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目ざめよ! 1970
目70 10/22 12–16ページ

大異変,ペルーを襲う

ペルーの「目ざめよ!」通信員

「カヤカイに地震襲い,死者100人」。「サヤン発。地すべりで,18人生き埋め」。「カハタンボで,岩石の下敷きになり,40人死亡」。「ユンガイ全市崩壊」。

これらの見出しのどれ一つをとっても,読者に心痛をもたらすのに十分であろう。しかし,歴史の記録が示すかぎり,西半球に自然のもたらした最悪の災難を告げるニュースが,次から次へと速報されるにつけ,人々は自分の目や耳を疑った。正確な数字がはたして入手できるかどうかは疑問だが,最終的な被害の状態が判明すると,5月31日,日曜の午後ペルーを襲った大地震による死者数は,6万人を上回ることであろう。

全世界のテレビや新聞の見出しに映し出されたり,報道されたりした地震の惨状は,想像を絶するものである。漁港および工業都市として栄えていた,住民10万人を数えるチンボテは,その85%が崩壊した。美しいワイラス渓谷に見え隠れしている,旅行者の宿泊地であるワラス,カラス,ユンガイも廃虚と化した。なかでもユンガイは完全に倒壊し,一面泥沼におおわれている。

首都リマでも,同じ日曜日の午後3時24分に地震があった。さっそく市中の数か所を調べてみたが,家屋の損壊もほとんどなく,死者もわずか3人だったので,市民は,また例のススト(おどかし)程度の地震でよかった,と胸をなでおろした。そして,人工衛星を使って地球全土にテレビ中継された,メキシコにおける国際サッカー試合を見るために再びいすに腰を降ろした。夜が来ると,近隣の北方都市が惨事に見舞われたなどとはつゆ知らず,リマの住民は眠りについた。

チンボテとカスマ

リマが最初にその知らせを受け取ったのは,月曜日の朝,パン・アメリカン高速道路を通って車が市内に到着しはじめてからのことである。首都に最初に報告をもたらした人々の中には,ものみの塔聖書冊子協会の事務所で働くひとりの職員が交じっていた。妻とともに,トルヒヨで友人たちと短い休暇を過ごしての帰途についたところだったのである。彼は地震の模様を次のように語った。

「トルヒヨからチンボテまで快く車を走らせました。リマまでさらに5時間運転しなければならないので,少し休憩し,元気になってから出かけようということに決まりました。穏かなチンボテ湾を見おろす,チミュー・ホテルの前で車を止めました。エンジンがとまったと,思うまもなく,すべての物が急激に震動しはじめました。自動車は左右前後にすべりまわり,3階建ての壮大な構えを持つチミューホテルは,まるではねあげられたかのような観を呈し,建物がねじり曲げられました。窓ガラスは割れ,地面にこなごなに砕けて散っていました。わたしは,駐車場のまん中に車をバックさせ,それから,車でその場所を抜け出ました。

「穏かであったチンボテ湾には,巨大な波のかたまりが押し寄せ,海岸は沈下し,沖に吸い取られていきました。道路には大きなき裂が生じ,1台の車の前車輪が,突然口をあけた大きな割れ目にのみ込まれました。町の中心部を振り返って見ると,灰色のほこりが高さ約30メートルの雲となって舞い上がり,全市の上空をおおっていました。

「周囲を見まわすと,市全体ががれきと化しており,心痛を訴える,気の狂ったような叫び声が,耳をつんざきました。取り乱した人々が,愛する者を尋ねて,名前を呼んだり聞き耳をたてたりしながら,破壊物の間をあちらこちらと捜しまわっていました。ひとりの父親は,あてどもなく道をかけおりて行きました。その震える両腕には,死体となった彼の幼いむすこがだかれていました。多くの人は驚きのあまり,まだ何をしてよいかわからず,路上にただぽつんと突っ立ったまま,周囲をがてんのいかないまなざしでながめやっていました。

「地震は45秒間続いただけです。地震でなければ,これはまことに短い時間です。しかし,そのつかのまの45秒が,長く,いや無窮にさえ思われました。そしてその間に,何十万という人々の生活が,驚嘆するほど激変したのです。

「最初の恐怖感が去った後に,わたしたちの思いに浮かんだのは,『チンボテにいる,わたしたちのクリスチャン兄弟であるエホバの証人は無事だろうか』ということでした。毎日曜に開かれる集会の途中だったと思われます。そこで,わたしたちは,もよりの御国会館に向かいました。チンボテには三つの会衆があります。

