ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目79 11/22 23–25ページ
  • エホバの証人の「生ける希望」地域大会

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • エホバの証人の「生ける希望」地域大会
  • 目ざめよ! 1979
  • 副見出し
  • バプテスマに関して語られた経験
目ざめよ! 1979
目79 11/22 23–25ページ

エホバの証人の「生ける希望」地域大会

バプテスマに関して語られた経験

今年の夏に,日本の10か所で開催された「生ける希望」地域大会に,合計8万8,598人もの人々が出席しました。このうち,1,620人の人々は,水のバプテスマ(浸礼)によって,神への献身を公に表明しました。このバプテスマはそれを見守るすべての仲間のクリスチャンにとって,またとりわけエホバ神とそれを受ける人々自身にとって大きな喜びの機会となります。水によるバプテスマを受けるまでには,直面する様々な状況の中で聖書を学ぶ努力をつづけ,また自分の生き方や価値観を変化させるために多くの問題を克服しなければなりませんでした。これらの人々のバプテスマに至るまでの経験を聞くのは,聖書を通して「生ける希望」を与えてくださった神への信仰を強めるものとなることでしょう。

横浜大会の一つでバプテスマを受けた一人の人は,家族のために一生懸命働き,経済的につらい思いをさせないことが夫としての最大の責任の一つと考えていました。そして自分なりの生活設計を持ち,家族は何の不足もなく満足な生活を送っていました。妻が聖書を学び始めたのはそのような時でした。良い事を学ぶのならと考えて,彼は快く許し,妻も学んだ事を帰宅した夫によく話しました。そんな日が続いていくうち,彼は不安を感じ始めました。その時のことを,このように説明しています。「この伝道者は何も目的なしに無料でこうして妻に聖書を教えてくれるわけがない。きっと自分たちの組織を拡大するため,妻もこの人のように伝道にかり出される。小さな子供を連れて妻が伝道して歩くなんてことは絶対に許すことはできない。妻は物の全体を見る目がないから,今のうちにやめさせなければならない。妻はやりだしたらやめない性分だから,強く反対しようと思い,次々にいやがらせを始めました」。やがて反対は暴力を伴うようになりましたが,妻は二人の子供を連れて集会に出席するようになり,伝道にも参加し始めました。このことを知った彼は一層ひどい暴力に訴えましたが,妻の態度は確固としていて,むしろ夫に対して一層の気遣いを示すようになりました。彼自身,その後,状況が変化していったいきさつをこう説明しています。「妻は学んできた良い事柄を私に話して聞かせ,私の言葉にも真剣に耳を貸してくれました。こちらが激しくなればなるほど,妻は冷静になり,聖書以外のことでは絶対服従し,妻の方から計画して,私の趣味を一緒にしてくれるようになりました。二人の時間を積極的に持つよう努力してくれました。幼い子供を早くお風呂に入れて8時には寝かせ,それ以後の時間は本当に夜があけるまで,私と話し合ってくれました。ボーリング,釣り,旅行と出かけました。迫害する私に妻は以前より親切に,やさしく,まじめに接してくれました。子供たちは祈りに必ず私のことを含めていました。私がきらっても,つい忘れて私のいる時にも祈っていました。『お父さんはとてもいい人です。お父さんも聖書の勉強をしてくれますように……』との祈りの声に,胸が熱くなることもありました。妻が私の親族にも,自分の親族にも何も訴えることなく,問題を必要以上に大きくしなかったことは,私にとって不幸中の幸いでした。私の母には,家族のことを本当に顧みてくれる親切な夫です,と言って私を立ててくれ,母にも親切にしてくれました」。こうして,妻に反対してから4年半が経過していましたが,彼はどのようなきっかけで聖書を学び始めたのでしょうか。続けてこう説明しています。「自分がだんだんみじめになってきて,自分は生きていても価値がない人間のように思えてきました。そんな時,妻から会衆のレクリエーションに誘われ,気が進まなかったものの,仕方なしに行ってみました。兄弟たち(献身したクリスチャン男子)が大勢の子供たちの世話を一生懸命してくださるのを見て,胸がジーンとしました。『ものみの塔』の記事もよいものでした。1975年4月1日号の『あなたは感謝を示しますか』という記事で,自分の知恵のなさを恥じました。妻はこの機会をすばやくとらえて兄弟との個人的な交わりが始まりました。聖書なくして歴史は語れないこと,聖書が預言とその成就の本であることを知って心もほぐれてきて,いつの間にか研究が始まりました」。この後,1年ほどの中断があったものの,妻の忍耐強い励ましと,ある年配のエホバの証人の食事への招待がきっかけとなって再び聖書を学び始め,勉強が再開されて2年目,そして最初から8年後に,この大会でエホバ神への献身をバプテスマによって表わしました。彼は,「この喜びと感謝は言葉では言い表わすことができません。私の良心に常に訴え,真剣に,ある時は友人のように語り,ある時は隣人のように親切にもてなし,主人としての私に仕えてくれた妻にも本当に感謝します。家族が一致して努力していきます」と,その感慨を言い表わしました。

バプテスマを受けた人の中には,二度にわたる,成田空港反対者の建てた鉄塔を倒す仕事に携わったことのある人もいました。彼は命がけの仕事の中から命の尊さを知り,自分の利益のために命を用いるのではなく,命の与え主である神のために用いることが大切だということに気がつきました。彼は自分の体験の空しさと,聖書を通して得ることのできた充実感についてこのように話しています。「1977年8月のことでした。約一か月前に会社から,重要な任務なので命を預けてほしいと頼まれました。そして万一の場合は家族の面倒は補償する,ということでした。そう言われた時に身の危険を肌で感じましたが,会社のためならばと考え承諾し,関係者との間で綿密な計画を立てました。鉄塔と同じ物を作り何回も練習していました。しかし作業員には,何の練習をしているのかは秘密でした。宿舎の中に閉じこめて,外出禁止令を出し,厳重な警備でした。こうした綿密な計画と練習の結果,8月5日早朝は大成功で終わり,その報酬としてより重要なポストを得ていました。多くの部下の命がけの仕事によって自分が得たものや会社で得た利益には矛盾を感じ,複雑な心境でした。二度目は翌年2月になって前回と同じ条件で話が持ちこまれました。このころ私は,聖書に対する認識が良い方向に向きつつありました。研究や集会も定期的に出席できるまでになり喜んでいました。しかし,再度成田に行くと何もできなくなるので,司会者に相談しました。できるならば避けるようにとの助言でしたが,『中立』などの聖書の原則を適用して,自分で判断するよう促されました。当時世間では,成田開港を間近にひかえ,毎日報道され,時の焦点となっていました。私も弱かったのでしょう,その流れにまきこまれ,いつの間にか先頭に立っていました。今回は以前よりもはるかに難しい状況でした。反対派の人たちも機動隊も完全武装で,私たちだけが無装備でした。それに武器はすさまじいものでした。100メートル先に止まっているダンプカーのフロントガラスが一発で破れるほどの威力を持つパチンコで無差別にうたれ,地面は火炎びんの火でいっぱいになり,鉄製の矢がビュンビュン飛んできて,戦争映画の中にいるようでした。そのような状況の下でも一人のけが人だけで,一応成功と言えるものでした。二度も困難な仕事に成功したので,会社は各方面よりほめたたえられていました。私は会社の利益のために命を危険にさらし仕えていたことに気がつきました。そしてこれから先に多くの地位は約束されていても,それは空しいことと思えました。自分にとっても家族にとっても,この命があって初めて幸福になれることを身をもって悟りました。戦争状態の中から抜け出て,エホバの証人の集会に出席した時,本当の平和がそこにありました。私は今でも忘れません。あの殺気だった空気,息のつまるような緊張の連続,それから解放された時の心のやすらぎは,私にとって一生忘れることのできない真の平安感でした。その時私は決心しました。『エホバの証人になろう』。そう決心したときに,自分が今まで築いてきたこの世的な地位や財産への未練は消えてしまいました。そしてこの一年間,バプテスマを目ざして学んできました。エホバ神は私の二度の危険な体験を通して,“命”と“真の平和”を教えてくださいました。三年前,一人の伝道者を遣わして私のような者をも真理の側に導いてくださった,エホバの愛に心から感謝しています。そして,この大会でバプテスマを受けさせていただけることを何にもまして幸福に感じています」。

