人生には意味がありますか
80代の一人の男の人はこう考えます。『私の人生は終わりに近づいている。人生はまたたく間に過ぎ去ってしまった。もう余命幾ばくも無い。そのすべてはどこへ消えて行ってしまったのだろう。人生にはどんな意味があったのだろう。すべてが過ぎ去ってしまった。前途にあるものといえば,墓場と,忘れ去られることだけだ。それ以外は何もない。すべては全く無意味だった。冷笑家が「食べて,飲んで,楽しくやろう。明日は死ぬのだから」と言うのも無理はない』。
しかしこれがすべてなのでしょうか。
遠い昔,理由も分からずに厳しい試練に耐えていた一人の人は,人間の境遇に絶望し,こう叫び声を上げました。「女から生まれる人は日が短く,悩みに満ちている。彼は花のように咲き出て枯れ,影のように飛び去って,とどまらない」― ヨブ 14:1,2,口語訳。
これがすべてなのでしょうか。人生には意味がありますか。時代を通じて,幾世代もの人々が,こうした質問を繰り返し尋ねてきました。特に年を取ると,人生を振り返ってみて,それにどんな意味があったのかあれこれと思いを巡らします。
年老いた人の葬儀では,『故人は充実した人生を送った』というような言葉が聞かれます。充実した人生を送ったのだから死んでもあきらめがつくという意味なのでしょう。しかし,充実した人生を送ったということで,死が受け入れやすいものになりますか。それとも受け入れにくいものになりますか。充実した人生よりは,中味のない人生をあとにする方が容易なのではありませんか。「とても幸せだから自殺する」と言う人はいません。自殺を図るのは悲惨な状態にある人です。昨日満腹していても,今日の空腹を満たすことにはなりません。そして,かつて意味深いと思えた事柄も死が近づくと,大抵,それほど重要なこととは思えなくなります。
人生は多くの人にとって意味のないものになっています。世界情勢は暗たんたるもので,人生の価値はなくなり,多くの人にとって失望の種となっています。若い人たちはないがしろにされ,お年寄りは邪魔者扱いにされてわびしい老人ホームに送られます。ストレスが高じて,心臓麻痺や暴力ざたを引き起こすまでになります。政界には汚職がはびこり,不信感が広がります。個々の人が憂慮して事態を改善しようと努めても,象に飛びかかるノミほどの影響しかありません。人々は幻滅し,自分の事に没頭するという無意味な行為にふけります。この傾向について,米国のベストセラー,「ナルシシズムの文化」はこう述べています。「実のある仕方で人生を向上させる希望がないため,重要なのは精神面での自己改善であると人々は心得るようになっている。自分の感情の機微を知ること,健康食品を食べること,バレーやベリーダンスのレッスン,東洋の知恵に浸ること,ジョギング,“順応”する方法を学ぶことなどがそれである。……そうした人々はより生命感あふれる経験をし,怠惰な肉体をむち打って活動的にならせ,食べ過ぎで減退した食欲をよみがえらせようとする。……健全な精神状態とは,種々の抑制をかなぐり捨て,あらゆる衝動を即座に満足させることを意味している」― 29,39,40,43ページ。
人々がこうした道を追い求めると,その無意味な人生はいよいよ意味のないものになります。逃れようとあがくあまり,そうした人々は性の乱行や倒錯にのめり込み,蛮行や無分別な暴力行為に走り,麻薬を用い,果ては最終的な逃避手段である自殺を選びます。このすべては,自分の人生に意味がないと感じているために起きる事柄です。
しばしのあいだ生を受け,そののち墓場と忘却のかなたへ消えてゆきます。それにどうして意味があると言えるでしょうか。人間をアリやイナゴよりも重要な存在としているものは何ですか。宇宙空間の広大さを考えると,人間など無に等しく,場違いで,重要ではなく,かりそめの命が終わるととこしえに消え去ってしまうように思えてきます。人生はむだな努力のように見えます。
「どうしたら人生を意味あるものにできるだろうか」と人は考えます。『私がいなくなって,一体だれがどれほどの期間寂しく思うだろうか。だれかが寂しがるとしても,それは私にとってどれほど役立つだろうか。私は無数の人々の中の一人にすぎない。だれが私に目をとめ,私を気づかい,覚えていてくれるだろうか』。
しかし待ってください。目をとめてくださる方が,気づかってくださる方が,覚えていてくださる方がいるのです。人生には確かに意味があります。ただあなたがそう望み,人生を意味あるものとするならばのことです。続く一連の記事は,それが真実であることを示しています。