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    1977 エホバの証人の年鑑
    • 第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

      雑踏している都会と未開で住民のまばらな奥地,近代的な住宅とアフリカ式の粗末なわらぶき小屋,こうした興味深い対照の見られる国へわたしたちといっしょにいらっしゃいませんか。いろいろな人種の人々の間を歩き,彼らが話すことばを聞いてください。この国の人口2,600万のうち数百万人は英語かアフリカーンス語(オランダ語の古語に起源を持つ)を話し,残りの人々はホサ語やズールー語のような言語を日常語としています。

      これが南アフリカです。国土面積は約122万2,480平方㌔で,興味深い人々が住み,その多くは愛すべき人々です。その中には霊的に良い事柄を切望する人が少なくなく,彼らの願いはエホバのクリスチャン証人がふれ告げる聖書の真理によって満たされています。

      まず歴史を簡単にお話しすると,18世紀と19世紀の2世紀間,南アフリカは激しい戦争の舞台でした。中央アフリカから南下する黒人の“潮流”とケープ州から北上する白人の“潮流”がぶつかって血みどろの戦争をしたのです。最もひどかったのは,オランダ系の農民であるブール人と英国人との間で1899年から1902年にかけて戦われたブール戦争でした。その結果,ナタール州,オレンジ自由州,トランスヴァール州およびケープ州の4植民地は英国の支配下に入りました。1910年にその4植民地はひとつの国になり,50年後の1961年にはそれが,白人の過半数票を得て南アフリカ共和国となりました。黒人は,彼らの“故郷”すなわちアフリカ人の各部族に指定されている広大な地域の一部以外の土地で投票権を持っていません。

      短い旅行

      では南アフリカをかけ足で旅行してみましょう。アフリカ大陸の南端に近いケープタウンから始めます。ケープタウンは立法上の都であり,この国最古の都市です。北東約800㌔余りの地点には,オレンジ自由州の州都で司法上の都と考えられているブルームフォンテーンがあります。さらに北東にあるプレトリアはトランスヴァールの州都で,南アフリカ共和国の行政上の都です。

      南アフリカの地形で主な特徴となっているのは内陸台地です。土地は東部沿岸の平野から急に隆起しており,標高約1,500㍍から3,300㍍の大山脈をいくつか形成しています。台地は西に向かって次第になだらかになっています。かつてその大部分はインパラ,しま馬,とびれいよう,その他の美しい動物の大群がたくさんいるゆるやかな起伏の草原でした。今日では,内陸のかなりの部分が農地であり,野生動物のほとんどは,世界的に知られるクリューガー国立公園などの特別保留地にしかいません。しかし内陸北部は土地がさらに乾燥していてカラハリ砂漠になっています。北東部にはかん木の茂るブッシュフェルトがあります。

      オレンジ自由州のキンバリーはダイアモンド採鉱の中心地として世界的に有名です。ケープ州には,一連の鉱工業の町を総称した“鉱脈<リーフ>”の“女王”として知られる,同国最大の都市ヨハネスバークがあります。リーフは1886年にヨハネスバークで金が発見されたことによって存在するようになりました。同市から南東に空路で約480㌔ばかり行ったインド洋岸にダーバンがあります。そこでは色彩豊かなサリーをまとったインド婦人をたくさん見かけます。

      南アフリカには少なくとも9つの部族に分かれる1,250万人のアフリカ人が住んでいます。最大の部族はホサ族とズールー族で,それぞれ300万人を上回ります。次はバストー族,次いでツワナ族,ツォンガ族,スワジー族,ヌデベレ族,ヴェンダ族その他です。アフリカ人の“故郷”すなわち各部族に指定された広い地域には,アフリカの人口の半数余りが住んでいるにすぎません。そうした“故郷”や特別区の生活様式は普通きわめて原始的で,ほとんどの人は泥を主材とした壁とわらぶき屋根の小屋で生活しています。残りの人々は,ソウェトのようなアフリカ人の町で,地方自治体によって建てられたコンクリートとレンガの小さな家に住んでいます。アフリカ人の町はヨーロッパ人の市や町から数㌔離れたところにあります。政府は,人種集団をそれぞれ別個に独立して発展させるという政策を取っています。南アフリカはそのアパルトヘイトつまり人種差別政策のために厳しい批判を受けてきました。

      アフリカ人は,キリスト教世界の主要な宗派のほかに彼ら独自の宗教を持っています。キリスト教世界の主流をなす教理を信仰する人々がいるばかりか,アフリカ人の説教者多数がそれぞれ独自の宗教を始めました。その結果南アフリカには世界で最も多くの宗派,少なくとも2,000の宗派があります。キリスト教世界の教会のひとつに帰依していると唱えながら,たいていのアフリカ人は何らかの形で先祖崇拝をし,死者を恐れて生活しています。そのことは“故郷”において見られるだけではありません。最新型の自動車に乗る多くの近代的なアフリカ人が死んだ先祖の霊を慰めるために時折やぎを犠牲にささげます。

      世紀の変わり目にさかのぼる

      20世紀になったばかりのころ,南アフリカは今よりも人口が少なく,のんびりしていて生活もずっと単純でした。国はブール戦争からちょうど回復しつつあり,この魅惑的な畑に良いたよりが届くのに機は熟していました。

      1902年のこと,オランダ改革派教会のある牧師が,任命地であるトランスヴァール州のクラークスドープにオランダから派遣されました。彼は古本の宗教書を一箱携えてきたのですが,その中に「聖書研究」と題する本,英語の「シオンのものみの塔」,「聖書は地獄についてなんと教えているか」と題する小冊子が含まれていました。フランス・エバーソーンとストッフェル・フーリエはクラークスドープでその牧師に会いました。ふたりは彼の蔵書を見せてもらって,前述の出版物にたいへん興味を持ち,蔵書から持って行ってもよいとの許しを得ました。ふたりはその出版物に書いてある真理に深い感銘を受け,新たに会衆を組織することにしました。彼らが「ボルヒード・ヴァン・クリストス」(キリストの満ち満ちたさま)と呼んだその会衆は南アフリカにおける王国の音信の一番最初の足がかりでした。

      そのふたりは集会を開いたり,戸別に訪問して良いたよりを広めたりし始めました。1903年にフランス・エバーソーンはものみの塔聖書冊子協会の初代会長C・T・ラッセルに手紙を書き,「巡礼者」すなわち協会の特別な代表者を南アフリカに派遣してほしいと頼みました。ラッセル兄弟は,今は事情が許さないが,できるだけ早く派遣しようと返事をしました。

      1906年にスコットランドのグラスゴーからダーバンに移民したふたりの姉妹は良いたよりを非常に熱心に広めました。まもなく,他の人々がその町で真理に関心を抱き,1906年の末までには南アフリカに「シオンのものみの塔」の予約購読者が40名いました。

      1907年にはジョセフ・ブースというある「尊師」が南アフリカにおける王国活動の舞台に登場します。彼は英国に生まれ,29歳の時にニュージーランドに移って牧羊業を営み,その後オーストラリアで商売を始めました。ブースはバプテスト教会に入り,しはらくしてアフリカで宣教師になることが神の命であると感じました。そして,1892年に自立した宣教師としてニアサランド(現在のマラウィ)に着きました。彼はアフリカ人のための平等および「アフリカ人のためのアフリカ」という思想に情熱を燃やして,様々な「工業伝道団」を設立しました。

      1900年までにブースは彼の伝道団のほとんどと手を切ってアメリカに2,3度旅行し,そこでセブンスデー・バプテスト派に改宗しました。その後まもなく彼はその安息日派の伝道団を設立するためにニアサランドに戻りました。ほどなくしてセブンスデー・バプテスト派といざこざを起こした彼は,セブンスデー・アドベンティストとつながりを持ち,その派の伝道団を設立しました。アフリカの社会改革という彼の企ては政府当局者からひどくきらわれたため,ブースは政府当局者とも争いを起こしました。1906年にブースはキリスト教会に関心を持つようになり,英国のキリスト教会からは拒絶されたにもかかわらず,南アフリカのキリスト教会ケープタウン支部からいくらかの応答を得ました。そして同教会がニアサランドで伝道団を設立するのに尽力しました。「インディペンダント・アフリカ」と題する刊行物によれば,ブースは「宗教のヒッチハイカー」のように宗派から宗派へ渡り歩きました。

      1906年末ころ,スコットランドにいたブースはラッセル兄弟の著作を数冊読み,まもなくアメリカに行きました。彼はラッセル兄弟に面会を申し込んだのです。ふたりの話し合いは非常に興味深く重大な討議になりました。ラッセル兄弟はブースの背景およびアフリカ人にアフリカを復帰させるという彼の主な意図についてほとんど知らず,また彼がニアサランドですでに役人や白人から好ましくない人物として見られていることや自分の企てを財政的に支えるため様々な宗教組織を利用したことなどを知るよしもありませんでした。そのうえ,ラッセル兄弟は広い区域を新たに開発する人物をぜひ欲しいと考えていました。それで協会はしはらくの間,ブースが宣教者として彼の知り合いの人々に伝道する経費をまかないました。

      そのために多くの問題が起きることや,協会の名前に非常な非難がもたらされることなど,ラッセル兄弟は少しも気がつきませんでした。ともかく1907年の初めにジョセフ・ブースはアフリカに戻り,ケープタウンおよび南アフリカの他の場所で活動を開始しました。ニアサランドで好ましからざる人物であったブースは,長い間そこへ戻らなかったようです。ただし手紙を書いたり使いを送るなどしてニアサランドの区域と緊密な連絡を取り,その地に多大な影響を与えました。

      1908年6月1日付の「シオンのものみの塔」誌には,L・ド・ビアの署名が付されたラッセル兄弟あての手紙が掲載されましたが,その手紙から当時どんなことが起きていたかを幾分知ることができます。それは一部次の通りです。「わたしはあなたが著された6冊の本にたいへん興味を感じております。また,わたしのふたりの兄弟も同様に興味を抱いております。そのひとりはオランダ教会の牧師で,読書家というだけでなく思索家です。彼は名誉退職してトランスヴァール州のプレトリアに住み,依頼を受けて説教をするかたわらオランダ教会の新聞の編集をしています。……

      「それからブース兄弟とわたしの共通の友人であるJ・H・オール尊師がいます。彼は(当地の郊外にある)ウィンバークの独立組合教会の牧師で,あなたの著書に書かれている新しい真理の一部をすでに伝道しています。

      「すでにお聞き及びの通り,わたしを含め全員が千年期の音信に関心を抱く非常に気持ちのよいささやかな仲間は,オール兄弟の教会に集って過ぎ越しを祝いました。5人のヨーロッパ人と29人の原地人からなり,3か国語で司会されたその集まりは感銘の深い大切な時となり,わたしたちの人生に新時代を招きました」。

      「ものみの塔」誌の1909年1月15日号には南アフリカの業に関するさらに多くのニュースが掲載されており,それは次のように報告しています。「真理を原地人に伝道している3人の黒人の兄弟がいます。そのひとりは音信を伝えるために約3,200㌔北方にある自分の郷里に行きました。この兄弟は若いにもかかわらず原地人の言語を数種類話すことができ,英語をすらすらと上手に書きます。彼から寄せられた最新の報告は大いに励ましとなります。原地人は,大いなる喜びの良いたより,回復の音信に対して耳を開いているようです」。

      約3,200㌔の旅をして北方の郷里に行ったと言われている若いアフリカ人はエリオット・カムワナでした。カムワナはトンガ族の出身で,ニアサ湖の西岸にあるバンダウェでリビングストン伝道団(スコットランド長老派)の教育を受けました。しかし彼は1900年にニアサランドのブランティールでブースに会い,ブースが設立したセブンスデー伝道団のひとつで2年後にバプテスマを受けました。その後南アフリカに来てしばらくの間鉱山で働き,ケープ州で再びブースに会いました。カムワナは,数か月間ブースのもとに滞在して幾らかの知識を得た後自分の国に帰ったものと思われます。ブースは1909年7月1日号の「ものみの塔」誌上で,ヨハネスバーグとプレトリアにおいてアフリカ人に冊子を配布したことを詳述し,次いでこう語っています。

      「彼らは,自分たちの故国ニアサランドでエリオット・カムワナ兄弟がふれ告げていると話に聞いたものと同じ音信が当地にもたらされたことを大いに喜んでいます。

      「ここにわずか3か月の間いるひとりの人は,エリオットが1日に300名の人にバプテスマを施したのを見たと言っています。また別の人によれば,ある所には700人の信奉者がいるとのことです。また,ニアサランドの約30か所には,『神の計画』を長老派や英国国教会よりもよいとして受け入れた3,000人にも上る人々がいることも聞きました。全員が必ずしも先に述べた人々ほどの関心を示しているわけではないが,幾らかの関心を持つ人が9,000人ばかりいることをエリオット兄弟自身も報告しています」。

      ラッセル兄弟は,同報告の終わりころに,ニアサ湖のバンダウェのカルビン派スコットランド人伝道団の扇動でエリオット・カムワナが逮捕されたという真新しいニュースを含め,「カムワナ兄弟は昨年9,126名の人々にバプテスマを施しました」という短いことばでその報告を結んでいます。

      そうした途方もない数字に関しては何の注解もなされていません。当時アメリカ全土でもバプテスマを受けた人の数はそれよりずっと下回っていました。ところで,カムワナはなぜ,またどんな方法を用いてそのような記録を作ったのでしょうか。

      「ものみの塔運動」が始まる

      実際,ブースもカムワナも偽りの宗教である大いなるバビロンをほんとうに離れておらず,聖書研究者もしくはエホバのクリスチャン証人になったとは決して言えませんでした。ふたりはわずかな期間,しかも表面的にものみの塔協会と関係を持ったにすぎません。1900年代の初期に真理を知っていたマージョリー・ホリデイ夫人は,ブースがダーバンの2階の部屋で開かれていた兄弟たちの集会をしばしば妨害しようとした話をしてくれました。わたしたちのクリスチャン姉妹である彼女はこう語ります。「たとえばこうです。わたしたちが『律法からの自由』という歌をうたっていると,彼は外に陣取って『律法から自由ではない』と応酬しました」。

      ですから,ブースの霊的な見習生であるエリオット・カムワナが,協会の出版物に示されている真理を非常にゆがめて理解していたとしても不思議ではありません。しかし,彼がニアサランドに戻って実際に何を伝道したかは現在知るすべもありません。彼の運動の著しい特徴は屋外の劇的なバプテスマにあったということは間違いがないようです。とはいえ,カムワナが施したバプテスマは,エホバのしもべが行なう真のクリスチャンのバプテスマと何の関係もありません。カムワナがどんな話をし,どんな方法を用いたにせよ,彼の運動は長続きせず,だいたい1908年の9月から1909年の6月に至る短いものでした。政府が介入して彼を投獄し,その後セーシェルズ諸島に追放したのです。彼は1937年までニアサランドに戻ることが許されませんでした。しかしその年に帰った彼は,偽りの「ものみの塔運動」のひとつを引き続き指導しました。

      非常に残念なことですが,カムワナが行なった事柄のために,中央アフリカの状況は長い間混乱をきわめました。ラッセル兄弟の著書をわずかばかり利用した幾つかの運動が興りました。それらは独自の考えややり方に幾らかの真理を混ぜていました。それで多くの人々は惑わされて道を誤ったのです。そうした運動のすべてが「ものみの塔」もしくは「ものみの塔協会」という名前を用いたわけではありません。事実,カムワナが率いる運動はやがて「物見の伝道団」という名前になりました。

      ずっと後の1947年,それら偽りのものみの塔の分派がなお幾らかの混乱を引き起こしていたため,ニアサランドの王国伝道の業を監督していた兄弟たちはカムワナに手紙を書き送りました。署名入りの自筆の返信の中で,彼はこう述べています。「ニアサランドの黒人もヨーロッパ人も,物見の伝道団がヨーロッパ人のものみの塔聖書冊子協会と関係のない別個のものであることを知っているので,物見の伝道団(ムロンダ伝道団)はうわさに浪費する時間を持ち合わせていません」。

      したがって事実からきわめて明らかな通り,カムワナはエホバの献身した真のしもべなどではありませんでした。また,彼が,様々な偽りの「ものみの塔運動」結成の先がけ,もしくは原因となったことは明らかで,事の発端は彼が1909年に行なった「火のように激しい」運動にあるようです。その時ニアサランドにいた,ヨハネスバークに住むアフリカ人のヌグルー兄弟はカムワナの運動が「草に付いた野火」のようだったと語っています。当時,大勢の人々が仕事と良い給料を目当てにニアサランドから移住しました。偽りの「ものみの塔運動」がそうした方法でローデシアやコンゴ一帯および南アフリカにまで広がったことは明らかです。

      ダーバンは音信を聞く

      ここで1906年当時のダーバンに戻りましょう。マージョリー・ホリデイと彼女の母親はモートンという夫人の隣りに住んでいました。スコットランドのグラスゴーにいたアーノット姉妹は実の姉妹であるモートン夫人に小冊子やパンフレットを絶えず送っていました。モートン夫人は,それらの小冊子をマージョリー・ホリデイの母親,アグネス・バレット夫人に回し,やがてふたりとも真理を受け入れました。その時ダーバンにはスコットランドから来たテイラー姉妹もいました。少し後にアーノット姉妹とその家族はグラスゴーからダーバンに移住することを決心しました。それで,ホリデイ姉妹によれば,ダーバンで実際に業を始めたのはアーノット,テイラー,モートンおよびバレットの4人の姉妹たちでした。真理を広めるために彼女たちが用いた主な方法のひとつは,海岸にいる人々に小冊子とパンフレットを手渡すことでした。

      マージョリー・ホリデイ自身は10歳の時,長老派教会に脱退届を書いて大いなるバビロンから離れ,はっきりした立場を取りました。彼女は,1910年にアメリカの黒人のワイチュス兄弟がダーバンの小さな群れに加わったことも伝えています。ホリデイ姉妹は同兄弟がそこで非常に成功したと言ってから,一大事件が起きたことを話してくれました。ラッセル兄弟によるものと思われますが,明らかにワイチュス兄弟はアメリカに召還されました。ところが船がダーバンを出る直前に,兄弟はブースに誘かいされ,一室に監禁されてしまったのです。(ブースがなぜそうしたかは不明です。)ともかく,ダーバンの姉妹たちはワイチュス兄弟が閉じ込められている場所をやっとのことでつきとめ,バレット姉妹が兄弟を救い出すことに成功して,兄弟が乗船できるように波止場まで安全に送り届けました。

      1910年までに良い種が幾らかまかれましたが,南アフリカでは奇妙な事が起きていました。ニアサランドの状況はかんばしくなく,ブースはダーバンで問題を起こしていました。円熟し信頼のできる人がこの広大な区域における王国の業を監督することは是非とも必要でした。

      転換点

      1910年は南アフリカにおける王国の業の新しい章が始まった年です。その時までにブースは,協会に関する限り終わりを遂げていました。この年の半ばころにラッセル兄弟は,30代の初めと思われるウィリアム・W・ジョンストンを派遣しました。彼はグラスゴー出身のスコットランド人であり,気まぐれで風変わりなブースとは正反対の,まじめで注意深く,信頼のできる人物でした。グラスゴーで数年間長老をしていたジョンストン兄弟は神のみことばに対する造けいが深く,すぐれた話し手でもありました。彼は,ブースの英雄的行為によってひどくゆさぶられたアフリカの区域で是非とも必要とされた「人びとの賜物」のひとりでした。(エフェソス 4:8)ジョンストン兄弟の主な使命はニアサランドに行って実情を調べ,兄弟たちに援助を差し伸べることでした。

      ニアサ湖を発見した最初の白人は有名な探検家で宣教師のデイビッド・リビングストンです。それは1859年のことでした。その後国土は,スコットランド長老派やローマ・カトリック教会の宣教師により白人の居住地を求めて開拓されました。そして1891年にそこは英国の保護領となり,英領中央アフリカの一部となりました。ジョンストン兄弟が旅行した当時,ニアサランドの人口は約100万人で,白人の居住者はほとんどいませんでした。

      ニアサランドに4か月ほど滞在したジョンストン兄弟は,100に近い村にそれと同数の教会があり,「真理を示す」という義務を負っている原住民が幾千人もいると報告しました。(ペテロ第二 1:12,欽定)彼は,「真理をかなりよく理解」している人が幾らかいるのを知りましたが,全体的な傾向には非常に失望しました。

      ジョンストン兄弟は次のように語っています。「すべての牧師や教師に基金を寄付し,彼らに協会の有利な仕事を与えるためにお金をどっさり持ってわたしが現われた,とも考えた人々が中にはいたようです。わたしはその考えが間違っていることをその人たちに悟らせなければなりませんでした。……言うのも残念ですが,個々の兄弟たちとの交渉において,最後にはほとんどきまって何らかの形で財政援助をしてほしいと頼まれました」。彼はまた,ブースの影響が「ニアサランドで顕著」であることも知りました。7日目の安息日を守っている人たちがいたのです。「わたしはその問題に関する真理を示すべく自分にできるだけのことをしました。そして神のご援助によって少なくともそのうちの幾らかの人を束縛から解放することができました」,とジョンストン兄弟は述べました。

      ジョンストン兄弟は組織らしきものを設立すべく努力し,安息日の問題を解決したあと,教え手として数人の原地人を選びました。彼はまた,多くの人々が「神のみことばに精通したいという強い願いにあふれている」ように見えたことを喜びました。南アフリカに戻ってしばらくの間,彼はニアサランドのそうした人々から報告を受け取りましたが,数年後には連絡がほとんど途絶えてしまいました。ブースとカムワナが始めた運動は15年間全く野放しにされていました。そうした状況が誤った土着の「ものみの塔運動」を生んだのも不思議ではありません。

      広大な区域を持つ小さな支部事務所

      1910年にダーバンに戻ってまもなく,ジョンストン兄弟はダーバンでものみの塔協会の支部事務所を開設するようにという指示をラッセル兄弟から受け取りました。職員がひとりしかいない新しい支部はダーバンのスクール・レインにある小さな部屋に過ぎませんでした。その部屋は事務所として使われ,時には集会場所にもなりました。しかし,その支部が管轄していた区域は途方もなく広く,おおざっぱに言って,赤道の南側のアフリカ全体を含んでいました。実際のところ,同支部管轄下の区域の中には,コンゴ,ウガンダおよびケニアなどのように赤道の北側にまで及ぶ所もありました。そのほかに含まれていたのは,インド洋上のモーリシャス島,モザンビーク海岸沖の大きなマダガスカル島(マラガシー共和国),大西洋の数百㌔沖にあるセントヘレナおよびギニア湾のサントメ島でした。しかしながら,預言者ゼカリヤの次のことばは確かです。『誰か小さき事の日をいやしむる者ぞ』― ゼカリヤ 4:10。

      努力は実る

      ワイチュス兄弟のような謙そんな人の働きを侮るべきではありません。ある時同兄弟はダーバンで一軒の家を訪れ,「聖書研究」と題する本の全巻を配布しました。求めた婦人は自分ではそれを読みませんでしたが,ほどなくして娘のトンプソン夫人がグラスゴーへの船旅にそれを持って行き,旅行中に読みました。グラスゴー滞在中,ある人が訪れてチャールズ・T・ラッセルによる講演会の宣伝ビラを置いて行きました。トンプソン夫人が行ってみると,会場は大入り満員で夫人の入る余地がありませんでした。しかし,その時兄弟たちがオーケストラ・ボックスを開放してくれたので,トンプソン夫人はよく見える席で公開講演を聞き,大いに楽しみました。グラスゴーの一姉妹は夫人の南アフリカの住所を得,やがてW・ジョンストン兄弟が彼女を再訪問しました。トンプソン夫人は真理を受け入れ,ほどなくしてバプテスマを受けました。彼女は,1965年に98歳で亡くなるまで長年の間忠実で活発な伝道者でした。また夫人の娘とふたりの孫娘も熱心な証人になりました。ですからワイチュス兄弟が行なった訪問はたいへん実りの多いものとなりました。

      その間ダーバンではジョンストン兄弟が毎日曜日の晩定期的にスミス通りのマソニック・ホールで聖書の講演をしていました。それまでのところ聴衆はほんの少数でしたが,その中にマイアダルという名前のノルウェー人がいました。彼の妻はセブンスデー・アドベンティストの忠実な信者で,ふたりは幾晩も教理について論じ合いました。ついにマイアダル氏はその話し合いに勝ち,まもなく彼と彼の妻および息子のヘンリーはジョンストン兄弟の講演を定期的に聴きに行くようになりました。三人は「公開聖書研究会」と呼ばれた日曜日の午前中の集会にも出席し始めました。

      1911年からはまた,南アフリカでアフリカ人が真の関心を示したというはっきりとした記録があります。ダーバンから約48㌔離れたヌドウェドウェというアフリカ人の小さな郡のエレミヤ・クールースは,ヨハネス・チャンジェと呼ばれるひとりの男の人がケープタウンからそこへ来た時のことを覚えています。チャンジェはケープタウンで真理の知識を得,ヌドウェドウェの自分の郷里でそれをぜひとも広めたいと思っていました。エレミヤ・クールースの父親は大いに関心を抱き,地獄に関する新しい教理については特にそうでした。こうして聖書研究が始まり,しかも毎晩行なわれました。その小さな群れには大勢の人が交わりました。彼らは研究の資料として「聖書研究」を用いました。その人たちは数か月後にはすでに,教会に行っている他の人々に伝道するようになっていたので,土地の僧職者は心配し始めました。その結果,ウェスレイ派のメソジスト教会の会員は一緒に集まって問題を話し合いました。いろいろ論じ合われた末,新たに真理に関心を抱いた人々は教会から破門されました。彼らの集まりは恐らく,南アフリカで組織された真の崇拝者のアフリカ人の会衆の最初のものだったでしょう。

      ジョンストン兄弟は1911年に多忙をきわめました。彼はトランスヴァール州のヨハネスバーグとオレンジ自由州のペリーに特別の旅行をしました。彼はヨハネスバーグで多くの訪問を行ない,その結果「バイブル・クラス」の集会が取り決められました。ペリーの公会堂では非常に良い集会が開かれました。市長が講演者を紹介し,市長代理がその話をオランダ語で通訳し,約250名の人々が聴いたのです。ジョンストン兄弟が当時神の民によって世界的に行なわれていたクラス拡大の業に忙しく働いていたことは明らかです。まもなく,プレトリア,バルフォア,ポート・エリザベスおよびヌドウェドウェでも集会が開かれるようになりました。

      エホバのしもべは,少数ではありましたが,聖書の重大な音信を広めるために非常な努力を払いました。1913年2月1日号の「ものみの塔」誌に載せられた,南アフリカにおける業に関する1912年度の報告によれば,彼らは「一般人伝道者」と題する小冊子の英語版2万8,808冊,「万人の新聞」と題する小冊子の英語版3万冊,「一般人伝道者」のオランダ語版3,000冊を配布しました。また興味深いことに,1913年11月15日号の「ものみの塔」誌には文書がズールー語で入手できるとの短い知らせが出ています。良いたよりは南アフリカの多くの人々に知らされつつありました。

      さらに,そのころ,ラッセル兄弟の説教が新聞に定期的に掲載されていました。1913年12月15日号の「ものみの塔」誌によれば,英国,南アフリカおよびオーストラリアの約600の新聞社が毎週彼の記事を印刷しました。全世界ではそれがほぼ2,000社に上りました。ジョンストン兄弟は南アフリカで説教の出版代理機関を組織し,1913年の末までに同国の11の新聞社は4か国語で説教を掲載していました。

      1914年が来た!

      月日がまたたく間に過ぎて,1914年に入りました。当時世界中の兄弟たちはその年に何が起きるかをいぶかっていたに違いありません。南アフリカの兄弟たちはその日付を大いに意識していました。そうした人々の中にダーバンのマイアダル家族もいました。ヘンリー・マイアダルはこう語っています。「わたしは1914年8月4日という日をよく覚えています。その日母は新聞を読みながら,わたしたち家族の者に,『ほらこれ! 戦争が起きたのよ。ラッセル師の本に出ていたとおりだわ』と言いました」。

      海の向こうの英国では多くの人が関心を持って世界の出来事を見守り,「しるし」を認めていました。ジョージ・フィリップスという名の若い兄弟もそのひとりでした。彼は16歳の少年で,英国ファーネスのバロウで聖書文書頒布者をしていました。ジョージはその時,南アフリカにおける王国の業の発展に自分が重要な役割を演じようとは少しも知りませんでした。

      北のニアサランドで真理に誠実な関心を抱いていた多くのアフリカ人もその日付に注意していました。ドイツ人はタンガニーカ(当時のドイツ領東アフリカ)の国境を越えたばかりであり,英国軍は国境を守る準備をしていました。ある人々は聖書の預言が成就しつつあることに気づいていました。

      「独立したアフリカ人」と題する本の230ページは次のように述べています。「アフリカ人自身,戦争が彼らにもたらした不安定な状態に関する独自の記録を残した。実際,多くの人々にとって,世界が1914年10月に終わるというものみの塔の預言はまさに成就しようとしているように思われた」。そのことを確証していたのは,ニアサランドのアチャーワという兄弟がラッセル兄弟に送った手紙です。(1914年9月1日号の「ものみの塔」誌に掲載)その手紙にはなかでも次のように書かれていました。「聖書によれば確かにわたしたちは終わりの時代に住んでいます。……しかし,わたしたちは聖書の中で,救出者が訪れ,神の王国が到来し,諸国家すべては我らの神の方法を知ること,しかし,邪悪な者たちを神は滅ぼされることを読んでいます」。その手紙は続いて集会の模様を伝え,特別な場合には一度に何百人もの出席者があることを述べています。

      「最初の南アフリカ大会」

      この見出しのもとに,1914年8月15日号の「ものみの塔」誌はジョンストン兄弟の手紙を載せました。彼は次のように書きました。

      「国際聖書研究者協会の最初の南アフリカ大会は今や歴史にその記録をとどめ,出席する特権にあずかった人々にすばらしい思い出となりました。その思い出は,幕の向こう(天)における,あらゆる大会中最もすばらしい大会に行くまで刺激となり励みとなるものです」。

      ジョンストンは続けて,その大会がダーバンで4月10日に開かれたこと,人々が亜大陸のあらゆる場所からやって来たことを述べ,「1,600㌔近くも旅行したひとりの姉妹」についてふれています。ジョンストンはまた,「わたしたちは全くのところほんとうに『小さな群れ』で,最大の出席者数は34名でした」とも語りました。ジョンストン兄弟が34名と言ったのは聖書研究者のことで,公開講演の出席者はおよそ50名でした。出席者数から考えるとバプテスマを受けた人の数は多く,合計16人でした。兄弟たちは同じ週の週末にキリストの死の記念式をも行ない,32人が表象物にあずかりました。それらの兄弟にとって,57年ほど後(1971年)にヨハネスバーグで大会が開かれ,出席者の合計が5万人近くに及ぶことなど思いもよらないことでした。このことは確かに,『小さきものは千となる』という預言を思い出させます。―イザヤ 60:22。

      いわれのない非難

      1915年の最初の数週間,ニアサランドは暗たんとしていました。すでにその時までに英国とドイツは国境で激しく戦闘を交え,その結果英国は勝利を得ていました。その闘いでアフリカ人の死傷者が多数出ましたが,さらに悪いことが続きました。1月23日に,アフリカの一宗派の教育ある指導者ジョン・チレンブウェに率いられた大規模な暴動がアフリカ人の間で起こったのです。彼は土地のヨーロッパ人数名を殺害し,全国的な暴動を起こそうとしました。しかしその企てはアフリカ人部隊とヨーロッパ人の将校および自発的な人々によってすぐに鎮圧されてしまいました。

      ところが,後に,ものみの塔協会がその反乱と関係したという非難がなされたのです。事実,「第一次世界大戦の歴史」と題する公式の出版物は,チレンブウェのことを「いわゆる『ものみの塔』派に属する……狂信者」であるとしています。その後注意深い調査によって,真理に関心を抱くニアサランドの人々,また,カムワナの運動,すなわち偽りの「ものみの塔運動」の人々さえそれ自体としてはその暴動と直接関係がない,もしくはそれに対する責任がないことが証明されました。「独立したアフリカ人」という本はこの件に関する証拠を徹底的に調査し,324ページで次のような結論を述べています。「チレンブウェ自身はアメリカ人のものみの塔運動と何ら明らかな関係を有していなかった。彼の反乱計画とアメリカの同組織とを関連づけようとするのは間違いであると思われる」。チレンブウェはブースの改宗者のひとりであり,ブースはかつて協会と多少関係を持っていましたから,当然,真理の敵対者たちはその事実を使って非難し,協会を他人の身代りにしようとしたのです。実際,チレンブウェと彼の副官は非常に重んじられていた正統派の伝道団の成員でした。それらの伝道団も政府から激しく批判されました。

      「独立したアフリカ人」の232ページには,また,ものみの塔協会の出版物は数人のアフリカ人に影響を与え暴動に参加させたという偽りの非難に関して興味深い注解が述べられています。「しかし,彼の教えの信者は千年期を迎える準備として現在の諸制度の転覆を早めるために積極的な行動を取るべきであると示唆している箇所は,ラッセルの著作のどこにもない(下線は発行者)点にも注目しなければならない。それどころか信者たちは神が介入されるのを忍耐強く待つように勧められているのである」。

      拡大は続く

      数か月後ダーバンにおいて兄弟たちはもう一度非常にすばらしい大会を開きました。その大会も死の記念式と合わせて開かれ,47名の人が表象物にあずかりました。ズールー語のクラスにはヌドウェドウェで38人,ヨハネスバーグで15人,ケープタウンで8人,ダグラスで6人,バルフォアで2人が出席しました。

      1914年は到来し,そして過ぎ去りました。世界の出来事は預言の著しい成就となっていましたが,業はまだ終わっておらず,なすべきことはさらに多くあるように思われました。ジョンストン兄弟はラッセル兄弟にあてた手紙の中で「昨年は個々の人々にとってもクラス(すなわち会衆)にとっても試練や試みの続いた年でした」と述べました。しかしながら,1915年度の南アフリカにおける活動の報告を見ると,4,700冊を上回る書籍が配布され,無料の文書が7万5,131部配られ,312の集会が開かれました。業が停止することは決してありませんでした。

      「創造の写真-劇」

      1916年に「創造の写真-劇」が南アフリカに着きました。これはスライドと映画と録音を組み合わせたもので,地球と人間に対する神の目的を概説していました。「写真-劇」はケープ州で問題に遭遇したようです。そして,一般の「宗教感情を害する」恐れがあるとして同州の当局者により禁止されました。

      しかし,ジョンストン兄弟の計算によると,1918年初頭までの18か月間に彼は約1万6,000㌔余を旅行して南アフリカの随所で「写真-劇」を上映したのですから,その業の規模がどれほどであったかを知ることができます。どこにおいても「劇」には多くの聴衆が詰めかけました。ケープ州では上映が禁止されましたが,ダーバン,ヨハネスバーグ,プレトリアその他トランスヴァール州,オレンジ自由州,ナタール州の様々な場所で上映されました。劇の上映は,大勢の人々が真理の側に集められる結果をもたらしませんでしたが,非常に広範にわたる強力な証言となりました。

      ローデシアとトランスヴァールの初期のニュース

      ローデシアの王国活動のことが初めて話に出て来るのは1916年のことです。ウィリアム・W・ジョンストンはラッセル兄弟にあてた手紙の中でこう述べています。「ローデシアの業に関するノデハウス氏あてのあなたの通信物は期日通りに受理しました。わたしはその方に詳細を問い合わせる手紙を書き,現在その返事を待っています」。

      南アフリカにおける当時の証言の業は必ずしも都市に限られてはいませんでした。トランスヴァール州西部のコスターという小さな町に,真理の探究にいそしむジェピー・テロンという男の人がいました。有能な弁護士であったテロンは世界の様々な宗教が偽りであることに気づいていました。ある日彼は,ものみの塔協会が数十年も前から出版物を通して知らせていた,1914年に関する重要な預言のことを新聞で読みました。そこでテロンは出版物を注文して「聖書研究」と題する本を手に入れました。彼はたちまち真理を悟り,他の人々を助けたいという燃えるような願いを抱きました。また,しばしば僧職者たちと討論し,文字通りの火の燃える地獄といった偽りの教えの証明を求めました。

      テロン兄弟は全く独創力の豊かな人でした。ある時期,彼は毎日煙を吐きながら町を走る小さな汽車の中で定期的に証言しました。駅で汽車に乗ると,機関室から後部まで,汽車が急な坂をゆっくりと上って行く間に乗客全員に出版物を提供して行きました。彼は時間を計っていましたから,汽車が丘の頂上に着いた時には自分の車付きの「区域」を終えていて,汽車から飛び降りるのでした。テロン兄弟はトランスヴァール州西部とオレンジ自由州で広く知られ,多くの人々が真理を受け入れるのを助けました。

      トランスヴァール州北部では真理の光はそれまでに非常に広範にわたって輝き渡っており,文書の多くがひとりの人から他の人へと郵便で送られていました。北部トランスヴァールのニルストルームという小さな町で学校に通うふたりの若者の手にも文書が渡りました。そのうちのひとり,ポール・スミットによれば,彼の心に触れ,行動へと彼をかきたてたのは「聖書は地獄について何と述べているか」という小冊子でした。スミット兄弟自身のことばを借りれば次の通りです。「わたしたちふたりの生徒が教会の教理はまちがっていることを知らせた,それもあからさまに知らせたので,ニルストルームはまるで大暴風に襲われたように動揺の中心地となりました。ほんとうなんです。わたしたちは自分たちの務めを恐れることなくどんどん行なって行きました。当時妨げられずに活動する『市民権』を持っていたのは3つのオランダ改革派教会と英国国教会だけでした。ですから考えてもみてください。『水の出るホースが火の燃える地獄に向けられる』と,耐え難い苦痛の煙がたち上ったのです。しばらくの間町やその地域は新しい宗教の話で持ち切りでした。僧職者は,当然のことながら暗闇の手先として,偽りを伝えたり迫害したりするという良く知られた役割を果たしました。彼らが毎週行なう説教は何か月,いや何年もの間この『偽りの宗教』を中心にして行なわれました」。

      困難にもかかわらず霊的に繁栄する

      そのころの集会は,会衆の成員の挙手によって選出された「長老たち」が司会していました。執事は,窓を開ける,いすを整とんする,歌の本を配る,全般的な事柄を援助する,といった務めをし,彼らもやはり投票によって選ばれました。これが当時の会衆の取り決めでした。

      1916年10月31日,ものみの塔協会の初代会長C・T・ラッセルが亡くなりました。彼は最後まで活発で忠実でした。そのニュースにエホバの民は悲嘆にくれ,驚きあわてました。ダーバンの兄弟たちの間では,「これからどうするのだろう」という声が上がりました。悲嘆という最初の反応のあと,試練の期間が始まりました。ラッセル兄弟の人格や活動はそれまでの王国の業を大きく支配していました。また,非常に多くの人々はラッセル兄弟個人に強く引かれていたため,兄弟の死後起こるべき変化に憤慨しました。マイアダル兄弟は,ダーバンでしばしば集会中に議論が起きたり,一部の人々が協会に背いていることを表わし始めて多くの問題を引き起こしたことを覚えています。分裂や問題は簡単に解決されませんでした。しがしながら,業は続けられ,それには明らかに神の祝福がありました。

      1917年中に,協会の南アフリカ支部はダーバンからテーブル山の大きな岩塊のかげにあるケープタウンに移りました。それは発送の便を図ってのことでした。ケープタウン,プレイン通り123番の小じんまりした土地と建物がその後6年間支部事務所となりました。

      南アフリカの兄弟たちの数は着実に増加していました。白人の「兄弟」の数は推定200人から300人である,とジョンストン兄弟は報告しています。その大半は四つの主要な群れ,もしくは会衆,すなわち,ダーバン,ヨハネスバーグ,プレトリアおよびケープタウンの各会衆に交わり,他の多くの人々は孤立していました。ヌドウェドウェでは約80名のズールー族の人々からなる活発な会衆がありました。また,バンクという場所にはバストー族の小人数の集会があり,イーストロンドンではホサ族の兄弟たちの集会がありました。

      ジョンストン兄弟はある報告の中で,アフリカの兄弟たちに関する次のような興味深い事柄を述べています。

      「原住民の言語で書かれた出版物がなかったにもかかわらず,そうした兄弟たちの現在の真理に対する理解には驚くべきものがあります。わたしたちはただ,『それは主のなされることであり,わたしたちの目には驚嘆すべき事柄です』と言い得るのみです。その兄弟たちは,全員がそうなのですが,神のみことばとして聖書に深い敬意を抱き,英語の本を読んで土地の言葉に翻訳できるアフリカ人の教え手から伝えられる真理に熱心に耳を傾けました。彼らにとって実際すべてが学ぶことばかりだったので,主の音信を示された時にすぐそれを受け入れました。彼らの献身が理解に基づく誠実なものかどうかは,良心的に行動したために受けた苦しみによって試されました。それら愛する兄弟たちのほとんどすべてはバビロンから正式にまた公に破門されました。すなわち,彼らが生まれた伝道団特別指定地区から追い払われ,彼らの世界である土地(アフリカの町)で危険人物というらく印を押されました。しかしそれらのどれひとつにもたじろぐことなく,彼らはキリストのために苦しみを受けることを許されていることを大いに喜んでいます」。

      ニアサランドにおける業はすでに政府の反感を買っていました。自分たちの学校ががらあきになり,教会がからっぽになっていくのでねたみを抱いた宣教師たちが政府を扇動したのです。ジョンストンによれば,「その結果主だった兄弟数名は国外に追放され,モーリシャスのフラット島に抑留されました」。

      新しい区域が開かれる

      17世紀以来,ステレンボースクは教育,わけてもオランダ改革派教会の牧師を訓練するための教育の中心地でした。1917年にピエ・ド・ジェゲールは,ナイジェリアのオランダ改革派教会伝道団へ行くのに先立ち,ステレンボースクの大学で勉強していました。明らかに仲間の学生のひとりはすでに真理を受け入れて協会の出版物を研究していました。そのことは当然教会の当局者を悩まし,ピエ・ド・ジェゲールはその学生に話しかけて,キリスト教学生連盟が主催する週ごとの聖書研究会に出席するように誘うという任務を与えられました。その結果はというと,ピエ・ド・ジェゲール自身が真理を受け入れたのです。それがその僧職界をどれほど驚かせたかは想像にかたくありません。それから間もなく,ピエ・ド・ジェゲールは,魂,地獄および他の点について教授たちと何度も激しい議論を戦わし,しばらくして神学校を去りました。

      その後,ピエ・ド・ジェゲール兄弟とオランダ改革派の神学博士ドワイト・スニマンとの公開討論会が取り決められ,1,500人の学生が出席しました。A・スミットはその時の模様をこう述べています。「ピエはあらゆる点でせき学の博士に迫り,教会の教理には非聖書的なところがあることを聖書から証明しました。学生のひとりはその結果を短く次のように要約しました。『ピエが間違っているなんて聞かされてさえいなかったなら,聖書からすべてを証明した彼は正しいとわたしは誓ったことでしょう』」。

      ケープタウンにいる間,ジョンストン兄弟は事務所の仕事のほかに野外でも多くの時間を費やしました。そしてある日ステレンボースクに近いフランショークという小さな町を訪問しました。この町は南アフリカの比較的古い町のひとつで,最初は1688年にユグノーの逃亡者たちが住み着きました。そこにはまたカラード(黒人と白人の血が混じった子孫)も住んでいました。そして王国の種がその良い土地に落ちる時が今や熟していたのです。数年前に,頭脳が優秀で高潔な,フランショークに住むカラードの教師,アダム・ヴァン・ディエメンの指導の下に,数名の人々がオランダ改革派教会と絶縁して独自の宗教グループを作りました。ジョンストン兄弟が彼を訪問して文書を配布したのは1917年の末か1918年の初めだったに違いありません。ヴァン・ディエメン氏は個人用ばかりか,友人に譲るために大量の文書を求めました。彼の友人の中にダニエルズという名の人がいました。こうして,「神の経綸」の本がその息子である17歳のG・ダニエルズの手に渡りました。若いダニエルズにとって,それは生涯エホバに奉仕する始まりとなりました。ヴァン・ディエメンも真理を受け入れ,非常に活発に音信を広めるようになりました。彼はケープタウン付近のウェリントン,パール,ベルヴィル,パロウ,エルシーズ・リバー,ウィンバーグ,リトリートといった他の場所を訪問しました。そうした熱心な活動のために彼は教職を退いて良いたよりの全時間の伝道者となることを余儀なくされました。王国の音信は今やこの区域で良い出発をしたのです。

      1918年に支部の監督,ウィリアム・W・ジョンストンは新しい割当てを受けました。オーストラリアとニュージーランドの区域は霊的に強くてすぐれた兄弟の監督を必要としていると考えた協会は,ジョンストン兄弟にそこへ行くよう要請したのです。彼の後を継いで支部の監督となったのはヘンリー・アンケッティルでした。彼はピーターマリッツバーグで真理を受け入れ,かつてはナタール州の国会議員をしていた人でした。アイルランド人の血を引く,退職した小柄な白髪の老紳士で,白いひげをたくわえ,やさしそうな表情をしていました。支部の監督の仕事は年齢的にいって彼にはたいへん重く感じられましたが,アンケッティル兄弟は次の6年間新しい責任を忠実かつ能率的に果たしました。

      苦難の時代に表わされた信仰

      支部の新しい監督,ヘンリー・アンケッティルは難しい時期にその務めを引き継ぎました。協会の職員はアメリカで投獄されており,証言の業はきわめて低下し,不忠実な者たちは明らかになりつつありました。そのことはダーバンにおいて非常に顕著でした。ラッセル師の死後間もなく始まった論争やもん着はその間ずっと激しさを加え,ジャクソンという名の,自分と自分の能力を過度に重視する人物の指揮下に今や最高潮をむかえました。彼と他のふたり,ピットとスタッブスは明らかに反対派の首謀者でした。

      分裂は1919年に起きました。大勢のグループが,事実集会に出席していた人々の大半が敵対的となって,自分たちで別個の集まりを持つことに決めました。そして自ら「連合聖書研究者」と称して独自の組織を設立したのです。後に残ったのは姉妹たちが大部分を占めるわずか12人のグループでした。ヘンリー・マイアダルはその時苦しい立場に立たされました。というのは,父親は反対派に属し,母親の方はものみの塔協会に忠節を保っていたからです。しかし,彼は問題を慎重に考慮して祈り,協会は主に祝福された機関であるとの賢明な結論を下して母親と共に従いました。

      アフリカーンス語を話す人々で,真理を知るようになる人は増加の一途をたどりました。ウィレム・フーリエもそのひとりです。彼は,フランス・エバソンと共にクラークスドープで最初に真理を学んだストフェル・フーリエのおいでした。実は,彼の父親は1906年ごろにオランダ語の「世々に渉る神の経綸」を一冊手に入れ,世界の諸宗教が偽りであることに気づいていました。ウィレム・フーリエは,コスターの弁護士ジェピー・テロンが僧職者と討論して,彼らに特別な挑戦をしたことを聞きました。それは,魂が不滅であることを僧職者たちが聖書から証明できたなら,1,000ポンド(約84万円)差し出すというものでした。そのころフーリエはまだオランダ改革派教会の会員でした。同教会は新しい教会の建設資金を必要としていたので,プレディカント(「説教者」)に,その挑戦に応ずる意志がないか問い合わせがありました。しかし,プレディカントはそれを断わりました。フーリエはそのことに失望し,後日教会を去りました。1919年ごろ彼は協会の出版物を受け取り,それを注意深く研究して,これこそ真理であると悟りました。やがて彼は野外奉仕に参加するようになっていました。

      地獄に関する教会の教えは誤りであるとみんなに話してセンセーションを巻き起こした,ニルストルームのふたりの学生のことを覚えておられるでしょうか。ポール・スミットともうひとりの少年はふたりとも親友たちからよそよそしい態度を取られました。その後しばらくして,ポールの仲間は学校の理事会から職を提供され,彼の宗教を捨てるように強い圧力をかけられてそれに屈してしまいました。ポールは仲間を失って大いに涙を流しましたが,絶えずエホバに祈り,神の過分のご親切によって,真理に関して動揺することは決してありませんでした。彼は非公式の証言を用いたり出版物を他の人々に貸したりしてたゆまず伝道しました。彼はたったひとりだったので組織があることに気づかず,エホバに全くより頼んで助けと導きをあおがねばなりませんでした。少ししてから彼はピエ・ド・ジェゲールと数人の聖書文書頒布者の訪問を受けました。当時そうした個人的な訪問はほんとうにすばらしい助けであったに相違ありません。

      真理にごく新しく,まだ少年であったにもかかわらず,ポール・スミットはエホバの祝福を受けて「推薦の手紙」を得るようになりました。(コリント第二 3:1-3)真理を受け入れて最初の「手紙」になったのは近隣の農家の息子でした。1922年ポールはヴォースターという家族と,出版されたばかりの「神のたて琴」と題する本を用いて研究を始めました。その家は七人家族で,スミット兄弟の家から約6.4㌔離れた所に住んでいました。ポールはヴォースター家の農場までそれだけの道のりを畑を通って徒歩で通いました。やがて両親とひとりの息子が証人になりました。こうしてポールは1924年までにニルストルームに13名からなるりっぱな群れを組織することに成功したのです。その群れはトランスヴァール州北部で最初のクラスもしくは群れになりました。

      ところで,中央アフリカのニアサランドはどんな状態でしたか。M・ヌグルーは当時ニアサランドにいて,長老派教会の伝道師をしていました。彼によれば,第一次世界大戦後ニアサランドでは関心を抱いていた人々が真理をせっせと広めていました。1920年のそうしたころ,彼は「現存する万民は決して死することなし」と題する本を受け取りました。その本を読んで,「聖書に対して持っていた伝道師としてのわたしの理解は大いに揺さぶられました」と彼は語っています。

      同じころニアサランドで真理を知ったもうひとりの人はジュニアー・フィリという名の若いアフリカ人でした。といっても,彼のバプテスマは秘密のうちに行なわれました。1915年に起きたジョン・チレンブウェの反乱が異端的な宗派に対する恐怖心と疑惑を引き起こしたため,ある種の宗教活動を続けることが難しくなったからです。ひとりの兄弟はバプテスマを受けたばかりのジュニアーの手を握り,今後は危険だがイエスの名において忠実に歩み続けなければならないと忠告しました。

      フィリ兄弟は土地のバプテスト派の牧師からひどい迫害を受けました。その牧師はしゅう長を説得してフィリ兄弟を逮捕させ,治安判事の前に連れてこさせました。彼は禁止されているジョン・チレンブウェの派に属していると訴えられたのです。以前に属していたバプテスト派を離れた理由を判事から問われたジュニアーは,死者に関する教えに同意しかねることを述べ,判事にあなたはどう思うかと尋ねました。判事は,「わたしが見る限りでは,死者は墓にいますね」と言いました。ジュニアーは判事に同意してヨハネ 3章13節を引用しました。判事はその聖句を自分の聖書で調べて良い印象を受けました。ジュニアーは彼がジョン・チレンブウェの派にではなく,「国際聖書研究者協会」と呼ばれるところに属していることを判事に納得してもらいました。彼は釈放されたので,土地のバプテスト派の指導者たちはたいへん驚き,また失望しました。

      さて,ニアサランドから南アフリカのケープ州まで約3,200㌔を一足飛びに下ってフランシュホークの黒人グループの様子を見てみましょう。その時までにフランシュホークのオランダ改革派教会はこの精力的な新しいグループを意識するようになり,何らかの処置を講じ始めました。若いダニエルズ兄弟の学友で,ヴァン・ニエカークという名の前途有望な聖書研究者は教師の資格を取り,良い就職口を提供されました。それには彼と彼の家族がオランダ改革派教会に復帰するという条件がついていました。彼らはその圧力に屈して,「霊的な捕らわれ」の状態に再び陥りました。後にヴァン・ニエカークがその土地を離れた時,ダニエルズが同様の申し出を受けました。が,彼はそれを辞退しました。そのことがあってから迫害が始まり,それがあまりにもひどくなったので,とうとう家族は引っ越さなければなりませんでした。反対者たちはその家族をほってはおかず,ある晩家にやって来て,ダニエルズの家族が自分たちといっしょに行動しないなら,魔術を使って一家全員を滅ぼすと言いました。ダニエルズはその答えとして,詩篇 23篇に基づく賛美歌の一節を引用し,エホバの保護により頼んでいることを示しました。

      その後憎しみや反対は増大し,兄弟たちが夜にひとりで外出するのは安全でなくなりました。兄弟たちは,「ラッセル派」とか「ヴァン・ディエメンの魂のないグループ」,あるいは「にせ預言者」などといったあらゆる名前で呼ばれましたが,ゆるぎない立場を保ちました。彼らは,イエスが真の弟子たちについて述べた次の事柄が成就するのを身をもって体験していたのです。「あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう」― ルカ 21:17。

      支部の新しい建物

      そのころ(1923年)支部事務所はレリエ通り6番にある新しい土地家屋に移りました。といっても,1階に大きな部屋がひとつあるだけでした。ケープタウン会衆はその部屋の95%を集会に使用し,アンケッティル兄弟は部屋の後部を小さく仕切って事務所に使っていました。翌1924年に会衆は別の建物に移りました。事務所は玄関の近くにある仕切った小部屋で,発送部門,倉庫,印刷所は全部部屋の後部にありました。たなが設けられ,印刷機が届いた時のために余地が設けられました。

      ヨハネスバーグにおける発展

      では,数年前にジョンストン兄弟が最初のクラスを設立したヨハネスバーグではどんなことが起きていたかを見ましょう。同市に住むイリス・トゥティ姉妹は5歳ぐらいの時に,人々の家の戸の下に冊子を差し込む業に携わるようになりました。彼女はまた,だれかが死んだり,生まれたり,結婚したりした時や,他の特別な機会に,母親がいろいろな「兄弟たち」に手紙やカードを書いているのを机のそばに立って長い時間ながめていたのを覚えています。トゥティ姉妹の母親がそうしたことをしていたのは,彼女が,ラッセル兄弟の設立した「フィラデルフィア連盟」の秘書だったからです。その連盟は,祝いごとや悲しみごとのある兄弟姉妹たちと兄弟愛のきずなを通して連絡を保つ仕事をしていました。

      当時,アパルトヘイトに関する厳格な法律はまだ通過していませんでしたが,社会的にいって,白人と黒人との接触はほとんどありませんでした。しかしそうした事情は王国の証言活動の妨げとはなりませんでした。エノク・ムワレというアフリカの兄弟は,トゥティ姉妹の母親の援助を受けて1921年に真理を知りました。そして1年後に野外奉仕に参加し始めました。ムワレ兄弟はしばらくの間ヨーロッパの兄弟たちといっしょに研究しましたが,その後,「神のたて琴」を受け取ってからアフリカの兄弟たちは自分たちの群れを作りました。

      「万民」運動

      1921年に協会は,数年にわたって広範囲に行なわれた公開講演運動を開始しました。1918年の2月にラザフォード兄弟によって初めて行なわれた「現存する万民は決して死することなし」という講演が南アフリカで広く行なわれ始めました。支部の監督アンケッティル兄弟は,その時全時間奉仕に携わっていたピエ・ド・ジェゲール兄弟とパリー・ウィリアムズという名の英語を話す兄弟とを援助者にして南アフリカの比較的大きな都市をもれなく訪問し,英語とアフリカーンス語でその講演を行ないました。結果はたいへん良好でした。ケープタウンのオペラハウスで行なわれた最初の講演には2,000人が出席し,文書が大量に配布されて多大の関心が示されました。講演はオランダ語と英語で行なわれ,「万民」の本は英語版とオランダ語版とアフリカーンス語版が配布されました。1921年のその広範な旅行でそれらの兄弟たちは南ローデシア(現在のローデシア)のブラワヨとソールズベリーを訪れました。

      講演会の聴衆は多いこともあれば少ないこともありました。「英語の講演にわずか80人ばかり,オランダ語の講演にもそのぐらいの聴衆しか集まらない町で講演するために何百㌔も旅行しました」とパリー・ウィリアムズは書いています。1923年8月31日付の報告は,P・J・ド・ジェゲール兄弟とウィリアム・ドーソン兄弟がその年70の講演を行ないました。その時のビラによると,ふたりとも講演者,また配布者という肩書を持っていました。ふたりは1か月に平均6回ほど講演をしたことになり,出席者の合計は9,376人でした。有名な講演である「現存する万民は決して死することなし」のほかに,「復活は近し」,「新しい世は始まった」,「諸国民はハルマゲドンに向かって行進する」といった人目を引く主題を含め多くの主題が扱われました。兄弟たちはそれぞれの講演会で受け取った住所を用いて2,483軒の家を訪問し,幾千冊もの文書を配布しました。

      キリスト教世界の諸教会は音信の災熱をじかに感じ始めました。1923年の年度報告は次のように伝えています。「実際ひとつの町では,わたしたちの音信の浸透力によって使徒教会が完全に閉鎖され,業の関係者一同を喜ばせました。オランダ教会の新聞『カークボーデ』の一記者は先日I.B.S.A.(国際聖書研究者協会)に賛辞を呈して,わたしたちの教理には賛同できないが,オランダ改革派教会の信者にI.B.S.A.の熱意を勧めたいと語りました」。

      配布者の活動

      当時配布者として知られていた開拓者の業も行なわれ始めていました。1923年に全時間奉仕に携わっていたのは6名で,その人々が南アフリカでの証言の業をほとんど行ない,他の兄弟や関心を持つ人々は主として非公式の証言を行ないました。エドウィン・スコット兄弟は,それら全時間奉仕者のひとりでした。彼は,1922年9月に開かれたオハイオ州のシーダー・ポイント国際大会で採択された決議文を掲載した印刷物を配布する割当てを受けました。その小冊子はキリスト教国全域で3,500万部配布されました。忠実なスコット兄弟は英語版とアフリカーンス語版の小冊子の入った大きな袋を背負い,猛犬から身を守るため手には杖を持ちました。彼は南アフリカの4つの州にある64の町を訪れ,6か月に5万冊を配布しました。さらにその冊子は南アフリカとローデシアのあらゆる宗派の僧職者に郵送されました。「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」というのが,1922年のその有名な大会でラザフォード兄弟によって掲げられた号令で,南アフリカの一握りの兄弟たちはそれを実行する決意をしていました。

      しばらくの間ヨハネスバーグのエクレシア(会衆)に交わっていたふたりの若い姉妹は1923年の初めに全時間奉仕に入りました。それは,レニー・テロン(コスターの弁護士テロン兄弟の実の姉妹)とエリザベス・アドシェイドという姉妹たちで,ふたりは教職をやめていっしょに配布者の道を踏み出したのです。ふたりはナタール州の北部とトランスヴァール州を3か月間旅行して3,188冊の書籍を配布しました。これはひとりが1か月に約500冊配布した割合になります。そのうちのひとりの姉妹の手紙が1924年1月1日号の「ものみの塔」誌に引用されましたが,そこには一部次のように書かれていました。

      「わたしは汽車に乗って始終フルスピードで動いていたようです……汽車が予定より遅れて,夜がふけてから人里はなれた駅に着くことがよくありました。でも,そのお約束どおり,主は決してお見捨てになることはありません。いつの場合でも,主はだれかの心を動かしてわたしを助けさせたのです。神の忠実な御配慮を受けると人の信仰は強められ,愛は増します。

      「ある日,わたしは『肝要な奉仕』というすぐれた記事を読み直して興奮のあまり眠れませんでした。とうとうわたしは起き上がって地図を広げ,わたしたちの道筋から分かれている支線沿いのバーバトンおよびその他幾つかの場所を抜かしていたことに気づきました。そこをほっておいてはいけないとすぐに決めたわたしはそのことを相手の姉妹に話しました。そして,わたしはそのまま進んで自分の区域を終わらせ,彼女がそちらへ行くことにしました。わたしが次に訪れた所はたいへん小さな場所で18軒の家を訪問したにすぎませんでしたが,(『聖書研究』を)49冊,『万民』の本を16冊,『たて琴』の本の大きな版を13冊配布しました。わたしはその前の晩にほとんど眠らず,3時間しか睡眠を取りませんでした。というのは,強い関心を抱いた数名の人々に夜の11時半まで話をし,それから朝の2時まで荷造りをして,汽車に乗るために5時半に起きたからです。わたしたちのちょっとした経験を全部お話しして,救い主が明らかにわたしたちを導いておられることをお伝えしたいのですが,それには時間が足りません」。これは今日のわたしたちにとってすばらしい模範ではないでしょうか。

      ケープタウンにおける重要な変化

      広い地域にわたり,多くの点で業は進歩していました。しかし,ケープタウンのアンケッティル兄弟はかなり年老いたので,仕事の荷が重くなりました。そこで協会の会長ラザフォード兄弟は新しい支部の監督を派遣することに決めました。アンケッティル兄弟は,王国の業が発展途上にあった困難な時期に「とりでを守」って,りっぱにやり遂げました。今やそれ以上の問題が南アフリカの区域を雲のように覆いつつありましたが,アンケッティル兄弟の後継者はそうした事態に対処することになっていました。

      1924年までにケープタウンでは重要な変化が起きていました。協会は印刷機械を活字および備品と共に発送し,英国から兄弟たちが新たに到着したのです。ひとりは,しばらくの間英国支部で支部の監督を補佐していたトマス・ワルダーでした。彼は色白のがっしりした30歳ぐらいの若い兄弟で,アンケッティル兄弟の後を継いで南アフリカの支部の監督となるべく派遣されました。そのパートナーは彼より少し年若い,グラスゴー出身の金髪で背の高いスコットランド人,ジョージ・フィリップスでした。

      1924年5月にラザフォード兄弟が大会に出席するためにグラスゴーを訪れた際,ジョージ・フィリップスは日曜日の朝に彼の司会者を務めました。ふたりが出番を待っていっしょにすわっていると,ラザフォード兄弟はジョージに言いました。「あなたはわたしが昨晩ワルダー兄弟を南アフリカに派遣すると発表したのを聞きましたね。あなたも彼といっしょに行きたいと思いますか」。「わたしがここにいます。わたしを遣わしてください」という答えが返ってきました。そこでラザフォード兄弟はジョージに,2週間で荷物をまとめ,家族やグラスゴーの兄弟たちに別れを告げて出発の準備をするようにと言ってから,こう語りました。「1年になるかもしれないし,それより少し長くなるかもしれませんが,ジョージ,いいですか,戦時中には休暇がないのですからあなたに片道切符をあげましょう」。

      新たに任命されたそのふたりの兄弟が南アフリカに着いた時,全時間奉仕者は6名にすぎず,野外奉仕にいくらか携わっていたのはわずか40名でした。区域のほうはとてつもなく広大で,南アフリカ,バストランド,ベチュアナランド,スワジランド,南西アフリカ,南北両ローデシア,ニアサランド,モザンビーク,タンガニーカ,ケニア,ウガンダ,アンゴラ,それにセントヘレナ,マダガスカル,モーリシャスといったインド洋と大西洋のさまざまな島々が含まれていました。

      まもなくブルックリンから手動給紙の活版印刷機が届きました。印刷屋をしていたケープタウンの兄弟の指導を受けて,ワルダー兄弟とフィリップス兄弟は修業に5年かかるところを5か月でひととおり身につけました。ふたりは,印刷屋にとって“PとQに気をつける(転じて,言行に気をつける)”とはどういうことかを悟りました。ほどなくしてその小さな印刷機はビラや冊子,また用紙類を幾千枚も生産するようになりました。さらに,他の文書がアフリカーンス語やいろいろなアフリカの言語で印刷されました。オレンジ自由州の農民で,イザク・ボタという名前の兄弟は「神のたて琴」がアフリカーンス語に翻訳されていると聞いて,印刷費を補助するために500ポンド(約42万円)をすぐに寄付しました。

      問題がわき起こる

      新しい支部の監督であるワルダー兄弟が最初に行なった事柄のひとつは南北両ローデシアとニアサランドに注意を向けることでした。アフリカのその地方の事情ははっきりわかりませんでしたが,協会の文書はすでにそこに達していました。

      1920年代初めのローデシアにおける実情を今日はっきりと描くのは難しいことです。いずれにしてもキリスト教世界の僧職者は非常に恐れていました。1924年6月6日付の「ローデシア・ヘラルド」紙は南ローデシアで開かれた宣教師の会議に関する長文の報告を掲げましたが,その会議中に「ものみの塔運動」とものみの塔聖書冊子協会のことが話し合われました。使徒パウロのクリスチャン活動を妨げようとして『エホバの道をゆがめ』た呪術者エルマのように,キリスト教世界の僧職者はエホバの現代のクリスチャン証人に対して偽りの非難を浴びせました。(使徒 13:6-12)C・E・グリーンフィールドという僧職者はものみの塔協会が「教会のボルシェビズム」を宣伝していると非難しました。彼はその宣伝の源はロシアであると述べ,それをアフリカで許してよいだろうかと問いかけて次のような決議を諮りました。「ローデシアの宣教師によるこの会議の見解では,ものみの塔聖書冊子協会の教えは教会の真の宗教を覆すものであり,したがってこの国の人々にそれが宣伝されることはとりわけ危険である。ゆえにその活動を監視し,統制するよう政府に要請する」。

      他の人々はこの決議を支持する話をしました。(南ローデシアにある)ワンキー炭鉱の経営者であるトムソン氏は,ひとつのプールで20人から30人が“束になって”バプテスマを受ける模様を話しました。その運動を押えようとした結果,改宗者は非常に増加し,当時伝えられるところによると約1,500人に上ったという報告がなされました。グリーンフィールドは,白人の勢力が覆されるという約束も宣伝されていると述べました。反対者がわずかにありましたが,その決議は同会議を通過しました。

      そのころ宣教師と僧職者が好んで使ったのは,共産主義者という偽りのレッテルをつけて人々を恐れさせるといういつもの手口でした。わたしたちはソ連やボルシェビズムとの関係を否定するものの,ワンキーでものみの塔に属すると唱えた1,500人の信奉者たちがわたしたちの兄弟であったか,それとも偽りの「ものみの塔運動」のひとつに入っていた人々なのか定かではありません。とはいえ,「ものみの塔」という名前が1924年までに両ローデシアですでによく知られていたこと,ゆえに事情を明らかにする必要のあったことがその報告からわかります。

      したがって1924年の終わりごろ,ワルダー兄弟はローデシアへ行き,「ものみの塔」という名のもとにどんな事が行なわれているのかを知るため南北ローデシアの政府当局者に会いました。彼は,当局者の話を聞いただけで,わたしたちの業に誠実な関心を抱いている人々と土着の運動に入っている人々とを分けるための処置を直ちに講じなければならないと思いました。翌年の1925年にヨーロッパ人の兄弟であるウィリアム・ドーソンが南アフリカから派遣されました。彼は南北両ローデシアでものみの塔協会と関係があると唱える指導者すべてを訪問しました。

      その兄弟の報告によると,それらの人々の大部分は協会の文書が説明している真理をほんとうに理解していませんでした。他方,誠実な関心を持つ人々もいて,その人々は熟慮された援助と指導を必要としていました。ケープタウンのワルダー兄弟は協会の名前をかたる土着の運動との関係を直ちに否定し,関係政府に事実を知らせました。また,宗教分子が協会と関係している偽りの運動に対して協会がいかなる責任も負わないことをはっきりと述べた手紙をローデシアとニアサランドの当局者に送りました。

      ドーソン兄弟がローデシアを訪れているころ,ムワナ・レサという人物は北ローデシアのアフリカ人の間に恐怖をもたらしました。ムワナ・レサ(「神の子」の意)はニアサランド出身のアフリカ人で本名をトム・ニイレンダと言い,コンゴを通って北ローデシアにやって来ました。伝えられるところによると,彼は土着の「ものみの塔運動」のひとつの信奉者で,自らを預言者に仕立てました。1934年7月1日付の「サンデー・タイムス」に掲載されたスコット・リンドバーグの記事によれば,彼はフォックスが著した「殉教者の本」を手に入れ,その本から昔白人が「魔女」を水責め椅子に縛って溺死させたことを知りました。それは彼に強い影響を与えたようです。彼は村から村へ伝道し,「アフリカはアフリカ人のものであり,白人は追い払わなければならない」と原住民に語ったのです。

      ニイレンダはそれからララ(現在のコッパー・ベルトの南東部)のしゅう長チウィラと手を結びました。ふたりは,ニイレンダがチウィラの政敵に「魔女」のらく印を押してバプテスマでおぼれさせることをたくらみました。彼らを一掃してチウィラが王の選挙に勝つためです。リンドバーグ氏の話によると次の通りです。「それからトムはチウィラの政敵全員の名前を知らされました。彼はしゅう長たちを呼び集め,自分は部族から魔術を一掃するため神から遣わされた者であり,男も女も子どももひとり残らず川でバプテスマを受けなければならないと言いました。

      「迷信的な原住民は,急流が丘陵地帯の曲がりくねった渓谷をぬって走る場所におびき寄せられました。トムは,白くて長い衣をまとって川のまん中の丸石の上に立ちました。

      「彼は人々に,羊と山羊を分けるために神が自分を遣わされたと言ってから,ひとりひとりに川で浸礼を施しました。それを手伝ったのはチウィラの絶対的な支持者でした。彼らは政敵を頭が流れにさからうようにして水中につけ,おぼれさせたのです。

      「人々は死んだ犠牲者のひとりひとりを立ったまま見つめながら賛美歌をうたいました。そして,ムワナ・レサを熱狂的にたたえる声が一晩中森にこだましました。

      「その夜22人の原住民を溺死させたトムは国境を越えてベルギー領コンゴのカタンガ州に住むことにしました。そこならローデシア当局に逮捕されないからです」。

      必要とされた浄化と援助

      トム・ニイレンダはコンゴでさらに幾つかの残虐行為を犯した後,北ローデシア警察に逮捕されて有罪の判決を受け,ブロークン・ヒル刑務所広場で原住民のしゅう長たちの立ち合いのうえ絞首刑になりました。そうした悪魔的な行為は「ものみの塔」の名前と結びつけられました。しかし,ムワナ・レサはものみの塔聖書冊子協会もしくは当時聖書研究者といわれていたエホバの証人と何の関係もありませんでした。それどころか,リンドバーグ氏によれば,トム・ニイレンダは処刑される前に「刑務所内でローマ・カトリック教会に受け入れられて罪のゆるしを受けました」。それにもかかわらず,神の王国に敵対する,キリスト教世界の諸宗派の僧職者はその責任を本物のものみの塔聖書冊子協会に負わせ,当局者や一般の人々に偏見を持たせて証人を国内に入れないようにしようと懸命に努めました。ですから,北ローデシアで王国の業を確立するためには山のような障害を克服しなければならなかったことがわかります。

      ニアサランドでもエホバの証人の立場を明らかにし,関心を抱く人々に援助を差し伸べる必要がありました。1923年12月15日号の「ものみの塔」誌には協会の代表者からの次のような報告が出ています。「わたしは最近警視総監である一少佐の訪問を受けました。同少佐は立派な人物で,現代のガマリエルです。ニアサランドにおけるわたしたちの業を調査した彼は,僧職者から聞いたわたしたちに関して広まっている驚くほどひどい虚言にうんざりしていました。少佐は,変装して原地人が集まる証人の集会に行ったこともあると語りました。そして,指導的な立場にある人々すべてを個人的に知っています。彼の話によると,真理は原地人の間で野火のように広まっているということです」。

      いずれにせよ,協会が,事情を調べて調整を加えるべく,ジョン・ハドソンと彼の妻を1925年にニアサランドへ派遣したのは適切なことでした。ジョン・ハドソンは,ニアサランドに滞在した1年3か月の間多くの土地を旅行し,いろいろな所で講演したと語っています。彼は,兄弟たちの大部分が真理に関する知識や理解をほとんど持っていないことを知りました。したがって講演の中で,協会と連絡を保ってその指導や指示を受け入れることの大切さを認識するよう兄弟たちを助けることに努めました。

      ジュニア・フィリ兄弟は,ハドソン兄弟が集会で妻といっしょにすわるよう兄弟たちに助言したとも語っています。アフリカの部族の生活習慣では,夫は妻といっしょに食事をしません。また教会や宗教的な集まりに家族で行ったときには男たちは通路の片方の隅に,女たちはもう一方の側にすわります。ですから,ハドソン兄弟はその点について良い助言を与えたことでしょう。

      しかし,M・ヌグルー兄弟によると,「わたしたちは,ケープタウンの人たちから教えを受けなくても,自分たちが正しいと考えることをする」と言うグループが幾つかありました。ですからハドソン兄弟の訪問で,協会の指導に喜んで従おうとする人々とそうでない人々とが分けられたに違いありません。残念なのは,協会の指導に喜んで従おうとしなかった人々が依然として「ものみの塔」の名前を用いるといって譲らなかったことです。主要な指導者のひとりは明らかにウィリー・カバラ氏でした。その運動の著しい特色のひとつは死者の復活を信じないことでした。ヌグルー兄弟は,それら偽りの分子が税金を払うことを拒んだと語っていますし,彼らは自分たちが神の王国の支配者であると言いました。

      ハドソン兄弟が訪問に関する報告を提出した後,ものみの塔協会のケープタウンの事務所はニアサランドの政府当局者に手紙を送りました。その内容は一部次の通りです。

      「ニアサランドの私共の代表者は召還されたことを上記の協会に代わりお知らせいたします……当協会がハドソン夫妻を貴国に派遣したのは,独自の形態を持つある土着の『ものみの塔』教会が活動していることによりました。私共はその運動を是認することができません。それは当協会の教えを完全にわい曲しており,その追随者は主として私共の指示や権威に従おうとはしません。ゆえに私共はその運動との関係を一切否定します」。

      ニアサランドでは真理にほんとうの関心を抱いていた人々が,しばらくの間協会の代表者の導きを受けずに独力で戦わなければならなかったのです。一方,兄弟たちが組織の指導を十分に受けていた南アフリカにおいて,真理はどのように進展していたでしょうか。

      南アフリカのアフリカ人を援助する

      ヨハネスバーグでは他のアフリカ人が真理を知るようになっており,良いたよりは指定地区や鉱山の宿泊所(アフリカ人の宿泊所)に住んでいる人々にまで広まっていました。そうした人々のひとりにヨタム・ムレンガがいました。彼は泊まっていた宿泊所に白人の兄弟が「創造の写真-劇」を持ってやって来たときのことを覚えています。ムレンガ兄弟は「劇」から大きな影響を受け,「聖書研究」の第一巻を入手した後まもなく,他のアフリカ人の兄弟が交わるヨハネスバーグの集会に出席し始めました。

      当時,南アフリカに住むヨーロッパ人の兄弟の中のある人々はアフリカ人を援助していました。そのころ宿泊所の副経営者だったV・フッチャーもそのひとりで,多くのアフリカ人が真理を受け入れるのを助けました。その中にモザンビーク南部出身のアルビノ・メーレンベがいました。彼はフッチャー兄弟の伝道を受けて1925年に真理に接したのです。メーレンベは同年中にモザンビークの首都,ロレンソマルケスに戻り,それからビラ・ルイーザの彼の郷里にまで行きました。彼はそこでマッラクエネのスイス・ミッション教会の会員に真理を伝道し始めました。メーレンベは良い成果を得,まもなく真理はモザンビークにしっかり根を下ろしました。40名もの人々は集会に出席し,しばしば32㌔ほどの旅をしてやって来る人がいました。そうです,王国の業はもうひとつの区域に根を下ろし始めたのです。

      迫害のために停滞しなかった

      南アフリカで大いなるバビロンの主な手先となっていたのはオランダ改革派教会の指導者たちでした。彼らは多くの場合,真理の側に立つ人々を厳しく迫害し,第一世紀に不信仰なユダヤ人が使徒のパウロとバルナバに対して行なったように,その人々を町から町へ絶えず攻め立てて悩ましました。(使徒 14:2,5-7,19)その興味深い例となる出来事がオレンジ自由州で起きました。1920年代の半ばにボショフという町で行なわれたド・ジェゲール兄弟の講演会に有名な弁護士と彼の妻が出席しました。講演会には土地の高官も多数出席し,その中の数人は後で講演者を伴って喫茶店に行き,聖書に関する質問をしました。弁護士のテオ・デニッセン氏と彼の妻は深く感銘して文書を求め,やがてこれこそ真理であるとの確信を得ました。ふたりはまもなく友人や親族に証言しましたが,それはたちまち土地のオランダ改革派の牧師の憎しみを買いました。その後すぐに,デニッセン兄弟と彼の妻は教会を脱退しました。1925年の末までには彼らの親族3人と11人の友人も脱退し,彼らの脱退届は説教壇から読まれました。

      デニッセン兄弟はオレンジ自由州のその地方でよく知られた人でしたから,彼が真理の側に立ったことは大評判となり,広範囲に証言がなされました。1927年に同兄弟とボショフの小さなグループは郵送の業に参加し,オレンジ自由州の非常に広範な地域に「世界の支配者たちへの証言」という決議文を含む約1万部の小冊子とパンフレットを郵便で配りました。1927年の4月,ボショフ会衆は全員でヨハネスバーグの全国大会に出席し,そのうちT・C・デニッセン兄弟姉妹を含む少なくとも13名の人々が浸礼を受けました。同じ年,小さなそのグループは日曜日の朝の戸別訪問活動を始めました。その奉仕活動を開始したばかりの全世界の兄弟たちと歩調を合わせるためです。土地に住む偽りの宗教の僧職者が非常に憂慮したことは明らかで,彼らは「ラッセル派」を非難する一連の説教を教会で行ないました。後にふたりの兄弟と3人の牧師による公開討論会が開かれました。その結果ひとりの巡査部長は真理を認めて自分の立場を明らかにし,死ぬまでその立場にしっかりととどまりました。

      証人の成功に激怒したボショフの牧師は執事と長老たちに,教会員をひとり残らず訪問し,デニッセン兄弟を支持することをやめて兄弟が弁護士をやってゆけないようにさせるよう告げることを指示しました。1927年のうちにデニッセンの家族は移転せざるを得なくなり,ケープタウンに近いウエリントンの町に行きました。しかしそこでも土地の牧師が迫害の運動を進めたため,彼らはケープタウンに移らなければなりませんでした。

      ところで,アフリカ人の間の状況がたいへん心配されたずっと北方の区域ではどんな様子でしたか。1926年,ジョージ・フィリップスは,ヘンリー・マイアダルを伴って南ローデシアを旅行するようケープタウン支部から派遣されました。ふたりは国境で呼び止められ,アフリカ人を対象にして業を行なわない限り入国を許可すると言われました。当局者は前述の宣教師会議の決議を認めて実施していたものと思われます。

      ふたりが旅行先で用いたのは,町か都市に着くと会場を借り,小さなゴム印の印刷道具で宣伝ビラを印刷して人々を招待するというやり方でした。会場で関心を持つ人々の名前と住所を受け取り,「聖書研究」と「神のたて琴」を携えて彼らを訪問しました。そうした訪問を行なうための唯一の交通手段は自転車でした。ただし,町から町へ旅行するには汽車を使いました。新しい土地に到着するたびに,ふたりは必ず警察の“歓迎委員”の出迎えを受けました。捜査課はものみの塔協会から来たそのふたりのヨーロッパ人を注意深く監視し続けました。そんな風にして彼らはブラワヨ,クエ・クエ,ガトーマ,グウェロ,ソールズベリーおよびウムタリを訪問しました。ウムタリではグム夫妻が真理を受け入れました。ふたりの兄弟は炭坑の中心地であるワンキーにも行きましたが,そこで世界に比類のない景勝地のひとつである美しいビクトリア滝を見に行きました。また炭坑の中も案内してもらいました。しかし,ふたりは警察から課せられた制限を守り,炭坑で働いていた「ものみの塔」のアフリカ人たちと連絡を取ろうとしませんでした。4,200冊を上回る文書を配布し,数か所で人々の関心を高めたふたりは,数か月間の旅行を終え,1926年12月末にケープタウンで開かれる年に一度の大会に間に合うべく南アフリカに戻りました。

      ケープタウンでのもうひとつの変化

      ケープタウンの小さな支部では物事があまり順調に運んでいませんでした。以前に英国支部にいたことのある支部の監督,ワルダー兄弟は,比較的大きな英国の区域や古いロンドン・“タバナクル”における大きな集まりを取り扱うことに慣れていました。ケープタウンに着いた時から,彼には万事が全く異なっていて,あまりにも規模が小さく見えました。ワルダー兄弟が南アフリカで支部の監督をしていたしばらくの間,幾らかの進歩はあったのですが,兄弟にはそれが遅く思われました。物事の規模が非常に小さいということは彼にとって試みとなりました。ワルダー兄弟は南アフリカに3年半とどまった後,1927年の末ごろそこを離れました。

      ラザフォード兄弟は時を移さず,ワルダー兄弟の補佐をしていたジョージ・フィリップスを支部の監督に任命し,業は続けられました。フィリップス兄弟にはその新しい責任を担うだけの十分な備えがありました。彼は1927年までの過去13年間全時間奉仕に携わり,野外においても事務所においても経験を積んでいました。また,エホバの組織に対する認識が深く,協会に対する強い忠節心と明哲な精神,そしてりっぱな闘志の持ち主でした。そうした資質は前途の多難な時代に大きな助けとなるはずでした。

      南アフリカの業はまもなく速度を増し始めました。フィリップス兄弟は自分が若くして全時間奉仕を始めていたので,開拓者としてエホバに仕える喜びを味わうよう生がい他の人々を励ましてきました。ですから配布者の数がやがて増加し始めたのも不思議ではありません。

      その人々が行なった業,迫害に面して示した忍耐,新しい区域にわけ入る不断の努力について読むと,聖書の使徒たちの活動に記録されているイエス・キリストの使徒たちの同様な経験を思い出さずにはいられません。

      暴力行為が突然に発生する

      当時,全時間のしもべの隊ごにはピエ・ド・ジェゲールとヘンリー・マイアダルがいました。もうそのころにはふたりは組になって国内を旅行し,講演をしたり訪問の業をしたりしていました。多くの場所で僧職者が反対をあおり,説教壇から,あるいは新聞を通して攻撃しましたが,暴力ざたになることはめったにありませんでした。ところが,ピエ・ド・ジェゲール兄弟とマイアダル兄弟がオレンジ自由州のデウェツドープという小さな町に来た時,反対は暴力化したのです。ふたりはいつものように会館を予約し,小さなゴム印でビラを印刷して講演を宣伝しました。その時は町の劇場が予約されていましたが,講演が行なわれる日の朝になって,劇場の持ち主は予約を解消すると兄弟たちに告げました。ドイツ改革派の牧師がその持ち主に,講演を行なわせるなら教会員は彼の劇場をボイコットすると言ったからです。

      そのため兄弟たちは困りましたが,市役所に行って市の立つ広場で公開講演をする許可を得るとすぐに新しいビラを準備し,それをできるだけ速く配りました。講演会はその晩に開かれ,約75人が出席しました。

      講演がまだそれほど進まないうちに,群衆は講演者に詰め寄ってやじを飛ばし始めました。やじは次第に激しさを増しました。と,突然,講演者の横に立っていたマイアダル兄弟は頭に強い一撃を感じ,もう少しで倒れそうになりました。幸いにも私服の警官がその場に居合わせ,成り行きを見ていました。群衆のうしろにはオランダ改革派の牧師がいて,人々を扇動し,そうした暴力行為を故意に行なわせていました。数名の人が逮捕され,翌日の裁判で罰金刑に処せられました。ふたりの兄弟は落胆することなく講演旅行を続けました。

      1928年,「サタンを退け,エホバを支持する宣言」という反響を呼ぶ決議がミシガン州デトロイトの大会で熱意を込めて採択され,年に1度発表された一連の七つの音信の最後を締めくくりました。同じデトロイト大会で,ラザフォード兄弟によって行なわれた「人々の支配者」と題する感動的な講演が107の放送局を結ぶものみの塔中継放送によって放送されました。はるかかなたのケープタウンでは,少数の人が短波ラジオでその講演を聞いたのを記憶しています。しかし,アメリカからの放送に加えて,南アフリカ唯一の放送会社であるアフリカ放送会社を通じて幾つかの講演を放送する取り決めが設けられました。ケープタウン,ヨハネスバークおよびダーバンにある同放送会社の三つの放送局を通じて1928年中に七つの講演を放送する許可が下りました。こうして,良いたよりは遠く人里離れた土地にまで達し,多くの人々が王国の音信を初めて耳にしました。

      さらに1920年代の後半には,戸別の業では達することのできない人々に証言するため,全国的な郵送の運動が兄弟たちによって行なわれました。ケープタウンの兄弟のひとり,フランク・スミスは5万冊の小冊子を農夫や燈台守,森林監視人,その他一風変わった生活をしている人々に送る費用を負担しました。包装したりあて名を書いたりする仕事はすべてケープタウン会衆の人々が行ないました。その結果,出版物の注文が多数寄せられ,それと共にそうした珍しい方法で伝えられた良いたよりが孤立した人々に慰めと喜びをもたらしたことを示す励ましある手紙が届きました。いうまでもなく正統派の宗教家たちはおきまりの反応を示し,教会誌の紙面を通じて全国的に何度も痛烈な攻撃を行ないました。

      南西アフリカが良いたよりを聞く

      南西アフリカの区域,すなわち砂漠か半乾燥地からなる約82万3,620平方㌔にわたる区域のかなりの部分にも王国の音信が達したのは,その郵送の業によりました。西海岸にずっと沿って約140㌔の幅に大きなナミブ砂漠が横たわっています。6万人の白人を含む61万の人口は広く散在し,南アフリカ人,ドイツ人,英国人といったヨーロッパ系の人々とアフリカ人のヘレロ族,オバンボ族,ナマ族もしくはホッテントット族,ダマラ族およびブッシュマン族からなっています。このほかに,初期の白人開拓者とホッテントットの混血であることを誇りにして自らを「バスタード」(文字通りには「混血」の意)と呼ぶグループがあります。

      1928年当時,この国は,証言の業に関する限り,まだ全く手がつけられていませんでした。しかし,同年中に郵送運動が組織され,南西アフリカの最新の住所録を入手してそこに出ている人々すべてに「国民の友」と題する小冊子を1冊ずつ郵送することがなされました。そうした王国の種のひとつは珍しい方法で良い土に落ちました。

      そのころ炭坑で働いていたバーンハード・バアデという人はいつも近所の農夫から卵を買っていました。ある日のこと,買った卵が「国民の友」の最初の数ページに包んでありました。バアデはそれを読み始め,読み進むにつれてだんだん興味を持つようになりました。次に卵を買った時,それが小冊子の残りのページに包んであったので,バアデはやっと続きを読むことができました。彼は手紙で文書を注文し,その後まもなく真理の側に立ちました。

      翌年の1929年にレニー・テロン姉妹は南アフリカから南西アフリカのウィントフークに派遣されました。彼女はそこから汽車と郵便馬車を使って全長約八千㌔の旅をし,全国の主要な町すべてを網羅しました。人々の多くは前の年に小冊子を郵便で受け取っており,それに感謝していました。姉妹自身の配布数は驚異的で,4か月間に英語とアフリカーンス語とドイツ語の書籍および小冊子を6,388冊配布しました。

      テロン姉妹が南西アフリカで励んでいる間に,パートナーのエリザベス・アドシェイドは南ローデシアに派遣されました。様々な土地で警察や判事からひどい反対を受けたにもかかわらず,彼女は勇敢に業を続けてこの国のヨーロッパ人の都市を全部網羅しました。

      1929年までに南アフリカ支部の管轄下にある膨大な区域の非常に広範な部分に王国の音信が伝えられました。そのことについて,1930年の「年鑑」はこう述べています。「はるか北方にある英領東アフリカのケニア植民地,英領中央アフリカのタンガニーカとニアサランド,およびベルギー領コンゴから郵便で文書の注文を受け取っています」。

      問題は進歩の妨げにならない

      かつてニルストルームの学生だったポール・スミット兄弟は1920年代の後半にプレトリアにいました。彼はプレトリアの群れが危機的な状態にあったと述べ,とりわけ次のように語っています。「群れには何の進歩も見られませんでした。奉仕のための会が組織されたことは群れを揺り動かし,ふたりの人が離れて行きました。そのころ長老のひとり(ミュラー兄弟)は本を書くことに精を出していました。協会はそうすることを認めないと言っていましたし,わたしはやめてほしいと兄弟に願ったのですが,彼はその悪い行為をやめようとはしませんでした。その本を出版した後のある日曜日の朝,同兄弟は本を会館に持って来て,それを配布してほしいとクラスに要請しました。驚いたわたしは立ち上がり,協会はその本を認めていないこと,また協会の方針に反する人に対して,それがだれであれわたしは反対することを勇気を持って話しました」。そのことに動揺した長老たちは彼らの追随者とともに離れて行き,残ったのは年老いて病弱な姉妹とスミット兄弟姉妹だけでした。

      その直後にステインバーグ兄弟姉妹がプレトリア地方に移って来ました。それは小さくなったプレトリアの群れにとって大きな励ましでしたし,その兄弟姉妹にも大いに益となりました。プレトリアの群れは厳しい清めの期間を経験しましたが,その時から着実かつ順調な進歩を見せました。

      プレトリアにおけるヨーロッパ人のグループのことはそのくらいにしておきましょう。では,そこのアフリカ人はどうだったでしょうか。ハミルトン・カフウィット兄弟は1927年にブラワヨからプレトリアへ移りました。しかし,当時そこではアフリカ人の集会が開かれていなかったので,ヨハネスバーグにあるアフリカ人の集会に出席していました。その後1931年にムラウジという兄弟がニアサランドから来て彼といっしょになり,ふたりは「神のたて琴」を共に学び始めました。かなりの期間プレトリアのアフリカ人の兄弟たちはカフウィットの家で集会を開きました。今日でも,ヨーロッパ人の都市に近い町つまり“特別区”にあるアフリカ人の会衆の多くは一般の家で集会を開いています。アフリカ人のための王国会館を建てることは現在に至るまで政府および市当局から反対されてきたのです。

      1930年1月,フィリップス兄弟は結婚し,彼の妻は支部事務所の職員に加わりました。支部の援軍が同年さらに到着しました。それはルレウェリン・フィリップスとジョージ・スペンスです。ルレウェリン・フィリップスはウェールズの出身で,ジョージ・フィリップスと血のつながりはありませんが,彼も開拓奉仕の経験を十分に持ち,ロンドン・ベテルで数年間奉仕していた人でした。

      ケープタウンの支部がホサ語,ズールー語,セソト語といった地方語の小冊子を生産し始めたのも1930年代初めのことでした。「神のたて琴」がホサ語で,「王国は世界の希望」がズールー語で出されました。

      東アフリカに進む

      1931年,アフリカのもうひとつの広大な区域,英領東アフリカが開拓されるようになりました。そこは現在3つの国に分かれ,ケニア,ウガンダおよび(タンガニーカとザンジバル島からなる)タンザニアになっています。1930年代初期に英国の管轄下の州であったそれらの国は,アフリカにおける国家主義の台頭に伴い,次々に英国から独立を獲得したのです。1962年タンガニーカがイギリス連邦の独立したタンザニア共和国となり,ウガンダも同年独立し,ケニアは1963年に独立しました。その地方の住民は多くの国籍や部族の人々からなっており,数か国語の混交が見られますが,幸いにもスワヒリ語が全国共通の言語になっています。

      宗教的にいって,“暗黒のアフリカ”という呼び名は当を得てきました。原住民の大多数は異教の崇拝の信奉者だったからです。キリスト教世界,すなわちカトリックとプロテスタント双方の宣教師団は東アフリカで何年も活発に働いていましたが,アフリカの他の場所におけると同様,『霊と真理をもって崇拝する』クリスチャンを生み出しませんでした。(ヨハネ 4:24)では,霊的に暗黒のこの地域に真理の光が初めて輝き始めたのはいつでしたか。

      そのころ,ケープタウンでグレイ・スミスという新しい兄弟が補助的な配布者の奉仕に携わっていました。最初に真理を知ったのは彼の実の兄フランクで,1928年にグレイも真剣に学び始めました。彼は1929年にバプテスマを受け,その直後ぐらいに補助的な配布者の業を始めました。後に彼はフランクに加わって東アフリカへの非常に興味深い旅行をしました。

      1931年,そのふたりは,東アフリカで良いたよりを広める可能性を調査するためにケニアへ派遣されました。当時ケニアは,約2万5,000人のヨーロッパ人を含むおよそ400万の人口を有する,英国の保護領でした。ふたりはキャラバンに改造した自動車を持ち,ケニアの海港モンバサ行きのサクソン・カースル号に乗って航海しました。モンバサからキャラバンで約640㌔旅行して首都のナイロビに行きました。そこへはすでに40箱の書籍を送ってありました。道が悪かったので,その旅行に8日かかりました。ふたりはナイロビを網羅して約1か月で全部の書籍を配布してしまいました。書籍の多くはゴアン族インデアンに配布されましたが,そのほとんどはカトリックの司祭によって集められて焼かれました。

      南アフリカへの帰途,ふたりの兄弟はマラリアにかかりました。その時代にマラリアは非常に危険な病気でした。ふたりはダル・エス・サラームから出帆した船に乗りましたが,重体に陥ってうわごとを言うようになったので,ダーバンで船から降ろされ病院に入れられました。フランク・スミスはそのまま意識が回復せずに亡くなり,グレイ・スミスはやっと一命を取り止めましたが,4か月入院しなければなりませんでした。しかし,彼は1931年の末ごろケープタウンに戻りました。

      そのころ,英国では,ロバート・ニスベットという名前の青年がロンドンのある薬剤研究所の良い職を捨てて開拓奉仕に入ろうとしていました。その時ロンドンにいたラザフォード兄弟は彼を呼んで,「わたしたちはケープタウンに行く人を捜しているのですが,あなたは行ってくれますか」と言いました。ロバートは承諾してすぐに支度を始めました。

      ニスベット兄弟はケープタウン支部に着くとすぐ,東アフリカへ発送するばかりになった文書の船荷を見せられました。それはなんと200箱もありました! スミス兄弟たちの旅行のことやフランクの身に生じた悲しい出来事について聞いたにもかかわらず,彼は東アフリカに行く割当てを熱意を持って受け入れました。彼にデイビッド・ノーマンが加わり,ふたりは任命地に向けて旅行しました。彼らは,ケニア,ウガンダ,タンガニーカおよびザンジバル全域,そのとてつもなく広い区域を網羅することになっていたのです。

      蚊帳をつって寝たり,東アフリカのすべての郵便局で安く買えるキニーネを毎日多量に飲んだり,日中はトピーすなわち日よけのヘルメット帽をかぶったりしてマラリアにかからないようにしながら,1931年8月31日,ふたりはタンガニーカの主都ダル・エス・サラームで証言活動を開始しました。ニスベット兄弟が次のように語っている通り,それは決して楽な割当てではありませんでした。「白い舗装道路の日の照り返し,猛烈な蒸し暑さ,ずっしりと重い文書を持って戸別に訪問しなければならなかったこと,これらはわたしたちが経験した苦労のほんの幾つかにすぎません。しかし,わたしたちは若くて体力があり,その割当てを楽しみました」。

      精力的なふたりの兄弟たちは2週間で千冊ほどの書籍と小冊子を配布しました。その中には,書籍がいろいろな色をしているので“レインボー・セット”と呼ばれた書籍のセットが多数含まれていました。このことは僧職者の憤怒を買い,そうした文書を家に置くことすら信者に禁じた教会法1399号に教区民全員の注意を促す告知文が,カトリック教会の掲示板にはり出されました。書籍の大部分はインド人に配布されました。というのは,兄弟たちはスワヒリ語の文書を持っていなかったからです。それに,アフリカ人は十分の教育を授けられていなかったので,彼らに証言の業をすることができませんでした。

      ふたりはダル・エス・サラームからザンジバルに進みました。その島は海岸から約32㌔沖にあり,かつては奴隷売買の中心地でした。町には,不案内な人ならすぐ迷ってしまいそうな曲りくねった狭い道が走り,たえずちょうじの香りが漂っていました。今でもザンジバルは事実上全世界にちょうじを供給しています。島の人口は25万人で,そのうちの約300人が当時支配していた英国人でした。スワヒリ族が大多数を占め,約4万5,000人がインド人とアラブ人でした。多くの書籍がインド人に配布され,アラブ人にも幾らか配布されましたが,ここでも人口の大部分を占めるスワヒリ族の人々は王国の音信を伝えられませんでした。

      ザンジバルに10日滞在した後,ふたりは船でケニアの海港モンバサに行きました。ケニアの高地へ行く途中では新鮮な野菜や果物,温暖な気候を満喫しました。彼らは汽車で旅行し,ビクトリア湖までずっと道中の町々で業を行なってゆきました。それから長さ約400㌔,幅約240㌔のその内海を渡ってウガンダの首都カンパラに行きました。ふたりはそこで大量の文書を配布し,「黄金時代」誌の予約を得ました。80㌔ほど奥地のジャングルで,ひとりの紳士は友人が「政府」と題する本を熱心に読んでいるのを見ました。彼はカンパラに来てその文書を配布している青年を見つけ,全部の書籍を1冊ずつ求めて「黄金時代」誌を予約しました。

      自動車で帰りの旅行を始める前に,彼らはさらに40㌔ほど奥地にあるもうひとつの町を訪れました。そして,アフリカのそんなにも奥地に印刷された王国の音信を初めて伝える器として用いられたことに感激しました。帰りは別の道を取り,ナイル川の源であるリポン滝を訪れるという楽しい経験をしました。モンバサへ帰る道すがら,鉄道沿線のさらに幾つかの町で奉仕しました。モンバサでは言いようのない熱暑の中で業を行なって文書を大量に配布し,2度開いた講演会では多くの出席者を迎えました。その後沿岸の土地をもう一か所訪れてから,ルランドヴェリー・カースル号に乗って南アフリカのケープタウンに向け約4,800㌔の航海に就きました。

      東アフリカへの2度にわたる最初の旅行で,7,000冊を上回る書籍と小冊子が配布され,「黄金時代」誌の予約が多数得られました。そうした種の幾らかは間違いなく良い土に落ちました。数冊の小冊子を受け取った一紳士はケープタウンの協会に手紙を書いて,ラザフォード判事が著した本と小冊子を全部注文したからです。その人はタンガニーカのブンド(孤立した土地)にある金鉱の経営者でした。このように,献身的で熱心な開拓者が多大の費用と努力,また命そのものをも費やすことにより,音信は英領東アフリカに達して王国の業が進展しつつありました。

      考えてみると,1931年にはその時南アフリカにいた少数の忠実な人々によって途方もなく広い区域で業が行なわれました。その年,南アフリカの区域で合計6万8,280冊の書籍が配布され,兄弟たちの信仰を強める8つの奉仕大会が開かれました。そうした広大な区域でいったい何人の人々がそれだけの業を行なったでしょうか。アフリカ南部全体でわずか100名ほどの伝道者がいたにすぎなかったのです。

      エホバの証人として前進!

      1931年を飾ったのは,オハイオ州コロンバスの大会から伝えられた「エホバの証人」という名前の採択に関する心を躍らせるニュースでした。その知らせは,南アフリカの小さいながら精力的な一団の人々を含め世界中のエホバの民に大きな喜びをもたらしました。神の傑出したお名前を用いることを考えて圧倒された兄弟も少なくありませんでしたが,それによって兄弟たちはアフリカ南部全域でエホバのお名前を宣明するという特権をなお一層認識することができました。そこでの王国の業とその発展はもうひとつの転換点を迎えました。

      アフリカ南部の兄弟たちは「エホバの証人」という聖書的な名前に鼓舞され,1930年代初めに非常な熱意と決意をもって前進しました。霊的な武器と神権的な道具はどんどん備えられていました。1932年に一番強力な武器だったのは明らかに「王国は世界の希望」と題する特別な小冊子でした。エホバの証人はあらゆる国で,それを配布することに励み,区域内の僧職者,政治家および大実業家すべてを訪問するという運動に参加することに精を出していました。そうした人の多くはそれまで個人的に証言を受けたことがありませんでしたが,今や彼らにも機会が与えられました。

      むろん,政府の高官や国会議員に面会することは多くの場合容易ではありません。それで兄弟たちは,国会議員が一年のある時季に司法上の主都であるケープタウンから行政上の主都であるプレトリアに移動する機会を利用しました。それらの人々が旅行に出るためケープタウンの駅で待っているちょうど良い時に,兄弟たちがやって来てその特別な小冊子を彼らに手渡したのです。彼らは1,600㌔近くの長い旅をするところでしたから,出版物を読んでその内容について考える十分の機会がありました。

      1933年中にラザフォード兄弟の講演の録音が用いられるようになりました。アフリカ放送会社は放送用に録音された強力な音信をケープタウン,ヨハネスバーグおよびダーバンの3つの主要な放送局から月に一度放送することに同意しました。こうして音信は,南アフリカ,南ローデシアおよびアフリカ大陸を約3,200㌔入った遠い北ローデシアの多くの家庭に,そして疑いなく多くの心に達しました。講演を聞くとすぐ,人々は前よりも喜んで文書を受け取りました。ところが,1年後に宗教的な放送に関する諮問委員会が組織されました。この委員会は正統的な諸宗派の僧職者から成り,王国の音信の放送をやめさせるよう取り計らいました。

      しかし,そのころの熱心な伝道者の業を阻止することは不可能でした。小さな町ではオランダ改革派の大きな教会が周囲数㌔内の主要な建物であり,農夫たちは聖さん式(アフリカーンス語ではナグマールと呼ばれ,実際の意味は「晩さん」である)が行なわれる日曜日に教会の広場に集まり合うのが常でした。彼らはそこにテントを張り牛車を置いてキャンプしました。兄弟たちはしばしば彼らの間で活発に奉仕し,その結果多くの討論が行なわれました。特に,アフリカーンス語を話す兄弟たちは真理の武器で霊的な闘いをするのが好きでした。後に,証言の集会でそうした遭遇戦のことがたいへん楽しそうに語られました。

      フレッド・ルーディックは,トランスヴァール州北部で開拓奉仕を始めてまもなくひどいマラリアにかかりました。数人のアフリカ人が助けに来てくれ,野生の果実から調合した薬を作ってくれました。ルーディックはそのおかげで治りました。しかし,別の時,彼のパートナーのシドニー・マックラキーの場合にことはそのようにうまくいきませんでした。マックラキー兄弟は腸チフスの熱に冒されました。フレッドはこう語っています。「そのために彼の体重は2,3週間で約75㌔から41㌔に減り,シドニーは亡くなりました。わたしたちは彼を(ケープ州の)トランスキにあるカラの山脈近くに埋葬しました」。こうして,アフリカ南部の王国の業の発展途上でエホバの忠実なしもべがもうひとり自分の命をささげたのです。

      ルーディック兄弟はしばらくの間トランスヴァール州北部のブッシュフェルトで奉仕し,ミュラー兄弟と彼の家族を含む孤立した群れと共に働きました。1930年の初めにミュラー兄弟はトランスヴァール北部全域とケープ州北部にまで入ってすぐれた業を行ない,多くの人が真理を知るのを助けました。

      いうまでもなく彼らには問題もありました。そのひとつに,フレッド・ルーディックがカトリック伝道団の伝道所を訪問した時のことがあります。彼はそこで司祭に会い,自分が訪問した目的を説明し始めたところ,司祭の顔は次第に紅潮してゆきました。突然司祭は建物の奥に飛び込むと,銃を持って戻り,ルーディック兄弟にねらいを定めました。しかし,フレッドは平静を保ってくるりと向きを変え,背筋の寒い思いをしながらも自動車のほうに歩いて行きました。

      その時までにルーディック兄弟は自転車を“卒業”して木製のスポークが使ってある1928年型のフィアット車を使用していました。彼とミュラー兄弟はその車で荒涼としたブッシュフェルトの広い地域を網羅しました。夜ライオンのほえ声を聞きながら木の下で眠らなければならないことも少なくありませんでした。といっても,たいへんなでこぼこ道を,次から次へパンクするタイヤを修理しながら旅行する野外での厳しい一日を終えた後ですから,ふたりはライオンがいようがいまいが死んだように眠りました。自動車のブレーキも難儀をもたらしました。サウトパンズ・バーグ・パースを越えた時には生皮のロープを前輪のスポークに結びつけ,急な坂を降りる時にそれを強く引っ張らなければなりませんでした。ゴムの焼けるにおいがして全く冷や冷やする経験でした。ふたりの兄弟はそうした経験をしてミュラー家の農場に戻ったときはほっとしました。そこではミュラー姉妹と子どもたちに温かく迎えられたものです。その子どもたちはすでに家庭で良い訓練を受けていました。何人かの子どもたちは後に全時間奉仕を行なうようになり,そのうちのふたりは今なお南アフリカ支部で奉仕しています。その一方が現在の支部の監督であるフランス・ミュラーです。

      セントヘレナで証言が行なわれる

      トランスヴァール州でこうしためまぐるしい活動が行なわれている間に,開拓者たちは,アフリカの西岸から約1,920㌔沖にある大西洋の小さなはん点のような島,セントヘレナへ行く準備をしていました。この島は広さがわずか122平方㌔ほどであり,5,000人に満たない住民はカラードが大半を占めていて非常に貧しい人々です。このへんぴな島は1815年から1821年にかけてナポレオンを流刑にするのに安心な場所と考えられました。その時セントヘレナは英国の領土でした。

      グレイ・スミスは,東アフリカへの旅の後恐ろしい病気からすでに回復して,再び開拓奉仕に力を注ぐ用意が整い,セントヘレナへ行く準備をしました。この度の彼のパートナーは,前の支部の監督ヘンリー・アンケッティルの息子のハル・アンケッティルでした。ふたりは十二分の文書を携えて行き,島中を徹底的に奉仕して1,000冊近くの文書を配布しました。

      その訪問の結果,トマス・スキピオという警察官は真理を受け入れて王国の音信を伝道し始めました。彼は60歳で警察を退職し,開拓者になって野菜作りで生計を立てました。彼の息子のジョージ・スキピオは,セントヘレナで後に組織された会衆の最初の主宰監督になりました。

      父親のスキピオ兄弟は初めから王国の良いたよりを他の人々と分かつ責任を認識し,自分の親族や島の他の人々に大胆かつ広範な証言を行ないました。1年後には幾人かの人々が彼に加わって証言の業に携わっていました。蓄音器と聖書講演のレコードが入手できるようになると,彼はさっそくそれを求めました。その後何年かにわたり,それは,喜んで耳を傾ける人々に証言する最も効果的な方法であることがわかりました。

      1935年までに6名の伝道者からなる小さな群れが島の唯一の町であるジェイムスタウンに組織されました。その小さな群れの伝道者たちの忠実な活動は成果をもたらし,群れは大きくなりました。新しい兄弟のひとりは喫茶店を持っていましたが,顧客にレコードを聞かせる機会を決して逃しませんでした。1939年までにはふたつの群れができていました。ひとつはジェイムスタウンに,もうひとつは数キロ離れたロングウッドにあり,そこはかつてナポレオンが監禁されていた所です。

      南西アフリカに戻る

      セントヘレナの訪問が大成功を収めた後,スミス兄弟は1935年に南西アフリカに行く決心をしました。彼はその旅行に妻と息子のひとりを伴い,幌つき貨物自動車に新しい録音再生機と数枚のレコードを積んで出かけました。

      彼らはわずか5か月間で1万3,000冊もの書籍と小冊子を配布し,「黄金時代」誌の予約を70件も得たのですから,確かにすばらしい経験をしました。主としてルーテル派,カトリックおよびオランダ改革派の僧職者たちにはそれがおもしろくありませんでした。ある場所で,オランダ改革派の牧師は許可なくして書籍を販売しているとスミス兄弟を訴えました。しかし,治安判事はただ笑って,自分も文書を数冊求めました。

      真理の種は再びふさわしい土に落ちました。南部に住むアブラハム・ド・クラークというひとりの人は文書を求めてそれを読み,ほとんどすぐに真理を確信しました。彼は新たに見いだした真理につき従い,自分にできる限りのことをして家族を教えました。エホバはその努力を祝福され,彼の妻および子どもたちの幾人かが真理を受け入れました。そして,南西アフリカで最初の証人のひとりであるこの“オオム”アブラハム(アブラハム“おじさん”の意)は,1960年代の末に亡くなるまでエホバに忠実に奉仕し続けました。

      1930年代のスワジランド

      さて,南アフリカの東側を越えて,もうひとつの色彩豊かな国,スワジランドに行きましょう。この国は三方をトランスヴァール州に囲まれ,東側はモザンビークと国境を共にしています。面積は約1万7,350平方㌔で,およそ42万の人口を有し,そのうちヨーロッパ人はわずか数千人にすぎません。

      1930年代の初期に開拓者たちがスワジランドを訪れ,すばらしい証言がなされました。彼らは,町に住むヨーロッパ人を訪問するほか,スワジ民族の首長ソブーザ王二世をも訪ねました。この人は証人たちに対して非常に友好的で,証人たちは彼の部落ですばらしい歓迎を受けました。ソブーザ王は100名の護衛兵を召集し,音楽のレコードとものみの塔協会のJ・F・ラザフォード会長の講演のレコードを聞かせました。その場にいたF・ルーディック兄弟は,50人ほどの妻に囲まれた王に証言するのはたいへん興味深い経験だったと語っています。

      別の時でしたが,ロバート・ニスベットとジョージ・ニスベットもこの王に証言しました。ラザフォード兄弟のレコードを幾つか聞いてたいへん喜んだ彼は,蓄音器とレコードと拡声機を買いたいと言いました。これには開拓者たちも困ってしまいました。彼らは文書をたくさん置いて行くということでやっと王に納得してもらうことができました。

      モーリシャスとマダガスカルに達する

      1933年,南アフリカ支部はふたりの経験を積んだ開拓者をモーリシャスとマダガスカル(マラガシー共和国)に派遣することを決定しました。アフリカ東岸沖のふたつの島へ行くという魅力的な割当てを受けたのはロバート・ニスベットとバート・マックラキーでした。ふたりは最初にモーリシャスに行きました。

      ダーバンをたってモーリシャスに行く前に,ふたりは幾らかの時間をかけてフランス語を学ぼうとしました。主な言語はフランス語だと思っていたからです。ところが目的地に着いてみると,住民のほとんどはフランス語の方言もしくはなまりの一種であるクレオール語を話していました。ですから開拓者は人々の言うことがわからず,人々の方は開拓者の話が理解できませんでした。実際,ロバート・ニスベットの場合は問題がもっと複雑でした。彼にはスコットランドのアクセントがあったからです。ある時など家の人は彼にこう言いました。「わたしにはそのことばがわかりませんから,どうか英語で話してください」。

      島で主に実力や権力を持っていたのはカトリックでしたから,まもなくふたりの兄弟が逮捕されそうになったのも不思議ではありません。司祭たちの扇動で警察に苦情が持ち込まれました。警察は南アフリカに電報を打って兄弟たちの素性を確かめ,ふたりの伝道する権利を擁護しました。ただし,許可なくして集会を開くことは禁じられていること,および兄弟たちの場合それは許可されないであろうということが申し渡されました。さらに,ラ・ヴィ・カトリーク(カトリック生活)という地方新聞は,ふたりの「偽預言者」について警告を出しました。そのためにふたりの配布は減少しましたが,見込みのある「羊」を探す彼らの喜びと決意は損なわれませんでした。

      ローマ・カトリックの枢機卿ヒンズリーはふたりの開拓者と同じ時に英国からモーリシャスを訪れていました。それはある司祭をこの島の新しい司教に就任させる式を執り行なうためでした。島はその特別な行事のためにやって来たカトリックの高位聖職者や司祭であふれていました。それは開拓者たちにとって「王国は世界の希望」と題する小冊子を提供する絶好の機会となりました。ヒンズリー枢機卿その人に小冊子を手渡したのはロバート・ニスベットでした。枢機卿は騒ぎ立てずにそれを受け取りました。バート・マックラキーは新しく就任した司教ジェイムズ・リーンに手渡そうと試みました。彼は静かにそれを取るとずたずたに引き裂いてくずかごに捨ててしまいました。

      当時モーリシャス島では交通費がたいへん安く,恐らく世界のどの場所よりも安かったことでしょう。たとえば,汽車に乗って島を一周し,それからバスと汽車でもう一度島を一周してもわずか半クラウン(約105円)でした。そのようにして開拓者たちは島中をくまなく網羅しました。彼らはフランス語の文書に加えてタミール語,ウルドゥー語,ヒンディー語といったインドの様々な言語や中国語の小冊子を配布しました。ある時,インドの一新聞の編集者は,ローマ・カトリックの教階制の罪を勇敢に暴露した「黄金時代」誌の長い記事を興味深く読みました。そして,その記事を続物として新聞に掲載し始めました。ところがそれが完結しないうちに警察が介入し,どんな結果になるかを編集者に厳重に言い渡したため,彼はその記事を掲載するのをやめてしまいました。しかしながら,僧職者から非常な反対を受けたにもかかわらず,ふたりの開拓者はその割当てを果たしました。

      彼らの訪問はモーリシャス島の人々に対して大きな証言となり,ふたりが島を去った後には幾らかの非公式な証言を行なう小さな群れができていました。ニスベット兄弟とマックラキー兄弟はそうした労苦の生んだ実を心からうれしく思ったにちがいありません。では,ふたりがマダガスカルへ行った時はどうだったでしょうか。

      アフリカの南東海岸沖にあるこの大きな島(世界で4番目に大きい)は長さが約1,600㌔です。東岸はモンスーンの風がもろに吹きつけ,豪雨が降ります。しかし,島の他の場所はそこよりずっと乾燥していますから,植物相は砂漠の植物から熱帯の密林まであって変化に富んでいます。

      マダガスカルの人口は約600万で,多くの人種の混血した人々からなっています。遠い昔アラビア人とヒンズー人はマダガスカルに通商居留地を設けたものと思われます。それ以来ポルトガル人,フランス人,英国人はそろってこの島の植民地化を試みました。ついに占領したのはフランス人で,1896年にマダガスカルはフランスの植民地になりました。その時からフランスの文化と言語がこの島と住民に多大な影響を及ぼしました。したがって,1930年代にエホバの証人が王国の音信を携えて初めてマダガスカルに渡った時,勢力を持っていた宗教はカトリックでした。

      ロバート・ニスベットとバート・マックラキーは1933年に船でマダガスカルに到着しました。ふたりは業を注意深く開始し,まず上陸した主要な港タマタブから始めました。区域をすばやく網羅して多くの文書を配布した後,奥地にある首都タナナリブへと進みました。

      タナナリブへ着いてすぐに,彼らは,協会のギリシャ語の出版物を数冊持っているギリシャ人の店主に会いました。それはニューヨークのブルックリンにいる彼の親族から送られたもので,兄弟たちはそのことにたいへん励まされました。しかもうれしいことに,もてなしのよいそのギリシャ人は店の2階にあるひと部屋を無料で提供してくれました。

      ニスベット兄弟とマックラキー兄弟はその時の訪問で群れとか会衆を設立することはできませんでした。英語がわかる人がほとんどいなかったので,ふたりにとって言葉が非常に大きな問題となったことはいうまでもありません。しかし彼らは文書を全部配布してしまうまでタナナリブにとどまり,それから南アフリカに戻りました。こうしてマダガスカルに真理の種がたくさんまかれたのです。

      モザンビークでの初期の努力

      まだ手のつけられていなかったもうひとつの大きな区域はモザンビークと呼ばれるポルトガルの属領でした。その広さは77万7,000平方㌔にも及び,主として平たんな低地が広がっています。人口は現在665万で,白人の占める割合はほんのわずかにすぎません。首都は南アフリカの国境に近い南のはずれにある重要な港,ロレンソマルケスです。もうひとつの重要な海港都市は数百㌔北にあるベイラです。

      宗教の自由があることになってはいるものの,カトリック教会が幾世紀にもわたって宗教界を支配してきました。また,都市にはプロテスタントの小さな宗派が幾つもあります。農場では強制労働が行なわれ,アフリカ人の労働者はほとんど何の報酬も受けずに働かされました。またアフリカ人には過酷な処罰が課されました。比較的明るい面は,ポルトガル領東アフリカには公に人種差別がないことです。交通機関,銀行,商店あるいは他のどこにも「ヨーロッパ人専用」という標示や人種差別をするものがありません。この国にあるのは,アフリカ人の間に見られる,「非文化的」アフリカ人と,彼らがアシミラドスと呼ぶ「文化的」アフリカ人との区別です。アフリカ人はだれでも法律的な手続きを踏むことによって「非文化的」な身分から身を起こして「文化的」になることができます。幾つかの試験に合格して,皮膚の色には関係なく「黒」人から「白」人になるのです。そうしたい人は地方の裁判所に申し込み,ポルトガル語が読み書きできること,キリスト教(カトリック)に所属していること,一定の経済的基盤があること,ヨーロッパ式の生活を進んでする意志のあることを証明しなければなりません。肝要なのはその人が白人の生活様式を採用する能力があるということです。そのような人は許可証の請求権や選挙権を持ち,その人の子どもには自由に教育を受ける資格が与えられます。ただしその人は兵役に服さなければならず,高額の税金を払わなければなりません。この資格にかなうのはアフリカ人のうちほんの少数の人々にすぎません。

      1925年,王国の種は地上のこの地のアフリカ人の間に良い土を見いだし,数年の間妨害もなく着実に成長しました。ところが1930年代の末に当局者は「ものみの塔」誌の予約者を調べ始め,相当数の人々が逮捕されました。モザンビークの南部で逮捕された人々は刑務所の中でニアサランドから連れてこられていた他の兄弟たちに会いました。ですから非常に大勢の人が一度に集まったわけです。2年から3年たってようやく最終的な判決が下されました。それによってある人々は12年の刑でサントメの犯罪者植民地に送られ,別の人々は10年の刑でモザンビーク北部にある野外労働用キャンプに送られました。判決文の中では,彼らを一箇所に置くとその地域が『あまりにも強力な彼らの教えに毒される』から彼らを一緒にしてはならない,ということが述べられていました。

      判決を受けた人々の中に,マーラングアナという兄弟がいました。その兄弟には次のような思い出があります。マーラングアナ兄弟は北部の幾つかの場所で働きましたが,アントニオエネスという小さな港に近い大きなココナッツ園もそのひとつでした。ある日巡査部長が彼を調べに回って来て,彼が聖書の話を準備しているのを見つけました。巡査部長はそのことを犯罪者植民地の長官に通報しましたが,長官は何も害はないだろうと言いました。しかし,巡査部長はマーラングアナ兄弟をむちで打ち,彼を4か月間投獄しました。数年後,刑期を終えたマーラングアナ兄弟はビラ・ルイーザに戻りました。そこの王国伝道の業は停止していましたが,マーラングアナ兄弟が帰ったことによって,関心を抱いていた人々は新たな出発をするように助けられ,業はどんどん拡大しました。

      こうして,モザンビーク南部のアフリカ人の区域では良い出発がなされましたが,ヨーロッパ人の場合はどうだったでしょうか。

      ロレンソマルケスにヨーロッパ人が初めて到着して,白人であるポルトガル人に幾らか証言し始めたのは1929年のことでした。そのヨーロッパ人とはヘンリー・マイアダルで,彼はエディス・トンプソンと結婚するために開拓奉仕から退いていました。ふたりは,時に幾分の困難を感じながらも自分たちだけで業を進めました。しかし,熱心な配布者レニー・テロンとすでに結婚していたピエ・ド・ジェゲールが1933年にモザンビークのヨーロッパ人の区域を援助するため協会から派遣されました。ド・ジェゲール兄弟姉妹はそこのヨーロッパ人の区域をくまなく網羅し,英語とポルトガル語の文書を大量に配布しました。

      1935年にほかのふたりの開拓者がロレンソマルケスに行きましたが,ほんの短期間滞在したにすぎませんでした。そのふたりの開拓者とはフレッド・ルーディック兄弟とデイビッド・ノーマン兄弟で,彼らはマイアダルの家族のもとに身を寄せました。ふたりは次のような話をしてくれました。「業を始めて5日目のことでした。公共広場でふたりの行儀の良い訪問者といった様子で腰掛けながらお茶を飲んでいると,デイビッド兄弟がわたしにこう言いました。『フレッド,あっちを見ちゃいけない。左手の向こうの方でふたりの男がぼくたちをかれこれ30分も見張っているんだ』……その日わたしたちが家に帰ると,エディス・マイアダル姉妹は,『秘密警察があなたがたおふたりを何度も捜しに来ました』と言いました。そのことばが終わるか終わらないうちに,箱型貨物自動車がサイレンをけたたましく鳴らしながら角をまがって来たかと思うと,わたしたちはたちまちブラック・マリア(犯罪人を捕らえたり輸送したりするための箱型貨物自動車)に押し込められました」。

      ふたりは地位の高い役人,テキシエラ氏の前に連れ出されました。デイビッド・ノーマンは大胆にも,その陰謀の背後には司祭がいることを知っていると彼に言いました。非常に痛い所を突かれたテキシエラは,飛び上がるとこうどなりました。「もしおまえたちがこの国の者なら今すぐマデイラ島に送ってやるんだが,南アフリカの市民だから即刻追放してやる」。

      その日,兄弟たちは,全員が銃や剣で完全に武装した警官の乗る自動車に前後を護られながら,南アフリカの国境に向けてロレンソマルケスを去りました。兄弟たちはまだ文書を幾らか持っていたので,国境につくとすぐ警官に証言して文書を配布し,みんなと握手して別れを告げました。

      1937年にはモザンビークの司教からさらに訴訟が起こされました。マイアダル兄弟は出頭を命ぜられて巡査部長と面会し,司教から苦情の申し立てがあったことを告げられたのです。その苦情とは,協会の文書がモザンビークで配布された結果人々は武装蜂起して革命を起こしているというものでした。マイアダル兄弟は釈明しようとしましたが,部長は耳を貸そうとせず,引き続き文書を配布するならおまえを直ちに追放すると兄弟に申し渡しました。

      しかし,マイアダル兄弟はそれに抵抗し,警察の決定を上訴するために総督との会見を取り決めました。総督は,親切にではありましたが,その問題を副総督のマノ氏に任せました。たまたまマノ氏は非常に道理をわきまえた人物で,名目上カトリック教徒でしたが,教会の教理の多くに不賛成でした。彼は協会の文書を最後まで注意深く読んで,それが革命を助長するという非難は誤りであるとの結論に達しました。書籍にたいへん深い感銘を受けたマノ氏はこれ以上処置を講じないと言いました。したがって,エホバの証人を除こうという司教の企てははばまれてしまいました。

      一方,マイアダル兄弟の雇用者側は,兄弟が追放されるかもしれないということでたいへんいら立っていました。彼らがそうした態度を示すので,マイアダル兄弟は辞表を出しました。が,会社側は辞表を受理するかわりに,結局彼をヨハネスバーグの店に転勤させることに決定し,後の1939年にそれを実施しました。

      しかし,ロレンソマルケスへヨーロッパ人の開拓者を派遣する試みが1938年にもう一度なされました。再びデイビッド・ノーマンがやって来ましたが,この度は英国から着いて間もないフランク・テイラー兄弟を新しいパートナーにしていました。ところがふたりが到着して2,3日たたないうちにまたもや警察が動いて,業をやめなければ即刻追放すると勧告して来ました。ケープタウン支部は,たくさん在庫していたポルトガル語の文書をマイアダル兄弟姉妹に託して南アフリカに戻るように,とふたりに指示しました。

      そうしている間に,友好的で同情心に富み,人々からたいへん愛されていた総督がポルトガル政府によって左遷され,インドの小さなポルトガル植民地ゴアに移されました。彼の後を引き継いだ官吏は熱烈なカトリック教徒でした。

      モザンビークにマイアダル家族がとどまれるのも今や時間の問題であると見て取った協会は,モザンビーク全国の政府の役人各人に文書を郵送するよう提案しました。マイアダル兄弟姉妹はポルトガル語の文書を入れた封筒を何百も作り,モザンビークを離れる日にそれらを幾つかのポストに投かんしました。

      モザンビークのヨーロッパ人の間で目に見えるほど関心は高まりませんでしたが,アフリカ人の間では迫害を受けながらも着実な進歩が見られました。1940年までにモザンビークのアフリカ人の伝道者は38名という最高数に達しました。その人たちは4つの場所で別個に集会を開いていました。

      ニアサランドで組織する

      ハドソン兄弟が1925年にニアサランドを訪問した後,引き続き協会に導きを仰ぐ少数の人々はケープタウンの支部事務所と連絡を保っていました。次いで1933年,誠実な関心を持ち援助を必要としている,中心となる人々のいることが明らかになりました。そこで,ニアサランドにヨーロッパ人の代表者を置くことが申請され,総督はそれを快く受理しました。こうして1934年5月,南アフリカ支部の管轄の下に文書発送基地がゾンバに開設されました。ケープタウン支部事務所が判断し得る限りでは,当時ニアサランドに誠実な関心を持つ人々が100名ほどいました。バート・マックラキーはその区域の業を組織するために南アフリカから派遣されました。

      マックラキー兄弟の落ち着き先はリチャード・カリンデの家であり,彼はそこに1か月くらい滞在しました。そのアフリカ人の兄弟は彼がニアサランドに居る間親密な同行者になることになっていました。マックラキー兄弟は業を開始するかしないうちにひどいマラリアにかかり,病院に2週間入院しなければなりませんでした。回復後,彼はニアサランドの協会の文書発送基地に使用するふたつの部屋を確保することができました。一方の部屋は事務所に,他方の部屋は寝室になりました。

      マックラキー兄弟の主な仕事は,まず,いわゆる「ものみの塔運動」によってもたらされた混乱を正すことでした。それは兄弟が考えていたほど難しくはありませんでした。一例をあげれば,ニアサランドの警察署長は,アフリカ人による偽りの運動がものみの塔聖書冊子協会と何の関係もないことを認めていました。また,ケープタウン支部は事態を処理する際の明確な指導もしくは指針をバート・マックラキー兄弟に与えていました。彼はニアサランド各地にある群れを次々に訪問しました。それぞれの場所でカリンデ兄弟を通訳にして講演した後,「王国は世界の希望」と題する小冊子に載せられている決議文を簡単に読んだものです。その決議文はエホバの証人という聖書に基づいた名称に関するものであり,それに賛同する人は挙手によってそのことを表わすように求められました。大部分の人は手をあげました。が,後の出来事からわかるように,多くの人々は誠実な態度でそうしたのではありません。

      マックラキー兄弟はその後も時々会衆を訪問しました。こうして多くの人々は偽りの「ものみの塔運動」とその指導者たちを支持することから手を引くように助けられました。そうした業を行なう際にマックラキー兄弟は数々の興味深い経験をしました。幾つかの会衆は踏みならされた道からずっとはずれた所にあったからです。彼が集会場所まで自動車を乗り入れるために,土地の兄弟たちが未開墾地に数㌔の道路を実際に作ったこともありました。非常に孤立したひとつの群れへはカヌーでなければ行けませんでしたが,ワニのうようよいる川を何㌔も旅行することはたいへん危険でした。マックラキー兄弟はカヌーをゆすらないように注意しながら中央のイスに座り,アフリカ人の兄弟たちが交代にかいでこぎました。同兄弟はその兄弟たちが宿舎と食物を備えてくれたことを心から感謝しましたし,彼らが霊的な事柄に対する認識を示したことをも高く評価しました。

      マックラキー兄弟はニアサランドのヨーロッパ人の間でも奉仕し,ある時カロンガという所を訪問しました。そこに行くにはU字形の急な曲り道が幾つもあるリビングストニア山を自動車で下らなければなりませんでしたが,あまりにも急な曲り道のため,うまく通り抜けるには自動車をいったん止めてからゆっくりバックし,それから前進しなければなりませんでした。彼が会った人の中にはふたりのギリシャ人の実業家がいました。ふたりはギリシャ語の出版物を求め,ひとりは後にバプテスマを受けました。

      1934年11月,南アフリカからふたりの開拓者がポルトガル領東アフリカを通ってニアサランドへ旅行しました。そのふたりはゾンバ,ブランタイア,リンベその他の土地にいる少数のヨーロッパ人に証言することができました。記録によれば,彼らはその旅行で700冊の書籍と小冊子を配布しました。ニアサランドのヨーロッパ人の間で戸別訪問による業が組織的に行なわれたのは明らかにその時が初めてでした。

      こうして,しっかりした神権的な組織がニアサランドにようやく確立されてゆきました。野外奉仕の報告も集められ,1934年の平均伝道者数は28人でした。その後まもなく,マックラキー兄弟はケープタウンの支部事務所で奉仕するために呼び戻されました。彼の肉の兄弟であるビル・マックラキーは1935年3月17日にニアサランドの文書発送基地の管理に当たり,長年の間忠実にそこで奉仕しました。

      ニアサランドにおいて関心を持つ多くの人々の間で神権的な組織が確立するにつれ,野外奉仕に参加して報告する人の数は急激に増加しました。1934年には28名であった伝道者数が1935年には340名になったのです。一方反対も激しくなり,キリスト教世界の宣教師の中には政府当局者をそそのかして兄弟たちの活動を妨害させる者もいました。そして,ひとつの小冊子と「黄金時代」誌を1934年11月付で禁止させることに成功したのです。しかし発展は続き,1937年までに会衆の数は48にふえ,伝道者の最高数は1,319名になりました。

      ほどなくして,幾つかの講演のシンヤンジャ語のレコードが作られ,アフリカ人の兄弟たちにたいへん感謝されました。会衆の多くはお金を出しあって蓄音器を買いました。ニアサ湖でつりの会を催し,つった魚を市場で売って“蓄音器基金”の足しにした会衆もありました。北部では,兄弟たちが一本の巨木を買い,川に浮かべて村まで運び,幹をくり抜いてカヌーにし始めました。そのカヌーを売ったお金で蓄音器が買えるのです。それには伝道者が何か月も一生懸命に働かなければなりませんでした。しかし,それによって蓄音器が買えましたし,王国の活動をさらに効果的にすることができました。その年,「富」と題する本がシンヤンジャ語で出版され,会衆の人々にすばらしい霊的な糧が備えられました。その結果,文書発送基地のしもべは,兄弟たちの間にかつてこれほどの一致が見られたことはないと報告することができました。

      英領東アフリカにおける新たな努力

      先に述べた通り,英領東アフリカへは1931年にグレイ・スミスおよびフランク・スミス兄弟が,後にはロバート・ニスベットとデイビッド・ノーマンが訪問しました。それによって多数の文書が配布され,広範にわたる証言が行なわれました。しかし,今や再び訪問する時が来ていたのです。

      東アフリカでの3度目の運動は1935年,南アフリカから行った4人の開拓者によって行なわれました。その4人とはグレイ・スミスと彼の妻,およびふたりのニスベット兄弟,すなわちロバートとジョージでした。今回彼らは750㌔の配達用有蓋貨物自動車2台を持って十分の用意をしていました。その自動車は,ベッド,台所,水道設備,予備のガソリン・タンク,取りはずしのできる蚊よけの金の網戸を備え,住まいとして使えるようになっていました。時には道路に草が3㍍も伸びていることがあったにもかかわらず,その自動車のおかげで一行は以前に証言がなされなかった土地に行くことができました。彼らはしばしば荒野で寝ましたから,夜ほえるライオン,穏やかに草をはむしま馬やキリン,不気味な様子をしたサイやゾウなど,野生生物の豊富なアフリカの心臓の鼓動を見,聞き,感じることができました。

      タンガニーカに着くとすぐ,一行はふた手に分かれました。スミス兄弟と彼の妻はしばらくの間タンガニーカにとどまり,ニスベット兄弟たちはナイロビに進みました。スミス夫妻は後にナイロビでふたりに合流することになっていました。タンガニーカでスミス夫妻は逮捕され,南アフリカへ帰るように命令されました。しかし,スミス兄弟は,「生来の英国臣民」と裏書きされた南アフリカのパスポートを持っていたので,ナイロビに行くことにしました。ケニアのナイロビに着くと,スミス夫妻はすぐに警察署に行き,南へ戻る時に返してもらう100ポンド(約8万4,000円)の供託金を払って滞在の許可を得ました。

      ふたりはウガンダに赴きました。カンパラに着いたとたん,そこは敵意のある土地で,警察が絶えず自分たちを監視していることを知りました。しかしながら,彼らは政府の追放命令によってウガンダを離れざるを得なくなるまでに多くの文書を配布することに成功しました。こうしてふたりはナイロビに戻り,そこでニスベット兄弟たちと合流しました。

      ここでも彼らは当局者からの反対を経験しましたが,3,000冊を上回る書籍と7,000冊近い小冊子を配布し,「黄金時代」誌の予約を多数得るなど,すぐれた証言を行ないました。追放命令に対して激しい抗議がなされましたが,当局者から納得のゆく説明は与えられませんでした。

      その活動中,ロバート・ニスベットは腸チフスにかかったため,一行は彼をナイロビ病院に残して帰路に着きました。スミス兄弟とジョージ・ニスベットはザンジバルに入ろうと試みましたが許可されず3人は南アフリカに戻りました。ロバート・ニスベットは全快し,後の1955年にモーリシャスの最初の支部の監督になりました。彼の弟のジョージはモーリシャスでしばらく宣教奉仕をした後,再び南アフリカに派遣され,1958年に南アフリカ支部で奉仕し始めました。

      「暗黒のアフリカ」への道を切り開いたそれらの開拓者たちは,それに伴うあらゆる困難と危険に立ち向かうための大きな信仰を確かに持っていました。6人の開拓者のうち4人は,黒水熱,マラリア,腸チフスにかかって長期間入院しました。彼らの努力により,膨大な量の文書が配布され,1950年代にギレアデ学校の卒業生が始めることになっていた霊的に築き上げる業の基礎がすえられたのです。

      南ローデシアではさらに進歩が見られる

      南ローデシア(現在のローデシア)への訪問は,1929年に開拓者のアドシェイド姉妹が単身で訪れて当局者から数々の妨害を受けて以来行なわれていませんでした。次に南アフリカから開拓者たちが来たのは1932年5月でした。それは2台の車に乗った4人の開拓者,ピエ・ド・ジェゲール兄弟姉妹とロバート・ニスベット兄弟,およびロナルド・スナシャル兄弟でした。一行が国境に着いたのは土曜日の午後で,その時役人たちはテニスの試合を楽しんでいるところでした。兄弟たちは自分たちが国際聖書研究者協会の代表者であると言いました。役人は,試合に戻りたかったからでしょう,それ以上尋ねませんでした。ですから彼らは本物のものみの塔協会の代表者を入国させたことに気付きませんでした。しかし,まもなくたいへんなことになりました。ブラワヨで業を始めてからほんの2,3日して,開拓者たちはC.I.D.(犯罪捜査部)本部と警察署に呼び出され,長文の声明書を書かされたのです。

      数日後,総督の命令で兄弟たちは48時間以内に立ち去るよう告げられ嘆願することは認められませんでした。彼らは法律関係の経験を持つある親切な人に相談し,その人の勧めで飽くまで嘆願し続け,決定が下されるまで立ち去ることを拒みました。そして,総督に送達してもらうべく,C.I.D.の課長に嘆願状を差し出したのです。翌日,英国と南アフリカの新聞はその事件を公に報じました。1932年5月30日付のケープ・タイムス紙によれば次のとおりです。「ブラワヨ発,土曜。宣教の業を行なう目的で3週間前に当地に着いた南アフリカ連邦からの4人のヨーロッパ人の訪問者は,次の月曜日までに当植民地から立ち去るよう命ぜられた。当局者から『好ましからざる住民もしくは訪問者』とみなされたのである。

      「当局者は,その宣教師らが普及するものと思われる教理を否認していると伝えられる」。

      一方,兄弟たちはロンドン支部に連絡し,協会はロンドン支部から南ローデシアの弁務官に電報を送りました。その結果決定は変更され,4人は,アフリカ人に伝道しないという条件で6か月間滞在することを許されました。南ローデシアのヨーロッパ人にすぐれた証言がなされたのはそれで3度目です。その時関心が著しく高まった記録はありませんが,南ローデシアの政府関係者のほとんど全員に個人的な証言がなされ,「立証」と題する本および「王国は世界の希望」の小冊子が手渡されました。

      その滞在中,P・ド・ジェゲール兄弟は特別にローデシア首相モファット氏を彼の農場に訪問しました。ふたりは非常に友好的な会話を交わしたものと思われます。その結果,ド・ジェゲール兄弟は,アフリカ人の間でのものみの塔協会の業がしかるべき監督を受けられるようヨーロッパ人の代表者を派遣する許可の申請書を当局に書き送りました。それは1932年10月のことでした。ケープタウンの支部事務所はすでに1932年9月14日付で南ローデシア政府の植民地相に同様の手紙を送っていました。ところが,ケープタウン支部とド・ジェゲール兄弟の二重の努力も成功しませんでした。ローデシア当局は同国の僧職者に扇動されて,エホバの証人に対して門戸を閉ざしたように思われます。

      ケープタウンの支部はそれで引き下がることなく,1932年の10月に,問題を非常に強く述べた長い手紙をローデシアの植民地相に再び書き送りました。折り返し送られて来た返事は次のようなそっけないものでした。「政府には,先に貴協会に申し渡した,貴協会の代表者に当植民地への入国を禁ずるとの決定を再考する余地はありません」。しかし,1年後の1933年11月に国務大臣に手紙を書き送って再度の試みがなされましたが,同様の返事が返って来ました。

      ケープタウン支部は許可を申請し続け,王国の業を組織し指導する協会の特別な代表者を派遣する許可を求める長い手紙を,数年にわたり毎年ソールズベリー当局に書き送りました。政府はと言えば,決まって,許可しないとの返事を送ってよこしました。1934年にニアサランド当局が,文書発送基地を開設することと同国でヨーロッパ人の兄弟が業を組織することとを許可し,1936年には北ローデシアで同様の取決めが設けられたため,ケープタウンの支部事務所はその戦いに新たな攻撃手段を得ました。1938年には2通の申請書が出されたものと思われますが,2番目の申請書に対する回答として内務長官から寄せられた1938年11月16日付の書簡は次のように述べていました。「政府は,北ローデシアとニアサランドにおける認可の結果をさらに時間をかけて調べたうえでなければ貴協会を承認する用意がないことをお伝えするように,との指示がありました。また,貴協会の文書が同植民地の原住民に適しているのでないかぎり,政府が貴協会の承認に同意することはまず考えられません」。

      しかしながら,ケープタウン支部と南ローデシア政府間で定期的なやりとりが行なわれたほかにも,南ローデシアにおける王国の業を促進する努力がなされました。1935年10月25日,「南ローデシア政府官報」は,伝道の業を規制するふたつの法案の本文を掲載しました。そのひとつは,「1936年,原住民伝道師法」と呼ばれるもので,原住民の伝道師や教師に証明書を発行して原住民による宗教運動を規制することを意図していました。議論沸騰の末,それは可決しませんでした。もうひとつの,「1936年,治安維持法」に関した法案は,扇動的な発言,新聞,書籍,写真およびレコードを禁ずるためのものでした。後に行なわれた議論から,その法案は特に協会の業を対象としたものであることが非常にはっきりしました。その治安維持法が王国の業に対して作り出された新しい武器であることはあまりにも明白でしたから,可決される以前に協会のブルックリン事務所は行動を起こしました。ラザフォード兄弟自身が,南ローデシア首相と国会議員全員に,彼らが危険な道を取ろうとしていることを警告する手紙を書いたのです。ケープタウン支部事務所はその手紙の写しを2万5,000部印刷し,南ローデシア住所録に氏名の出ている各ヨーロッパ人にそれを送りました。

      ところがそれにもかかわらず,治安維持法は可決し,その直後に協会の出版物14冊(書籍7冊と小冊子7冊)は扇動的であると宣言されたのです。テストケースとして,直ちに数冊の文書が当時南ローデシアの諸会衆を訪問していたアフリカ人のカブンゴ兄弟に郵送されました。それらはブラワヨに着いたところで税関吏に押えられたため,協会はその返還の申請をもって応酬しました。事件は1937年5月に南ローデシア高等裁判所に持ち出されました。協会の弁護士であったビードル氏(後のローデシア首席判事)は問題の文書を注意深く研究していたので,裁判が始まる2日前に南アフリカ支部の監督ジョージ・フィリップス兄弟と打ち合わせた時には内容にたいへん精通していました。法廷では数日間にわたって書籍の価値が十分論じられました。ケープタウンから来たフィリップス兄弟は興味深くてまれな経験をしました。というのは,法廷で総督の横に座り,彼が適切な聖句を見つけたり出版物の問題の個所に関して適切な説明をしたりするのを助けたのです。ジャスティス・J・ハドソン判事は審理後,判決を下す前に書籍を読むことをほのめかしました。判決が下りたのは1937年9月23日でした。判事は被告側の論議の賛否両論を述べた後,次のように自分の見解を要約しました。「これらすべては,地上の諸政府すべての組織上および管理上の根本的な欠陥を是正することに注意を喚起すべく誠実に著された出版物であるとみなし得る。……したがって,わたしの考えでは,これらの出版物はどれひとつとして扇動的ではない」。

      これは協会側の重要な勝利でした。しかし,政府は上訴をもってそれに答えたのです。その裁判は1938年3月15日に南アフリカ連邦の最高裁判所上訴部門で行なわれました。判決は1938年3月22日にN・J・ド・ウェット判事によって下され,それは南ローデシア裁判所の決定を支持するものでした。その事件はローデシアと南アフリカの新聞で広く報道されました。実際,ブラワヨ・クロニクル紙は判決文全文を掲載しました。こうしてすぐれた証言がなされ,協会の出版物は禁止処分を解かれました。

      兄弟たちの業は順調に伸展していました。1938年までに王国をふれ告げる人の数は321名に増加し,20台の蓄音器が野外で用いられていました。会の組織,すなわち会衆の数はその時34でした。

      1938年の初め,協会は,ヨーロッパ人の区域で働いて励ましを与えるふたりのヨーロッパ人の代表者を再び派遣する許可を申請し,それを認められました。「ただし,各人は前もって,もしくは到着した時点で,南ローデシアの原住民の間で文書を配布したり,公開集会を開いたり,宣伝したりしないことを約束した文書を提出する」ことになっていました。ですから,形勢は協会に有利な方向に向いていましたが,戦いは決して終わっていなかったのです。

      1938年に協会が派遣したふたりの開拓者は,ロバート・ニスベットと南アフリカの人で開拓奉仕に全く新しいジム・ケネディでした。ベイトブリッジという国境検問所でふたりは当局に呼び止められて尋問を受け,結局6か月間の入国を許されました。彼らはヨーロッパ人を対象に奉仕して非常に楽しい時を過ごし,行く先々で多くの文書を配布しました。ある金坑では1日に200冊近い書籍を配布したのです。警察がふたりをずっと監視していたのはいうまでもありません。ふたりは土地の警察署に絶えず届け出なければなりませんでした。人々はふたりのことを聞いていたらしく,ほとんどどこでも彼らが来るのを待っていました。農夫は大抵もてなしがよく友好的でした。もっとも,農夫が「ものみの塔」と聞いて,ひらひらする布で興奮させられた牛のようになったこともたまにですがありました。

      ふたりはブラワヨでマックグレゴーという兄弟に会いました。彼はスコットランドですでに真理にいましたが,霊的に冷えてしまいました。その開拓者たちに大いに励まされた彼は,しばらくして再び奉仕を行なうようになりました。開拓者たちはまた,12年ほど前にジョージ・フィリップスとヘンリー・マイアダルが接触したガン家族を見いだしました。その家族も不活発になっていましたが,ふたりの開拓者の力添えで霊的に元気を回復しました。こうして1938年に彼らはブラワヨで群れを組織することができました。それは約17名の関心を示す人々からなり,南ローデシアで最初のヨーロッパ人の研究グループでした。やがてマックグレゴー兄弟はローデシアにおける協会の代表者をつとめました。報告をまとめたり,同国の王国の関心事を世話したりするうえで彼の働きはたいへん役立ちました。

      北ローデシアで反対に遭う

      南ローデシアにおける戦いで証人たちは勝利を得つつありましたが,1925年当時ムワナ・レサが非常な問題を引き起こした隣国の北ローデシア(ザンビア)ではどうだったでしょうか。

      ムワナ・レサの挿話的な出来事の後,難しい時期が数年続きました。南の国境にあるリビングストンからコッパーベルト地帯を通り,それに続くコンゴの国境まで鉄道が敷かれていましたが,その鉄道沿いの主要な都市のほとんどに関心を持つ人々の群れがありました。そうした群れは,ニューヨークのブルックリンにある協会の事務所とかケープタウンの事務所と手紙で接触するようになった人々で成り立っていました。通信は文書を注文したり寄付したりする場合に限られており,通信連絡を取る人が群れのリーダーとみなされ,群れに交わる人々もその人を自分たちのリーダーであると考えました。

      世俗の権威から絶えず悩まされ,組織的な指導もなかったので,集会は大抵家庭での小さなグループの域を出ていませんでした。とはいえ,誠実で敬虔なクリスチャンは入手できる限られた資料を使って神のみことばを真剣に学んでいました。

      導きを捜し求めていた人にトムソン・カンガレーという青年がいました。1931年,20代初めのトムソンは,世界的な不況でブワナ・ムクムワ炭坑が閉鎖になって職を捜していたところ,キトウェのヌカナ炭坑に新しい職を見つけました。まもなく彼は従業員のふたつのフットボールチームの監督者に任命されました。寄宿舎でトムソンといっしょだったのはゴールキーパーをしていた少年でした。ある日曜日,その少年は偶然にキトウェのエホバの証人の集会を見つけ,「聖書研究」という本のポケット版を持って帰りました。本の内容を理解しようというその少年の決意に刺激されたトムソンは,集会に行って自分の目で確かめることにしました。出席した集会では「神のたて琴」と題する本を用いることが特に強調されたので,トムソンはそれを手に入れました。彼の記録によると,トムソンはその新しい本の内容をむさぼるように吸収し,まもなくあらゆる感情を打破して心から神の業を行なうようになり,その年にバプテスマ希望者の資格を得ました。トムソン・カンガレー兄弟は1937年10月13日に開拓奉仕を始め,北ローデシアの支部事務所から割り当てられたタンガニーカとウガンダの地域に良いたよりを携えつつ,兄弟たちのしもべとして,また地域のしもべ(巡回および地域監督)として奉仕しました。

      しかし,カンガレー兄弟が真理を知る2,3年前を振り返ると,伝道の業は北ローデシアで激しく反対されていました。北ローデシアの業を監督するヨーロッパ人の代表者を常時置いておくために,協会は1927年から1934年にかけてあらゆる努力を払いましたが,それらはことごとく拒否されたり無視されたりしました。その時期の最後のものとして,2度にわたり,1932年10月12日付と1934年9月20日付で申請がなされましたが,後者は受理されたとの通知はあったものの熟慮した上での回答は何もありませんでした。続いて起きた幾つかの事件から,当時,伝道の業を完全に押えようというたくらみが働いていたことは明らかでした。

      その時までに,「神のたて琴」といった協会の出版物数冊と多くの小冊子がシンヤンジャ語で翻訳出版されました。「神のたて琴」は関心を持つアフリカ人が研究の手引きとして用いました。「エホバの証人の1935年の年鑑」の報告は,不完全ながら,南北ローデシアで一握りほどの伝道者により1934年度中に1万1,759冊の文書が配布されたことを示しています。そうした活動は偽りの宗教家と政治分子の怒りを招きました。彼らは土着の運動の信仰や悪行のことで協会の代表者を非難し,法律によって害そうと謀ったのです。―詩 94:20。

      『布告によって燃え上がった問題』

      1935年5月3日,熱烈なカトリック教徒であるフィッツジェラルド法務長官によって北ローデシア刑法の修正案が立法議会を通過させられ,その修正案によってそうした害が仕組まれました。「1935年布告第10号」というその法律がものみの塔協会の文書をねらいとしていたことは明らかでした。フィッツジェラルド氏はこう述べました。「同法は扇動的な新聞の販売もしくは頒布を違法行為とする。また,検問所で小包みを開けて扇動的なものが入っていないか調べる権威を役人に付与する。最後に,非常に重要な点として,同法により政府は新聞,書籍もしくは文書の国内持ち込みを禁止する権威を持つ」。彼はさらに,当局者が他の人々の勧め,まぎれもなく,ビクトリア滝で開かれた宣教師会議の勧めに基づいて行動したことを認めました。立法議会の自由を愛する幾人かの成員はその法案に反対しましたが,それは通過し,敵がすぐに用いることの出来る道具となりました。したがって,1935年にコッパーベルトでぼっ発した暴動は,エホバの証人を攻撃するために敵が待っていたものにほかなりませんでした。

      エホバの証人の敵が証人たちを『身代わりのやぎ』にしようと決意していたことは最初から明らかでした。暴動が起きた当時,南北ローデシアのエホバの証人は350人に過ぎませんでした。北ローデシアにおける業を他の国々で行なわれている方法に合わせるため,アフリカ人の証人たちは5月10-12日にルサカで非公式の大会を開いて,伝道の業と清いクリスチャン生活の必要性を話し合いました。ルサカの集会が5月末ごろに起きたコッパーベルトの騒動と何らかの関係があると考えられたことは確かで,C.I.D.(犯罪捜査部)は南北ローデシア全土にわたってエホバの証人の手入れを始めました。6月5日にルアンシャで6名のエホバの証人が逮捕され,3日間勾留された後起訴されずに釈放されました。ヌドラでは国立病院の付添人が,エホバの証人であるという理由で職を失いました。政府当局者の扇動により,エホバの証人は全国で同様の扱いを受けました。ケープタウンの支部の監督は官房長官にあてた1935年7月1日付の書簡で,そうした偽りの告発すべてについてエホバの証人を弁護し,エホバの証人に対する迫害をやめさせるために必要な処置を講ずるよう要請しました。

      暴動の調査委員会が調べて2冊の本にまとめた証拠は,エホバの証人がその暴動にひとりも関係していなかったことを証明していました。それどころか,ヌドラの地域局長J・K・キース氏は次のように公表しました。「エホバの証人と組織としてのものみの塔そのものはストライキに全く加担しなかった」。

      挙げられた証拠がはっきり示していたのは,カトリック教徒が優勢でエホバの証人に激しく反対していたアウェンバ族が暴動の背後にいたことと,主な原因は人頭税の値上がりとその値上げの方法にあったことでした。ロアン・アンテロープ銅山(ルアンシャ)の経営者もこう語りました。「だれかに暴動の原因を尋ねるたびに,決まって税金の値上がりということに落着いたようです」。

      調査委員会の審理が1935年7月8日に始まる直前に,ものみの塔協会のケープタウン支部は,北ローデシアへのヨーロッパ人代表者派遣許可の粘り強い申請に対する回答を受け取りました。1935年6月24日付の北ローデシア政府の手紙は次の通りです。「政府は……この国の貴協会の信奉者に対するより良い監督および管理をもたらし得るそうした処置一切について今や何の反対もしません」。ピエ・ド・ジェゲールが派遣されることになりました。北ローデシア政府は,「もっと上級の協会職員」を望むと言ってそれに異議を唱えました。しかし,ジェゲール兄弟が派遣されるのは調査して報告するためであり,いずれ英国生まれの人が責任者となることを知って同意しました。ところが,ものみの塔協会とエホバの証人が偽りの告発によって調査委員会にかけられ,政府は,協会の出版物を「破壊的」なものであるとするために,幾つかの出版物の特別に選んだ「抜粋」を多数提出しました。ド・ジェゲール兄弟を間に合うように派遣し,協会を代表して証拠を提供してもらうことが決まりました。ジェゲール兄弟はそれらいわゆる破壊的な「抜粋」部分すべてを釈明するすぐれた証言を行ない,政府当局者であるJ・L・キース氏でさえ,聖書の抜粋が破壊的でないようにそれらも破壊的でないことを認めました。

      委員会の判定は1935年10月2日に公表されました。要約すると,それにはこう述べられていました。「本委員会の断定では,ムフリラの騒動の直接的誘因は,鉱山の巡査が夜間に突然,税金が一律に15シリング値上がりしたと大声で言ったことであった。また,ムフリラのストライキが成功したという偽りの発表,それにおまえたちが老いぼれ女でないことを示せという原住民に対する挑戦的なことばがヌカナとルアンシャの騒動の直接的誘因であった」。しかし,エホバの証人の敵たちはものみの塔協会に関する次のことばにほくそえんだのです。「本委員会は,ものみの塔の教えと文書が民間および宗教の権威,特に原住民の権威を軽しめ,また,それが危険な破壊的運動で,最近の暴動の素地となる要因であることを断定する」。

      それこそ証人の敵たちが望んでいたことでした。したがって,1935年10月4日に総督ヒューバート・ヤングは「1935年布告第10号」によって与えられた権威を行使し,協会の書籍全部を禁止しました。その中には,原住民に広く用いられていた唯一のシンヤンジャ語の本である「神のたて琴」や,10年前に絶版になっていた本が含まれていました。そしてついにJ・F・ラザフォードが著した2冊の小冊子を除くすべての出版物が禁止されました。

      調査委員会の報告と,それに続いてなされた協会の文書の禁止処分のことは一般の新聞紙上で広く報道されました。そのほとんどは偏見と敵意を含んでおり,ケープタウン支部はどれに対しても真理を擁護しました。1935年10月16日,ヌドラの「北ローデシア・アドバタイザー」紙は協会が調査委員会に対して行なった証言,抗議および通信の全文を同紙の特別号に掲載したので,すぐれた証言がなされました。その特別号の中で編集者は,彼の事務所に来て禁止された文書を調べるようにと一般の人々に呼び掛けました。「当社の事務所には参考のために主な出版物全部がそろえてあります。……恐れないで,話題となっている事柄の全容を調べにおいでください」。調査委員会の報告が出版されるとすぐ,「政府」と「偏狭」という小冊子が説明書とともに北ローデシアのすべてのヨーロッパ人の手に渡りました。

      いくらかの成功

      「北ローデシア・アドバタイザー」紙は,北ローデシアの行政上の矛盾に注意を促して次のように述べました。「ニアサランド政府が1933年にこの人々を迎え入れたのに対して,北ローデシアの総督である彼(同一人物)が大いにためらった末に彼らの入国を許すのであれば,エホバの証人の考え方に賛成するか否かにはかかわらず,北ローデシアの行政に何らかの根本的な誤りがあることは明らかである。次いで2か月後,彼は何の正当な理由もなく国を離れるよう証人たちに要請している。一方いわゆる『土着のものみの塔』の原住民が不法行為をしたのは,政府が以前に彼らを入国させなかった事実によるものである」。

      同紙編集者は,北ローデシア政府が協会に対してド・ジェゲールを2か月後に召喚するよう要請したことに触れていました。それは,「彼の滞在に対してヌドラのヨーロッパ人の住民から公式の抗議があり,彼の活動は人々を動揺させるように思われる」という理由からでした。それに答えてケープタウン支部は次の点を指摘しました。すなわち,北ローデシア政府は「状況全体を熟慮した上で」ヨーロッパ人の代表者派遣を許可したこと,および,ド・ジェゲール兄弟を北ローデシアへ派遣するのは同国における業の永続的な監督をはかるための準備段階にすぎないということをです。次いで,協会がヨーロッパ人のルレウェリン・フィリップスを代表者として派遣することが提案されました。協会は彼に業を永続的に監督させ,その時までに北ローデシアの新しい首都となっていたルサカで文書発送基地を直ちに開設することを望んでいたのですが,「その件は考慮中であり,決定は追って伝える」との手紙を受け取りました。支部の監督は,「L・V・フィリップスを貴国内で当協会の代表者とすべく派遣する手はずを完全に整えてよいか尋ねる」旨をしたためた手紙を1935年11月25日付で北ローデシアの国務大臣に書き送り,その問題を持ち出しました。それに対して,「しばらくの間明確な回答を送ることはない」との返事が来ました。

      一方,真理の恐れなき闘士であるド・ジェゲール兄弟はヌドラにずっととどまり,協会の文書に対する禁令の有効性を試そうとして,1935年10月21日に2種類の書籍を地方新聞の編集者に提供しました。そのため彼は布告に基づいて告発され,ヌドラ治安判事によって2ポンドの罰金刑に処せられました。その事件は北ローデシア最高裁に上訴されました。

      上訴中に,エホバの証人とものみの塔のことが英国の下院で問題になりました。サートル氏が,「北ローデシアでエホバの証人とものみの塔運動の支持者たちは確かに公正な扱いを受けている」かと質問したのです。植民地大臣J・H・トマス氏は,「取るべき方針に関して北ローデシア総督と協議中であると述べました」。

      ケープタウンの支部事務所は直ちに行動を起こし,植民地大臣に次のような電報を送りました。「貴閣下が今後の方針を決定される前に北ローデシアでの当協会の業を説明させていただきたくお願い申し上げます。航空便で手紙をお送りします」。その日長文の手紙が同大臣に送られました。そこには,ムワナ・レサのそう話やコッパーベルトの騒動を含め,宣教師の会議に始まった,北ローデシアにおける証人の業を打ち砕こうとする陰謀が詳しく説明され,業を指導し,誠実なアフリカ人を援助するためにヨーロッパ人の代表者を置く努力がなされていることも述べられていました。その手紙はさらに,アフリカ人の証人が耐え忍んでいる迫害のことを述べた後,次のように訴えました。「閣下,北ローデシアにおいてエホバの証人に対してなされている不当な差別を終わらせるために,文書の禁令を解除させるために,そして私共の真の信奉者たちが妨害を受けずに自らの良心の声に従ってエホバ神を崇拝する天与の権利を行使することが許されるよう取り計らうために処置を講じていただきたくお願い申し上げます」。

      これは望ましい結果を生みました。というのはケープタウン支部の監督は1936年3月に北ローデシア事務局から官房長官の次のような書簡を受け取ったからです。「ルサカに文書発送基地を設置するための貴協会の代表者としてP・J・ド・ジェゲール氏の代わりにL・V・フィリップス氏を派遣してくださるようにと申し上げるよう指示されました。……また,植民地国務長官にあてられた12月11日付の貴協会の書簡に関し,国務長官は同書簡で提起された問題を注意深く考慮したことをお伝えいたします。総督閣下はヨーロッパ人の代表者を北ローデシアに入国させるよう勧めておりましたが,国務長官はその提案を承認しました」。長い戦いの末ついに勝利が得られたのです。

      もうひとつの戦いは続く

      しかし,協会の文書は依然として禁止されており,上訴された事件は未解決のままでしたから,崇拝の自由を求める闘争は終わったなどととても言えませんでした。その事件は1936年5月20日に最高裁で裁判にかけられ,6月18日の判決で却下されました。ド・ジェゲール兄弟は枢密院に訴える許可を直ちに申請しました。1936年9月15日,ローデシア最高裁は上訴の許可を拒否しました。が,協会は崇拝の自由を求めるその闘争であらゆる手を尽しました。北ローデシアの協会の弁護士は,ロンドンの協会の弁護士の応援を得て事件を枢密院に訴える努力をしました。しかしそれは最終的に,ロンドン枢密院の審理委員会から審理を拒否されるという結果になりました。

      1936年1月,南ローデシア立法議会の議員にあてられた協会の会長J・F・ラザフォードの特別書簡の写しが,北ローデシアの立法議会の議員,総督および新聞社にも送られました。

      また同年中,南アフリカ連邦のエホバの証人は「黄金時代」誌425号5万部を熱意を込めて配布し,南北ローデシアではそれと同じ情報を載せた特別な出版物2万部が配布されました。そこには北ローデシアのエホバの証人の無実を裏付ける事実が述べられ,また,調査委員会が報告を発表した後に同委員会の委員長にあてて送られた協会の会長ラザフォード兄弟の非常に力強い手紙も掲載されていました。ですから,一般の人々は真理を抑圧しようとする真理の敵たちの陰謀についてよく知っていました。

      別の仕事に取り掛かる

      北ローデシアに文書発送基地を設けるための協会の努力はついに報われました。1936年7月16日,文書発送基地はルサカに開設されましたが,それは警察の派出所の真向かいにありました。ルレウェリン兄弟が文書発送基地のしもべに任命されました。とはいえ膨大な仕事が残っていたのです。それは,土着の「ものみの塔運動」の影響と監督の欠如に起因するあらゆる望ましくない要素を組織から清め,聖書の健全な教理で誠実な人々を教育し,しかるべき土台の上に業を組織するという仕事でした。

      ルレウェリン・フィリップス兄弟が最初に行なったのは主要な都市を数多く訪問することでした。彼は当局者の取り計らいにより,そうした都市でものみの塔協会と関係していると唱える人々に大勢会いました。どんな事がわかったか,フィリップス兄弟は次のように語っています。「そのほとんどはヨナの時代の『右左をわきまえざる』ニネベの人々のようでした。多くの人々は誠実でしたが,誇りの強い人たちは,協会が他のどんな宗教団体とも比較にならない自主性を与えてくれると感じていました。また,ある人々は,ユダが述べたように,『不敬虔な者たち』で,『わたしたちの神の過分のご親切を(『火のバプテスマ』であると称して共有の妻を持つといった)不品行の口実に変えていました』」。

      土着の「ものみの塔運動」が引き起こした混乱はさておき,禁令による文書の欠乏と大部分の兄弟たちが文盲であるという問題がありました。非聖書的な部族の習慣もたくさんありました。たとえば,集会で男性と女性は別々に座りました。また,アフリカ人は自分の妻を子供たちの母親,料理人,荷物運搬人,家をいっしょに作る相手と考え,真の伴侶もしくは『助け手』とみなすことは,たとえあってもごくまれです。―創世 2:18。

      その上,ほとんどの兄弟たちにとって,学んでいる真理を日常生活に結びつけるのは難しいことでした。兄弟たちは協会の文書を読んで王国が1914年に天で設立されたということを知っていましたが,それは何年前のことかと聞かれてもわかりませんでした。彼らの多くはこの世の政府がサタンの支配下にあることを知っていましたが,そうした政府と自分たちとの正しい関係を理解していませんでした。未開墾地の小さな村に孤立し,外の世界と接触がほとんど,あるいは全くないため,協会の出版物に述べられている事柄の多くは彼らには理解できないことだったのです。たとえば,村人の多くが政府と接触できる唯一のものはその土地の地域委員と原地人の裁判所でした。アフリカ人が宗教団体と接触を持つのは土地のミッションスクールを通してのみだったことでしょう。商業で知っているのは,自分で行なう物々交換のほかには土地の交易所だけでした。したがって協会の出版物が宗教と政治と商業のことをこの世の諸勢力であるとして論じている場合,それらの兄弟たちの頭に浮かぶのは土地のミッションスクールであり,地域委員であり,交易所でした。

      大いに意欲を持ちながらも,理解が不足していたり生活の仕方に難点があるため聖書的にみて奉仕に携わる資格のない人々が少なくなかったので,実際の王国伝道者の数を調べ直す必要がありました。文書発送基地の取決めのもとにまとめられた最初の完全な年度報告によれば,1937年度中の毎月の平均伝道者数は756名で,最高数は1,081名でした。それらの兄弟たちは地区の監督として働く開拓者の訪問を受けました。その監督たちはまず文書発送基地で訓練を受け,教理上,道徳上および組織上の事柄を詳しく教えられていました。

      それら訪問する兄弟たちは多くの苦難に耐えなければなりませんでしたから,割当てを固守するためにはエホバに対する真の愛が必要でした。鉄道の線路から約1,600㌔も離れた村がありました。北ローデシアには横断鉄道がひとつしかなく,それからコッパーベルトまで支線が出ていなかったからです。その兄弟たちは大抵の場合,関心を持つ人々からなる散在した群れに行くのに,乾燥した暑い危険ないなかを幾百㌔も自転車で,あるいは徒歩で旅行しなければなりませんでした。その上,新しい会衆を発展させるには多くの忍耐と強い愛が必要でした。組織と言えるようなものが生まれるまで少なくとも2か月は新しい会衆にとどまらなければなりませんでした。ある人々は主の組織の中の“しゅう長”になろうとする傾向を持っていて,そのために協会の取決めを受け入れるのをためらいましたから,訪問する兄弟たちはそうした傾向と戦わねばなりませんでした。しかしそのたいへんな労苦は報われました。1939年までに平均伝道者数は1,191人に増加し,7人が開拓奉仕をしていましたし,88の会衆が活動した1940年には2,378人という伝道者の新最高数が記録されました。

      南アフリカのより強力な組織

      そうした戦いが北方の区域で進展していたころ,南部のヨハネスバーグのアフリカ人の兄弟たちは,ずっと小規模ながら,「ものみの塔運動」の悪い分子に対する戦いで勝利を得つつありました。

      また,ケープタウンの支部でも変化がありました。1933年3月,協会は南アフリカの支部事務所をケープタウンのもっと広い場所に移すことを取り決めました。それはボストンハウス623号館という,事務所に仕切られた大きな建物の6階のふた部屋と,隣りのプログレス小路にあるプログレス貸事務所の地下室でした。そこは文書の倉庫と発送に用いられ,小さな印刷機が置かれていました。その時の小規模な印刷を行なっていたのはフィリップス兄弟とケープタウンの地元の一兄弟でした。新たに支部が置かれたその場所は前よりも都心部にあって便利であり,ほぼ20年間南アフリカにおける神権組織の中心となることになっていました。

      2年後の1935年,ラザフォード兄弟は印刷の知識を持ったアンドルー・ジャックという兄弟を,ケープタウン支部の印刷の仕事を助けるために派遣しました。彼は資格のある印刷職人であったばかりか,リトアニア,ラトビアおよびエストニアのバルチック諸州で全時間奉仕に携わった経験がありました。そこでの業が禁止されたため,国外に追放されて故郷のスコットランドに帰ったのです。南アフリカに着いて間もなく,アンドルー・ジャックはもっと多くの活字と他の印刷備品を入手する手はずを整えました。1937年,最初の自動印刷機が設置されました。その印刷機は過去38年間何百万枚ものビラと用紙を生産してきましたが,今日でもなお,南アフリカのエランズフォンテイン支部で力強く作動しています。

      レコードを使った産出的な奉仕

      野外では蓄音器がすばらしい働きをしていました。会衆の手で,また協会の宣伝カーでラザフォード兄弟の強力な講演のレコードが流されたのです。たとえばプレトリアの会衆は,市の真ん中にあるチャーチ・スクウェアーで毎日曜日の夕方に講演を放送する許可を得ました。しばらくして市議会に苦情が申し立てられたため,兄弟たちはその広場から蓄音器を片付けなければなりませんでした。しかし問題はすぐに克服されました。スミット兄弟の知り合いに広場を見下ろせるアパートに住んでいる人がいたので,そこの開け放たれた窓から日曜日の夕方の番組を,妨害されずに引き続き流すことができたのです。

      1930年代の半ばに協会の宣伝カーのひとつを運転していたのはニスベット兄弟でした。彼はその車で近くのズールーランドの区域に住むアフリカ人の間を広く回りました。そこはナタール州北部の広い地域であり,長年の間ズールー族の故郷となってきました。特にナタール州北部の製糖工場と炭坑で大勢のアフリカ人が宣伝カーの流す音楽と講演を聞きに集まり,その結果多くの文書が配布されました。実際,後に「富」と題する本が特に宣伝された時,ニスベット兄弟の宣伝カーは「イモト・ヨブセビ」(「富の自動車」)として知られるようになりました。

      1935年,あらゆる国の兄弟たちは啓示 7章に出ている「大群衆」についての新しい解明に心を躍らせ,油そそがれた者たちでない人々は幸福のうちに地上で永遠に生きるという見込みに歓喜しました。それ以来,「ほかの羊」級に関する理解が深まり,より多くの注意が「大群衆」に向けられ,それらの人の数はすぐに増加の一途をたどりました。―ヨハネ 10:16。啓示 7:9。

      開拓者のアイリス・タチーはリーフ(“鉱脈”の意)として知られた炭坑地区で働いていた時,宣伝カーのひとつに乗って奉仕する特権にあずかりました。彼女は宣伝カーをこう描写しています。「それはとても小ぎれいな黒い箱型貨物自動車で,ピカピカにみがいてあって,てっぺんには拡声器が付いていました。両側には『王国の音信,神と王であるキリストに仕えなさい』という言葉が書いてあり,後ろのドアにはJ・F・ラザフォードの一番新しい講演を宣伝する麻のたれ幕が付いていました。その自動車はヨハネスバーグとリーフ全域で“聖書の車”として知れ渡るようになりました」。リーフの幾つかの会衆がその車を使うスケジュールを立てました。週末になるとそのスケジュールはぎっしり詰まっていました。というのは,車は,少年院,病院,市場,ヨハネスバーグ公会堂の上がり段など様々な場所で講演のレコードを聞かせながら広い地域を網羅するために用いられたからです。

      政治的緊張が募っていた,第二次世界大戦ぼっ発直前のある時,公会堂の上がり段で「ファシズムと自由」と題する講演がレコードを使って行なわれました。その夜は特に大勢の聴衆が集まっていました。講演の最中に突然叫びや金切り声が上がり,びんやトマトが伝道者たちに投げつけられました。暴徒がまさに用具類に手をかけようとしたその時,警官が到着し,警棒を使ってその場所から人々を立ち退かせると兄弟たちの回りにさっと非常線を張り,兄弟たちが荷造りをして危険地帯から出るのを助けました。兄弟たちはエホバが保護してくださったことに深く感謝しました。

      当時宣伝カーがすばらしい働きをしたことは疑いありません。全国津々浦々を回り,強力な拡声器から多くの人々に音信を伝えたのです。1937年までに5台の宣伝カーが常時用いられ,各にふたりの開拓者が乗りました。その上12台の大型蓄音器が全国のあちらこちらで用いられていました。ラザフォード兄弟の特別な呼び掛けがあって,携帯用の蓄音器を用いた業が本格的に始まったのもやはり1937年でした。ケープタウン支部はアフリカーンス語,シンヤンジャ語,セソト語,ホサ語およびズールー語のレコード作製に多忙でした。

      1938年までに協会は80個所に会衆を設立し,30種類の言語の文書を扱っていました。「富」と題する書籍や「暴露」という小冊子その他当時の主な出版物は,カトリック教階制を率直に批判していましたから,カトリックの宗教指導者たちは心穏やかではありませんでした。彼らの新聞は国中にはんらんしているラザフォード判事のパンフレットと小冊子に関して人々に警告し,カトリック系の新聞は,会館からエホバの証人を締め出して公開講演を開かせないように示唆しました。

      開拓者たちは耐え忍ぶ

      南アフリカの開拓者たちは1938年までに全部で30人に達し,その中にはすでに名前の出て来た,ヨハネスバーグのアイリス・タチーがいました。ある時こんなことがありました。一軒の家で戸口に行くのに長い階段を登らねばなりませんでした。一番上に着くと,女の人がドアをさっと開けました。その人は怒りで顔を真っ赤にし,ののしり声を上げながらタチー姉妹を階段から突き落としてドアをバタンと閉めました。タチー姉妹は起き上がって散らかった持ち物を拾い集めました。泣きたい気持ちでしたが,祈るのが最善の解決策だと決めました。偶然にもその隣りの家の夫妻は実に親切な人たちでした。ふたりはタチー姉妹にお茶をごちそうし,隣りの家の女の人はたまたま牧師の奥さんであるだけに,そこで起きたことにたいへん驚いたと語りました。その訪問は非常に良い結果を生み,やがてその夫婦はバプテスマを受けたエホバの証人になりました。

      他の伝道者たちもそうでしたが,開拓者たちはリーフ沿いの炭坑で文書が非常に良く配布できることを知りました。彼らは縦坑の頂上にいて,白人や黒人の坑夫が仕事を終えて出て来る時に出版物を提供していたものです。坑夫たちはまだヘルメットの先のランプの明かりをつけたままでしたし,地下道のねば土でぬれていました。アフリカ人の坑夫は自分のことばで書かれた出版物を手に入れることに非常に熱心でしたから,開拓者たちの前に行列の出来ることもありました。彼らは聖書とか書籍を家にいる子供たちを含め自分の家族にぜひとも送りたいと思っていました。数年後,タチー姉妹は,ヨハネスバーグで自分のことを覚えていてくれたアフリカ人の小さな群れに会う喜びを経験しました。その中のひとりはにっこり笑ってこう言いました。「あなたわたし覚えるか。わたし聖書買う。そしてわたし今聖書集会行く」。

      牧師と対面

      1930年代の後半に王国の音信はケープ州の非常に保守的な土地に根を下ろし始めました。そこはイーストロンドンの北方約62㌔のキングウィリアムズタウンの近くで,土地の農民およびその他の住民の多くは,19世紀半ばにそこへ入植したドイツ人の子孫でした。ですから,その土地で優勢な宗教はルーテル派でした。キークという人が王国伝道者から文書を入手したのは,ルーテル派の牧師の家の建築作業をしている時のことでした。彼はその内容を楽しみ,文書をさらに注文して,間もなく親族や友人に音信を広め始めました。彼らのほとんどはキーク氏が気違いになったと考えましたが,ついに親族数名が興味を持ち始めました。1938年,彼らはルーテル派の牧師3人とキーク氏とによる公開討論会を取り決めました。数百名の教会員を前にして行なわれたその討論会で,キーク氏はヒトラー政権下に用いられていた,詩篇数篇と他の幾つかの聖句が抜けているドイツ語の聖書を取り出しました。そのことは牧師たちを幾分当惑させました。が,強力な聖句が聖書から読まれた時,彼らはそれとは比較にならないほど感情を高ぶらせました。一度など牧師のひとりは実際に協会の文書をテーブルの上にたたき付けて,「こんな本がなんだ!」と言いました。その一幕があって,すでに関心を抱いていた教会員6名は真理を確信し,エホバの側に立場を取りました。

      その討論会には非常に興味深い続きがありました。1938年に南アフリカの内務大臣は「富」と数冊の小冊子が「いかがわしい」ものであるとしてその国内持込みを禁止したのです。1938年3月,ブルームフォンテーンにある南アフリカの最高裁が協会の文書は扇動的でなく,破壊的な意図を持たないとの判決を下したにもかかわらずそうした処置が取られました。「富」と他の出版物は,ファシズム,ナチズムそしてカトリック教会の共謀をはっきりと示していることを覚えておいてください。それらの文書に対する政府の禁止処分を画策した責任者はルーテル派のある牧師たちであったことが後日明らかになりました。しかし,その後間もなく,その同じ牧師たちは,第二次世界大戦中に南アフリカでナチズムを推し進めていた疑いで拘禁されました。

      協会は内務大臣に対して出版物の禁止を決定したことを抗議する訴えをしました。しかし大臣は考えを変えようとはせず,なんら説明も与えず,また裁判所に訴えることを許可しようともしませんでした。したがってケープタウン支部は「抗議」と題する4ページの大きなパンフレットを発行しました。それには,「南アフリカの宗教的不寛容,聖書研究の手引き書『富』を禁止」という見出しが肉太の活字で載せられていました。また,ケープ州東部に住むドイツ人のルーテル派の牧師が禁止処分を扇動したこと,1938年6月に禁止された性と暴力の雑誌のリストに「富」の本が載せられていたことを確証する証拠を掲げていました。英語とアフリカーンス語で出版されたパンフレットは全国で広範囲に配布され,「富」の本の注文が多数寄せられました。

      地帯の業が始まる

      同じ年,すなわち1938年に地帯の業が組織されました。それによって,協会の旅行する代表者たちは,会衆と孤立した伝道者を訪問して教育を施したり励ましを与えたりしました。

      南アフリカで最初に地帯のしもべになった人にフランク・テイラーがいました。彼の妻のクリスティーンは英国から来て間もない人でした。クリスティーンは,アフリカ人の間で奉仕するのは風変わりだけれども興味深い経験だと感じました。彼女の夫は,クリスティーンが首飾りとスカートしか身に付けていないズールーの女の人に初めて小冊子を配布した時の彼女の表情を決して忘れないでしょう,と語っています。その女の人は,小冊子の寄付として「ティケイ」という硬貨(約20円)をなんと自分の縮れ毛の中から取り出したのです!

      地区の業を始めて間もなく,フランクとクリスティーンはイーストロンドンに行き,キーク家,ホアマン家,シャンケンクト家といった関心を持つ家族からなる小さな群れを集める楽しい仕事をしました。それらの家族はキングウィリアムズタウンのドイツルーテル派教会から脱退しました。やがてその新しい人たちによりイーストロンドン会衆が組織されました。彼らの多くは今日なお健在で活発に奉仕しています。

      王国の業は勢いを増す

      1939年1月,「慰め」誌が初めてアフリカーンス語で出版され,南アフリカ支部はさらに前進の一歩を進めました。その時まで開拓奉仕のかたわら協会の書籍をアフリカーンス語に翻訳していたピエ・ド・ジェゲールは,翻訳の仕事を全時間行なうためにベテルへ招かれました。

      そのために支部の小さな印刷部門にいたアンドルー・ジャックの仕事はさらに多くなりました。本文の活字は手で組まなければなりませんでした。協会が南アフリカで印刷した最初の雑誌が出来たのです。当時アフリカの地方語の雑誌は作られていませんでした。

      そうです,アフリカ南部の王国の業は今や急速に本格的な発展を遂げていました。1939年,南アフリカの伝道者は新最高数の555名でした。そのうちカラードとアフリカ人はわずか180人だけであったことは注目に値します。毎月の平均伝道者数は次の通りでした。南アフリカ439人; 南ローデシア473人; 北ローデシア1,198人; ニアサランド1,041人; ポルトガル領東アフリカ17人; セントヘレナ11人。したがって,ケープタウン支部の管轄下にある区域全体で,野外奉仕に携わっていた伝道者の総計は3,179人でした。その年それらの伝道者は伝道の業に104万2,078時間を費やしました。こうしたことは,1935年に「大群衆」に関する解明が与えられてから増加の速度がずっと速くなり,多くの新しい人々が自分の立場を取ったことをはっきりと示しています。

      戦争は王国の伝道者を奮い立たせる

      1939年9月,ヒトラーがポーランドで電撃戦を開始し,世界はかつて経験したことがないほどの暴力と苦難の時期に突入しました。ナチ-ファシスト党は国々を次々に倒して行ったので,ヨーロッパの王国の業ははなはだしく損なわれました。ジャン・スムッツを新首相に迎えた南アフリカはドイツと交戦し,多くの南アフリカ人はアフリカの北部とイタリアで戦闘に加わりました。

      南アフリカは主な戦場から遠く離れていましたから,他の多くの国に広がっていた戦時状態をあまり経験しませんでした。やがてある食品が不足したり他の制限が課せられたりするようになりました。しかし,アフリカ南部の王国の業は1940年までにかつて一度も見られなかったほどの発展と拡大の時期に入りました。戦争の驚くべき出来事は自己満足にひたっていた大勢の人々に衝撃を与え,彼らに聖書預言の成就について考えさせました。

      その時までにアフリカーンス語の「慰め」誌はたいへんよく読まれるようになっていました。それでケープタウンのものみの塔支部は,今やアフリカーンス語の「ものみの塔」誌を発行する時であるとの判断を下しました。1940年1月,「通知」(後に「王国奉仕」と呼ばれた)には雑誌を用いての新しい業,すなわち街路での業,戸別に訪問する業および雑誌経路に関する大要が述べられました。さらに多くの雑誌が必要なことは明らかでした。自動鋳植機と折り機が設備され,印刷の経験があるダーバン出身の兄弟が小さな印刷部門のジャック兄弟を助けるために招かれました。こうして,ディ・ワクトリング(アフリカーンス語の「ものみの塔」)の創刊号は1940年6月1日現在をもってケープタウン支部で生産されました。

      その創刊号を発行する時機の選択は完ぺきで,エホバの導きがあったことは明らかでした。1940年の最初の数か月はヨーロッパの戦争に関する限り非常に平穏でしたが,突然ヒトラーの機械化部隊が西ヨーロッパで猛攻撃を開始しました。その時まで南アフリカのアフリカーンス語を話す兄弟たちは,オランダから送られて来るオランダ語の「ものみの塔」誌に頼っていました。ところが5月に協会のオランダ支部が突如閉鎖され,供給が断たれたのです。ケープタウンの兄弟たちはそうした事態が起ろうとは知るよしもありませんでした。が,オランダ語の「ものみの塔」誌が来なくなった丁度その時に,新しく発行されたアフリカーンス語の「ものみの塔」誌がその間げきを埋めたのです!

      兄弟たちは雑誌の活動を喜んで,また熱意を持って始めたので,雑誌の毎月の配布数は1万7,000部に上りました。他の,業が公に行なわれていた国におけると同様,雑誌のかばんが街頭に姿を現わし,伝道者たちは標語を大きな声で叫びました。

      フィリップス兄弟は1940奉仕年度の末にケープタウンの事務所から,ラザフォード兄弟にあてて伝道者の著しい増加を報告することができました。南アフリカの伝道者新最高数は881人で,平均伝道者数は,前年度の50%増加に当たる656人でした。戦争は確かに南アフリカの王国伝道者たちを奮い立たせました。

      カトリックの憎しみは禁令を生む

      南アフリカのカトリック教会の主な刊行物「サザン・クロス」は1940年10月2日号にカナダで起きた出来事(1940年7月に王国の業が全面的に禁止された)に注意を引く主要記事を掲げ,悪意に満ちた次のようなことを述べました。「国家および教会の権威に対する忠節を非とするそれらの人々(エホバの証人)の活動は,原住民の人口が非常に多い南アフリカのような国においてはさらに危険である。政府がこの国で彼らの宣伝が広まるのを早く終わらせるべきことは明白である」。その直後,「ものみの塔」と「慰め」誌の予約者は検閲当局者によって逮捕され始めました。支部事務所が手紙でその理由を尋ねると,当局者は説明することを拒否しました。

      そうした事柄すべての背後にはカトリック教会のいることがわかったので,「サザン・クロス」でなされたカトリックの攻撃に答えるべく「王国ニュース」の特別号が準備され,南アフリカ全土で20万部がたちまち配布されました。その後を追ってエホバの証人と彼らの業に関する事実の表明がなされました。その写しは国会議員と裁判官および新聞関係者全員に送られました。国会議員に対しては,1939年11月1日号の「ものみの塔」に掲載されたクリスチャンの中立に関する記事の写しも同封されていました。その後しばらくして警察はその「ものみの塔」誌の記事の写しを全部回収せよとの指示を受けました。首相に対して訴えがなされたところ,連邦統制局長から回答を受け取りました。それにはとりわけ次のように書かれていました。「貴協会の意図が恐らくこれまでも,また現在も最善のものであるとはいえ,戦争を順調に遂行するために政府が取る処置をあなたがたが妨害するのを許すことは認められません。貴協会がこの国の国民すべてをこうした考えに改宗させることに成功したなら,敵に対して積極的に抵抗する者がいなくなることでしょう。したがって,政府があなたがたに対する処置を取らずにじっとしていることを期待できると考えるのは無理です」。

      支部は次の手段として政府あての嘆願状を作成しました。協会の出版物が差押えられたことについて訴え,クリスチャンの文書に対する禁令を解除して国内の崇拝の自由を回復するよう敬意を込めて政府に嘆願したのです。10日間という短い期間に南アフリカ連邦全国でヨーロッパ人5万人の署名が集められました。同じころ,「ものみの塔」と「慰め」誌が政府により禁止されたという公式の発表がありました。

      政府はさらに,雑誌の荷物を到着と同時にそっくり差押える処置に出ました。ものみの塔協会の文書が全面的に禁止されたことが間もなく明らかになりました。真っ先に差押えられた小冊子は「神権政治」で,その後矢継ぎ早に6つか7つの文書の船荷が同様の運命になりました。それらの出版物は“いかがわしい”というのが差押えの理由でした。

      こうした事はすべてカトリック教会の影響と戦争の非常事態に原因していました。というのは,禁止された出版物の多くは幾年もの間何の問題もなく国内持込みを許されていたからです。支部事務所は差押えられた文書を請求して訴訟を起こすに至りました。形勢はものみの塔協会にとって非常に不利に見えましたが,傍聴した兄弟たちは裁判官が公平な態度を示したので感激しました。彼は,禁令を出した首相はその理由を述べるべきであり,会見を認めて詳しい説明を聞くべきであるとの判決を下しました。

      法律上の争いはしばらくの間続きました。戦いが1年続いた後の1942年4月になって初めて,出版物がいかがわしいと考えられる理由が提出されました。支部はそれらの点に対する答えを14日以内にするようにと言われ,その通りに行ないました。同時にフィリップス兄弟は裁判所の判決に一致して,個人的に説明したいとの意向を表明しました。しかし裁判所はそのための日限を定めず,月日は過ぎ去って行きました。その問題が解決を見たのは2年後のことでした。

      1941年の8月中,ケープタウン支部事務所が発行するすべての通信物は検閲当局によって差押えられました。支部事務所は数週間後に野外の兄弟たちから受け取った手紙によってそのことを知り,抗議を申し込みました。それを受け付けたとの知らせはありましたが,説明は何もなされませんでした。協会が戦争努力に関する通信を行なっているとの当局の疑いは全く根拠のないことが明らかになりました。

      1941年9月,内務大臣は非常時の規則の下に南アフリカにある協会の出版物すべてを差押える命令を出しました。そのため支部は非常な興奮に包まれました。午前10時に警察の捜査課が命令を執行するために到着しました。彼らは協会の在庫文書を全部持ち去るためにトラックで来たのでした。しかし,機敏だった支部の監督はすぐにその命令を検討して,それが非常時の規則に一致していないことを知りました。したがって彼は捜査課の警官を待たせておいて直ちに行動を起こしました。内務大臣が文書を差押えるのを阻止するため最高裁に対して差止命令を個人的に至急申請したのです。その申請は承認されました。正午に差止命令が出され,警察は空っぽのトラックに再び乗り込んで立ち去らねばなりませんでした。5日後,大臣は協会の訴訟費用を負担したうえ,先の命令を撤回しました。ケープタウン支部のベテル家族がその意義深い勝利をどれほど喜んだか想像していただけると思います。

      戦いは続く

      わたしたちの闘争は続きました。アフリカーンス語の「慰め」誌は,輸入に適用される関税法の下に禁止されました。それは南アフリカで印刷出版されていたのですから,明らかにその処置は間違いでした。にもかかわらず,クルーンスタドにおいてひとりの開拓者が雑誌を配布したかどで有罪になりました。上訴が行なわれ,最高裁はその判決を却下しました。後の1941年9月12日に「政府官報」は禁令が撤回されたことを公表しました。神権政治のもうひとつの勝利でした!

      その感動的な処置については新聞紙上でかなり詳しく報ぜられ,それは王国の音信とエホバの証人の業のすばらしい宣伝になりました。その事件を一般の人々に知らせる必要を悟った支部事務所は,2冊の特別な小冊子,すなわち,「王国の音信を抑圧するのはなぜか」および「エホバの証人: それはだれで,どんな業を行なっているか」を発行しました。その2種類の英語とアフリカーンス語の小冊子は1941年10月中たいへん広く配布されました。

      エホバの証人が行なっている業の説明をそれほど大規模に行なうことは是非とも必要でした。というのは,新聞の多くはエホバの証人に関し事実を歪曲して報道していましたし,証人たちは「第五列」であるとか「ナチ」であるといったうわさや非難が広がっていたからです。主要な日刊紙のひとつ,イーストロンドン・デーリー・ディスパッチは協会の会長J・F・ラザフォードを中傷する記事を掲げました。編集者がそれを釈明する手紙を掲載することを拒否したため,協会は新聞社を文書誹毀で起訴し,5,000ポンド(約323万円)の損害賠償を要求しました。兄弟たちが後へ引かないことを悟った編集者は,すぐに折れて謝罪広告を掲げ,訴訟の費用を全額支払いました。

      禁令に対する反発

      兄弟たちは禁止された文書を家の中に隠して禁令に反発しました。「へびのように用心深く」行動したのです。(マタイ 10:16)ヨハネスバーグで警察はあらゆる伝道者の家を手入れしましたが,伝道者たちは大抵,関心を持つある刑事から手入れのことを事前に知らされていました。プレトリアで,当時まだ学童だったフランス・ミューラーは,両親の指示を受けて,文書の入ったカートンを家の低い木の床の下にある狭い通路へ次から次へ引きずり入れました。貴重な書籍は,そこに入れておけば全く安全だったからです。そうした事情でしたから,伝道者が野外の奉仕で用いる文書は少ししかありませんでしたが,南アフリカで印刷されていた出版物,たとえば「子供たち」と題する本などは大いに用いられました。ケープタウンに住むカラードの一兄弟はそのことを次のように語っています。「供給は制限されていましたが,そのために業が低下することはありませんでした。わたしたちは人々に書籍を貸して研究を始めるようにとの指示を受けました。それを実行したところ,聖書研究の数が急に増えたのには驚きました。その時期に真理に入るようになった人は少なくありませんでした」。

      伝道者は最高数の1,253人になり,彼らは一生懸命働いていました。その年に開かれたヨハネスバーグ大会の出席者はおよそ800名に上り,186名がバプテスマを受けました。多くの新しい会衆が組織され,その数は1940年の127から1941年の172に増加しました。

      アメリカから送られる「ものみの塔」誌は禁止された文書のひとつでしたが,エホバは愛情深くも霊的食物を備えてくださいました。ケープタウンの兄弟たちが,「便利な食物」という名前の印刷物を作って発送する資料に事欠いたことは一度もありませんでした。「ものみの塔」誌を予約していて一号も欠かさずに受け取り,自分が読むとそれを必ずケープタウンの事務所に送ってくれた人のひとりにJ・J・ヴァン・ズィル兄弟がいます。彼の雑誌のあて名は,「ナタール州クランスコプ,南アフリカ警察巡査部長,J・J・ヴァン・ズィル様」となっていました。

      ついに勝利!

      南アフリカでの,神と神の王国の業に反対する戦いは確かに失敗しました。1941年から,禁令解除と協会の文書の返還を求める戦いはやむことなく続きました。1943年の末ごろ,支部の在庫文書は非常に少なくなったので,兄弟たちは差押えられた文書が戻されるように真剣な祈りを捧げていました。すると,事が運び始めました。新しい内務大臣が任命されたのです。禁令解除を求める手紙が支部の監督から検閲監査役にもう一度送られました。その手紙の写しは,前大臣が同意しながらも一度も実行しなかった個人的な会見を求める手紙と共に,新しい大臣に送られました。

      1944年1月に会見が行なわれ,大臣は,差押えられた船荷の返還,雑誌に対する禁令の解除,および没収された他の出版物の返還に同意しました。彼はまた,非常事態の規則の下に出された,協会のすべての文書を破壊的であるとする規定を撤回することも約束しました。一週間後,支部はそうした事柄すべてを確認する手紙を受け取り,それから2,3日して大量の文書(約1,800カートン)が支部事務所に運ばれました。それは3年間差押えられていたにもかかわらず少しもいたんでいませんでした。支部と野外の兄弟たちがそのことをどれほど喜んだか知れません。彼らの祈りはかなえられ実にすばらしい勝利が得られました!

      至る所で書籍が禁止される

      第二次世界大戦の初期に大英帝国および他の国々の多くの場所で書籍に対する禁令がまるで流行のように盛んに出されました。それは昔エホバが預言者ダニエルに予告させた通りであり,「小さき角」(イギリス連邦はその一部)は「自ら高ぶり」,『真理を地に投げ打って』神の神聖な事柄に対して「罪」を犯しました。(ダニエル 8:9-12)アフリカ南部の3つの英国保護領,すなわち,バストランド,ベチェアナランド,スワジランドですら例外でなく,1941年2月に協会の文書が正式に禁止されました。それを解除してもらうためにあらゆる努力がなされたのですが,その禁令は1960年まで効力を持ちました。欽定訳聖書でさえ,ものみの塔協会が印刷したものであれば禁止されました。1941年にその三か国にはエホバの証人がひとりもいなかったにもかかわらず,そうした処置が取られたのです。

      南西アフリカでの実りの多い年月

      多事多端な年であった1939年は南西アフリカにおける業の歴史の新しい一章を開きました。そこにはまだ群れがひとつもなく,広大な区域が手をつけられずに横たわっていました。一組の開拓者の夫婦,バリー・プリンスローと彼の妻ジョアンはその区域へ行って人々に証言したいという強い衝動を感じました。

      バリーはトラックを買ってそれを住宅自動車に改造し,戦争に伴うガソリン不足を適切にも見越して,ガス製造設備をその上に取り付けました。ヨハネスバーグから南西アフリカへ行くのにカラハリ砂漠を縦断しなければなりませんでした。道路はほとんどありませんでしたから,以前に通った自動車やロバの引く荷車のわだちの跡をたどらねばなりませんでした。しかもそのわだちの跡さえ全く消えていることがあったのです。

      ふたりはついにウィントフークにたどり着き,そこからさらに北へ,伝道して文書を配布しながら前進しました。しばらくの間警察がふたりの後をつけ,彼らが配布した文書を集めていました。ふたりはとうとう逮捕されて,無免許販売のかどで訴えられました。協会の勧めで,彼らは,南アフリカで行なわれていた同様の裁判の結果が出るまで自分たちの裁判を延ばしてもらいました。2,3週間後にプリンスロー兄弟は出廷し,有利な判決が下されました。

      ヨハネスバーグで大会が開かれるというニュースがふたりの耳に届きました。それに出席するには約1,600㌔の困難な旅行をしなければなりませんでしたが,彼らは行くことにしました。しかし災難が起きたのです。南西アフリカの大抵の河川は,豪雨の時以外は水の流れていない干上がった砂地の渓谷にすぎません。彼らの自動車は,そうした川のひとつを横切ろうとしていた時に動かなくなりました。その夜川に水がどっとあふれ,住宅自動車は二,三百㍍下流に押し流されました。翌朝ふたりは自動車が二つに裂けて車体が砂に深くめり込んでいるのをみつけました。彼らは出来るだけのものを引き上げ,災害に遭ったことと,大会に出席できなくて残念である旨を協会に知らせました。ところが,折り返しすぐに支部の監督からの贈物と,それを“短い休暇”のために用いるようにとの電報を受け取りました。

      大会後ふたりは戻ると,壊れた住宅自動車を直すために自動車のそばでキャンプし,その傍らヨハンネスを通訳にしてオバンボ農場の労働者に証言しました。ヨハンネスと言うのは彼らが区域を旅行するに際して雇ったブッシュマン人であり,彼は恐らく真理を受け入れた最初のブッシュマンだったことでしょう。ブッシュマンは砂漠に住む遊牧民で,弓と毒矢を使った狩を主な生計手段としています。彼らはアフリカ南部のあらゆるアフリカ人の中でも特別に小柄で,中央アフリカのピグミーと比較し得るほどであり,非常に原始的な生活をしています。ブッシュマンは近づきにくい場所に住んでいるばかりか,語彙の限られた舌打ち音を連続的に用いることばを話すので,彼らと他の人々とが意思を通わせることはたいへん困難です。とはいえ,農場労働者になっているブッシュマン人もいます。文書の禁止と一般情勢のために協会はやがてプリンスロー夫妻を南アフリカへ召喚しました。

      したがって,1929年,1935年および1942年に開拓者が南西アフリカへ行って多くの文書を配布したにもかかわらず,実際に区域を耕すことはなされなかったので,業の実はほとんど生み出されませんでした。しかし,1950年に南西アフリカにおける業の歴史に転換期が訪れました。その年,協会はギレアデ学校を卒業した4人の宣教者,すなわちジョージ・コエット,フレッド・ヘイハースト,ガス・エリクソンおよびロイ・ステフンズを送り,同年初めに宣教者の家がウィントフークに設けられたのです。

      それら4人の兄弟たちは,文書を配布することだけでなく,主の「ほかの羊」を見いだして養うことにも力を注ぐことが求められていたにもかかわらず,彼らの配布は非常に良いものでした。(ヨハネ 10:16)それと同時に,宣教者たちは,南アフリカ連邦から近隣のアフリカ人居住地に移って来ていた5人のアフリカ人の兄弟と連絡を取ることができ,その兄弟たちを組織して会(会衆)を作りました。宣教者のひとりはまた,そのアフリカ人居住地で少なくとも25件の聖書研究を取り決めました。その区域での,特にアフリカ人の間での業はどう見ても,増加の見込まれる上々の出発をしました。

      [77ページの地図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      アフリカ南部

      ザイール(ベルギー領コンゴ)

      ウガンダ

      ケニア

      タンザニア(タンガニーカ)

      アンゴラ

      ザンビア(北ローデシア)

      マラウィ(ニアサランド)

      モザンビーク

      ローデシア(南ローデシア)

      南西アフリカ

      ボツワナ(ベチュアナランド)

      スワジランド

      南アフリカ

      ヨハネスバーグ

      ダーバン

      ケープタウン

      レソト(バストランド)

      [94ページの写真]

      ケープタウンの事務所において手で植字をしているジョージ・フィリップス

      [100ページの写真]

      ズールー族の家族

  • 第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域
    1977 エホバの証人の年鑑
    • 第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

      円滑な移行

      それまでの25年間協会の会長として忠実かつ熱心に奉仕していたラザフォード兄弟は1941年の末までに重い病気にかかっていました。長年の間骨身を惜しまずエホバへの奉仕に携わってきた同兄弟は,その時72歳でした。1942年1月8日,彼は地上での王国の奉仕を死をもって閉じました。協会の理事会は2,3日以内にブルックリン・ベテルで会合を開き,ネイサン・H・ノアを新しい会長に選びました。ラザフォード兄弟の死後に示された野外の兄弟たちの反応はラッセル兄弟が亡くなった時の兄弟たちの感じ方とは大いに異なっていました。1942年には,「わたしたちはこれからどうしたらよいのか」という叫びは聞かれませんでした。むろん,ラザフォード兄弟が亡くなった時に真理の敵は歓喜し,「やつらの指導者かつ講演者がいなくなったからには,その業も間もなく崩壊するだろう」と言っていました。しかし彼らはその点に関してすぐに幻滅を感じました。

      亡くなる少し前の1941年8月にラザフォード兄弟はアメリカ,ミズーリ州セント・ルイスの大会に出席しました。その大会の顕著な催しのひとつは「子供たちの日」で,「子供たち」と題する新しい書籍が発表されました。この際立った大会の特色をなすプログラムは,1942年4月に開かれたヨハネスバーグの大会で小規模に繰り返されました。その時の出席者は1,700名に上り,その中には新しい書籍を受け取って喜びにあふれた340名の子供たちが含まれていました。その大会で,それまでの最高数の2倍を上回る400名の人々が神のご意志を行なうために献身を象徴しました。大会組織は初めて簡易食堂を運営し,6,000食を供しました。それは大成功を収め,またそのおかげで出席者は十分に交わる時間を持てました。兄弟たち全員はたいへん元気づけられ,そう快な気分になり,深い幸福感を抱きながら家に帰りました。

      その大会で特に励ましを受けたのは,開拓奉仕を始めて間もない大勢の若い開拓者たちでした。1942年,開拓者の数は南アフリカで65人に増えました。そのひとりにピエ・ウェントゼル兄弟がいました。彼はケープ州のボニーヴェイルという小さな町で真理の側に立ち,1941年の12月までにキンバリーで開拓奉仕を始めました。1945年,フランス・ミューラーが彼の仲間になりました。ミューラーは学校を卒業したばかりの16歳で,プレトリア会衆と交わって奉仕の面の良い訓練と経験をすでに相当積んでいました。そのふたりの若い兄弟たちはヨハネスバーグの南方約48㌔にあるヴェリーニギングという町に割り当てられました。ふたりは一生懸命働き,一方の兄弟はその年に月平均210時間奉仕しました。

      反対者たちが悲観的な予言をしたにもかかわらず,1942年に,ラザフォード兄弟が亡くなった後も,王国の業は低下しませんでした。それどころか以前より速い速度で拡大したので,同奉仕年度末にジョージ・フィリップスは前年度の最高数の26%増加に当たる1,582名という伝道者新最高数を報告することができました。1931年当時100名ほどに過ぎなかった小さな群れとはたいへんな相違ではありませんか。

      兄弟たちのしもべ

      協会の新しい会長ノア兄弟は業の進歩を指導しましたが,初めて行なわれるようになった新しい事柄の中に兄弟たちのしもべの業がありました。南アフリカではその業は1943年2月に始まりました。(地帯の業は1942年に停止されていました。)兄弟たちのしもべは独身の男子でなければならず,忙しいスケジュールについて行くため非常に強健でなければなりませんでした。最初小さな土地は1日だけの訪問を受け,比較的大きな会衆は2,3日間の訪問を受けました。そのためには難しい条件の下で長い旅行をし,昼夜を問わずとんでもない時間に汽車やバスに乗らねばなりませんでした。その業の内容は会衆の記録を注意深く調べることばかりでなく,主として,野外で兄弟たちといっしょに多くの時間を過ごし,野外奉仕の面で彼らを訓練することでした。

      ガート・ネル兄弟は1943年に兄弟たちのしもべに任命された人のひとりでした。彼は1934年,トランスヴァール州北部で教員をしていた時に真理を知り,以来王国の非常に熱心で活発な伝道者でした。ネル兄弟は地区のしもべおよび兄弟たちのしもべとしてアフリカ人とヨーロッパ人双方の多くの伝道者を援助する特権にあずかりました。彼の忠実かつ忠節な奉仕を今でも記憶している兄弟は少なくありません。ネル兄弟は出版物をアフリカーンス語に翻訳するため1946年にベテルに招待されました。

      兄弟たちのしもべになったアフリカ人の兄弟にトマス・マッキールがいました。彼が真理を知るのを助けたのは,南アフリカで最初にアフリカ人の開拓者となった人のひとり,年配のムレンガ兄弟でした。ある日曜日の朝,ムレンガ兄弟が野外に出ていると,一群の人々が地面に寝ているのを見つけました。一体どうしたのかと尋ねたところ,その人たちは前の晩に教会で一晩中祈って眠らなかったのだと言いました。その時彼らの牧師,つまりその時のトマス・マッキール“尊師”はムレンガ兄弟にあなたのかばんの中に何が入っているのかと尋ねました。彼は,「死んだ人はどこにいますか」と題する小冊子を受け取り,翌週には書籍を数冊求めました。そしてその次の週に大会に出席したのです。間もなく彼は教会を脱退してバプテスマを受け,その年のうちにムレンガ兄弟と共に開拓奉仕をするようになっていました。後には,前述の通り兄弟たちのしもべになり,1945年の末に忠実さを全うして亡くなりました。

      非常に効果的な新しい学校

      協会の会長N・H・ノアによって新たに設けられ,これまで野外において非常な成果を上げてきた取決めは,毎週開かれている神権宣教学校です。この非常にすぐれた取決めは短期間のうちに効果を現わし,自分は公開講演者にとてもなれないと考えていた多くの兄弟がたいへん有能な講演者となったり野外で一層効果的に伝道できるようになったりするのを助けました。南アフリカ全国の兄弟たちはエホバのそうした備えを喜んで受け入れ,熱意を持ってそれを実施しました。

      サムエル・メイス兄弟は1943年に学校の監督になった人です。1938年当時彼は共産党員でした。そのころ彼は「富」と題する本を求めました。それを読めば事業に関する良い知識が得られると期待したのです! サムエルはまた邪悪な霊者にも悩まされ,常々夜に恐ろしい経験をしていました。魔術師のところへ行きましたが何の助けにもなりませんでした。ところが,「ものみの塔」誌の研究に出席し始めたとたん,彼の生活はすっかり変化してよくなったのです。彼が何にも増して深い感銘を受けたのは様々な部族に属する兄弟たちが愛し合っていることでした。政党の党員の間には決して見られないすばらしい一致が兄弟たちの間に見られました。彼はリーフのアフリカ人の会衆で学校の監督となり,後に開拓奉仕を始め,巡回監督として用いられました。

      神権宣教学校はアフリカ人の区域がさらに速く発展するのを促進しました。プレトリアで,ハミルトン・キャフウィットが組織した小さな群れは1945年までに181名の人々が交わる大きな会衆に発展していました。そのころ政府はアフリカ人をプレトリア市から離れた所にある原住民の小さな町へ移し始めました。アフリカ人の会衆は大きさにおいてすでにヨーロッパ人の会衆の2倍近くになっていたのですから,第二次世界大戦中にアフリカ人の区域ですばらしい発展が見られたことがわかります。戦争が始まった時,ヨーロッパ人の伝道者数はアフリカ人の伝道者数より2対1の割合で多かったのですが,終戦までにその情勢は変化し,多くの場所ではアフリカ人の兄弟のほうがヨーロッパ人の兄弟たちより優勢でした。

      1945年までにヨハネスバーグには113名の人々が交わるヨーロッパ人の会衆がひとつと,合計500名を超すアフリカ人の兄弟たちが交わる4つのアフリカ人の会衆がありました。

      南のケープタウンでも拡大は起きていました。ヨーロッパ人の兄弟たちの総数は135名でしたが,ケープタウンのソールト・リバー・カラード会衆は138名になっていました。それからじきに,カラードの会衆は分会して4つの新しい会衆が生まれました。

      そのころ真理に入った人にアルビノ族のアフリカ人ニコルソン・マケタがいます。彼は1944年に大会でバプテスマを受けました。マケタ兄弟は1946年に開拓者になり,その後数年間巡回監督として用いられました。彼は英語を自由に使いこなせたので,ほとんどの大きな大会で英語からセソト語への通訳として用いられ,また,彼の故郷レソトで協会の出版物をセソト語に翻訳する特権も与えられました。

      ニアサランドにおける進歩

      1940年までにニアサランドのクリスチャン会衆の数は60に増えていました。王国の伝道に対する宗教家からの反対も増大しつつありました。ローマ・カトリックの僧職者たちは,もしニアサランドがローマ・カトリックの支配下にあったなら,証人の業はとうの昔にやめさせられていただろうと人々に語っていました。そして,いずれにしても法王は間もなく協会の活動を打ち壊し,「ラザフォードとエホバの証人全員を海の真ん中にぶち込む」と言っていました。

      ある時に起きた次のような出来事は偽りの宗教の教師たちが用いた不正な手段を明らかにしています。シンヤンジャ語のレコードを聞かせることがローマ・カトリックのアフリカ人の教師5人を動揺させました。その5人は,蓄音器を持った者が村々を歩き回って,ハルマゲドンが来ている,ヨーロッパ人は皆滅ぼされるだろうと人々に話しているとの苦情を地域の長官に申し立てました。むろんそれは白人の役人に不安と敵意を起こさせようと故意になされたことでした。しかし,当局の調査によりその報告が誤りであることがわかって問題は落着しました。

      アフリカ人の生活の中で迷信は普通大きな役割を演じています。しかし,真理はそうした精神的なかせからアフリカ人を解放します。その返報として,迷信の奴隷になっている人々がエホバのしもべたちに対して特別な武器を用いることは少なくありません。たとえば,エホバの証人が村から村へ伝道していると,その後からライオンが現われて村人の命を奪いました。そのために,エホバの証人はライオンに村人をねらわせるという迷信が出来たのです! ローマ・カトリックの教師たちがそうした迷信的な傾向を利用したのはいうまでもありません。

      第二次世界大戦ぼっ発と共にニアサランドの王国の業に対する圧力はさらに強くなりました。といっても,政府は引き続き公正な態度を取りました。そのことは総督H・C・D・マッケンジー-ケネディ卿の声明にも表われています。彼は次のように語りました。「わたしはものみの塔の人々を25年前から知っています。彼らがある国々で迫害され認められていないことも知っています。この国でわたしは,法律を守る限り彼らが動き回るのをやめさせるつもりはありません」。アフリカ人の当局者の中にも王国の音信が伝わる道を開けておく上で役割を果たした人々がいました。

      1943年までに業は非常によく増加したので月平均伝道者数は2,464人に上り,144の会衆が活動していました。ところがその年に総督と警視総監が新しく任命されました。大量に送られてきたシンヤンジャ語の「富」と題する本が政府によって差押えられ,1943年6月には政府通告第77号によって協会の出版物すべての輸入が全面的に禁止されたことが発表されました。しかし,ニアサランドの業はそれによって大きな影響を受けませんでした。国内にはすでに相当量の文書が在庫としてあったからです。

      強力な影響を及ぼしていたのは,依然として活動し協会の名前に非難をもたらしていた「ものみの塔運動」の存在でした。1937年エリオット・カムワナはセーシェル諸島の流刑から釈放され,そうした偽りの運動のひとつの指導者として戻って来ました。ウィリー・カバラもラザフォード判事の指導下にいると偽って唱え,小さな団体を率いていました。こうした事情がありましたから,協会が伝道者として認められる人々に特別の身分証明書を発行し,その人々の名前を政府に知らせるのは良いことでした。このようにして,ものみの塔聖書冊子協会の指導下にあるエホバの証人と類似の名称を持つ異教の運動とがはっきり区別されました。

      1944年中「エホバの新しい世」という表現がニアサランドの人々にたいへん人気を博しました。新しい世に関する講演をしたひとりの兄弟はこんな説明をしました。「アダムが罪を犯した時,彼は園の中で子供をひとりももうけませんでした。すべての人は“やぶ”で生まれたのです。そして,みなさん,わたしたちは今もって“やぶ”にいます。わたしたちはまだ園に戻ってはいません。しかし,この“マテケンニャ”[すな蚤]の世界を離れて完全に樹立された新しいエホバの世に入る時は今や近づきました」。ある場所では関心を抱く人々がここからそこへとエホバの証人のあとをついて回り,神のみことばの約束にじっと耳を傾けました。

      翌年までに聖書の真理の輝かしい熱気は偽りの宗教の水びたしの区域を干上がらせていました。新しい世に関する講演を聞いた後,大勢のアフリカ人の牧師たちは一緒に,あるヨーロッパ人の宣教師のところへ行き,こう言ったのです。「あなたはこうした事柄をなぜわたしたちに隠していたのですか。今日,わたしたちは少年や少女たちが人々を訪問して,前代未聞のすばらしい事柄を話しているのを見ています。ところがあなたは,今や偽りであることが明らかにされた教理をわたしたちに伝道させてきたのです。わたしたちが説教のために人々の前に立つと,わたしたちは愚かに見え,何ひとつ根拠を持っていないのです!」

      南ローデシアで困難に打ち勝つ

      1939年当時南ローデシアにはヨーロッパ人の伝道者が約15名,アフリカ人の伝道者が46名ほどいました。アフリカ人の兄弟たちを大いに助けるものとして,この国で主に用いられているアフリカの言語シショナ語の小冊子が初めて備えられました。

      先に紹介した,金鉱の孤立した伝道者,ジャック・マックラキーはその間に自分の子供たちを真理のうちに育てていました。彼の家は編枝の柱と泥でできた簡素なもので,床は,牛のふんを水でどろどろにして乾燥させたセンガで作られていました。牛のふんはそのようにすると固くなり,においもなく,毎日掃くことができます。ジャックは忠実に真理で子供たちを訓練しました。ひとつの方法として,聖書の数節を読んでから質問をして子供たちが理解したことを確かめるようにしました。一番年下のイアンはそのころたいへん幼かったのですが,そのようにして行なわれた勉強時間のことを覚えています。後に彼が開拓者となり,またギレアデ学校を卒業して宣教者となった時に幼いころのそうした訓練が役立ちました。

      1939年にはまた,もうひとつのマックラキー家が現われました。それはバート・マックラキーとその妻カルメン,赤ちゃんのピーター,それに先妻との間にできたふたりの子供たちです。バート・マックラキーは1927年に初めて真理に接し,親族の多くが真理を受け入れるのを助けました。事実,マックラキー“一族”の名前はアフリカ中部と南部で知れ渡っています。

      1939年に第二次世界大戦がぼっ発するとすぐ,南ローデシアにいたふたつのマックラキー家と他の伝道者たちは難しい状態に陥りました。政府は1940年11月15日に協会の文書の輸入および流布に対する禁令をさらに強化しました。「エンファティック・ダイアグロット」というクリスチャン・ギリシャ語聖書の英語の翻訳さえ禁止されたのです。それはその翻訳が戦争努力に対する反対を助長するという偽りの理由によりました。ケープタウンの支部事務所は時を移さず,英国の国王,首相,植民地相,南ローデシア総督および国会議員全員に嘆願状を送りました。それを受理したとの公式の通知はありませんでした。数日後,C.I.Dの係官が南ローデシア政府に代わってケープタウンにジョージ・フィリップスを訪れました。彼らは手紙の筆者の素性をぜひとも知りたいと願っていたのです!

      バート・マックラキーの話では,文書が禁止された時に恐れから姿を消した兄弟たちも中にはいましたが,大部分の兄弟たちは一層の熱意を持ってがん張り,将来どんなことが起ころうとも文書を配布してその法律の合法性を試そうと決意しました。その結果は逮捕,訴追そしておきまりの有罪判決でした。書籍や聖書,蓄音器とレコードは,後日法定命令によって焼却するために没収されました。そうした訴訟事件の幾つかは南ローデシアの最高裁に持ち出されましたが,そのころは戦争熱や圧力のために協会に対して不利な判決が下りました。

      ジャック・マックラキーによれば,当時ヨーロッパ人の証人の数は16名ほどで,その大半は禁止されている文書を配布したかどで1度か2度投獄されました。2度も3度も刑務所へ行った人々もいます。戦争に関連して中立の立場を取ったために多くの兄弟が投獄されたのもそのころのことでした。兄弟たちは刑務所にいる時を利用して良い証言を行なったので,彼らが釈放された後に幾人かの看守は証人たちと共に聖書研究に出席しました。

      ある時バート・マックラキーの妻カルメンも逮捕されて普通どおり25ポンド(約1万6,000円)の罰金もしくは3か月の実刑を宣告されました。彼女はその時妊娠していました。上訴が成功しなかったために事件は長引き,その間にカルメンは女の子を出産しました。やがて婦人警官がカルメンを逮捕するために来ました。マックラキー兄弟は妻と赤ん坊がグウェロの刑務所へ連行されるのを見るという悲しい経験をしたのです。彼らは赤ん坊を家に置いておくこともできましたが,母子が一緒にいるのは母親にも子供にもたいへん良いことであると判断しました。幼いエストレッラが母親と獄中にいる間その子守をしたある女の殺人者は,母子が3か月の刑期を終えて釈放された時にひどく涙を流しました。

      バート・マックラキー兄弟自身も2,3度投獄されました。刑務所で同兄弟はけがらわしい邪悪な行為をした罪人たちと交わっていました。その後にも先にもあれほど下劣なことばを聞いたことがないと彼は語りました。それでも,王国の音信に耳を傾ける囚人がふたり見いだされ,刑務所内でささやかなバプテスマの式が行なわれました。他の人が全員中庭へ運動に出てしまっている間にマックラキー兄弟がふたりの囚人にバプテスマを施したのです。

      1942年,南ローデシアのヨーロッパ人の兄弟たちは「エホバの証人: それはだれで,どんな業を行なっているか」と題する小冊子を出版しました。彼らはそれを総督と他の役人たちに郵送し,一般の人々に配布し始めました。バート・マックラキー兄弟はその時のことをとても良く覚えています。事実,彼の妻はある日その業に携わっていた時に再び逮捕されました。しかし彼女の裁判は行なわれず,彼女は告発されませんでした。

      1943年までに平均伝道者数は1,090人になり,王国伝道者の群衆は南ローデシアで急速に増加していました。翌年には幾つかの大会がアフリカ人の兄弟たちのために取り決められました。ブラワヨのアフリカ人大会に1,028名が出席し,ムレワの大会では公開講演に347名が出席しました。その2か所で50名の新しい人々はバプテスマを受けました。ヨーロッパ人の大会もブラワヨで開かれ,73名という出席者の最高数が得られました。兄弟たちは,文書の発送基地を開く許可が協会に与えられ,南ローデシアに公式の代表を置くことのできる日を切望しつつ業を続行する励ましをそこから得ました。

      迫害に面して熱心さを保つ

      1940年に北ローデシアのコッパーベルトで再び暴動があり,ひとつの町で数名のアフリカ人が殺されました。今度は敵はエホバの証人を“身代わりのやぎ”にすることに失敗しました。首謀者たちは全員ローマ・カトリック教徒でしたが,政府はそのことについてひとことも触れませんでした。コッパーベルトのエホバの証人たちはその時までにかつてないほど強く熱心になっていました。

      1940年12月,協会の文書すべての輸入と配布を禁止する政府の布告が出されました。兄弟たちの家は手入れを受け,文書を所有していたかどで刑務所に送られた兄弟たちは少なくありませんでした。ある場合などは,ギブソン・チェンベとラモンド・カンダマというふたりの兄弟が,幾人かのしゅう長を含む大勢の人々の前で書籍を焼くのを拒否したために数回ひどく打ちたたかれました。土地の警察署長および行政官との話合いでそうした行為が行なわれたのです。ケープタウン支部あての報告書は検閲官に押えられ,ルエレン・フィリップスは保安長官に呼び出されました。事実が示されると,長官は調査することを約束しました。ルサカの政府司令部とロンドンの植民地局双方に抗議が申し込まれました。政府は調査委員会を任命し,同委員会は行政官と警察署長を懲戒したので,強制的に書籍を焼く努力はそれ以上なされませんでした。

      次いで,すべてのヨーロッパ人とアフリカ人は2か月以内にものみの塔の出版物をことごとく最寄りのボマ(裁判所)に提出しなければならず,それを怠る場合は訴訟追行を受けるという政府の通告が1941年3月に出されました。言うまでもなく,真のエホバの証人はみなそれを拒否しましたから,さらに逮捕が行なわれました。協会の文書発送基地が手入れされました。文書発送基地のしもべ,ルエレン・フィリップスは大胆かつ確固とした立場を取り,手持ちの文書の提出を拒否しました。彼は6か月の実刑を宣告されました。同年の初めごろ,ルエレン・フィリップスは兵役を拒否したために一か月間刑務所で過ごしました。

      次の年も事態は緩和しませんでした。ルエレン・フィリップスは兵役の問題でまたもや逮捕されました。が,彼は上訴しました。その審理が行なわれるまでに彼は3か月刑務所にいました。彼はその時の経験を次のように語っています。「3か月後に行なわれた上訴審は,首席判事閣下が裁判官席に着き,法務次官(時の勅選弁護士)が訴追に当たるという大ごとになりました。判事は幾つかの異なった章にはさんだ紙片が出ている聖書を取り出し,モーセが戦争の人であったのに反してエホバの証人はどんな権利があって戦争を拒否するのかと切り出しました。その忠実な人はキリストより1,500年前の人でクリスチャンではあり得なかったということに気づかせられると,判事は聖書関係の質問をだんだんしなくなり,やがて聖書をわきに置きました。もし使徒たちが生きていれば,彼らも恐らく被告席についているでしょうということを聞いて,彼は明らかに心を動かされました」。それでフィリップス兄弟は彼が実際に服役した期間までの減刑が言い渡され自由の身になって法廷を出ることができました。

      迫害による苦難,食糧不足,そして禁令のための文書の欠乏にもかかわらず業は前進しました。文書不足を相殺するために,兄弟たちは質問および関連のある聖句を含む答えを用意して聖書研究に用いました。戦争のために自転車の部品とタイヤも不足していました。ですから,大半のアフリカ人は未開墾地の踏みならされてできた道の主な交通手段を奪われました。それにもかかわらず北ローデシアの業はすばらしい進歩を遂げていました。1944年の平均伝道者数は,1941年の116%増加に当たる3,062名だったのです。しかも,困難にもかかわらず伝道者たちは野外奉仕に毎月平均30時間を費やしていました。その時までに良いたよりは近くのコンゴにも広がっていました。

      北ローデシアのヨーロッパ人はそれまでエホバの証人と公に交わっていませんでした。その理由は「1943年年鑑」にこうほのめかされていました。「わたしたちの音信の価値を認めるヨーロッパ人の多くには根深い恐れがあります。彼らはそのことを公にもしくは活発に知らせると自分たちの地位が危なくなると感じているのです」。とはいえ,政府当局者を含む数人のヨーロッパ人は証人たちにたいへん親切でした。事実,ある地域長官は彼の前任者がふたりの証人を誤って長く刑務所に留置した償いとして各に5シリング支払いました。別の役人は彼の下男(協会の文書を所持していたために投獄されていた)が刑期を終えた時彼を車で迎えに来て仕事場に連れて帰ってくれたのです! 多くのヨーロッパ人の態度がそのように変化したのは,兄弟たちが振舞いによって良い証言をしたために違いありません。「1944年年鑑」がこう報告している通りです。「協会の信者はこの(労働)部隊で最も良い評判を得ています。農場主や他の雇用者が特に彼らに来てもらいたいと名差しで言うことは良く知られています」。

      オレンジ自由州で1916年ごろにジェピー・テロンから真理を聞いた一組の夫婦,すなわちブリジャー兄弟姉妹は1945年にヨハネスバーグからルアンシャへ移り,ブリジャー兄弟はそこのヨーロッパ人を対象に開拓奉仕を始めました。彼は町中を網羅して1,000冊の小冊子を配布したと語っています。その時彼は,ヨハネスバークで以前自分が研究を司会していたシーパーズ夫人と彼女の娘ジョベール夫人の家族に会いました。その家族全員は,今日のひ孫たちに至るまでが真理を受け入れました。ブリジャー兄弟はまた「クリスマスを祝うことに信仰を持っていない」数名の人々のことを聞きました。彼はその人々と会うことに成功し,こうして南アフリカで証人の業と交わりのあった他の4名の人々と接触しました。彼はその人たちと研究を開始し,彼らは北ローデシアで最初のヨーロッパ人の会衆の中核となったのです。

      バロツェランドに進む

      1945年には南アフリカ連邦からさらに援助があって,C・ホリデイ兄弟(この話の中で先に述べたM・ホリデイ姉妹の夫)が来ました。彼は「ルエレン・フィリップス兄弟を援助し,旅行するしもべとして」奉仕するようケープタウンの支部の監督ジョージ・フィリップスによって招かれました。ホリデイ兄弟は北ローデシア滞在中にバロツェランドを訪れました。そこはビクトリア滝の西方,大きなザンベジ川の上流にある約73万5,560平方㌔の地域です。ひとりの関心を持つヨーロッパ人と,案内者と通訳を兼ねたアフリカ人の「兄弟たちのしもべ」ひとりが彼に同行しました。

      それは非常に困難な旅行でした。一行はまず私設の森林鉄道でマッセッセに行き,そこで途中下車して数人の証人たちと集まりを持ち,会衆の中核を整えました。次の行程では,借りた人夫がしらのトロッコを使いました。政府のトラックに乗れる場所までふたりのアフリカ人がそれを線路に沿って押してくれました。一行はそれでカティマ・モリロに行き,そこから再び他の車に乗せてもらってヌグウェシに行きました。ヌグウェシでは,彼らに会って荷物を運搬しようとセナンガから徒歩で来た兄弟たちの出迎えを受けました。その後セナンガまでほとんどの道のりを3そうのカヌーで旅行しました。ある地点で彼らはカバに出会ってぞっとする経験をしました。ホリデイ兄弟にとってほんとうに恐ろしかったことに,その大きなカバは一そうのカヌーを空中に持ち上げたのです。しかし,こいでいた人は巧みにバランスを取り,オールでカバを打ちました。それは効を奏してカバは泳ぎ去り,一同はほっと胸をなでおろしました。

      セナンガに着いたとたん,彼らは集まっていた大勢の人々の歓迎を受けました。その出迎えのために,ある人々は陸路を8日か9日間旅行して来ていました。どの人もこれから何があるのかとたいへん楽しみにしていました。ヨーロッパ人の兄弟が訪問したのはその時が初めてでしたし,それまで白人を一度も見たことがない人も少なくありませんでした。彼らが聞いた非公式の大会は霊的に確かに元気づけました。

      ムフリラの会衆を訪れた時,ホリデイ兄弟は原住民労務者のための特別区の区長であるフォード氏に会いました。彼は「ものみの塔の男子たち」の良い仕事と信頼性に深い感銘を受けていました。フォード氏は「エホバの証人の1946年年鑑」の中で次のように報告されている役人のひとりでした。「当局は今だに認めようとはしていませんが,個人的にはエホバの証人の清潔さ,礼儀正しさ,および勤勉さに対して敬意を抱いていることを示す人がいるという励ましとなる例があります。炭坑都市で現在わたしたちと交わっている大勢の人々(800名もの大きな集まりに出席する場合も珍しくない)はアフリカ人を直接監督している人々に深い感銘を与え始めています。その一例として,ムフリラ町運営委員会と4か月にわたって通信のやり取りがあった後,王国会館を建てるための土地が無料で与えられました。その誉れを当然に受けるべきなのは,わたしたちを大胆に弁護してくれた数名の役人です」。その種の建物としてそれは北ローデシアで最初のものでした。

      こうして,1940年代の前半北ローデシアでは迫害にもかかわらず業がどんどん進んでいました。南アフリカ支部の管轄下にある他の国々においても同様でした。

      バストランドの禁令下で伝道する

      1940年代初め,フランク・テイラー兄弟姉妹がバストランド(現在のレソト)を訪れました。そこでは強い関心が見られ,ふたりはあちこちで文書を欲しがるアフリカ人に文字通り追いかけられました。しかし当局はふたりを監視し,文書を全部没収すると脅して彼らを無理やり立ち去らせました。

      1941年の2月中に協会の文書をバストランドに持ち込むことが全面的に禁止されました。不思議に思えることですが,その禁令が課された時にはバストランドにまだひとりも証人が住んでいませんでした。ところが,禁止されていた間に王国の業が開始され,たいへん良く進歩しました。協会の宣伝カーに乗った兄弟たちは協会の講演のレコードを放送し,文書を配布しながら旅行しました。が,支部事務所がバストランドからふたりの伝道者の報告を初めて受け取ったのは1942年のことでした。最初のふたりの伝道者のひとりはL・ラモセナ兄弟で,彼は実際にはトランスヴァール州のヴェリーニギングという町で働いていた時に初めて真理を聞きました。ラモセナ兄弟は真理に対して非常に熱心で,自分の国で真理を広めたいと強く願ったため,家に帰ってテヤテヤネングという町を手はじめとして熱心に証言し始めました。

      間もなく,ヨハネスバーグで真理を受け入れていたもうひとりの兄弟がラモセナ兄弟と一緒になり,ふたりは近隣の村々に自転車で行って良いたよりを広めました。彼らは小さな集会を開き,その群れは大きくなって行きました。一年後の1943年に伝道者は100%の増加に当たる4人になったのです。

      レソトの戸別訪問による伝道の業は他の多くの国における場合と大いに異なっています。家の人が屋内にいても屋外にいても,伝道者は明るく,そして親しみ深く「コーツォ!」とあいさつします。それは「平安!」という意味です。家の人も「コーツォ!」と答えます。次いで伝道者は家に招じ入れられ,席を勧められます。彼らは互いの健康について尋ね会い,型通りのあいさつがすむと伝道者は自分の用向きを切り出すことができるのです。

      この国ではカトリック教会とフランス伝道団がしっかりと根を下ろしており,多くの人々はそのふたつの宗派のどちらか一方に属していますが,異教の先祖崇拝の伝統を依然として保持してきたバストー人は少なくありません。儀式的殺人,つまり,いわゆる薬効の目的で人体のある部分を得るために人を殺すことが最近まで行なわれていました。しかし,こうした障害にもかかわらず,王国伝道者の小さな群れは成長し,1948年には良いたよりの伝道者が9名いました。

      しゅう長の多くはカトリック教徒なので,王国の業に反対することが少なくありません。しかしその中に心の正直な人々もいました。1951年,ある開拓者はレリベのしゅう長の村に行きました。彼は食事に招待されました。ふたりの僧職者も同席していました。その開拓者はしゅう長に証言し,要点を述べる際に各を聖書から証明しました。ふたりの司祭は気をいら立て,怒って席を立ちましたが,しゅう長はたいへん喜んで研究に応じました。その後しゅう長は自分が治めている地域の人々にも研究するように勧め,その結果あまりにも大勢の人が聖書研究を望んだので,その土地にいた開拓者はそれらの人たちすべてをもはや世話することができなくなりました。業は良く発展し,1951年までにバストランドには5つの小さな会衆がありました。また,翌年には平均53名の伝道者と10名の開拓者がいました。

      タンガニーカで真理の光が輝く

      さらに北方のタンガニーカでもアフリカ人の兄弟たちの間で業の進歩がみられました。1936年以来数年にわたってタンガニーカから協会のケープタウン支部に時たま寄せられた手紙は,アフリカのその地方で真理の光がかすかながら輝いていたことを示しています。1942年,158名の兄弟たちは伝道の業に幾らか携わりました。1945年の「年鑑」によれば,タンガニーカの報告は,迫害が増大し文書が没収されたことを伝えているものの,月平均75名の伝道者がひとり当たり8時間を上回る野外奉仕を報告しました。それらの兄弟たちを励ますには手紙による以外に道がありませんでしたから,協会はその方法を用いました。1945年までにタンガニーカの600万人近い住民は,144名の伝道者が交わるわずか3つの組織された会衆によって証言を受けました。彼らの伝道活動は主として口頭の証言,再訪問および研究からなっていました。時折り読み物が届くと伝道者たちは大喜びしました。そしてそれを全員の益となるように活用しました。1946年までに伝道者は227名に増加し,会衆は7つになりました。それらの兄弟たちは偽りの宗教の様々な組織から非常な反対を受けており,より厳重な監督とスワヒリ語の文書を大いに必要としていました。

      1948年1月,チベンバ語を話す兄弟たちのしもべがタンガニーカの諸会衆を訪問すべく北ローデシアから派遣されました。彼はムベヤ地域の8つの会衆と共に働いて兄弟たちを励まし築き上げました。北ローデシアの国境にある残ったもうひとつの会衆は別の兄弟たちのしもべが奉仕しました。成果はまさに現われようとしており,しゅう長たちでさえ真理に関心を示しました。そのうえ,タンガニーカは今や北ローデシアに新設された支部の管轄下にありました。現在ケニア,ウガンダおよびタンザニアは協会のケニア支部の指導を受けています。王国の業はその地方で急速に拡大しており,エホバのお名前に大いに誉れをもたらしています。

      新しい運動が始まる

      1945年6月中に南アフリカで公開集会運動が始まり,野外の兄弟たちはその運動を熱烈に支持しました。神権宣教学校が開かれた結果今や多くの講演者がいました。用意された講演の筋書きは幾つかの主要なアフリカの言語に翻訳され,そうした区域の兄弟たちもその新しい運動を組織し始めました。

      いうまでもなく,公の演壇から話をすることに恥ずかしさや恐れを感じた兄弟たちも少なくありませんでした。その中にヴェリーニギングで開拓奉仕をしていたピエ・ウェントゼルと彼のパートナーであるフランス・ミューラーがいました。その運動のことが「通知」(後の「王国奉仕」)で扱われた時,ふたりとも自分たちはそれに向いていないということを認めました。ふたりは公の演壇に立った経験が一度もなかったのです。しかし,「通知」に出ていた助言に励まされた彼らは,話を選んで準備に取り掛りました。講演の練習をするのにふたりは川の土手の静かな場所を選んで十分に離れると,“話し”始めました。ゆるやかに流れる“聴衆”,すなわち川に向かってです! 1か月ほどの間昼食の時間になると川に行き,本物の聴衆に向かって話す自信が十分にできるまで練習しました。ビラが注文され,大々的な宣伝がなされました。公開講演の当日37名の出席者を迎えたふたりはそのすばらしい出発に大喜びしました。

      組織がより強くなった

      迫害に関する限り,1945年はその前の年に比べてかなり平穏な年でした。といっても,幾つかの小さな事件はありました。そのひとつはキンバリーで起きました。キンバリーは,そこでダイアモンドの採掘が始まった1870年代以来ずっと重要なダイアモンドの鉱山都市です。キンバリーの町議会は,何ら明らかな理由もなく,町の(アフリカ人のための)指定地区にエホバの証人を入れて信仰を広めさせてはならないという決議を採択しました。アフリカ人地区の監督者は証人の活動をやめさせ,その集会場を閉鎖するようにとの指示を受けました。一地方新聞は,「ラッセル派,当地の指定地区で禁止さる」という見出しの記事を掲げました。

      指定地区の監督であるオブライエンという名の男は直ちに行動を起こしました。彼は兄弟たちの留守に王国会館に押し入り,文書と蓄音器を押収して,蓄音器を運搬する小さな手押車をめちゃめちゃに打ち壊しました。それから意気揚々と,その切れ端をまきにするようにと見物人たちに手渡しました。支部も直ちに応酬しました。48時間以内に没収した物品を返し,手押車の損害賠償金を払うように,さもなければ訴訟を起こすと町議会に通告したのです。その結果,町議会は損害賠償金として10ポンド(約6,464円)を自腹を切って支払い,オブライエンはすぐに引き返して没収した物品を自分で王国会館に返却しなければなりませんでした。あげ句の果てに,地方新聞は,エホバの証人がまたもや勝利を収め,通常どおり指定地区で教育活動を推し進めているとの記事を掲げました。

      ほぼ6年間も,うんざりするほど長く続いたヨーロッパの戦争は1945年5月にやっとのことで終結しました。原子爆弾が日本の抵抗を粉砕するまでしばらくの間極東では依然戦闘が続いていました。南アフリカ人は一般に深いあんどの息をつきました。しかし,証人たちは“禁令戦争”で勝利を得たものの,蛇の「胤」との長期戦はまだ終わっていませんでした。

      とはいえ,神の民は大戦中に19か所で「一致した告知者の大会」を開きました。南アフリカにおける王国の業の歴史上初めて,兄弟たちはアメリカその他の場所の兄弟たちと同時に同じ良いものを楽しむことができました。プログラムや新しい出版物はすべてその場に間に合いました。

      南のダーバンで伝道者の数はおよそ100名になっていました。その小さな一団は公開講演を宣伝するために強力な運動をしました。5万枚のビラ,2,000通の特別な招待状,1,000枚のポスターおよび大小多数のたれ幕が使われました。市民は電気に打たれたように強い衝撃を受けました。かつてそうしたものを見たことがなかったのです。公開講演の出席者数は900名で,そのうちの750名ほどは一般の人々でした。そうした一連の大会の全国の出席者数は新最高数に当たる5,001人に達しました。

      ケープタウンの支部事務所の家族は今や14名に増えていました。彼ら全員は依然個人の家や下宿屋に住み,町の食堂で食事を取っていました。小さな印刷所は引き続き忙しく,1945年に最高記録である256万2,817部の印刷物を生産しました。1943年に出版された,「真理はあなたがたを自由にする」と題する新しい書籍がアフリカーンス語,ズールー語およびセソト語に翻訳されました。

      このようにして,アフリカ南部における組織は第二次世界大戦をくぐって初めのころよりもずっと強く大きくなって現われました。文書の禁止,僧職者による“名誉きそん”運動,新聞による悪質な宣伝,裁判ざた,警察の手入れと逮捕など,反対者の行なったあらゆる努力にもかかわらず,業は進歩発展しました。南アフリカの会衆の数は2倍以上にふえ,115から244になりました。アフリカ南部全体で平均伝道者数は286%の増加に当たる3,179人(1939年)から1万2,289人(1945年)になりました。南アフリカ連邦における伝道者の増加はさらに驚異的で1939年の439名から1945年の2,991名になりました。これは580%もの増加です。

      将来に対して築く

      戦争中の驚くべき増加からして,将来も産出的であれば,南アフリカ,中央アフリカおよび東アフリカの王国の業は良く組織される必要がありました。記録が示すところによれば,1939年に3,179人だった証人は1946年には平均1万4,089人に増加していました。当時ケープタウンの南アフリカ支部事務所が管轄していた区域全体の人口は2,500万人でした。90%の人々は大陸の南半分に住み,アフリカ人の様々な部族に属していました。しかし,ヨーロッパ人(白人)の大半は南アフリカ連邦自体に住んでいました。

      続く数年間もさらに驚嘆すべき増加の見られる見込みがありました。関心を持つ羊のような人々を一層良く世話するため,そうした区域でものみの塔協会の新しい支部が幾つか開設される予定になっていました。

      多くの地域で証人の活動はまだまだひどい誤解を受けていました。1946年10月に開かれる大会に出席するため,数人の兄弟たちが北ローデシアからヨハネスバーグへ行こうとしたところ,移民局の役人はそれを許可しませんでした。ひとりの役人はこう尋ねました。「『ものみの塔』は破壊活動の罪を犯したのではなかったかね」。それら当局者に事実が提示されましたが,それでも兄弟たちは入国を許されませんでした。ヨハネスバーグのアフリカ人の町では数千人の人々が仮小屋で生活しており,兄弟たちのために十分の宿泊施設はないというのがその理由でした。当局者たちは,エホバの証人が訪れる兄弟たちの世話を自分たちでするということを認めたくなかったのです。

      オハイオ州クリーブランドにおける1946年の大会で「神を真とすべし」および「凡ての良い業に備える」といった出版物が発表されましたが,南アフリカの兄弟たちは約2,3か月後にヨハネスバーグで開かれた大会でそれらの出版物を熱意を持って受け取りました。そうした出版物は,エホバのしもべたちがみことばの真の教え手としてさらに資格を持つ者となるためにたいへん役立ちました。蓄音器と聖書講演のレコードを用いる業はまだ続けられていましたが,今や,王国の働き人はどんな人種の人であれ,自分の口を使い自分自身で伝道し教える業にいっそうあずかる仕方を学ぶべき時が来ました。

      当時巡回監督をしていたアフリカ人のひとり,M・ヌグルーによれば,その時期に様々な宗派のアフリカ人の僧職者が多数真理を受け入れたということです。スイス・ミッション教会のベスエル・リコーツォもそうした人のひとりで,ヌグルー兄弟が1946年にトランスヴァール州北部のグラスコプを巡回訪問していた時に会いました。彼は初めて真理を聞いた晩にそれを受け入れました。巡回監督が次に訪問した時,彼はシャンガーン族の首長の「クラール」(草ぶき小屋の群れ)で特別講演が行なわれるように取り決めました。その講演を通して強力な証言がなされ,数年後そこに大きな会衆ができました。リコーツォ自身は1947年1月に開拓者になりました。

      巡回の仕事と大会

      その当時,アフリカ人の巡回監督の仕事は危険を伴うことがありました。ヌグルー兄弟は,はんらんした川を渡る時に2度おぼれそうになったと述べています。今日でさえ,アフリカ人の巡回監督はひとつの会衆から他の会衆へ行くのに荷物を負って未開墾地を幾㌔も歩かなければなりません。しかも妻子を連れている場合が少なくないのです。

      1947年2月に巡回区の新しい取決めが実施され,南アフリカは14の巡回区に分けられました。

      幾つかの地域でアフリカ人が著しい関心を示しました。アフリカ人のある巡回監督は,一日に3度同じ公開講演をした経験を話してくれました。彼は新しい会衆を設立するためある地域に派遣され,1947年8月のある日曜日に公開講演を予定しました。出席者は173名で,そのほとんどは新しく関心を抱いた人々でした。彼は次のように書いています。「講演後,出席した人々は真理を聞きに来るよう他の人々を誘うために出かけて行きました。午後3時にわたしは2度目の公開講演をしました。午後5時には別の人々が大勢会館に来て,この会館で真理の話が行なわれていることを3時の講演を聞いた人々から教えられたが,その話をもう一度してほしいとわたしに真剣に頼みました。それでわたしは6時から7時までその日の午後3度目の講演をしました」。そのような強い関心は驚くべき増加を促すはずでした。

      1947年4月,南アフリカで最初の巡回大会がダーバンで開かれました。その大会で地域監督として奉仕したのは,宣教者のためのものみの塔ギレアデ聖書学校の第5期生であり,南アフリカに来た最初のギレアデ出身の宣教者でもあるミルトン・バートレットでした。アフリカ人の兄弟たちは市の中心に近い市営住宅に水しっくいで上塗りした会館を使用しました。それは楽しい機会でした。当時ナタール州全部がひとつの巡回区に入っていましたから,兄弟たちはかなりの距離を旅行しました。

      バートレット兄弟はその地方色豊かなアフリカ人の大会を次のようにたいへん生き生きと描写しています。「アフリカ人の証人たちの態度を見て感動させられました。彼らはとても清潔でおとなしく,きちんとした身なりをしており,さらに深く真理を学ぼうと非常に誠実で熱心な態度を示し,野外奉仕にもたいへん熱心でした。証人たちは指定地区のただ中(下宿屋の庭)にいたのですが,三つ足の付いた大なべを持っていて,動物をほふるとその指定地区内で食事を用意しました。どの証人も自分でほうろう引きの皿とコップ,そして大きなスープ用のさじを持って来ていて,出された食物をそれで食べました。ただし,とうもろこしの固いかゆを食べる段になるとそれを手で巻いて皿の底のスープに浸し,口にひょいと入れました」。

      兄弟たちは巡回大会を非常に楽しみました。その年の支部の報告によると,ズールーランドのアフリカ人の兄弟たちは片道約125㌔の道のりを徒歩で巡回大会に出席しました。往復5日間歩いたのです。まさに支部の監督が次のように述べた通りです。「それらの兄弟たちの多くが示す熱意は実にすばらしく,彼らが熱心に学び,与えられた教えを心に取り入れようとしている様子は心を楽しくさせます」。

      宿泊施設の問題も兄弟たちの悩みとはなりません。毛布や身の回り品の入った包みと書籍とか聖書を入れた小さな木の箱を持ち。赤ん坊は婦人たちが背負ってやって来ます。その木の箱はしばしば大会のプログラム中いすに使われます。大会場に着くのに2,3日かかる場合,喜んで家の片隔に泊まらせてくれる親切なアフリカ人が容易に見いだせます。野宿しなければならない時には毛布で夜露をしのぎます。

      時折会館がないと,空を丸天井にして屋外で大会が開かれます。他方,柱を立てて防水布で覆った仮小屋が作られます。とうもろこしがゆと肉のおいしい食事がその場の必要を満たします。兄弟たちが自分自身の皿を持っていれば上等です。でなければ兄弟たちはひとつの皿から一緒に食べます。だれかがスプーンを持っていなかったら……,心配ありません,ナイフとフォークより前に造られた指があります。

      喜ばしい訪問は霊性を築き上げる

      南アフリカ,中央アフリカおよび東アフリカにおける1948年度の王国の業で最も顕著な出来事は,協会のN・H・ノア会長の待望久しい訪問でした。それはアフリカ南部のすべての兄弟たちにとって大きな喜びでした。その時新しい支部事務所と工場および宿舎を建てる土地がヨハネスバーグの近くに購入されました。

      1948年1月3日から5日には南アフリカで全国大会が計画されていました。その大会はヨハネスバーグで開かれたのですが,当局の要請があって,ヨーロッパ人とカラードの兄弟たちは同じ場所に集まり,アフリカ人の兄弟は別の会場に集まりました。兄弟たちは簡単な知らせを受けただけでしたが,開会の話におよそ3,600人が出席し,ふたつの公開集会には9,246人が集まりました。全部で416名が浸礼を受け,うち378人はアフリカ人の兄弟でした。大会後,ノア兄弟と秘書のミルトン・ヘンシェルはケープタウンの支部事務所に3日間滞在してベテル職員に助言と励ましを与えました。

      ケープタウン支部の監督下にあるすべての国と区域における伝道者は,1948年に2万7,000人をやや上回る最高数でした。同年にノア兄弟が訪問した結果,単なる文書発送基地が協会のケープタウン事務所に報告を送るかわりに,独立して機能を果たす幾つかの支部がアフリカの中央部に新しく組織されました。ここで,ケープタウン支部の監督下にあった中央アフリカにおけるそれまでの発展を考慮するのはふさわしいことと思われます。

      制限が取り除かれ,王国の伝道は栄える

      南ローデシア(現在は単にローデシアと呼ばれている)において,王国の活動に対する制限を取り除く戦いは続いていました。ケープタウン支部は制限撤回の申請を誠意を込めて幾度か送っていました。1945年にその申請を閣議の初めに考慮するとの保証を与えられました。あくる年ついに制限が取り除かれ,協会の文書をローデシアで再び自由に配布することができました。

      1947年,バート・マックラキーは家族の状態からして再び開拓奉仕を始められると感じました。大きな驚きであり,また喜びであったことに,彼は,当時の南ローデシアのブラワヨに1947年7月1日付で協会の文書発送基地を開設するように任命されました。なににもましてエホバのおかげにより,南ローデシアで王国の業を確立し,ふさわしい代表者を置くための長く厳しい戦いは勝利を得たのです! その年までに伝道者の最高数は3,000人台を超え,82の会衆が組織されていました。

      最初の文書発送事務所はどちらかといえば家族的で,バート・マックラキーは弟のジャック・マックラキーの家で仕事をしました。最初バート・マックラキーは自分ですべての仕事を行ない,その後,「ものみの塔」誌の記事をそれぞれシショナ語とシンヤンジャ語に翻訳するふたりのアフリカ人の兄弟を呼びました。かなりの間彼らは翻訳したものを謄写板で印刷し,丁合したり折ったりとじたりするのを手で行なって雑誌を作らねばなりませんでした。マックラキー兄弟自身が認める通り,完成した雑誌は改善する余地のあるものでした。1975年現在では,エランズフォンテイン支部の近代的な輪転機で非常に高い品質の雑誌が生産されています。シンヤンジャ語の雑誌は毎号2万5,000部,シショナ語の雑誌は毎号1万3,900部印刷されています。

      そうした発展や改善のすべては当然ながら南ローデシアの王国伝道者の心に大きな喜びと励ましをもたらしました。しかし,1948年1月にノア兄弟とヘンシェル兄弟の訪問があるというニュースが1947年10月に伝わった時すべての兄弟たちがどれほど感激したかは想像に難くありません。ブラワヨとソールズベリーでノア兄弟がアフリカ人とヨーロッパ人に行なう講演を宣伝するため,幾千枚ものビラや何百枚ものポスターおよび多くののぼりが用意されました。ギレアデ学校を卒業した南ローデシアで最初の宣教者エリック・クックが現われたのもそのころのことでした。

      1948年1月16日から18日にわたる大会期間中にハラリ町区の会館を使用する手はずが前もってなされていたのですが,原住民管理局がそれを取消したために難しい事態が生じました。当局はさらにアフリカ人の兄弟たちのために前もって取り決められていた宿泊施設をも解消しました。当局者が協会は“政府に反対している”との誤った考えを持っていることがわかりました。クック兄弟は,「エホバの証人の年鑑」からある1節を読んでそうした誤った考えを打破しました。そのことに深い感銘を受けた当局者は,ハラリの会館の使用を再び許可し,大会に出席すると見込まれていた幾千人もの人々が宿泊施設を利用できるようにしました。こうしてエホバの証人の大会を開く道は開かれ,その大会は6,000人台を上回る出席者の最高数を得て成功を収めました。

      ノア兄弟は短い訪問中に時間を割いて政府の当局者を訪れ,英貨の国々のドル不足のために協会の文書に課された重大な制限に関して話し合いました。彼は,南ローデシアあての文書すべてを無料で送って通貨の問題を起こさないようにすると語って,役人とのその問題を取り除きました。

      1948年9月1日付でその文書発送基地を支部事務所とし,エリック・クックを支部の監督とするという取決めをノア兄弟が設けたのもその訪問中でした。それは南ローデシアにおける王国の業にとって新しい章の始まりとなりました。その時伝道者は最高数の4,232名でした。

      ニアサランドを目ざめさせる

      そのころのニアサランド(現在のマラウィ)における業の歴史もほとんど同様の型を取りました。1946年までにエホバの証人の存在はニアサランドで本当に知られるようになっていました。伝道者数は初めて3,000人台を超え,兄弟たちは確かにこの国を目ざめさせていました。

      公開集会運動はその時まさにたけなわで,あらゆる土地の人々を覚せいさせることに非常な成功を収めていました。いうまでもなく,偽りの宗教家たちはエホバの証人が自分の村で集会を開くのを邪魔するためにあらゆる努力を払いました。公開講演をするには村の村長から許可をもらわねばなりませんでした。ですから,村長が土地の宗教指導者たちの影響を受けると公開集会を開くことができませんでした。ゾンバ地区である教会の執事と長老たちは村長にその地位を取り上げると脅しました。しかし,その村長は取り上げたいのならそうしてもかまわないと彼らに言いました。それとは対照的に隣りの村の村長は,その村で公開集会を開く取決めをするために自分のところへやってきたふたりのエホバの証人を打ちたたきました。その人は裁判にかけられましたが,有力な人物であり,教会員でもあったので,アフリカ人の地方裁判所は「本件に関して我々は何もなし得ない」と言いました。しかし,それを聞いた地域委員は,裁判所と反対した村長双方に厳しい懲戒を与えました。

      多くのしゅう長は自分の村で講演をするようエホバの証人に招待状を送り始めました。ひとりのしゅう長は,リズルという所で開かれた公開講演に出席して死者の状態に関する真理を聞き,そのすぐ後に宗教指導者たちが執り行なった葬式に出席しました。聴衆は,死んだ子供は「今天で天使になっている」と告げられました。その老しゅう長はぶつぶつ言ってしっかと立ち上がり,横にいたインドゥナ(彼の村の村長)の方を向いてかぎたばこを欲しいと言いました。彼はそれをすぱすぱ吸うと,「ふん,わしたちは死者がどこにいるかをリズルで聞いた。今のはみんなうそだ!」と言って退場しました。

      エホバの証人の音信があまりにも強力だったので,偽りの宗教家たちは証人の表現や方法をまねしようとしました。「わたしたちも新しい世を伝道している」と言おうとしたのです。中には自分の教会員を再訪問しようとした人々もいましたが,彼らは数週間でそれをやめねばなりませんでした。

      口頭により,また木にはり紙をして広く宣伝したある屋外の公開集会で,300名ほどの人々が講演を聞くためマンゴーの木陰に集まりました。講演者がミカ書 3章11節の『その祭司たちは値を取りて教えをなす』という聖句を引用した重大な時点で,たまたまひとりの牧師が自転車に乗って通りかかりました。彼は腹を立ててそこの村長に苦情を申し立てました。村長は,エホバの証人が公開集会を開いてはならないと裁定しました。むろん兄弟たちはそれを受け入れることはできず,原住民の裁判所に上訴しました。村長の裁定は破棄され,以後エホバの証人に迷惑を掛ける者は5ポンド(約3,200円)の罰金を科されることになりました。事態がすっかり収まったころには50名ばかりの関心を持つ人々が王国の活発な伝道者としての立場を取りました。

      それまで反対していた村長の多くは友好的になり,自分が宗教指導者たちの影響を受けていたことを認めました。ある巡回監督がローマ・カトリック教徒でもあるひとりの村長のところへ行って,その村で公開集会を開かせてほしいと頼んだところ,こう言われました。「あんたがたがここで集会を開くだと? とんでもない。―― 村であんたがたが集会を開いて,今ではあそこの教会はつぶれてしまった。あんたがたを許可した ―― 村と ―― 村でも同じことが起きている。今度はわしの村に入って来て,わしらが築いた教会をぶちこわそうと言うのだな! 絶対にそうはさせるものか!」しかし,次の日の朝200人の兄弟たちは歌いながら村を行進して通りました。ローマ・カトリック教徒たちは叫んだりトムトムを打ち鳴らしたりして妨害しようとしました。ところが大勢の人々は群れをなして兄弟たちの行進に加わり,みんなで村から出た所に行って公開集会を開きました。その集会は大成功でした。

      禁令と戦う

      1946奉仕年度中に,政府によって差し押えられていた協会の文書の返還を求める嘆願状が回されましたが,それによってもニアサランドの人々を目ざめさせることができました。兄弟たちのそうした精力的な運動に,その幾分孤立した英国植民地は深い感銘を受けたのです。嘆願状には4万7,000人が署名し,そのことは確かに当局者を憂慮させました。

      ケープタウンの支部は,1946年9月5日付でロンドンの植民地相に説得力のある長文の手紙を送りました。ニアサランドにおけるエホバの証人の振舞いはとがめようのないものであること,文書を禁止した責任を持つ人々はニアサランドで働いているイエズス会修道士の影響を強く受けていたこと,イギリス連邦の他の場所で協会の文書に対する禁令はすでに解除されていることがその手紙で指摘されていました。それに対する反応は励みになるものでした。というのは,ものみの塔とエホバの証人を共同推薦するため,東アフリカブロック(北ローデシア,ニアサランド,ケニアおよびタンガニーカ)を形成していた4つの異なる英領の総督たちが植民地局によって招集されたからです。総督たちは次の2点すなわち,(1)すべての人には崇拝の自由があるという原則,および(2)4つの地域に当時存在していたと同様の禁令は帝国の他のあらゆる土地で撤回されたことを心にとめるよう求められました。ところが当局者たちは,協会の文書を注意深く検討すると述べてその問題を棚上げしてしまいました。

      訪問によって業は活発になる

      1948年1月13日,ニアサランドにとってたいへん特異な出来事がありました。4人の兄弟を乗せた飛行機が近くの南ローデシアのソールズベリーから着いたのです。その4人とは,ノア兄弟,ヘンシェル兄弟,ケープタウンの支部の監督フィリップス兄弟およびニアサランドで援助する割当てを受けた新しいギレアデ卒業生のI・ファーガソンでした。ヨーロッパ人とインド人のための集会をブランタイア公会堂で開く取決めが設けられていました。当時ブランタイアにはヨーロッパ人が250人しかいませんでしたから,公開講演の出席者が40名であったのは上首尾でした。翌日その一行はリンベの近くで開かれたアフリカ人の大会に出席しました。その大会でビル・マックラキーは講演者の話をシンヤンジャ語に通訳しました。拡声装置が何もなかったので,プログラムを扱った兄弟たちは全員が聞こえるように大きな声で話さなければなりませんでした。ある時講演中に雨がひどく降ってきました。一般の人々は木の下や近くの家々に逃げ始めました。しかし,兄弟たちはその場にとどまり,ノア兄弟はかさをさしながら講演を最後まで行ないました。協会の会長であるヨーロッパ人が講演をし終えるために雨の中に立っていたという事実そのものは,協会に交わっている人々がアフリカの人々の福祉に対して真の関心を抱いているということを彼らに示すものとなりました。土地のヨーロッパ人であればそうしたことは絶対にしないからです。

      その訪問中にノア兄弟は政府の幹事長および警察長官と会見し,協会の出版物に対する疑問や誤解を晴らすことができました。それら政府の代表者は文書の禁令を解除できるかどうか調べるために問題全体を再検討すると約束しました。

      ノア兄弟の訪問によってニアサランドでの業は驚くほど活発になり,1948年は同国の王国の業の歴史上記念すべき年でした。伝道者の最高数は今や5,000人台を超え,新しい人々が急速にその隊ごに加わっていました。1948年までにニアサランドの伝道者数はある場所で急速に増加していたので,証言するのに十分な区域を見つけることは容易ではありませんでした。

      1948年9月1日,ニアサランドに支部が設けられ,ビル・マックラキーが支部の監督に任命されました。それは,同国の王国の業がその歴史上さらに前進したことを意味し,兄弟たちを一層強める結果になりました。翌年の1949年には,ギレアデ宣教者学校を卒業したふたりの英国人,ピーター・ブライドルとフレッド・スメッドリーが到着しました。

      真の崇拝は北ローデシアで前進する

      その間北ローデシア(現在ザンビアと呼ばれている)は少しも遅れを取ってはいませんでした。増加の大部分は銅を産出する進歩的な地域を中心にしていました。そこコッパーベルトで組織はどんどん拡大していました。人々の大量の流入に対処するため,すべての全時間奉仕者およびその隊ごに加わりたいとの願いを抱く人を訓練してさらに有能な兄弟たちのしもべを生み出す10日間の課程が,文書発送基地で取り決められました。

      真の崇拝のそうした前進はキリスト教世界の偽りの牧者たちを実際に悩ましました。ある教区牧師は,その勢いに抵抗しようとして,自分の教会員がエホバの証人のように人々の草ぶき小屋を訪問して彼らを“教会”に招待する取決めを設けました。しかし,ある人々は,その首尾一貫しない話を聞いてあきれ,あなたがたは“ものみの塔の人たち”のような音信を持っていないと教会員に語りました。教会員たちは努力が報いられずに意気消沈して帰り,彼らの会衆は少しも大きくなりませんでした。

      北ローデシアでは村中で真理を受け入れたところが幾つかありました。キリスト教世界の宣教師の中には柔和な性質を示す人々がいました。たとえば,ムンブワのヨーロッパ人の宣教師は,エホバの証人の熱心さに深い感銘を受けて協会の書籍を読み,そこの会衆の主宰監督を訪問するようになりました。

      そこでは証人たちが幾年もの間政府の役人によって苦しめられました。その役人は伝道者を投獄し,聖書研究のための小屋を破壊し,証人たちの集会を分裂させました。彼は不正行為をして罰金を科されたため,公明正大な人が彼に代わってその地位に就きました。文書発送基地の監督はその地域を訪問し,しゅう長と顧問全員が年4回開く集会で彼らと会見しました。その結果,地域全土で聖書研究のセンターを建てる許可が下りました。短期間にその地域の各地で草ぶきの小屋やそれよりがんじょうな建物がにょきにょき建てられ,村長たちでさえ研究に定期的に参加する姿が見受けられました。そのうちの14名は自分が真理を受け入れたことをしゅう長に告げました。しかもそのような人の数は増加し続けたのです。

      バロツェランドでもしゅう長や皇族に対して優れた証言がなされました。というのは,2,800名の伝道者からなる巡回大会に出席するためにそこへ来ていた協会のヨーロッパ人の代表が,バロツェの最高支配会議であるコートラに話をする許可を得たのです。それで彼は王座の首長の隣りから,証人の業が異なっている理由と証人の音信の内容について説明することができました。そこにはしゅう長たち,家令および王室の人々が列席していました。その後,伝統に従って皇室の太鼓が打ち鳴らされました。

      皇室の老人のひとりで真理を受け入れた人は,あまりの高齢で歩けませんでしたが,毎日ロバに乗って自然にできた小道の分岐点に行き,通る人々に呼びかけて彼らに証言していたものです。敵対者はその老人のロバをやりで殺しました。老人はたいへん悲しみましたが,ある伝道者から別のロバをもらったのでその業を続けることができました。

      そのころ,関心を抱く人々にとって大きな負担となっていたのは文盲ということでした。多くの伝道者は聖句や聖書の話を暗記しました。とはいえ彼らは以来ずっと協会が取り決めた読み書きのクラスの助けによって自分たちのことばを読んだり書いたりすることを学んできました。

      1947年初め,南アフリカ支部の監督はギレアデ学校からケープタウンへ戻る途中ロンドンの英植民地局を個人的に訪れていろいろ説明しました。それを確証するため政府に一通の嘆願状を提出しましたが,それには,有益なクリスチャンの教育活動であるということを知っている聖書文書配布の業の禁止処置を遺憾に思う4万909名の人々の署名が記されていました。その嘆願に答えて,北ローデシア政府は文書に関する見解を再検討することを約束しました。そして6月19日に,良く知られた「神の王国は近づけり」,「近づいた世界の再建」など数点が禁止文書のリストから除かれました。しかし,協会の公式の雑誌である「ものみの塔」は依然として禁止されていましたから,その不可欠な霊的食物を兄弟たちが入手できるようにする努力をゆるめることはできませんでした。事実,1947年の末には252の会衆に6,114名の良いたよりの伝道者が交わっていたので,その必要は以前にも増して大きくなっていました。

      かつては道もなくマラリヤで悩まされた未開墾地のコッパーベルトは,1948年までに約2万5,000人のヨーロッパ人の本拠地となっていました。それは主として鉱山組合を増やすためでした。彼らは離れて来た国の生活水準よりも良い暮らしをしていました。同年まで,それら英語を話す人々に対して伝道することはほとんどできませんでした。

      組織は援助を受ける

      北ローデシアの組織は幸いにもこの段階で援助を受けました。ギレアデを卒業したふたりの宣教者,ハリー・アーノットとイアン・ファーガソンが派遣されたのです。アーノット兄弟が到着して間もなく,1948年1月にノア兄弟とヘンシェル兄弟は初めて北ローデシアを訪れました。

      ノア兄弟とヘンシェル兄弟は,その訪問中にジョージ・フィリップスに伴われ,4日間にわたって開かれたルサカの大会で数時間を過ごしました。その大会はあるヨーロッパ人の婦人の地所で開かれました。彼女は,証人の敵からの圧力があってもその土地を使わせてくれるという約束を守ったばかりか,大会にも出席しました。そこは全く絵のように美しい環境でした。兄弟たちは粘土を集めて演壇を築きました。そこに柱が打ち込まれ,演壇を覆う草ぶきの屋根が作られました。その時まだ聴衆は,姉妹たちが講演者の左,兄弟たちが右という具合に分かれていました。ノア兄弟は兄弟たちがうたう賛美の歌にたいへん感動して,それを録音してほしいと頼みました。4日間の大会中,集まった3,103名の聴衆に対してシロジ語の「神の王国は近づけり」という小冊子が発表されました。

      ノア兄弟は,協会が北ローデシアへ発送したいと考えている文書中のあるものに対して課された禁令のことで,1948年1月16日に内務長官および法務長官と会見しました。そのふたりが確信するところでは,30日から60日以内に禁令は解除され,協会の業にそれ以上の制限は加えられないということが告げられました。それによって協会の会長と秘書の訪問はふさわしい最高潮を迎えました。

      ギレアデの訓練を受けた宣教者たちの特別な援助を得て,ヨーロッパ人の区域にもより良い注意が払われました。1948年の半ばにハリー・アーノットは宣教者としてルアンシャという町に任命され,しばらくニアサランドにいたことのあるイアン・ファーガソンはチンゴラに割り当てられました。間もなく戸別訪問による伝道が集中的に行なわれるようになり,胸の躍るような反応がありました。処女区域では聖書や聖書文書が相当量配布され,家庭聖書研究は急速に発展しました。1年足らずでふたつの小さなヨーロッパ人の会衆がそれらの町で設立され,ムフリラやキットウィーまで伝道の業を拡大する取決めがなされていました。

      ギレアデ学校の卒業生の派遣は,進歩した神権組織上の益の幾らかを中央アフリカの全区域にあるエホバの民の会衆に伝達する優れた機会とみなされました。旅行する代表者全員と,その奉仕の資格があると思われる開拓者たちは“ミニ”ギレアデ学校の訓練を受けるためルサカの支部事務所に招待されました。巡回監督のためのその学校では,当時ギレアデ学校で教えられていた組織に関する基礎知識と聖書の教えの一部が取り上げられました。教科科目は,聖書に含まれる様々な論題,神権的な記録の付け方,神権宣教および関係諸事項でした。筆記による復習が行なわれ,夜の勉強のために宿題が出されました。また,アフリカ色豊かな“卒業式”さえありました。

      協会の会長がアフリカのこの地方を初めて訪問した後,兄弟たちは,自分のことばで読み書きを習うことに普通以上の注意を払い,そのようにして神のみことばを学んだり,良いたよりを他の人々に伝道するより良い資格を身につけるよう励まされました。間もなく支部の監督は,各会衆に読み書きの群れを設ける取決めを作りました。最初に,政府の教育委員会から入手した教材がそうした読み書きのクラスの基礎として用いられました。授業時間はしばしば会衆の集会の延長となり,大部分の生徒は会衆の姉妹たちでした。「各人がひとりを教える」というのが,読み書きのできる人を増やす運動を促進する合い言葉となりました。夫は妻を教える時間を取るように勧められ,すでに読み書きのできる他の人々は時間を作って会衆内のひとりの人を教えるように励まされました。

      新しい支部事務所

      1948年9月1日に支部事務所が設立され,支部の監督はルエレン・フィリップスでした。当時北ローデシアには232の会衆があって,1万1,600人を上回る伝道者がいました。「ものみの塔」誌に対する禁令は解除されましたが,幾つかの書籍は依然禁止されていました。

      北ローデシアの新しい支部は北方および東方の幾つかの区域を監督するようになりました。その中には,8月31日まで南アフリカ支部の管轄下にあった,当時ベルギー領コンゴとして知られていた区域も含まれていました。その時までベルギー領コンゴにおいて王国の業はどのように発展してきたのでしょうか。

      混乱にもかかわらずクリスチャンの進歩が見られる

      ベルギー領コンゴ(現在ザイールと呼ばれる,コンゴ共和国,キンシャサ)は,テキサス州とアラスカを合わせたよりも大きい,233万平方㌔を上回る広大な国で,2,300万を超す人口を有しています。この国はザンビアとアンゴラの北方に位置しており,コンゴ川流域の広いくぼ地が地形の主な特色をなしています。気候は全般に高温多湿で,国土の大部分は密林です。1885年にベルギーの統治下に入り,その結果公用語はフランス語,主要な宗教はローマ・カトリックになりました。

      1940年代になって初めてコンゴで王国伝道の業が組織的に行なわれるようになりました。しかし,偽りの「ものみの塔運動」すなわちキタワラが起こったのです。グレスチャットが著した「キタワラ」と題する本(ドイツ語)はその71ページでこう述べています。「村中でものみの塔に入っていると唱えるところが幾つかある。といってもそれは単に,彼らが水に浸されてバプテスマを受け,世の終わりに関する様々な考えをばく然と受け入れ,ある仕方で生活するなら神は地上で報いを与えてくださると考えているということにすぎない」。

      他の場所におけると同様コンゴでも,土着の「ものみの塔運動」を指すのにしばしば「キタワラ」という土地のことばが使われました。キタワラとは,「タワー」という語に「キ」という接頭語が付いてそれがなまったもののようです。ある人々は「ワッチタワー」が明らかに土地のことばになまった,「ワティキタワラ」というそれより長い表現を用いました。「Watch Tower Society」と「Watchtower」(運動)もしくはキタワラは非常に類似しているので,知らない人が両者を関連付けるのも容易に理解できることです。真理の敵たちは政府当局者に偏見を抱かせたり,エホバの真のしもべに困難をもたらしたりするためにその類似性をどれほど喜んで繰り返し用いたかしれません。

