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  • 小学校三年生の少女の,信仰のためのりっぱな戦い
  • 目ざめよ! 1971
  • 副見出し
  • 「はじめに
  • 「神よりえらい方はいますか?
  • 「神はほんとうにいますか?
  • 「神がわたしたち人間にやくそくをして下さった。それはなにか?
  • 「わたしたちのそせんに神がして下さったこと
目ざめよ! 1971
目71 1/8 16–18ページ

小学校三年生の少女の,信仰のためのりっぱな戦い

養母の手で育てられている,小学校3年(9歳)の日本人の少女,真紀子を紹介しましょう。学校の先生は真紀子をたいへんすぐれた生徒と評しています。エホバの証人の開拓奉仕者がその家を訪問したとき,母親は,自分は聖書を学びたいと思わないが,真紀子が学ぶのは良いことだ,と述べたので,開拓者は,「失楽園から復楽園まで」と題する本を用いて,真紀子と聖書研究を始めました。

しかし,早くも2週間目の研究ののち,母親は真紀子の聖書研究に激しく反対し,その聖書文書を取り上げ,開拓者のそれ以後の訪問を断わりました。その処置に真紀子が反対したところ,母親は屋根裏べやのような真紀子のへやに彼女を1日ほど監禁し,入口の戸をくぎで打ちつけ,用便のためのバケツを備えたほかは,食べ物も与えませんでした。そのあいだ,真紀子は,空腹のつらさを思い知らされました。でも,真紀子はその時,マタイ伝 4章4節や神は人を耐えしのぶことのできない試みに合わせることはない,という聖句を思いめぐらしながら,祈りつづけていました。

しかし,聖書に対する真紀子の関心はいっそう深められました。しばらくのちに,エホバの証人と再び連絡を取り,聖書研究を続ける道を見いだし,その地方のエホバの証人のグループの聖書研究の集会にさえ出席し,聖書の貴重な音信に関する知識を深めました。家で聖書を勉強しようにも,聖書文書は1冊もありませんでしたから,真紀子は,自分の学んだ事がらをノートにつづっては,復習を続けました。これが真紀子の個人的な聖書研究の方法となったのです。

聖書を得た真紀子はたいへん喜び,学校の休み時間に他の子どもたちがスポーツその他をして遊ぶ時でも,静かな所に行っては聖書を読んでいました。聖書に対するその深い関心のほどに気づいた担任の先生は,遊び時間をたいへん有効に用いたことで,真紀子をほめました。しかし,養母は真紀子の聖書を見つけて取り上げ,すんでのところで破りそうになりました。でも,真紀子は記憶力のすぐれた明せきな思考力と感受性に富む心臓の持ち主なので,開拓者と行なっている個人的な聖書研究の際,じっと耳を傾けて話を聞き,また,くふうして集会に出席しては,むさぼるように聖書の真理を吸収しています。また,家では,自分が学んだ良い事がらを思いめぐらしつつ,それをノートに書きつづるのです。エホバの証人の日本の支部の監督が,真紀子の住んでいる地方を訪れて,特別の集会が設けられた時,真紀子はその集まりに出席する許しを得られませんでしたが,美しい1箱の色鉛筆と,暖かいあいさつのことばを添えて,彼女のノートを送ってよこしました。その色鉛筆は,東京の支部事務所にある区域の地図にしるしを記入するのに用いられています。

この9歳の少女が,しかも迫害の中で何を書きつづったかを知りたいと思われませんか。そのノートを他の人に見せてもらえれば,うれしく思います,と真紀子は伝えてきました。その表紙には,「神と王国について」という表題が付され,マルコ伝 9章43節(新)が次のように引用されています。「もし,あなたの手があなたをつまずかせるようなことがあるなら,それをきりとりなさい。りょう手があってゲヘナに,けすことのできない火におちいるよりも,あなたは,かたわになって命にはいるほうがすぐれている」。また,真紀子は,「神のこと」「王国のこと」という副題をつけています。最初の文章は次のとおりです。

「はじめに

わたしがこの本をかきだしたわけは口ではなかなかいいあらわしきれません。でも,この『神と王国について』をよんで下されば,きっとわかってもらえるかもしれません。でもこの本はわたしが作ったのではありません。かいたのはこのわたしだけど。それはせい書と同じです。せい書は人間がかいたでしょう。でもせい書をかかせたのはわたしたちの神エホバです。だからこの本も真紀子という人間がかいて,かかせたのはエホバです。だからちょっとでもやくにたつことがあるかもしれません。じまんをしているのじゃないのですよ。そのことはいいとして,早くこの本を見て下さい。ちょっとでもやくにたつかもしれませんよ」。

真紀子は彼女の創造者,エホバ神に対する深い愛を自分の心臓のうちにつちかってきました。このことはそのノートの第二の文章に次のように現われています。

「神よりえらい方はいますか?

『神よりえらい方はいません!』と,わたしはじしんありげにいいます。なぜならばちゃんとしょうこがあるからです。そのしょうこはというと『人間の中で山や森林をつくった人はだれですか。人間じゃなくてもどうぶつでも生きているのならだれでもいいですよ。しってるのならつれてきて下さい。』といわれてあなたは『はい,つれてきます。』と,わかりもしないのにいいますか。いわないでしょう。ではいったいだれが作ったのでしょう。それはエホバです。わたしたちの神エホバです。エホバ神がお作りになったのです。ありがとうエホバ神」。

年配のエホバの証人の多くの場合と同様,真紀子も,今日の地上の人びとに見られる,無神論的なものの見方を気づかっています。真紀子は神の存在を信じてやまない少女で,次の第三の文章が示すように,この点に関するすぐれた論議を展開できます。

「神はほんとうにいますか?

『神はほんとうにいます』。とわたしはいいますが多くの人はしんじません。しんじていない人に『神がいないのならなぜ人間が生まれてきたの』とたずねてごらんなさい。その人は『サルから生まれた。』というかもしれません。その時は『じゃあサルはどこから生まれたの。』と,その人は『ちがうどうぶつから生まれた。』というでしょう。でもそんなことをくりかえしているうちにいうことがなくなります。その時はこうたずねてごらんなさい。『さい後のどうぶつはだれから生まれたの。』と,その人はすぐに答えられないでしょう。あなたはその時『どうして答えられないのですか。』と聞いてごらんなさい。そしてあなたは一人だけではなくたくさんの人にきいて下さい。さい後のところで答えられる人はいないでしょう。そのことでもわかるように神はほんとうにいます。その神のお名まえはエホバ神です。そうです,わたしたちの神,エホバ神なのです」。

それから,真紀子は,「楽園」の本を用いた聖書研究を通して学んだ,聖書の数々のすぐれた真理を,記憶をたどりながらまとめています。次のたいせつな主題のもとにしるされた,すばらしい要約をお読みください。

「神がわたしたち人間にやくそくをして下さった。それはなにか?

神エホバがわたしたちにすばらしいおやくそくをおこなって下さいました。それはどんなことですか? それはわたしたち人間がのぞむことです。これをいえばだいたいのことはわかりますね。ではわたしが神エホバがおやくそくをして下さったことをだいたいいいます。

一, 死がなくなる。

一, びょう気がなくなる。

一, うえがなくなる。

一, ふじゆうがなくなる。

一, 動物どうしでなかよくなる。

一, 人間どうしもなかよくなる。

と,いうことです。あなたは何がくると思いますか。それはエホバ神がうしなわれた楽園をまたふっかつさせて下さるのです。しかも,その楽園は二どとうしなわれぬ楽園なのです。なんとすばらしいことではありませんか。エホバ神がつたないうつわのわたしたちにチャンスをあたえて下さるなんて。なんとすばらしいことではありませんか。あなたもこんなすばらしいところですんで見たいと思いませんか。思うでしょう。だったら目ざめなくっちゃ。さあ,いっしょにせい書のべんきょうをはげまなくっちゃ! えいえんのいのちをもたらされるために!」

真紀子のノートの最後の文章は未完成のままですが,次のように書かれています。

「わたしたちのそせんに神がして下さったこと

神エホバはわたくしたちのそせんにいろいろなことをして下さいました。そのそせんでわたしがしってる人の名まえをいいます。アベル,ノア,ダビデ,サムエル」

この最後の文が,エホバ神のしもべであるダビデとサムエルおよび他のふたりの名前で終わっているのは,いかにもふさわしいことです。それらのしもべたちは,ごく幼い時から強い信仰を築き,多年にわたる神からの試練を通して信仰を完成しつづけた人びとなのです。ダビデとサムエルの神が真紀子をも力づけてくださり,真紀子が今までにもまして,迫害に打ち勝って,楽園の地で永遠の命を見いだす,まことの神のそれら忠実な証人のひとりに数えられるよう,わたしたちは熱心に祈ります。

真紀子のノートの裏面には,新世界訳に基づく七つの聖句が記入されています。そうした聖句を思いめぐらすことによって,真紀子にかぎらず,他の多くの人びとも,忠誠を保つ人となるよう助けられるでしょう。それらの聖句を次に掲げます。

「このねじけた世代からすくわれなさい。」(使行 2:40)

「あなたのお名前が清められますように。」(マタイ 6:9)

「それゆえ,いって,すべての国の人々を弟子とし,父と子とせいれいとの名によってかれらにバプテスマをほどこし……なさい。」(マタイ 28:19)

「『あなたがたはわたしの証人で……ある』とエホバは言われる。」(イザヤ 43:12)

「平和を好む者はこうふくである。かれらは『神の子たち』とよばれるからである。」(マタイ 5:9)

「あいとじゅうじゅんによりエホバをわすれていないことをしめす。」(申命 25:19)

「かれらはエホバによって教えられるであろう。」(ヨハネ 6:45)

この幼い少女が屋根裏べやにひとりすわって,これらの聖句を思いめぐらし,自分の学んだすばらしい事がらをノートにつづる様子を思い浮かべることができますか。

しかし今や,事態は新たな発展を見せています。真紀子の母親は,真紀子の取った忠実な立場に感銘を受け,ふたりの間のみぞはせばまりました。そして,母親は親切にも,真紀子が再び開拓奉仕者と公に研究することはもとより,その地方のエホバの証人の群れの集会に出席することをも許しました。小学校3年生の少女が今や喜びにあふれているさまを,読者もきっと想像できるに違いありません。わたしたちは,厳しく反対したその養母が,使徒パウロのように回心し,真紀子が学んだ良い事がらを喜ぶようになることを願ってやみません。―テモテ前 6:12。

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