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目ざめよ! 1985
目85 3/22 12–15ページ

待ちに待った家族の再会

韓国のキム・インボクの語った経験

『まるで死人の中から戻ってきた人を迎えているようだ!』 妹のインスンを抱きしめたとき,そのような思いが私の脳裏を駆け抜けました。妹は30年以上も前に死んだものと考えていたのです。二人は胸がいっぱいになり,さながら最後にお互いを見た当時の小さな子供のように声をあげて泣きました。

私たちが再会できたのは,KBS(韓国放送)の提供するある番組のおかげでした。その番組によって,長い間互いに居所が分からなかった家族1万1,000人余りが劇的に引き合わされました。しかし,妹と私がどのように再会したかをお話しする前に,私たちや他の幾百万もの韓国人を引き離してしまった悲しい出来事に話を戻すことにします。

幼いころの記憶

私は1936年に韓国の港町である仁川<インチョン>で生まれました。3人兄弟の真ん中だった私は楽しく幼年時代を過ごしました。それから降ってわいたような悲劇に見舞われました。9歳の時に母が死んだのです。その翌年には父も死にました。まさに突然孤児になってしまったような感じでした。姉はこのとき既に結婚していましたから,インスンと私は,姉夫婦のところに行って住むことに決まりました。私たちは引っ越しをし,できるだけ努力して新しい生活に順応するようにしました。

ある日のこと,学校から帰ってくると,インスンは朝鮮半島中部のある町に住む,義理の兄の親族のところに里子に出したと聞かされました。13歳の少年だった私にとって,これは大打撃でした。両親を奪い取られたばかりか,今度はインスンまでが行ってしまったのです。姉は,もう少し落ち着いたらすぐにでもお互いにまた会えると約束して慰めてくれました。その日からずっと私は,再びこの小さな妹に会える日のことを心から願ってきました。しかしその時は長い間,正確に言えば33年が経過するまで訪れませんでした。わずか数か月後の1950年6月に朝鮮戦争が勃発したからです。

戦争による荒廃

戦争はどんな人にもそのつめあとを残しました。一進一退が続く北と南のこの戦争で,国全体が荒廃してしまいました。韓国では約100万人の一般市民が殺されましたが,当時の人口が約2,000万人というこの国にとって,これは相当な損失でした。町も村も破壊されました。家族は故郷を追われ夫,妻,親,子,兄弟姉妹が離れ離れになりました。社会全体が引き裂かれました。

私たちも戦争による破壊の猛威を免れませんでした。インスンと,インスンが一緒に住んでいた家族はみな死んだというニュースが親族から入ってきました。あとで分かったことですが,皮肉なことにインスンも,私たちの乗っていた難民の船が爆破された時に私も死んだということを,私たちの近所に住む人でその地域から逃れていた人から聞いていました。ですから,私たちはそれぞれ33年の間,お互いを死んだものと考えていました。

戦後の変化

1953年7月に戦争は休戦となり,国は灰の中から立ち上がろうとしました。私は1年半ほど孤児院にいましたが,結局はある裕福な実業家に引き取られました。その人は自分の事業の経営に当たらせるために私を育て,訓練することを望んでいました。私は学校での成績も良く,将来の見通しは明るいものと思われました。それでも頭の中はいつも混乱していました。「世界にはどうしてこんなに多くの苦しみがあるのだろう。もし神がいるとしたら,戦争のような事柄をなぜ許しておられるのだろう。このすべてには一体どんな意味があるのだろう」,とよく考えました。

やがて,在学中にエホバの証人に出会い,聖書研究を始めました。それによって,私の思いと心に灯がともったように感じられました。そして遂に私の抱いていた質問の答えが見つかりました。私は聖書から,戦争や苦しみが存在する理由,その解決策を学びました。それらが解決される時は近づいています。このことによって,実業家としての生涯を送るという私の計画に終止符が打たれました。慰めの神であるエホバに仕える決心をしたのです。程なく私は献身とバプテスマの段階まで進歩できました。20歳になってから,全時間の奉仕者である特別開拓者としての任命をものみの塔協会からいただきました。

私に最初に割り当てられたのは,戦争が勃発した時に妹が住んでいた地域でした。妹を見つけようと手を尽くしましたが,妹の家族について知っている人は一人もいませんでした。それでいよいよ妹は死んだに違いないと思うようになりました。非常に大勢の人々が戦争で家族を失ったわけですから,私も現実を受け入れなければなりません。

韓国の文字通り幾百万という人々は,私がしたのと同じような経験をしていました。そのような人たちは多年にわたり,居所の分からない肉親を捜すためさまざまな方法を試みてきましたが,あまり成功しませんでした。新聞広告やラジオでの発表も効果がありませんでした。一つの理由は,戦争のために国家の通信や運輸の体制が文字通り麻痺してしまったことです。これらのものが建て直されたのはごく最近のことです。もう一つの理由は,現在4,000万以上の人口を有する韓国に,名字が258しかないことです。人々の過半数は,金<キム>,李<リー>,朴<パク>,崔<チョイ>,鄭<チョン>という五つの主要な名字のどれかを持ち,名前が同じという人も少なくありません。

ユニークなテレビ番組

ところが最近,新しいものが登場しました。テレビとコンピューターの技術を使った番組です。KBSが提供するこの番組は,朝鮮戦争に関するテレビドキュメンタリーとして始まりました。離れ離れになった家族について2時間の枠で放送したところ,意外にも視聴者から問い合わせが続々と寄せられ,その初日に番組を20時間続けなければなりませんでした。それから番組は翌週ずっと1日14時間続き,結局毎週の連続番組となって約5か月間続きました。

居所の分からない親族を捜す人々はテレビ局と連絡を取りました。すると,ある番号を与えられ,テレビに出る日付が決められます。一方,そのような人たちの名前と他の詳細な事柄がコンピューターに入れられ,行方不明の親族を捜す他の人に適合するかどうかを調べます。これでだめな場合には,テレビ放送に出ます。めいめいが,与えられた番号,自分の名前,行方不明になっている人の名前,自分たちのふるさと,両親の名前,思い出すことができる他の詳細な事柄を大きなボール紙に書き,それを持ってテレビに出ます。

放送は全国にわたるもので,番組を見てその人やその状況に心当たりのある人はだれでもテレビ局と連絡を取り,まさにそのスタジオで再会することができました。人々が涙を流し,泣き,抱き合うところを国民全体がテレビで見るのです。国内の異なった場所に住む人々は,ツーウェイのテレビモニターによって再会を果たしました。韓国の新聞「中央日報」によると,この番組によって,助けを求めていた5万3,535人のうち1万1,089人が再会を果たしたということです。

1983年8月16日付のコーリヤ・タイムズ紙は,こう伝えています。「朝鮮の人々が,思わず,同じ時にこれほど多くの喜びの涙を流したことは,その歴史上一度もなかった。5,000年に及ぶ朝鮮半島の歴史の中で,幾千人もの同胞が,離れ離れになっていた親族と涙ながらに再会した時ほど,国民全体が一致と結合の感情的な経験をしたことはかつてなかった」。

信じがたいような再会

長い間死んだものと思われていた親族同士が,感情的ではあっても幸福な再会を果たしているのをテレビで見て,昔の記憶が私の脳裏によみがえり始めました。インスンがまだ生きているということがあり得るでしょうか。妹を捜すためにもう一度だけやってみることにしました。私はテレビ局へ行き,二人の名前や他の詳しい情報をコンピューターに入れてもらいました。1か月後にテレビに出る日付も決まりました。それから家に帰り,待ちました。

テレビに出ることになっていた日の五日前,テレビ局から電話があり,妹が見つかったので,妹に会うためにスタジオに来てほしいということでした。信じがたいことに思えましたが,妹はコンピューターに自分の名前を入れるため,私が行ったその同じ日にテレビ局へ行っていたのです。

テレビ局に行く途中,昔の記憶が胸にあふれました。そして戸惑いを感ずるようになりました。私は11歳の少女のことしか覚えていません。今,妹を見分けられるでしょうか。その人が妹であるとどのように確認できるでしょうか。もし妹でなければ,昔の悲しみや痛ましい思い出をよみがえらせたこともすべてむだになるでしょう。

二人が引き合わされた時,インスンは私をすぐ見分けることができましたが,私は心配でもあり,不安でもありました。愛してはいても,33年間死んだものと信じて疑わなかった人と会うのは,控え目に言っても気楽なことではありませんでした。本当にこの人はインスンだろうか。どうすればそれが確認できるだろうか。しばらく話したあとで,私たちは二人のふるさとである仁川に行くことに決めました。40㌔ほど離れた仁川には姉が住んでいます。

そこへ行く途中で二人は幼年時代のことを思い出し始めました。仁川のホワッピョン・ドンという町にあった家について話しました。その家に黒いトタン屋根があったことを二人とも覚えていました。夜に雨が降ったりすると,私たちは屋根に当たる雨の音にひどくびっくりしてベッドに飛び込み,一緒に寝具の下にもぐり込みました。やはりトタンの,赤く塗った屋根の家に住んでいた隣の人が腸チフスにかかって髪の毛が全部抜け,その後すぐに私たちの母が同じ病気にかかって死んだことも思い起こしました。

このような記憶から,この人が確かに私が捜し続けていた妹に違いないことが分かりました。喜びの涙が私たちの目にあふれました。もう自分の感情を抑えることができませんでした。私たちは再会できたことがうれしくて声を上げて一緒に泣きました。

より大きな喜びが続く

その日に二人が会ってから,私の喜びは増し加わっています。インスンが聖書の研究をするようになったのです。妹もまた,世の中に苦しみがあることの理由や,ご自分を愛しご自分に従う人々すべてに対してエホバ神が抱いておられる壮大な目的にあずかるために行なうべき事柄を知るようになるでしょう。

幾千人もの人々が,長い間居所が分からなかった家族と再会するという筆舌に尽くしがたい喜びを経験している一方,ほかの幾百万という人はまだその喜びを味わっていません。北朝鮮と韓国を分ける国境によって家族から分かたれている人々は1,000万人に上るという人もいます。国境を越えて連絡を取ることは許されていないので,国境の向こうの親族が死んでいるのか生きているのかさえ分からない人が大勢います。

しかし,これらの人々に,また同じ状況にある他の人々にも希望はあります。聖書は,イエス・キリストの手中にある,神の王国が,人類を分裂させてきた政治的境界や他の境界すべてをやがて除き去る,と述べています。(ダニエル 2:44)その時には,ヨハネ 5章28,29節にある,イエスの次の約束も成就することになります。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです」。その時は何という大きな歓びの時になるのでしょう! その時,遂に,全人類が待ちに待った家族の再会が実現されるのです。

[13ページの拡大文]

私たちはそれぞれ33年の間,お互いを死んだものと考えていました

[15ページの図版]

居所が分からない親族を捜し求める人々は,このようにしてテレビに出た

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