      暴動,反乱,部族の衝突,そして実際,土着の人々の間で起きたいかなる目ざましい出来事も,すぐに「ものみの塔」運動と結びつけられることは少なくありませんでした。その名前は,公務員と当局者たちに関する限り悪臭となりました。それがその地域においてエホバのみ名とエホバの真の組織にどれほど非難をもたらしたかは想像しがたいことではありません。

      先の説明の通り,そうした混乱は元々20世紀初頭のニアサランドにおけるジョセフ・ブースと彼の追随者の活動によりました。明らかにその教えは南へ西へと広がり,南北ローデシアへ,またコンゴへと入って行きました。

      その後数年にわたって,協会は事実を説明した手紙をコンゴの当局者に送りました。しかし,当局者たちは,幾年もの間,「ものみの塔」という名前を用いた土着の宗教運動の活動とエホバの証人の業とを関連付ける立場を取りました。教会の影響と圧力はそうした事情と大いに関係がありました。

      協会は円熟した代表者たちをコンゴに派遣する努力を定期的に絶えず払いましたが,それは成功しませんでした。指導と援助が必要とされました。しかし,エホバの組織はその是非とも必要とされていた援助を送る許可を与えられませんでした。そして何年間も当局者はエホバの真のしもべと土着の「ものみの塔運動」とを区別することができず,またそうすることを願いもしませんでした。

      ベルギー領コンゴで迫害されている証人たちのために調停に入り,業に対する禁令を解除してもらうように努力するため,北ローデシアの文書発送基地の監督ルエレン・フィリップスがそこへ派遣されたのは1948年初頭のことでした。彼は総督や政府の他の役人と個人的に会見して証人の業を説明し,証人の信じている事柄と原則がキタワラと呼ばれる偽りの「ものみの塔運動」のそれとはどれほど違っているかを示すことができました。1948年3月15日付と4月7日付の公式の手紙は,事件が記録されるようそれら権威者に提示されました。会見中,総督は物思いに沈みながら,「そしてもしわたしがあなたを援助したら,わたしの身にどんなことが起こるだろう」と尋ねました。それは非常に適切な質問でした。というのは,コンゴはほとんど完全にローマ・カトリック教会の支配下にあったからです。

      エホバの民の業がついに認められたとは何という祝福だったことでしょう。支部は,それ以上の混乱を避けるため,「ものみの塔協会」の代わりに「エホバの証人」という名称を公式名として業を開始しました。今や,偽りの「ものみの塔運動」に交わっている人々と真の証人とを区別することは速やかに行なわれました。

      モーリシャスにおける顕著な発展

      1933年に全時間の王国伝道者が訪問して成功を収めた後,特別な代表者たちが再びモーリシャス島を訪問するまで18年間の空白がありました。1952年になって初めて,「エホバの証人の年鑑」は,ふたりのモーリシャス人が第二次世界大戦中兵役に服している間にエジプトで王国の業に接したことを述べています。エジプトにおける伝道者たちの忠実な奉仕は実を生みました。そのふたりは軍隊にいましたが,非常な関心を持つようになり,協会のケープタウン支部に手紙を書いて文書を送ってもらい始めました。やがてふたりは仲間の兵士数人にも関心を起こさせました。モーリシャスに戻るやいなや,彼らは『光を輝かせる』ことに努め,実際1951年中にケープタウン支部へ報告を送りました。

      その同じ年,ふたりのギレアデ学校卒業生,ロバート・ニスベットとジョージ・ニスベットは,業を永続的に確立するためモーリシャスに着きました。先にロバート・ニスベットが訪問して以来18年間に大きな変化が起こりました。もはや集会は禁止されておらず,教育は非常に改善されていました。マラリヤの危険は大いに除去され,生活情況は向上していました。教会は政治上の支配を失ってはいましたが,依然として強い影響力を持っているようでした。

      ふたりのギレアデ学校卒業生は,1933年の訪問のことを覚えていて,再びエホバの組織と接触したことを大いに喜ぶ非常に大勢の人々を見いだしました。ある男の人はやって来た宣教者に,「ラザフォード判事はどうしておられますか」と尋ねました。このことは,9年ほど前にラザフォード兄弟が亡くなって以来,島の人々が諸発展を遂げた協会と全く接触していなかったことを良く表わしています。その男の人は「黄金時代」誌の1934年7月4日号と,良く読まれてぼろぼろになった「ラ・ハーペ・ド・ドュ(『神のたて琴』)」と題する本の18年前の版を見せました。彼は再び雑誌を予約し,家庭聖書研究を始めました。

      ロバート・ニスベット兄弟の報告によれば,最初に関心を持った人々の中にふたりの姉妹,すなわちソベン夫人とヴァチャー夫人および彼女たち各の家族がいました。その人たちが最初の会衆の基礎となったのです。したがって,1951年に全世界の報告の中でモーリシャスは南アフリカの項の中で扱われ,それによると伝道者最高数は8人,開拓者の平均は2名でした。翌年までに伝道者最高数は13人に増えました。僧職者たちも依然活発に働き,人々に配布した文書をしきりに集めたり,破門すると言って人々を脅したりしました。

      モザンビークを一べつする

      本土に戻って,ポルトガル領東アフリカとしても知られたモザンビークで少し立ち止まり,そこでの進展の様子を見てみましょう。先に述べた活動を除けば,ヨーロッパ人を対象にした業はまだほとんど行なわれていませんでしたが,アフリカ人の間では進歩があったように思われます。業は,特に北部で着実に拡大し続け,1948年までに伝道者の数は4人の全時間野外奉仕者を含めて398人に増加しました。一方では,迫害が絶えず激しさを増し,ある人々は逮捕投獄されたり,流刑地や野営小屋へ追放されました。南アフリカ支部から送られる文書はモザンビークに着くと同時に押収されました。

      スワジランドで「その道」を奉じる

      スワジランドという小さな国はモザンビークに隣接し,他の三方をトランスヴァール州に囲まれています。スワジランドの西側の大部分は,美しい緑に包まれていますが,山の多い高地です。東側は起伏のほとんどないいなかになっていて,いばらの茂みに覆われています。そこは長い干ばつの被害を受けることがたびたびあります。

      以前何十年もの間,スワジランドを訪れた開拓者たちは王ソブーザ二世に快く受け入れられましたが,組織を確立することはできませんでした。時を経るにつれ,ヨシュア・P・ムフロンゴという人が「この道」に入りました。(使徒 9:2)エホバの証人の教えを学んでみたいとの願いを彼に抱かせたのは,彼が通っていた学校の校長先生でした。その校長先生は,J・F・ラザフォードが地獄を信じたり,先祖崇拝をしたりしないようにと人々に教えていることを生徒たちにたびたび話しました。それでヨシュアはエホバの組織についてもっと学びたいと願うようになったのです。ところが,政府が証人の業をやめさせ,証人の文書を禁止したと聞いて彼は驚きました。たまたまヨシュアはヨハネスバーグで伝道者となっていたおばを通して様々な書籍を入手しました。間もなく彼と彼の母親は他の人々と良い音信を分かち合っていました。まだ生徒であった1943年中に彼は水の浸礼によって献身を表明しました。マコフィ・ングルー兄弟はその孤立した伝道者たちを訪問した時のことを良く覚えています。ヨシュア・ムフロンゴは学校を卒業したらすぐに開拓者になりたいと言ったので,ングルー兄弟はそうするように励ましました。確かに彼は後に開拓奉仕に入り,やがて,新しく設けられたスワジの巡回区の最初の巡回監督として奉仕しました。

      1947年から1950年にわたる4年間に驚異的な発展が遂げられ,この国の伝道者の合計は5人から60人に増加しました。

      この期間中スワジランドでは奇妙な事態が持ち上がりました。第二次世界大戦中にものみの塔協会の文書に課された禁令は引き続き効力を有していました。その布告によって,ものみの塔協会が発行したいかなる文書を配布することも罪となりました。矛盾したことですが,ソブーザ王自身は協会の出版物のほとんど全部を所有していることを自慢にしていました! 協会の文書に対する禁令は良いたよりが孤立した地域に広がるのを妨げました。兄弟たちや関心のある人々が協会の文書を所有していることを発見されると,警官からしばしば残酷に打たれたり,虐待されたりしました。当時南アフリカと英国保護領で唯一の地域監督であったM・E・バートレット兄弟は,1951年7月スワジランドを2度目に訪問していた時にその法律で初めてちょっとした問題を起こしました。禁止された文書を輸入したかどで告発されたのです。地域委員兼判事はバートレット兄弟に対してたいへん友好的で,協会の文書に対する禁令は時代錯誤であると考えました。彼はバートレット兄弟に,兄弟が持っている中で「一番問題となる」雑誌を数冊分けてほしいと愉快げに言いました。9月に行なわれた最終的な聴問会で,別の判事はバートレット兄弟を有罪とし,1ポンドの罰金を課しました。

      聖書によれば一夫一婦制でなければならないということの大要が兄弟たちと関心を持つ人々に対してはっきり述べられたのも,地域監督のその訪問中のことでした。大部分の人々は神の完全なご意志と一致して生活を変えることを喜んで行ないましたが,ひとりの主宰監督は神の標準を受け入れることを拒み,少数の人々を永遠の命のことばから引き離しました。しかし,神を愛し,神の是認を追い求める人々は正しい原則にしっかりと立ち続けました。

      ベチュアナランドにおいて禁令下で奉仕する

      南アフリカを突き抜けて西に行くと,現在ボツワナと呼ばれているベチュアナランドに来ます。南アフリカ,南西アフリカおよびローデシアの間に位置し,その大部分が半砂漠であるこの国は約64万7,500平方㌔の面積を有しています。土地の人々はそのほとんどが非常に貧しく,主として家畜を飼育している外,豆,もろこしその他を栽培しています。また,食物を補うために狩猟も幾らか行なわれています。1970年の推定人口は63万人を上回っていました。

      ここは1884年に英国の支配下に入りましたが,1967年に独立を勝ち得てボツワナとして知られるようになりました。区域の大部分は,様々な部族のしゅう長がその部族のおきてを敷き,配下の人々に恐るべき権力を振るう,幾つかの特別保留地に分割されています。それらのしゅう長たちはおおかたエホバの証人の業に敵対していました。

      1929年に真理の種は初めてこの暑くてほこりっぽい国にまかれ始めたようです。ひとりの伝道者がその年ベチュアナランドで活発に奉仕しました。しかし,それはわずか2か月間にすぎませんでした。その後,1932年の終わりごろに南アフリカからふたりの開拓者がこの国を訪れ,アフリカ人に対しては行なわないという条件で宗教的な事柄を話すことが許されました。それにもかかわらず,1,676冊の文書がヨーロッパ人に配布されたのです。

      1941年,戦争ヒステリーのために,当時そこには証人がひとりも住んでいなかったにもかかわらずベチュアナランドで協会の文書の輸入が禁止されました。年を取ったカーマしゅう長は,3つの宗教団体だけがベチュアナランドで教会を建てる権利を持つという法律を制定しました。その3つの宗教とはロンドン・ミッショナリー・ソサイアティー,セブスンデー・アドベンチストおよびローマ・カトリックです。

      労働契約の下に人々が南アフリカとの間を行き来することはひんぱんに行なわれました。南アフリカの比較的大きな都市で働いた人々はそこで真理を聞き,ベチュアナランドへ戻って自分が聞いた良いことを話したものでした。また,ローデシアの兄弟たちやニアサランドの兄弟たちが,フランシスタウンといった場所で職を見つけ,そこで真理を語りました。したがって,1946年までにベチュアナランドには平均16名の王国伝道者がいました。

      1950年代の初頭,協会は当局者に証人の立場を明らかにするためベチュアナランドへ代表者たちを派遣しました。が,あまり成功しませんでした。

      1952年までに伝道の業に携わる人々は国中で平均114名いました。その後数年間引き続き増加がみられましたが,いろいろな問題も増えました。兄弟姉妹たちの中には政府に結婚を正式に届け出ていない人々がいましたし,新しい人々の多くはまだ道徳的にたいへん乱れていました。そうした事柄は支部からの手紙や訪問する監督たちの援助によって解決されました。今日組織の状態は霊的にも道徳的にも健全です。

      セントヘレナにおける著しい増加

      大西洋上,南西アフリカの海岸からかなり沖合いにある小さな孤島セントヘレナに再びやって来ます。島の少数の伝道者から時折り報告が寄せられ,協会はたまに注文を受けた文書を送りました。しかし,セントヘレナの証人たちは非常に多くの援助と訓練を必要としていました。したがって,1951年5月,南アフリカ支部はしばらくセントヘレナで奉仕するようJ・F・ヴァン・ステデンという開拓者の兄弟を派遣しました。

      この小さな島の郵便制度は非常にお粗末です。それでだれもヴァン・ステデン兄弟を出迎えに来ませんでした。しかし,彼はついに,退職した警察官トーマス・スキピオの息子,ジョージ・スキピオに会いました。ヴァン・ステデン兄弟はその出会いの印象を次のように述べています。「わたしはそれでほんとうに安心しました。彼は,わたしが探していた当の人,すなわち彼の父親のところへわたしをすぐに連れて行ってくれました。彼らが長い間待ちに待っていた援助を得て喜ぶのを明らかに見るのはとてもすばらしいことでした」。ヴァン・ステデン兄弟は直ちに10人か12人ほどの小さな群れの集会を取り決めました。最初,彼は英語で考えを述べるのが困難でしたが,2,3週間後にはずっと流ちょうになりました。彼は,その人々が島のあちこちで「野外集会」をしていただけであることを知りました。兄弟たちは2台のバイオリンと1台のアコーデオンからなる小さな楽団を持っていて,それが野外集会の初めに王国の歌を演奏しました。人々が集まると,兄弟たちは即座の話をし(ふつう個人的な証言),いろいろな兄弟たちがそれにあずかりました。

      兄弟たちが適正に組織されるよう援助するために多くのことがなされねばならないのは明らかでした。したがって,ヴァン・ステデン兄弟はすべての集会を司会することにすぐ取り掛かりました。土地の兄弟たちはすぐれた認識を示し,心から支持しました。ジェイムスタウンの一老婦人は自分の家の大きな部屋を王国会館として提供し,レベルウッドの別の家族も家をもうひとつの集会場所に提供しました。それらの集会は出席者全員にすぐれた印象を与え,その結果,初めて来た人々のうち数人は2度と再び欠席しなかったようです。こうして彼らは真理を学び,その後個人的な聖書研究を一度もせずにバプテスマを受けました。

      しかし,集会に行くことは決して容易なことではありませんでした。小型の自動車を持っていたジョージ・スキピオは3人の人をそれに乗せ,かなり行った地点で降ろしました。その3人はそれから先歩いて行き,一方ジョージは引き返してもう3人を乗せ,ある所で降ろして再び引き返しました。彼はすべての人々を集会に連れて行くためにふつう午前中の大部分を費やしました。集会後同様の手順で人々を家に送りました。そのため彼らは時にどしゃ降りの中を歩き,ずぶぬれになって遅く家に着いたものでした。しかし,彼らは深い満足と心からの喜びを味わったのです。

      ヴァン・ステデン兄弟は間もなく土地の兄弟たちを自分と一緒に戸別訪問による業にあずからせ,彼らを良く訓練しました。兄弟たちがあまりにも早く戸口で良いたよりを効果的に伝道するようになったので,ステデン兄弟はびっくりしました。

      彼はセントヘレナに来て3か月後の1951年8月に浸礼式を取り決めました。適当な場所がなかなか見付からなかったので,池を掘ってセメントで固め,そこに水を入れることにしました。ところがその池に水をはる手間がはぶけたのです。というのは,浸礼式の前の晩に大雨が降り,翌朝池は満々と水をたたえていたからです。ヴァン・ステデン兄弟がバプテスマの話をしてバプテスマ希望者に起立するよう求めたところ,26名の人々が質問に答えるために起立して彼を驚かせました。彼はこう語っています。「わたしの喜びの杯は全くあふれ流れ,エホバがわたしを遣わしてそうしたすばらしい特権を得させてくださったことに対して心から深く感謝しました。話をした後わたしは冷たい水で26人全員にバプテスマを施しました」。そのバプテスマの後,小さな会衆がジェイムスタウンに作られました。2,3か月後にはレベルウッドにも会衆が発足しました。

      王国伝道者たちのそうした活動や成果は敵の行動を誘発しました。土地の英国国教会の司祭は激しく反対し,関心を抱いていた人々のうち数人を真理に反対させることに成功しました。またセブンスデー・アドベンチスト派の牧師はヴァン・ステデン兄弟に議論を吹き掛けましたが,彼がそうしたことはたいへん気の毒なことだったでしょう。なぜなら,彼の論議の多くは新しい伝道者でも容易に反ばくできたからです。しかし,一番困った問題は警察部長からもたらされました。その人は,おまえを島から追っ払ってやると言って絶えずヴァン・ステデン兄弟を脅しました。同兄弟は次のように語っています。「彼は月に一度必ずわたしを法廷に連れて行きました。彼とわたしとたったふたりだけでです。彼はわたしに尋問し,その活動をやめるようにと勧告しました」。

      しかし,ヴァン・ステデン兄弟や土地の伝道者たちはそうした反対によって少しも落胆しませんでした。兄弟たちが得た優れた経験は,天気が悪かったり岩だらけの土地で経験する苦労やあらゆる反対を補って余りあるものでした。たとえば,ある朝ヴァン・ステデン兄弟とジョージ・スキピオ兄弟が一軒の家に近付くと,男の人が聖書の朗読をしているのが聞こえました。その人がイザヤ書 2章を読むのがはっきり聞こえたので,4節のところに来た時にふたりは戸をノックしました。ふたりは親しみ深い年配の男の人に招じ入れられ,イザヤ書 2章4節を“糸口”にして王国の良いたよりをその人に伝道し始めました。彼らは研究を直ちに取り決めました。その研究はやがて定期的に司会され,遂にその老人はエホバに献身しました。

      セントヘレナで過ごした13か月の間ヴァン・ステデン兄弟は多忙を極めました。週に18件の聖書研究を司会するに至った時には特にそうでした。彼は1952年6月にセントヘレナを離れて南アフリカに戻り,ケープ州東部で巡回の仕事をしました。セントヘレナに滞在した13か月間に,それまでに設けられていたふたつの小さな会衆の伝道者は41名の最高数に達したのですから,彼は立派な働きをしたといえます。

      南アフリカにおける神権的な増加

      ではここで南アフリカ連邦に戻り,25年前の南アフリカにおける事情や兄弟たちが経験した問題がどんなものであったか幾らかお伝えしましょう。「フンクとワグナルズ標準参考百科事典」第24巻は「南アフリカ連邦」の項で1956年6月の集団地域法にふれ,それを「4つの主要な人種グループ,すなわち,ヨーロッパ人(白人),アフリカ人(ニグロ),カラード(白人との混血)およびアジア人(インド人を含む)をそれぞれ特定の地域に分け,他の集団をそこから排除するためのものである」と述べています。ある人々はそれによって伝道の業に関する限り兄弟たちが問題を抱えるであろうと期待しました。ところが,兄弟姉妹たちにとっては,自分のことばで自分と同じ人種の人々に教えるほうがもっと容易でした。なるほどその法律は,ひとつの人種グループの人が他のグループの人に宗教に関する事柄を話させないようにすることを試みるものでありませんでした。しかし,聖書が勧めている愛に満ちたクリスチャンの交わりということになると,兄弟たちは主に各の人種グループ内で親交を楽しみ,同時にローマ 13章の原則に従っています。良いたよりは伝道されており,どの人種グループの人々も真理を学び,必要なクリスチャンの交わりを楽しんでいます。

      エホバの証人は何年間か,借りた集会場を王国会館にしてきました。ところが,1948年にケープタウンの近くのストランドで奉仕するよう割り当てられた一特別開拓者は,南アフリカで最初の王国会館の建築を組織する特権を得ました。それは1949年と1950年のことでした。土地の伝道者であるゴードン湾のヴァン・ダ・ビル姉妹はその計画を経済的に大いに援助しました。ベテルの兄弟たちはそれほど遠くないケープタウンの支部からやって来て献堂式のプログラムを助けました。支部の監督,G・R・フィリップス兄弟は,『建物をひろうするためでなく,さらに王国会館を建てるよう兄弟たちを励ますために,その新しい会館に車をつけて国中引き回し』たいものですと語りました。それ以来,全国で多くの王国会館がヨーロッパ人とカラードの会衆によって建てられました。

      その間にアフリカ人の兄弟姉妹たちに対して増々多くの援助が与えられました。1949年1月1日はズールー族の兄弟たちにとって重要な日でした。その日にズールー語の「ものみの塔」誌が初めて出されたからでした。その時創刊号はケープタウンの協会の事務所にある小さな手動の複写機で印刷されました。それは今日の「インカバヨクリンダ(ズールー語の『ものみの塔』)」のように鮮明で美しい雑誌ではありませんでした。しかし,その雑誌がズールー族の兄弟姉妹たちに時宜にかなって食物を備えたことに少しも変わりはありません。

      大会に出席する兄弟たちのために初めて特別列車が取り決められたのもその時期のことでした。たとえば,1949年にヨハネスバーグからプレトリアの大会に行く「エホバの証人専用」列車には750人分の座席がありましたが,千人の乗客でそれは満員になりました。その人たちはおよそ12の異なった部族のアフリカ人だったにもかかわらず,手に負えない事件は1度も起きませんでした。その旅行は鉄道職員に大きな証言となったに相違ありません。それら様々な部族のアフリカ人はどのようにして仲良くやって行くことができたのでしょうか。その人たちの思いを作り変えた真理の力がなかったなら,アフリカの人々の間できわめて普通に見られる,部族間の争いがきっと起きたことでしょう。各部族は自分たちの方が優れていると考えているので,“派閥争い”がしばしば起こるのです。

      1949年に「神権組織に関する助言」と題する小冊子が発表され,組織はさらに強められました。業を一層促進するために南アフリカには今や11人のギレアデ卒業生がおり,伝道者のほぼ10%は全時間の伝道活動に携わっていました。

      その年の記念式には6,766名が出席し,265名は表象物にあずかりました。しかし,さらに大きな事柄のために舞台はセットされ,業に調整が加えられました。ケープタウンの小さな印刷所は同年640万部を上回る印刷物を生産しました。それは生産量の新最高数であり,8か国語からなる13万5,000冊近い雑誌や様々な種類の小冊子62万5,000部が含まれていました。

      1949年と1950年に読み書きのクラスが始まり,1週間に3日か4日開かれました。また,クラスはズールー語,セソト語,ホサ語,ツワナ語,スペディ語および英語で司会されました。人々が読めるようになるまでには授業を約30回受けねばなりませんでした。

      アフリカ人の部族で広く習慣となっている一夫多妻主義はアフリカの多くの兄弟たちにとって現実の問題となって来ました。1948年にノア兄弟が訪問した時,一夫多妻主義はアフリカの兄弟たちと話し合われた主要な点のひとつでした。最初,新しい人々の間には,最も愛している妻,大抵は一番年下の妻を残すという傾向がありました。しかし,後に協会は,最初に妻として迎えた女性を残して他の女性をすべて去らせるのが聖書的にふさわしいことを指摘しました。

      1950年にニューヨークで開かれた国際大会に,南アフリカから41人が出席でき,9人はものみの塔ギレアデ聖書学校の16番目のクラスに入るよう招待されました。しかし,その国際大会に出席できなかった人々は,同年10月にリーフにおいて5日間にわたって開かれた「増し加わる神権政治」全国大会で同様の霊的な宴を持ちました。その大会には南アフリカ連邦,英国保護領,南西アフリカのあらゆる場所から6,000名を越す伝道者が出席しました。神権政治の明らかな証拠として,水のバプテスマの希望者が855名いました。公開講演には1万185名が出席しました。新たに発表され,兄弟たちを深く感動させた文書の中に「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」がありました。

      1951奉仕年度中に2,000名を上回る人々が献身を水のバプテスマによって象徴したことは神権政治が増し加わっていたことをさらに裏付けるものでした。幾つか新しい会衆が作られ,当時の伝道者最高数9,586名が交わっていた43の巡回区を世話するためにもうひとつの地域が組織されました。

      支部事務所の移転

      アフリカ南部の業の歴史上大きな里程標となった事柄のひとつは,1952年の初めに協会の支部がケープタウンからエランズフォンテインに移転したことでした。1917年以来,業は区域の最南端にあるケープタウンから指導されていました。今や幾つかの理由から支部をリーフに移す必要が感じられました。南アフリカの人口はリーフに最も集中していて,その結果兄弟たちの大多数はヨハネスバーグから約160㌔以内にいました。南アフリカ支部はアフリカ南部にある他の支部のためにも印刷をしていましたから,そうした活動を行なって行くのにリーフは比較的中央に位置しており,それらの国々へ鉄道で輸送する際大きな節約となりました。

      ノア兄弟とヘンシェル兄弟が1948年にこの国を訪れた時,エランズフォンテイン駅と郵便局に近いアクティヴィア公園のジャーミストンという新工業地帯の二箇所に土地を購入することが決定されました。当時,その地域は開けていませんでしたが,その決定は後にたいへん賢明な決定であったことがわかりました。そこは,南アフリカ最大の鉄道連絡駅ジャーミストンの中心部からわずか8㌔ほどの所にあり,南アフリカ連邦最大の都市ヨハネスバーグからわずか16㌔,国際空港ジャン・スムッツからちょうど8㌔ほどの地点にありました。しかし,土地を購入した町内会の商社に技術的問題があったため建築の予定が遅れ,やっと移転の運びとなったのは1952年3月末ごろでした。

      移転がベテルの家族にとってどれほど大きな変化であったかを知るためには,それ以前の状態を考えてみなければなりません。ケープタウンの事務所や工場で働いていた兄弟たちはベテルの家族としていっしょに働いていませんでした。事実,「ベテル」という表現はケープタウン支部について使われることはめったになく,普通「事務所」と呼ばれていました。フィリップス兄弟姉妹は小さなアパートに住んでいましたが,家族の他の成員はケープ半島中のあらゆる伝道者の家を宿舎にしていました。ある兄弟は毎日仕事の行き帰りに約16㌔の道のりを汽車で通わねばならず,他の人々はバスを使ったり,歩いたりして通いました。朝食は各人が住んでいる所で取りました。宿舎がすぐそばにある人は昼食の時急いで家に帰りました。家に帰れない人は簡易食堂で食事をする費用として1日当たり1シリング6ペンスが余分に与えられました。夕食は家に帰って取りました。ベテル家族の「ものみの塔」研究は一度も行なわれたことがありませんでした。

      毎朝7時45分に家族は小さな工場の更衣室に集まりました。その日の日々の聖句を討議し,祈りを捧げた後,8時に仕事を始めました。日々の聖句の討議に間に合うために,ある人々は6時前に起きてすぐ出掛けなければなりませんでした。

      エランズフォンテインの新しい支部の建物は,アクティビア・パークの町に建てられた最初の建物のひとつでした。2階建てのその建物は約1,899平方㍍の床面積を持ち,1階には事務所,工場,発送部門,洗たく室およびボイラー室があり,家族は22の快適な部屋に住みました。加えて,家族の便宜のために2階には台所,食堂および図書室がありました。

      新しい工場には付加的な印刷設備がたくさん据え付けられました。大きくて新品のG.M.A.平版印刷機がスウェーデンから到着しました。その印刷機なら,ケープタウンで以前に使われていた紙の4倍も広い紙を取り扱うことができました。もう1台のライノタイプ,大きな断裁機および中とじ機が据え付けられました。今やアフリカの幾つかの言語で「ものみの塔」誌を印刷することが可能になりました。読者のみなさんはズールー語の「ものみの塔」誌が以前に複写機で作られたことを思い出されるでしょう。新しい印刷機や設備が運転されるようになると,「ものみの塔」誌は8つのことばで,また「目ざめよ!」誌は3つのことばで印刷され,そのほかに1年間の「王国奉仕」が8つのことばで印刷されました。

      孤立した区域で働く

      1952年という年は組織を強化し,兄弟たちを強める時となりました。支部はまた未割当ての区域の運動を実施しました。兄弟姉妹たちは,どこの会衆によっても定期的に奉仕されていない約400の村や町に住む人々を訪問するために幾千時間も費やしました。その結果,1万人を上回る関心を持つ人々の名前が支部事務所に送られ,協会はその人たちに特別の手紙と見本の雑誌を送りました。

      約20名のアフリカ人からなるひとつの会衆は,それまで未割当ての区域だった所に行った時に宿舎を得ることで苦労しました。農場主は警察の許可証を提示されない限り証人たちを泊めようとしませんでした。警察の派出所は遠方にあり,時刻も遅くなっていました。それで,その農場主の従業員数人は農場の近くに住むファースト・チャーチ・オブ・クライストの牧師のところへ証人たちを連れて行きました。彼は援助することを拒み,はなはだしく不親切でした。彼の教会員のひとりは同情し,牧師の態度を非難しながら証人たちを近くの空き家に連れて行きました。彼らが落ち着くやいなや警官がやって来ました。ヨーロッパ人の警官はたいへん思いやりがあり,区域の割当てカードを見て励ましてくれさえしました。警官を呼んだのは例の牧師でした。ところが翌朝牧師は態度を全く変え,前の晩の自分の振舞いをわびて教会を公開講演の場所に提供しました。そして自分の“羊の群れ”をその集会に招待したのです。その結果出席者は80名(うち60名は見知らない人々)でした。後の「ものみの塔」誌の研究に全員がとどまりました。しかも,その日文書を求めた人々の中に牧師も混じっていました。その後2回訪問した時に2度とも牧師は教会を公開講演のために提供しました。彼は講演に出席したばかりか,続いて行なわれた「ものみの塔」誌の研究にも出席しました。そうした活動の結果,その地域には活発な伝道者がひとりしかいなかったのが,遂に7名になりました。

      有益な訪問

      1952年に南アフリカにおける業の歴史上初めて伝道者の合計が1万人台を超えました。その年は南アフリカの王国の業の発展にとって確かに多事多難な年でした。その最高潮として,ノア兄弟とヘンシェル兄弟が11月にこの国を訪問しました。ノア兄弟は,地の利を得た良い土地にレンガとしっくいで建てられた2階建ての立派な支部の建物を見てたいへん喜びました。ケープタウンにあった宿泊施設のない小さな事務所とはなんと大きな違いではありませんか。ノア兄弟は建物を見学し,家族の成員すべてに会って喜びました。

      2,3日後,ノア兄弟はフィリップス兄弟といっしょにインド洋岸にある美しい近代都市ダーバンを訪れました。彼は人種差別をする土地の規定に従い,3つの異なった場所で話をしなければなりませんでした。ノア兄弟はカラードの集会で15名のインド人が出席しているのを見て喜び,集会後その機会を捕らえて数人のインド人に話しかけました。ダーバンには非常に大勢のインド人が住んでおり,王国の音信はちょうどその時彼らに達し始めていました。

      ダーバンのアフリカ人の集会は,日曜日の午後,市の南側にある新しい町ラモントヴィルで開かれていました。その集会でズールー族の兄弟たちがうたった賛美の歌はノア兄弟に深い感銘を与えました。夜にはヨーロッパ人の兄弟たちのための集会が市の中心部にある会館で開かれて435名が出席しました。

      ヨハネスバーグに戻ってすぐ,ノア兄弟はバストランド,ベチュアナランドおよびスワジランドを管轄している英国高等弁務官の事務所を訪れました。1941年以来,その3つの保護領に協会の文書を輸入することが禁じられていたからです。ノア兄弟が訪問した時,それらの区域で400名を上回る証人が良いたよりを広めていたので,協会は禁令を解除してもらう試みを再三行なっていました。ノア兄弟は長官の第一書記官と話し合って彼の質問すべてに答え,エホバの証人が行なっている優れた教育の業を明確に述べることができました。にもかかわらず,禁令はその後も数年の間解除されませんでした。

      その時までにヘンシェル兄弟が到着し,ガーミストンのヨーロッパ人の会衆が取り決めた励ましとなる集会がその町の公会堂で開かれました。リーフの兄弟たちが大勢来たので出席者の合計は725名でした。

      12月8日,ノア兄弟とフィリップス兄弟は南西アフリカのウインドフークへ飛びました。そこにいた3人の宣教者たちはそのふたりの兄弟に会ったことや南西アフリカで一番最初の大会が開かれたことをたいへん喜びました。通常のプログラムには約10名,また公開講演には最高数の25名が出席しました。

      エフランズフォンテインに戻ると,ノア兄弟とヘンシェル兄弟は,業を組織することに伴う数々の事柄や処理すべき幾つかの問題に注意を向けました。協会の会長は業の将来に影響する事柄に関して支部を援助しました。彼はまた旅行する監督たちに会い,多くの助言や励ましを与えました。

      12月11日から14日にかけて大会が開かれ,ノア兄弟とヘンシェル兄弟の訪問の最高潮となりました。ヨハネスバーグで,座席の区別はありましたが3つの人種をひとつの競技場に集める許可を得ることに成功しました。南アフリカおよび保護領の全土からアフリカ人の兄弟たち全員が出席できるようにするために,個々の人の通行許可や16歳以上の人々の許可を得る膨大な仕事が必要でした。言語の問題があったので,開会のあいさつは3回,つまり,最初に英語,次にアフリカーンス語,最後にズールー語で行なわれました。ヨーロッパ人の兄弟たちは,興味をそそる舌打ち音が入るズールー語によるその話を楽しく聞き,話が終わるとズールー語を話す兄弟たちと同じように心から拍手しました。

      ノア兄弟がアフリカ人の兄弟たちに対する話の中で強調した事柄のひとつは,真理をもっと十分に知り,野外でより効果的な伝道者になるために読み書きを学ぶ必要があるということでした。あいにく大会の4日間は大雨でした。事実,ある時など非常な悪天候のため話し手が演壇を離れなければなりませんでした。それにもかかわらず大会は大成功を収め,様々な人種の人々339名がバプテスマを受けました。土曜日の夜の出席者は5,441人に上り,公開講演には7,267人が出席しました。アフリカ人の兄弟たち全員は,与えられたすばらしい助言に感謝して喜びつつ家に帰り,南アフリカの王国の業を推し進める決意をしました。

      1952年の下旬までに,それまで,またその時も南アフリカ支部の管轄下にあったすべての国の平均伝道者数は合計5万87名に上りました。21年前の1931年当時の,伝道者が100名という「非常に小さな群れ」が実に驚くほど増加したではありませんか。

      新世社会大会

      1953年にヤンキー野球場で開かれた新世社会大会に続いて,南アフリカで9つの大会が取り決められました。ヨーロッパ人の全国大会ひとつとアフリカ人およびカラードの8つの地域大会です。ニューヨークで行なわれた主要な講演が南アフリカでも話されましたから,それらの大会で兄弟たちは同じプログラムを楽しみました。その時初めて大会のバッジが使用されるようになり,以来南アフリカのエホバの証人の地域大会と全国大会ではバッジが必ず用いられています。バッジは知り合いになるのをずっと容易にし,兄弟たちの間に幸福で親しみ深いふん囲気を一層かもし出します。その9つの大会はいずれも出席者が多く,「ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世」と題する公開講演には合計1万1,000人が出席し,634人が浸礼を受けました。

      目を見張らせるような新しい映画

      「躍進する新世社会」と題する協会の16㍉の映画が1955年に上映され始めた時,兄弟たちは自分たちが用いる文書を生産するのに膨大量の仕事が必要なことを認識するようになりました。その映画を見る人はブルックリンのベテル・ホーム,協会の工場およびギレアデ学校の見学ができました。その映画は兄弟たちに驚くべき影響を与え,組織に対する兄弟たちの認識を大いに高めました。また,彼らは,エランズフォンテイン・ベテルの兄弟たちもいろいろなことばの文書を備えるために一生懸命働いていることに気づかされました。1955年8月に出版されたホサ語の「ものみの塔」誌の場合のように,別のことばの文書が新たに加えられる時は特にたいへんでした。

      その映画はエホバの証人に対する偏見を打ち砕く点でも大きな働きをしました。普通ヨーロッパ人の地域監督がなかなか入れない幾つかのアフリカ人の地域で,映画を上映する許可がすぐに下りました。地域監督たちは発電機を携行したので電気のない多くの孤立した区域で映画を上映することができました。大勢のアフリカ人にとってそれは生まれて初めて見る映画であり,彼らはその特徴にびっくりしました。たとえば,アフリカ人の男の子は汽車がある方向に向かってばく進して行く場面から強烈な印象を受けました。それを不思議に思ったその子供は,翌日,自分が住んでいる土地の農場主に尋ねました,あの汽車はいつ戻って来るのですか,と!

      カラードの兄弟たちの小さな巡回大会で,200名の人が会場に詰めかけました。暖かい夏の夕べでした。映画は会館の後ろの広い中庭で上映されることになっていました。あたりは上映するにはまだ明るかったので,兄弟たちは王国の歌をうたい始めました。一般の人々は間もなくその美しい歌に引き付けられ,たちまち650名の人々が中庭に集まりました。そして映画をたいへん感謝しました。

      ブルックリンから再び訪れる

      1955年10月,ミルトン・G・ヘンシェルは南アフリカを再び訪れました。内務省がいったん彼のビザを発行しておきながら後にそれを無効にしたので,最初ヘンシェル兄弟がここの大会に出席するのは不可能に思えました。同兄弟が到着することになっていた日のちょうど前日に,公開講演をしてはならないという条件付きではありましたが,必要なビザが再発行されました。急きょ,数名のベテルの兄弟が講演を準備し,必要な場合はヘンシェル兄弟の代役をするよう割り当てられました。ところが,ヘンシェル兄弟は到着すると内務長官と会見して許可を得たので,万事は最初の計画通りに進みました。その決定にすべての兄弟は大喜びし,ヘンシェル兄弟の代わりに急いで講演を準備した少数の窮地に陥っていたベテルの兄弟たちはほっと胸をなでおろしました。

      3つの人種グループは1952年の場合と同様ウェンブリー・スタジアムに集まる特権を得ました。ただし,座席は,法律に従ってまだ人種別になっていました。兄弟たちはヘンシェル兄弟による基調をなす話を聞いてすっかり感動してしまいました。その話は,彼らが王なるイエス・キリストによって凱旋行列として導かれており,それは敵にとっては悪臭ですがエホバにとっては甘い香りであることを確信させるものだったからです。合計1万754人が「間近に迫った,神の王国による世の征服」と題する公開講演に出席し,407名が献身を浸礼によって象徴しました。新しく発表された出版物すべてが日曜日に入手できるようになり,大会はさらに盛り上がりました。それらの出版物は土曜日の夜遅くやっとヨハネスバーグに着いたのです。

      神の御心国際大会

      南アフリカのすべての証人たちは,1958年7月27日から8月3日にかけてニューヨークで開かれるエホバの証人の神の御心国際大会に注目していました。南アフリカの123名の兄弟姉妹にとり,団体で飛行機に乗ってロンドンおよびニューヨークへ行ったのは実にすばらしい経験でした。

      南アフリカでは,ニューヨークの国際大会の後を追って,13の神の御心地域大会が次々に開かれました。その時南アフリカのために新しい出版物が発表されました。その中には「失楽園から復楽園まで」と題する本が含まれていました。それは,家族の聖書研究を司会したり,子供たちが聖書の知識を得るのを援助したりするうえでたいへん役立つことがわかりました。

      1958年10月,南アフリカの兄弟たちはマラウィのアフリカ人の兄弟たちが災難に遭ったことを聞きました。大会の宿舎用に建てた大きな施設が猛火で全焼し,兄弟たちは衣類や持ち物すべてを失ったのです。南アフリカの兄弟たちは親切にも2,3日以内に約1,400㌔の衣類を集めてマラウィの兄弟たちに送りました。

      もう一つの重要な訪問

      翌1959年,ノア兄弟は再び南アフリカを訪問しました。その訪問と一致して大会が取り決められました。1952年と1955年に開かれたのと同様の,あらゆる人種を一同に会した全国大会を開く努力がなされました。ところが,政府当局者は許可することを拒んだため,支部はヨハネスバーグの別々の場所でふたつの大会を取り決めなければなりませんでした。特別列車が1,600人の兄弟たちをナタール州とズールーランドから運んで来ました。南アフリカ連邦および周辺の国々全域から兄弟たちがヨハネスバーグにどっと押しかけました。前もっての宣伝で関心が大いに高められ,幾百人にも上る人々が「神の王国による楽園の地」と題する公開集会および他のプログラムに初めて出席しました。ウェンブリー・スタジアムで開かれたヨーロッパ人の集まりには4,541名が出席し,一方,オーランド共同会館に1万2,648人のアフリカ人が集まりました。その会館は小さ過ぎたので,大きなテントを5つか6つ張って特別会場が設けられました。バプテスマを受けた人々の合計は546人でした。

      ベテルが1952年にケープタウンからエランズフォンテインに移転した時,南アフリカの区域には伝道者が平均8,580人いました。が,1959年までにそれが1万4,451人に増加しました。ベテルは狭くなり,ベテル家族はその時の建物では間に合わないほど大勢になりました。ノア兄弟の訪問に先立って,ベテルと工場の増設計画が支部の監督によってブルックリンに送られ,協会の会長によって承認されました。建築工事は会長の訪問中に始まりました。増設部分は元の建物よりも大きく,小ぎれいで立派な建物でした。22の寝室が加えられたほか,ベテル家族のための王国会館もありました。工場の増設部分には新しい機械部門が設けられたり他の新しい設備がなされたばかりか,倉庫にする場所もたっぷりありました。生産量が示している通り,それらすべては確かに必要だったのです。エランズフォンテインの新しい工場が生産を開始した後の1年間に,74万冊を上回る小冊子と雑誌が生産されました。雑誌の生産数だけでも1959年までにほとんど200万冊になっていました。

      ところで,その期間中に南アフリカ支部の管轄下にあった他の国々において業はどのように発展していましたか。3つの英国保護領,すなわちバストランド,スワジランドおよびベチュアナランドにおける業を見てみましょう。

      バストランドで障害を克服する

      普通のアフリカ人にとって真理を受け入れる障害となるのは,先祖崇拝や魔術から離れるのが難しいことです。バストランドの多くの人はクリスチャンであると唱えてはいますが,牧師はその人たちといっしょになって,死んだしゅう長や先祖の「霊」をなだめるための犠牲を捧げます。牧師も平信徒も等しく祈とう師に祈ってもらいます。

      オランダ改革派教会が設立した学校のかつての校長ヨシュア・ソンゴアナは,1953年に巡回監督としてバストランド(現在のレソト)に派遣されました。彼と彼の妻がそこへ行った時バストランドはまだ魔術の一環として人をいけにえに捧げることで有名でした。そして,いけにえとして外人がねらわれているといううわさがありました。ソンゴアナ兄弟と彼の妻はエホバにあつくより頼み,エホバは確かにふたりの保護者となってくださいました。ふたりは兄弟たちからもたくさんの親切やもてなしを受けたのです。

      マルティ山脈でソンゴアナ兄弟はひとつの孤立した群れから別の孤立した群れに行くのに馬を使わなければなりませんでした。初めて馬に乗ってマコホットロングからボベットに行くのに丸1日かかりました。一行が目的地に着いた時,馬に乗ることに慣れていた兄弟たちは元気でしたが,ソンゴアナ兄弟はすっかり痛れ果て,全身が痛んで座ることも横になることもできませんでした。帰る途中で一行ははんらんしているオレンジ川を渡らなければなりませんでした。ソンゴアナ兄弟の同行者たちは覚悟しておくべきことを彼に告げました。つまり,川の流れが渡れないほど強い場合,馬は川を泳いで渡れるように乗り手を落とそうとするというのです。ソンゴアナ兄弟は上手な乗り手ではありませんでしたから震え上がってしまいました。馬が川に入って行くと彼の不安は募りました。しかし,幸いなことに,全部の馬が無事に川を渡りました。

      マルティ山脈では時々雪が降り,その後身を切るような風が吹きます。ある朝一行が起きて見ると,あたり一帯は雪に覆われてすばらしい銀世界に一変していました。区域まで歩いて行った時,みんなの足は雪にめり込みました。それは一行にとって全く初めての経験でした。暖を取るために是非とも火を起こさねばなりませんでしたが,まきも石炭もありませんでした。しかし,一行は見捨てられませんでした。もうこれ以上がまんできないと感じた時,関心を持った人が親切にも火をたくのに十分の乾燥した牛のふんをくれたのです。

      1950年代にバストランドは着実に進歩し続けました。1953年中そこには平均67名の伝道者がおり,1959年までにその数は81%の増加に当たる111名になりました。

      スワジランドで禁令が解除される

      スワジランドではバストランドと同様の状況が見られ,しゅう長たちは全般にエホバの証人に対して好意的でした。この国の兄弟たちは禁令下で活動を続けていたにもかかわらず,首長が同情を示してくれたので,用心深くしている限り文書を配布することができました。伝道者たちは,自分たちが文書を売っているのではなく,関心を持つ人にそれを貸しているにすぎないことを示す証拠として,配布した本すべてに自分の名前を書きました。

      1958年,地域監督のデニス・マクドナルドは,ゴドゲグン(現在のンランガノ)で唯一の献身した姉妹を訪問しました。彼女が協会の代表者の訪問を受けたのはそれが初めてでした。その姉妹は公開講演のために裁判所の庁舎に会場を予約しました。マクドナルド兄弟は,協会の文書が禁止されている国の裁判所の庁舎で講演をすることにいささか不安を感じました。

      その地方自治体と幾らか関係のあった姉妹の主人は,「大変な聴衆」が集まりますよと請け合いました。その日曜日の午後,確かに「大変な聴衆」が集まっていました。オランダ改革派の牧師ふたり,英国国教会の牧師ひとり,土地の判事,警察官,犯罪捜査部の部長および関心を持つ人数名がいたのです。マクドナルド兄弟は,それらの人々がある目的を持って出席していることに気づきました。公開講演は神の王国の希望と対照させながら共産主義の失敗を暴露するものでした。その話はすべて録音され,考慮されるべく首都のムババネに送られました。協会の出版物に対する禁令が解かれたのはそれからしばらく後のことで,先の公開講演がそのことに関係していたことは大いに考えられます。

      協会の映画,「躍進する新世社会」の上映も偏見を克服する助けになりました。原住民労働者のためのある大きな特別区で,ヨーロッパ人の監督者は上映を許可する前にその映画を見たいと言いました。試写会が催され,7人が出席しました。その監督者は深い感銘を受け,「この映画は普通とは違っていてたいへん興味深いですね。これは非常に大きな組織で,しかも良く組織されている」と述べました。その人は,エホバの証人が清い崇拝の側に立ち,政治やこの世的な事柄に関係していないことを得心しました。映画を見せてもらったことに感謝した彼は,「それを今晩この特別区の会館で上映してもかまいませんよ。巡査にあなたを応援するよう言っておきましょう」と語りました。その夜特別区の会館に902名の聴衆が集まりました。

      その間,スワジランドでは良いたよりの伝道者の急速な増加が見られました。1953年に126名であったものが,1959年には129%の増加に当たる289名になりました。

      ベチュアナランドでは忍耐が報われる

      1956年,ヨシュア・ソンゴアナは巡回監督としてベチュアナランドに任命されました。土地の兄弟たち数人はすでに伝道したかどでしゅう長からむちで打たれていました。そのしゅう長は,チーフ・カーマがただひとつの宗教,すなわちロンドン・ミッショナリー・ソサイアティーのみを導入したことから,国内に別の宗教を入れることで兄弟たちを非難しました。ひとりの開拓者は2回むち打ちを受け,伝道活動をしたという理由で家畜を没収されました。しかし,しゅう長は彼が確固とした立場を取っているのを見て家畜を返しました。

      到着後2週間してソンゴアナ兄弟は他のふたりの兄弟たちといっしょに逮捕されました。クゴトラ(裁判所)で彼らは他の宗教を持ち込んでいると訴えられ,弁護する機会を与えられませんでした。クゴトラに出席していた人々は有罪判決を要求しました。兄弟たちに対してしゅう長と彼のクゴトラから多くの非難がなされた後,ソンゴアナ兄弟は翌日ベチュアナランドを去るように言われ,土地の兄弟にはそれぞれ2か月の実刑が言い渡されました。ソンゴアナ兄弟はその地域を離れましたが,その国から出る代わりにずっと奥地に行きました。その後,彼は,しゅう長が考えを変えて土地の兄弟たちに執行猶予つきの判決を与えたと聞いて喜びました。

      ソンゴアナ兄弟が2度目の訪問をしていた時再び逮捕されました。その時のクゴトラで強い関心が示されました。ロンドン・ミッショナリー・ソサイアティーの牧師が出席し,クゴトラの開会の祈りを捧げるようしゅう長から頼まれました。この度も,ソンゴアナ兄弟は,そこにはすでにひとつの教会があるのに他の教会を導入していると訴えられました。今回クゴトラはソンゴアナ兄弟に自分を弁護することを許しました。ソンゴアナ兄弟は伝道の内容と理由を示す聖句をたくさん引用しました。ロンドン・ミッショナリー・ソサイアティーの牧師は聖句をひとつも引かず,聖書を持ってさえいませんでした。数人の顧問は兄弟たちを釈放するようにしゅう長を説得し,このたびのクゴトラは神権的な人々の勝利に終わりました。

      協会の文書に対する禁令が1959年に解除されるまで大勢の人々が逮捕されました。しかし,兄弟たちは真理の側に堅く立ちました。1953年に100名であった伝道者は1959年までに166名に増えました。それは実にすばらしい増加でした。

      セントヘレナは霊的な益を享受する

      ヴァン・ステデン兄弟の訪問後,セントヘレナの兄弟たちがエホバの目に見える組織と定期的に連絡を取っていたのは郵便と協会の出版物を通してのみでした。したがって,1955奉仕年度中に丸1か月間巡回監督と彼の妻の訪問を受けたことはセントヘレナの兄弟たちにとって特筆すべきことでした。この島にあるふたつの会衆は各12日間ずつ訪問を受け,その一か月間の活動は巡回大会をもって終わりました。公開集会の出席者数は105名で,3人がバプテスマを受けました。

      霊的な益はセントヘレナの兄弟たちに流れ続けました。1956年中,「躍進する新世社会」という映画は8回上映され,観客の合計は1,000人を上回りました。孤立していた島の兄弟たちはその映画を通してエホバの全世界的なすばらしい組織について知ることができました。ひとりの人はこう述べました。「お話ししても恥ずかしいとは思いません。涙がわたしのほほをつたって流れていました。他の男性たちも同様でした」。というのは,「兄弟たちが愛のうちに共に働く様子を見たからです。わたしたちもあのように働くことができればよいのですが」。

      1958年,「幸福な新しい世の社会」と題する映画が8回上映され,合計1,095人が出席しました。その映画を見た人はみな,世界各地で大勢の人々が大会に集っているのを見て驚嘆しました。

      しかし,王国の種が最初にまかれた1933年以来,セントヘレナの伝道者で海外の大会へ個人的に出席できた人はひとりもいませんでした。1958年に初めて,ふたりの兄弟が神の御心国際大会に出席するためニューヨークまではるばる旅行しました。輸送の便が乏しかったため,ふたりは5月に出発して11月まで戻ることができませんでした。とはいえ,彼らはニューヨークですばらしい時を過ごし,大会で学んだり経験したりした良い事柄すべてをもって自分の国の兄弟たちを大いに喜ばせました。

      モーリシャスにおいて進歩する

      1953年までにヴァコアスの会衆は良い進歩を遂げ,ポートルイスにもうひとつの会衆がすでにできていました。法律に従って,宣教者は集会を警察に届け出ました。警察部長は,平和を破る宗教論争をしないかぎり差し支えないと答えました。しかし警察は慎重に行ないました。それで集会に最初にやって来たのは4人の刑事でした。偶然,出席していた兄弟たちの中に退職した刑事と,別の刑事の親族数人がいました。ですから,最初の集会はまるで警官の親ぼく会のようでした。刑事たちは,エホバの証人が穏やかで法律を守る人々であることを十分納得したようでした。

      1955年にモーリシャスで引き続き進歩が見られ,伝道者は30名という最高数に達しました。同年末にミルトン・ヘンシェル兄弟はモーリシャスを訪問しました。そして,南インド洋の3つの島,すなわち,マダガスカル,レユニオンおよびモーリシャスにおける王国の関心事の世話をするため,モーリシャスに協会の支部事務所が設立されました。

      マダガスカルで努力は実る

      ふたりの開拓者,ロバート・ニスベットとバート・マックラキーが1933年に南アフリカからマダガスカルを訪れた後,何の活動もなされない22年間の空白があったようです。1955年,ミルトン・ヘンシェルとロバート・ニスベットは協会のモーリシャス支部の指導の下に業を確立すべくこの島を訪れました。間もなく特別開拓者がフランスから派遣されました。彼らは一生懸命働き,非常な成果を挙げてたくさんの聖書研究を司会しました。ほどなくして土地の伝道者たちが王国の良いたよりを広め始めました。1958年,小冊子が初めてマラガシイ語に翻訳されました。翌年,ここの業の監督はフランス支部に移されることになりました。

      アンゴラで王国の活動が始まる

      王国の種がアンゴラに初めてまかれたのは1938年のことでした。約124万5,790平方㌔のこの地域はアフリカの西岸にあり,南の南西アフリカ,北のザイール,東のザンビアに囲まれています。

      ケープタウンからふたりの開拓者たちが1938年にここを訪れ,白人を対象に働きました。ふたりは3か月で聖書と書籍と小冊子を8,158冊配布し,関心を幾らか高めました。しかし,翌年第二次世界大戦がぼっ発したため,関心を抱いている人々と連絡を保つのはたいへん困難になりました。

      12年後の1950年にひとりのアフリカ人の開拓者がモザンビークから追放されました。彼は裁判を受けませんでしたが,アフリカ西岸沖で赤道上にあるポルトガル領の小さなサントメ島に送られました。その島はアンゴラの区域に含まれていました。6か月以内にその島には彼と共に証言の業に携わる人が13人いました。

      2年後,サントメのその小さな群れは21人の伝道者に増えました。サントメおよび隣のプリンシペ島は広さがわずか976平方㌔ほどで,人口が合わせて6万4,000人です。この島は実はポルトガル領下のアフリカ人の流刑地で,囚人たちはゴム,バナナおよびコーヒー栽培園で奴隷として働かなければなりませんでした。ですから,そこの王国伝道者たちの小さな群れは訪問したり励ましたりしてくれる人もなく,困難な事情の下でがん張り続けなければなりませんでした。それまでのところ伝道者とか王国の業のための組織はアンゴラにありませんでした。

      しかし,1954年のこと,南アフリカの支部はアンゴラの南端にある漁港に所属する流刑地,バイア・ドス・ティグレスのアフリカ人の小さな群れから何通か手紙を受け取りました。差出人であるジョアオ・マンチョカは一通の手紙の中で,「アンゴラのエホバの証人は1,000人の人々からなっており,シマオ・ゴンサルヴェス・トコを指導者としています」,と述べました。この人騒がせなことばの背後にはたいへん興味深い話があります。

      1943年,このシマオ・トコという人は,ベルギー領コンゴ(キンシャサ,現在はザイールと呼ばれている)のレオポルドビルのバプテスト派伝道団に所属する聖歌隊の指導者でした。彼は有能で,聖歌隊の隊長として成功を収め,そのグループは何百人にも増えました。ものみの塔協会の2冊の小冊子が彼の手に入り,彼はそれを興味深く読みました。トコは協会の出版物をさらに入手すべくブルックリンへ手紙を書きました。彼はしだいに王国の教えの幾らかを自分の歌や賛美歌(彼自身が作曲した)に取り入れたり,聖歌隊の比較的親しい仲間たちとの話合いに持ち出したりしました。ところが,シモン・キムバングの信奉者で心霊術をならわしにしていた人々がトコの研究グループに侵入しました。1949年,彼らは出かけて行って他の人々に語りたいという衝動にかられ,その多くがレオポルドビルの町へ伝道に行きました。しかし,ほどなくして,トコと彼の追随者の大半は逮捕投獄されました。刑務所にいる間に,トコは協会の出版物を,そして聖書をさえ用いることをやめました。彼らは霊媒のお告げの方に頼ったので,真理はキムバングの心霊術によって影が薄くなりました。そのグループの人たちはほとんどがアンゴラ出身でした。それで,数か月刑務所にいた後トコに従うことをきっぱりと拒否した人々はルアンダへ送り返されました。そのような人たちは1,000人ほどいました。

      アンゴラに追放された人々の中に,ジョアオ・マンチョカというそうめいで霊的な事柄に関心のあるアフリカ人がいました。裁判の日,彼は禁止されたアフリカの一宗派で,キムバング主義と結びつけられた「ものみの塔運動」に属しているかどで告発されました。裁判官は彼を釈放しようと努めました。ただし,彼が自分の信仰を否定するならばのことです。マンチョカはトコの解釈のあるもの,特に彼が心霊術をならわしにしていることを受け入れてはいませんでしたが,トコを通して知った事柄の中に幾らかの真理があることを認め,自分が受け入れたものを捨てるならそれを失うことになるということを知っていました。したがって,自分が持っているほんのわずかな真理を捨てるより投獄されるほうを選んだのです。ポルトガル当局はそのグループが元々どのようにして出来たか,また彼らをどうすべきかということを決めかねていました。当局者たちは彼らが潜在的な破壊分子ではないかと疑っていました。とはいえ,その成員は非常に誠実で悪意がないように思えました。とうとう彼らは幾つかの群れにまとめられてアンゴラのあちこちへ分散させられました。トコと彼のグループに属する多くの人はアンゴラ北部へ送られ,コーヒー栽培園で働かされました。マンチョカは別のグループといっしょにルアンダにいました。

      ルアンダでマンチョカは,グループの人々を説得して聖書を用いさせ,心霊術をやめさせようと努めました。彼は,サラ・ラモス・フィレモンとカルロス・アゴスティンホー・カディと共に聖書の真理を広めるために働きました。あるアフリカ人は,息子の教材にと「王国は近し」および「真理はあなたがたを自由にする」と題する協会の出版物のフランス語版を求めましたが,教材にはならないことがわかってそれをマンチョカに譲りました。マンチョカおよび,真理の価値をほんとうに認めていた彼の数人の仲間はそのことにたいへん感激しました。その後トコは南へ送られましたが,途中ルアンダを通りました。彼はその時までにがんこな心霊術者になっていて,自分の追随者たちに聖書の使用を禁じました。明らかに,「キムバング」の信奉者たちは彼に強い影響を与えて,彼を神のみことばから離れさせたのです。マンチョカと彼のグループの人々はそのことに落胆しました。そして,3か月の間,ものみの塔協会と連絡を取る道を開いていただきたいとエホバに熱心に祈りました。

      トコの追随者の中にはマンチョカが教えている真理を好まない人々がいました。そうした人々はその小さなグループをポルトガル当局に告発し,トコの偽りの教理を創始した者たちであると偽って非難しました。その結果,マンチョカと彼の友人たちは21日間暗い監房に入れられました。監守のひとりがタイプライターとローソクをこっそり持って来てくれたので,彼らはローソクの明りの下でひそかに協会の小冊子の写しを原稿の形式で作成しました。彼らは4年の宣告を受けてバイア・ドス・ティグレスの流刑地に送られました。その宣告は6年に延長されましたが,それはみな偽りの告発によるものだったのです!

      バイア・ドス・ティグレスでマンチョカと彼の仲間はトコの信奉者数人を見つけ,聖書を学ぶように励ましましたが成功しませんでした。そのため彼らはその人たちと交際を絶ちました。それからマンチョカは「真理はあなたがたを自由にする」という本(彼はそのフランス語版を持っていた)の幾つかの章を自分たちが使っているキコンゴ語に翻訳することにしました。そのころ,トコの信奉者のひとりは協会のソールズベリー支部に手紙を出し,スペイン語で書かれた返事を受け取りました。彼はそれが読めなかったので手紙をマンチョカのところへ持って来ました。それによってマンチョカは協会の住所を知ることができました。彼と彼の仲間はフランス語でローデシア支部に手紙を書き,その手紙は南アフリカ支部に回されました。こうしてバイア ドス・ティグレスのその群れは3か月間支部と通信し,文書も受け取りました。

      その一風変わった群れのことがブルックリンに伝わると,ブルックリンの兄弟たちはすぐ,ポルトガルで数年暮らしてポルトガル語をたいへん流ちょうに話すジョン・R・クックという英国人の兄弟がアンゴラに行くよう取り決めました。クック兄弟は1955年1月22日にアンゴラに着きました。彼が最初に話し合ったのはルアンダの弁護士でした。その弁護士は,トコのグループが「マウ-マウ」(テロリスト)分子もしくは共産主義支持者とみなされているので十分気をつけるようにとジョンに助言しました。

      ルアンダとベングエラのような町の通りを歩き,目じるしの星のバッジをつけたそのグループの人たちを見て,クック兄弟は,この人たちは将来の兄弟たちだろうかそれとも偽装した共産主義者にすぎないだろうかと奇妙に感じました。ロビトとベングエラで彼ら数人とだけ話しましたが,彼らが聖書を持っていてエホバという名前を知っており,ひんぱんに集会を開いているということがわかったほかは何の成果も挙がりませんでした。ルアンダには大きなグループがありました。彼はその人たちに話しかけ,グループの委員と話し合いました。しかし,彼らはトコの信奉者で,実際にはものみの塔聖書冊子協会に関心を持っていませんでした。例外だったのはアントニオ・ビズィという名の若者で,彼はクック兄弟の訪問を非常に感謝し,他の人々が協会の雑誌を予約するのを助けました。

      クック兄弟は,南アフリカのエランズフォンテイン支部に第一印象を報告した後,バイア・ドス・ティグレスのマンチョカおよび彼の友人たちと連絡を取ってみるようにとの指示を受けました。ところが,バイア・ドス・ティグレスはアンゴラ南端の砂漠の海岸にある小さな漁港です。そこは実際に流刑地ですから,政府の厳しい監督下にあり,外界とほとんど接触がありません。ジョン・クックは長い間その問題で頭を悩ましたことを覚えています。彼は祈りのうちに問題をエホバにゆだねました。ついに彼は,自分の使命を説明し会見を求める手紙をルアンダの総督に出しました。気のもめる3週間がたって,彼は呼び出されました。支配している総督の右腕であったサンタナ・ゴディンホ氏に会うためです。長い話し合いの間に,その人はエホバの証人の活動と信仰に関してクック兄弟に質問を浴びせました。そしてとうとう,クック兄弟がバイア・ドス・ティグレスに行ってもよいと言ってくれたのです。それから彼は,「実は,わたしたちはあなたに飛行機の往復切符を無料で差し上げようと思います」と言って彼を驚かせました。それはおよそ1,920㌔に及ぶ旅行でした。

      2,3日後,小さな6人乗りの飛行機が太陽の照りつける小さな部落,バイア・ドス・ティグレスの上を旋回してから砂地に設けられたコンクリートの急造滑走路に着陸しました。ジョン・クックは他の数人の乗客と共に飛行機から降りて来ました。幾つかの問題があった後,クック兄弟はそこの小さな群れと最初の会合を持ちました。その日はマンチョカにとって重大な日でした。彼は長年の間その日の来ることを祈りつつ待っていました。そしてついに真理を教えてくれた協会と直接接したのです。マンチョカは最上等の服で正装し,長い紙に書いた歓迎のあいさつを協会の代表者に向かって読みました。王国に関してしきりに知りたがっている羊のような人々を見て,クック兄弟がどれほど喜んだかしれません。彼は毎晩それらの謙そんで誠実なアフリカ人と共に過ごし,神のみことばを話し合ったり,業のことを話したりしました。彼らはクック兄弟に部厚い練習帳を見せました。それには,「王国は世界の希望」と「終わりの日」という小冊子が彼らのことばであるキコンゴ語に翻訳されていました。何年も前に手で書かれたそのノートは,長い間彼らの主な教科書のひとつとして用いられていました。クック兄弟は,彼らがエランズフォンテインから受け取った出版物を読んで真理をすでに十二分に把握しているのを知って驚きました。

      その間に,クック兄弟は灯台に泊まって,灯台守といっしょに生活しました。その灯台守は関心を示して両方の雑誌を予約し,聖書を注文しました。そしてこう言ったのです。「クックさん,あなたはアフリカ人にばかり時間をかけておられますね。わたしたち白人のことはどうなんですか。わたしたちのために集会を開いてくださってもいいではありませんか」。それは実行に移され,きつい臭いのするある魚粉工場で日曜日に開かれた公開講演には,白人が10人,黒人が70人,計80人の聴衆が集まりました。それはアンゴラで開かれた最初の公開集会だったのです! 翌日クック兄弟は,その小さな群れの温かいふん囲気を感じながら週に1度来る飛行機でそこを去りました。彼は,協会の代表者として彼を受け入れるように勧めたトコのグループあての紹介状を持っていました。その紹介状があればあらゆるグループにもっと良く聞いてもらえると思ったのです。

      マンチョカ兄弟はクック兄弟のその訪問を次のように回顧しています。「わたしは,これこそ神の支持を受けた真の組織であることをもはや決して疑いませんでした。手紙が届いたというだけで,遠方から無料で宣教者を派遣して重要でもないその差出人を訪問させるような組織が他にあるとは考えも信じもしませんでした」。

      ところが,ルアンダのトコの委員会はマンチョカの紹介状に心を動かされませんでした。「わたしたちにどうすべきか命令するこの人物は何者ですか。そりゃ,トコさんがこのような手紙をあなたに持たせたっていうんなら話は違いますがね」,という具合でしたから,トコ自身に会ってみることになりました。

      旅行中の出来事,および会った人々に対するジョン・クックの印象を簡単に説明した報告が,サンタナ・ゴディンホ氏に提出されました。間もなくクックは呼び出され,もう一度彼と会見しました。サンタナ・ゴディンホは報告に対する感謝を述べました。そして,トコ派に対する公式の見解は,それがまぎれもなく破壊的なグループであるというものであるが,自分やその他の人々はその見解に疑問を持っていると語りました。したがって,トコ派の間に入って探り出すことのできる人があればうれしいとのことでした。その後ゴディンホは,「ところで,クックさん,ほかにどこへいらっしゃりたいですか。あなたのご希望を言ってください。無料で往復切符を差し上げますよ」と言って再び驚かせました。ジョンは,アンゴラ中南部にある中都市サ・デ・バンデイラに近い未開墾地にいるトコに会わせてほしいと言いました。そしてそれは認められました。

      それから間もなく,クック兄弟は政府の役人が立ち合いのうえトコと二度にわたって長時間会見しました。トコは背の高いそうめいな,まだ若い人物で,ものみの塔協会から来た人に会えてうれしいと語りました。彼とクック兄弟は,聖書に関する事柄とかトコのグループの構成について話し合いました。それからトコはアンゴラにいる彼の信奉者全員にあてて,クック氏は自分が文書を受け取っているものみの塔協会の代表者である旨を述べた手紙を書きました。クック兄弟は,総督の賓客として興味深い所を2,3か所見物した後,これで恐らくトコ派の千人の人々はもっと容易に真理を受け入れてくれるだろうと思いながらルアンダへ戻りました。

      しかし,ルアンダのトコの委員会はその手紙を全く受け付けませんでした。彼らは牛耳を執っており,ほかのだれも勢力を得ようとはしませんでした。個人的にかなりの関心を示す人は大勢いましたが,小なくともそれがルアンダの指導者デイビッド・ドンガラの態度でした。とはいえ,ルアンダ滞在の時間は無駄にされませんでした。クック兄弟はたくさん証言し,1日に22件もの予約を得てすばらしい時を過ごしました。また,彼は1,2軒の白人の家族やトコのグループの成員たちとの聖書研究を始めていました。

      新しい農業部落であるセラへ飛行機で無事に着いた後,事態は激変しました。サンタナ・ゴディンホが行政官の地位を失ったのです。彼はクック兄弟が難しい割当てを果たすうえで非常な助けとなってくれましたし,たいへん親しみやすい人でした。もはや無料で旅行することはできなくなり,5か月間のビザの延長を申請したところ,それも拒否されました。与えられた援助とか,わざにとって重要な人々に会ったり「処女地」にたくさんの良い種をまいたりする特権に対してエホバに深く感謝しつつ,クック兄弟は1955年6月に去りました。

      王国の活動は開始されました。新しく生まれた区域は反対と迫害で窒息させられそうでしたが,エホバの過分のご親切と新しい兄弟たちのゆるぎない忠節とにより,発展し続けました。

      勇敢な努力が続けられる

      1956年6月,マンチョカとバイア・ドス・ティグレスに住む他の7人の新しい兄弟たちは,勇気を持ち機先を制して,バイア・ドス・ティグレスの所在するモサメデス地域の長官に手紙を書きました。その手紙の内容は一部次の通りです。『わたくしたちをエホバの証人の協会の実働成員として認めていただきたく,閣下に厚くお願い申し上げます』。兄弟たちは崇拝の自由がもっと与えられるように懇願しましたが,返って来たのはもっとひどい圧迫だけでした。それにもかかわらず,彼らのうちの10人は1956年にバプテスマを受けました。

      一方,サントメ島では数名の兄弟たちが7年の拘留期間を終えていました。釈放されてモザンビークに戻された人々の中には,かつての主宰監督が含まれていました。

      真理の光は曇らされない

      真理の光はアンゴラで輝き,困難にもかかわらず曇らされることはありませんでした。そのうえ,ヨーロッパ人の区域はその光から益を得ることができました。

      1956年10月26日,メルビン・パスローと彼の妻アロラはジョン・クックが始めた業を続行するためにルアンダに着きました。クック兄弟はルアンダの予約購読者と関心を抱く人々のリストをパスロー兄弟に送ってありました。しかし,予約者の住所はすべて私書箱の番号でした。郵便物は一切個人の家に配達されないからです。それでしばらくの間彼らは予約購読者を見いだすことができませんでした。その時,リスボンの支部の監督,ブリテン兄弟から,ベルタ・テクシエラという名前のたいへん関心を抱いている婦人がルアンダに帰国することを知らせる手紙が届きました。その婦人は,ルアンダに着いてすぐにパスロー夫妻の訪問を受けたのでたいへんびっくりしました。早速,彼女および彼女の家族との聖書研究が始まりました。彼女はまた,予約購読者の住所を得るという点でも助けになってくれました。というのは,その婦人には郵便局に勤めている親せきがあったからです。予約者のうち非常に大勢の人々が喜んで聖書研究に応じました。数週間もたたないうちに,それらの人々全員が友人や隣り近所の人々に話すようになりました。パスロー夫妻は,そうした人々を訪問するよう毎晩,そして午後などに招待されました。それで6か月以内に50人を上回る人々との聖書研究が司会されていました。

      到着後間もなく,パスロー夫妻はアンゴラの様々な土地にいるアフリカ人の兄弟や関心を抱く人々から手紙をもらうようにもなりました。マンチョカ兄弟は,バイア・ドス・ティグレスにおいてまだ拘留の身でありましたが,パスロー兄弟姉妹に励ましの手紙を書きました。霊的な援助を必要としていたアフリカ人の兄弟たちもふたりを訪問しました。外国人でしたし,事情もあったため,パスロー兄弟はアフリカ人の兄弟たちの集会に決して出席しませんでした。しかし,クック兄弟がアンゴラにいた時に強い関心を示したアントニオ・ビズィは,自分が他のアフリカ人の兄弟たちを援助できるように,聖書研究や訓練を受けるため,定期的にふたりを訪問したものです。アフリカ人は文書を求め,そうした文書の多くは奥地へ携えて行かれました。パスロー夫妻は到着後2,3か月して,自分たちの部屋で「ものみの塔」誌の研究を定期的に行なうようになりました。ところが,それを始めた月の終わりまでに部屋は手ぜまになっていたのです。そこで,語学の学校を開いていたテクシエラ姉妹はその学校の奥の教室のひとつを提供してくれました。テクシエラ姉妹の授業は午後9時まで行なわれましたから,週中の集会はすべて午後9時過ぎに始めなければなりませんでした。それで週中の集会はあまり注意を引きませんでした。

      アンゴラ全土から引き続き通信が届いていました。差し出し人は,兄弟であると自称するアフリカ人たちでした。しかし,そのころまでにアンゴラは戦争になっていたのでそれらの人たちと連絡を取ることはできませんでした。

      それから間もなく,ヴィエイラ・ゴンサルヴェス氏と彼の妻との研究が始まりました。彼は司祭になることを目ざして6年間勉強していましたが,若い学生の司祭と彼らの振舞いにたいへん驚いて,実際に司祭にならないうちにやめました。ゴンサルヴェス氏は急速に進歩し,すぐに集会に来たり友人たちに話し始めたりしました。2か月目の末にはすでに他の家族の聖書研究を司会していました。

      ルアンダに来て8か月後,パスロー兄弟はバプテスマを施す時機が来たと考えました。数人の人々が献身を象徴したいとの願いを言い表わしていたからです。その日,ポルトガルから南アフリカへ行く途中のひとりの兄弟,ヘンリーク・ヴィエラ兄弟が到着したので一同の驚きと喜びはたいへんなものでした。それで,ヴィエラ兄弟は講演をし,幾つかの経験を話してからルアンダでバプテスマを施しました。

      その後間もなく,パスロー兄弟はビザを延長することができなかったため,直ちにゴンサルヴェス兄弟を招いて小さな群れの世話を引き継いでもらいました。この忠実な兄弟は,引き継いだ時には真理に対して赤子にすぎませんでしたが,逮捕投獄され遂にポルトガルへ追放されるまでの9年間がん張り通しました。

      パスロー兄弟は正に時にかなって行動しました。2,3日後,パスロー兄弟姉妹が用事で町に出かけていた時秘密警察の自動車が突然ふたりのそばに止まり,6人の警官がどっと降りて,ふたりをあたかも狂暴な罪人のように取り囲みました。ふたりは自分たちの部屋へ連れて行かれ,持物をたくさん押収されました。その中には,秘密の伝言が書かれていると思われたのか,アロラの料理の作り方のメモが含まれていました。警官が聖書の在庫を運び出した時,パスロー兄弟は,「あなたがそれを読んでくださるとよいのですが」と言いました。その警官は答えました。「そこにはフットボールのことが書いてあるのかね」。そのことばに警官たちはどっと笑いました。その警官は自分たちがルアンダの司祭の手先にすぎないことを十分承知していたのです。後日パスロー兄弟姉妹は,関心を抱いたある人が学んだ良い事柄をすっかり司祭に話したことを知りました。

      熱心なカトリック教徒である英国領事に対してなされた訴えは退けられました。その後警察部長はパスロー兄弟姉妹を彼の事務所に呼び出して,1週間以内に立ち去るようにと命令しました。彼のことばから,警察部長はパスロー夫妻を中央アフリカの悪名高い「ものみの塔運動」と結びつけていることが明らかになりました。彼を説きつける見込みはありませんでした。

      1957年6月27日,パスロー兄弟姉妹は南アフリカに向けて船出しました。警官の態度を気づかったふたりは,兄弟たち,特にアフリカ人の兄弟たちに,見送りに来ないようにと言いました。しかし,愛のきずなは非常に強く,警官がいるいないにかかわらず,多くのアフリカ人を含む兄弟たちが“アデウス”(さようなら)を言いに来ていたのです! ふたりがちょうど渡り板を歩いて行こうとした時,それらアフリカ人の兄弟たちのひとりで,バイア・ドス・ティグレスから釈放されたばかりの兄弟が近づいて来て,パスロー兄弟の手に封筒を握らせると人がきの中に消えました。その封筒の中には,「パンを買ってください」との添え書きと共にせん別のお金が入っていました。船がゆっくりすべるように離れて行く時,パスロー兄弟姉妹はわたしたちの神を知るようになるよう人々を助けたという言い表わしがたい喜びを経験したことを深く感謝しました。

      しばらくしてパスロー兄弟姉妹が聞いたところによると,そのあくる日,ラジオ放送は,共産主義者と“マウ-マウ”活動を打ち立てようとしたふたりの非常に危険な人物が国外に追放され,「幸いにも大きな危険はなくなった」と発表しました。数か月後にテロリストの活動が実際に激しくなった時,アンゴラの新聞は,ものみの塔の宣教者がテロリストの活動に加わるようアフリカ人を動かしたと偽りの報道をしました。白人の当局者に反逆させるため宣教者がアフリカ人にアメリカのドルを与えていると思われる写真さえ掲げられたのです!

      なるほど,キリスト教世界の宣教師と宗教指導者たちはアンゴラのテロ活動と大いに関係していました。しかし,エホバの証人に限ってそうしたことはありませんでした! エホバの過分のご親切により,ものみの塔の宣教者たちはアンゴラに入国することができました。多くの問題や反対にもかかわらず,確固とした立場を取ってアンゴラで真理の光を輝かせる決意を持つ54人の兄弟たちからなる小さな組織を設立することができました。

      パスロー兄弟姉妹との別離に伴う大きな興奮が収まってから,兄弟たちは静かに,そして忠実に務めを行ない続けました。兄弟たちを指導する円熟した人はいませんでしたが,集会は開かれましたし,伝道も困難な事情のもとで出来る限り行なわれました。

      1958年に地帯の監督であるハリー・アーノットの短い訪問があり,アフリカ人にもヨーロッパ人にも大きな励ましとなりました。1959年,彼は再び地帯の監督としてルアンダに来ました。彼が空港に着いて数人の兄弟たちの出迎えを受けていると,突然警官が現われて兄弟たち全員を逮捕しました。アーノット兄弟は他の兄弟たちと別個に尋問されました。彼の書類かばんはすみからすみまで調べられました。アーノット兄弟は,ルアンダ市に住む「ものみの塔」の予約購読者のリストが警察の手に渡らないようにとエホバに祈りました。その大切なリストは同兄弟の切符入れの中にありました。国際犯罪防止委員会の署長は切符を調べましたがそのリストを見ませんでした。数々の質問をした後,署長はこう言いました。「アーノットさん,覚えておきなさい。アンゴラに関する限り,あなたはおしまい,おしまい,おしまいなんです。そしてものみの塔の組織もおしまい,おしまい,おしまいです」。

      ちょっとしてから彼は他の兄弟たちがいる別の建物へ連れて行かれました。そこにはマンチョカ兄弟もいました。国際犯罪防止委員会の役人はマンチョカ兄弟の方を向くと彼をののしって,「おまえがどうなるかわかっとるか」と言いました。マンチョカ兄弟は彼の目をまっすぐ見て言いました。「わたしはこれまでも多くのことを忍耐してきました。ですからこれ以上あなたに出来ることと言えばわたしを殺すこと以外にはありません。しかし,わたしは信仰から離れるつもりはありません」。それから彼はアーノット兄弟を見やると,勇気づけるように笑いました。アーノット兄弟は次のように語っています。「彼は自分の置かれた状態を全く忘れているようでした。わたし自身がそうした状況に落胆しないようにということだけを気づかっていました。そのアフリカ人の兄弟が何年間も投獄された後にそうした勇気ある確固とした立場を取るのを見た時はたいへん意気を高められました」。

      アーノット兄弟は飛行機に引き戻され,即刻アンゴラから立ち去らねばなりませんでした。一方,警察は会衆がテクシエラ姉妹の家で集会を開いていることを探り出しました。それで数人の警官は調査するため直ちにそこへ赴きました。彼らは捜したのですが,1階の戸を開けることができませんでした。戸の背後では兄弟や関心を持つ人々およそ50人が,アーノット兄弟が来て講演してくれるのを辛抱強く待っていました。

      その時アーノット兄弟を出迎えた兄弟たちには,またマンチョカにさえも実際に何の害も加えられませんでした。マンチョカ兄弟は尋問のために7時間拘禁され,その間に警部は実際に彼を刑務所へ送るようにという公式の命令を示しました。ところが最後に警部はその命令を破棄してマンチョカ兄弟にこう語りました。「帰りなさい,マンチョカ。気をつけるんだぞ。あした,お前の家にあるものみの塔の文書を全部持って来るんだ。……ものみの塔のこんな仕事なんかやめて,自分の子供の面倒でも見るんだな」。

      こうしたそう話的な事件があったので,その小さな会衆は集会の場所を変えねばなりませんでした。その後,アフリカ人は自分たちの会衆を組織するようになりました。しかし,土地の会衆は依然非常に小さく,1960年に報告のあった伝道者の最高数はわずか17名でした。アンゴラがポルトガルのリスボンにあるものみの塔支部の管轄下に置かれたのはそうした時でした。

      翌1961年,アンゴラでテロリストの活動が起こり,兄弟たちに対して激しい迫害が及びました。続く9年間マンチョカ兄弟はあらゆる刑務所や野営小屋で過ごしました。彼は非常に多くの,種々様々な経験をしましたが,エホバに全幅の信頼を置き,静かな決意を持って,行く先々での迫害に立ち向かいました。彼はまた,行った場所で証言し,刑務所に居る間に多くのアフリカ人が真理に入るのを助けることができました。

      1971年に再び大勢の兄弟たちが逮捕されてルアンダの刑務所に入れられました。その中には無私無欲で献身的なマンチョカ兄弟がまたもや含まれていました。しかし,敵の努力はエホバの打ち勝ち難いお目的と無限の力に比べれば取るに足りません。何ものも,全くどんなものも,アンゴラを含め人の住む全地で王国の音信が伝道されるのをやめさせることはできないのです。

      拡大の用意

      1960年の初め,エランズフォンテインのベテルは本格的な拡大のためにすっかり調整が施されました。エホバは来たる10年間に野外で必要なものを予知され,それを備えられたのです。今や増設された工場では3台のライノタイプに代わって5台のライノタイプが使用され,1年後にはもう1台設備されました。すでに使用されていたG.M.A.の平版印刷機に加えて,新品のハイデルベルグ活版印刷機とティムソン輪転機が設置されました。ティムソン輪転機の値段は3万7,000ラントを超えていました。

      1960年,エランズフォンテインの工場は,月に1回白黒で印刷していた土地のことばの雑誌を,月に2回色刷りで大量に印刷し始めました。ツワナ語の「ものみの塔」誌のように,新しく月1回発行されるようになった雑誌もあります。コンゴ(キンシャサ)向けの特別なチベンバ語版の印刷は1965年5月に始まりました。普通のチベンバ語版の完全な題名は「ウルプング・イワ・クワ・カリンダ」です。しかし,コンゴには「ものみの塔」という名前に対する偏見があるので,その特別版の題名は「カリンダ」(「見ること」という意味がある)という簡単なものです。1966年には,南アフリカのことばであるスペディ語の「ものみの塔」誌が印刷のリストに加えられました。ですから,1970年までに,その工場は「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌各24冊を10の言語で印刷し,また15の異なった言語の「王国奉仕」を印刷していました。そのほか,工場は土地のことばによるたくさんの小冊子や,用紙類,プログラム,一枚刷り印刷物を山のように印刷していました。

      1960年,3つの保護領,すなわちバストランド,ベチュアナランドおよびスワジランドで協会の文書に対する禁令が解除されました。したがってその霊的な食物はそれらの土地へ自由にどんどん入って行くことができました。ところで,そこの兄弟たちはどうしていたでしょうか。

      バストランドでは困難のさ中にあって祝福を得る

      バストランド(現在のレソト)の兄弟たちは月2回発行される「モルラ-コーア」(セソト語の「ものみの塔」誌)をほんとうに感謝しています。そのことは「ものみの塔」誌の研究への出席に反映されています。1960年,135人の伝道者と15人の開拓者からなる一団はこの国の人口63万4,000人の人々の霊的な必要を世話し,数々の困難をものともせずに押し進んでいました。

      その時までに,“変化のきざし”はこの小さな英国保護領にも見られるようになり,国家主義の精神や独立の欲求が高まりました。そうした精神や欲求は1960年に彼らが獲得した自治によってさらにあおられました。行政機関は,アフリカ人がヨーロッパ人に取って代わって“アフリカ化”されつつありました。「自治」とか「独立」といったことばは自由と繁栄をもたらす呪文であると感じた人々は少なくありませんでした。しかし,エホバの証人は人間の唯一の希望として神の王国を示し続けました。

      バストランドの大部分の人々は山岳部に散在する「クラールズ」と呼ばれる村に住んでいます。中には徒歩か馬でしか行けないような非常に高い所にある村もあります。巡回監督が孤立した群れに行くのに5日か6日かかる場合もありました。

      開拓者たちは,バストランドのすみずみの人里離れた場所に王国の良いたよりを広めるうえですばらしい働きをしました。特別開拓者の一夫婦は,ドラーケンスベルグ山脈にある標高約3,200㍍の“南アフリカの屋根”の上のモコホットロングという地域に割り当てられました。夫のフィレモン・マフェレカはひとつの研究を司会しに行くのに幾つもの山を越えなければなりませんでした。朝の4時に出発し,急いで歩いて午前8時半までにそこへ着いたものです。彼は大抵その晩に帰宅し,翌日は別の方角に出かけました。彼らの努力は豊かに祝福されました。というのは,2年以内に10名の人々がその夫婦といっしょに王国の業に携わっていたからです。

      そうです,バストランドでは良いたよりの伝道者たちはしばしば2時間から3時間歩いて区域に行き,1度に6時間も証言します。その日の途中で家に帰って食事をするのは実際的ではないので,1日中奉仕して夕方早く家に帰り,料理をして食事を取るようになりました。村から村の距離が遠いので,6時間働いても6軒の家しか訪問できないこともあります。とはいえ,それらの人々も神のみことばを聞く必要があるのです。

      そのように孤立した生活をしている兄弟たちは大会の重要性を確かに認識しています。しかし,大会に出席するにはたいへんな努力がいりますから,彼らは正しくわたしたちの模範です。ひとりの特別開拓者はエホバの民の大会に行くのに山坂を越え,はんらんする川を泳いで渡り,徒歩で4日かかりました。一姉妹はひとりで3日馬に乗り,それから丸1日バスに乗って大会に来ました。また別の姉妹は妊娠6か月でしたが,山坂を越え雪をついて,約40㌔の道のりを徒歩で大会に行きました。献身したばかりの兄弟でさえ,援助してもらった特別開拓者といっしょに幾つもの山を越え128㌔余も歩いて大会に出席し,そこで献身を象徴しました。

      中立を保つ

      1966年バストランドは現在レソトとして知られる独立国になりました。当時266名いた王国伝道者は,その絶対的に中立な立場ゆえに当局者の多くから尊敬を勝ち得ていました。ところが首都のマセルで地域大会が開かれていた最中に,ひとりの警部と3台のジープに乗った警官たちが集会を中止するように命じながら会場になだれ込みました。責任を持つ兄弟たちは翌朝になって警察の署長に会うことができました。しかし,その署長は証人たちを知っていて,だれかが演壇からレソト政府は滅ぼされるべきだと言うことになっていたとの偽りの告発を却下しました。それから,集会をやめさせた同じ警部は,証人を保護するため大会に警備員を派遣するようにとの指示を受けたのです! むろん彼らは何もすることがありませんでした。兄弟たちはその機会を使ってひとりひとりに十分証言しました。

      レソトで兄弟たちがクリスチャンの絶対中立の立場を守ったことは,政情が不安定で非常事態の時に彼らにとって真に身の守りとなりました。その時ヘッドマン・ヨナタンの政権を支持しない者たちに対して厳しい粛清が行なわれました。伝えられたところによると,反対者の草ぶき小屋が夜間にバリケードでふさがれて火を付けられ,家族もろとも焼き殺されたということです。エホバの証人はひとりもそうした目に遭いませんでした。

      とはいうものの,真のクリスチャンたちは中立の立場を守ったがゆえの苦難を経験しました。1970年にレソトは何年もの干ばつでひどい食糧不足に見舞われました。ただし1970年には十分の雨量があったのですが,政府の支持者にだけもろこしの種を支給することが決められました。エホバの証人は中立でしたから,一粒の種も得られませんでした。南アフリカ共和国の兄弟たちはそのことを聞いて,レソトの兄弟たちへの救援資金を送る取決めを設けました。そのことはヨハネスバーグで開かれる全国大会のための準備集会で発表され,それらの集会の寄付箱に入れられた寄付金すべてを救援資金にすることが提案されました。兄弟たちの反応は圧倒的で,1,714ラントが寄付され,しかも寄付金は続々と寄せられました。事実,支部事務所は,「十分」の寄付が集まったことを兄弟たちに知らせる回状を送らなければなりませんでした。オレンジ自由州のヨーロッパ人のある兄弟は1週間以内に必要なもろこしの種を手に入れ,それをレソトの兄弟たちのもとへ送り届けました。また,困窮した人々すべてには,その人たちが必要物を自分でまかなえるようになるまで,食物を買うための現金が支給されました。それによって,レソトの兄弟たちは,南アフリカにいるヨーロッパ人の兄弟たちや他の兄弟たちが自分たちのことをどれほど気遣っていてくれるかを以前にも増して知ることができました。こうして彼らは南アフリカの兄弟たちを一層身近に感じました。

      そうした愛のある取決めの益を受けたレソトの一姉妹は後にこう語りました。「わたしたちは家に何もない,とうもろこしの粉を買う10セント(約30円)さえないところまで行きました。その時南アフリカの白人の兄弟たちから食物を買うお金が届いたのです。わたしはただ泣くだけで何も言えませんでした。他の証人の方々やわたしは差し迫った問題を克服することができました。ですから,エホバのご準備により,わたしたちはこの大会に出席して霊的な宴も楽しむことができるのです」。

      注目すべき里程標

      エホバの組織がレソトの物質的なききんの救援物資を備えていた時,エホバも真理に飢え渇いた人々に優れた霊的な食物を備えられました。それは「とこしえの命に導く真理」と題する本のセソト語版で,1970年の半ばごろに入荷しました。この優れた手引書と6か月の研究課程によって増加が見られ,クリスチャンの活動はひとつの里程標に達しました。

      1972年にはレソトにおける業がその発展途上においてもうひとつの注目すべき里程標に達しました。同国最初の本格的な王国会館が建てられたのです。首都のマセルでは「ものみの塔」研究の出席者数がしばしば200人を超え,平均出席者数は170人に増えていましたから,王国会館が必要なことは明らかでした。運送代を払うだけで近くの山から無料で手に入る砂岩が壁に使われました。経験のある兄弟たちが好みの形に石を切ったのです。

      だれもがその建設を助けました。姉妹たちは,工事をしている人々に食事を運んだほか,水がめを頭に乗せるという昔ながらの方法で約3.2㌔もある建築現場まで水を運びました。子供たちは現場まで水の入ったドラムかんをころがして手伝いました。幾人かの年配の兄弟たちは建築の仕事に加わるためにおよそ32㌔も歩いて来ました。床にするコンクリートの厚板を敷き詰める下準備として地面を踏み固めるために,姉妹たちは王国の歌をうたいながらそのリズムに合わせて踊りました。現在兄弟たちはおよそ250名を収容できるがんじょうな王国会館を使用して喜んでいます。その建設費はわずか845㌦(約25万3,500円)でした。

      開発途上にある他のアフリカの国におけると同様,子供たちは学校で,また兄弟たち一般はその他の場所で時折国家主義による問題に遭遇します。たとえば,最近のこと,証人の地域大会が終わった日に暴動が起きました。その騒ぎを起こした政党にかつて所属していたある新しい兄弟は,家に帰った途端兵士に逮捕されて地方裁判所に連行されました。暴動が起きていた間何をしていたかと質問されて,その兄弟はエホバの証人の大会に出席していたと言いました。しかし,当局はそれで満足せず,証拠を求めました。プログラム全部を読み終えると,隊長はその兄弟が無実であると宣べ,伝道活動を続けるようにと兄弟を励ましさえしました。村人たちはそのことに驚いてこう言いました。「あなたが祈りをささげている神は生きている神だ!」その兄弟は,大会に出席したことをどれほどよかったと思ったか知れません。

      レソトの伝道者新最高数は688名で,しかも業はエホバの祝福の下に引き続き前進しています。しかし,国民1,477人につき伝道者ひとりという割合ですから,しなくてはならない事柄がまだたくさんあることは明らかです。したがって,わたしたちはエホバがご自分の定められた時にご自分の方法で業の速度を速めてくださるよう絶えず祈っています。

      ベチュアナランドで禁令が解除される

      ベチュアナランド(現在のボツワナ)は広大な国なので,1960年に禁令が解除されたという知らせがすぐに伝わらなかった所がありました。しゅう長の中には,自分の地域で依然として兄弟たちを困らせている者がいました。

      南アフリカから来たヨーロッパ人の地域監督のひとり,デニス・マクドナルドは首長であるセレツィ・カーマの兄弟と会見して証人の業を説明しました。彼は,証人の業を妨害すべきでないことを述べた署名入りの手紙4通をマクドナルド兄弟に与えました。それはたいへん役に立ち,しゅう長たちの態度は変わりましたし,兄弟たちにとって物事は容易になりました。

      1960年代の初め,会衆および孤立した群れのほとんどは鉄道沿線にありました。北西部のシャカウィとマウンを除き,内陸部はほとんど何も手がつけられていませんでした。特別開拓者のB・ムスチウィ兄弟はしばらくマウンで働きました。彼は,食物が乏しくて,1年間とうもろこしがゆばかりを砂糖も牛乳もかけずに食べたにもかかわらず,自分の割当てを忠実に果たしました。この兄弟はツワナ語の「ものみの塔」誌を活用し,雑誌経路を設けて新しい号が届くたびにそれを配布しました。雑誌を興味深く読んだ,ロンドン・ミッションの一説教者は教会でそれを示しさえして,聴衆にこう勧めました。「もしみなさんがこの雑誌を持ったものみの塔の人に会ったら,雑誌を求めて読みなさい」。それである人々は雑誌を手に入れるために開拓者の家にやって来ました。彼らはそれらの人たちと研究を始めました。

      巡回の業

      巡回監督がそうした孤立した兄弟たちを訪問するのにどんなことが関係しているか想像できますか。砂漠でも走ることのできる四輪駆動のトラックの後ろに乗って,暑い昼間や寒い夜を分かたず少なくとも960㌔ほどの道のりを旅行しなければならないのです。1964年に巡回監督をしていたアダム・マーラングは,孤立した人々を訪問するため時には1か月のうち10日間トラックに乗りました。

      マーラング兄弟は北部がどれほど野蛮で原始的かを述べ,「シャカウィで講演した時,人々はいつも,わたしが服を着ているというだけでわたしをしゅう長のような者と考えます」と書いています。そこの人たちは衣類をほとんど身に着けていないのです。同兄弟は,公開集会を良く組織して進行させるのにたいへん難儀しました。まず人々を一緒にし,それから講演中に彼らを静かにさせておかねばなりません。人々はだれか他の人が話すのを座って聞くことに慣れておらず,講演が始まると,持ち出された要点を近所の人々と話し合う良い機会であると考えました。とはいえ,それら孤立した人々への訪問は,ふたりの人が神に献身し,合計6名の人が業に参加するという成果を生みました。

      1965年から1966年にかけて厳しい干ばつに見舞われていたある時,水が非常に少なかったため,大会でバプテスマ希望者にバプテスマを施す水がありませんでした。別の時ですがフランシスタウンでも兄弟たちはたいへん困りました。その時の地域監督ピエ・ウェントゼル兄弟の話によれば,最初に行ったプールには水がありませんでした。そこで彼は,32㌔ばかり行った所にある乾いた川床の水たまりへふたりのバプテスマ希望者を車で連れて行きましたが,それも干上がっていました。さらに8㌔ほど進んで泥の水たまりまで来ました。その水たまりは中に家畜が立っていたので真っ黒に見えました。しかし,バプテスマを希望していたふたりの青年はそのためにちゅうちょしませんでした。それは水に違いありませんでしたから,ふたりはそこでバプテスマを受け,エホバのご意志を行なう献身を象徴しました。

      証言の業はボツワナで前進する

      ベチュアナランドは独立を獲得して国名をボツワナと改めました。この政変によって人々の生活はさほど変化しませんでしたが,伝道の業は影響を受けました。独立した新政権はボツワナの国籍を持たないアフリカ人に対して非常に厳しく,南アフリカから来ていた大勢の開拓者たちは追放されました。

      ボツワナで証言はどのように行なわれるでしょうか。前置きのあいさつをし,その中で互いの健康について尋ね合うというのが普通の習慣になっています。それが済むと,みんなが座れるように長いすが何脚か運んで来られます。家族の他の成員,および訪問客がいればその人も呼ばれ,20名ほど集まることが少なくありません。大抵の家族は聖書を持っており,喜んで聖書を取ってくると話についてきます。

      この国では,親が息子の嫁にしたいと思う少女のために4ポンドのお金と毛布1枚およびドレス1着を払うのが習慣です。少女がまだ10歳の時にそうしたことが行なわれます。その後も男性側の両親は,少女が結婚できるようになるまで引き続き彼女を扶養します。それは少女の了解を得ずに行なわれるのです。15歳の一少女は真理を知るようになった時,不信者とつり合わないくびきを負いたくないと両親に話しました。両親は,その少女のお金をもらっているので,彼女を無理に結婚させようとしました。しかし,少女は,そのような取決めが間違っていることを聖句を使って両親に納得してもらい,自分の好きなようにすることを許されました。

      大会の会場にふさわしい場所がなかなか見つからず,いつも仮設の小屋を建てるのに多くの時間をかけなければならないので,兄弟たちはマハラッピィに自分たちの王国会館を建てるよう励まされました。彼らはそれを実行に移し,レンガを自分たちで作って焼きました。その王国会館は何年もかかって完成し,1967年に大会の会場として使用されました。

      ボツワナのブッシュマン族はどうなのだろう,弓矢を使って狩りをし,今やっと文字で書き表わされつつある舌打ち音の入った言語を使うこの部族のだれかが,新秩序社会の一員となるだろうかといぶかったことがありますか。さて,ブッシュマン族の女性と同せいしていた男の人に真理が伝わりました。聖書研究が始まり,間もなく彼らは合法的に結婚しなければならないことを学びました。その男の人はブッシュマン族の女性と結婚するでしょうか。そうです,彼はその女性と結婚し,ふたりそろって巡回大会で浸礼を受けました。ふたりは1年以内に読み書きを学び,住んでいる土地の人々全員に優れた証言をしてさらに他の人々を弟子にし始めました。

      1972年,ヨーロッパ人の有能な兄弟たち数人は,ボツワナの兄弟たちを援助するためそこへ移住するようにという召しに答え応じ,家族と共に南アフリカからやって来ました。いうまでもなく,そのためには幾らかの犠牲も払わねばなりませんでした。長期間ボツワナに滞在するためにはそこで世俗の仕事に就かねばならなかったので,ある人は開拓奉仕をあきらめることさえしました。しかし,英国から来たそれらの人たちはじめ数名の兄弟たちは,ボツワナの兄弟たちを築き上げるためにたいへん優れた働きをしました。そのうちのある人々はボツワナの非常に辺ぴな土地にまで移って行きました。兄弟たちは彼らがいてくれたことを当時も今も大いに感謝しています。そして業は前進しました。

      合法性の問題が起きたが解決された

      次いで衝撃的なことが起きました。政府がエホバの証人をふさわしい組織として公認することを新しく発布された法律に基づいて拒否したため,1973年7月20日に組織は違法を宣告されたのです。そうした“違法”の組織に入っているというだけで法律にふれ,最高7年の刑に処されました。

      しかし,兄弟たちは変化した事情の下でもがん張り続ける決意でした。まず,禁令が出されそうなことが明らかになった時,支部事務所の兄弟たちは業を監督している人々と会合して助言と励ましを与えました。禁令が実施される直前,エホバの過分のご親切によってふたつの巡回大会がボツワナで開かれ,兄弟たち全員に優れた励ましと指示が与えられました。

      ボツワナの憲法に基づいて政府の決定を上訴するため直ちに法的な手続きが取られました。そしてほんとうにうれしいことに,1974年2月20日,政府はエホバの証人を合法的な組織として公認したのです。それによって兄弟たちは禁令が敷かれる以前の状態に戻っただけではありません。今や彼らは公認の組織に対して差し伸べられている特権を活用できる立場にありました。したがって,近隣の国々から全時間の伝道者に来てもらうこともできました。

      1975年3月,兄弟たちは284人という伝道者の新最高数を得て大きな喜びを経験しました。それは2,220人にひとりの割合で伝道者がいるということを意味します。確かにボツワナではまだ膨大な業がなされねばなりませんが,エホバの過分のご親切によってそれが成し終えられることをわたしたちは確信しています。

      スワジランドでクリスチャンの活動が前進する

      1960年,スワジランドの王国の業は繁栄しつつあり,平均伝道者数は380人でした。伝道者ひとり当たりの人口の割合はエランズフォンテイン支部の管轄下にある国々の中ですでに最高の割合でした。協会の文書に対する禁令は解除されており,一層の発展のための舞台は整っていました。

      1960年代に至るまでほとんど発展しなかったのはヨーロッパ人の区域でした。1960年ごろ,ヨーロッパ人の伝道者数人がブレーマーズドープ(現在のマンズィニ)に引っ越しました。その中にスコットランド人のイアン・キャメロンがいました。彼は南アフリカの女性と結婚するまでエランズフォンティン・ベテルで奉仕していました。南アフリカ共和国の永住権が得られなかったため,スワジランドに住んで設立された神の王国の音信をそこのヨーロッパ人に伝えることにしたのです。マンズィニの伝道者の小さな群れは,スワジランドの全域,すなわち約1万7,353平方㌔の地域で奉仕することを決めました。そのためには,再訪問をしたり聖書研究を司会したりするのに160㌔を優に超える旅行を何度もしなければなりませんでした。

      間もなく,音信に答え応じる心を持つ人々が現われ始めました。ヴィク・ダンキンと彼の妻アイリーンはスワジランドの特別開拓者として協会から割り当てられました。ローヴェルドを横断する砂利を敷いたでこぼこ道,ウススの森を通り抜けるすべりやすい泥道,ゴドゲグンへの曲がりくねった道,こうした道のために車はすっかりいたんでガタガタになりました。しかし,ダンキン兄弟姉妹はへこたれませんでした。間もなくその苦労が実り,ふたりは報われました。英語の会衆が組織されたのです。その成員のほとんどは,スワジランドにいる間に真理を学んだか,少なくともエホバに献身した人々でした。英語が話されていたとはいえ,その会衆は実は国際的で,会衆の伝道者は大英帝国の横断面を表わしていました。

      それと同様の国際的なふん囲気はムババネの街路においてもはっきり見られます。民族衣装を着たスワジ人が,商店のウィンドーの中をのぞき込んでいるヒッピーやアメリカ平和部隊のそばをかすめて通ります。店の中ではポルトガル人の商人がりゅうとした服装のアフリカ人の公務員に応待しているかもしれません。こうした情況ですから,伝道者たちはしばしば何種類もの言語の出版物を持って行かねばなりません。

      クリスチャンの中立が示される

      植民地解放の世界的な動きに合わせて,スワジランドも独立の準備を進めており,人々は一層国家主義的になっていました。選挙の日が来た時,投票所の責任者は次のように発表しました。「わたしたち全員が投票するのに先立って,部落で投票を拒否する,シャデラク,メシャク,アベデネゴのような者たちが明らかにいる。依然として拒否し続けるなら,その者たちひとりひとりに出て来てもらおう」。その部落の孤立した伝道者たちは勇敢にも名乗り出ました。関心を抱いていた人々もそれに促されて証人の側に立ちました。投票は強制的なものでなかったので,それら中立なクリスチャンたちが訴えられることはありませんでした。

      1967年9月に行なわれた独立記念式典の直前に,エホバの民は,様々な人種グループ間の一致をみごとに証明しました。スワジランドの英語の(ヨーロッパ人の)会衆は東トランスヴァールの巡回区に属しています。そこで,スワジランドで巡回区全体の大会を開き,アフリカ人の兄弟たちを招待する取決めが設けられました。会館は小さ過ぎましたが,それが真の兄弟愛を示す機会となりました。会館の中にヨーロッパ人の兄弟がたくさんいて,アフリカ人の兄弟はあまりいないことが知らされると,アフリカ人の兄弟たちのために席をあけようということばが次々に伝わりました。後に,アフリカ人の巡回監督は,非常に大勢のアフリカ人の兄弟が屋内にいる一方,ヨーロッパ人は外で立っている,と心配しました。英語とズールー語で行なわれた公開講演には652名の人々が集まりました。

      国家主義的な精神は多くの部族的な慣習,たとえばウムクワショのおきてなどの復活を促しました。その部族的なおきてによって,女性は1971年8月までの2年間ウムクワショを身に着けなくてはなりませんでした。ウムクワショというのは首につける装飾品の一種で,象徴的な意味を持っています。婚約している女性は赤と黒の組合せのものを,その他の未婚の女性はみな青と黄色の組合せのものをつけました。その期間中すべての女性は性関係を持たないようにしなければなりませんでした。ただし,すでに婚約している女性は,土地のしゅう長に1ラント支払って相手の男性と性関係を持つことが許されました。そうした取決めが設けられたのは,その地方の王女シダンダをたたえるためでした。それは一種の被造物崇拝であり,お金と引き換えに姦淫を許すものでしたから,エホバの証人はウムクワショの期間を守ってそれを首に着けることを拒否しました。そのおきては部族的なものにすぎず,国の法律によって行なわせることのできないものであったにもかかわらず,堅い立場を取った若い姉妹たちの中にはつらい目に遭った人もいました。一例として,真理にいない両親を持つひとりの若い女性は,ウムクワショをつけなかったために刑務所に10日間入れられました。しかし,彼女が行っていた学校の校長が釈放するよう要求してくれたので,刑務所から出ることができました。

      エホバの証人の子供たちは,両親からふさわしい訓練を受け,神から見て清く汚れのない崇拝の大切さを認識するように助けられてきました。(ヤコブ 1:27)子供たちの多くは,それが偽りの崇拝の一部であると気づくまでは校歌をうたったり祈りに参加したりしていました。その後は,どんな宗教行事にも参加しないという子供の数が増加しました。そのために大勢の子供たちがひどく打たれ,ほとんどの子供は放校処分を受けました。その時兄弟たちは自分で子供たちを教えたり,他の学校に通わせたりするようになりました。

      困難のさ中にあって満ちあふれる祝福

      ズールー語の「真理」の本は,スワジランドの兄弟たちに祝福となったもうひとつの道具です。この本のおかげでこれまでよりもはっきり真理が理解できるようになった,という人は少なくありません。確かに,この本は,誠実な人々が聖書の真理を学んでとこしえの命に至る道に来るのを助けています。

      1972年中に,この国の兄弟たちは今日までのところ最後の地域大会を開きました。その大会のあと憲法が廃止され,大きな集会を開くには警察の許可が必要になったのです。証人は1974年10月にスワジランドで宗教的な組織として認められたにもかかわらず,現在まで警察は兄弟たちにその許可を与えることをがんとして拒否してきました。巡回大会を開くのにもいろいろ苦労がありました。そうした大会を開く唯一の方法は,様々な会衆が通常使っている集会場所に分散して開くことでした。

      冊子を用いた業には熱烈な反応があり,最初の冊子が配布された1974年2月には伝道者の数が新最高数の750人に達しました。わたしたちの兄弟姉妹たちは非常に熱心で,1974奉仕年度中,ひとりの伝道者に対する1か月平均伝道時間はほぼ14時間ほどでした。事実,スワジランドで徹底的な証言がなされていない所は現在ほとんどありません。

      他の国々におけると同様,王国をふれ告げることはキリスト教世界の僧職者を怒らせ,彼らは,証人の業を禁止させようと試みるほどになりました。そして,1975年4月2日,王ソブーザ二世の前でエホバの証人を非難しました。証人たちはだれかが死んでも悲しまず,敬意を持って死者を扱わないと言ったのです。その時兄弟たちはほんの数人しか出席していませんでした。それで王は,もっと多くの人がいる所で問題をさらに詳しく討議できるように,1975年5月3日に再び集まりを開く取決めを設けました。その集まりはロズィタにおいて屋外で開かれ,出席者全員は木陰の地面に座りました。王自身はその集会に出席せず,農業相が司会者を務めました。話したい人は手をあげ,司会者に呼ばれたならマイクロフォンのところに行って話すことができました。

      まず,だれかが死んだ時にエホバの証人はどんな気持ちになるかについて,ひとりの兄弟が真実を述べようと努めたところ,絶えず妨害されました。もっとも,その日に話すことができた兄弟たちもいました。兄弟と姉妹は大勢出かけました。実際,証人たちの数は他の人々より圧倒的に多かったのです。証人はだれかが死ぬとその遺体をけったり,悪魔に滅ぼされたのだと言いながらひつぎを墓に投げ込む,といった偽りの非難がなされました。司会者は自分の思うままに人を指名しましたから,そうした偽りの非難を反ばくする機会を得ることは困難でした。その集まりは午前10時ごろから夕方の6時まで続きました。一日の終わりが近づいたころ,反対者たちは,人の死を悼むという点で証人たちを非難できないことに気づいたので,証人たちが国旗の敬礼や国歌をうたうこと,また兵役に服することを拒むといった他の問題を持ち出しました。その時までに日が沈んで来たので,司会者はそれら別の問題は次の機会に話し合うことにすると言いました。

      数人の国会議員,また特に牧師は,エホバの証人がスワジランド全国で行なっている業を抑制しようと決意していました。エホバはご自分の意志が十分に成し遂げられるよう取り計らわれることを知っていますから,わたしたちはその問題をエホバのみ手にゆだねます。

      南アフリカにおける組織の発展

      1961年の下半期に南アフリカで会衆の監督のための王国宣教学校が開かれ,兄弟たちと王国の業に著しい影響を与えました。4人の教官が国内を旅行し,王国会館が教室になりました。そうしなければならなかったのは,距離的な問題があっただけでなくアフリカ人が一定の期間一地域から別の地域へ行くのを規制する,政府の人口移動統制政策のためでもありました。授業に出席した人々すべては,組織を通して与えられたエホバのこの愛ある備えに深い感謝を表わしました。

      1961年5月,南アフリカ連邦は共和国になりました。それ以来,この国でもかつてないほど国家主義の精神が現われました。最初,そのために真の崇拝をしている人々が妨害されることはありませんでした。が,後日,エホバの王国に忠誠な人々に真の試練が臨みました。それについては後にお話ししましょう。

      1961年10月から11月にかけて,3つの主要な人種グループのために開かれた「一致した崇拝者の全国大会」中,エホバの証人は彼らの一致とクリスチャンの中立を示す優れた機会を得ました。ヨーロッパ人の大会の開会日は総選挙の投票日とぶつかりました。大会に関するパンフレット(「どの政府が一致をもたらすか」)はエランズフォンテインの工場で印刷され,何万部も配布されました。その結果はといえば,公開講演にそれまでの最高数に当たる人々が出席しました。3つの大会の合計出席者数は2万2,551人だったのです。大会会場内に見られるあらゆる人種間の一致した平和な交わりは,外の騒々しい政治的分裂とあまりにも異なっていました。

      やがて,エランズフォンテインで数々の調整がなされました。たとえば,アフリカ人の兄弟たちが,翻訳者とか速記者として奉仕すべくベテルに招かれました。アフリカ人の速記者たちは,文字をズールー語とかホサ語,あるいはセソト語に翻訳しながらタイプしました。ですから,兄弟たちは彼らの必要や問題に関する明確な助言を与えられたわけです。他の方言の翻訳者たちの多くもベテルに招かれました。訪問者がベテルの中を通ると南アフリカで“原住民の”仕事と考えられている部屋の掃除や建物の管理および洗たくをヨーロッパ人の姉妹と兄弟が行ない,アフリカ人の兄弟たちがタイプライターに向かって座っているのが見られるようになりました。

      南西アフリカにおける宣教者の努力

      そのころ,南西アフリカではどんなことが起きていましたか。1950年に3人の宣教者がそこで奉仕し始めました。彼らはウィントフークを皮切りに区域の他の部分へだんだん移って行きました。1951年,そのうちのふたりは北に移り,銅山の町ツメブでふたりの「失われた羊」を見いだして大きな喜びを味わいました。そのふたりはかつて組織と連絡を取っていたことがあり,間もなく,野外奉仕に活発に参加するよう助けられました。約64㌔南のグルートフォンテインでは,ドイツで真理に触れていたボグシュ兄弟姉妹が見いだされました。今や再び組織と接触したふたりは,また奉仕に参加し始めました。さらにふたりの伝道者がオチワロンゴに住んでいました。そのふたりは南アフリカ連邦から引っ越してきた人々でした。その後,何年も前から「ものみの塔」誌の予約購読者だった父親と息子が見いだされました。その親子は,献身の段階まで急速に進歩しました。

      1952年の末までに南西アフリカの伝道者数は一足飛びに29名になりましたから,3人の宣教者は非常にうれしかったに違いありません。

      1953年,さらに5人の宣教者が到着し,すでに南西アフリカにいた3人の宣教者の歓迎を受けました。その宣教者たちはウィントフークに住んだので,他の3人の兄弟たちはもっと北とか南の土地に任命されました。数週間ほどで,新しい宣教者はそれぞれ8つから10の聖書研究を司会していました。業はそれ以後発展しました。

      しかし,ひとつの問題が依然として前面に立ちはだかっていました。それは,良いたよりをいかにして効果的にアフリカ人に伝えるかということでした。初期の宣教者のひとり,ジョージ・コエットはウィントフークのアフリカ人特別区(町)でアフリカ人を対象に幾らか奉仕したことがありましたが,当局者は僧職者の圧力に屈して,コエットに与えた特別区への立入許可を無効にしたのです。南アフリカから開拓者を招く努力は彼らに受け入れられませんでした。1959年に地域監督は特別区に入る許可を原住民行政官に申請しましたが,行政官はその申請を冷たく拒否しました。しかし,その週の後半に行政官は休暇ででかけたので,兄弟たちは町役場の吏員のところに行って特別区へ入る許可を願い出ました。その願いは聞き入れられ,「幸福な新しい世の社会」と題する映画が216人の認識あるアフリカ人を迎えて上映されました。

      1953年以来,ディック・ワルドロンはアフリカ人特別区に入る許可を得ようと再三試みましたが成功しませんでした。その後ディックとコラリー・ワルドロン夫妻は自分たちに子供が生まれることを知りました。ふたりは任命地を離れなければなりませんか。いいえ,彼らはとどまることに決めました。後に,オーストラリアにいるコラリーのお母さんが重い病気になったという知らせが来ました。その時ワルドロン夫妻は南西アフリカのウィントフークをあとにしてオーストラリアに帰る決心をしました。ところが,彼らが出発する週に,アフリカ人とカラードを対象にして業を行なう許可がおりたという知らせが入ったのです! ふたりはどうするでしょうか。7年間も待ってやっと得た許可を返上しますか。ワルドロン兄弟は船の予約を取り消して,彼の妻と娘だけがオーストラリアへ行きました。母娘はオーストラリアで4か月過ごして帰ってきました。その間ディック・ワルドロンは多くの時間を費やしてアフリカ人とカラードに証言し,満足のゆく結果を得ました。アフリカ人とカラードのための最初の巡回大会では公開講演に100名の出席者がありました。

      アフリカ人の民衆に伝道する

      あらゆるアフリカ人に音信を伝えるためには,出版物を人々が話している言語に翻訳して印刷することがぜひとも必要でした。しかし,それまでのところ翻訳をする教育を受けたアフリカ人の兄弟がいませんでした。しばらく前,初期の宣教者の指示のもとに世俗の翻訳者によって幾つかの小冊子がナーマ語,クワンヤマ語およびヘレロ語に訳されました。それらは印刷されて配布されましたが,翻訳があまりにもあいまいで不正確なため,良い結果を生まないことがわかりました。今度もこの世の人々を用いなければならなかったとはいえ,もっと細かい監督が必要とされました。

      ディック・ワルドロンは正確な翻訳を得るためにどんな努力をしたかについて次のように語っています。「真理を学んでいて,真理について幾らか知っている教員たちを主に用いましたが,わたしはそのそばに座って,彼らといっしょにひとつひとつの文章が真理かどうか確かめる作業をしなければなりませんでした。ナーマ語は語彙が限られています。たとえば,わたしは,『最初アダムは完全な人間だった』ということの要点を通じさせるように努めました。翻訳者は頭をかきながら,ナーマ語には『完全』という単語がないと言いました。『あ,わかった』,と彼は言いました。『最初アダムは熟した桃のようでした,ですね』。しかしながら,いろいろな問題があったにもかかわらず,やがて「新しい世の生活」と題する小冊子はヘレロ語,ナーマ語,ヌドンガ語およびクワンヤマ語に翻訳されました。

      エーウィン・シュニードと彼の妻ゲートルードおよび娘のカリンは1956年にスワコップムンドという海岸の町へドイツから移住していました。彼らの親族はそこへ移住することを懸念していましたし,彼ら自身どんな生活が待ち受けているかはっきりわかりませんでした。どんな奇妙な人々に会うでしょうか。どんな異様な音を出す言語を学ばねばなりませんか。「暗黒」大陸で前途にどのような危険が横たわっていますか。ワルヴィス湾に上陸したその家族は,こともあろうにドイツ語を話す白人に迎えられました。事実,彼らの新しい故郷となる小さな町スワコップムンドは,建築様式や習慣また主に使われている言語からして,ドイツから持って来られたような町でした。後に,彼らの家族の他の成員も到着して,関心のあるほかの人々は真理を受け入れるのを助けられ,今や会衆を設立することが可能でした。

      ケープ州のカラードの兄弟たちは漁業と関連してその区域に引っ越すようになり,特にワルヴィス湾でアフリカ人に良いたよりを広めるために多くの働きをしました。そうしたアフリカ人の大多数は,北部のオバンボランドのような故郷からわずか1,2年の労働契約で来ます。その後彼らは帰らなければなりません。したがって彼らの多くは協会の文書を数冊求め,それをオバンボランドに持って帰ります。フィレモン・カロンゲラというオバンボ族の人は,ワルヴィス湾で真理を十分に受け入れ,オバンボランドへ帰って伝道することができました。彼は実際そこでしばらくの間特別開拓者として働きました。

      真理を受け入れた最初のホッテントット人

      エラ・クライトンは南西アフリカで真理を受け入れた最初のカラードでした。彼女はナーマ(ホッテントット)語も流ちょうに話せました。ですから,彼女が真理を受け入れた最初のホッテントット人の援助者であったのも全く当然のことでした。

      ホッテントットのその愛すべき年老いた兄弟,“オウパ”ヨド(おじいちゃん)ほど波乱に富んだ人生を送っている人はまずありません。少年のころホッテントットの戦争中にドイツ人に捕らえられた彼は,人生の大半をウィントフークで働いて過ごしました。ついでながら,その戦争は1890年ごろ終わりました。彼は教育をほとんど受けませんでしたが,部族のことばであるナーマ語ばかりかドイツ語とアフリカーンス語でも読み書きができます。エラ・クライトン姉妹が彼と聖書研究を始めた時,“オウパ”ヨドは70歳台の後半だったに違いありません。彼は教会の柱のような人物でしたから,彼が大いなるバビロンから退いたことは少なからぬ動揺を引き起こしました。南西アフリカのいろいろな所から牧師たちが,以前の宗教に復帰するよう説得するために彼の家に集まりました。“オウパ”ヨドは,エラ・クライトンに助けられて,牧師たちの試みを一切退けることができました。親せきの人々は泣いて懇願しましたが,無駄でした。“オウパ”ヨドは真理を見いだしたのです。

      近年の発展

      エホバは,多種多様な人種や国籍の人々からなるこの国でご自分の業の速度を速めておられます。1973年末に,エホバはレホボス地域のバスター族が証言を受ける道を開かれました。その年まで,エホバの証人が王国の音信を伝道する目的でそこへ入ることは許可されませんでした。その区域の北部,すなわち,ほぼ50万人のアフリカ人の「保留地」のある地方で,業の小さな足がかりが得られるようになりました。現在オバンボランドでは4つの伝道者の群れが働いており,国境を越えた所に住むひとりの特別開拓者が一時的な巡回監督として定期的にそれらの群れを訪問しています。エホバの証人たちはその「保留地」の人々に良いたよりを伝えるためあらゆる機会を捕らえてはいるものの,門戸が広く開けられて,その比較的広い地域に全時間の働き人を派遣できるようにと願い,かつ祈っています。

      南西アフリカでは1947年にただひとりの人が真理をふれ告げていましたが,その後すばらしい拡大がみられました。そのひとりが増加して,1975年3月には王国をふれ告げる人の数が322名という最高数に達しました。もし,北部の区域をもっと十分に切り開くことがエホバのご意志であれば,南西アフリカのその地方からも十分の収穫を期待できます。

      忠実な人々は特権を楽しむ

      南アフリカでも,南西アフリカの“オウパ”ヨドのような初期の伝道者の優れた模範があり,そのうちの数人は今でも開拓者として働いています。彼らはエホバへの奉仕の数々の特権を楽しんできました。それら昔からの忠実な人々のひとりである,アフリカ人の姉妹,アニー・モセレバは最も古い特別開拓者でした。1966年,彼女は18年間開拓奉仕をした後91歳で亡くなりました。彼女はたいへん高齢だったので,地域社会の人々から非常に尊敬され,他の伝道者が成功しない所ですばらしい成果を上げました。彼女はたった1年間に8名の人が真理の側にしっかり立つのを助け,13件の家庭聖書研究を司会しました。

      南アフリカのもうひとりの忠実な模範者はジョージ・フィリップス兄弟です。1927年以来彼は支部の監督として奉仕しました。兄弟たちは,彼のエホバに対する専念と彼が示した模範ゆえに同兄弟を深く尊敬しています。フィリップス兄弟はエホバの組織を常に忠節に支持し,真理のための真の闘士であり,粘り強い兄弟であることを証明しました。彼はほんの始まりの時期から1940年代の困難な時代を通じて業を導きました。そして南アフリカの組織が一握りの伝道者から1966年の2万人を上回る伝道者に成長するのを見ました。1966年の7月末にフィリップス兄弟はベテルを去らねばならなくなりましたが,彼の心は依然全時間奉仕にあり,しばらく後にケープタウンの近くのストランドで開拓奉仕をしました。

      フィリップス兄弟から支部の仕事を引き継ぐことのできる非常に有能な兄弟がいました。それは,ザンビアのかつての支部の監督で,前の年に妻とともにそこから追放されていたハリー・アーノットでした。彼は,何年もの間地帯の監督として南アフリカに来て働いたことがあったので,そこの兄弟たちによく知られていました。アーノット兄弟は兄弟たちから十分の信頼を得,支部の監督として2年間奉仕しましたが,彼も初めての子供が生まれることになって,その奉仕の特権を手離さなければなりませんでした。

      1968年6月以来,フランス・ミュラー兄弟が支部の監督として奉仕しています。彼は1960年から支部の監督の補佐を務め,奉仕部門で働きました。ミュラー兄弟は,夫人とともに1959年にベテルに招待されるまで,巡回監督とか地域監督として全国を回って奉仕していました。

      支部の監督がめまぐるしく交代しても,業は何も損なわれず,万事は引き続き順調に運びました。エホバの業は一個人に依存してはおらず,エホバはご自分に用いられたいと進んで願う人をお用いになれるということが,すべての兄弟たちに再び明らかになったにすぎませんでした。

      「真理」の本は羊のような人を助ける

      1968年の地域大会中に,「とこしえの命に導く真理」と題する本が発表され,6か月間の聖書研究課程が導入されました。それから拡大が起き始めたのです!

      南アフリカ共和国における文書の配布数は急上昇しました。再訪問と聖書研究も増えました。「真理」の本が入手できるようになった時,支部の発送部門はかつてない事柄を経験しました。1960年から1967年にかけて,年間平均9万冊の書籍が発送されていました。ところが,1968年にはそれが急に12万5,000冊を上回ったのです。次いで1969年に「真理」の本のアフリカーンス語版が現われ,同年末にはズールー語,ホサ語およびスペディ語の「真理」の本が発表されました。1970奉仕年度中,支部は44万7,000冊を超える書籍を発送しました。

      「真理」の本は非常に多くの地方語で入手できたので,南アフリカの広い地域でできるだけ多くの農民に音信を伝えるために特別の努力が払われました。それらの農民の大部分は幾㌔も離れて住んでいますから,車でなければ会いに行くことができません。協会の支部事務所にはそうした農業地区の地図ができていて,会衆は農業地区の区域を申し込むように励まされました。それには良い反応があり,幾つかの会衆は自分たちの家から320㌔以上離れた区域を受け取りました。農民たちに王国の良いたよりを伝えるため,兄弟たちは幾千㌔も行きました。ひとつの自動車部隊は約500平方㌔を網羅し,100軒の農家を訪れて,90冊の「真理」の本を配布しました。真理に飢え渇く人々が多数見いだされ,兄弟たちは再訪問したり手紙を書いたりして彼らを援助しました。

      南アフリカのポルトガル人の区域

      アンゴラに関する先の記述の中で,ヘンリーク・ヴィエラが南アフリカへ行く途中ルアンダを訪れたことを述べました。彼はヨハネスバーグに定住し,そこの会衆のひとつで奉仕しました。しかし,ヴィエラ兄弟はポルトガルからの唯一の移民ではありませんでした。南アフリカが繁栄していて良い就職口があるので,ポルトガル人とかギリシャ人,また他の様々な国籍を持つ人々が何千人もヨーロッパから移ってきています。リーフには推定8万人ほどのポルトガル人が住んでいるのです。

      1965年までにはすでに,ヴィエラ兄弟と彼の妻はそうしたポルトガル人の移民の中から相当の関心を示す人を見いだし始めていました。英語を知っているポルトガル人はめったにいなかったので,それらの人々が王国の音信を知るのを助けるためにポルトガル語を話す証人の必要性が感じられました。1966年1月に11人のポルトガル人の伝道者からなる群れがヨハネスバーグに作られました。ヨハネスバーグでポルトガル人は皆一か所に集まって住んでいるわけではありませんから,伝道者たちが1,2家族を見つけて証言するのに午前中一杯かかることも少なくありませんでした。ひと家族にも会えない日曜日もありました。それにもかかわらず,その小さな群れは非常に急速に発展し,1967年末までには約50名の伝道者をもって新しい会衆が発足しました。

      その後ヨハネスバーグ市内および近郊におけるばかりか,いたる所でポルトガル人の間に着実な成長が見られ,間もなく,ダーバン,ポート・エリザベス,ケープタウンおよびブルームフォンテーンにポルトガル人の兄弟たちの群れができました。

      それらの兄弟たちは時々故郷に帰ります。その主な目的は決まって,ポルトガルのカトリックの町や村に住む家族と友人に証言することです。一例として,ひとりの新しい兄弟と彼の妻は,休暇でポルトガルに帰った時,家族にどのように証言を始めようかといぶかっていました。ふたりが非常に驚き,また喜んだことに,家族のひとりは彼らに証言し始めたのです! それがその家族にとってどれほど幸福な再会であったかご想像いただけることでしょう。

      南アフリカのギリシャ人の区域

      リーフにほぼ3万人いるギリシャ人の中の真理に関心を抱く人々を世話するため,1969年初頭にギリシャ人の会衆がヨハネスバーグに作られました。当時野外奉仕報告を出していたギリシャ人の兄弟はわずか24人にすぎませんでした。ところがほんの1年4か月後にその会衆は,5名の正規開拓者を含む62人の伝道者を有するまでに成長し,一時開拓者も毎月3,4人いました。そこでも重要な奉仕の分野で優れた出発が見られました。

      ギリシャ人はウィットウォーターズランド全域,100㌔ほどにわたって散在しています。したがって,電話帳を利用したり,英語とアフリカーンス語を話す会衆の援助を得て,ギリシャ語の会衆は,“区域”となるギリシャ人全員の住所録を作り始めました。ヨハネスバーグにギリシャ語の会衆が作られてからほどなくして,他の数か所,遠くはダーバンにおいてもギリシャ人の小さな群れが築かれました。

      その人たちは,ギリシャ正教会の宗教的な束縛という重いくびきにつながれてきましたが,すぐに真理を認め,ためらうことなく決定を下します。彼らは大抵,聖書研究が始まった時から集会に出席しますし,友人や親族に証言し始めます。

      国際的な趣のある大会

      このような外国人がみな集まるのですから,南アフリカの大会は真に国際色を増してきています。地域大会とか全国大会では,外国人の兄弟たちのために特別席が設けられ,それぞれの言語でプログラムが聞けるようになっています。

      「国際大会」といえば,1969年の「地に平和」国際大会は,それまで南アフリカの神権史上で起きた出来事すべてをしのぐものでした。まず期待が寄せられていました。次いでそれは実現し,南アフリカの500人を超す兄弟たちはロンドン大会に出席しました。また大勢の兄弟たちが,ニュルンベルクのマンモス大会を含む,ヨーロッパの他の場所での大会に行きました。

      ある人々はそれ以前にも国際大会に出席したことがありました。しかし,大方の出席者にとってロンドンにおける1969年の「地に平和」大会は,終生忘れることのできない感動的な出来事でした。その中には,南アフリカから初めて国際大会に出席したアフリカ人の兄弟たちがいました。そのうちの10人は,大会旅行基金によって協会から派遣された全時間奉仕者でした。多くの兄弟たちにとって,飛行機で旅行することはおろか,飛行機を身近に見るのもその時が初めてでした。しかし,彼らに最も感銘を与えたのは物めずらしい飛行機旅行ではありませんでした。いうまでもなく,大会で与えられた霊的な食物から大きな感銘と益が得られました。しかし,それらアフリカ人の兄弟たちは,飛行機の中で白人の兄弟たちから受けた愛やもてなしに,また,英国で白人の兄弟の家に泊めてもらったことにも深く感動したのです。それは南アフリカでは法律によって禁じられていることです。レソトのニコルソン・マケタは,大会のプログラム以外で何が一番印象的だったかと聞かれてこう答えました。「ヨーロッパ人の兄弟たちと彼らの家でともに過ごし,兄弟たちが組織から与えられた家庭生活の助言をどのように適用しているかを見たことです」。

      そうした経験はアフリカ人の兄弟たちに,エホバの証人は世界中全く同じであることを証明しました。彼らは,このような経験ができるようにしてくれた仲間のクリスチャンの寛大さにどれほど感謝したかしれません。

      「地に平和」国際大会に出席した人々は霊の宴を非常に楽しんだので,1969年12月31日から1970年1月4日にかけて南アフリカで開かれる「地に平和」全国大会で再び同じプログラムを見聞きすることを楽しみに待ちました。しかも何と大勢の聴衆が集まったのでしょう! 三つの公開集会の合計出席者数は4万5,821名で,バプテスマを受けた人は1,294名でした。

      セントヘレナにおけるすばらしい前進

      1969年7月にロンドンで開かれた国際大会で,南アフリカの兄弟数名は,セントヘレナから出席していたジョージ・スキピオと彼の娘に会いました。スキピオ兄弟は彼らに,セントヘレナのような小さな島でくる年もくる年も同じ人々に証言するのは信仰と忍耐を真に試みるものとなると語ることができました。しかしながら,数年間にわたってセントヘレナでは驚くべき進歩が見られたのです。

      区域は非常によく網羅されており,協会の文書もたくさん配布されているので,家の人に聖書を持ってきてくださいと言うと,「新世界訳聖書」を持って現われることが珍しくありません。「真理」の本が到着すると,聖書研究は1969年にひとり平均1.2件に増加しました。しばらく前から真理を知っていた大勢の人々がはっきりとした立場を取るよう助けられました。この本は,また,不活発な伝道者を元気づけるのに役立ちました。

      伝道者の数は引き続き増加しており,王国をふれ告げる人々の歌声はセントヘレナでずっと大きくなっています。1975奉仕年度中,伝道者の数は99名という最高数に達しました。今や区域は狭くなり,ひとりの伝道者が平均51名からなる区域を受け持っていることになります。それでもなお,強い関心が示されています。

      アセンション島の人々は良いたよりを聞く

      セントヘレナの北西約1,000㌔の地点にあるこの島から初めて報告を受け取ったのは1965年のことでした。報告した人はB・テイラー姉妹で,ケーブル・アンド・ワイヤレス会社に勤務していた彼女の夫はその会社からアセンション島に派遣されていたのでした。ほぼ88平方㌔のこの島の人口は当時300人をやや上回っていたにすぎません。たったひとりで奉仕することはテイラー姉妹にとって確かに挑戦でした。しかし,彼女はその挑戦を受け入れ,毎月平均23時間奉仕し,3件の聖書研究を司会しました。

      1968年までにアセンション島の人口は2,000人に増えていました。同年テイラー姉妹は英国に旅行しました。そこで,関心のある人々の世話をするためセントヘレナからジョージ・スキピオが渡って来ました。「この島の人たちは羊飼いのいない羊のようです」,と彼は語っています。強い関心を示す人々がいたので,スキピオ兄弟は自分の家族ごとアセンション島に渡ることにしました。それは伝道の業を大いに盛り立てました。

      ある時,一件の聖書研究は夜の10時から行なわねばなりませんでした。というのは,交替制の関係で家の人が9時過ぎまで働く週があったからです。とても気温が高いので,ふたりは夜のベランダで研究したものです。そこは近所の人に見える所でしたから,ふたりは嘲笑されました。その人は進歩して,自分が真理を学んでいることに気づくと,こう言いました。「多くの人がエホバの証人でないのはなぜかが今わかりました。人々は近所の人からなんと言われるか,どう思われるかを恐れているのですね」。その家族は集会に出席し始め,集会を楽しみました。書籍研究で時が緊急なこと,しなければならない業がまだあることを聞くと,その人は翌日仕事仲間全員に証言し始めました。自分も学んでみるため聖書と書籍を求めてくれる人をひとり見いだしたので,彼は大喜びしました。

      スキピオ兄弟と彼の家族は9か月後にセントヘレナへ戻らなければなりませんでした。しかし,彼らは手紙を書いて聖書研究者たちと連絡を取り続けました。それら関心を抱く人々のひとりに,午前中仕事の休み時間に開拓者であるスキピオ兄弟の家に来て,水を一杯くれませんかと言った若い男の人がいました。翌日彼はまた水を飲みに来て,しばらくその場に立っていましたが,聖書をわけてくれませんかと同兄弟の妻におずおず聞きました。彼女はすぐに聖書を手渡し,その若い男の人を書籍研究に招待しました。彼は自分の書籍を求めて書籍研究にやって来ました。同兄弟の13歳になる息子と研究を始めた彼は着実に進歩しました。

      スキピオ兄弟が去った後,その若い男の人は真理の側にしっかりと立場を取りました。雇い主から軍の建物や教会の建物にペンキを塗るように言われた時にはそれを断わりました。職工長でさえ,どんなに議論しても彼の考えを変えることはできませんでした。

      ここ3年の間,アセンション島から野外奉仕報告は1度も受け取っていません。島でただひとりの伝道者は英国へ定期的に旅行し,報告は滞りがちでした。わたしたちは彼女がどうなったのかはっきりわかりませんが,恐らくエホバは「おりの中へ」導かれるべき,この島の羊のような人々をなお知っておられるでしょう。―ミカ 2:12。

      血に関する神の律法を支持する

      南アフリカでは時々血の問題が起こります。こんな例がありました。妊娠6か月のあるアフリカ人の姉妹は突然出血し始めました。病院では医師たちが輸血を命じました。マーシュ兄弟姉妹は自分たちの聖書的な立場を説明しましたが,医師や看護婦から嘲笑されたにすぎませんでした。姉妹は30分ごとに検査を受けました。その後,看護婦のひとりは,胎児の心臓の鼓動が聞こえないから,お子さんは胎内で死んだと思うと姉妹に告げました。それで医師は“死んだ”胎児を取り出したい,だが,そうするには輸血は絶対に必要だと考えました。姉妹は胎児が動くのを感じると言いましたが,病院側は子供は死んでいると主張しました。マーシュ兄弟姉妹はその病院を出て他の病院に行きました。途中,兄弟は,どんなことが起きても忠実を保つようにと姉妹を励ましました。他方の病院に着いて,自分たちの血に関する立場を説明すると,夜勤の看護婦はそのことを書いた声明書に署名するようふたりに求めました。検査の結果,子供はまだ生きていることが明らかになりました。治療が施され,姉妹は急速に回復しましたが,検査のため2週間ごとに通院しなければなりませんでした。医師は輸血なしで帝王切開をすることに同意しました。出産の時が来た時,姉妹は入院を許されました。ところが,医師たちが手術の準備をしている間に,姉妹はふたごの男の子を無事に出産しました。その兄弟姉妹は,エホバの律法に忠実だったことをほんとうによかったと思いました。

      インド人の区域は産出的であることがわかる

      南アフリカにはインド人が非常にたくさんいます。しかも近年,多くのインド人が真理に入ってきました。現在,トランスヴァール州とナタール州にインド人の会衆が幾つもあります。その中には,かつてヒンズー教徒だった人や,名目は教会クリスチャンだった人,また回教徒だった人がいます。しかし,現在彼らは南アフリカの他のエホバの証人たちと一致して,霊と真理とをもってエホバを崇拝しています。―ヨハネ 4:23。

      再度の拡大

      ものみの塔協会の会長,N・H・ノア兄弟が南アフリカに来て支部の土地家屋を拡張する取決めを設けたのは1959年のことでした。それ以来ずっと,南アフリカと近隣の諸区域の兄弟たちはノア兄弟が再び訪れるのを楽しみにしていました。1970年までにベテル家族は68名で,人手が足りない状態でしたから,再びベテル家族を大きくする時が来ていました。1970年6月号の「王国奉仕」で,全国大会を開くために地域大会を取りやめることが発表された時,ブルックリンから訪問者があるかもしれないという希望が大きくなりました。ところが,11月になって初めて,「ノア兄弟来訪の予定!」という発表が「王国奉仕」に掲げられたのです。兄弟たちは大喜びでした。そして,彼らは,1971年1月7-10日に予定された「善意の人々」大会に是が非でも出席しようとしました。

      南アフリカには人種差別があり,あらゆる人種グループはそれぞれの町に住んでいるため,3つの別個の大会を取り決めなければなりませんでした。ヨーロッパ人はミルナー・パーク・ショー・グランド,カラードはカラード地区のユニオン野球場,アフリカ人の兄弟たちは,何十万人ものアフリカ人が住んでいるソウェトの大きな団地にあるモフォロ・パークにそれぞれ集まりました。

      モフォロ・パークはへりに木が立ち並んだだけの公園で設備は何もありません。ですから,アフリカ人の兄弟たちは,ヨーロッパ人の兄弟たち多数に助けられて,3万人分の座席を作り,様々な部門の施設を設けるという大仕事を行ないました。兄弟たちは予想される大勢の人々のために水洗便所さえ設備しました。現場を訪れた市役所の職員は,「わたしたちはあなたがたが行なっておられることに驚いています。あなたがたはふたつの町を建てられたのですからね」,と述べました。彼らは,公園内のズールー語とセソト語の区画のことを言っていました。

      それらの大会で,初めての試みが大成功を収めました。それは,一団の俳優が無言で劇を演じている一方,大会のそれぞれの区画では同時にふたつの言語でせりふを聞くことができるようにするという試みでした。そのためには,幾時間もかけて膨大な仕事をしなければなりませんでした。しかし,兄弟たちは自分の言葉で聞くことの出来た劇の優れた教訓の益を余すところなく得ることができたので,その試みを深く感謝しました。

      ノア兄弟は,自分に割り当てられた幾つかの異なるプログラムに間に合うように,ひとつの会場から別の会場へと忙しく走り回りました。彼が即席で行なった,「これは道です」と題する講演は特に感謝され,兄弟たちは,その講演から受けたすばらしい助言のことを後々まで語っていました。最高潮となったのは公開講演でした。カラードの大会に2,770人,ヨーロッパ人の大会に1万2,252人,アフリカ人の大会に3万3,757人が出席し,出席者の合計は実に4万8,779人でした。当時南アフリカには証人が2万2,000人ほどしかいなかったことを考えると,それはすばらしい出席でした。

      ノア兄弟は出席していた兄弟たちに対する非常に励ましとなる閉会のことばの中で,エランズフォンテインの協会の工場,事務所およびベテル・ホームの拡張計画について述べ,また,伝道者がどのように援助できるかをも説明しました。

      ベテルの家族そのものも,ノア兄弟の支部訪問を大いに感謝しました。ノア兄弟は,家族の成員の大部分が若い人であることに気づきました。そのほとんど全員は献身した両親に育てられた人たちで,ベテルにいることを喜んでいました。

      エランズフォンテインのベテル家族にはかなり年配の人もいます。たとえば,アンドルー・ジャックは今80歳ですが,まだ午前も午後も仕事をしています。かつての「兄弟たちのしもべ」,ガート・ネルは現在71歳になりますが,それでも「ものみの塔」誌をアフリカーンス語に翻訳しています。エランズフォンテインの家族は,一致のうちにともに住み,ともに働く幸福な家族です。アフリカ人の兄弟姉妹14名を含むその成員は非常に多くの異なった背景を持っているにもかかわらず,この家族には愛と一致の温かい精神があります。ベテル・ホームの公用語は英語ですが,家族は多くの言語で人々に奉仕しています。つまり,ズールー語,セソト語,ホサ語,ツワナ語,スペディ語,ドイツ語,ギリシャ語,アフリカーンス語およびポルトガル語です。この家族は,南アフリカの兄弟たちばかりか,コンゴ(キンシャサ,現在のザイール),モザンビーク,ローデシア,ザンビアの兄弟たちにも仕え,彼らのために印刷の仕事をしています。

      ノア兄弟がエランズフォンテインの建物の増築の規模と,増築の業は兄弟たち自身で行なわれるということを知らせると,圧倒的な反応がありました。寄付金が支部事務所にどっと届き始めました,多額の貸付金が寄せられ,協会の支部事務所は兄弟たちにもう十分ですと言わねばなりませんでした。ところが,そのころ南アフリカにはセメントが不足していたので,兄弟たちは必要量のセメントが入手できるかどうかあやぶんでいました。ちょうどその時,インド人の兄弟は電話をかけてきて,セメント500袋(1袋は50㌔入り)を寄付したいので受け取って欲しいと言いました。他の人々は協会が運搬用に使えるトラックを提供し,ひとりの兄弟は必要な化粧レンガを約64㌔遠方から運搬しました。開拓奉仕をしているあるアフリカ人の姉妹は,建築用の砂を売る会社に約15立米の砂の代金を払いました。兄弟たちは王国の業の拡大のために喜んで物質的なものを提供したのです。―箴 3:9,10。

      建築工事の全期間中,十分の資格を備えた建築家,大工,電気技師その他の職人が多数仕事をかって出ました。数か月間だけ来た人もいました。週末には近隣の諸会衆から幾百人もの人々が手伝いました。反響はすばらしく,建設の後半で仕上げに多くの援助が必要だった時,200名もの援助者が働いていたこともありました。兄弟たちは一緒に働くことを心ゆくまで楽しみ,彼ら全員の間に平和と一致の優れた精神が行き渡っていました。

      ほとんどすべてが兄弟たちの手で行なわれました。建築家,機械屋,電気技師・鉛管工,大工などはみな献身した兄弟たちで,彼らは建築工事に携わることを喜んでいました。ですから,外部の会社が行なったことはほとんどありませんでした。また,この建築事業はあらゆる人種の兄弟たちが王国の奉仕にともに働く優れた機会となりました。人種差別の法律があるため,彼らは普通それぞれの地域社会,言語グループに分かれて別個に集まりました。ところが,そこではアフリカ人,カラード,インド人そして白人の兄弟たちが一致してともに働いていました。そうしたことはこの世では決して成し遂げられません。

      兄弟たちの寛大さを示す一例として,1階にコンクリートを流した日のことが挙げられます。実際,手伝いに来た兄弟があまり大勢だったので,ある兄弟たちは別の仕事を割り当てられました。作業は,まだあたりの暗い午前6時から始められ,その日の午後4時30分までに184立米のコンクリートが流し込まれてコンクリート打ちは終わったのです。兄弟たちは幸福でした。また,彼らの間にはすばらしい精神がみなぎり,多くの人が金銭的な寄付をして,提供した労働を補いたいという気持ちを持っていました。1日が終わった時,兄弟たちは,生コンクリートの値段が割引額で3,300ラントであることを知りました。しかし,それらの働き人による寄付を合計したところ,生コンの費用よりも多かったのです! なんと優れた精神ではありませんか!

      いたる所から支持が寄せられました。セントヘレナの二人の年若い姉妹からは次のような心温まる手紙が届きました。「親愛なる兄弟たち,この寄付をどうか建築資金にしてください。サンドラとわたしはナイロンのひもでバッグを作り,それを1ポンドで売りました。わたしは9歳で,サンドラは6歳です。クリスチャン愛とともに」。

      建築作業は,承認された設計図が届いた1971年5月6日に開始されました。10月まで支部の監督は建築を12月末までに終わらせるように兄弟たちを急がせていました。「どうして急ぐのですか」と兄弟たちは尋ねたものです。とはいえ兄弟たちは作業を続け,建設作業は,仕上げとかペンキ塗りその他が残っているだけで,12月末までにほぼ完了しました。1972年1月30日,日曜日までに,その仕事は完成し,ベテルに古くからいる成員の多くがベテル・ホームに新たに増設された17の美しい居室に移りました。工場は今や800平方㍍ほど拡張されました。

      1972年1月31日,月曜日の朝,支部の監督は協会の会長N・H・ノアとブルックリンの工場の監督M・H・ラーソンが南アフリカを訪問するため2,3時間後にジャン・スムッツ飛行場に到着すると発表しました。なんという驚きでしょう。また,それはなんとすばらしい訪問ではありませんか。ふたりの兄弟はその建物を非常に喜びました。2月2日,水曜日の夜に開かれた新しい建物の献堂式に出席した577名の兄弟たちも大きな喜びを味わいました。

      こうした事柄はすべて,エホバの民が喜んで自らをささげたゆえに成し遂げられました。(詩 110:3)今や彼らには,献身した人々によって建てられた美しい建物があります。しかも,民間会社に依頼した場合の費用のおよそ半分の費用で出来たのです。エホバの献身したしもべが示した進んで行なう精神に対し,あらゆる賛美はエホバに帰されますように!

      中立の立場が再び問題となる

      1972年中,若い兄弟たちの中立の立場が南アフリカで激烈な論争となりました,以前エホバの証人は兵役を免除されていましたが,今や,アフリカで政治活動が非常に盛んなため,白人の若い男子すべては軍事教練を受けねばなりませんでした。対象となる若い兄弟たちは,それを拒んだため,一律に90日間の営倉送りになりました。彼らは制服の着用を拒んだので,下着だけでそこに閉じ込められました。ところが,90日の刑期が終わらないうちに,兄弟たちは制服を着るように再び要求され,それを拒絶するとさらに90日間の刑が言い渡されました。それらの若い兄弟たちは無期限に刑務所に入れて置かれるかに見えました。

      時がたつにつれて,その問題はしだいに広く知られるようになり,公正な人々は,国会においてさえ,証人をはっきり弁護しました。やがて法律が変えられ,現在,軍事教練を受けることを拒んだ兄弟は1年間営倉に送られますが,その後は兵役を免除されます。以前中立の立場を取ったクリスチャンは独房に入れられましたが,今は営倉の一区画で互いの世話をするよう割り当てられます。ラグビー場や他の一般のスポーツ競技場で戦争に関係のない仕事をするかたわら,そこで自分たちのために幾らか庭作りをします。

      困っている兄弟たちを援助する

      1972年10月13日,南アフリカの新聞は,マラウィでエホバの証人が迫害され,ザンビアに逃げたことを報道しました。南アフリカ支部は,同国の兄弟たちがどのような形で援助できるかを問い合わせるためにザンビア支部と連絡を取りました。

      ザンビア支部は直ちに調査して南アフリカへ次のような電報を送りました。「マラウィの避難民は雨露をしのぐ住まいを緊急に必要としている。軍隊の余剰テント,太いゲージのポリ塩化ビニルすなわちビニールのシーツ地,防水布かそれに類するものを入手できるか。輸入許可に関する詳細は電話する。関係者は約7,000人」。10月18日付で南アフリカのエホバの証人の諸会衆に救援が求められました。すぐさま寛大な反応があり,全国からお金と衣類が協会支部にどっと寄せられました。

      軍払い下げの防水布1,000枚余が特別売出しで購入されました。その中には,小さな穴があいていたり破れた箇所があったりして,修理しなければならないものも少なくありませんでした。10月21日,22日の週末には,決して忘れることのできない光景が見られました。衣類を積んだ乗用車,箱型貨物自動車,トラックがひっきりなしにベテル・ホームに到着したのです。衣類を男性用,女性用,子供用に仕分けする場所が発送部門に2箇所設けられ,良い品物だけが包装されました。外では,約150人の兄弟姉妹たちが,防水布につぎを当てたり,ほころびを縫ったりしていました。10台以上の工業用ミシンが常時動いていたのです。自発奉仕を申し出る人があまりにも大勢で,多くの人に帰ってもらわねばなりませんでした。どの人も,ザンビアのシンダ・ミサレのキャンプにいる仲間の兄弟たちを援助することにあずかりたいと願っていました。

      進んで提供された2台のトラックが日曜日の朝までに到着しました。その2台の大型トラックは,大きなズックの防水布948枚,衣類を詰めた大箱とかご157個,毛布1,111枚,幾巻きものロープ,ハンマー,のこぎり,シャベルその他を積んで10月23日,月曜日の午後にシンダ・ミサレのキャンプに向けて出発しました。その2台のトラックはほぼ34㌧の荷物を運んだのです。南アフリカの兄弟たちは,マラウィの兄弟たちのために熱烈な祈りをささげることに加え,そうした方法で救援にあずかれたことを非常にうれしく思いました。

      その週の終わりまでにトラックはザンビアに着きました。1台のトラックはルサカで荷物を降ろして南アフリカに戻り,もう1台のトラックは,ザンビアの兄弟たちのそれより小さな5台のトラックと一緒に,ザンビアの兄弟たちから提供された食物や物品,寄付金を受け取ってキャンプに向かいました。兄弟たちが寄付したもの全部を運ぶのにキャンプまで3往復しなければなりませんでした。

      トラックがキャンプに到着し,南アフリカとザンビアの信仰の仲間からおおう物や衣類および食物が送られたというニュースがマラウィの兄弟たちの間に広がると,兄弟たちの目からは喜びの涙がとめどもなく流れました。それこそ,ヨハネ 13章35節にある次のようなイエスのことばが真実であることの明白な証拠でした。「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」。

      間もなく兄弟たちはマラウィに送還されましたが,その後さらに迫害されたため,モザンビークに逃げました。モザンビークのキャンプにいる兄弟たちに衣類と食物を数台のトラックに積んで送るためあらゆる努力が払われましたが,成功しませんでした。そこで南アフリカの兄弟たちは,衣類を10㌔ずつ小包にして郵送し始めました。小包1個の郵送料は4.44ラントでした。16㌧ほどの衣類がそのようにして送られたのです。そればかりか,兄弟たちは,食物を買うお金を寄付することによって難民キャンプにいるマラウィの兄弟たちに真の愛を示しました。南アフリカの大勢の兄弟たち個人からキャンプへ寄せられた寄付のほかに,10万ラント(約4,260万円)がマラウィの救援に使われました。南アフリカの兄弟たちは,モザンビークにいたマラウィの兄弟たちのために援助を差し伸べることができて喜びました。また,彼らはマラウィの兄弟たちに対して引き続き愛ある関心を示しています。

      喜ばしい国際的な出来事

      南アフリカのエホバの証人にとって,1973年は国際大会の開かれる年でした。まず最初,南アフリカから千人ほどの人が,ヨーロッパ,英国およびアメリカでの国際大会に出席するために出かけました。彼らの熱意はヨハネスバーグで自分たちが開く国際大会への熱意を盛り立てる助けになりました。南アフリカは初めて国際大会開催国に加えられ,ヨーロッパや世界の他の土地から大勢の人々がやって来ることが期待されました。

      兄弟たちは3つの別個の大会,すなわち白人のための大会,カラードとインド人のための大会およびアフリカ人のための大会を開くことを計画しました。そして,日曜日の午後のひとつのプログラムの時だけ3つの大会を合同させる計画でした。大会期間中ずっとひとつの合同の大会を開く許可は下りないことを知っていたからです。ところがいろいろな問題にぶつかったのです。

      まず,ヨハネスバーグでアフリカ人の大会を開くことは許可してもらえませんでした。したがって,アフリカ人の大会は5つの都市で開かれることになりました。それはエホバの民にとって敗北どころか祝福でした。というのは,大会に出席できないと思われた多くのアフリカ人の兄弟が,費用のかからない近隣での大会に出席することができたからです。

      しかし,そのほかにも問題がありました。国家に軍事上の問題があったため,内務省はエホバの証人を好意的に見ませんでした。そのため,エホバの証人の大会に出席すると述べた訪問希望者の多くはビザを出してもらえませんでした。その中には,アメリカ支部の監督ミルトン・ヘンシェルと協会の会計秘書であるグラント・スーターも含まれていました。南アフリカの兄弟たちは非常にがっかりしました。

      とはいえ,大会は神の勝利に変わりありませんでした。ヨーロッパから大勢の兄弟たちが観光客として入国し,南アフリカの兄弟たちとのすばらしい交友を楽しみました。ヨハネスバーグ地区のアフリカ人の大会は,同市の東方約32㌔にある都市,ベノニに移されました。1974年1月6日,日曜日,プログラムは午前9時に始まり正午に終わりました。前もってすべての手はずが整えられていて,正午から3時までの間にヨハネスバーグで開かれている2つの大会の出席者と,ベノニの大会の出席者全員は,最後の合同プログラムが開かれるヨハネスバーグのランド・スタジアムに移されました。3つの会場から一箇所,すなわちランド・スタジアムへの円滑な変更ぶりにはみな驚嘆しました。兄弟たちは自動車やバス,あるいは電車を使ってひとつの流れのように続々とランド・スタジアムに集まりました。会場は満員になり,出席者の合計は3万3,408名でした。多くの人は立っていました。

      アフリカ人,カラード,白人の兄弟が一緒になってエホバを崇拝している光景は,そこにいたエホバの証人の目にほんとうに美しく映りました。人種差別などありませんでした。英語を知っている人はどの席でも座ることができましたから,兄弟たちはその機会を利用して他の人種の兄弟たちと一緒に座りました。ズールー語が好きな人はズールー語の区画,セソト語を話す人々はセソト語の区画に座ることができました。アフリカーンス語とポルトガル語の区画もありました。それは全くの“混交”社会であり,だれもが非常に幸福でした。事実,彼らはあまりにも喜びに満ちていたので,拍手をしすぎないようにさせることは困難でした。兄弟たちはかつてそれほどの幸福を経験したことがありませんでした。それで多くの兄弟たちはその機会のことを“忘れ得ぬ”午後と言いました。

      どうしてそうしたことが実現したのですか。神の導きにより,しかもそれと気づかずに,兄弟たちは,国際的な異人種間の集まりのために設けられているヨハネスバーグのひとつのスタジアムを契約したのです。そのプログラムを行なうだけなら許可を得る必要がありませんでした。「神の勝利」大会全部の公開講演に出席した人の合計は5万6,286人で,1,867人がバプテスマを受けました。

      孤立した区域に対する前例のない運動

      1974年は王国の良いたよりの伝道においてこれまでに最良の年になりました。証人たちは,南アフリカの広大な農地とアフリカ人の“故郷”に住んでいる人々のところに行こうと努力しました。そうした土地の中には一度も証言を受けたことのない所がありました。ですから,孤立した区域の運動中,それらの人々すべてに会うために特別の努力がなされました。都市部の諸会衆は,幾百㌔も離れた区域の割当てを喜んで受け入れました。ヨーロッパ人の農家すべてと,農場にあるアフリカ人の部落全部が載っている特別の地図が購入されました。ヨーロッパ人の会衆は,アフリカ人の住人にも証言しながら,すべての農場を網羅しました。アフリカ人がヨーロッパ人の話すことばを理解できない所では,小型のカセット・テープレコーダーを使って,人々が用いている言語による聖書の話を聞かせました。文書を求める人がたいへん多かったので,その運動期間中に堅い表紙の付された書籍のほとんど全部がなくなりました。アフリカ人の会衆は,ヨーロッパ人が入ることを許されていない“故郷”を集中的に奉仕しました。3か月の運動期間中,14万冊の書籍,9万2,000冊を上回る小冊子,および多数の雑誌が配布されました。特別開拓者の幾つかのグループは,その運動中割り当てられた区域内の農場全部を回るために1,400㌔を上回る距離を旅行しました。

      1974奉仕年度の末にはうれしいことに,バプテスマを受けた人がすばらしい新最高数である4,055人,平均伝道者数が14%の増加,そして伝道者の最高数は2万8,397人という報告をすることができました。「王国ニュース」の配布により,業は一段と活発になりました。

      引き続き見られる神の祝福

      王国を伝道する業は確かに着実に前進しています。なんと,1975奉仕年度には6月の初旬までにすでに2,462名がバプテスマを受けました。エランズフォンテイン支部の管轄下にある人々すべてに音信を伝えるため,孤立した区域の運動が1974年度よりも大きな規模で再び計画されました。

      一方,雑誌の生産が増加して,エランズフォンテインの工場やホームおよび事務所は手狭になり,建物をまた拡張しなければなりません。この報告を書いている時点で,増設部の設計図は出来上がりつつあります。計画によれば,食堂,台所,洗たく部門を2倍に広げ,工場を約1,800平方㍍増築し,370平方㍍ほどの新しい事務所を建て,大きな王国会館を増設することになっています。

      兄弟たちは,エホバの祝福を受けていることを示すあらゆる証拠から大きな喜びを味わっています。しかし,彼らは敵からの反対を予期しなければならないことも自覚しています。目下彼らはヨハネスバーグの最高裁判所で扱われている法律事件に忙しく携わっていますが,それは,アフリカ人の学童が宗教的な歌をうたうことや偽りの宗教組織の祈りに参加することをしなくても通学できる権利を擁護するためです。ヨーロッパ人の証人の子弟の多くも,理由は異なりますが放校されています。それは子供たちが軍隊式の行進に参加したり,国旗に敬礼することや国歌をうたうことを拒否するからです。こうした問題がどんな結果になるか,兄弟たちにはわかりませんが,エホバの指導を信頼しつつ,王国の良いたよりの伝道を推し進める決意をしています。

      ジョンストン兄弟が使用した小さな事務所で1910年に発足した,職員ひとりの最初の支部のことを考え,現在の立派なベテル・ホームや,ローデシア,ザンビア,ザイール,ケニア,マラガシーおよびモーリシャスに設立された新しい支部とそれとを比較する時,その大きな違いに全く驚かされます。1924年にブルックリンから送られ,フィリップス兄弟が据え付けた手動給紙の小さな活版印刷機のことを念頭に置きながら,王国の雑誌や他の印刷物を大量に生産している機械設備の整った今の印刷工場の中を歩いてみると,なんという拡大ではありませんか! 1951年当時,別々に住んでいた21名からなる小さなベテル家族が,今では110名の兄弟姉妹の一致した幸福な家族です。なんという発展でしょう! 1931年には,この支部事務所が管轄していた区域全体で伝道者がわずか100名いたにすぎませんが,今日同じ区域に14万人を超す良いたよりの伝道者がいるのですから,兄弟たちはエホバに対する深い感謝の念にあふれています。神が今日行なわれることは,過去における他のご行動と同様にきわめて重要です。兄弟たちは詩篇作者の次のことばをふさわしくも自分たちのことばとすることができます。『これエホバの成したまえる事にしてわれらの目にあやしとする所なり』― 詩 118:23。

      [187ページの写真]

      1952年に建てられた,エランズフォンテインのベテル・ホーム

      [240,241ページの写真]

      南アフリカのエランズフォンテインにある,ものみの塔協会の事務所と印刷工場

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