聖書理解の助け ― 捕囚(その三)
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
捕囚(その三)。
回復と離散
“帰還を認めない”バビロンの政策には,捕囚からの解放という希望は見いだせませんでした。かつてイスラエルが援助を求めたエジプトは,軍事面でも,他の面でも助けられる立場にありませんでしたし,他の諸国家もユダヤ人に対してあからさまに敵意を抱いてはいないにしても,同様に助けにはなりませんでした。何らかの希望の根拠があるとすれば,それはエホバの預言的な約束のうちにしかありませんでした。何世紀も前に,モーセやソロモンは,捕囚の後に起こる回復について語っていました。(申命 30:1-5。列王上 8:46-53)他の預言者も,追放からの救出の保証を与えました。(エレミヤ 30:10; 46:27。エゼキエル 39:25-27。アモス 9:13-15。ゼパニヤ 2:7; 3:20)イザヤはその預言の最後の十八章(49-66章)で,この回復という主題を取り上げて決定的な最高潮に発展させています。しかし,偽預言者は解放が早く起きることを予告して間違っていたことを示し,それら偽預言者に頼っていた人は惨めにも失望しました。―エレミヤ 28:1-17。
忠実なエレミヤは,エルサレムとユダの荒廃の正確な期間が70年で,その後に回復がもたらされることを示した人です。(エレミヤ 25:11,12; 29:10-14; 30:3,18)このことに関し,ダニエルはメディア人ダリヨスの第一年(西暦前538年ごろ)に,「エホバの言葉が預言者エレミヤにあって[示した],エルサレムの荒廃[の期間]を満了させるための年の数,すなわち七十年を,書によって悟った」のです。―ダニエル 9:1,2,新。
西暦前537年の初めごろ,ペルシャの王クロス二世は,捕らわれていた者たちにエルサレムに帰って神殿を再建するよう命じた布告を出しました。(歴代下 36:20,21。エズラ 1:1-4)その後,まもなく準備が行なわれました。知事ゼルバベルと大祭司エシュアに導かれ,4万2,360人の「追放者の子ら」(エズラ 4:1,新)に加えて7,537人の奴隷や歌うたいが,約4か月の旅をして,秋の第七の月までに彼らの諸都市に定住しました。(エズラ 1:5-3:1)神の摂理にしたがって,キリストに至るダビデ王の血統は,エホヤキン(エコニヤ)とゼルバベルによって保たれました。また,レビ族の大祭司の血筋はヨザダク,次いでその子エシユアを通して断たれることなく続きました。―マタイ 1:11-16。歴代上 6:15。エズラ 3:2,8。
後に,捕らわれていた者たちはさらにパレスチナに帰りました。西暦前468年,エズラは1,750人余の人々を伴って来ました。この人数には成人の男子しか含まれていなかったようです。(エズラ 7:1-8:32)その数年後,ネヘミヤはバビロンからエルサレムに少なくとも二度旅をしましたが,どれほど多くのユダヤ人が一緒に帰ったかは明らかにされていません。―ネヘミヤ 2:5,6,11; 13:6,7。
捕囚はユダとイスラエルの分離に終止符を打つものとなりました。征服者たちは,追放者を強制移住させたとき,部族の起源に基づく相違などを認めませんでした。『イスラエルの子らとユダの子らは共に虐げられている』と,エホバは述べられました。(エレミヤ 50:33,新)西暦前537年,最初の派遣団が帰国したとき,その中にはイスラエルの全部族の代表がいました。後日,神殿の再建が完了したとき,「イスラエルの部族の数にしたがって」,12頭の雄やぎの犠牲がささげられました。(エズラ 6:16,17,新)捕囚後のこのような再統合は,預言の中で示されていました。例えば,エホバは『イスラエルを連れ戻す』と約束されました。(エレミヤ 50:19,新)さらに,エホバは,「わたしはユダの捕らわれ人とイスラエルの捕らわれ人を連れ戻し,始めの時のように彼らを築こう」と言われました。(エレミヤ 33:7,新)二本の棒が一本にされることに関するエゼキエルの幻は(37:15-28),二つの王国が再び一つの王国となることを示しています。イザヤは,イエス・キリストが「イスラエルの両方の家には」つまずく石となることを予告しましたが,これは,イエスが,もしくはイエスが第三回ガリラヤ旅行の際遣わした十二人が,遠いメディアにいた捕らわれ人の集落を訪ねて北の王国の子孫に宣べ伝えなければならなかったということを意味していたとは,とても考えられません。(イザヤ 8:14,新。マタイ 10:5,6。ペテロ第一 2:8)イエスの誕生の際,エルサレムにいた女預言者アンナは,かつて北の王国の一部族として数えられていた,アシュルの部族の人でした。(ルカ 2:36)このすべては,十部族の者がだれもパレスチナに戻らず,「失われ」てしまい,その子孫が英国民族になったとする説の間違っていることを示しています。
ユダヤ人全部がゼルバベルと共にエルサレムに帰ったのではありません。「ほんの残りの者」だけでした。(イザヤ 10:21,22,新)そこに帰った人たちのうち,最初の神殿を見たことのある人はごく少数でした。老齢のためにその困難な旅行を敢行できなかった人は少なくありませんでした。外には,身体的には旅行しようと思えば旅行できたかもしれませんが,そのままとどまることにした人々もいました。何年もの間に物質面で幾らか成功したため,そのままとどまっていることで満足していた人々も確かに少なくありませんでした。エホバの神殿を再建するということが生活上最も重要な位置を占めなかったなら,どんな将来が待ち受けているか確かではない以上,その危険な旅行をしたいとは思えなかったでしょう。また,もちろん,背教してしまった人々には,帰るための動機付けとなるものは一つもありませんでした。
こうして,一部のユダヤ人が一民族として,散らされたままになり,いわゆるディアスポラ,すなわち「離散」のユダヤ人として知られるようになったのです。西暦前5世紀には,ユダヤ人の共同体はペルシャ帝国の127管轄地域の至る所にありました。(エステル 1:1; 3:8,新)追放された者たちの子孫のある人々はそのころでも政府の要職に就いていました。例えば,ペルシャのアハシュエロス王(クセルクセス一世)のもとにいたモルデカイやエステル,それに王の献酌官としてアルタシャスタ一世に仕えたネヘミヤがいます。(エステル 9:29-31; 10:2,3。ネヘミヤ 1:11)歴代志略を編さんしたエズラは,東方の様々の都市に追い散らされた人々の多くが「そのまま今日(西暦前460年ごろ)に至っている」と記しました。(歴代上 5:26,新)ギリシャ帝国が興隆するに至って,相当数のユダヤ人がアレクサンドロス大王により,その新しいエジプトの都アレクサンドリアに連れて来られ,彼らはそこでギリシャ語を学んで話せるようになりました。このアレクサンドリアで,ヘブライ語聖書をギリシャ語に翻訳してセプトゥアギンタ訳を作る仕事が西暦前3世紀に開始されたのです。その後,シリアとエジプトの戦争のために多数のユダヤ人が小アジアやエジプトにそれぞれ移されました。西暦前63年にはポンペイウスがエルサレムを征服し,ユダヤ人を奴隷としてローマに連れて行きました。
ユダヤ人がローマ帝国内の至る所に広く離散していたことは,キリスト教の急速な伸張に寄与する要素となりました。イエス・キリストはご自身の宣べ伝える業はパレスチナの土地に限定されましたが,その追随者には手を伸ばして奉仕を「地の最も遠い所にまで」拡大するよう命じられました。(使徒 1:8)西暦33年,ローマ帝国の各地から来たユダヤ人がエルサレムにいてペンテコステの祭りに出,霊によって生み出されたクリスチャンがパルチア,メディア,エラム,メソポタミア,カパドキア,ポントス,アジア地区,フリギア,パンフリア,エジプト,リビヤ,クレタ,アラビアおよびローマの国語でイエスについて宣べ伝えるのを聞きました。その幾千人もの人々は自分たちの国に帰る際,新たに見いだしたキリスト教を携えて行きました。(使徒 2:1-11)使徒パウロは訪れた都市の大抵の所で会堂を見つけ,そこで容易に離散のユダヤ人に話しかけることができました。ルステラでパウロはテモテに会いましたが,その母はユダヤ人でした。パウロが西暦50年ごろコリントに着いたとき,アクラとプリスキラはローマから来て間もないころでした。(使徒 13:14; 14:1; 16:1; 17:1,2; 18:1,2,7; 19:8)バビロンには大勢のユダヤ人がいたので,ペテロが「割礼を受けた者たち」の中で奉仕を行なうために努力を払ってその地に行くだけの価値がありました。(ガラテア 2:8。ペテロ第一 5:13)バビロンにおけるこのユダヤ人の共同体は,西暦70年にエルサレムが崩壊した後も,かなりの期間ユダヤ教の最も重要な中心地として存続しました。
(「助け」の本からの連載記事はこの号でしばらく中断します。)