正さを期待したが,不公正が見られた」。(イザヤ 5:7)イエスの例え話でも,よく似た表現が用いられています。ブドウ園の持ち主はエホバです。ブドウ園は,神の律法によって囲われ保護されているイスラエル国民です。エホバはイスラエル国民を教えて,良い実を生み出すのを助けるために,預言者たちを遣わしました。
ところが「耕作人たち」は,遣わされた「奴隷」たちを虐待したり殺したりしました。イエスは話を続けます。「ブドウ園の持ち主には,まだ1人,愛する息子がいました。『私の息子なら尊敬するだろう』と言って,最後に息子を遣わしました。ところが,耕作人たちは互いに言いました。『これは相続人だ。さあ,殺してしまおう。そうすれば,相続財産はわれわれのものだ』。そして息子を捕まえて殺し……ました」。(マルコ 12:6-8)
ここでイエスは,「ブドウ園の持ち主はどうするでしょうか」と質問します。(マルコ 12:9)宗教指導者たちはこう答えます。「その邪悪な者たちに恐ろしい滅びをもたらし,ブドウ園をほかの耕作人,実った物を納める人に貸し出すだろう」。(マタイ 21:41)
彼らはこの時,それと知らずに自分たちを罪に定めていました。彼らも,エホバの「ブドウ園」であるイスラエル国民の「耕作人たち」なのです。ですから,エホバが彼らに,神の子であるメシアを信じるよう期待するのは当然です。イエスは彼らを真っすぐ見て言います。「あなた方はこの聖句を読んだことがないのですか。『建築者たちの退けた石,それが主要な隅石となった。これはエホバから出たのであり,私たちの目には驚くべきものである』」。(マルコ 12:10,11)それから,ずばりこう言います。「それで,神の王国はあなた方から取られ,王国の実を生み出す国民に与えられます」。(マタイ 21:43)
律法学者と祭司長たちは,これが「自分たちのことを念頭に置いた例え」だと気付きます。(ルカ 20:19)それで,いよいよむきになって,正当な「相続人」であるイエスを殺そうと考えます。でも,イエスを預言者と考えている大勢の人々を恐れ,すぐには実行しません。
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王は披露宴に招いた人たちを呼ぶイエス 道,真理,命
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107章
王は披露宴に招いた人たちを呼ぶ
披露宴についての例え話
イエスは伝道活動の終わりが近づいても引き続き例え話をして,律法学者と祭司長たちの誤りを暴いていきます。それで,律法学者と祭司長たちはイエスを殺そうとします。(ルカ 20:19)でも,イエスはやめず,別の例え話をします。
「天の王国は,息子のために結婚の披露宴を設けた王のようです。王は奴隷たちを遣わして,披露宴に招いた人たちを呼びましたが,その人たちは来たがりませんでした」。(マタイ 22:2,3)イエスは「天の王国は」と言ってから,例え話を始めました。ですから,「王」はエホバ神に違いありません。王の息子と,披露宴に招かれた人たちは誰のことですか。もちろん,王の息子はこの話をしている,エホバの子です。招かれた人たちは,天の王国でその子と一緒に支配する人たちです。
最初に招かれたのは誰ですか。イエスと使徒たちは王国についてどんな人たちに伝道してきましたか。ユダヤ人です。(マタイ 10:6,7; 15:24)ユダヤ国民は西暦前1513年に律法契約を受け入れ,「祭司が治める王国」の一員となる見込みを与えられました。そのような見込みを与えられたのは,この国民が最初です。(出エジプト記 19:5-8)では,彼らが実際に「披露宴」に呼ばれたのは,いつですか。それは,西暦29年,イエスが天の王国について伝道し始めた時のことです。
では,大半のユダヤ人はその招待にどう応じましたか。「その人たちは来たがりませんでした」とイエスは言います。宗教指導者とユダヤ国民の大部分は,イエスがメシアであり,神に王として指名されたことを認めませんでした。
それでもイエスは,ユダヤ人たちにもう一度チャンスが与えられることを示します。「[王は]再びほかの奴隷たちを遣わして言いました。『招いた客にこう言いなさい。「さあ,食事の準備ができました。雄牛と肥えた動物の肉をはじめ,全て用意ができています。披露宴に来てください」』。ところが,その人たちは関心を払わず,ある人は畑に,別の人は商売に出掛けていきました。ほかの人は,奴隷たちを捕まえて痛めつけ,殺してしまいました」。(マタイ 22:4-6)この状況は,クリスチャン会衆が設立された後の出来事に対応しています。クリスチャン会衆が設立された後,ユダヤ人にはまだ王国に入る機会が開かれていました。それなのに,ほとんどのユダヤ人はこの招待をはねつけ,王の奴隷たちを虐待することさえします。(使徒 4:13-18; 7:54,58)
では,ユダヤ国民はどうなってしまいますか。「王は憤り,軍隊を送って殺人者たちを殺し,その町を焼きました」。(マタイ 22:7)ユダヤ人は西暦70年にその言葉通りのことを経験します。彼らの「町」エルサレムはローマ軍によって滅ぼされてしまいます。
彼らが王の招待を断ったということは,もう招かれる人はいないという意味ですか。そうではありません。イエスはさらにこう話します。「それから[王は]奴隷たちに言いました。『結婚の披露宴は用意ができていますが,招いた人たちはふさわしくありませんでした。それで,町の外に通じる道路に行き,見つけた人を誰でも披露宴に招きなさい』。そこで,奴隷たちは道路に出ていき,見つけた人を悪人も善人も皆集めました。こうして,結婚式の部屋は食事をする人でいっぱいになりました」。(マタイ 22:8-10)
その通りのことが生じます。何年か後,使徒ペテロは異邦人(生まれつきユダヤ人ではない人や,ユダヤ教に改宗していない人)がクリスチャンになるよう助ける活動を始めます。西暦36年,ローマ軍の部隊の士官コルネリオとその家族が聖霊を受け,天の王国の一員となる見込みを持つようになりました。(使徒 10:1,34-48)
イエスは,披露宴に来た人全てが「王」に受け入れられるわけではないことを示します。「王は,客を見るために入ってきた時に,結婚式の服を着ていない人を見つけ,言いました。『どうして結婚式の服を着ないで入ってきたのですか』。その人は何も言えませんでした。王は召し使いたちに言いました。『この人の手足を縛って外の闇に放り出しなさい。彼はそこで泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします』。招かれる人は多いですが,選ばれる人は少ないのです」。(マタイ 22:11-14)
宗教指導者たちはイエスの話の全てを理解できたわけではないでしょう。それでも気分を害し,こんな厄介な人間は殺してしまおう,とますます固く決意します。
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仕掛けられたわなを見破るイエス 道,真理,命
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108章
仕掛けられたわなを見破る
マタイ 22:15-40 マルコ 12:13-34 ルカ 20:20-40
カエサルのものはカエサルに
復活した人は結婚するか
最大のおきて
イエスの敵たちは動揺しています。イエスが彼らの邪悪さを暴く例え話をしたからです。そこでパリサイ派の人たちは,イエスをわなにはめようとたくらみます。人を雇ってイエスの所に派遣し,ローマ総督に引き渡す口実となることをイエスに言わせるのです。(ルカ 6:7)
その人たちはこう言います。「先生,私たちは,あなたが正しく話して教え,不公平な扱いをせず,真理に沿って神の道を教えることを知っています。カエサルに人頭税を払うのは良いことでしょうか,良くないことでしょうか」。(ルカ 20:21,22)イエスはそういうお世辞にはだまされません。その裏に偽善やずる賢さがあることを見破ります。ここで,「良くありません」と答えれば,ローマに対する反逆の罪で訴えられるかもしれません。逆に,「良いことです」と言えば,ローマの支配を嫌っている人々は,イエスを誤解し,敵意を示すかもしれません。イエスはどう答えるでしょうか。
イエスは,「なぜ私を試すのですか,偽善者たち。人頭税の硬貨を見せなさい」と言います。すると,デナリ硬貨が持ってこられたので,イエスは,「これは誰の像と称号ですか」と聞きます。「カエサルのです」という返事に対し,「それでは,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」と巧みに答えます。(マタイ 22:18-21)
その人たちはイエスの言葉に驚きます。答え方が見事だったので言い返せず,その場を去ります。しかし,イエスをわなに掛けようとするたくらみはこれで終わりません。パリサイ派の人たちの計画は失敗しましたが,別のグループの指導者たちがイエスの所にやって来ます。
復活はないと主張するサドカイ派の人たちです。彼らは,復活と義兄弟結婚に関する質問を持ってきました。こう尋ねます。「先生,モーセは,『男が子供を持たずに死んだなら,彼の兄弟が残された妻と結婚して,兄弟のために子孫をもうけなければならない』と言いました。さて,私たちの所に7人の兄弟がいました。長男は結婚して死にましたが,子孫がおらず,妻を兄弟に残しました。次男,三男,結局7人全員が同じようになりました。最後にその女性が死にました。そうすると復活の際,この女性は7人のうち誰の妻なのでしょうか。全員が妻にしたのです」。(マタイ 22:24-28)
イエスは,サドカイ派の人たちが受け入れているモーセの書を引用し,こう答えます。「そのような考え違いをするのは,聖書も神の力も知らないからではありませんか。生き返る時,男性も女性も結婚しません。天使のようになります。死者が生き返ることに関しては,モーセが書いたいばらの木に関する記述の中で,神がモーセに『私はアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』と言ったのを読まなかったのですか。この方は死んだ人の神ではなく,生きている人の神です。あなた方はひどく間違っています」。(マルコ 12:24-27。出エジプト記 3:1-6)群衆はその答えに非常に驚きます。
パリサイ派の人たちもサドカイ派の人たちも,イエスに全く言い返せませんでした。そこで今度はイエスを試すためにこの2つのグループが一緒にやって来ます。その中の1人の律法学者が,「先生,律法の中で最大のおきてはどれですか」と質問します。(マタイ 22:36)
イエスは答えます。「第一はこうです。『聞きなさい,イスラエル,私たちの神エホバはただひとりのエホバであり,あなたは,心を尽くし,知力を尽くし,力を尽くし,自分の全てを尽くして,あなたの神エホバを愛さなければならない』。第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さなければならない』。これらより大きなおきてはほかにありません」。(マルコ 12:29-31)
律法学者はその答えを聞いて,こう言います。「先生,『神はただひとりであり,そのほかにはいない』と,真理に沿ってよく言われました。心を尽くし,理解力を尽くし,力を尽くして神を愛すること,また,隣人を自分自身のように愛することは,全焼の捧げ物と犠牲全部よりはるかに価値があります」。イエスは,この人が的確に答えたのを見て,「あなたは神の王国から遠くありません」と言います。(マルコ 12:32-34)
イエスは神殿で3日間(ニサン9日から11日)教えています。その間,この律法学者のようにイエスの話を喜んで聞いた人たちもいますが,宗教指導者たちは違います。彼らには「それ以上イエスに質問する勇気は」ありません。
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イエスは敵対者たちを非難するイエス 道,真理,命
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109章
イエスは敵対者たちを非難する
マタイ 22:41–23:24 マルコ 12:35-40 ルカ 20:41-47
キリストは誰の子か
イエスは敵対者たちの偽善を暴く
敵対者たちは,イエスの信用を落とすことも,わなに掛けてローマ人に引き渡すこともできませんでした。(ルカ 20:20)それでイエスはニサンの11日,まだ神殿にいる時に形勢を逆転させます。自分が誰かを明らかにし,こう切り出します。「キリストについてどう考えますか。彼は誰の子ですか」。(マタイ 22:42)キリストつまりメシアがダビデの家系から生まれることはよく知られています。それで彼らは,ダビデの子であると答えます。(マタイ 9:27; 12:23。ヨハネ 7:42)
そこでイエスはさらに質問します。「では,どうしてダビデは,聖霊によって彼を主と呼んでいるのですか。こう言っています。『エホバは私の主に言いました。「私があなたの敵たちをあなたの足の下に置くまで,私の右に座っていなさい」』。ダビデが主と呼んでいるのであれば,どうしてダビデの子でしょうか」。(マタイ 22:43-45)
パリサイ派の人たちは黙っています。彼らは,ダビデの家系に生まれる人間がローマの支配から解放してくれると期待しているからです。しかしイエスは,詩編 110編1,2節のダビデの言葉を基に,メシアがただの人間の支配者ではないことを証明します。メシアとはダビデの主であり,神の右に座った後に支配を開始するのです。これを聞いた敵対者たちは沈黙してしまいます。
弟子たちを含め大勢の人が聞いています。そこでイエスは,律法学者やパリサイ派の人たちに関する警告を与えます。彼らは神の律法を教えることによって「モーセの座に座っています」。イエスはこう教えます。「その人たちが告げることは全て行い,守りなさい。しかし,その行いに倣ってはなりません。その人たちは言いはしますが,実行しないからです」。(マタイ 23:2,3)
そして彼らの偽善の例を取り上げ,「お守りとして身に着ける聖句箱を大きく」している,と話します。あるユダヤ人たちは,律法の数節を記したものを小さい箱に入れ,額や腕に着けていました。しかしパリサイ派の人たちは,律法を守ることに熱心であるという印象を与えるため,その箱を大きくしています。さらに,「服の裾を長くしています」。イスラエル人は服の裾に飾りを付けなければなりませんでしたが,パリサイ派の人たちはその飾りをやたらと長くしていました。(民数記 15:38-40)全ては「人に見せるため」でした。(マタイ 23:5)
弟子たちも目立ちたいという考え方の影響を受けていたようです。それでイエスはこう教えます。「あなたたちは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたたちの先生はただひとりであり,あなたたちは皆,兄弟だからです。また,地上の誰をも父と呼んではなりません。あなたたちの父はただひとり,天にいる方だからです。また,指導者と呼ばれてもなりません。あなたたちの指導者はキリストひとりだからです」。では,自分についてどんな見方をし,どう行動すべきなのでしょうか。イエスはこう続けます。「あなたたちの間で一番偉い人は奉仕者でなければなりません。高慢になる人は低く評価され,謙遜になる人は高く評価されるのです」。(マタイ 23:8-12)
次にイエスは,偽善的な律法学者とパリサイ派の人たちが悲惨であることを指摘します。「偽善者である律法学者とパリサイ派の人たち,あなた方は悲惨です! 人の前で天の王国を閉ざすからです。自分自身が入らず,入ろうとする人をも入らせません」。(マタイ 23:13)
イエスは,彼らが神にとって重要なことを全く無視し,自分勝手な区別を設けていることを非難します。例えば彼らは,「神殿に懸けて誓っても,守らなくてよい。しかし,神殿の金に懸けて誓うなら,義務を負う」と言います。彼らは道徳的に盲目です。エホバを崇拝し,エホバに近づくための場所よりも,神殿の金の方を重視しているのです。そのようにして,「律法のより重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実を無視して」います。(マタイ 23:16,23。ルカ 11:42)
イエスはパリサイ派の人たちを「目が見えない案内人たち」と呼び,「あなた方は,ブヨはこし取りながらラクダをのみ込んでいます!」と言います。(マタイ 23:24)彼らはぶどう酒からブヨをこし取りますが,それはブヨが儀式上汚れたものだからです。しかし,彼らは律法のより重大な事柄を無視しています。それは,ブヨと同じように儀式上汚れていて,しかももっと大きなラクダをのみ込んでいるようなものです。(レビ記 11:4,21-24)
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イエスが神殿で過ごす最後の日イエス 道,真理,命
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110章
イエスが神殿で過ごす最後の日
マタイ 23:25–24:2 マルコ 12:41–13:2 ルカ 21:1-6
イエスは宗教指導者たちへの非難を続ける
神殿は滅ぼされる
貧しいやもめが小さな硬貨2つを寄付する
イエスは神殿で過ごす最後の日に,律法学者たちとパリサイ派の人たちのことをはっきり偽善者と呼び,彼らの態度を非難します。比喩表現を用いて,こう言います。「あなた方は……杯と皿の外側は清めますが,内側は貪欲と放縦に満ちてい[ま]す。目が見えないパリサイ派の人たち,まず杯と皿の内側を清めて,外側も清くなるようにしなさい」。(マタイ 23:25,26)パリサイ派の人たちは,儀式上の清さや自分の外面については大変きちょうめんですが,自分の内面については無関心で,心を清めることができていません。
預言者の墓を建てて飾り付けていることにも,彼らの偽善が表れています。しかしイエスが言う通り,彼らは「預言者を殺害した者たちの子」です。(マタイ 23:31)イエスを殺そうとしていること自体,その証拠です。(ヨハネ 5:18; 7:1,25)
それでイエスは,宗教指導者たちが悔い改めないならどうなるかをこう話します。「蛇よ,マムシのような者たちよ,あなた方はどうしてゲヘナの処罰を逃れられるでしょうか」。(マタイ 23:33)ゲヘナとはヒンノムの谷のことです。そこはごみを燃やす所でした。ですからこの表現は,邪悪な律法学者たちとパリサイ派の人たちに永遠の滅びが待ち受けていることを示しています。
弟子たちは「預言者」,「賢人」,「教師」になります。どんな扱いを受けるでしょうか。イエスは宗教指導者たちにこう言います。「あなた方は[私の弟子]の中のある人を殺し,杭に掛け,ある人を会堂でむち打ち,あちこちの町で迫害します。こうして,正しい人アベルの血から……ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された正しい人の血全てがあなた方に降り掛かります」。そしてこう警告します。「はっきり言いますが,その全てがこの世代に降り掛かります」。(マタイ 23:34-36)この言葉は,西暦70年にローマ軍がエルサレムを滅ぼし,何十万ものユダヤ人を殺害した時に実現しました。
イエスはその時の恐ろしい状況を考えて心を痛め,悲しみを込めてこう言います。「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,遣わされた人々を石打ちにする者よ,私はめんどりが翼の下にひなを集めるようにあなた方を集めたいと何度思ったことでしょう。しかし,あなた方はそれを望みませんでした。聞きなさい,あなた方の家は見捨てられます」。(マタイ 23:37,38)これを聞いた人たちは,イエスが言った「家」とは何のことだろうと思ったに違いありません。神の保護があるように思える,エルサレムの立派な神殿のことでしょうか。
イエスの次の言葉はこうです。「あなた方に言いますが,あなた方は今後,『エホバの名によって来る方が祝福されますように!』と言う時まで,決して私を見ることはありません」。(マタイ 23:39)イエスは,詩編 118編26節の,「エホバの名によって来る方が祝福されますように。私たちはエホバの家であなたたちのために祝福を願う」という言葉から引用しています。この聖句の「エホバの家」とは神殿のことです。神殿が滅ぼされると,誰もそこに神の名によって来ることはできません。
次にイエスは,神殿の寄付箱が見える場所に移動します。その箱の上部には小さな口があり,そこから寄付を入れる仕組みになっています。イエスは人々が寄付をする様子を見ています。裕福な人たちは「たくさんの硬貨を入れて」います。イエスは「ごく小額の小さな硬貨2つ」を寄付した,1人の貧しいやもめに注目します。(マルコ 12:41,42)イエスは,そのやもめの寄付が神に喜ばれることを知っています。
イエスは弟子たちを呼ぶと,「はっきり言いますが,この貧しいやもめは,寄付箱にお金を入れたほかの人たち全てよりたくさん入れました」と話します。なぜそう言えるのでしょうか。イエスは,「彼らは皆,余っている中から入れましたが,この女性は乏しい中から自分が持つ全て,生活に必要な全てのものを入れたからです」と説明します。(マルコ 12:43,44)この女性は内面も行動も,宗教指導者たちとは全く違っていたのです。
ニサン11日も過ぎていき,イエスは神殿を後にします。すると1人の弟子が,「先生,見てください。何と見事な石と建物なのでしょう」と叫びます。(マルコ 13:1)神殿の壁に使われていた石の中にはとてつもなく大きなものがあったため,建物は強固で不動な印象を与えました。ところがイエスは不思議なことを言います。「この立派な建物を見ているのですか。石がこのまま石の上に残って崩されないでいることは決してありません」。(マルコ 13:2)
そう言ってから,イエスは使徒たちとキデロンの谷を渡り,オリーブ山に登ります。そして,4人の使徒ペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネと一緒になります。その場所からは壮麗な神殿が見えます。
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使徒たちはしるしについて尋ねるイエス 道,真理,命
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111章
使徒たちはしるしについて尋ねる
マタイ 24:3-51 マルコ 13:3-37 ルカ 21:7-38
4人の弟子がしるしについて尋ねる
イエスが話したしるしは1世紀とそれ以降に実現する
私たちは注意を払っていなければならない
ニサン11日火曜日が暮れていきます。イエスの地上での忙しい活動期間にも終わりが近づいています。ここしばらくイエスは,昼は神殿で教え,夜はエルサレム市の外に泊まっていました。イエスは人々の関心の的となり,「神殿でイエスの話を聞こうとして朝早く来」る人も大勢いました。(ルカ 21:37,38)しかし,そうした日々も終わりを迎えました。イエスは4人の使徒たち,ペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネと一緒にオリーブ山に座っています。
4人は自分たちだけでイエスの所にやって来ます。神殿の石がこのまま石の上に残ることはないという予告を聞いて,神殿のことが気になっているのです。でも,知りたいことはほかにもあります。イエスは以前,「用意をしていなさい。思ってもいない時刻に人の子は来るからです」と言いました。(ルカ 12:40)また,「人の子が現れる日」について話したこともあります。(ルカ 17:30)そうした言葉も,神殿について先ほど聞いた事柄と何か関係があるのでしょうか。使徒たちは知りたくてうずうずしています。それでイエスにこう頼みます。「教えてください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と体制の終結のしるしには,何がありますか」。(マタイ 24:3)
彼らは,目の前に見えている神殿が滅びる時のことを考えているようです。また,人の子の臨在についても質問しています。きっと,「ある高貴な生まれの男性が,王権を確立して戻るため」に旅行に出た,というイエスの例え話を思い出したのでしょう。(ルカ 19:11,12)さらに,「体制の終結のしるし」にも関心があります。
イエスはそれらの質問に詳しく答えながら,エルサレムと神殿が終わる時を見分けるしるしを明らかにしていきます。しかし,そのしるしは,将来のクリスチャンにとっても重要です。それらクリスチャンが,イエスの「臨在」期間中に生きており,地上の体制全ての終わりが近いことを識別する助けになるからです。
やがて,使徒たちはイエスの預言が実現していくのを目撃します。彼らが生きている間に,予告されていた多くのことが起こり始めるのです。そのため,37年後の西暦70年に生きているクリスチャンたちは,ユダヤ人の体制と神殿が滅びる時に不意を突かれることなく,準備を整えていることができます。とはいえ,イエスが予告したこと全てが,西暦70年とそれまでの期間に実現するわけではありません。では,イエスが王国の支配を開始して臨在する時のしるしには,どんなものがあるのでしょうか。イエスは使徒たちの質問に答えながら明らかにします。
イエスの予告によると,「戦争のことや戦争の知らせ」があり,「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上が」ります。(マタイ 24:6,7)また,「大きな地震があり,あちらこちらで食糧不足や流行病があります」。(ルカ 21:11)イエスは弟子たちに,「人々はあなたたちを捕らえて迫害」する,とも警告します。(ルカ 21:12)さらに,偽預言者が現れ,多くの人を惑わします。不法なことが増え,大半の人の愛が冷えます。それからイエスは,「王国の良い知らせは,全ての国の人々が聞けるように世界中で伝えられます。それから終わりが来ます」とも話します。(マタイ 24:14)
イエスの預言のうち幾つかの点は,ローマ軍によってエルサレムが滅ぼされる時や,その滅びが生じるまでの期間に実現します。しかし,イエスの預言はずっと後の時代に,もっと大きなスケールで実現します。では,この重要な預言が現代に実現しているという証拠がありますか。
イエスが自分の臨在のしるしとして挙げたものの1つに,「荒廃をもたらす極めて不快なもの」の出現があります。(マタイ 24:15)西暦66年,この極めて不快なものはローマ人の「陣営を張った軍隊」として出現します。その軍には偶像視されていた軍旗がありました。ローマ軍はエルサレムを包囲し,城壁の土台を崩し始めます。(ルカ 21:20)ユダヤ人の「聖なる場所」に,立ってはならない「極めて不快なもの」が立っていたのです。
イエスはさらに,「世界の始めから今まで起きたことがなく,いえ,二度と起きないような大患難がある」と予告します。西暦70年,ローマ軍はエルサレムを滅ぼします。ユダヤ人の「聖都」は神殿もろとも破壊され,何十万もの人が殺害されたため,まさに大患難となります。(マタイ 4:5; 24:21)ユダヤ人とエルサレムの歴史上,これほど破壊的な出来事はありませんでした。それまで何百年も続いてきたユダヤ人の崇拝の体制も終わりを告げます。ですから,イエスの預言が将来もっと大規模に実現する時,それは恐ろしいものであるに違いありません。
体制の終結における確信
イエスが王として臨在するしるしと,体制の終結のしるしについて,イエスは話し続けます。イエスは「偽キリストや偽預言者」に振り回されないよう警告を与えます。彼らは,「できれば選ばれた者たちをさえ惑わそう」とするでしょう。(マタイ 24:24)しかし,選ばれた者たちは惑わされません。偽キリストは目に見えますが,イエスの臨在は目に見えないのです。
イエスは,現在の体制の終わりに生じる,もっと大規模な患難についてこう話します。「太陽は暗くなり,月は光を放たず,星は天から落ち,天の力は揺り動かされます」。(マタイ 24:29)使徒たちはこうした予告を聞いても,具体的に何が起きるのか分かりません。それでも,間違いなく恐ろしい時となるでしょう。
そうした患難は人間にどんな影響を与えますか。イエスはこう言います。「人々は,世界を襲う事柄に対する恐れと予想から気を失います。天の力が揺り動かされるからです」。(ルカ 21:26)イエスの言葉通り,人間がこれまで経験したことがないような悲惨な時を迎えるのです。
イエスは,「人の子が力と大きな栄光を帯びて」来る時に,全ての人が嘆くわけではない,と話して使徒たちを元気づけます。(マタイ 24:30)イエスは,「選ばれた者たちのために」神が行動を起こすと述べていました。(マタイ 24:22)では,イエスが話した衝撃的な予告が実現していく時,忠実な弟子たちは何をすべきでしょうか。イエスはこう勧めます。「これらの事が起き始めたら,真っすぐに立ち,頭を上げなさい。あなたたちの救出が近づいているからです」。(ルカ 21:28)
その期間に生きている弟子たちは,終わりが近いことをどのようにして知るのでしょうか。ここでイエスはイチジクの木の例えを話します。「若枝が柔らかくなって葉を出すと,すぐに,夏が近いことが分かります。同じように,これら全てを見たら,人の子が近づいて戸口にいることを知りなさい。はっきり言いますが,これら全てが起きるまで,この世代は決して過ぎ去りません」。(マタイ 24:32-34)
弟子たちは,しるしのさまざまな特色が実現するのを見る時,終わりが近いことに気付かなければなりません。イエスは,将来その重要な時代を生きる弟子たちに向けてこう語ります。
「その日と時刻については誰も知りません。天使たちも子も知らず,父だけが知っています。人の子の臨在の時はちょうどノアの時代のようになります。洪水前のその時代,ノアが箱舟に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,結婚したりしていました。そして,洪水が来て全ての人を流し去るまで注意しませんでした。人の子の臨在の時もそのようになります」。(マタイ 24:36-39)イエスは話を聞いている人たちに,地球全体に影響を与えた,ノアの時代の大洪水のことを思い起こさせています。
オリーブ山でイエスの話を聞いていた使徒たちは,注意を払い続けなければならないと気付いたはずです。イエスはこう言います。「食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で心が圧迫されないよう注意していなさい。そうでないと,その日が全く突然に訪れます。わなのようにです。その日は地上の全ての人に訪れます。それで,必ず起きるこの全ての事を逃れて人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,ずっと目を覚ましていなさい」。(ルカ 21:34-36)
イエスはここ数十年の間に起きる出来事や,エルサレムの都市またはユダヤ国民だけに影響を及ぼす出来事を預言していたのではありません。もっとスケールの大きなこと,「地上の全ての人に訪れ」る変化について話していたのです。
イエスは,弟子たちが注意を払い,見張っていて,用意を整えていなければならないと教えます。そして,そのことを別の例えで強調します。「1つのことを知っておきなさい。家の主人は,泥棒がどの夜警時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,家に押し入らせはしなかったでしょう。ですから,あなたたちも,用意ができていることを示しなさい。人の子は予期しない時刻に来るからです」。(マタイ 24:43,44)
イエスはここで,弟子たちに心配し過ぎないでよい理由を示します。それは,これまで話してきた預言が実現する時,注意を払いつつよく働く「奴隷」がいる,ということです。イエスは使徒たちがイメージしやすい次のような場面を話します。「主人が,時に応じて召し使いたちに食物を与えるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか。主人が来て,そうしているところを見るなら,その奴隷は幸せです! はっきり言いますが,主人は自分の全ての持ち物を管理させるためにその奴隷を任命します」。しかし,もしその「奴隷」が邪悪な態度を表し,他の人をひどい仕方で扱うなら,主人は「最も厳しく彼を罰し」ます。(マタイ 24:45-51。ルカ 12:45,46と比較。)
イエスは,弟子たちのあるグループが邪悪な態度を示すようになると言っていたのではありません。では,どんな教訓を弟子たちに残したかったのでしょうか。それは,注意を払いつつよく働くべきであるということです。そのことをさらに別の例えで教えます。
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乙女たちの例え話から学ぶイエス 道,真理,命
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112章
乙女たちの例え話から学ぶ
イエスは10人の乙女の例え話をする
イエスは,自分の臨在と体制の終結のしるしについて使徒たちから質問され,それに答えているところです。そして,もう1つの例え話をして大切な教訓を与えます。イエスの臨在期間中に生きている人たちは,その例え話が実現するのを見ることになります。
例え話はこう始まります。「天の王国は,ランプを持って花婿を迎えに出た10人の乙女のようです。そのうち5人は愚かで,5人は思慮深い人でした」。(マタイ 25:1,2)
イエスは,天の王国を受け継ぐ弟子たちのうち半分が愚かで,もう半分が思慮深いと言っていたのではありません。弟子たち各自には,王国の事柄にしっかり注意を払うという選択肢と,注意を怠るという選択肢があると教えていたのです。しかしイエスとしては,弟子たちが忠実であり続け,天の父の祝福を受けるということを確信していました。
10人の乙女は全員,花婿を迎えて結婚式の行列に加わるために出掛けていきます。花婿が到着し,準備を整えた家に花嫁を連れていく時,乙女たちは道をランプで照らします。そのようにして,花婿に対し敬意を表すのです。では,話はどう展開するでしょうか。
「愚かな乙女たちはランプを持ちましたが,油を携えていかず,一方,思慮深い乙女たちは,ランプと共に,油を瓶に入れて持っていきました。花婿が遅れている間に,皆,眠くなって眠り込んでしまいました」。(マタイ 25:3-5)花婿は予想していた時間に到着しません。乙女たちが眠り込んでしまったことからすると,かなり遅れているようです。これを聞いた使徒たちは,ある高貴な生まれの人の例え話を思い出したでしょう。その人は旅行に出,「やがて……王権を確立して戻った」とイエスは話しました。(ルカ 19:11-15)
さて,花婿がついに到着した時のことを,イエスはこう話します。「真夜中に,『さあ,花婿だ! 迎えに出なさい』と叫ぶ声がしました」。(マタイ 25:6)乙女たちは用意ができているでしょうか。
イエスはこう続けます。「そこで,乙女は皆起きて,ランプを確認しました。愚かな乙女たちは思慮深い乙女たちに言いました。『油を分けてください。今にもランプが消えそうです』。思慮深い乙女たちは答えました。『みんなの分はなさそうです。それより,油を売る人たちの所で自分の分を買ってくるのはどうですか』」。(マタイ 25:7-9)
5人の愚かな乙女は注意を怠り,花婿を迎える用意ができていません。ランプのための油が足りないので,何とか手に入れる必要があります。話は続きます。「その5人が買いに行っている間に花婿が来て,用意ができていた乙女たちは結婚の披露宴のために花婿と一緒に中に入り,戸が閉められました。その後,残りの乙女たちも来て,『旦那さま,旦那さま,開けてください』と言いました。花婿は答えました。『はっきり言って,あなたたちのことは知りません』」。(マタイ 25:10-12)何と残念なのでしょう。注意を怠り用意ができていなかった結果です。
使徒たちは,例え話の中の花婿とはイエスのことだと分かったでしょう。イエスは以前にも自分を花婿に例えたことがあったからです。(ルカ 5:34,35)では,思慮深い乙女とは誰ですか。イエスは王国を受け継ぐ「小さな群れ」について話した時,「身支度を整え,ランプをともしていなさい」と言いました。(ルカ 12:32,35)ですから使徒たちは,今回の例えに出てくる乙女とは,自分たちや小さな群れを構成する他の人たちを指していると理解したでしょう。イエスはこの例え話で何を教えようとしていたのでしょうか。
イエスは教訓をあいまいにせず,例え話の最後ではっきりこう言います。「ずっと見張っていなさい。あなたたちは,その日も時刻も知らないからです」。(マタイ 25:13)
イエスは自分の臨在について忠実な弟子たちに話した際,「ずっと見張って」いるべきだと教えました。イエスが来る時,弟子たちは5人の思慮深い乙女のように,注意を払っていて用意ができていなければなりません。そのようにして,貴重な希望を見失ったり報いを得損なったりすることがないようにすべきです。
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タラントの例え話から学ぶイエス 道,真理,命
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113章
タラントの例え話から学ぶ
イエスはタラントの例え話をする
イエスはオリーブ山の上で4人の使徒たちから自分の臨在と体制の終結のしるしについて質問され,その答えとして,もう1つの例え話を語ります。数日前にエリコにいた時,イエスはミナの例え話をして,王国が設立されるのはまだ遠い将来であると説明しました。この2つの例え話には似ている点がたくさんあります。この章で考える例え話は,使徒たちはイエスから委ねられた持ち物を扱う際に勤勉でなければならないということを教えています。
イエスはこう話し始めます。「それはちょうど,外国へ旅行に出る際に,奴隷たちを呼び寄せて,自分の持ち物を委ねた男性のようです」。(マタイ 25:14)イエスは自分を「王権を確立」するために旅行に出た男性に例えたことがあるので,使徒たちは今回の例え話に出てくる「男性」もイエスであるとすぐに分かります。(ルカ 19:12)
その人は外国に旅行に出る前に,奴隷たちに自分の貴重な持ち物を委ねます。イエスは3年半の伝道期間中,神の王国の良い知らせを伝えることに全力を傾け,弟子たちが伝道活動を行えるよう訓練しました。自分は間もなく去っていきますが,訓練した通りに弟子たちが伝道活動をしていくと確信しています。(マタイ 10:7。ルカ 10:1,8,9。ヨハネ 4:38; 14:12と比較。)
例え話の男性は自分の持ち物をどのように委ねたでしょうか。イエスはこう話します。「その男性は,ある人には5タラント,別の人には2タラント,さらに別の人には1タラントと,各自の能力に応じて与えてから,外国へ行きました」。(マタイ 25:15)では,奴隷たちは委ねられたもので何をしますか。主人の期待に沿って委ねられたものを勤勉に用いるでしょうか。イエスはこう続けます。
「5タラントを受け取った人はすぐに出掛け,それで商売をして,さらに5タラントを手に入れました。2タラントを受け取った人も同じように,さらに2タラントを手に入れました。しかし,ただ1タラントを受け取った奴隷は,出掛けていって地面を掘り,主人のお金を隠しておきました」。(マタイ 25:16-18)さて,主人が戻ってきた時にどうなりますか。
イエスはこう話します。「長い時がたち,主人が来て,奴隷たちと清算をしました」。(マタイ 25:19)最初の2人の奴隷は「各自の能力に応じて」ベストを尽くしました。委ねられたものを使って勤勉に熱心に働き,利益を生み出しました。5タラントを受け取った人も2タラントを受け取った人も,委ねられたものを2倍にしたのです。(当時,1タラントを稼ぐには19年ほどかかりました。)主人はその2人の奴隷に同じ褒め言葉を掛けます。「よく頑張りました,あなたは忠実な良い奴隷です! わずかなものに忠実でした。多くのものを管理させるためにあなたを任命しましょう。主人である私と共に喜びなさい」。(マタイ 25:21)
しかし,1タラントを受け取った奴隷はこう言います。「ご主人さま,あなたが厳しい方で,まかなかった所で刈り取り,脱穀しなかった所で集めることを知っていました。それで怖くなり,行って,あなたの1タラントを地中に隠しておきました。さあ,お返しいたします」。(マタイ 25:24,25)この奴隷はお金を銀行家に預けることもしませんでした。そうしていれば,少なくとも幾らかの利息が付いたでしょう。この奴隷は主人の期待を裏切ったのです。
当然のこととして,主人はその奴隷を「怠惰な悪い奴隷」と呼び,委ねていたものを取り上げ,喜んで勤勉に働く人にそれを与えます。そしてこう言います。「持っている人は皆,さらに与えられて満ちあふれます。しかし,持っていない人は,持っているものまで取り上げられます」。(マタイ 25:26,29)
イエスの弟子たちはこの例え話を聞いて,さまざまなことを考えさせられたでしょう。彼らはイエスから何を委ねられたか知っています。それは人々を弟子とするという大変価値のある立派な仕事です。イエスは,弟子たち全てが同じ仕方でその仕事をし,同じ成果を上げるよう期待しているわけではありません。弟子たちは「各自の能力に応じて」働くべきなのです。「怠惰」になり,主人の持ち物を増やすためにベストを尽くさないなら,イエスが喜ぶことは決してありません。
「持っている人は皆,さらに与えられ[る]」とイエスが約束した時,使徒たちはとてもうれしかったに違いありません。
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キリストは王として羊とヤギを裁くイエス 道,真理,命
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114章
キリストは王として羊とヤギを裁く
イエスは羊とヤギの例え話を語る
イエスは,オリーブ山の上で10人の乙女とタラントの例え話を語ったところです。自分の臨在と体制の終結のしるしについての質問に答えていたイエスは,最後に羊とヤギの例え話をします。
その話はこう始まります。「人の子が栄光を帯びて来て,全ての天使が共に来ると,その時,人の子は栄光の座に座ります」。(マタイ 25:31)この例え話の中心人物はイエスです。イエスはこれまで何回も自分のことを,「人の子」と呼んでいるからです。(マタイ 8:20; 9:6; 20:18,28)
この例え話はいつ実現しますか。イエスが天使たちと一緒に「栄光を帯びて来て」,「栄光の座に」座る時です。イエスは少し前にも,天使たちと一緒に「人の子が力と大きな栄光を帯びて天の雲に乗って来る」と話したことがあります。それはいつのことでしょうか。「患難のすぐ後」のことです。(マタイ 24:29-31。マルコ 13:26,27。ルカ 21:27)ですからこの例え話は,将来イエスが栄光を帯びて来る時に実現します。その時,イエスは何をするのでしょうか。
イエスはこう説明します。「人の子が栄光を帯びて来[ると,]全ての国の人々が彼の前に集められ,人の子は,羊飼いが羊をヤギから分けるように,人々を分けます。そして羊を自分の右に,ヤギを自分の左に置きます」。(マタイ 25:31-33)
羊はどうなりますか。イエスはこう言います。「それから王は,右にいる人たちに言います。『さあ,私の父に祝福された人たち,世が始まって以来あなたたちのために用意されている王国を受けなさい」。(マタイ 25:34)羊が王からの恵みを受けるのはなぜでしょうか。
王は次のように説明します。「私が飢えると食べ物を与え,喉が渇くと飲み物を与えてくれたからです。よそから来ると温かく迎え,裸でいると服を与えてくれました。病気になると世話をし,牢屋にいると訪問してくれました」。それを聞いた羊つまり「正しい人たち」は,自分たちがいつ王にそのようなことをしたか尋ねます。すると王は,「これら私の兄弟のうち最も目立たない人の1人にしたのは,それだけ私にしたのです」と答えます。(マタイ 25:35,36,40,46)正しい人たちは,そうした良いことを天で行ったのではありません。天では病気になったり飢えたりしないからです。ですから王は,羊が地上にいるキリストの兄弟たちにしたことを言っているのです。
では左に置かれたヤギはどうなりますか。イエスの説明はこうです。「それから王は,左にいる人たちに言います。『災いを宣告された人たち,私から離れ,悪魔と邪悪な天使たちのために用意された永遠の火に入りなさい。私が飢えても食べ物を与えず,喉が渇いても飲み物を与えてくれなかったからです。よそから来ても温かく迎えず,裸でいても服を与えず,病気であったり牢屋にいたりしても世話をしてくれませんでした』」。(マタイ 25:41-43)ヤギは地上にいるキリストの兄弟たちに親切であるべきでしたが,そうしなかったので,このような裁きを受けるのも当然です。
使徒たちは,将来行われるこの裁きが1回限りで,その結果は永遠に続くものであることを知ります。イエスは彼らに次のように話します。「その時,王は[言い]ます。『実のところ,これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです』。この人たちは永遠の死を迎え,正しい人たちは永遠の命を受けます」。(マタイ 25:45,46)
使徒たちの質問に対するイエスの答えから,イエスの弟子である全ての人は多くのことを学べます。そして,自分の態度や行動がどのようなものか考えさせられます。
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