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  • 聖書の第47番めの本 ― コリント人への第二の手紙
  • 目ざめよ! 1974
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  • コリント第二の書の内容
  • なぜ有益か
目ざめよ! 1974
目74 9/22 28–31ページ

『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』

聖書の第47番めの本 ― コリント人への第二の手紙

筆者: パウロ

書き終えられた時期: 西暦55年ごろ

書かれた場所: マケドニア

含まれている時代: 確定できない

1,2 (イ)パウロがコリントの人々にあてて第二の手紙を書いたことにはどんないきさつがありますか。(ロ)パウロはそれをどこで書きましたか。彼はどんな事を気にかけていましたか。

すでに西暦55年の夏の終わりあるいは秋の初めとなっていたことでしょう。コリントのクリスチャン会衆内には,使徒パウロにとってまだ気がかりなことがありました。コリントの人たちにあてて最初の手紙を書いてからまだ幾か月もたっていませんでした。それ以来テトスがコリントに派遣されていました。それは,ユダヤの聖なる者たちのためにそこでなされていた募金の業を助けるためであり,また,最初の手紙に対するコリントの人々の反応を見るためでもあったことでしょう。(コリント第二 8:1-6; 2:13)彼らはそれをどのように受け入れていましたか。それが彼らを悲しみに,そして悔い改めにまで至らせたということはパウロにとって大きな慰めではありませんか。テトスはこの良い報告を携えてマケドニアのパウロのもとに戻ってきました。今パウロの心は,コリントにいる愛する仲間の信者たちに対する愛に満たされてあふれるほどになっていました。―コリント第二 7:5-7; 6:11。

2 こうしてパウロはコリントの人々にあてて二度めの手紙を書きました。この心暖まる,そして力強い第二の手紙はマケドニアで書かれました。そしてテトスによって届けられたものと思われます。(コリント第二 9:2,4; 8:16-18,22-24)パウロにとって気がかりであり,彼にこの手紙を書かせたものの一つは,コリントの人たちの間のいわゆる「優秀な使徒たち」のことでした。彼はこの人々を「偽使徒,欺瞞に満ちた働き人」とも呼びました。(コリント第二 11:5,13,14)この比較的に幼い会衆の霊的福祉が危くされ,パウロの使徒としての権威が攻撃されていました。コリントに送られた彼の第二の手紙はそうした点で大きな必要を満たしたのです。

3,4 (イ)パウロ自身はコリントを何度訪ねましたか。(ロ)この手紙はどのような点で今のわたしたちの益になりますか。

3 「わたしがあなたがたのところに行く用意をしたのはこれで三度めです」とパウロが述べている点は注目できます。(コリント第二 12:14; 13:1)最初の手紙を書いた時,パウロはコリントへの二度めの訪問を計画していました。しかし,その用意はしたものの,この二度めの「喜びの機会」は実現しませんでした。(コリント第一 16:5。コリント第二 1:15)したがって,実際には,パウロはそこにまだ一度しか行っていませんでした。それは西暦50年から52年にかけて18か月滞在した時であり,そのさいにクリスチャン会衆がコリントに設立されたのです。(使徒 18:1-18)しかし,パウロは後に,もう一度コリントを訪ねたいとの願いを果たしました。ギリシャに三か月滞在したさい,それはおそらく西暦56年と考えられますが,パウロは少なくともその一部をコリントで過ごしました。彼のローマ人への手紙はそこで書かれました。―ローマ 16:1,23。コリント第一 1:14。

4 コリント第二の書は,コリント第一の書およびパウロの他の書簡とともに,常に,典拠ある聖書正典の一部とみなされてきました。再度わたしたちはコリント会衆の内部の様子を見,コリント会衆そしてわたしたちの訓戒のために与えられたパウロの霊感のことばから益を受けることができます。

コリント第二の書の内容

5 (イ)パウロは慰めについてなんと書きますか。(ロ)いっそうの保証となるどんなことがキリストを通してもたらされましたか。

5 「すべての慰めの神」からの助け(1:1–2:11)パウロは冒頭のあいさつの中にテモテを含めます。「優しいあわれみの父またすべての慰めの神がたたえられんことを」とパウロは述べます。「神はすべての患難においてわたしたちを慰めてくださ(る)」のであり,それは,わたしたちがさらに他の人を慰めることができるようになるためです。パウロとその仲間たちは極度の圧迫のもとに置かれ,命の危険を経験してきましたが,神は彼らを救い出してくださいました。コリントの人たちも,彼らのために祈りをささげて彼らを助けることができます。パウロが彼らに手紙を書いているのは,自らの誠実さと神の過分のご親切を確信しているためです。神の数々の約束はイエスによって「はい」となりました。そして神はご自分のしもべたちに油をそそぎ,「きたるべきものの印,つまり霊」をその心にお与えになりました。―1:3,4,20,22。

6 排斥された悪行者で今は悔い改めている人に対してどんな処置を取ることをパウロは助言しますか。

6 最初の手紙の第5章でパウロの注解の対象となった人は明らかに会衆から放逐されました。彼は今悔い改め,悲しみの情を示しています。それでパウロは,心からのゆるしを差し伸べてこの悔悛者に対する愛を確証するようにとコリントの人たちに告げます。

7 パウロは自分の宣教奉仕を何になぞらえますか。そしてどんなことを確言しますか。

7 新しい契約の奉仕者としての資格(2:12–6:10)パウロは宣教奉仕をキリストとともなる凱旋行列になぞらえます。(コリントの人々は勝利を得た軍隊の行列の模様を知っていました。その当時には,その進路にそって甘い香がたかれました。)命を得る人々に対するクリスチャンの「香り」と滅びゆく人々に対する「香り」には著しい対照があります。『わたしたちは神のことばを売り歩く者ではな(い)』とパウロは確言します。―2:17。

8 (イ)パウロとその同労者たちは奉仕者としてのどんな信任状を携えていましたか。(ロ)新しい契約に伴う奉仕の務めはどのような点で勝っていますか。

8 パウロとその同労者は,コリントの人たちへの,あるいはコリントの人たちからの推薦の手紙など,書類は必要でありません。コリントの信者たちそのものが推薦の手紙であり,それは石の書き板にではなく,「肉の書き板に,すなわち心に」書き込まれたものである,とパウロは言明します。神は新しい契約の奉仕者たちに,その奉仕者としての資格を十分に得させてくださいました。書かれた法典は死をもたらすものであり,やがて消え去る栄光しか持たない一時的なものでした。一方,霊をもたらすことは命に通じ,永続的であり,満ちあふれる栄光が伴っています。「モーセが読まれる」時イスラエルの子らの心にはベールがかかっていますが,転じてエホバに向かうときそのベールは取り除かれ,人は「栄光から栄光へと,同じ像に変えられて」ゆきます。―3:3,15,18。

9 パウロは宣教奉仕の宝をどのように描写しますか。

9 パウロはさらに続けます。『わたしたちはこの奉仕の務めを,自分たちに示されたあわれみによって持っています。わたしたちは隠れた事がらを捨て去りました。神のことばを不純にしてもいません。むしろ,真理を明らかにすることによって自らを推薦してきました。良いたよりの音信にベールがかけられているとすれば,それは,この世の神が不信者の思いを暗ましているためです。しかし,わたしたちの心は,キリストの顔により,神についての栄光ある知識をもって明るくされています。わたしたちの持つこの宝はなんと偉大ではありませんか。それは土の器に入れられていますが,それは普通を越えた力が神のものとなるためです。迫害と苦境のもとで,そうです,死に直面してさえ,わたしたちは信仰を働かせ,あきらめたりはしません。つかの間の患難がわたしたちのために栄光を生み出し,その栄光はいよいよ重みを増す永遠の栄光であるからです。それでわたしたちは見えないものに目をとめてゆきます』― 4:1-18。

10 (イ)パウロはキリストと結ばれた人々についてなんと述べますか。(ロ)パウロは自分を神の奉仕者としてどのように推薦しますか。

10 パウロはまたこう書きます。『わたしたちは,自分の地的な家が天にある永遠の家に取って代わられることを知っています。それまでの間は,信仰により,また勇気をいだいて進みます。キリストから離れてはいても,わたしたちはキリストに受け入れられることを求めます』。(5:1,7-9)キリストと結ばれている人は「新しい創造物」であり,和解の務めをゆだねられています。彼らは「キリストの代理をする大使」です。(5:17,20)パウロはあらゆる点で自分を神の奉仕者として推薦します。どのように?『患難や殴打や労苦や眠らぬ夜などにおける多大の忍耐によって,また,純粋さと,知識と,辛抱強さと,親切さと,聖霊と,偽善のない愛と,真実のことばと,神の力とによってです。そして,貧しいようでありながら多くの人を富ませ,何も持っていないようですべての物を所有しています』― 6:4-10。

11 パウロはどんな助言と警告を与えますか。

11 「神への恐れのうちに神聖さを完成」する(6:11–7:16)『あなたがたを迎えるためわたしたちの心は広げられています』とパウロはコリントの人々に語ります。彼らもまたその優しい愛情を広くすべきです。しかし一つの警告があります。「不つりあいにも不信者とくびきを共にしてはなりません」。(6:14)光とやみに,またキリストとベリアルにどんな交友があるでしょうか。生ける神の神殿として,彼らは汚れたものから離れ,それに触れることをやめなければなりません。パウロはこう語ります。「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め,神への恐れのうちに神聖さを完成しようではありませんか」― 7:1。

12 パウロはコリントからの知らせを聞いてなぜ喜びましたか。

12 パウロはさらに述べます,「わたしは慰めに満たされており,わたしたちのすべての苦悩にあって喜びにあふれてい(ます)」。(7:4)なぜ? それはテトスがいてくれたことだけでなく,コリントからの良い知らせ,つまり,彼らの切望,嘆き,パウロに対する彼らの熱心さについての良い知らせのためでもあります。彼は自分の最初の手紙が一時的な悲しみを生じさせたことを認めますが,コリントの人々が悲しんだ結果救いに至る悔い改めへと進んだことを喜びます。パウロは,テトスと協力したことでコリントの人々をほめます。

13 (イ)パウロは寛大さの手本としてどんな例を挙げますか。(ロ)与えることに関してパウロはどんな原則を論じますか。

13 寛大さは報われる(8:1–9:15)窮乏した「聖なる者たち」のための寄付に関して,パウロはマケドニアの人々の例を挙げます。非常な貧しさの中から示されたその寛大さは,実際には彼らの能力を越えたものでした。パウロは今,主イエス・キリストに対する純粋な愛の証明として,コリントの人々が与える精神を同じように示すことを望みます。キリストは,彼らが豊かになるようにと,自らは貧しくなったのです。こうして自分の持つところに応じて人に与えることは均等化の働きをし,多く持つ者も多すぎることなく,少ししかない者も少なすぎることはなくなります。この親切な贈り物に関連してテトスと他の幾人かの人が彼らのもとに遣わされます。パウロはコリントの人々の寛大さと用意の良さを誇りとしてきました。そして,何かのことでこの惜しみない贈り物を最後まで果たさず,彼らが恥をこうむるようなことを望みません。そうです,「惜しみなくまく者は豊かに刈り取る」のです。それは心からのものであるべきです。「神は快く与える者を愛される」からです。神は彼らに対する過分のご親切を満ちあふれさせ,あらゆる寛大さのために彼らを富ませることもおできになるのです。「その言いつくしえぬ無償の賜物のゆえに,神に感謝がささげられますように」― 9:6,7,15。

14 パウロは自分の使徒職の裏付けとしてどんな点を挙げますか。

14 パウロは自分の使徒職を論証する(10:1–13:14)パウロは自分が見かけはみすぼらしい者であることを認めます。しかし,クリスチャンは肉にしたがって戦いをするのではありません。その武器は霊的なものであり,神の知識に逆らう論議を覆すために「神によって強力に」されています。(10:4)ただうわべの価値だけを見て,パウロの手紙は重々しいがその話し方は取るに足りないと言う人たちがいます。そうした人たちは,パウロの行動が手紙によることばと同じであることを知るべきです。パウロがだれか他の人の区域における業績を誇っているのでないことを,コリントの人々は知るべきです。彼らに対してはパウロが自ら良いたよりを伝えたのです。さらに,もし何かを誇るなら,人はエホバにあって誇るべきです。

15 (イ)パウロは偽使徒に対する非難としてどんな例を挙げますか。(ロ)パウロ自身にはどんな経歴がありますか。

15 パウロは,コリント会衆を,貞潔な処女としてキリストに差し出す責任を感じます。エバがへびのこうかつさによってたぶらかされたのと同じように,彼らの思いが腐敗させられてしまう危険が存在します。それでパウロはコリント会衆の「優秀な使徒たち」に対することばを強めます。(11:5)彼らは偽使徒です。サタン自身も自分を常に光の使いに変えていますから,その奉仕者たちが同じことをしても不思議ではありません。しかし,キリストの奉仕者という点で見ると,彼らの経歴はパウロの場合とどのように比較できるでしょうか。パウロは多くのことを忍耐してきました。投獄と殴打と三度に及ぶ難船とさまざまな危険であり,眠らなかったことも食物を取らなかったことも幾度もあります。しかし,そうした苦難を経ながらも諸会衆の必要を見失ったことはなく,だれかがつまずいた時にはいつもいきり立ったのです。

16 (イ)パウロは何を誇ることもできますか。しかしなぜ彼はむしろ自分の弱いところについて述べますか。(ロ)パウロは自分が使徒である証拠をどのように示してきましたか。

16 それゆえ,仮に誇れる者がいるとすれば,それはパウロです。コリントにいる他のいわゆる使徒たちは,パラダイスに取り去られて口に出すことのできないことばを聞くというようなことについて語れるでしょうか。それでもパウロは自分の弱いところについて論じます。高められたと感じすぎることのないために,彼は「肉体に一つのとげ」を与えられました。パウロは幾度か懇願しましたが,神はこれを取り除かず,むしろ,「わたしの過分の親切はあなたに対してすでにじゅうぶんである」と言われました。パウロはむしろ自分の弱いところを誇ります。「キリストの力」が天幕のごとく彼の上にとどまるためです。(12:7,9)そうです,パウロはかの「優秀な使徒たち」に劣ってはいません。コリントの人々は,「あらゆる忍耐により,またしるしと異兆と強力な業とによって」パウロが彼らの間で示した使徒としての証拠を見ているはずです。パウロは彼らの持ち物を求めているのではありません。テトス,およびパウロの遣わした他の同労者たちが彼らを利用しなかったことにもそれは示されています。―12:12。

17 パウロはコリントの人々に対し,結びにどんな訓戒のことばを述べますか。

17 すべての事は彼らを築き上げるためです。しかし,パウロは,自分がコリントに着く時まだ肉の業を悔い改めていない者がいるのではないかという懸念を言い表わします。そして,罪人たちに対し,自分が適切な処置を取り,だれをも惜しみ見たりはしないという点を前もって警告します。また,会衆内のすべての人に対し,自分がイエス・キリストと結ばれた信仰にあるかどうかを絶えず吟味するようにと忠告します。パウロとテモテは彼らのために神に祈ります。そしてパウロは,彼らが引き続き喜び,調整を加えられて一致を保ち,こうして愛と平和の神にともにいていただくようにと命じます。そして,聖なる者たちからのあいさつと,コリントの人々の霊的な祝福を求める自らの願いを述べて,手紙を結びます。

なぜ有益か

18 クリスチャンは宣教奉仕に対してどんな見方をすべきですか。

18 コリント第二の書の中に言い表わされた,クリスチャン宣教奉仕に対するパウロの認識は,わたしたちを鼓舞し,大きな励みを与えるではありませんか。わたしたちも彼と同じような見方をしましょう。すなわち,それは,キリストとともなる凱旋行列なのです! 神によって十分に資格のあるものとされたクリスチャン奉仕者はみことばを売り歩く者ではありません。誠実な動機でこの奉仕に携わるのです。そして,彼の推薦となるものは,書き記された文書ではなく,その奉仕においてその結ぶ実です。この奉仕の務めは確かに栄光あるものですが,そのゆえに思い上がるべきものではありません。不完全な人間である神のしもべは,この奉仕の宝を,もろい土の器に入れて持っています。これは,その力が神からのものであることがだれの目にも明らかになるためです。したがって,神の奉仕者であるという栄光ある特権を受け入れるためには謙遜さが求められます。「キリストの代理をする大使」として仕えられるということは,ほんとうに神からの過分のご親切ではありませんか。したがって,「神の過分のご親切を受けながらその目的を逸することがないように」というパウロの勧めのことばはいかにも適切です。―コリント第二 2:14-17; 3:1-5; 4:7; 5:18-20; 6:1。

19 パウロはどんなさまざまな点で今日のクリスチャン奉仕者,特に監督たちに対する優れた模範を残していますか。

19 パウロはクリスチャン奉仕者たちの見倣うべきりっぱな手本を残しました。一つの点として,彼は霊感によるヘブライ語聖書の価値を正しく認めてそれを研究し,繰り返しそれから引用しかつ適用しました。(コリント第二 6:2,16-18; 7:1; 8:15; 9:9; 13:1。イザヤ 49:8。レビ 26:12。イザヤ 52:11。エゼキエル 20:41。サムエル後 7:14。ホセア 1:10)また,監督の一人として,彼は羊の群れに対する深い配慮を示しました。こう述べています。「わたしとしては,あなたがたの魂のために大いに喜んで自分を費やし,また費やし尽くされるつもりです」。記録にはっきり示されるとおり,彼は兄弟たちのために自分を与え尽くしました。(コリント第二 12:15; 6:3-10)コリント会衆のために教え,説き勧め,物事を正したパウロの,そのうむところのない働きを見てください。彼はやみとの交友を明確に戒めて,『不つりあいにも不信者とくびきを共にしてはならない』と語りました。『へびはそのこうかつさによってエバをたぶらかし』ましたが,コリントの人々に対して愛の関心をいだいたパウロは,彼らの思いが同じようにして腐敗させられてしまうことを望みませんでした。それで,次の,心からの訓戒のことばを述べました。「自分が信仰にあるかどうかを絶えず試しなさい。自分自身がどんなものであるかを絶えず吟味しなさい」。彼はまたクリスチャンとしての寛大さを勧め,「神は快く与える者を愛される」という点を示しました。そして,『言いつくしえぬ神の無償の賜物』に対して深い認識のこもった感謝を自ら言い表わしました。確かに,コリントの兄弟たちのことは,パウロの心の中の肉の書き板に,愛によって書き記されていたのです。そして,兄弟たちのためのその惜しみない奉仕こそ,彼が熱心で十分に目ざめた監督であることを示すものでした。今日のわたしたちに対するほんとに優れた模範ではありませんか。―コリント第二 6:14; 11:3; 13:5; 9:7,15; 3:2。

20 (イ)パウロはどのようにしてわたしたちの思いを正しい方向に向けさせますか。(ロ)コリント第二の書はどんな栄光ある希望を指摘していますか。

20 使徒パウロは,「優しいあわれみの父またすべての慰めの神」が試練のさいの真の力の源であることを指摘してわたしたちの思いを正しい方向に向けます。「すべての患難においてわたしたちを慰めてくださり」,新秩序への救いのために忍耐できるようにしてくださるのは神です。パウロはまた,「神からの建物,手で作ったものではなく,天にあって永遠に続く家」という栄光ある希望をも指摘して,こう語ります。「キリストと結ばれている人がいれば,その人は新しい創造物です。古い事物は過ぎ去りました。見よ,新しい事物が存在しているのです」。パウロと同じように天の王国を受け継ぐ人々にとって,コリント第二の書は確かにすばらしい保証のことばを含んでいます。―コリント第二 1:3,4; 5:1,17。

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