ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目84 10/8 15–19ページ
  • 危険と益とを比較考量するあなたの権利

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 危険と益とを比較考量するあなたの権利
  • 目ざめよ! 1984
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 危険と益とを比較考量する
  • 親は危険と益とを比較考量しなければならない
  • 代わりになる方法
  • 将来の希望
  • あなたには選択の権利がある
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
  • 医師が輸血を強制しようとする時
    目ざめよ! 1974
  • エホバの証人と血の問題
    エホバの証人と血の問題
  • 血によって命を救う ― どのように?
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1991
もっと見る
目ざめよ! 1984
目84 10/8 15–19ページ

危険と益とを比較考量するあなたの権利

自分の体は自分のものです。自分の命は自分のものです。これらの陳述は当然の言葉のように思えるかもしれませんが,医療に関する,人の基本的な権利を指し示す言葉です。自分にどんな処置が施されるかを決める権利は本人にあります。多くの人はもう一人の医師の診断を聞いてから決定することによりこの権利を行使します。また,ある特定の療法を拒否する人もいます。ローレン・H・ロス博士の行なった1983年の調査から,『入院患者の20%は治療を拒否する』ことが明らかになっています。

しかし,自分が病気になったりけがをしたりした場合,どのようにして決定を下せるでしょうか。医師でもないのに,どうしたら最善の療法を知ることができるでしょうか。わたしたちは通常,専門家,つまり専門の教育を受け,経験があって,人々を助けることに一身を献げている医師たちに頼ります。医師と患者は,「危険と益の割合」を検討しなければなりません。それは一体何のことでしょうか。

ひざの具合が悪くなったとしましょう。ある医師から手術を勧められます。しかし,麻酔や手術の危険性あるいは足の機能に後日及ぶ障害の危険性はどの程度のものでしょうか。一方,どんな益がもたらされる可能性があり,自分の場合にそれらの益が実際に得られるという可能性はどれほどのものでしょうか。危険と益に関する全体像が説明されたなら,決定を下す権利は本人にあります。つまり,情報を把握した上で同意を与えるか,その治療法を退けるかの決定です。

危険と益とを比較考量する

現実の状況,つまり前述のジュゼッペ・オネダとコンシリア・オネダの場合の,危険と益の割合を考慮してみましょう。

オネダ夫妻の娘,イザベラは非常に重い病気にかかっており,医師たちはその子に定期的に輸血をするよう勧め(要求さえし)ました。愛に満ちたこの二親は,主に聖書の律法に対する自分たちの知識のゆえに異議を唱えました。とはいえ,危険と益の割合の問題はこの事態にどのような影響を及ぼし得たでしょうか。

近ごろの人々は大抵,患者の体内に血液を入れることは安全で効果的な療法であるとみています。しかし,17世紀当時,瀉血は老若を問わずだれに対しても行なわれる一般的な医療行為で,しばしば致命的な結果を招いていたということを忘れてはなりません。当時,親が自分の子供に対して瀉血が行なわれるのを拒んだとしたら,どんなことが起きていたでしょうか。

瀉血の全盛時代は終わりました。医療に携わる人々は今では輸血を支持しています。近年,医師たちは多くの事を成し遂げてはきましたが,輸血に危険の伴うことを認めないわけにはゆきません。ジョセフ・ボーブ博士(米国血液銀行協会,輸血によって広まる病気対策委員会の委員長)は,血液から肝炎にかかることが1943年に初めて取り上げられた,と最近語りました。同博士はさらに次のように述べています。

「それから約40年を経た現在,血液によって運ばれる少なくとも4種類の異なったウイルスで肝炎になる可能性が,輸血に伴う危険として認められている。また,血液や血液製品によってうつるものとして,ほかにも数多くの感染因子が挙げられている」―「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌,1984年1月12日号。

自分,あるいは自分の家族の健康や命に関連して問題を比較考量しなければならないとして,そのような病気にかかる危険は一体どれほど大きいのでしょうか。医師たちでさえ確かなことは言えません。輸血が行なわれてからずっとあとになって,これらの病気が原因で死ぬ人がいるからです。一例として,肝炎の一つの型(B型)だけを取り上げてみましょう。この病気のスクリーニング(病気の有無のふるい分け)は部分的にしか成功をみていません。あるニュース報道(1984年1月10日付)は次のように述べました。

「米国アトランタ市にある疾病対策センター(CDC)によると,1982年中,約20万人のアメリカ人がB型肝炎にかかった。病気が急性だったために入院した人は1万5,000人を数え,112人が死亡した。この病気に起因する慢性的な合併症により,さらに4,000人が死亡している」。

イタリア,ドイツ,日本およびその他の国々で,輸血によって生じた肝炎のために死ぬ人がほかに何人位いるでしょうか。確かに,輸血による死は比較考量すべき重大な危険の一つなのです。

また,輸血に関する危険と益の割合において,危険の占める割合は大きくなってきています。(ミラノの)ジオルジオ・ベネロニ教授は1982年5月に,「我々の知識が増えるにつれて,対応する輸血に関連した危険の数がいよいよ多くなっていることに我々は気づいている」と述べました。医師たちの間で警鐘を鳴らすものとなった一つの発見は,死亡率の極めて高いAIDS(後天性免疫不全症候群)という病気です。ジョセフ・ボーブ博士はさらに次のように述べています。

「輸血を受ける人のために,医師は予想される益に対する輸血の危険性を比較考量しなければならない。この概念は新しいものではないが,心配する患者に,輸血からAIDSになることはないといって安心させることがもはやできなくなったので,一層差し迫った問題になっている」。

医師たちは1978年当時,オネダ夫妻とその危険について話し合うことはありませんでした。当時,その危険は認められていなかったのです。しかし,今ではその危険が周知のことになっています。輸血の危険がより大きいことを示すこのような知識によって,オネダ夫妻の決定はそれほど大きな批判の対象にならなくなるのではありませんか。

親は危険と益とを比較考量しなければならない

大人であれば,輸血であれ,どんな療法であれ,その危険と益とを比較考量する権利があります。「法的適格性のある大人であればだれしも,自分の体の主とみなされる。賢明な仕方でも愚かな仕方でもそれを扱うことができる。命を救う治療さえ退けることができる。それは他人の関与するところではない。まして,国家の関与するところなどではない」。(ヘースティングズ・センターの会長,ウィラード・ゲイリン医博)しかし,子供のために,だれが危険と益とを比較考量するのでしょうか。

愛ある親が行なう,というのが一般的な経験の示す答えです。例えば,お子さんの扁桃腺の具合が悪くなり,手術を受けるよう勧められたとしましょう。親として,扁桃腺摘出手術の有利な点と危険な点について知りたいと思うのではありませんか。次に,その情報を,抗生物質療法についての危険と益の情報と比較してみるかもしれません。そうして初めて,あなたはほかの大勢の親たちと同様,情報を把握した上での結論に達することができるのです。

もっと重大な状況を考えてみましょう。愛する子供が事実上治療の見込みのない種類のガンにかかっているという悲しい知らせを医師から受けます。医師たちの話では,化学療法を用いることもできますが,化学薬品のために子供の具合は非常に悪くなり,しかもこの段階で病気の進行を止める可能性はほとんど無きに等しいとのことです。最終的な決定を下す権利は親にあるのではありませんか。

テレンス・F・アッカーマン博士の記事からは,親にそのような権利があるという答えを引き出すことができます。a 1 国家は未成年者を守らなければならないという主張に基づいて,数多くの法廷命令が入手されたことを同博士は認めています。ところが,多くの事例において,有名なM・D・アンダーソン病院兼腫瘍研究所は,『法廷命令による輸血を求めない方針』を取ってきました。なぜでしょうか。その理由の一部は,「これらの子供はいずれも潜在的に死病といえる病気にかかっており,結果が良くなることを予見できなかった」ためです。イザベラの場合も同じだったのではありませんでしたか。

アッカーマンは,「自分の子供を自分がふさわしいとみなす仕方で育てる,親の権威を尊重する」ことの価値を強調しました。同博士はこう論じています。「医師には親と家族とを支援する道義的な責務があるということは,小児科開業医の原則になっている。死病となる可能性のある病気に子供がかかっているという診断は親に大きなストレスを課すことになる。それに加えて,親が神の律法に対する違反行為と自分たちの信じる事柄と闘わなければならないなら,自分の役割を果たしてゆく親の能力がさらに損なわれるかもしれない。その上,家族の福利は,病気の子供の福利に直接の影響を及ぼす」。

代わりになる方法

輸血に伴う数ある危険を避けるため,研究者たちは血液の必要を抑える外科的な手法を開発してきました。実のところ,血に関するエホバの証人の立場はこの研究を促すものとなってきました。1983年の末に,米国の新聞各紙はアメリカ心臓学会の大会の席上行なわれた一報告について伝えました。それによると,生後3か月から8歳までの年齢層の48人の子供に対する心臓手術が,輸血なしで行なわれました。患者の体温が低くされ,血液はミネラルと栄養分を含んだ水で薄められました。しかし,輸血は行なわれなかったのです。当初,この手法はエホバの証人の子供にだけ用いられました。こうした手術を受けたエホバの証人の子供たちのほうが,従来の方法を使った手術を受けた子供たちよりも助かる確率がはるかに高いのに外科医たちが気づき,この手法を,担当する患者全体に広げることにしたのです。

輸血がどうしても必要だと医師たちのみなす症例のあることは理解できないことではありません。しかし,客観的に言って,次のように言うことができます。(1)輸血が本当にどうしても必要だと自分たちの確信する症例はごくまれであることを大勢の医師たちも認めている。(2)不必要な輸血をするという,長年にわたる有害な習慣がある。(3)輸血の引き起こすゆゆしい危険のために,輸血の危険と益の割合について独断的になるのは不可能である。ですから,エホバの証人でない人でも輸血をしないで欲しいと求める人が少なくないことを伝えている病院もあります。

将来の希望

喜ばしいこととして,個人の権利と尊厳にいよいよ注意が向けられるようになっています。イタリアのような啓発された国々は,できるだけ広範囲にわたる自由を保障するための努力を払っています。その中には,情報を把握した上で医療に関する決定を下す自由が含まれています。アメリカ医師会の作成した一小冊子は次のように説明しています。「医師の勧める治療法や手術を受けてみるか,それを受けずに生きてゆく危険を冒すかを最終的に決めるのは患者でなければならない。それは個人の自然権であり,法律もそれを認めている」。

これは未成年者にもあてはまります。親であれば,子供に影響を及ぼす医療に関する決定を下す上で,親として積極的な役割を果たさなければなりません。米国の裁判官の一協議会は,「子供にかかわる医療命令についての判事便覧」の中で次のように書いています。

「取るべき処置に選択の余地がある場合 ― 例えば,医師が80%の成功率のある処置を勧めても親がその処置を良しとせず,成功率が40%しかない処置については親に異存がない場合 ― 医師は医学的には危険が大きいとはいえ,親の側に異存のない道を取らなければならない」。

読者が医療に関する正確な情報を入手する自分の権利,そうです自分の責務を認識しているのであれば,このような助言は非常に意義のあるものになり得ます。大抵の場合,別の医師の意見を聞いてみるのは賢明です。その医学的障害を治療するさまざまな方法について,またそれぞれの療法に伴う潜在的な危険と益について尋ねてみることです。次いで,危険と益の割合を知り,情報を把握した上で医療に関する決定を下すことができるでしょう。その権利があなたにあることは法律で確立されています。神とあなたの良心とは,あなたにその責務があると述べています。

[脚注]

a 「善意の限界: エホバの証人と小児ガン」,「ヘースティングズ・センター・レポート」,1980年8月号。

[16ページの囲み記事]

おびえる小児科医

ジェームズ・オレスキ教授は最近次の事を認めました。

「小児科医また免疫学者としての私をおびえさせるのは……我々がAIDSについて知る前に,大勢の未熟児に輸血をしてきたという警戒期間がまだ終わっていないことである。……70年代の後半および80年代の初頭に,在庫していた血液が実際にAIDS因子で汚染されていたとしたら,大勢の未熟児がこの病気にかかる危険にさらされていたことになるかもしれない。……AIDS用の簡単なスクリーニング検査法はなく,その診断用の検査なしには,この病気の潜伏期にありながら自分は健康で献血できると感じる人を見分ける方法が実際には存在しないことに問題がある」―「データ・セントラム」,1984年1月号。

[17ページの囲み記事]

血液 ― 命の贈り物?

「昨年の10月にサム・クシュニックが死亡したとき,家族の者たちはユダヤ教の肩衣に包んで,お気に入りの靴をはかせて埋葬してやりたいと願った。ところが,葬儀屋はその遺体に触れようとしなかった。死亡診断書によると,その死因はAIDS ― 後天性免疫不全症候群 ― だったのである。

「クシュニック事件で異例なのは,AIDSの患者が死んだとき,のけ者として扱われたという点ではない。際立っていたのは,サムがまだ3歳で,しかもこの病気にかかる危険の高い主要なグループ ― 乱交を行なう同性愛者,ハイチ人そしてヘロイン中毒者 ― のいずれにも属していなかったことである。ロサンゼルスのこの幼い少年は,輸血をされたのちにこの病気にかかったAIDSによる死者の一人で,そのような人の数は少ないながらも,増加しつつある」。(1984年3月12日付,ウォール・ストリート・ジャーナル紙,1ページ。)サムは生まれたとき未熟児でした。病院の医師たちは検査のためこの子の血液の幾らかを取った際,その代わりに献血者の血液を輸血しました。この子が2歳でAIDSを発病したのち,その献血者たちの跡がたどられました。その一人は同性愛者で,幼いサムの命を奪った病気の症状はまだその人には現われていませんでした。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする