血に対する敬意 ― だれが払っていますか
「宗教上の理由で輸血拒む ― 交通事故の主婦死亡」,「信仰理由に輸血拒む ― 交通禍の主婦死ぬ」。1976年11月19日のかなりの新聞記事,ラジオやテレビのニュースは,鹿児島県で起きた一主婦の輸血拒否を報じました。どんなことが起きたのでしょうか。九州の南日本新聞はその事件を次のように報じました。
「18日午前2時13分,鹿児島市立病院で,交通事故のため運び込まれた女性が輸血を拒否したため手術を受けぬまま死亡した。拒否の理由は宗教上のもので,担当した同病院脳外科の時任純孝部長は『医者としてベストを尽くせず心残り』と述べている。
「この女性は指宿郡喜入町中名,主婦有田恵美子さん(61)。指宿署の調べでは,有田さんは鹿児島市内の知人を訪れた後の17日午後5時50分ごろ,自宅近くの国道226号線で,同町中名,会社員渡辺こうさん(52)の普通ライトバンにはねられた。救急車で鹿児島市立病院へ運ばれたが,ロッ骨や頭の骨を折る重傷だった」。
エホバの証人であったこの人は,聖書に強い信仰を抱いており,輸血は,聖書にある「肉を,その命である血のままで,食べてはならない」,「血を避けるよう」にという命令に反するものであると信じていました。(創世 9:4,口。使徒 15:20,29)治療にあたった医師たちは,その婦人の意志を尊重し,無理に輸血を施そうとはしませんでした。そのように個人の宗教的な信念を尊重した医師団の態度はりっぱなものです。これにつき,同事件を報道した11月19日付の西日本新聞は,その記事の結びに横小路喜代嗣鹿児島市医師会長の話として次の意見を掲げています。「医療というものは患者と家族の同意を得て行なうもの。最後まで同意を得る努力をすべきだが,それ以上はどうしようもない。宗教以前に医療を信用してほしかった」。
この事件は日本中に広くそしてさまざまな仕方で報道されましたが,このニュースを聞いた一般の人々は,これをどのように受けとめたでしょうか。このニュースに対する人々の反応には興味深いものがありました。聖書を少し学び始めていた鹿児島市のひとりの人は,このニュースから消極的な影響を受け,それ以上聖書を学ぼうとしませんでした。しかし,その人の聖書の研究を助けていたエホバの証人は次の日に別の家で,「そんなに強い信仰が持てるなら,それはすばらしいと思う。自分はそのような信仰を調べてみたい」という人に会いました。早速その方との聖書研究が始まりました。
一般に「正統派」と考えられている,キリスト教会の宗教組織は一様に冷淡な態度を取りました。この点でも,エホバの証人と他の諸教会がまったく別のものであることが明白にされました。興味深いことに,事件の10日後にあたる11月27日に,このことについての読者からの投書が南日本新聞の「よろん」欄に掲載されましたが,それは教会の牧師からのもので,一部次のように述べています。
「聖書には輸血を禁じる教えなどない。一個の生命は全世界にまさることをキリストは教えられた。魂の救いとともに,神の霊をやどす体も大切に考えるのがクリスチャンである。それゆえ,献血には積極的に協力し,また自らも必要に応じて輸血を受けるのである。……輸血拒否の根拠とする創世記 9章やレビ記 17章などは,肉食に動物の血を食べることを禁じた旧約時代の律法を,そのまま人間の輸血に結びつけてしまったのだ」。
はたしてその通りでしょうか。興味深いことが続きました。川内市のヘルスコンサルタントをしている人が同誌の「よろん」欄に別の投書をしました。
「11月27日付本欄の『非常識過ぎる輸血拒否』と題する吉井牧師のご高見に対し感想を述べます。『聖書には輸血を禁じる教えはない。以下献血にも積極的に協力する』とのご趣旨はいちおうごもっともと思います。しかし,ご指摘の創世記 9章やレビ記 17章などの血に関する教えを,そのまま人間の輸血に結びつけるのは妥当ではないとのご見解は少し不明確な点があります。
「私は聖書の専門家ではありませんから多くを述べることを控えますが『肉の生命は血である。血にこそ生命が宿る。生命は神のものである。したがって血を流したり,食ったりすること,すなわち殺生は神を汚すものであり,これを犯す者を神は罰する』これが本旨ではないかと考えます。
「いずれにせよ聖書が血を重視し,血を流したり汚したりすることを戒めているのは立派です。問題はキリスト教と医学との関係ですが,これはまだ完全に一致したものではありません。輸血には医学上多くの問題があり,その諾否は学会内部でも異論があります。キリスト教にも異系があるように。
「要するに現代医学は未完成であり,輸血には多くの難点と弊害があるわけです。それは血を汚すということです。医学には血液学という専門分野がありますが,基本原理であるべき血と肉が一体であることさえわかっていない現状です。もっと医学が進歩すれば,血は神のものであり,軽々にとりあつかってはならないというキリスト教の正しさを立証するときがくると考えます」。
前述の“キリスト教”の牧師といったいどちらが聖書のことを正しく理解しているのだろうと問われる程の見解の違いが示されています。物事を深く考える人々は,エホバの証人の血に対する見方が聖書により忠実なものであることを認めることができるでしょう。
多くの人は,輸血に対するクリスチャンの見方が常識的ではないと言ってまゆをひそめるかもしれません。例えば,同紙12月14日付「よろん」欄は,信仰と常識について述べた一主婦の意見を載せました。彼女は「病気になったらお医者さんにお任せするというのが,私たちの常識です。この常識を否定する信仰は,道理の感覚や倫理観を狂わせてしまいます」と書いています。
しかし,本当にそうでしょうか。わたしたちのいわゆる「常識」と呼ばれるものが常に時代やその中の支配的な精神によって変わってゆくものであるのが真実ではないでしょうか。今日,おびただしい数の命が堕胎,交通事故,戦争,人殺しなどにより失われています。こうした状態をいったいどのような常識で直してゆけるのでしょうか。今日の常識以上のものが必要ではありませんか。
一連の投書の最後のものとして,12月21日の南日本新聞は,「よろん」欄にもうひとつの意見を載せました。串木野市の一教員は次のように書いています。
「血に関する問題が,先月来いろいろな職業や立場の人によって論じられてきました。聖書における血の禁には,二つの面があるようです。すなわち流血・殺害の禁とその摂取の禁です。
「イエス・キリストは『良い実を生みだす木は良い木』だといわれました。第一の血の禁をその歩みによって実証してきたのは,大多数を誇る伝統的な宗教や宗派に属する人たちでしたか。それとも非常識とされるエホバの証人でしたか。その答えは,エホバとキリストの使徒をめざす小数派の後者であったことを,第三者が証しています。(阿部知二著「良心的兵役拒否の思想」岩波新書及び1971年8月10日朝日夕刊,平和への道 1)
「第二の律法は『血を食べる』ことを禁ずるものでした。医師がアルコールを避けなさいと命じた場合,患者がそれを飲むことはしないが,静脈に注入することは許されますか。明らかに否です。
「では輸血について第一線の医者はなんと述べていますか。『私は二万以上の外科手術を行なったが,輸血を施したことは一度もなく,普通の食塩水を多く与えてきた。その方が良く,安全である』(アロンソ・ドマン博士)。血を必要としない手術は,外国だけでなく北九州市の脳外科病院でも行なっているとのことです。今日の非常識も開けたあすには,常識の常識となるでありましょう。進歩的な臨床医,または血液に関する基礎医学研究者のご意見を承りたいものです」。
聖書に対する信仰を持たないゆえに,また人命を尊重し,人の生命を少しでも延ばそうとする誠実な願いから医師たちがこのエホバの証人を説得し輸血を受けるように努力したことは理解できることです。
エホバの証人は決して現代医学を否定したり,その近代的な医療を否定して拒むのではありません。多くの点でその進歩に感謝し,実際にその恩恵にあずかってきています。輸血を拒むその理由も,決してその医学的な面からではないのです。輸血は,聖書の律法を深く研究し,自分がその律法の下にあることを認め,その律法を擁護するよう決意したクリスチャンにかかわる,聖書の律法に関連した問題です。輸血を受けるかどうかは一時的な気まぐれの問題ではなく,人間が自分の命を支えるために体内に血を取り入れることを禁じた神の律法にかかわる,倫理上の肝要な問題なのです。
聖書は「血」という言葉を「命」という意味で何度も使っています。これは命が血の中にあるからです。(レビ 17:11)エホバの証人は,神が命の与え主であり血の造り主であること,したがって,血について最もよく知っておられるのは神であることを信じています。神の言葉は血について次のように述べています。「聖霊とわたしたちとは,次の必要な事がらのほかは,あなたがたにそのうえなんの重荷も加えないことがよいと認めたからです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられたものと血と絞め殺されたものと淫行から身を避けていることです。これらのものから注意深く離れていれば,あなたがたは栄えるでしょう」。(使徒 15:28,29。創世 9:3-6; 申命 12:15,16も参照してください。)『血を避ける』ということは,血をいっさい体の中に入れてはならないという意味です。
今日,すべての人々がこの神の命令に敬意を払い,従順にこれを遵守するなら,世の中はどんなに安全な,平和なところとなることでしょう。真の神に対する忠実を守ったクリスチャンが非難されるのでなく,むしろ,他の人の生命に対する敬意を欠き,容易に人の血を流す人々,乱暴なドライバー,また利己的な目的のために戦争の道具を造る人々こそが強く非難されるべきなのです。
将来,真の医学の進歩が見られることにより,人間の血に関する見方においても神の言葉である聖書が正しかったことが立証されるに違いありません。神の言葉が勝利を必ず得ることを歴史は何回も証明しているからです。