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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
塔63 12/15 765–766ページ

読者よりの質問

● 軍需工場で働くこと,陪審員をつとめること,クリスマスカードやツリーを売ることについて,クリスチャンはどんな立場をとるべきですか。―多くの問合せをまとめた質問

ものみの塔協会は,御国の福音を,もろもろの国民にあかしするため全世界に述べ伝える目的で組織されたもので,その最も効果的な方法については惜しみなく助言を与えます。しかし他の種類の活動または仕事については,特別の推薦を行ないません。世俗の仕事に関係して起り得るあらゆる状態のために規則をつくるとすれば,ひとつひとつこの仕事はどんな場合にはよく,どんな場合には良くない,とすべてこまかく区別して,タルマドのような大部の規則集を編さんしなければならないことになります。主はそのような責任を協会に課せられていません。自分の事を決定するのは各人の責任です。このことに関係した問題の例として,クリスマスカードとかツリーを売る場合のことを考てください。もしそのことが悪いなら,クリスマスのために使われる七面鳥を売る肉屋さんはどうしますか。あるいはクリスマスプレゼントに使われるセーターを売る店員はどうしますか。どこに一線を引きますか。また,どんな場合にあなたの仕事は軍需産業になりますか。戦車製造の流れ作業列にはいって,戦争に使われる物を作る必要はありません。陪審員としての仕事についていうなら,あなたはこの仕事引き受けられますか。たとえば離婚訴訟の場合などには,姦淫以外の理由で離婚が認められることもあるのです。訴訟当事者の一方または双方の主張ともあなたは受け入れがたいこともあり,クリスチャンとしての良心がその仕事にたずさわることを許さないでしょう。

これらの事柄に対する協会の沈黙を賛成と見なすべきではなく,また協会が公にすることを望まぬ非難と見なすべきでもありません。その沈黙は,選ぶことは個人の責任であって協会の責任ではない,という協会の考えをあらわすものです。良心の責めを感じないような行いをせねばならぬのはその人であって協会ではありません。その人にはこまかい事情がよくわかっていますが,協会にはわかりません。エホバの証者は。聖書を読み,ものみの塔協会の出版物を研究しました。それらにはクリスチャンの導きとなる正しい原則とエホバのご要求が説明されています。ですから各人は,世俗の仕事において,どうすれば良心の責めを受けずにすむか,自分で決定できるはずです。次のことを忘れてはなりません。つまり私たちはこの世のものでなく,またこの世を存続させるための計画や希望をもたなくても,この世にいるので,この世の活動から完全には分離できないということです。そこで各自が責任をもって自分の良心に従い,同じ問題に対して,人がその良心に従って異なった決定を下すことがあっても,それを批判したり,批判されたりしないようにしましょう。私たちは「他人の良心によって左右される」べきではありません,「他人の僕をさばくあなたは,いったい,何者であるか。彼が立つのも倒れるのも,その主人によるものである」。―ロマ 14:4。コリント前 10:29,新口。

● 使徒たちがお互を,ペテロ,ヨハネ,パウロと呼んだように,聖書の記述者たちは姓でなく名を使用したので,今日の集会においても私たちは名を使用すべきだ,と主張する人がいます。つまり,姓に「兄弟」とか「姉妹」をつけて呼ぶのは,偽りの宗教のやりかたによく似ているというわけです。これについてはどうお答えですか。―カリフォルニア州の一読者より

偽りの宗教は,「神権政治」とか「クリスチャン」という言葉を使います。しかし私たちもそういう言葉を使います。他の人々がそれらを誤用しているというだけの理由で,私たちがその正しい用法を捨てる必要はないからです。姓に「兄弟」とか「姉妹」をつけて呼ぶのは偽りの宗教の習慣だ,ということはできません。というのは聖書もときどきそうしているからです。そして,ある翻訳が,たとえば「兄弟サウロ」となっていようと「サウロ,兄弟」となっていようと,この問題の意義には少しも影響しません。(使行 9:17; 22:13。コリント前 16:12。ペテロ後 3:15)そのうえこれらの表現はローマカトリック教会がある人を平信徒と区別するために使う言葉のような,人々を区別する形式的な肩書になることもありません。イエスはそういう区別を許さず,かえってすべてのクリスチャンが対等の立場にあることを強調し,「あなたがたはみな兄弟なのだから」と言われました。―マタイ 23:8,新口。

名を用いるといくつかの問題が生じます。グループと交わり始めて間もない人,あるいはまだよく知らない人を演壇から名で呼ぶなら,あまりになれなれしく聞えるでしょう。また司会者が20歳代の人で,会衆内に60歳,70歳の人がいる場合に,その若い司会者が年長者を名で呼ぶなら,尊敬を欠いているように見えるでしょう。また,若い司会者は年長者をよく知らない場合が多く,演壇から下りて会話を交す時ですら名を呼ぶのがためらわれるくらいですから,演壇から名を呼べばとりわけ尊敬を欠いているように思えるでしょう。もう一つは,妻は真理にはいっていても夫ははいっていない場合です。しかし夫は集会にくるかも知れません。夫は他の男性が自分の妻を名で,しかも演壇から全会衆の前で呼ぶのを聞きます。夫がそれを好まぬのは理解できます。それで,これらの場合や他の場合を考えるならいったいだれを名で呼ぶことができますか。名で呼べばある人は気を悪くするでしょうし,ある人はあなたが名で呼ばないといって感情を害するでしょう。ですから演壇から呼ぶ場合自分の家族をも含めて,すべての人を姓で呼ぶなら問題は少しもありません。そうすれば,ある人を一つの方法で呼び,他の人を他の方法で呼んで,会衆を分裂させるようなことをしないですみます。もちろん,新しく来て,まだ真理にはいっていない人を兄弟,姉妹とは呼びません。それはこの言葉で表わされる霊的な関係がないからです。しかし新しい人は聞くだけですから,集会中に演壇からその人を呼ぶことはめったにありません。

聖書の中で,ペテロ,ヨハネ,パウロなど,名が使われているためある人はこれを,名で呼ぶことの正しい証拠ととるかも知れません。しかしそれらの名は,そのあとに姓がつづく名前ではなかったのです。多くの場合,名前といえばそれだけしかなかったのです。ある者は別名をもっていました,たとえば,ペテロの最初の名前は「シモン」でした。しかしのちになってアラムふうに「ケパ」,またギリシャふうに「ペテロ」と呼ばれるようになりました。ある聖句で彼は「シモン・ペテロ」と呼ばれています。ですから「ペテロ」は名というよりも姓でした。マルコ伝 3章16節は,「シモンにペテロという名をつけ」とさえ述べられています。しかしこれは私たちが今日もつような姓ではなく,特にその名にふさわしかったためにつけられた別名,または余分の名前で,ヘブル人はよくそういうことをしたのです。今日私たちが使うような姓は,聖書時代のユダヤ人の間になかったのです。「ウェブスター聖書辞典」(1944年)は418頁で次のように述べています。「ヘブル人には姓というものがなかった。人を呼ぶ場合は,ナザレのイエスとか,アリマタヤのヨセフ,マグダラのマリア,エルコシ人ナホムというふうに個人の名前にその住む町の名を付して呼んだ。また,ヨナの子シモンというふうに家系によって,あるいはシモンペテロ,預言者ナタン,大工のヨセフ,収税吏のマタイ,熱心党のシモン,アレオパゴスの裁判人デオヌシオなどのように,性格,職業その他の特徴を付して呼んだ」。

この点について,1942年版の「エンサイクロピディア・アメリカナ」は,「名前」という項で,次のように述べています,「ヘブル人,エジプト人,アツスリア人,バビロニヤ人,ペルシャ人,ギリシャ人はいずれも姓をもたなかった。また初期のローマ人についても同様のことが言えるだろう」。(第19巻,685頁)この事典はさらに,現在のように姓を用いる方式は何世紀ものちにできたことを示しています。それで,以上の事柄は,聖書の中の人物が,今日のような名と,正式の場合に用いられる姓とをもっていなかったことを示します。したがって,私たちには名と思われるペテロ,ヨハネ,パウロその他が使われていても,それは初期クリスチャンや使徒たちの間の親密さを特に示すものではありません。それは当時の習慣だったのです。

では現在ではどうするのが適当ですか。未知の人に紹介されたなら,ふたりが親しくなるまで姓で呼びます。もし年齢に大きな開きがあるなら,若い人は,年長者を名で呼ばないほうがよいでしょう。たいせつな集会に人々が集まっている場合は姓を呼ぶのが適当です。これは習慣にもかない,品位もあり,相手を尊敬した呼びかたです。それで私たちは,会衆の集会の時,姓を呼ぶ習慣に従います。しかし姓に,この世で使われるミスターとかミセス,ミスなどをつけるのでなく,私たちがこ世の人々よりもずっと親密な関係を楽しんでいることを示す言葉を添えます。

主の祈りは「われらの父よ」で始まります。この言葉は神が多くの者の父であること,またそのように呼びかける人々は当然兄弟姉妹であって,みな神を頭とする一つの家族関係にあることを示します。ですから私たちが集会でお互を兄弟姉妹と呼ぶのは,この恵まれた関係,すなわち霊的な家族的一致を強調していることになります。このすばらしい関係こそ,エホバの証者を他と異なったもの,お互を思いやり,お互に助け合うものにするのです。私たちはこの関係に感謝しています。そしてその関係を認め,それに人々の注意を引くことを少しもためらいません。この世の人の思わくを気にして,それを恥じたり気まり悪く思うことはありません。この世の人々も多くの場合名を呼びます。彼らは私たちを名で呼び,私たちも彼らを名で呼びます。しかしそれは形式ばらないこと,あるいは親しい友であることを示すにすぎません。しかし私たちが「兄弟」「姉妹」という場合は,一つの祝福された関係,つまりひとりの父エホバ神の下にある家族関係を示します。これは名を用いることによって示されるどんな関係よりもはるかに親しく,そしてより貴重な関係です。そうではありませんか。

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