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最後の過ぎ越しで謙遜さを教えるイエス 道,真理,命
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116章
最後の過ぎ越しで謙遜さを教える
マタイ 26:20 マルコ 14:17 ルカ 22:14-18 ヨハネ 13:1-17
イエスは使徒たちと一緒に,最後の過ぎ越しの食事をする
使徒たちの足を洗って大切な教訓を与える
ペテロとヨハネはエルサレムに着き,イエスの指示に従って過ぎ越しを祝う準備を整えます。イエスと残りの10人の使徒たちもベタニヤを出発します。木曜日の午後,西の空に太陽が沈んでいく中,イエスと使徒たちはオリーブ山を下りていきます。復活する前に,この風景を昼間に見るのは,イエスにとってこの時が最後です。
エルサレムに着いたイエスと使徒たちは,過ぎ越しの食事をする家に向かいます。階段を上り,大きな部屋に入ると,そこには自分たちだけで食事をする準備が整っています。イエスはこの時をずっと待っていました。それでこう言います。「私は苦しみを受ける前にぜひあなたたちと一緒にこの過ぎ越しの食事をしたい,と思っていました」。(ルカ 22:15)
過ぎ越しの食事の際にぶどう酒の入った杯を回すという習慣は,ずっと昔に取り入れられたものです。イエスは杯を受け取り,感謝の祈りをしてからこう言います。「これを取って,順番に回しなさい。あなたたちに言いますが,今後,神の王国が来るまで私はブドウからできたものを二度と飲みません」。(ルカ 22:17,18)イエスの死がもうそこまで迫っているのです。
皆が食事をしていると,イエスが席を立ちます。外衣を脇に置いて拭き布を取り,すぐそばにあったたらいに水を入れます。普通なら,召し使いが客の足を洗うよう家の主人が取り計らいます。(ルカ 7:44)でもこの時は,主人がいなかったので,イエスが自分で世話をします。使徒たちもその仕事を買って出ることができたはずですが,誰もそうしようとしませんでした。彼らの間にはまだライバル意識が残っていたのかもしれません。いずれにせよ,弟子たちはイエスが自分たちの足を洗おうとするのを見てまごつきます。
ペテロはイエスが自分のところに来ると,「足を洗っていただくことなどできません」と言います。イエスは,「私が洗わないとしたら,あなたは私の仲間ではありません」と答えます。それでペテロは,「主よ,足だけでなく,手も頭もお願いします」と言います。しかし,次のイエスの言葉を聞いてペテロは驚いたことでしょう。「水浴びした人は全身が清く,足以外は洗う必要がありません。あなたたちは清いのです。しかし全員ではありません」。(ヨハネ 13:8-10)
イエスはユダ・イスカリオテを含む12人全員の足を洗います。そして外衣を着てから,再び食卓に着いて横になり,使徒たちにこう質問します。「あなたたちにしたことが理解できますか。あなたたちは私を『先生』や『主』と呼びます。それは正しいことです。私はそういう者だからです。それで,主また先生である私があなたたちの足を洗ったのであれば,あなたたちも足を洗い合うべきです。私はあなたたちのために模範を示しました。あなたたちも同じようにするためです。はっきり言っておきますが,奴隷は主人より偉くなく,遣わされた人は遣わした人より偉くありません。あなたたちはこうした事を知っており,それを行うとき,幸せです」。(ヨハネ 13:12-17)
謙遜に仕えることを教える何と素晴らしい教訓でしょう。イエスの弟子は,自分は重要な存在だから仕えてもらうのが当然と考えて,最優先されることを期待すべきではありません。むしろ,イエスの手本に倣うべきです。実際に誰かの足を洗うということではなく,謙遜に,偏見を持たずに進んで仕えるということです。
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主の晩餐イエス 道,真理,命
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117章
主の晩餐
マタイ 26:21-29 マルコ 14:18-25 ルカ 22:19-23 ヨハネ 13:18-30
ユダがイエスを裏切ることが明らかにされる
イエスは記念の食事を始める
イエスは使徒たちの足を洗って,謙遜さについての大切な教訓を与えました。過ぎ越しの食事が終わってからのことと思われますが,イエスは,「私が信頼していた親しい友,一緒にパンを食べていた人が私に敵対するようになった」というダビデの預言的な言葉を引用して話します。それから,「あなたたちの1人が私を裏切ります」とも言います。(詩編 41:9。ヨハネ 13:18,21)
使徒たちは顔を見合わせて口々に,「主よ,まさか私ではありませんね」と尋ねます。ユダ・イスカリオテもそう質問します。ペテロはイエスの隣にいたヨハネに,誰のことを言っているのか質問するように促します。それでヨハネはイエスに体を近づけて,「主よ,それは誰ですか」と聞きます。(マタイ 26:22。ヨハネ 13:25)
イエスは,「私がパン切れを鉢に浸して与えるのがその人です」と答えます。そしてパンを食卓の上にあった鉢に浸してユダに渡し,「人の子は書かれている通り去っていきますが,人の子を裏切るその人は悲惨です! 生まれてこなかった方がよかったでしょう」と言います。(ヨハネ 13:26。マタイ 26:24)すると,サタンがユダに入ります。ユダはすでに心が邪悪になっていましたが,この時に悪魔の意志を行うようになり,「滅び」に突き進んでいったのです。(ヨハネ 6:64,70; 12:4; 17:12)
イエスはユダに,「あなたがしている事をもっと早くしなさい」と言います。それを聞いた使徒たちはユダが金箱を管理しているので,「『祭りのために必要な物を買いなさい』とか,貧しい人たちに何かを与えるように」という意味だろうと思っています。(ヨハネ 13:27-30)しかし,ユダはイエスを裏切るために出ていきます。
その後,イエスは全く新しい祝いを始めます。パンを取って感謝の祈りをし,それを割って使徒たちに渡します。そして,「これは,あなたたちのために与えられる私の体を表しています。このことを行っていき,私のことを思い起こしなさい」と言います。(ルカ 22:19)使徒たちはそのパンを順番に回し,それを食べます。
次に,イエスはぶどう酒の杯を取り,感謝の祈りをしてから使徒たちに渡します。使徒たちは皆その杯から飲みます。イエスは,「この杯は私の血による新しい契約を表しています。それはあなたたちのために注ぎ出されることになっています」と言います。(ルカ 22:20)
このようにして,イエスは自分の死の記念式を取り決めました。そして弟子たちは毎年ニサンの14日にその記念式を開きます。その式は,人間を罪と死の有罪宣告から救うためにイエスと天の父が行ったことを思い起こす機会となります。この祝いは,ユダヤ人の過ぎ越しよりも重要なものです。信仰を持つ人全てに永遠の自由を与えるイエスの死に注意を向ける式だからです。
イエスは自分の血が「罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになってい[る]」と話します。その許しを受ける大勢の人には,忠実な使徒たちや他の弟子たちが含まれています。その人たちは天の父の王国でイエスと共に支配します。(マタイ 26:28,29)
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誰が一番偉いかで口論が起きるイエス 道,真理,命
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118章
誰が一番偉いかで口論が起きる
マタイ 26:31-35 マルコ 14:27-31 ルカ 22:24-38 ヨハネ 13:31-38
イエスは偉さについて教える
ペテロはイエスを否定すると予告される
イエスの弟子は愛し合わなければならない
使徒たちと一緒に過ごす最後の晩です。先ほどイエスは,使徒たちの足を洗うことによって謙遜に仕えることの大切さを教えたばかりです。なぜその必要があったのでしょうか。使徒たちに弱点があったからです。彼らは神に献身していますが,誰が一番偉いかということに強い関心を抱いていました。(マルコ 9:33,34; 10:35-37)その弱さがまた出てしまいました。
使徒たちの間で「誰が一番偉いのか」について「激しい議論」が起きたのです。(ルカ 22:24)イエスはとてもがっかりしたはずです。どうするでしょうか。
イエスは彼らの態度や行動を叱らず,根気強く接し,考えさせます。「諸国の王は威張り,権威を持つ人たちは功労者と呼ばれます。しかし,あなたたちはそうであってはなりません。……というのは,食事をしている人と給仕している人では,どちらが偉いですか」。そして,自分が示してきた手本を思い出させ,「しかし私は,あなたたちに仕える人です」と言います。(ルカ 22:25-27)
使徒たちは不完全ですが,困難な時期にイエスとずっと一緒にいました。それでイエスは,「私は,天の父が私と契約を結んだように,あなたたちと王国のための契約を結[ぶ]」と言います。(ルカ 22:29)彼らはイエスに忠節な人たちです。イエスは契約を結ぶことにより,彼らが王国に入り,共に支配することを保証します。
そうした素晴らしい希望があっても,使徒たちは弱点を持つ不完全な人間です。イエスは,「サタンはあなたたちを渡すよう要求しました。小麦をふるいにかけるように試すためです」と話します。(ルカ 22:31)そして,こう警告します。「今夜,あなたたちは皆,私を見捨てます。『私は牧者を打つ。すると,群れの羊は散り散りになる』と書いてあるからです」。(マタイ 26:31。ゼカリヤ 13:7)
するとペテロは自信満々な態度で,「ほかのみんながあなたを見捨てても,私は決して見捨てません!」と主張します。(マタイ 26:33)そこでイエスは,今夜おんどりが2度鳴く前にあなたは私を知らないと言う,と話します。しかしイエスはこうも言います。「私は,あなたの信仰が尽きないように祈願しました。立ち直った後は,兄弟たちを力づけなさい」。(ルカ 22:32)それでもペテロは,「たとえ一緒に死ぬことになるとしても,あなたを知らないとは決して言いません」と言い張ります。(マタイ 26:35)他の使徒たちも同じことを言います。
イエスはこう話します。「私はもうしばらくあなたたちと一緒にいます。あなたたちは私を捜すようになります。私はユダヤ人たちに,『私が行く所へあなた方は来ることができない』と言いましたが,今はあなたたちにも同じように言います」。そしてさらにこう言います。「新しいおきてを与えます。それは,あなたたちが互いに愛し合うことです。私があなたたちを愛した通りに,あなたたちも互いを愛しなさい。あなたたちの間に愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります」。(ヨハネ 13:33-35)
ペテロは,イエスがもうしばらくの間だけ一緒にいると聞いて,「主よ,どこへ行くのですか」と尋ねます。イエスは,「あなたは私が行こうとしている所へ今は付いてくることができません。しかし後で来ることになります」と答えます。ペテロはその意味が分からず,「主よ,どうして今は付いていけないのですか。あなたのためには命もなげうちます」と言います。(ヨハネ 13:36,37)
次にイエスは,使徒たちをガリラヤの伝道旅行に送り出した時のことを話します。その時,彼らは財布や食物袋を持たずに出掛けていきました。(マタイ 10:5,9,10)イエスが,「何にも不足しなかったのではありませんか」と尋ねると,使徒たちは,「はい,何にも!」と答えます。しかし,これからはどうなのでしょうか。イエスは言います。「財布がある人はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。剣を持っていない人は,外衣を売ってそれを買いなさい。というのは,書かれている事,すなわち『彼は不法な者たちと共に数えられた』という言葉は,私に関して必ず成し遂げられるからです。これは私に関して実現しつつあります」。(ルカ 22:35-37)
イエスは,自分が不法な者たち,つまり犯罪者と並んで杭にくぎ付けにされる時のことを話しています。その後,弟子たちはひどい迫害に遭うでしょう。使徒たちは,その準備ができていると考え,「主よ,ご覧ください,ここに剣が2本あります」と言います。イエスは,「それで十分です」と答えます。(ルカ 22:38)その後間もなく,イエスはこの剣に関係した教訓を与えることになります。
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イエスは道,真理,命イエス 道,真理,命
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119章
イエスは道,真理,命
イエスは場所を整えに行く
弟子たちに援助者を与えると約束する
父はイエスよりも偉大
記念式の食事が終わり,イエスは使徒たちをこう力づけます。「心を騒がせてはなりません。神に信仰を抱き,私にも信仰を抱きなさい」。(ヨハネ 13:36; 14:1)
イエスは自分が去っても心を騒がせるべきでない理由をこう説明します。「私の父の家には住む所がたくさんあります。……行って場所を整えたら,再び来てあなたたちを私の所に迎えます。私がいる所にあなたたちもいるようにするのです」。しかし使徒たちは,イエスが天に行くことを話しているということが分かりません。トマスはこう尋ねます。「主よ,あなたの行こうとしている所が分からないのに,どうしてその道が分かるでしょうか」。(ヨハネ 14:2-5)
イエスは,「私は道であり,真理であり,命です」と答えます。イエスとその教えを受け入れ,イエスの生き方に倣う人だけが,天の父の家に入ることができます。それでイエスは,「私を通してでなければ,誰も父の元に来ることはできません」と言います。(ヨハネ 14:6)
すると,熱心に聞いていたフィリポが,「主よ,私たちに父を見せてください。それで十分です」と頼みます。モーセやエリヤやイザヤに与えられたような幻で神を見たいと思っているようです。でも使徒たちには,幻よりもずっと良いものがあります。イエスはその点をこう強調します。「こんなに長い間一緒に過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだ私を知らないのですか。私を見た人は,父をも見たのです」。天の父を100%反映したイエスと一緒に暮らし,イエスを観察するのは,いわば神を見るようなものでした。とはいえ,父は子より上位の方なので,イエスは,「あなたたちに言うことは,独自の考えで言っているのではありません」と話します。(ヨハネ 14:8-10)そのことは使徒たちにもよく分かりました。
使徒たちは,イエスが素晴らしい行いをするのを見たり,神の王国の良い知らせを伝えるのを聞いたりしてきました。それでイエスは,「私に信仰を抱く人も,私がしていることを行います。しかも,もっと大きなことを行います」と話します。(ヨハネ 14:12)これはイエスより偉大な奇跡を行うという意味ではありません。弟子たちがイエスよりも,もっと長い期間,もっと広い範囲で,もっと多くの人に伝道するということです。
イエスは去っていきますが,使徒たちを見捨てるわけではありません。イエスは,「あなたたちが私の名によって何か求めるなら,私はそれを行います」と約束します。また,こうも言います。「私は天の父にお願いします。父は別の援助者を与えて,あなたたちと共に永久にいるようにしてくださいます。それは真理を伝える聖霊です」。(ヨハネ 14:14,16,17)別の援助者,つまり聖霊を与えるという約束は,ペンテコステの日に実現します。
また,こう続けます。「もうしばらくすれば,世の人々は二度と私を見ません。しかしあなたたちは見ます。私は生きていて,あなたたちも生きるからです」。(ヨハネ 14:19)イエスは復活後に人間の姿で使徒たちに現れ,さらに彼らを復活させ天で一緒になるようにします。
次にイエスはシンプルな真理を話します。「私のおきてを受け入れてそれに従う人は私を愛しています。さらに,私を愛する人は父に愛されます。そして私はその人を愛して,自分のことをはっきり知らせます」。この時,タダイとも呼ばれるユダが,「主よ,私たちには自分のことをはっきり知らせようとし,世の人々にはそうしようとしない,というのはどういうことですか」と質問します。イエスはこう答えます。「私を愛する人は私の言葉を守ります。私の父はその人を愛し……ます。私を愛さない人は私の言葉を守りません」。(ヨハネ 14:21-24)世の人々は,イエスが道,真理,命であることを認めません。
イエスが去ってしまった後,弟子たちは教わったことをどのようにして思い出せばよいのでしょうか。イエスは説明します。「父が私の名によって遣わす援助者つまり聖霊が,あなたたちに,全てのことを教えるとともに,私が話した全てのことを思い起こさせます」。使徒たちは聖霊がどれほど強力に働くかを知っていたので,安心したでしょう。イエスはさらにこう言います。「私が与える平和はあなたたちの元にとどまります。……心を騒がせてはならず,弱気になってもなりません」。(ヨハネ 14:26,27)ですから,心を騒がせる必要はありません。イエスの父から指示と保護が与えられるからです。
神からの保護は間もなく明らかになります。イエスはこう言います。「世の支配者が来ようとしてい[ま]す。もっとも,その者は私に対して何の力もありません」。(ヨハネ 14:30)悪魔はユダの中に入り,彼をコントロールできました。しかしイエスには罪深い弱さが全くないので,イエスを神に反逆させることはできません。イエスを死に封じ込めておくこともできません。イエスは「父が命じた通りにして」おり,父が自分を復活させてくださるという確信があります。(ヨハネ 14:31)
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枝として実を結び,イエスの友であり続けるイエス 道,真理,命
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120章
枝として実を結び,イエスの友であり続ける
真のブドウの木と枝
イエスに愛され続けるにはどうすればよいか
イエスは心に響く話をして使徒たちを励ましています。時刻は遅く,真夜中を過ぎていると思われます。イエスはここで,使徒たちの意欲を高める別の例えを話します。
イエスは,「私は真のブドウの木,私の父は耕作者です」と話し始めます。(ヨハネ 15:1)このイエスの例えは,数百年前にイスラエル国民について語られた事柄と似たところがあります。当時は,イスラエル国民がエホバのブドウの木と呼ばれていました。(エレミヤ 2:21。ホセア 10:1,2)しかし,エホバは彼らを捨て去ります。(マタイ 23:37,38)ですから,イエスがこの例えで教えるのは別のことです。ブドウの木はイエスで,天の父は西暦29年に聖霊でイエスに油を注いだ時からずっとこの木を育ててきました。しかしイエスは,自分1人がその木を表すのではないことを示し,こう言います。
「父は,この木で実を結んでいない枝を全て切り落とし,実を結んでいる枝を全て手入れして,さらに実を結ぶようにします。……枝がブドウの木に付いていなければ実を結べないように,あなたたちも私と結び付いていなければ実を結べません。私はブドウの木,あなたたちはその枝です」。(ヨハネ 15:2-5)
イエスは自分が去った後,援助者である聖霊を忠実な弟子たちに送ると約束しました。その時から51日後,使徒たちと他の弟子たちはその聖霊を受け,ブドウの木の枝になります。全ての「枝」はイエスと結び付いていなければなりません。なぜでしょうか。
イエスはこう説明します。「私と結び付いていて,私が結び付いている人,その人は多くの実を結びます。あなたたちは私から離れては何も行えません」。忠実な弟子たちという「枝」は,イエスの特質に倣い,他の人に神の王国について積極的に伝え,もっと多くの人を弟子とすることにより,多くの実を結びます。イエスと結び付いたままでいなかったり,実を結ばなかったりするなら,どうなりますか。イエスは,「私と結び付いたままでいない人は……投げ捨てられて……しまいます」と話します。しかし,こうも言います。「あなたたちが私と結び付いたままでいて,私が言ったことがあなたたちの心にとどまっているなら,自分が願うどんなことでも求めなさい。それはかなえられます」。(ヨハネ 15:5-7)
ここでイエスは,すでに2度話した,おきてを守ることについて話します。(ヨハネ 14:15,21)「私のおきてを守るなら,いつも私に愛されます。私が父のおきてを守っていつも父に愛されるようにしているのと同じです」。それから,イエスのおきてを守っていることを示す大切な方法について,次のように教えます。「私があなたたちを愛した通りにあなたたちが互いを愛すること,これが私のおきてです。友のために自分の命をなげうつことより大きな愛はありません。私が命じていることを行うなら,あなたたちは私の友です」。(ヨハネ 15:10-14)
もう少しすれば,イエスは自分に信仰を抱く人全てのために命を差し出して,愛を示します。弟子たちはイエスの模範を考える時,同じように自分を犠牲にするほどの愛を示したいと思うはずです。この愛はイエスの弟子であることの証明になります。イエスが言った通りです。「あなたたちの間に愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります」。(ヨハネ 13:35)
使徒たちはイエスが自分たちを「友」と呼んだことに気付いたでしょう。イエスはそう呼ぶ理由について話します。「私はあなたたちを友と呼びました。天の父から聞いた事を全てあなたたちに知らせたからです」。イエスの親しい友になり,イエスが父から聞いた事柄を教えてもらえるというのは何と素晴らしいのでしょう。しかし使徒たちがその友情を保つには,「実を結び続け」なければなりません。もしそうするなら,「あなたたちが私の名によって父に何を求めても,父が与えてくださる」とイエスは保証します。(ヨハネ 15:15,16)
「枝」であるイエスの弟子たちの間の愛は,彼らが今後直面する出来事を忍耐するために必要です。イエスは,弟子たちが世から憎まれるという現実に注意を向けるとともに,こう言って励まします。「もし世があなたたちを憎むなら,あなたたちを憎む前に私を憎んだということをあなたたちは知ります。あなたたちが世の人々のようだったら,世から好まれることでしょう。ところが,あなたたちは……世の人々のようではないので,世から憎まれます」。(ヨハネ 15:18,19)
イエスは,世が弟子たちを憎む理由について,さらにこう言います。「世の人々は,私の名のためにあなたたちをこのようにひどく扱います。私を遣わした方を知らないからです」。イエスの奇跡はイエスを憎む者たちを断罪します。イエスはこう説明します。「私は,ほかの誰もしなかった事を世の人々の間で行いました。もし私がそうしていなかったなら,彼らには何の罪もないでしょう。しかし今,彼らは私を見た上で憎み,私の父をも憎みました」。世から憎まれるのは預言の実現でもあります。(ヨハネ 15:21,24,25。詩編 35:19; 69:4)
イエスは聖霊という援助者を送るともう一度約束します。イエスの弟子たち全ては,この強力な力の助けに頼りつつ「証言し」,実を結びます。(ヨハネ 15:27)
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「勇気を出しなさい! 私は世を征服したのです」イエス 道,真理,命
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121章
「勇気を出しなさい! 私は世を征服したのです」
使徒たちはもうすぐイエスを見なくなる
使徒たちの悲しみは喜びに変わる
イエスと使徒たちは過ぎ越しの食事をした階上の部屋を出ようとしています。イエスは大切な事柄をたくさん話してきましたが,さらにこう言います。「私がこれらの事を言ったのは,あなたたちが信仰を失わないためです」。この言葉は適切でした。なぜですか。イエスはこう説明します。「人々はあなたたちを会堂から追放します。実際,あなたたちを殺す人が皆,自分は神に神聖な奉仕をしたと思う時が来ます」。(ヨハネ 16:1,2)
使徒たちは動揺したでしょう。世から憎まれるとイエスから聞きましたが,殺されるとは初耳です。イエスは,「これらの事を最初に話さなかったのは,あなたたちと一緒にいたからです」と説明します。(ヨハネ 16:4)しかし今,イエスは去っていくので,使徒たちをこれから先に備えさせようとしているのです。後になって,彼らが信仰を失うことのないためです。
イエスはこう続けます。「私は自分を遣わした方の元に行こうとしています。それでも,あなたたちの誰も,『どこに行くのですか』とは尋ねません」。その晩,使徒たちはイエスがどこに行こうとしているのか尋ねました。(ヨハネ 13:36; 14:5; 16:5)でも今,迫害されると聞いて動揺し,悲しみに沈んでしまったため,イエスが受ける栄光や,それが神の真の崇拝者にどんな意味を持つかについて質問できません。イエスはその様子を見て,「私がこれらの事を話したために,悲しみに暮れています」と言います。(ヨハネ 16:6)
それから,「私が去っていくことはあなたたちのためになります。私が去らなければ,援助者はあなたたちの元に来ませんが,去ったら,私はその者を遣わすからです」と言います。(ヨハネ 16:7)イエスが死に,天に行って初めて,弟子たちは聖霊を受けるようになります。イエスは自分の弟子たちが地上のどこにいようと,その援助者を遣わすことができます。
聖霊は,「罪に関し,正しさに関し,裁きに関して,納得のいく証拠を世に与えます」。(ヨハネ 16:8)聖霊により,世が神の子に信仰を抱かなかった罪が暴露されます。そして,イエスが天へ昇ることによって,イエスの正しさに関する納得のいく証拠が与えられ,「この世の支配者」サタンが不利な裁きに値する理由も明らかになります。(ヨハネ 16:11)
イエスは話を続け,「あなたたちに言うべきことがまだたくさんありますが,あなたたちは今はそれを理解できません」と言います。将来イエスが聖霊を注ぐ時,弟子たちは「真理を十分に理解できる」よう導かれ,真理に沿って生きることが可能になります。(ヨハネ 16:12,13)
使徒たちはイエスの次の言葉を聞いて戸惑います。「しばらくしたら,あなたたちはもう私を見ません。でも,しばらくしたら,あなたたちは私を見ます」。彼らは,これはどういう意味だろうと話し合います。イエスは彼らが質問したがっていることに気付き,こう説明します。「はっきり言っておきますが,あなたたちは泣き叫びますが,世は喜びます。あなたたちは深く悲しみますが,悲しみは喜びに変わります」。(ヨハネ 16:16,20)イエスがこの日の午後に殺されると,宗教指導者たちは喜び,弟子たちは深く悲しみます。しかしその悲しみは,イエスが復活すると喜びに変わります。そして,イエスが彼らに聖霊を注ぐため,喜びは続きます。
イエスは使徒たちの状況を陣痛に例えます。「女性は,出産の時が来ると苦しみます。しかし,子供を産み終えると,人が世に生まれた喜びのためにもう苦痛を覚えていません」。それからこう励まします。「あなたたちも今は悲しんでいますが,再び私に会い,心から喜びます。誰もその喜びを奪えません」。(ヨハネ 16:21,22)
この時まで,使徒たちはイエスの名によって祈ったことがありませんでした。しかし今イエスは,「その日,あなたたちは私の名によって父に願い求めます」と言います。これは天の父が祈りをあまり聞きたがらない,ということでは決してありません。イエスはこう言います。「父はあなたたちに愛情を抱いているのです。あなたたちは,私に愛情を抱き,私が神の代理として来たことを信じているからです」。(ヨハネ 16:26,27)
イエスの励ましにより使徒たちは勇気づけられたでしょう。「あなたが神の元から来たことを信じます」と言い,確信を表します。しかしその確信は間もなく試されます。イエスは何が待ち受けているかを話します。「あなたたちが散らされてそれぞれ自分の家に帰り,私を独りにする時が来ます。いえ,もう来ています」。しかし,保証も与えます。「これらの事を言ったのは,あなたたちが私によって平和な気持ちになるためです。あなたたちは世で苦難に遭いますが,勇気を出しなさい! 私は世を征服したのです」。(ヨハネ 16:30-33)イエスは彼らを見捨てません。イエスは使徒たちも世を征服できると確信していました。使徒たちはサタンとその世が自分たちの信仰を砕こうとしても,神の意志を忠実に果たしていくことにより,必ず世を征服できるのです。
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階上の部屋でイエスがささげた最後の祈りイエス 道,真理,命
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122章
階上の部屋でイエスがささげた最後の祈り
神と子を知るとどうなるか
エホバとイエスと弟子たちは一つである
イエスは使徒たちへの深い愛に動かされ,別れを前にして彼らに心の準備をさせてきました。ここでイエスは天を見上げ,父にこう祈ります。「あなたの子に栄光をお与えください。子によってあなたが栄光を受けるためです。あなたは全人類に対する権威を子にお与えになりました。子が,自分に委ねられた人全てに永遠の命を与えるためです」。(ヨハネ 17:1,2)
イエスにとって最も重要なのは,神が栄光を受けることです。しかし,イエスがこの祈りで述べた永遠の命の希望は,素晴らしいものです。イエスは「全人類に対する権威」を与えられているので,贖いによる祝福を全ての人に差し伸べることができます。しかし,祝福を受けるには条件があります。イエスの次の言葉通りにしなければなりません。「永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,あなたが遣わされたイエス・キリストのことを知る必要があります」。(ヨハネ 17:3)
エホバとイエスをよく知って強い絆を育むべきです。エホバやイエスと同じ感覚を身に付け,エホバとイエスに倣った仕方で他の人に接するよう努力することも大切です。さらに,自分が永遠の命を得るより,神が栄光を受ける方が重要であることも覚えておかなければなりません。次にイエスは,もう一度その点を話します。
「私は,あなたから委ねられた事を成し遂げて,地上であなたをたたえました。父よ,人類が誕生する前に私があなたのそばで栄光を受けていたように,今,私をそばに置いて栄光をお与えください」。(ヨハネ 17:4,5)イエスは,復活して天で栄光を得たいと願っているのです。
とはいえイエスは,伝道活動で成し遂げたことを忘れていません。こう祈ります。「私は,あなたが世から取って託してくださった人たちにあなたのお名前を明らかにしました。この人たちはあなたのものでしたが,私に託してくださいました。彼らはあなたの言葉を守っています」。(ヨハネ 17:6)イエスは伝道の際,エホバという名前を発音する以上のことを行いました。その名前が表すもの,つまり神がどんな方で,どのように人間と接するかが理解できるよう,使徒たちを助けました。
使徒たちは,エホバについて,イエスの役割について,またイエスが教えた他の事柄について知るようになりました。それでイエスは謙遜にこう言います。「あなたが告げてくださった言葉を私が彼らに告げ[ました]。彼らはそれを受け入れて,私があなたの代理として来たことを本当に知り,あなたが私を遣わされたことを信じました」。(ヨハネ 17:8)
それからイエスは,弟子たちと世の違いについてこう言います。「彼らに関してお願いします。世に関してではなく,私に託してくださった人たちに関してです。彼らはあなたのものだからです。……聖なる父よ,あなたは私にあなたのお名前を託してくださいました。そのお名前のためにこの人たちを見守ってください。私たちが一つであるように,彼らも一つになるためです。……私は彼らを守り,誰も滅びていません。あの者だけは滅びましたが」。あの者とは,イエスを裏切るユダ・イスカリオテのことです。(ヨハネ 17:9-12)
イエスはさらに祈ります。「世の人々は彼らを憎みました。……この人たちを世から取り去ることではなく,邪悪な者から守ってくださることをお願いします。私が世の人々のようではないのと同じように,彼らも世の人々のようではありません」。(ヨハネ 17:14-16)使徒たちも他の弟子たちもサタンの支配する社会で生活しています。しかし,世とその悪から離れていなければなりません。どうすればよいのでしょうか。
聖なる人でなければなりません。ヘブライ語聖書に記されている真理と,イエスが教えた真理を当てはめることによってそうできます。イエスはこう祈ります。「真理によって彼らを神聖なものとしてください。あなたの言葉は真理です」。(ヨハネ 17:17)後に,ある使徒たちは聖書の一部を書き記します。その書も,人を神聖なものとするのに役立つ「真理」に含まれることになります。
「真理」を受け入れる人たちがさらに現れるので,イエスはこう祈ります。「この人たち[11人の使徒たち]だけでなく,彼らの言葉によって私に信仰を持つ人々についてもお願いします」。イエスの願いは何でしょうか。「彼ら全員が一つになり,父よ,あなたと私が結び付いているように,彼らも私たちと結び付いているため……です」。(ヨハネ 17:20,21)天の父とイエスは,全ての点で同意しているという意味で,一つです。イエスは弟子たちも同じように一つになることを祈っているのです。
イエスはその少し前,ペテロや他の使徒たちに,あなたたちのために場所を整えに行く,と言いました。天の場所のことです。(ヨハネ 14:2,3)イエスはその点を再び取り上げて祈ります。「父よ,私に託してくださった人々が私のいる所に一緒にいるようにと願います。世が始まる前に私を愛して与えてくださった栄光を彼らが見るためです」。(ヨハネ 17:24)ここでイエスは,ずっと昔から,アダムとエバに子供ができる前から,自分が神に愛されてきたことを示しました。
イエスは祈りの最後に,父の名前と神の愛を再び強調します。その愛は,使徒たちと,これから「真理」を受け入れる他の弟子に対するものです。「私はあなたのお名前を彼らに知らせました。これからも知らせます。あなたが私を愛してくださったように彼らが愛を示し,私が彼らと結び付いているためです」。(ヨハネ 17:26)
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深い悲しみの中で祈るイエス 道,真理,命
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123章
深い悲しみの中で祈る
マタイ 26:30,36-46 マルコ 14:26,32-42 ルカ 22:39-46 ヨハネ 18:1
ゲッセマネの園でのイエス
イエスの汗が血のようになって滴り落ちる
イエスは忠実な使徒たちとの祈りを終えます。そして,「皆で賛美の歌を歌ってから,オリーブ山に出て」いきます。(マルコ 14:26)イエスは使徒たちと東に向かい,よく時間を過ごしたゲッセマネと呼ばれる園に行きます。
オリーブの木に囲まれた気持ちの良いこの場所に着くと,イエスは恐らく園の入り口付近に,使徒たちのうち8人を残します。そして,「私が向こうに行って祈りをする間,ここに座っていなさい」と言います。それから,ペテロとヤコブとヨハネを連れてさらに進んでいきます。イエスはひどく苦悩し,3人にこう言います。「私は悲しみのあまり,死んでしまいそうです。ここにとどまって,私と共にずっと見張っていなさい」。(マタイ 26:36-38)
イエスは少し離れた所に行き,地面に伏して祈り始めます。この緊迫した状況で何を祈るのでしょうか。イエスはこう言います。「父よ,あなたには全てのことが可能です。この杯を私から取り除いてください。それでも,私が望むことではなく,あなたが望まれることを」。(マルコ 14:35,36)これはどういう意味でしょうか。贖いになるという役割を果たせないということですか。そうではありません。
イエスは,ローマ人が人々をむごい仕方で殺すのを天から見てきました。今,イエスは地上にいる人間です。恐れや不安といった感情があり,痛みも感じます。ですから迫りくる死を楽しみにしているはずがありません。しかしイエスを一番苦しめているのは,卑劣な犯罪者として殺されるなら,天の父の名に非難が浴びせられるのではないかということです。あと数時間もすれば,神を冒瀆したとして杭に掛けられるのです。
イエスが長い祈りを終えて戻ると,使徒たちは3人とも眠っています。イエスはペテロにこう言います。「私と共に1時間見張っていることもできなかったのですか。ずっと見張っていて絶えず祈り,誘惑に負けないようにしていなさい」。しかしイエスは,彼らが大きなストレスを感じていて,夜も遅いことを考え,「もっとも,心は強く願っていても,肉体は弱いのです」と言います。(マタイ 26:40,41)
イエスはもう一度離れた所に行き,「この杯」を自分から取り去ってくださるよう神に祈ります。それから戻ってくると,誘惑に負けないよう祈っているべき3人がまたもや眠っています。彼らはイエスから話し掛けられても,「何と言っていいか分か」りません。(マルコ 14:40)イエスは3度目にそこを離れ,膝をついて祈ります。
イエスがとても心配しているのは,犯罪者として死ねば父の名に非難をもたらすかもしれないということです。エホバはイエスの祈りを聞いていました。それで,天使を派遣してイエスを力づけます。その後もイエスは父に祈願をし,「さらに真剣に祈り続け」ます。とてつもないストレスです。イエスの肩には重圧がのしかかっています。自分自身の永遠の命と,イエスに信仰を抱く全ての人の永遠の命がかかっているのです。「汗が血のようになって地面に滴り落ち」ます。(ルカ 22:44)
イエスが3度目に使徒たちの所に戻ってくると,使徒たちはやはり眠っています。それでこう言います。「このような時に,あなたたちは眠って休んでいます! さあ,人の子が裏切られて罪人たちに引き渡される時が近づきました。立ちなさい。行きましょう。見なさい,私を裏切る人が近づいてきました」。(マタイ 26:45,46)
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キリストは裏切られ逮捕されるイエス 道,真理,命
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124章
キリストは裏切られ逮捕される
マタイ 26:47-56 マルコ 14:43-52 ルカ 22:47-53 ヨハネ 18:2-12
ユダは園でイエスを裏切る
ペテロはある男性の耳を切り落とす
イエスが逮捕される
真夜中をかなり過ぎています。祭司長たちは,イエスを裏切ることを条件にユダに銀30枚を支払うことに合意していました。ユダは祭司長たちとパリサイ派の人たちを大勢率い,イエスを捜しています。ローマ軍の軍司令官と兵士の一隊も一緒です。
ユダは過ぎ越しの食事の際にイエスから出ていくよう言われた後,真っすぐ祭司長たちの所へ行ったようです。(ヨハネ 13:27)祭司長たちは下役たちと兵士の一隊を招集します。ユダはまず,彼らをイエスと使徒たちが過ぎ越しを祝った部屋に連れていったのでしょう。それからキデロンの谷を渡り,ゲッセマネの園に向かいます。人々は武装し,たいまつやランプを持ってイエスを絶対に見つけようとしています。
ユダは先頭に立ってオリーブ山を登っていきます。イエスの居場所はあそこだという自信があります。先週,イエスと使徒たちはベタニヤとエルサレムを何度も往復した際,よくゲッセマネの園で休憩しました。しかし今は夜ですし,オリーブの木々のせいでイエスを見つけにくいかもしれません。イエスを一度も見たことのない兵士たちは,誰がイエスかどうしたら分かるのでしょうか。それでユダは合図を決めてこう言います。「私が口づけするのがその人だ。捕まえて,しっかりと引いていけ」。(マルコ 14:44)
ユダが人々を率いて園に入っていくと,イエスと使徒たちが見えます。それでユダは真っすぐイエスの所に行き,「こんばんは,ラビ」と言って,優しく口づけします。それに対しイエスは,「何のためにここにいるのですか」と言います。(マタイ 26:49,50)続けて,「ユダ,口づけして人の子を裏切るのですか」と言います。(ルカ 22:48)でも,ユダとこれ以上関わる必要はありません。
イエスはたいまつやランプの光の中に進み出て,「誰を捜しているのですか」と尋ねます。人々は,「ナザレ人イエスだ」と答えます。イエスは勇敢にも,「それは私です」と言います。(ヨハネ 18:4,5)人々は意表を突かれ,地面に倒れます。
イエスはこの時とばかりに闇に紛れて逃げるのではなく,もう一度彼らに,誰を捜しているのかと質問します。人々は,「ナザレ人イエスだ」と答えます。イエスは穏やかに,「それは私だと言いました。私を捜しているのであれば,この人たちは行かせてあげなさい」と言います。イエスはこのような状況でも,私は1人も失わないという,以前に語った言葉を実現させます。(ヨハネ 6:39; 17:12)イエスはこれまでずっと忠実な使徒たちを守ってきました。しかし,「あの者[ユダ]だけは滅び」ました。(ヨハネ 18:7-9)それで,イエスは忠節な弟子たちを行かせるよう求めます。
兵士たちは立ち上がりイエスに近づきます。使徒たちは状況を察知し,「主よ,剣で切り掛かりましょうか」と言います。(ルカ 22:49)イエスが答えるよりも先に,ペテロが自分たちで持っていた2本の剣の1つを振り下ろします。そして,大祭司の奴隷であるマルコスの右の耳を切り落とします。
イエスはマルコスの耳に触れて傷を癒やします。それからペテロに次のように命じて,大切な教訓を与えます。「その剣をさやに収めなさい。剣を取る人は皆,剣で滅びます」。イエスは逃げる気は全くありません。それで,「必ずこうなると述べる聖書の言葉はどうして実現するでしょうか」と言います。(マタイ 26:52,54)また,「私は父が与えてくださった杯を飲むべきではありませんか」と話します。(ヨハネ 18:11)イエスは,死に至るまで天の父の意志に従う覚悟でいるのです。
イエスは人々にこう言います。「私を捕らえるために,強盗に対するように剣やこん棒を持ってきたのですか。私は毎日神殿で座って教えていたのに,あなた方は私を捕まえませんでした。しかし,この全ては,預言者たちの記した事が実現するために起きたのです」。(マタイ 26:55,56)
兵士たちと軍司令官とユダヤ人の下役たちは,イエスを捕らえて縛ります。これを見た使徒たちは逃げていきます。でも,弟子のマルコと思われる「若者」は人々の後に付いていきます。(マルコ 14:51)ところが人々に気付かれ,捕まりそうになったため,亜麻布の服を残して逃げていきます。
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まずアンナスの所へ,その後カヤファの所へイエス 道,真理,命
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125章
まずアンナスの所へ,その後カヤファの所へ
マタイ 26:57-68 マルコ 14:53-65 ルカ 22:54,63-65 ヨハネ 18:13,14,19-24
イエスは元大祭司アンナスの所へ連れていかれる
サンヘドリンによる違法な裁判
イエスは普通の犯罪者のように縛られ,アンナスの所へ連れていかれます。アンナスは,少年イエスが神殿で教師たちを驚かせた時に大祭司を務めていた人物です。(ルカ 2:42,47)彼の息子たちの何人かは大祭司になり,現在は義理の息子カヤファが大祭司です。
アンナスがイエスを尋問している間に,カヤファはサンヘドリンを招集します。サンヘドリンは71人で構成されている法廷で,大祭司や大祭司の職に就いたことのある人たちが含まれています。
アンナスはイエスに「弟子たちや教えについて」質問します。イエスはただこう答えます。「私は皆の前で話してきました。全てのユダヤ人が集まる神殿や会堂でいつも教え,何もひそかに話したりはしませんでした。なぜ私に質問するのですか。私が話した事を聞いた人たちに質問しなさい」。(ヨハネ 18:19-21)
すると,そばに立っていた下役がイエスの顔を平手打ちし,「祭司長にそんな答え方をするのか」と言います。しかしイエスは,何も間違ったことをしてこなかったので,こう答えます。「私が間違ったことを言ったなら,何が間違っているのかを言いなさい。しかし,正しいなら,なぜたたくのですか」。(ヨハネ 18:22,23)それでアンナスはイエスを義理の息子カヤファの家に送ります。
この時までには,サンヘドリン全体,つまり現在の大祭司と民の長老たちと律法学者たちが集合していました。カヤファの家に集結したのです。過ぎ越しの晩に裁判を行うのは違法なことです。しかし,邪悪な目的を遂げようとする彼らは全く気にしません。
彼らは公正ではありませんでした。イエスがラザロを復活させた後,イエスを殺すことにしました。(ヨハネ 11:47-53)そして数日前,イエスを捕らえて殺そうと相談しました。(マタイ 26:3,4)ですから裁判が始まる前に,イエスの死罪は確定していたのです。
集まりが違法だっただけではありません。彼らはイエスが不利になるうその証拠を提出できる証人を探しています。大勢の証人を見つけますが,彼らの証言は一致していません。最後に2人の証人が進み出て,こう言います。「この者が,『人手によるこの神殿を壊し,人手によらない別のものを3日で建てる』と言うのを聞きました」。(マルコ 14:58)しかしこの2人の証言も,完全に一致しているわけではありません。
カヤファはイエスにこう質問します。「何も答えないのか。この人たちがあなたに不利な証言をしているが,どうなのか」。(マルコ 14:60)うその告発をする証人たちの発言を聞いても,イエスは黙ったままです。そこでカヤファは別の手を使います。
カヤファは,自分は神の子だと主張する人物に対してユダヤ人が過敏な反応を示すことを知っています。以前イエスが神のことを父と呼んだ際にも,ユダヤ人たちは「自分を神のような者としている」としてイエスを殺そうとしたことがありました。(ヨハネ 5:17,18; 10:31-39)カヤファはそうした事情を知っていたので,イエスに巧みにこう詰め寄ります。「生きている神に懸けて誓って言え,あなたは神の子キリストなのか」。(マタイ 26:63)これまでイエスは自分が神の子であると認めてきました。(ヨハネ 3:18; 5:25; 11:4)もし今黙ったままでそのことを認めないなら,自分が神の子またキリストであることを否定しているような印象を与えてしまいます。それでイエスはこう言います。「その通りです。あなた方は,人の子が強力な方の右に座り,また天の雲と共に来るのを見ます」。(マルコ 14:62)
これを聞いたカヤファは大げさに服を引き裂き,こう叫びます。「この者は冒瀆した! これ以上,証人が必要でしょうか。皆さんは今,冒瀆の言葉を聞きました。どう思いますか」。サンヘドリンは,「この者は死に値する」と答え,公正とは真逆の判決を言い渡します。(マタイ 26:65,66)
それから彼らはイエスをばかにし,こぶしで殴り始めます。イエスを平手打ちし,顔に唾を吐き掛けます。さらに,イエスの顔を覆ってから殴り,「預言してみろ! おまえを打ったのは誰か」という皮肉を言います。(ルカ 22:64)違法な裁判にかけられた晩,神の子はこうした侮辱を受けたのです。
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ペテロはイエスのことを知らないと言うイエス 道,真理,命
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126章
ペテロはイエスのことを知らないと言う
マタイ 26:69-75 マルコ 14:66-72 ルカ 22:54-62 ヨハネ 18:15-18,25-27
ペテロはイエスを知らないと言う
ゲッセマネの園でイエスが逮捕されると,使徒たちはイエスを見捨て,恐れのあまり逃げてしまいます。でも,彼らのうち2人は逃げるのを途中でやめます。ペテロと「もう1人の弟子」,恐らくヨハネと思われます。(ヨハネ 18:15; 19:35; 21:24)2人はイエスがアンナスの所へ連れていかれる時に追い付いたのでしょう。アンナスが大祭司カヤファの所へイエスを送る時にも,2人は離れて付いていきます。彼らは自分の命を心配する気持ちと,イエスに何が起きるのか不安に思う気持ちの間で揺れていたでしょう。
ヨハネは大祭司に知られていたので,カヤファの家の中庭に入ります。ペテロは外で戸口の所に立っています。すると,ヨハネが戻ってきて戸口番の女性に話してくれたため,中に入ることを許されます。
寒い晩なので,中庭にいる人たちは炭火をおこします。ペテロはイエスの裁判の「成り行きを見ようとして」,その人たちと一緒に座り,体を温めます。(マタイ 26:58)その時,ペテロを中に入れた戸口番の女性が火に照らされたペテロの顔を見て,「あなたもこの人の弟子ではないでしょうね」と言います。(ヨハネ 18:17)周りの人たちもペテロに気付き,あなたはイエスと一緒にいた,と言いだします。(マタイ 26:69,71-73。マルコ 14:70)
ペテロはこの状況にひどく動揺します。そこでペテロは,「その人を知らないし,あなたが何を話しているのかも理解できない」と言います。(マルコ 14:67,68)それだけでなく,「うそなら神罰を受けてもいいと誓い始め」ます。(マタイ 26:74)
その間も,イエスの裁判は進んでいます。裁判はカヤファの家の中庭の上にある階で行われていたようです。下で待つペテロや他の人たちは,さまざまな証人が出たり入ったりするのを見たでしょう。
ペテロのガリラヤなまりを証拠に,人々はペテロの主張がうそであると見破ります。さらに,そこにはペテロが耳を切り落としたマルコスの親族もいました。その人はペテロに対しはっきりと,「私は見た。庭園で彼と一緒にいたではないか」と言います。ペテロがそのことを3度目に否定すると,イエスが語っていた通り,おんどりが鳴きます。(ヨハネ 13:38; 18:26,27)
この時ちょうど,イエスは中庭を見下ろすバルコニーにいたようです。イエスは振り向き,ペテロを真っすぐに見ます。その視線はペテロの心に突き刺さったに違いありません。ほんの数時間前に,イエスが階上の部屋で言った言葉がよみがえります。自分がしてしまったことの重大さに気付き,ペテロがどれほど打ちのめされたか想像できるでしょうか。ペテロは外に出て激しく泣きます。(ルカ 22:61,62)
どうしてこうなってしまったのでしょうか。あれほど自分の信仰と忠節に自信を持っていたペテロが,なぜイエスを知らないと言ってしまったのでしょうか。イエスは自分の言葉を曲解され,卑しい犯罪者のように見なされています。無実のイエスに忠実であるべき時に,「永遠の命の言葉を持って」いる,まさにその人に背を向けてしまったのです。(ヨハネ 6:68)
ペテロの悲惨な経験から,どれほど強い信仰と忠節を示してきたとしても,突然生じる試練や誘惑に立ち向かう準備をしていなければ,倒れてしまう危険があると学べます。これは神に仕える人全てにとって大切な教訓です。
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