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  • あなたの将来は運命によって決まりますか
  • 目ざめよ! 1985
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目ざめよ! 1985
目85 7/8 12–13ページ

聖書の見方

あなたの将来は運命によって決まりますか

子供の顔の泥を優しく手で払いのけるのは,子を持つ多くの人がごく普通に行なう愛情のこもったしぐさです。ただしこの時は状況がひどく異なっていました。その子は埋葬されるところで,この子のほかにも2,000人以上の人がある災害で命を失ったのです。その災害に見舞われてインド全体が悲しみに沈み,世界の他の国々はその恐ろしさに息をのみました。最初に述べた情景は,白い有毒ガスが漏れて雲のようにボーパル市を覆い,死傷者が出たあとに見られたものなのです。

あるインド人はこの悲劇を見て,「これは運命だ」と叫びます。『これは天命である』,あるいは『こうなると書かれていた』などという考えに浸り切る人もいます。しかし,すべてのインド人がボーパル市の災害を盲目的な運命のせいにしているのではありません。

あなたはどのように考えますか。運命のせいでそうなったのでしょうか。運命によって将来が決まるのですか。

運命は“人を操り”ますか

運命と関係のある宿命論の学説によれば,「物事は,無力にすぎる人間には変えることができないような仕方で,常にあらかじめ定められる」とされています。だれが定めるのでしょうか。ある宿命論者は,「人格を持たない超自然的な力」であると答えます。人の死ぬ時期や死に方を含め,人の生活の型全体は神によって定められており,何物もそれを変えることはできないと考える人もいます。

しかし聖書は,それとは対照的な見方をしています。ある出来事,良い人々全体と悪い人々全体の運命はあらかじめ定められているが,個々の人の運命は決められていないと述べているのです。「聖書辞典」は,ある翻訳に用いられている「運命」という語について注解し,こう述べています。「文脈を調べてみると,盲目的な宿命論が示されているところはどこにもないことが分かる。その語は,時に人間に共通の巡り合わせ,時に人間が自分の身に招く破滅,あるいは地域社会にもたらす破滅を指して用いられている」。―一例として改訂標準訳の民数記 16:29をご覧ください。

聖書がどのように原因と結果に関する基本的で道理にかなった法則を支持しているかに注目してください。こう記されています。「惑わされてはなりません。神は侮られるような方ではありません。何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」。(ガラテア 6:7)この節は一つの公理です。証拠や“理由”は必要とされません。したがって,わたしたちは自分のまくものを刈り取るのですから,わたしたちの身に生じる多くの事柄の結果に対して責任を持つのは明らかにわたしたちではないでしょうか。盲目的な運命が物事を決定するのではありません。

選択の自由

わたしたちには選択の自由が与えられています。選択の道が開かれていることは,次の聖句から明らかです。「わたしは……あなたの前に命と死,祝福と呪いを置いた。あなたは命を選び,あなたもあなたの子孫も共に生きつづけるようにしなければならない。すなわち,あなたの神エホバを愛し,その声に聴き従い,これに堅く付くのである。神はあなたの命,あなたの長い日々なのであ(る)」。(申命記 30:19,20)選択の道がなかったなら,どうしてエホバ神はわたしたちに命を選ぶようお勧めになるでしょうか。

もしわたしたちが肉体を着けたロボットにすぎず,天にいるプログラマーのような人によってその行動があらかじめ定められているとしたら,永遠の命に通ずる「狭い戸口を通って入るため,精力的に励みなさい」というイエスの助言にどれほどの価値があるでしょうか。あるいは「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」というイエスの言葉にどれほどの意味があるでしょうか。全くなくなってしまいます。霊的に無精な人は,神に仕えるために努力したり,聖書の指針に堅く従って耐え忍んだりするための理由を持たなくなってしまうでしょう。―ルカ 13:24。マタイ 24:13。

イエスの追随者であったパウロが,自分の最終的な運命はすでに確定していると信じていたのなら,パウロの次の言葉は意味をなさなくなってしまいます。「わたしがそれをすでに受けたとか,自分がすでに完全にされているとかいうのではありません。わたしはただ,そのためにキリスト・イエスがわたしをとらえてくださったものを,自分がそのとおりとらえ得ないものかと追い求めているのです。兄弟たち,わたしはまだ,自分がそれをとらえたとは考えていません。それについては一つのことがあるのみです。すなわち,後ろのものを忘れ,前のものに向かって身を伸ばし,キリスト・イエスによる神からの賞である上への召しのため,目標に向かってひたすら走っているのです」― フィリピ 3:12-14。

だれが勝利を得るかが競走の始まる前に運命によって指示されているのなら,クリスチャンが「前のものに向かって身を伸ばし」,『目標に向かって走る』のは意味のあることでしょうか。そもそもなぜクリスチャンは競走に加わるのでしょうか。“なるようにしかならない”式の考え方は,聖書の見方にかなったものではありません。

ですから,わたしたちは,あらゆる行動を支配する卓越した力の手のうちにある糸で操られる人形にすぎないわけではありません。わたしたちの運命が,誕生の前に定められていたということはないのです。

良い人に悪い事が生じる理由

運命によってわたしたちの生活が決まるのでないとしたら,良い人々に悪い事が臨むように見えるのはなぜでしょうか。「時と予見しえない出来事」はわたしたちすべてに影響を及ぼす,というのが聖書の与える一つの答えです。(伝道の書 9:11)人々は単なる偶然によって罪のない犠牲者となることがあります。その人は不都合な時に不都合な場所にいたと言えるでしょう。

聖書中に見られる別の答えは,人類は罪を受け継いだために不完全であるという事実です。「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がった」のです。(ローマ 5:12)ですから,人の行動だけではなく,人が建てる物や作る物も誤りや欠陥を免れません。安全に対する警戒を怠ったり,発せられる警告に注意しなかったり,善意を貪欲で押しのけてしまったりするようなことは,人類の不完全な性質に起因していると言えます。

したがって,運命によってわたしたちの将来が決まるのではありません。わたしたちは自分自身の運命を選ぶ自由を与えられています。英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーは,「我は我が運命の主人。我が魂の指揮官」と述べ,同様の確信を言い表わしました。しかし,ヘンリーよりも3,000年以上前に聖書の一筆者はその点をより正確に書き表わしました。その人は,良い将来も悪い将来も自分自身の手のうちにあることを知っていました。それは,神に従うことを選ぶか選ばないかにかかっていたのです。その人は次のように書きました。「あなた方が仕える者を今日自分で選びなさい。しかし,わたしとわたしの家の者とはエホバに仕えます」― ヨシュア 24:15。

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ボーパル市の悲劇は運命によって生じたのだろうか

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人の生活全体は神によって定められており,何物もそれを変えることはできない,と信じている人は多い

[13ページの拡大文]

聖書は,ある出来事はあらかじめ定められているが,個々の人の運命は決められていない,と述べている

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