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目ざめよ! 1979
目79 8/22 4–7ページ

私が血液について学んだ事柄

一外科医の手記

医師として私はテキサス州ダラスで一般診療に忙しく従事していました。薄緑の手術衣と帽子に身を固め,午前七時に手術室で同僚の外科医と差し向かいに手術台の前に立つこともしばしばでした。中でも昨日の出来事のように記憶に残っているのは,1965年に行なった,ある帝王切開です。

手術は順調に進められていました。ロイは手早く切開し,たいした出血はありませんでした。腹壁が開かれて今や眼前にはふくらんだ子宮が上方に突き出ていました。ロイがほっと息をついて「見たまえ」と言ったので,私は目を上げて手術用マスクの上の彼の目と視線を合わせました。

素早く視線を落とした私の目には,妊娠した張り裂けそうな子宮の底部周辺に,ほとんど私の手の指ほどもある異常に太い血管が何本も底の方から子宮円靭帯の間を通って持ち上がってくるのが映りました。私たちは,これら多くの血管の間を切り進まねばならず,多量の出血が予想されました。

「さあ,やろう」とロイは言いました。右手を伸ばして彼は,看護婦が手際よく彼の手のひらに置いた外科用メスを握りました。赤ん坊の頭を出せるほど十分に子宮を切開するには,静脈瘤性の血管を切らねばならず,メスを入れる度に新たな血がほとばしり出ました。

「ジェシー」と私はどなりました。「実験室に連絡して血液の型を決めることと,全血の二単位の交差試験を頼んでくれ」。

手術室の気転のきく婦長は「はい」と肩ごしに答えるなり,手術室の回転ドアをもう通り抜けていました。私は目を上げて麻酔医と目を見合わせました。失われてゆく貴重な血液に代わる薬液を静脈に入れるため,静脈点滴用輸液びんのバルブを開けながら彼は微笑してうなずいて見せました。麻酔医は患者が麻酔をかけられている時,薬液や血液に代わる液を入れることに普通,責任を持っています。チームのキャプテンは外科医ですが,そのような場合,外科医には液を入れる時間的余裕がないのです。

それで良いというふうに私にうなずいて見せた麻酔医は,血を尊重することを以前から私たちに教えていました。彼の信条は彼が“白い血”と呼ぶ乳酸ナトリウム加リンゲル液を使うことでした。それは体液の代わりになるために必要な塩類,水分および他の成分を含む液ですが,全血のような危険がありません。患者が多量の血液を必要としないのであれば,出血した量を補うのに乳酸ナトリウム加リンゲル液以外のものを使うのは愚かであると,彼は繰り返し語っていました。私は彼の言葉に耳を傾けて多くの事を学んでいたのです。今,私は病院の医長であり,血液について知るべき事はまず何でも知っていると思っていました。手術は成功であり,母親も赤ん坊も無事でした。

“良い生活”?

医を生業としたてのこのころ,私は“成功”したと思っていました。外見では万事が順調でした。患者は多く,収入も増えてゆきました。プール付きの家,新しい車,競走用の速いヨット,二人の子供 ― 世の中で手に入るものはおよそ何でも得て,外から見れば間違いなく成功しているように見えました。しかし現実には万事,調子が狂っていたのです。奇妙にも私はその事に気づいていました。それでも私はそれを否定し続け,これが“良い生活”なのだと,自分にも家族にも言い聞かせていたのです。

私たちは回転木馬に乗っているのと同じでした。収入が増えれば増えるほど,私たちは浪費し,目まぐるしく動く人々の後を追っていました。私は大酒するようになり,不道徳な生活に慣れっこになっていました。大都会の医師となって六年目の終わりに,私がそれまで送ってきた全生活は頭上でくずれ落ちました。三歳半の息子が家のプールで水死し,その一か月後に妻は私ともうひとりの息子を残して私の親友のもとに去ったのです。私はひどい抑うつ状態に陥り,ある日わざとモルヒネを注射して,もう少しで自殺に成功するところでした。自分の病院で目ざめた時,私は驚くばかりで,「どうしてこんな事に?」と尋ねるだけでした。六年足らずの短い間に私は成功の頂点に達し,それからどん底に落ちたのです。

私はみじめな生活から逃れるため,あらゆるもの ― 精神分析や麻薬(“興奮剤”と“鎮静剤”),そしてアルコールの常用などを試みました。そのどれも役に立ちませんでした。一年して私は生活が正常にもどりつつあると考えて再婚しましたが,再び同じ間違いを繰り返し始めました。かわいそうな妻は私と結婚すればどんな事になるか,少しも知らなかったのです。彼女は私よりも15歳年下で,初婚でした。今や彼女は出来合いの家族と,医師の妻としての責任を突然に与えられたのです。

私は医師仲間の目に立ち直りを見せ始め,再び大ぜいの患者をみるようになって年収10万㌦(約2,000万円)に近づきました。それでも悪い習慣は一向に改まらず,酒と麻薬は相も変わらず,不道徳もやむことがありませんでした。私は肉体的にも精神的にも妻を衰えさせていました。以前の結婚で生まれた息子に加えて,私たちは間もなく二人の子供を設け,大きなプールのあるいっそう大きな家に移り,もっと大きな車を買いました。そして毎週末をヨット遊びに過ごし,酒と夜ふかしの生活を送りました。子供たちは祖父母に“預け”,彼らのほうが親よりも多く子供たちと会う有様でした。私は子供が邪魔をしなければ,それで満足でした。私たちは新しいヨット,スキー旅行,装具など“楽しみ事”に多大のお金を費やしましたが,それでも生活は少しも楽しくありませんでした。

私の気分はいっそう重苦しくなりました。私は診療室の看護婦のひとりと深い仲になり始め,彼女が私の時間をますます取るようになりました。抑うつ状態が次々に私を襲い,その間中,私は死ぬのではないか,人生や人生の何たるかを本当には知らずに終わるのではないかと恐れおののきました。私は鷹のように世界情勢を観察しました。そしてその行きつつある方向にいつまでも進むことはできないのを知っていっそう不安でした。

解決策は何か

そんなある晩,妻と私はほろ酔い機嫌で裏庭で話をしていました。世界の置かれている状態を考えて私たちは二人とも憂うつでした。私たちは秘学,東洋の宗教,輪廻など,あらゆるものを調べていました。私は一緒に祈るよう妻に求めました

が,それは今まで一度もなかった事です。私たちは草の中に顔を埋め,さめざめと涙を流して,神よ,聞いてくださいと祈りました。

数日後のある晩,病院から帰宅すると,妻はエホバの証人と聖書を研究していることを私に告げました。「それはいかん」と私は大きな声を出しました。「彼らはつきまとって離れない。知らないのか。彼らの目的は我々の金だよ。それだけはごめんだ」。しかしどうした訳か妻はこの事では私にさからい,研究を続けました。私は激怒し,暴力こそ使いませんでしたが,何とかして研究を妨げようとしました。

私はエホバの証人よりも私のほうが聖書をよく知っている事を妻に教えてやろうと心に決めました。聖書をいままで一度も通読したことのない私がそんな決心をしたのは妙ですが,私は彼女に教えることができるようになりたい一心で,毎朝早く起きては聖書を読みました。ところが悔しいことに,また驚いたことに,彼女は私がちゃんと読んでいながら全く見落した事柄を聖書から私に示したのです。

血の事柄

そしてある晩,一冊の赤い本を読んでいた妻は,静かにこう言いました,「ねえ,あなたご存じ? ノアは動物を食べる前に血を地面に流すことを神から命ぜられたんですって」。

私はすぐに身がまえて答えました。「知っているとも。だからぼくはこの連中が嫌いなのだ。彼らは輸血を受けようとしないからね」。これで遂に,彼らが私に教えることのできない問題が出ました。それは私がかみつくことのできる問題でした。とにかく血の事なら何でも知っていると私は思っていたからです。私は敵意を燃やし,誇りに満たされていました。妻はそれを知っていて,この事についてはそれ以上何も言いませんでした。

その後間もなく,妻は彼女に聖書を教えていた人から電話で聞いた血液代用液のリストを私に見せて,私がそれらを知っているかどうか尋ねました。私が血漿増量剤のことを知らないとでも思っているのだろうか。こう考えるとむしょうに腹が立ちました。そのリストには乳酸ナトリウム加リンゲル液つまり“白い血”も載せられていました。次の研究の時,彼女の教え手が「血,医学そして神の律法」と題する小冊子を持って来たので,妻はそれを読んでほしいと私に言いました。早速次の日の朝,聖書を読むため机に向かった時,私はその冊子を手に取り,初めから終わりまで読みました。読み終えて私は,それが真理であることを悟りました。

私は『血を避けていなさい』という聖句をその時まで読んだことがなく,また血を食べることをノアに禁じた神の命令について何も知りませんでした。(使徒 15:28,29。創世 9:3,4)私は,血に対する禁令が昔のユダヤ人の律法契約の一部に過ぎないもので,律法契約はイエス・キリストの到来と共に廃止されたと考えていました。しかし聖書の使徒たちの活動 第15章全体を読んだ時,「なるほど」と言わざるを得ませんでした。もちろん,溶血反応,血液型不適合の危険など,輸血の危険については昔から知っていました。また不必要な輸血を病院で自分が施してきたことも承知しており,汚染された血液が原因で血清肝炎になった例も目撃していました。

生活の仕方を変える

その小冊子を読んだ後,私は自分のしてきたすべての悪を神が許してくださるかどうかを見極めるため,妻と聖書研究をしている婦人に話をしたいと思いました。やがて妻と私はそろって聖書研究に参加するようになり,また友人すべてを招きました。司会者が到着する頃には部屋が人でいっぱいになる事もありました。研究を始めて六か月後に妻と私は水のバプテスマを受けてエホバ神への献身を表わしました。三人の子供たちもそれを見守り,私たちが新たに見いだした幸福にあずかったのです。

医師として歩み始めてから19年になりますが,今エホバは真実の内的な喜びと平安を私たちの生活に与えてくださいました。なるほど,病院の同僚は私がエホバの証人になったのを初めて知った時,難色を示しました。しかし彼らの態度は,私が輸血を施さないにもかかわらず,概して尊敬の態度に変わってきました。私が医療に携わり始めた最初の頃に一緒だった外科医もまた,すでにエホバの証人となっており,輸血をしない大手術を行なっているのを知った事は,私の最大の喜びのひとつでした。

今日私たちは,真の神エホバに仕え,来たるべき神の世界政府を宣べ伝える一致した家族となっています。私はクリスチャン会衆の長老であり,私たちはいっそう重要な霊的生活の事柄に喜びを見いだしています。私たちの心はすべての祝福に対し,エホバ神への感謝であふれています。私たちは,全き意味において命を救う唯一の血がキリスト・イエスの贖いの犠牲の血であることを学びました。それのみが私たちに永遠の命を与え得るからです。(エフェソス 1:7)― 寄稿。

「肉の魂はその血にあるからであり,わたしは,あなたがたが自分たちの魂のための贖罪をするため,それを祭壇の上に置いたのである。血が,そのうちにある魂によって贖罪をするからである」― レビ 17:11,新。

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