「わずか5分間で御国会館に到着しました。会館は倒壊していましたが,会衆の人たちは全員無事で,死んだ人はひとりもいませんでした。会館の片方には,鉄筋コンクリートの柱でささえられた鋼鉄の大ばりが宙に浮いたように取り残されていました。屋根は両側ともへこみましたが,へこみぐあいがひどくなかったので,会衆全員がその下をくぐって安全にはい出ることができたのです。数人が軽い傷を負っただけですみました。

「まもなく,別の人がやってきて,彼らの御国会館の屋根は落ちなかったと報告しました。骨折をした人が少数出ましたが,重傷を負ったのは,ひとりの少女だけだということでした。3番目の会衆は地震のあった時,集会を開いていませんでしたので,彼らの状態についてはなんの情報も得られませんでした。

「チンボテのエホバの証人は全員家と物を失いました。残されたものと言えば,着ていた服だけです。後になってわかったことですが,チンボテで死の犠牲となった人は,ひとりの証人と,もうひとりの証人の妻だけでした。

「電話は完全に不通状態だったので,トルヒヨに引き返して,そこからペルーのものみの塔事務所に電話で連絡することに決めました。地震がトルヒヨをもひどく襲ったことは知らなかったのです。チンボテの北方にある山道にまで行ったところ,そこは大きな岩にふさがれていて,それ以上前進することができません。そこで,方向を転じて,リマに車を走らせました。

「チンボテの南方に位置する最初の町はカスマで,エホバの証人たちが集会を開いていた御国会館を捜し出すのに約30分かかりました。そこにはだれもいませんでしたが,後ほど,会館の一方の壁がくずれ落ち,その下敷きとなったひとりの男の人が重傷を負い,その夜,死んだということを聞かされました。

「リマに向かって,再び車を走らせるころには,夜になっていました。遠くまで行かないうちに道路が大きな石ころでふさがれているのに出くわしました。しかし,わたしたちの乗っていたのは小型の車だったので,なんとかそこを通り抜けることができました。しかし,カスマ橋に着いたところ,橋の取り付きにあるマカダム道路が沈下したため,約60センチ以上も地面が隆起しており,そこを通り抜けることはできませんでした。そこで逆もどりし,落石の心配のない平たん地で長い夜を明かしました。しかし,眠るどころではありません。夜じゅう,不気味な音を伴なう震動が,繰り返しわたしたちの自動車をゆさぶりました。

「月曜日の明けがたになってやっと橋が通れるようになり,そこから4時間車を走らせてリマに着きました」。

救援作業が組織される

電話を持っている,リマのエホバの証人全員に,直ちに電話連絡が取られた。食料・衣類・毛布・薬などを集めるよう,また,そうするよう他の証人にも伝えることが指示され,その指示に,証人たちは直ちに答えて愛を示した。その夜,リマのものみの塔事務所のロビーには,衣類の包みや食料を詰めた箱が山積みされ,さまざまな額の寄付金が送られた。

証人たちがとても寛大に答え応じたため,火曜日の夜,すなわち,地震の報告を受け取ってからわずか36時間後に,10トン級のトラックを含む5台の車からなる一行が,救援物資を携え,カスマとチンボテに向かってリマを出発した。救援物資の中には,毛布・衣類・食料・1,000リットル以上の飲料水,その他,台所や食堂用品とテント用具などが含まれていた。ものみの塔の一行は,被災地に物資を携えて乗り込んだ最初の人々の中にはいっていた。

カスマでトラック1台分の物資を降ろした。カスマのエホバの証人たちは全員,郊外にあるひとりの証人の家に集まっていた。そこは災害を全く免れたのである。

チンボテのエホバの証人は,多大の損害をこうむったにもかかわらずとても元気であった。地震の後2日間を要して,御国会館から破壊物の破片を取り除き,会館の周囲にござを縫い合わせた壁を設けた。物資はその安全な場所に,分配できるようになるまで保管されることになった。

チンボテの他の二つの会衆は,市を見おろす丘の上にテントを張った。救援隊がそこに到着した時には,小規模な都市ができあがっているかっこうであった。きちんと秩序正しく,調和のとれた運営がなされていた。いろいろな仕事が割り当てられた。午前中,エホバの証人たちは,周囲の倒壊した家屋をかたづけ,午後は被災者の家々を尋ね,聖書から慰めの音信を伝えた。子どもたちのために学校が設けられていた。

証人たちはやがて,3日ぶりに暖かい食事を取ることができ,その夜は,届けられた服を着込み,毛布にくるまって眠った。御国会館の立っていた場所をかたづけたあと,会衆は予定されていた集会を欠かさずに開いた。これらエホバの証人は,まず御国会館の整理をし,自分の家の世話はあと回しにしたのである。

ワイラス渓谷

しかし,ワラス市に関しては依然,何か不幸なことが起きたのではないかという心配が絶えなかった。ワラスの会衆からはなんの連絡もないからである。同様に,エホバの証人の孤立した群れのある,ワラス北方のカラスからも音信がとだえている。8日間が過ぎてもなお,ワイラス渓谷にいる証人たちからはひと言も言ってこない。その地における地震の被害がいかに大きかったかを報じるニュースがはいってくるたびにわたしたちは兄弟たちの安否を気づかった。

ワラスとカラスに至る回がりくねった道は,アンデス山脈の高地に向かってさまざまに折れ曲がっており,条件が最良の時でさえ決して通りやすい所とは言えない。その道をできるだけ速く,再び通れるようにするため,作業に励む軍隊付属の道路技師たちの仕事はなみなみならぬものであった。

飛行機によって,必要な物資が被災地に投下されはしたものの,それには危険が伴い,ばく大な費用がかかり,その上,予算に限度があるため,被災地一帯の道路の復旧がぜひとも必要であった。すでにヘリコプター4機と飛行機が1機墜落し,8人が死んだ。道路が再び開通されしだい,何百トンもの救援物資が被災地に送り込まれることになる。

道路工夫たちは,超人間的とも言えるスピードで,四六時中作業に徹した。エホバの証人が送った救援隊の一行は,まだ通行禁止の解かれない道路にぶつかって折り返さなくてはならず,救援物資を積んだままカスマとチンボテに到着した。6月8日,月曜,道路が通れるようになった,との公式通知がやっと届いた。別の救援隊が組織され,道路工夫たちの二,三キロ後方で待機している,最初の15台の自動車群に加わり,道路の一画が通れるようになるたびに,少しずつ前進した。

救援隊のひとりはこう語った。「道路が通れるようになるのを待つ間,ひどい寒さの中で少しでも眠ろうと,落ち着かないまま努めてみました。でも,その間にも,やはり眠ろうとしている,仲間の証人やその子どもたちのことを思い起こしていました。屋根もなく,この凍りつくような寒さを防ぐにも,毛布も満足になければ,着るものだって十分にないはずです」。

ついに道が完全に通行可能となり,救援物資を積んだ自動車は,ほこりを上げながら,空気の希薄な高地へと登っていった。

捜索

朝日が暖かい光を投じはじめたころ,自動車は,かつてワラスのあった渓谷に向かって,曲がりくねった道をようやく降りて行くところであった。途中の村々が完全に破壊されているのを見て,車を運転している人たちは深刻な思いに沈んでいた。こんなにひどいのだから,全員とはいかなくても,証人の中で犠牲者とならなかった人がいないはずはない,と。

わたしたちの一行は,他のトラックの列を離れ,証人たちを捜す仕事に取りかかった。市は廃虚同然であった。周囲一帯に,被災者を収容するキャンプが張りめぐらされていた。うわさやちょっとした手がかりをたよりに歩きまわったが,なんの情報もつかめない。

一行の中のふたりが携帯用無線電話器で連絡を取りながら,キャンプの中をテントや小屋,それに仮り小屋と,尋ねてまわった。日没時に,ふたりは別々の人から聞いたことばをたよりに,ほとんど同時に,エホバの証人の集合しているキャンプ地にたどりついた。みんな互いに抱き合いながら,喜びの涙がほおを伝わるのを感じた。エホバの証人全員とその家族,合計約60人はすべて健在であった。

どのようにして彼らが生き残れたかが少しずつわかってきた。空地に駆け出して,ことなきを得た人,戸口の所に避難したために助かった人などがいた。戸口の部分は建物の中で,一番倒れにくい箇所なのである。危機一髪というところで助かった人が多くいた。

ひとりのエホバの証人は,幼いむすこが2枚の厚いアビードれんがべいの下敷きになったために,必死でがれきを掘り起こして救出せねばならなかった。ほこりと砂で息が詰まりそうになりながらも,少年は思いを平静に保ち,自分の顔や頭の周辺から父が破壊物の破片を取り除くまで,呼吸の回数を制限した。少年はあご骨にひびがはいっただけで助かった。

11歳になるひとりの証人の娘は,地震の起こる前に夕食用のパンを買うため,自転車で出かけていた。彼女の家は,最もひどい打撃を受けた区域のまん中に位置しており,地震が起きた時彼女の母親は2階にいたが,戸口の下をくぐってのがれでた。その際中に,家の残りの部分が彼女の周囲一帯にくずれ落ちた。少女の捜索が開始された。地震があってから2時間後に,彼女のおじが,路上に散らばった石片の間に幾つかのパンがころがっている場所に出くわした。それに続いて,ずたずたになった自転車の一部が見つかり,そして,その少し先のほうに,捜していた少女が,大きいアビードれんがと,屋根に敷いたタイルの下に横たわっていた。彼女は腕,足また骨盤に多くの骨折を生じ,リマの病院に入院しているが,順調に回復している。

完全な荒廃

これと反対に不運にあった人は万に上った。公式に発表された推定によると,カラスの狭い道路には,いまだに多くの人々が,何トンという重さの破壊物の下敷きになっているという。

最初に地震が感じられた際,幾千人もの人が,安全を求め,空地を目がけてわれ勝ちに飛び出したが,自分の家の下敷きになって命を失ってしまった。

道路に積み重なったがれきの山は,以前2階があった高さにまで達したため,道路がどこを走っていたかを見つけるのは容易なことではない。

渓谷のさらに下方からの報告によると,その地方の破壊の程度は,もっとすさまじく,徹底的なものである。ワスカラン山の北側の巨大な岩のかたまりがヤンガヌコ湖に落ちた模様で,ワイラス渓谷の下方に通ずる峡谷にその湖の水があふれ出した。そのため激流が泥や石,それに氷を運びながらユンガー市に流れくだり,その近くの町であるランライルカとともにユンガイは水中に没し,2万人の命が奪われた。ユンガイ市で現在見えるものと言えば,4本の高い松の木の頂上だけである。それらは,かつて“プラザ・デ・アルマス”広場を見おろしていたのである。恐ろしい地震を生き延びた人がいたとしても,わずか10分後に襲った大水のために命を失ったことであろう。

カラス市は,この恐ろしいなだれが市の境界の少し手前で止まったため,徹底的な崩壊を免れた。市の道路は依然通行が不可能だが,ようやくのことカラスのエホバの証人から伝言が届いた。みんな無事である,というのである。

約5万5,000平方キロに及ぶ地域が大異変に襲われたのだが,荒廃のすさまじさが明らかになってきた。250に上る市町村と部落が,跡形もなく崩壊し,家を失った人の数は,80万から100万に上る。エホバの証人は幸いであったというほかはない。最もひどい被災地に家や仕事を持っていた証人の数は,約400人だったが,死んだ人はわずか3人で,けがをした人も非常に少なかった。

復旧作業

さて,負傷者の看護,死者の埋葬,あとに残された数百人の孤児のために家を捜し,荒れはてた都市を再興するという膨大な仕事が残されている。しかし,それは成し遂げられるとの自信が感じられる。

今世紀にはいってからだけでも,ペルーには大地震が12もあった。そして,1914年以来,地上の他の多くの地方でも同様に大地震があり,その惨事のたびに,数百人から2万人近い死者が出ている。エホバの証人は,そうした異変から,今が現代の事物の体制の終わりであるとの,さらに確かな証拠を得ている。なぜなら,イエス・キリストは特に,『いたるところに起こる地震』が,「事物の体制の終局」を特徴づけるであろう,と話されたからである。―マタイ 24:3,7,新。

地震のり災者が立ち直るのを援助するために,全世界から救援の手が差し伸べられた。ニューヨークのエホバの証人は,10トン以上もの衣類をボール箱に詰め,分配しやすいように指示し,6月初旬ペルーに寄付として送った。そうした援助のおかげで,ペルーの人々は,歴史の記録が示すかぎり,西半球に自然のもたらした最悪の災害から立ち上がることができた。

[14ページの写真]

地震のあとエホバの証人は,彼らの催す大会の時と同じように,小規模な都市を設けて生活した

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