ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本手話
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔研25.07 101
  • 「戦いはエホバのもの」

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 「戦いはエホバのもの」
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2025
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 両親から受け継いだ宣教への熱い気持ち
  • 世界本部へ
  • 法的な闘いの舞台へ
  • 良い知らせを擁護し,法的権利を得る
  • 全てはエホバのおかげ
  • 先住民コミュニティーでの信教の自由を擁護する
    寄付はどのように使われているか
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2025
塔研25.07 101
フィリップ・ブラムリー

ライフ・ストーリー

「戦いはエホバのもの」

フィリップ・ブラムリー

2010年1月28日,私はフランスの美しい街,ストラスブールにいました。とても寒い日でした。観光に来ていたわけではありません。エホバの証人の権利を擁護する法律チームの一員として,ヨーロッパ人権裁判所に来ていました。裁判の争点になっていたのは,フランス政府がエホバの証人に対して6400万ユーロ(約102億円)ほどの莫大な課税をしたのは妥当かどうか,ということでした。でも,もっと大切なことがありました。エホバの名前,エホバに仕える人たちの評判,フランスでの崇拝の自由が懸かっていました。その日に起きた出来事から,まさに「戦いはエホバのもの」だと感じました。(サム一 17:47)

話は1990年代後半にまでさかのぼります。フランス支部が1993年から1996年の間に受け取った寄付に対して,フランス政府が不当な税金を課しました。国内の裁判所に何度か訴えましたが,敗訴しました。控訴院で敗れた後,政府は支部の銀行口座から450万ユーロ(約7億円)以上を没収しました。私たちは最後の望みをヨーロッパ人権裁判所に託しました。でも,ヨーロッパ人権裁判所は判決を下す前に,まず友好的解決に向けたヒアリングに出席することを求めました。エホバの証人と政府双方の法律チームが,裁判所の書記局(裁判所での行政的・法的業務に関して責任を持つ立場)と話すことになります。

私たちは,書記局が,課税額の一部でも支払って和解するよう提案してくることを予想していました。でも,1ユーロでも支払うなら聖書の教えに反することになります。兄弟姉妹からの寄付は王国の活動をサポートするためのものであって,政府のものではありません。(マタ 22:21)でも私たちは裁判所の意向を尊重して,ヒアリングに出席することにしました。

ヨーロッパ人権裁判所の前で法律チームの兄弟たちと,2010年。

裁判所の格調高い会議室に通され,そこでヒアリングが開かれました。案の定,ヒアリングが始まった途端,書記局の女性はいくらかでも税を払うのはどうかと言ってきました。私たちは,こう言わずにはいられませんでした。「政府がすでに私たちの銀行口座から450万ユーロ以上没収していることはご存じありませんか」。

女性の顔色が変わりました。政府の法律チームがその事実を認めると,彼女は厳しい口調でチームをとがめ,ヒアリングを打ち切りました。エホバは私たちが予想もしなかった方法で流れを変えてくれました。私たちは意外な展開に驚きながらも,意気揚々と部屋を後にしました。

2011年6月30日,ヨーロッパ人権裁判所は全員一致で私たちに有利な判決を下しました。裁判所は課税を無効とし,フランス政府に対して没収した金額に利息を加えて返還するよう命じました。この歴史的な判決のおかげで,フランスのエホバの証人は現在に至るまでエホバを自由に崇拝できています。私たちがとっさにしたあの質問が,ゴリアテの額に命中した石のように,この裁判の勝敗を分けることになりました。私たちが勝てたのはどうしてでしょうか。ダビデがゴリアテに言ったように「戦いはエホバのもの」だからです。(サム一 17:45-47)

でも,勝訴したのはこの時だけではありません。エホバの証人はこれまで強い政治的また宗教的な反対に遭いながらも,70カ国の最高裁判所や幾つかの国際裁判所で1225件もの有利な判決を得てきました。こういう法的な勝利によってエホバの証人の基本的な権利が守られています。宗教団体として活動し,自由に伝道し,愛国的な儀式への参加や輸血を拒む権利です。

それにしても,アメリカにある世界本部の奉仕者の私がヨーロッパの裁判に関わるようになったのはどうしてでしょうか。いきさつをお話しします。

両親から受け継いだ宣教への熱い気持ち

父のジョージと母のルシールはギレアデ第12期の卒業生です。私が生まれた1956年当時は,エチオピアで奉仕していました。私のフィリップという名前は,1世紀の福音伝道者フィリポから来ています。(使徒 21:8)1957年,エチオピアのエホバの証人の活動は政府によって禁止されました。まだ小さかった私ですが,家族みんなで集会や伝道を見つからないようにこっそり行っていたことをよく覚えています。無邪気にとても楽しんでいました。でも,1960年に私たち家族は国外退去になってしまいました。

ネイサン・H・ノア兄弟(左端)がエチオピアのアディスアベバのわが家に来てくれた時,1959年。

アメリカのカンザス州ウィチタに引っ越してからも,両親の宣教への熱い気持ちは変わりませんでした。エホバを深く愛していた両親は,エホバを愛し心を込めて仕えるよう教えてくれました。私にも姉のジュディーにも弟のレスリーにもです。3人はみんなエチオピア生まれでした。私は13歳の時にバプテスマを受けました。その3年後,伝道者がもっと必要とされているペルーのアレキパに家族で引っ越しました。

1974年,私が18歳の時,ペルー支部が私とほかの4人の兄弟たちを特別開拓者に任命しました。私たちは,アンデス山脈のまだ伝道されていなかった区域で奉仕することになりました。そこにはケチュア族やアイマラ族などの先住民も住んでいました。私たちはキャンピングカーに寝泊まりしながら伝道しました。四角い形にちなんで,その車を箱船と呼んでいました。先住民の人たちに,エホバが将来貧困や病気や死をなくしてくれることを聖書から伝えたのを,今でも懐かしく思い出します。(啓 21:3,4)たくさんの人が聖書を学んでエホバの証人になりました。

水の中に入っていくキャンピングカー

「箱船」,1974年

世界本部へ

統治体のアルバート・シュローダー兄弟が1977年にペルーに来た時,ベテル奉仕の申込書を出して世界本部で奉仕するよう,私に勧めてくれました。1977年6月17日に,ブルックリン・ベテルでの奉仕を始め,それから4年間,クリーニング部門やメンテナンス部門で働きました。

結婚式,1979年

1978年6月,ルイジアナ州ニューオーリンズで開かれた国際大会で,エリザベス・アバロンという姉妹と出会いました。私と同じように,エホバを愛する両親に育てられた姉妹で,4年間開拓奉仕をしていました。全時間奉仕をとても大切にしていました。私たちはその後も連絡を取り合い,お互いのことを知るにつれて引かれ合うようになりました。1979年10月20日に結婚し,夫婦でベテル奉仕をするようになりました。

最初の会衆はブルックリン・スペイン語会衆で,兄弟姉妹が温かく迎えてくれました。その後,ほかの3つの会衆でも奉仕しました。いつも優しい仲間が気遣ってくれたので,ベテル奉仕を頑張っていこうという気持ちになりました。また,高齢になっていた私たちの親のサポートを手伝ってくれた友達や家族にも感謝しています。

フィリップとベテル奉仕者たちが会衆の集会で撮った写真

ブルックリン・スペイン語会衆のベテル奉仕者たち,1986年。

法的な闘いの舞台へ

1982年1月に,法律部門で働くように言われ,とても驚きました。3年後,法科大学院に行って弁護士の資格を取るようにと言われました。学校では,アメリカやほかの国々で当たり前になっている基本的自由の多くがエホバの証人の勝訴によって確立されたと学んで,誇らしい気持ちになりました。そういう重要な判例は授業の中で詳しく取り上げられました。

1986年,30歳の時に法律部門の監督になりました。私はまだ若かったですし,どれほど大変な仕事になるかはなんとなく分かっていたので,うれしく感じる反面,責任の重さにのみ込まれそうになりました。

私は1988年に弁護士になりました。でも,そのせいでエホバとの友情が危うくなっていることに気付いていませんでした。高い教育を受けると自己顕示欲が強くなり,人を見下すようになりがちです。そういう私を助けてくれたのは,妻のエリザベスです。妻のおかげで,学校に行く前に持っていたクリスチャンとしての習慣を取り戻せました。時間はかかりましたが,エホバとの絆は元のように強くなっていきました。専門知識を頭に詰め込むことは,人生で一番大切なことではありません。そのことを身をもって知りました。一番大切なのはエホバとの厚い友情です。エホバと仲間をひたむきに愛することです。

良い知らせを擁護し,法的権利を得る

法科大学院を出た後,ベテルの活動を法的にサポートする仕事や,裁判でエホバの証人の権利を擁護する仕事に打ち込むようになりました。ものすごい勢いで成長し変化していくエホバの証人の活動を法律面でサポートできるのは,簡単ではないとはいえ,とてもやりがいがありました。例えば,1990年代初めに,文書に対して寄付を求めるという長年の方針が変更された時には,法律部門がその件を主導するよう依頼されました。無料で聖書文書を提供するというこの調整のおかげで,ベテルの仕事も野外奉仕のやり方もシンプルになり,課税の問題を避けられました。「そんなことをしたら資金が底を突いて伝道活動に支障が出るんじゃないか」という声もありましたが,結果は正反対でした。1990年と比べて,今ではエホバの証人の数は2倍以上になっています。聖書に基づく教材を誰もが無料で手に入れることができます。このような変化やほかのいろいろな調整がうまくいっているのは,ひとえにエホバの力のおかげです。エホバが忠実で思慮深い奴隷を通して,一番いいタイミングでぴったりの指示を出しています。私はそのことをこの目で見てきました。(出 15:2。マタ 24:45)

勝訴は弁護士の腕だけに懸かっているわけではありません。エホバの証人の良い振る舞いが,裁判官や当局者の心を動かすこともよくあります。例えば,こんなことがありました。1998年に,統治体の3人のメンバーと奥さんたちがキューバの大会に出席しました。当局者は兄弟姉妹の親切で敬意のこもった振る舞いを見て,エホバの証人が本当に政治的に中立な立場を取っていることを理解してくれたようです。そういう良い振る舞いには,私たちが法廷で語るどんな言葉よりも説得力がありました。

でも時には,「良い知らせを擁護し,その知らせを広める法的権利を得る」ために,法廷に出なければいけないこともあります。(フィリ 1:7)例えば,ヨーロッパや韓国では長い間,兵役を拒否する権利が認められていませんでした。ヨーロッパでは約1万8000人,韓国では1万9000人以上の兄弟たちが良心的に兵役を拒否したために刑務所に入れられました。

2011年7月7日,「バヤティアン 対 アルメニア」の件で,ヨーロッパ人権裁判所は歴史的な判決を下し,ヨーロッパの国々は代替の市民奉仕を提供することが求められるようになりました。2018年6月28日には,韓国の憲法裁判所も同様の判決を下しました。もし若い兄弟たちが中立の立場を曲げていたとしたら,このような勝利には至らなかったはずです。

本部や世界各地の支部の法律部門は,エホバの証人の活動を法的にサポートするため,熱心に働いています。政府からの反対に遭っている兄弟姉妹を助けられるのは光栄なことです。裁判で勝っても負けても,法廷で闘うことは政府関係者などたくさんの人たちにエホバについて語る機会になっています。(マタ 10:18)裁判官や当局者,メディア,一般の人たちは,私たちが法的書類や法廷での証言に含める聖書の言葉に触れることになります。エホバの証人がどんな人たちで,どれほど聖書の教えを大切にしているかを知って,やがてエホバの証人になった人もいます。

全てはエホバのおかげ

これまで40年にわたって,世界各地の支部と協力して法的な問題を扱ってきました。いろいろな裁判所で何人もの当局者たちの前に立ってきました。本部や支部の法律部門の兄弟姉妹は私にとって尊敬できる大切な仲間です。振り返ると,本当に充実した人生を送ってきたと感じます。

フィリップ・ブラムリーとエリザベス

この45年,順調な時もそうでない時も,エリザベスは私をずっと愛情深く支えてくれました。免疫系の病気を抱えて体力が限られている中でも,そうしてくれていることに心から感謝しています。

自分たちの力で闘えたわけでも,勝訴を勝ち得たわけでもありません。ダビデが言っているように,「エホバ[が]ご自分の民の力」だからです。(詩 28:8)確かに,「戦いはエホバのもの」です。

    日本手話出版物(1993-2025)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本手話
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする