ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目86 7/8 11–14ページ
  • カトリックの司教たちが会議を開いた理由

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • カトリックの司教たちが会議を開いた理由
  • 目ざめよ! 1986
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 「カトリック教会会議: 無言の離教に直面」
  • ある枢機卿の率直な意見
  • 分裂を生じさせる論争
  • カトリック教徒にどんな影響を及ぼすか
  • 司教会議 ― それは何を成し遂げたか
    目ざめよ! 1972
  • 司教たちは童貞性を再確認した ― なぜか
    目ざめよ! 1972
  • カトリックの司教と「眠れる巨人」
    目ざめよ! 1988
  • 公教要理の危機
    目ざめよ! 1978
もっと見る
目ざめよ! 1986
目86 7/8 11–14ページ

カトリックの司教たちが会議を開いた理由

イタリアの「目ざめよ!」通信員

「[第二バチカン]公会議 ― 教会の危機の原因はそこにあるのか」。この質問によってイエズス会の刊行物「ラ・チビルタ・カットリカ」(1985年10月5日号)は,カトリック教会に影響を及ぼしている「根本をゆるがす世界的な危機」に注意を促し,四つの主要な側面,すなわち信仰の危機,道徳の危機,宗教儀式の危機,および教会職員の危機を強調しました。その刊行物はさらに,「かなりの数の司祭が司祭職を捨てている。信仰の危機が原因で離れる者もいるが,個人的な理由による者のほうが多い」と述べています。

一般に知られているこの危機を考えれば,ローマで開催された1985年教会会議(司教たちの集まり)が,世界の6億2,700万人のカトリック教徒にとって重大な意味を持つのも当然です。それは,過去数十年にわたるカトリック教会の変遷を注意深く見守ってきた他の人々にとっても興味を引かれる会議です。しかし,ほかのどんな理由があってこの特別な教会会議が開かれることになったのでしょうか。何が問題になっていたのでしょうか。さらに,この教会会議は結局カトリック教徒にどのような影響を及ぼすのでしょうか。

「カトリック教会会議: 無言の離教に直面」

カトリックの文筆家であり歴史家であるアンヌ・ローシェは,上記の主題でカナダのトロント・スター紙に記事を載せ,第二バチカン公会議の閉会後20年が経過して「伝統的なカトリックの教理や規律は衰退している。我々は皆,驚くべき統計を見てきた。避妊に関する教会の教えを受け入れている人は30歳未満のカトリック教徒の5%以下であり,信仰と道徳の問題に関して不謬の教えを与える法王の権能を認めている人は同グループの10%以下である」と説明しています。

この食い違いによって,ローシェの言う二つのカトリック教会,つまり「今では一握りの人々からしか忠誠を示されない……法王の教学権[教える権威]を中心とする公式の教会と,……ますます独立的傾向を示す国立教会において,カトリック生活のあらゆる面を締めつけている革命家たちの支配する非公式の教会」ができてしまいました。この総括が正しいとすれば,法王が司教たちと協議するために特別な会合を取り決める必要を認めたとしても少しも不思議ではありません。ところで,その特別な教会会議の開催を促すどんな出来事があったのでしょうか。

ある枢機卿の率直な意見

1962年から1965年にかけて第二バチカン公会議が開かれた時,カトリック社会の人々は大きな期待を抱きました。といっても,期待するところは異なっていました。一部の人々は特定の問題において比較的自由な取り組み方を期待し,そのように取り組みましたが,いっそう強力な一致が達成されるのを願っていた人々もいました。失望した人は少なくありませんでした。その中には,バチカンでは法王に次ぐ権力を持つ高位聖職者であり,教理聖省(バチカンにある,カトリック教理の純粋さを検閲する部門)の長官である,ドイツ人のヨゼフ・ラツィンガー枢機卿も含まれていました。

最近のインタビューでラツィンガー枢機卿は次のように述べました。「これまでの20年間がカトリック教会にとって全くの不運であったことに議論の余地はない。あの公会議に続いて生じてきた事柄は,法王ヨハネ23世の時代といい,その後のパウロ6世の時代といい,皆の期待にひどく反しているように思える」。

何が期待されていたのでしょうか。同枢機卿は続けてこう述べています。「歴代の法王と公会議教父たちが期待していたのは,カトリックの新たな統一であった。ところが,パウロ6世の言葉によれば,自己批判から自己破壊へと行き過ぎたかに思える対立が起きてしまった。新たな熱意を期待しながら,結局は退屈と落胆に終わることがあまりにも多かった。躍進を期待していたのに,徐々に衰退してゆくのを見なければならなかった」― ビットリオ・メッソーリ著「ラッポルト・スッラ・フェーデ」,英文の題名は「ラツィンガー報告」。

そのため,1985年1月25日,法王ヨハネ・パウロ2世は同年11月24日から12月8日にかけて開かれる特別の教会会議を召集し,カトリック世界を驚かせました。法王は165人の司教を招待しましたが,そのうちの102人は世界中の全国司教協議会の議長でした。そしてもちろん,投票権のないオブザーバーも招待しました。子供が幻想的な花火を期待するように,報道関係者も出席していました。

分裂を生じさせる論争

教会会議を戦闘隊形を整えるための場所と見る向きもありました。フランス系カナダ人作家のダニエール・ブレインが,「教会心臓部の“進歩派”と“保守派”の間で何年も続いてきた陰の闘争が突如として公然たる戦争になった」と述べたのはその例です。(「ラクチュアリテ」,1985年11月号)一方の側には,第二バチカン公会議以降達成された変革や進歩にしがみつこうとする,いわゆる進歩派司教がおり,他方の側には,第二バチカン公会議以前にあった理想的な状態を幾らかでも回復したいと願う保守派の司教がいました。

この対決に当たって,進歩派は“審判員”すなわち法王ヨハネ・パウロ2世をだれよりも恐れました。なぜでしょうか。なぜなら,法王はカトリックの伝統的な教えや慣行に戻りたいという意向をいろいろな機会に明らかにしていたからです。作家のマルコ・トサッティはトリノの日刊紙「スタンパ・セラ」の中で次のように書いています。「教会会議の教父たち……にとって,ヨハネ・パウロ2世が日ごとに強化している『見解』と食い違う主張を支持するのは難しいことになりかねない」。

カトリック教徒の中には,産児制限,独身制,女性の聖職叙任といった問題が十分に討議されるものと期待していた人が少なくありませんでした。事実から言えば,それらの問題は,まず考慮されませんでした。離婚したために聖体拝領を禁じられているカトリック教徒に関する広く見られる問題を提出した司教もいました。米国ニュージャージー州のある司祭は,「離婚して再婚した人に対して秘跡を執り行なわないとしたら,自分の教会は空も同然になる」とトロント・スター紙に語りました。しかし,司教たちは解決策を示さず,その問題は教会会議の最終報告の中でも言及されませんでした。

主要な問題は,一致,つまり法王制度と幾つかの国の全国司教協議会との間に生じた断絶を埋めることだったようです。ダニエール・ブレインが,「失われた一致の探求は,かつてなく,時代のすう勢となっている」と書いているとおりです。(「ラクチュアリテ」)一致に関連して,解放の神学の問題もありました。それは,教会は抑圧されている人々の政治的・社会的闘争に関与すべきであると主張する神学です。それは近年カトリックの僧職者たちを分裂させており,コロンビアの司教であるダリオ・カストリヨン・オヨスから非難されました。

ふたを開けてみると,教会会議では激しい対決は生じませんでしたし,法王は,少なくとも公には,司教たちに圧力をかける様子を見せませんでした。ロンドン・タイムズ紙の通信員であるピーター・ニコルスは次のように伝えています。「法王は本会議すべてに出席したが,最終日に至るまで発言しなかった。また,票決が行なわれている時にはきまって席を立ち,議場から去って行った。票決はだれにも見られずになされるのだが,法王としては個々の意見に影響を及ぼそうとしているとの印象を与えたくなかったのだ」。

そのため,報道関係者は失望しました。神学上の花火は線香花火のように終わったのです。意見の明確な違いはありましたが,激論は回避されました。今回の教会会議のことは,イタリアのカトリック労働者の雑誌「アツィオーネ・ソチャーレ」の「一致すれども相違あり」という楽天的な調子の見出しに要約されていると言えるかもしれません。ニューヨーク・タイムズ紙は,危ない対決が回避されたことを指摘しているのでしょう,「教会会議の最終報告は,少なくともその会議が直面した事柄と同じほど,避けた事柄のために注目に値する」と述べました。

カトリック教徒にどんな影響を及ぼすか

信者に対する教会会議の報告は,まとめやすいものではなかったようです。報告書は,5人の枢機卿から成る委員会によって二度作成されましたが,余りにも悲観的であるという理由で結局は退けられました。最終的に,三度目の幾分積極的な報告書が受け入れられました。では,それには一般のカトリック教徒に伝えるべきどんな事柄が書かれているのでしょうか。

非常に重要な関心事となる一つの課題は,「神の言葉」という見出しのもとに記されています。こう述べられています。「教会には,畏敬をもって神の言葉を聞き,信仰をもってそれをふれ告げる使命がある。(「デイ・ベルブム 1」[と比較せよ])したがって,福音を宣べ伝えることは教会,とりわけ司教のおもな務めの一部であり,今日,最高度の重要性を帯びている(「ルメン・ジェンティウム 25」[と比較せよ])」。しかし,教会会議報告の中で,大抵の人が入手できる神の言葉 聖書からの引用はおよそ7回しかありませんでした。それとは対照的に,上記の引用文が示しているような,少数の特権階級の者しか利用できない教会の回勅や公文書への言及は,少なくとも44回に及んでいます。聖書をほとんど用いないこの種の報告書で,クリスチャンとしての自分の務めを本当に知りたいと願う誠実なカトリック教徒の心をどうして動かせるでしょうか。

また,報告書には,「福音宣明の業は,司教のみならず司祭や執事にとっても,実際,すべてのクリスチャンにとって第一の務めである」とも述べられていました。さらに,「福音宣明の業は証言によって行なわれる。その証言は言葉だけでなく,人の生き方によって行なわれる」とあり,その課題が明確になっています。

誠実なカトリック教徒の皆さんには,是非このことについて考えていただきたいと思います。今日,本当の意味で神とキリストの証人として行動しているのはだれでしょうか。今日,言葉においても振る舞いにおいても,生活のあらゆる分野で福音宣明を行なっているのはだれでしょうか。今日,犠牲をいとわず,命や自由を奪われても,キリストによる神の王国の支配という福音,すなわち,良いたよりをふれ告げているのはだれでしょうか。その音信を伝えるために定期的にあなたの家に訪れるのはだれですか。あなたの属する教会の司祭ですか。それとも,エホバの証人ですか。(イザヤ 43:10,12および使徒 1:8と比較してください。)

カトリック教会は,神学,政治,社会問題などによる対立や反抗によって引き裂かれていますが,真のキリスト教は次のような聖書の指針に従わなければなりません。「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。「さて,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧めます。あなた方すべての語るところは一致しているべきです。あなた方の間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい」。―ヨハネ 13:35。コリント第一 1:10。

カトリック教会の司教の“進歩派”と“保守派”という分裂した階級に一致がないことは明白です。教会会議を開く必要があったこと自体,その分裂を目立たせるものとなりました。

[12ページの図版]

ローマのサンピエトロ大聖堂で議事進行中の教会会議

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする