『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』
「マタイによる書」の内容(つづき)
23 イエスは離婚と命を得る道とについてどんなことを説明しますか。
23 イエスの宣教活動の最後の日々(マタイ 19:1–22:46)。書士やパリサイ人がイエスの宣教活動に対して怒りをつのらせるにつれ,できごとのテンポは速まり,緊張は高まります。彼らは,離婚に関する問題でイエスを誤らせようとしてやって来ますが,失敗します。イエスは,淫行および姦淫だけが離婚を許す聖書的な根拠となることを示します。富んだ若者がイエスのもとに来て永遠の命を得る道について尋ねますが,自分の持つ物をすべて売ってイエスの追随者とならねばならないことを知ると,悲嘆して去って行きます。働き人と一デナリに関する例えののち,イエスは再び自分の死と復活について語り,『人の子は,仕えてもらうためにではなく,むしろ仕え,かつ自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来た』と述べます。―20:28。
24 人間としての生涯の最後の一週間になると,イエスは宗教上の敵対者たちからのどんなものに遭遇しますか。イエスは彼らの問いをどのように扱いますか。
24 今やわたしたちは,イエスの人間としての生涯の最後の一週間を迎えました。イエスは,『ろばの子に乗った王』としてエルサレムに凱旋入城をします。(21:4,5)ついでイエスは,神殿から両替人その他の不当利得者を除いて神殿を清めますが,彼に敵する者たちは,「収税人や娼婦たちがあなたがたより先に神の王国にはいりつつある」とのことばを聞いて,その憎しみを深くします。(21:31)ぶどう園や婚宴に関するイエスの適切な例えは問題の核心を突きます。またイエスは,税金に関するパリサイ人の問いに巧みに答え,「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」と語ります。(22:21)また,サドカイ人たちのたくらみのある質問をも撃退して,復活の希望をしっかりと守ります。パリサイ人が再びやって来て律法に関して尋ねますが,イエスは,エホバを全く愛することが第一のおきてであり,第二は隣人を自分自身のように愛することであると語ります。そののちイエスが彼らに尋ねます,『なぜキリストはダビデの子であり,しかもダビデの主でありえるでしょうか』。だれもこれに答えることができず,それ以後だれもあえて彼に質問しようとしません。―22:45,46。
25 イエスは書士やパリサイ人に対する強力な非難のことばをどのように語りますか。
25 『偽善者たち,あなたがたには災いが来る!』(23:1–24:2)。神殿で群衆に話したイエスは,書士やパリサイ人に対する仮借ない非難のことばをもう一度語ります。彼らは王国に入る資格を自ら持たないだけでなく,他の人々が入ることをも阻もうして策略を弄します。彼らは白く塗り上げた墓のようであり,外側は美しく見えますが,内側は腐敗と腐れでいっぱいです。イエスはこの裁きのことばの結びとして,「あなたがたの家はあなたがたのもとに見捨てられています」と語ります。(23:38)そして,神殿を離れるさい,その滅びについて預言します。
26 イエスは自分が王としての栄光のうちに再び到来することに関してどんな預言的なしるしを備えますか。
26 イエスは自分の臨在の「しるし」について述べる(24:3–25:46)。オリーブ山の上で,弟子たちは,『イエスの臨在と事物の体制の終結のしるし』について尋ねます。それに答えたイエスは,『国民が国民に,王国か王国に敵対して立ち上がる』全面戦争および食糧不足や地震や不法の時代を指摘し,また,「王国のこの良いたより」が全地球的な規模で宣べ伝えられること,「忠実で思慮深い奴隷」が『主人のすべての持ち物』の上に立てられることなど,『人の子が栄光のうちに到来してその栄光の座についた』ことを示す,多くの要素から成るしるしのいろいろな面について語ります。(24:3,7,14,45; 25:31)イエスはこの重要な預言を十人の処女やタラントに関する例えで結びますが,それらの例えは,目ざめている忠実な者たちに対する喜びある報いを差し伸べ,また,羊とやぎに関する例えは,やぎのような人々が「永遠の切断にはいり,義なる者たちは永遠の命にはい(る)」ことを示します。―25:46。
27 イエスの地上における最後の日にはどんなできごとがありますか。
27 イエスの最後の日のできごと(26:1–27:66)。過ぎ越しを祝ったのち,イエスは忠実な使徒たちに対して新しいものを制定し,イエスの体と血の象徴である無酵母パンとぶどう酒にあずかるよう彼らに勧めます。それから一同はゲッセマネに行き,そこでイエスは祈ります。そこへユダが武装した群衆とともにやって来て,偽善的な口づけでもってイエスを裏切ります。イエスは大祭司のもとへ連れて行かれ,そこでまやかしの裁判を受けます。イエスの預言どおり,ペテロは,試みのもとに置かれた時,イエスのことを否認します。ユダは悔恨の情を感じ,裏切った報酬の金を神殿に投げ込み,去って行って首をつります。翌朝,イエスはローマの知事ピラトの前に引き立てられ,ピラトは,祭司に扇動されて「彼の血はわたしたちとわたしたちの子どもとにふりかかってもよい」と叫ぶ群衆に押され,杭につけさせるためにイエスを引き渡します。知事の兵士たちは,王であることに関してイエスを嘲弄し,そののちゴルゴタに引いて行き,そこで,ふたりの強盗の間にして彼を杭につけます。彼の頭上には,「これはユダヤ人の王イエス」と記したものが掲げられます。(27:25,37)幾時間かの苦しみののち,イエスはついに,午後三時に息を引き取り,ついで,アリマタヤのヨセフの所有する新しい記念の墓の中に横たえられます。この日こそ,全歴史を通じて最も重大なできごとに満ちた日でした。
28 マタイは自分の記述の最高潮としてどんな「最良のたより」を伝えていますか。結びとしてどんな任務について述べていますか。
28 イエスの復活と最後の指示(28:1-20)。マタイは今,まさに最良のたよりをもって自分の記述の最高潮とします。死んだイエスは復活し,彼は今や再び生きているのです! 週の最初の日朝早く,マリア・マグダレネと「もう一方のマリア」が墓に来て,この喜ばしい事実に関する天使の発表を聞きます。その事実の確証として,イエスご自身が彼女たちに現われます。敵対者たちは彼の復活の事実に対してまでも戦いをいどみ,墓で警備にあたっていた兵士たちを買収して,「夜中にその弟子たちが来て,自分たちが眠っている間に彼を盗んでいった」と言わせます。のちにガリラヤにおいて,イエスはもう一度弟子たちと会合します。弟子たちに対する別れぎわの指示はなんでしょうか。こうです。「行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し(なさい)」。この伝道の業において弟子たちは導きを受けられるでしょうか。マタイの記録するイエスの最後のことばはその点で保証を与えます。「見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなたがたとともにいるのです」― 28:13,19,20。
なぜ有益か
29 (イ)マタイの書はヘブライ語聖書からギリシャ語聖書へのかけ橋の役をどのように果たしていますか。(ロ)イエスにあったどんな特権が今日のクリスチャンにも開かれていますか。
29 マタイの書は,四つの福音書のうちの最初のものとして,ヘブライ語聖書からクリスチャン・ギリシャ語聖書への優れたかけ橋となっています。それは,メシアおよび約束された神の王国の王がだれであるかを明確に見きわめ,その追随者となるための要求を知らせ,それら地上の追随者たちの前に置かれた仕事を明らかにしています。最初にバプテストのヨハネ,ついでイエス,最後にイエスの弟子たちが,「天の王国は近づいた」と宣べ伝えました。さらに,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」というイエスの命令は,事物の体制の終結の時にまでも及ぶものです。師の模範にならいつつ,「すべての国の人びとを弟子と」するこの王国の業に加わることは,まさに壮大な,そしてすばらしい特権でしたし,今日でもまさしくそのとおりです。―マタイ 3:2; 4:17; 10:7; 24:14; 28:19。
30 その実際的な価値を認められているのはこの福音書の特にどの部分ですか。
30 マタイの記した福音はまさに「良いたより」です。そこにまとめられた霊感の音信は,西暦一世紀にそれに注意を払った人々にとって「良いたより」でした。そしてエホバ神は,今日に至るまでそれが「良いたより」として保たれるように見届けられました。クリスチャンでない人々でさえ,この福音書の持つ力を認めざるをえませんでした。一例として,ヒンズー教の指導者マハトマ・ガンジーがいますが,彼は,インド総督であったアーヴィン卿に対して次のように語ったことが伝えられています。「あなたの国とわたしの国が,この山上の垂訓の中でキリストの定めた教えに従う点で一致するなら,わたしたちは自分たちの国の問題だけでなく,全世界の諸問題をも解決できるでしょう」。a
31 マタイの書にある助言に対して真の認識を示してきたのはだれですか。この福音書の内容を幾度も繰り返し研究することはなぜ有益ですか。
31 しかしながら,キリスト教を奉ずると唱える国々を含め,全世界は依然として多くの問題をかかえています。そして,山上の垂訓および「マタイによる」良いたよりに含まれる他のすべての健全な助言を貴重なものとみなし,研究し,それに従い,それを生活に適用することから来るはかり知れない益を得てきたのは,比較的に少数の真のクリスチャンに限られてきました。真の幸福を知ること,また結婚や道徳律,愛の力,受け入れられる祈り,物質的な物事に対する霊的な物事の価値,王国を第一に求めること,神聖な物事に対する敬意,用心深くあることと従順さなどに関するイエスの優れた訓戒のことばを幾度も繰り返し読んでその意味を考えるのはほんとうに有益なことです。マタイ 10章は,「天の王国」の良いたよりの伝道に携わる人々を対象とした,奉仕に関するイエスの指示を載せています。イエスの数多くのたとえ話は『聞く耳のある』人すべてに肝要な教訓を含んでいます。さらに,『イエスの臨在のしるし』を詳細に予告したものなど,イエスの数々の預言は,前途に対する強い希望と確信をいだかせます。―マタイ 5:1–7:29; 10:5-42; 13:1-58; 18:1–20:16; 21:28–22:40; 24:3–25:46。
32 (イ)イエスがメシアであることを示す預言の成就の例を挙げなさい。(ロ)そうした成就は今日のわたしたちにどんな強い保証を与えますか。
32 マタイの福音書は成就した預言を豊富に記しています。霊感を受けたヘブライ語聖書からのマタイの引用の多くは,そうした成就を示すことを目的としています。そうした預言の成就は,イエスがメシアであることに関する明確な証拠となっています。幾つかの例として,マタイ 13:14,15とイザヤ 6:9,10,マタイ 21:42と詩篇 118:22,23,マタイ 26:31,56とゼカリヤ 13:7を比べてください。こうした成就はまた,マタイの記録したイエス自身の預言的なことばが,「天の王国」に関するエホバの栄光の目的の実現に応じて,やがてことごとく成就するとの強い保証をも与えます。
33 義を愛する人々はどんな知識と希望のゆえに歓喜をいだくことができますか。
33 神は王国の王の生涯を,そのきわめて細かな点にいたるまで,全く正確に予告されたではありませんか。また,霊感を受けたマタイはそれらの預言の成就をきわめて正確忠実に記録したではありませんか。マタイの書に記録された数々の約束や預言の成就すべてを思い見るにつけ,義を愛する人々は,エホバのみ名を神聖なものとする神の器としての「天の王国」に関する知識と希望のゆえに,深い歓喜をいだくことができます。「再創造において,人の子が自分の栄光の座にすわるとき」,柔和で霊的に飢え渇いた人々に,命と幸福という言いつくしえぬ祝福をもたらすのは,イエス・キリストによるこの王国です。(マタイ 19:28)このすべてこそ,人を鼓舞せずにはおかない,「マタイによる」良いたよりです。
[脚注]
a S.J.コレー著「クリスチャン信仰の宝」