この人と同じように,自分の直面する様々な出来事を通して,人間の無力さや物質中心の生き方の空しさを知り,聖書の希望に真の慰めを見いだす人は少なくありません。埼玉県に住む一人の人は建設業を営んでいましたが,仕事第一主義で,夜昼の別なく仕事に打ち込んでいました。仕事は順調に運び,ある程度の蓄えもでき,マイホームも手に入れることができました。しかし,この人は間もなく思わぬ出来事に直面しました。その時のことを彼はこう説明しています。「1977年10月,真夜中のこと,いねむり運転をしていて道路の電柱に激突してしまいました。買ったばかりの新車は大破し,その音を聞いた近所の人々が目を覚まして飛び出してくるほどでしたが,本当に不思議なことに私は生きていました。後に電柱を取り替えるのに多少の費用はかかったものの,私の仕事第一主義は続いていました。……11月12日,私は再び思わぬ事故を起こしてしまいました。都内で走っているとき,客をひろうため急に動いたタクシーをよけるためハンドルをきり,センターラインを越えたことが元になって四重衝突事故になってしまったのです。タクシーはどこかへ行ってしまい,私が第一原因ということで,10日間拘置されてしまいました。大きな仕事にかかっている最中でしたし,突然,身動きがとれなくなってしまったので,妻は本当に,この10日間苦労したようでした。この時妻は私の身の回りのものをすぐ持ってきてくれましたが,私の気持ちを慰めるような新聞も本も何もありませんでした。数日後,ただ一つ,数冊の『ものみの塔』誌と小冊子がひと束入ってきました。あとで聞いたところ,だめだと断わられたにもかかわらず,妻が上の方々にも頼みこみ,今しかこれを読ませる機会はない,と言って,強引なまでに差し入れたようです。私は心が動揺していましたから読む気にはなれませんでしたが,他に何一つないので少しは読みました。妻が走り回り,やっと10日後に家に戻ることができました。もちろん,このことで私の仕事はもう続けられないような状態でしたが,それでも私はまだ仕事に執着していました」。この人は自分のクリスチャンである妻を通して10年近くも前から聖書やエホバの証人のことについては知っていましたが,「耳をかさずに独走していました」と,その時までの自分のことを述べています。しかし,この人にとってはつらいことでしたが,これまでの状況に加えてもう一つの出来事が考え方を変化させる原因となりました。彼はこう説明しています。「12月11日,これまでではじめてのことでしたが,私は娘を連れて外出しました。しかし,その日私の目の前で娘は車にはねられ足の骨を折り,3か月入院することになりました。連絡を受け病院にかけつける妻のために,クリスチャンの長老たちが多大の努力を払ってくれたことを後で知りました。妻は仲間のクリスチャンの運転する車で遠くの病院までかけつけて来ました。私はその間,もう完全に打ちのめされていました。(聖書の神)エホバにすがりつきたい気持ちでした。……この三つの事故がもとで私の生活は一変し,築き上げてきたすべてのものを失うことになりました。この世の物質主義がいかにもろいものか,身をもって体験しました。そして気落ちしている私に対する,エホバの親切も会衆の皆さんを通して本当に知ることができました。……聖書の教えに対して異論はなかったのですが,エホバの証人のような考え方,生活の仕方はこの世で通用しないと思い込んでいました。でも研究を進めていくうちにだんだん解決してきました。この世から離れることや自分のまいたものを刈り取ることに試練がありましたが,いつも聖書のフィリピ 4章6節を思い起こし,エホバの導きにゆだねてきました。……これからは家族一致して,エホバに用いていただくよう,一生懸命仕えていきたいと決意しています」。

世の退廃的な傾向が一層強くなっている時代にあって大勢の若い人々が真の生きる目的を聖書から学び,神に献身するのを見るのは大きな喜びです。富山から上京して大学へ通っている一人の女学生は小学校3年生のころ,当時エホバの証人と聖書を学んでいた母親を通して,聖書について聞きました。やがて母親は聖書を学ぶのを中断してしまいましたが,幼い彼女の心の中に聖書に関するわずかな知識が根をはり,その後の生活に少しずつ影響を及ぼすようになりました。中学,高校と進むにつれて何度かエホバの証人に接し,聖書講演を聞きに行ったり,母親と聖書を学んだ司会者のところを訪ねたりはしましたが,彼女との聖書研究は行なわれなかったようです。聖書に関心はあったものの,彼女は高校時代に遊びに夢中になりました。彼女自身,「私は高校時代に本当によく遊びました。この世の見地からみても“遊び人”でした」と述べています。しかし,高校3年生のときに,友人が自殺したことや大学に行っている高校時代の先輩に失望を感じたことがきっかけで,「自分は何のために大学に行くつもりだったのか」という疑問を感じ始めました。そして,自分の思いの中にあった,聖書をいつか学ばなければならないという考えを思い起こし,その晩に,電話帳を一生懸命めくり,連絡先を探しましたが,残念なことに見つかりませんでした。上京して後,彼女はエホバの証人が訪問してくれることを祈りの気持ちで待っていましたが,一人のクリスチャン婦人の訪問を受けさっそく聖書研究が取り決められました。彼女は自分の喜びをこう言い表わしています。「どんなにうれしかったことでしょう! それ以来週2回の聖書研究が取り決められ,行くと決めた集会に欠かさず出席することができました。また,海老名ベテル(聖書教育の出版物を印刷したりする建物)の建設奉仕にも参加させていただきました。こんな生活は,私が高校時代予想することもできなかったことでした。古い友達は皆,私がディスコや合同コンパ,合同ハイキングに行って遊び暮らしていると信じています。これだけ生活を変えることができたのもひとえに,エホバの導きだと思い,感謝の念でいっぱいです。また,中学,高校と関心があったのに研究の取決めがなされなかったのも導きだったのかもしれません。というのは,遊ぶことが空しいということが経験を通して分かったので,今生活を変化できたのかもしれないと感じるからです。今度は,私が母を励ましたいと思います」。

今年の「生ける希望」地域大会でバプテスマを受けた人々の中には,ほかにも興味深い経験を持つ人が大勢います。しかし,これらの人々は同様に,この世の提供するどんなものも,結局のところ真のよりどころとはならず,人を支え励ますものではないということに気付きました。むしろ,聖書の神が差し伸べてくださっている「生ける希望」こそ,人に満足と慰めを与え得るものであることを認めるようになりました。(ペテロ第一 1:3)さらに大勢の人々が,次のイエスの招待を受け入れて,キリストの弟子としての喜びと満足を味わわれるのを見るのは私たちの喜びです。「わたしのくびきを負ってわたしの弟子になりなさい。わたしは柔和で,心のへりくだった者だからであり,あなたがたは自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきはここちよく,わたしの荷は軽いのです」― マタイ 11:29,30。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする