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目ざめよ! 1972
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「あなたのみことばは真理です」

コンピューターは聖書学者を助けることができるか

現在コンピューターは,商工業に関係した多くの問題を解決しています。聖書学者がもつ問題も解決できますか。それは問題の性質によります。

1950年代の初め,「改訂標準訳」の発行者は,その新しい訳の大用語索引の作成を希望し,その仕事をエリソン博士に委任しました。エリソン博士は,コンピューターを使い数年でそれを成し遂げました。数年といえば,19世紀中にストロング博士が(欽定訳の)「聖書大用語索引」の作成に用した30年のほんの一部分です。

しかしそのような仕事にコンピューターを用いることで満足せず,聖書のどの本をだれが書いたかを,文体をもとにして,コンピューターで証明しようとする人たちがいます。1967年のこと,スコットランドのある牧師は,コンピューターが次のことを証明したと主張しました。つまり,使徒パウロは普通に彼の作とされている14の本のうち五つしか書いていない,あとは他の者によって書かれた,というわけです。

そしてもっと最近になってからは,1969年の9月に,ドイツの一学者が,英国のオックスフォードで開かれた第4回国際新約聖書研究会議で,福音書の「禍害」のくだりは,友人や弟子たちよりもむしろイエスの反対者に対して言われたものであることを,コンピューターの助けによって認めることができたと述べました。また彼は一冊の本を著わし,その中で,だれがどの本を書いたかコンピューターを使って知ることができると主張しています。こうした主張はどうですか。

まず最初に注目すべきことは,イエスの話された「禍害」のくだりが彼の友人や弟子たちに言われたのではないことは,なにもコンピューターを使わなくてもわかるということです。友人や弟子たちに話しながら,どうして「禍害なるかな,偽善なる学者,パリサイ人よ」ということばが使えたでしょうか。―マタイ 23:13-33。

では,だれがどの本を書いたかを,文体を基礎にして,コンピューターで示すことができるという例のスコットランドとドイツの学者たちの主張は正しいでしょうか。正しくありません。なぜですか。エール大学の言語学の教授S・M・ラム博士のことばのとおりだからです。「コンピューターはそう明でもなんでもない。むしろたいへんな愚か者である。しかも実際にはそれが,その盲目的愚鈍さが,コンピューターの大きな価値のひとつなのである」。同博士はコンピューターを,「ただ猛烈なスピードと正確さをもつだけの」「指示服従機械」と呼んでいます。

コンピューターの「愚鈍さ」を示す一つの例は,翻訳能力がないことです。「時間は矢のように飛ぶ」をコンピューターにロシア語に翻訳させたらどうなるでしょうか。「時間は矢を食べるように飛ぶ」となって出てきました。なぜかというと,ことばにはひとつ以上の意味,またはあやがあり,また完全な同意語の外国語がいつも容易に得られるとは限らないからです。それにひとつの単語が,他の国々では種々の意味をもっているかもしれません。アメリカとフランスでは「ビリオン」は10億です。ところが英国とドイツでは兆です。コンピューターはこの2種類のビリオンを区別することはできないでしょう。

同様に,ことわざも,直訳したなら真意は大部分失われますが,コンピューターはそのようにしか訳せません。たとえば,「捕えている1羽の鳥はまだやぶの中にいる鳥の2羽の価値がある」とドイツ語に直訳するなら,意味はかなり弱いものになるでしょう。ドイツ人ならこれを,「捕えている1羽のスズメは,屋根の上にいる1羽のハトよりもましである」というふうに言うでしょう。

ですから,文体によって作者を確認するという問題になると,コンピューターは同様の克服不可能な障害に直面します。コンピューターが,文の長さ,特定の語の出てくる回数,文がどのようにはじまり,どのように終わるかなどをリストするのに,時間を節約できるのは事実です。しかしコンピューターは,「著者がどのように文を構成しているか,どこに動詞を置いているか,名詞に意味の深い形容詞を付しているか,それとも装飾のためだけに形容詞を付しているか,これらの形容詞を名詞の前に付しているかまたはあとに付しているか……どんな種類の隠喩を用い,それをどのように展開しているかどんな領域から比喩をとっているか,底本を用いているかどうか,どの程度まで,そしてもし用いているならそれをどのように改造しているか等々」の文学特有の問題を扱うことができません。「ジャーナル・オブ・セオロジカル・スタディ」,1970年10月号。

しかしたとえ文の長さ,特定の語の出てくるひん度などの特色がコンピューターでわかるにしても,それは聖書の本の記述者を知るうえにおいて必ずしも価値があるとはいえません。なぜなら,聖書が書かれたときには句読点がなかったからです。それは現存する聖書の最古の写本にも見られません。

事実,用語索引にかんしてコンピューターを正しく用いたエリソン博士は,パウロの書いたものを疑問視した例のスコットランド人牧師の用いた方法の弱点を,明らかにしています。同博士によると,そういう方法を用いるなら,そのスコットランド人牧師の書いた本さえ,数人の異なる著者によって書かれたように見えるのです。彼の書いたひとつの記事の中にさえ,穏健なものから荒々しいものまで,文体の異なるところがいく箇所もあるのです。エリソン博士はさらに,そういうコンピューターの用い方をすれば,ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」は5人の作家によって書かれ,同じくジェームス・ジョイスの「若き日の芸術家の肖像」は,その5人の作家のうちのだれによっても書かれていないことを“証明”できると述べています。

本文批評の分野の別の権威ドム・B・フィシャーがうまく指摘しているとおり,コンピューターが一つのプロジェクトを生み出したからといって,それはその結果が科学的であるとか,その結論が正しいことを示すものではありません。それはペンや鉛筆よりもタイプライターで書かれた記事のほうが権威があると言えないのと同じです。何が出てくるかは,コーピューターにかけられるもの,つまりプログラムに左右されます。それは人が証明しようとしている事柄と関係があるかもしれず,またないかもしれません。エリソン博士によると,文体にもとづいて著者を割り出すためにコンピューターを使うことは『支持できないことで,それはコンピューターの乱用,原作者に対する無礼な行為であり』,「名を売るために」行なわれたことは明らかです。

コンピューターで聖書の本の記述者を知ろうとすると,さらにむずかしい問題に直面します。なぜですか。聖書の本は神の霊感のもとに書かれたからです。そして神の聖霊が,ひとりの人間に,時を違えてどのように影響するかだれに判断できるでしょうか。たとえば,黙示録に見られる使徒ヨハネの文体は,ヨハネの福音書や書簡のそれとはかなり違っています。―ペテロ後 2:21。

そのうえに,使徒パウロが書いたとされている14通の書簡については,13通までが,おのおの1回から3回,パウロが筆者であることを述べています。聖書を否定しようとした例のスコットランド人牧師と,同じ目的をもって骨を折った他の人々は,コンピューターでそれをしようとして失敗しました。その結果は彼らが賢明でないことを明らかにしました。それは次のように預言されていたとおりでした。「智恵ある者は辱しめら……る,視よ彼等エホバの言を棄たり彼ら何の智恵あらんや」― エレミヤ 8:9。

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