唯一の正しい宗教を選ぶ
『ただ律法と証詞とを求むべし。彼らの言うところ,この言葉にかなわずば,晨光あらじ。』イザヤ 8:20。
1 どんな仕方によつて,キリスト教国内にある幾百という宗教の中から正しい宗教を探し出す仕事は簡単になりますか?
『正しい宗教はどれであると,どうして知ることができようか? 幾百という違つた宗教があり,それぞれ正しい宗教であると主張している。各宗教を研究する時間がないから,正しい宗教を選ぶことはできない。正しい宗教を選ぶことは,乾草の中に針を見つけようとするのと同じである。』ヱホバの証者が人々の家を訪問すると,ある人は実際にそう答えます。そう考えるのももつともなことですが,問題は諦めてしまう程に困難でむづかしいものではありません。要するに,正しい仕方如何なのです。乾草の中の針を見つけるために,藁を1本1本つまみ上げて調べる必要はありません。強力な磁石で探つてみると,それは針を吸いつけて藁をうけつけないため,早く成功します。それとも,火は直ぐに藁を焼き尽くして,針だけを残します。同じく,正しい宗教を見出すために,幾百という宗教を一つ一つ丹念に調べる必要はありまん。聖書は象徴的な磁石のようなもので,真の宗教は聖書にしつかりとつきますが,偽りの宗教の乾草は棄てられます。前述の記事の示すところによると,ヱホバの御言葉は偽りの藁を焼きつくして清められた真理だけを残す火のようではありませんか。それで正しい仕方は,一つ一つの藁,すなわち一つ一つの宗教を調べるのではなく,聖書を研究して真理を明白に示し,そして偽りを亡ぼしてしまうことです。その方法を用いて,この記事は唯一つの正しい宗教を選びます。
2 これは聖書的な仕方であると,私たちはどのように知りますか?
2 その方法は,一番善い推薦をうけるものです。イスラエルが偽りの宗教と係り合いを持つた時,ヱホバは『いざわれらともに論らわん。』と彼らに呼びかけられました。イスラエルを真の崇拝の狭い道に進ませたこの論議の基礎は何でしたか? イスラエルをひきつけようとした偽りの声をみな聞くことでしたか? そうではありません,むしろ『律法と証詞とを求むべし。彼らの言うところ,この言葉にかなわずば,晨光あらじ。』(イザヤ 1:18; 8:20)ヱホバの律法と証詞は聖書の中に記録されています,それで宗教がその言葉と一致して語らないならば,それに真理の光はなく,また今や間近かにあるヱホバの新しい正義の世の晨光をも見ません。それで,神のすすめるこの方法に従い,二,三の教理を調べ,その教える宗教は磁石につく針のように聖書につくか,あるいは火に入れられた藁のように燃えてしまうかどうかを見てみましよう。
3 どんな表に基いて研究をいたしますか? それは十分適当なことですか?
3 1952年11月8日号の『目覚めよ!』(英文)は,アメリカ合衆国内の宗教の一覧表を出版し,主要な教理についてのそれぞれの見解を示しました。その表に全部が網羅されているわけではありませんが,しかし宗派についての数冊の本を調べても必らず出て来るすべての宗教を含んでいますから,その表は実際的な面で充分間に合うものです。その表の中にある各群の成員の数は900万人から2300万人にも亘つています。その表に含まれていず,家庭とか小さな会場で集会している独立の小さな群がすこしあるとしても,その教理の信仰は表中の宗教の影響をうけていることはまず間ちがいありません。それで,僅かな数の未知の崇拝者たちは,取り除かれます。その表は251の宗教の信仰について充分の資料を与えている故,その251の宗教について研究をするならば,ある宗派を見過すということは殆どあり得ません。それで,聖書の『律法と証詞とを求むべし。』そして,251ある宗派のうちどれがその御言葉に従つて語り,どれが語らないかを見てみましよう。
三位一体の教理
4 ヱホバとキリストと聖霊は組み合わされて,一体の全能の神になるという教を何が否認しますか? 神とキリストはどんな意味で一つですか?
4 251の宗教の中,すくなくとも214の宗教は三位一体を信じています。その教理の唱えるところはこうです。ヱホバ神とキリスト・イエスと聖霊は一つの神をつくるよう組み合わされた3者で,その3者はそれぞれ共に永遠で,同等であるというのです。ヱホバのみが唯一つの全能の神であり,全部をつくりあげるのに他の二つを必要とする神の3分の1ではありません。『私たちの神ヱホバはひとりのヱホバであられる。』『われは神なり,我のほかに神なし。われは神なり我の如き者なし。』(申命 6:4,新世。イザヤ 46:9,10)『神』は力ある者という意味で,人間は神々と言われ,サタンは神と言われ,キリスト・イエスは神と言われます。しかし,ヱホバは最高の神,全能の神であります。(詩 82:6。コリント後 4:4。イザヤ 9:6。ヨハネ 1:1,新世)他のものは,信仰,目的,または業でヱホバと一致しているという意味の上だけで,ヱホバと一つになることができます。この面でイエスとヱホバは一つであり,また油注がれたすべての追随者たちに彼らと一つであります,それにイエスと聖霊が一つであるならば,イエスに対する罪は許されるのに,なぜ聖霊に対する罪は許されないのですか? 聖書から見て,聖霊はひとりの人ではなく,ヱホバの目に見えぬ活動力です。―ヨハネ 10:30; 17:20-23。コリント前 3:8。マタイ 12:31,32。
5 ヱホバとキリストは共に永遠であるという論は,何によつて否認されますか?
5 ヱホバとキリストは両方とも永遠者ですか? ヱホバについては『永遠よりとこしえまでなんぢは神なり。』と書かれています。ヱホバは『至高く至上なる永遠にすめるもの』『永遠の王』と呼ばれます。(詩 90:2。イザヤ 57:15。エレミヤ 10:10)故に,ヱホバは生まれたのではなく,創造されず,初まりを持つていません。しかし,キリスト・イエスについてこのことは当てはまりません。キリストは『あらゆる創造のうちで第一に生まれたもの』『神による創造の最初』と呼ばれているからです。ロゴスまたは言葉として,彼はヱホバ神により創造された最初の者で,また神により直接創造された者です。その後ヱホバは彼を用いて他のすべてのものを創造し,そして創世記 1章26節で『私たちの像にしたがつて人間をつくろう』とヱホバが言われた時,ヱホバはこのロゴスにむかつて話しかけられたのでした。―コロサイ 1:15,16。黙示 3:14,新世。
6 ヱホバとキリストは如何なる時も同等ではないと,どんな聖句は証明していますか?
6 ヱホバとイエスが共に同等であるということについてはどうですか? イエスはそのような考えを持たれなかつたのです。『父は私よりも偉大である』とイエスは言われました。これは肉のイエスについてだけ真であると三位一体論者は主張します。しかし,イエスが肉になる以前,神の形,つまり霊の形として存在したとき,『神と等しいとの考えを固執しないで,かえつて自らを空しくし,僕の形をとられ,人間の様をなして生まれ給うた。』サタンの努めたように,神と同等を得ようと自らを高く上げるどころか,イエスはサタンの反対の路を進み,自分を卑くして人間の状になりました。霊者として復活された後,そして千年統治の終りに,『すべてのものが彼に従わせらる時,御子御自身もすべてのものを従わせられたその方に従う。それは神がすべてのものに対してあらゆるものになるためである。』それで,キリストが地上に居られた以前でも,その間でも,またその後でも,彼は昔も今もヱホバより下位の者です。―ヨハネ 14:28。ピリピ 2:6,7。コリント前 15:28,新世。イザヤ 14:12-15。
7 三位一体を信じると,どんな不合理な結果に達しますか? どんな附加的な聖句はキリストがヱホバと等しくないことを示していますか?
7 ヱホバがイエスを死よりよみがえして,栄光を持つ霊者にされたとき,キリストが地に降るときに残された地位よりも彼をさらに高い地位につけて報いを与えました。『神は彼を高めて,勝つた地位につけられた。』イエスが地上に来る以前,神と同等であつて,そして天に戻られたとき前よりも高い地位についたならば,彼はヱホバ神より高い者になります。イエスが地上にいた時,彼は肉に表われた神であつて,天に昇つたとき彼は肉の体であつたという三位一体論者の主張は,また馬鹿らしいものです。肉のイエスは,『御使よりも少し低い』ものであつて,もし彼が肉に表われた神であつたならば,神は御使よりも低いことになり,それに昇天が肉のままでなされたならば,神とキリストの両方は今でも御使より低いことになります! しかし,肉と血は天の御国を相続することができません。(ピリピ 2:9。ヘブル 2:9。コリント前 15:5。)人間はキリストと等しい者ではありません。『すべての人の頭はキリストである。』キリストは神と等しくありません。『キリストの頭は神である。』ヱホバはキリストを祝福しました『さて言うまでもなく,小なる者は大なる者に祝福される。』ヱホバはキリストを遣わしました『奴隷は主人にまさるものではなく,遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。』― コリント前 11:3。ヘブル 7:7。ヨハネ 13:16,新世。詩 21:1,6。ヨハネ 17:3。
8 聖霊はなぜ三位一体の第三者ではありませんか,それがヱホバ又はキリストと等しくないと何が示していますか?
8 聖霊については,それは人ではなく,ヱホバの見えざる活動力です。聖書はときどき,シオンまたはエルサレムのような人ではない事物に個性を附し,それらを指すのに人称代名詞を用いています。聖霊についてもこのことは時折りに行われていますが,しかし他の時には『それ』として指されています。もし,聖霊が人であるならば,そうはされないでしよう。それに,霊が五句節<ペンテコスト>で注がれた際に,ひとりの人はどうして120人の人に注がれましたか? また,その後聖霊が注がれた際に,幾千人もの人にどうして注がれることができましたか?(ヨハネ 16:13-15; 14:15-17。使行 1:15; 2:1-4,新世)聖霊が神またはキリストと同等であるなどと主張することはできません。神は聖霊を送るものと言われ,またキリストは聖霊を送るものと言われています。しかも,遣わすものは遣わされるものよりもまさるということは学んだところです。―ヨハネ 14:26; 15:26。
9 (イ)ヨハネ第一書 5章7節の欽定訳(英文)は,なぜ三位一体論者を助けませんか?(ロ)三位一体論を偽りと証明することにより,幾つの宗教は取り除かれ,そして幾つの宗教は残りますか?
9 欽定訳(英文)の中のただ一つの聖句だけが,神とキリストと聖霊は一つであると言うのに引照されます。それはヨハネ第一書 6章7節です。『天で記録をなすもの三つあり。父なり,言葉なり,聖霊なり。しかしてこれら三者は一つなり。』この聖句であつても,論理的に見るとき,目的および努力という点で一つであるという以上のことを意味しません。それに,これらの言葉はギリシャ語聖書の信頼すべき最古の写本に表われておらず,聖書の現代訳は,それらの言葉を全部取り除いているか,または脚註をつけて最古の写本にそれらの言葉の無いことを示しています。それで,ヱホバの御言葉の『律法と証詞を求める』ことにより,三位一体の教理は偽りであると分ります。三位一体を教える宗教は,ヱホバの真理に嘘偽を混ぜ,彼らの取り扱うヱホバの御言葉を不純にし,汚しそして無のものにしています。自分たちの信条からこの偽りを清めとることができないため,彼らは一つの正しい宗教から除外されます。三位一体という一つの教理は偽りであると証明することにより,251の宗教から,三位一体を教える214の宗教を取り除きます。残る宗教は37です。
人間の魂の不滅性
10 魂とは何ですか? 地的の各魂については,何が考慮されますか。
10 残る37の宗教の中,18の宗教は人間の魂の固有不滅性を信じています。聖書はそれらの宗教を支持していますか,それとも排除していますか? 人間は不滅の魂を持つていると述べる言葉は聖書の中に一つもありません。地的の魂とは,動物でも人間でも,生ける,呼吸をする知覚を持つ生物です。それには,体と分離していて区別される魂はなく,ただ生命を持つているという意味で魂を持つと言われるのです。この定義は,魂として動物をも含みますが,それは不滅の魂を唱える教とは反対ですが,聖書とは一致します。人間の魂が創造される前に,『大水には多くの群の生ける魂で沢山に充たせしめよう。』『それから神は海の巨大な動物や動くところのあらゆる生ける魂を創造された。』人間は生ける魂につくられたのであつて,不滅の魂につくられたのではありません。『それから,ヱホバ神は土の塵から人間をつくられ,人間の鼻に生命の息を吹き入れられた。それで人間は生ける魂となつた。』要求された貢物が『人間ごとに,牛ごとに,驢馬ごとに,羊ごとに五百のうち一つの魂』とされたとき,人間と動物は魂として共に一括されています。また『人が人間の魂を打つてそれを死なせるならば,必らずその者を殺さねばならない。家畜の魂を打つて死に致らせるならば,その償をしなければならない。魂には魂で償う。』― 創世 1:20,21; 2:7。民数記略 31:28。レビ 24:17,18,新世。
11 人間の魂の不滅を教える宗教と聖書はどのように衝突しますか?
11 最後に引用されている聖句の中で,動物と人間の魂の両方が打たれて殺されると述べられていることに注意して下さい。それは,魂が殺され得ることを証明しています。ヱホバは人間を警めて,もし不従順であるならば人間は死ぬであろうと言われましたが,人間は死なないと言つたのはサタンでした。(創世 2:17; 3:4)不滅の魂を教える宗教は,悪しき罪人は永遠のくるしみをうけると言いますが,聖書はそれと反対です。『罪を犯せる魂は死ぬべし。』『罪の払う価は死である。』次の魂は,天に舞い上るとか,あるいは火の池に投げこまれる不滅の魂というのではなく,それは墓の中にいる死ぬべき人間の魂ということです。『誰が生きて死をみず,又おのがたましいを陰間より救いたるものあらんや。』墓の中の死んだ魂は,ただ復活をうけることによつて再び生きることができます。『神……わが魂をあがないて陰府のちからより脱れしめたまわん。』『彼はおのが魂をかたぶけて死にいたらしめ』と予言されていたように,キリストの魂でさえも死にましたが,彼の魂または生命を死から救つたものはヱホバの復活の力によつたのでした。―エゼキエル 18:4。ロマ 6:23,新世。詩 89:48; 49:15。イザヤ 53:12。
12 (イ)動物または人間でも,死んだ魂の状態は何でしようか?(ロ)魂の不滅が偽りであると証明されることにより,取り除きはどのような具合になりますか?
12 墓にいるこれら死んだ魂は全く無活動で意識がなく,祝福をよろこぶとかくるしみをうけるなどということは全然不可能なことです。『生ける者はその死なんことを知る。されど,死ぬる者は何事をも知らず,また報いをうくることも重ねてあらずその憶えらるる事も遂に忘れらるるに至る。すべて汝の手に堪うることは力をつくして之をなせ。そは汝の往かんところの陰府には工作も計謀も知識も智恵もあることなければなり。』『もろもろの君によりたのむことなく,人の子によりたのむなかれ。彼らに助あることなし。その気息いでゆけばかれ土にかえるその日かれがもろもろの企図はほろびん。』(伝道之書 9:5,10。詩 146:3,4)人間も動物も,同様に死ぬ魂です。『世の人に臨むところのことは,また獣にも臨む。この二者に臨むところの事は同一にして是も死ねば彼も死ぬるなり。みな同一の呼吸によれり。人は獣にまさるところなし。皆空なり。みな一つの所に往く。みな塵より出で,みな塵にかえるなり。』(伝道之書 2:19,20)ただ一つの違いは,人間は死人からの復活を希望することができます。死人からよみがえされる多くの者は,肉と血を持つ生物,死ぬべき人間の魂として出て来ます。比較的ごく僅かな者だけが,不滅の霊者としてよみがえされます。それらの者について『死ぬべきものは,不滅性を着けねばならぬ』と書かれています。(コリント前 15:53,新世)彼らがすでに不滅性を持つていたならば,不滅性を着ける必要があるでしようか? 魂の不滅を教える宗教は偽りであると,聖書は明白に示しています。それで残る37の宗教の中より18を取り除くと,19の宗教が残ります。
律法の下にいず
13 私たちが律法の下にいないことをどんな聖句は証明していますか?
13 これら19の宗教の中,その6つの宗教の信ずるのに,ヱホバの僕はいまでもモーセの律法の全部またはその一部の下にいるということです。しかし,律法の目的はキリストの来た時に全く達成されました。『結局において,律法はキリストに導く私たちの守役であつた。それは信仰によつて私たちが義と言われるためである。しかし,いまや,この信仰が来たからには,私たちはもはや守役の下にいない。』他の聖句は,こう述べています『律法の業によつては,人間は神の前にあつて義しいと言われない。』『あなた方は律法の下にいないで恵みの御親切の下にいる。』『キリストは律法の呪いから私たちを贖い出して下さつた。』『もしあなた方は霊によつて,導かれるならば,あなた方は律法の下にいない。』『彼は御自分の肉によつて,憎しみ,つまり規定で成り立ついましめの律法を取り除かれた。』『前のいましめは弱くまた無益の故に,たしかに取り除かれる。実に律法はなにものをも完全にしなかつた。しかし,より良き希望がもたらされたことは完全にしたのである。そのより良い希望を通して私たちは神に近づいているのである。』『神は手で書かれた証書を取り消された。その証書は,いろいろな規定ででき上つており,私たちに反対するものである。神はその証書を苦しみの杭に釘づけることにより取り除かれた。』― ガラテヤ 3:24,25。ロマ 3:20; 6:14。ガラテヤ 3:13; 5:18。エペソ 2:15。ヘブル 7:18,19。コロサイ 2:14,新世。
14 (イ)律法についてある人はどのように論じますか? しかし,どんな聖句によつて彼らの論は吹き飛ばされますか?(ロ)いま取り除きはどのような具合ですか?
14 ある人の論ずるように,ここで取り除かれている律法は儀礼の律法であつて,十誡ではないと主張するのは無益なことです。律法を勝手に二つの部分に分け,そして,律法は過ぎ去るという聖句は,儀礼の律法を指しているのであつて,十誡ではないと主張することについての聖書的権威は全然ありません。『それを苦しみの杭に釘づけることにより』ヱホバは律法を取り除かれたと述べている聖句の2節後に,こう書かれています『それで,あなた方は食べること,飲むこと,また祭日,新月あるいは安息日を守ることで,だれにも裁かれてはならない。』取り除かれた律法は,十誡の第4番目にあたる安息日の遵守を含んでいました。(コロサイ 2:16,新世)使徒パウロは『私たちは律法から解放された』と言つた後,『あなた方は貪つてはいけない』という無効になつた律法の例を引用しています。それは十誡の10番目のものでした。また,クリスチャンは新しい契約の下におり,もはや『文字でもつて石に彫まれた』律法の下にいるのではないとパウロは説明しています。クリスチャンは御霊,つまり『石碑の上にではなく,肉の碑すなわち心の上に』彫まれる導きの原則の下におります。(ロマ 7:6,7。コリント後 3:7,3,新世)それで,クリスチャンは『石碑の上に』書かれた律法の下におりません。石碑の上には何が書かれていましたか? いわゆる儀礼の律法でしたか? すべての律法でしたか? いいえ,ただ十誡だけでした。クリスチャンたちはモーセの律法の下にはいませんが,しかしその標準と要求は,ずつと高い聖霊の導きの下におります。残る19の宗教のうち6つまで,律法の全部または一部の下にいるという信仰に立てられていますが,それは砂の上に建てられており,崩壊しなければなりません。僅か13の宗教だけ残ります。
実体の悪魔はいない?
15 ある人は悪魔についてどう論じますか? 何が彼らの立場に反論しますか?
15 残つた13の宗教の中3つの宗教は実体の悪魔を信じません。彼らはそのような悪い霊者が存在していることを信じません。その言うのに,悪魔は実体のものではなく,肉と血の誘惑,つまり生来の弱さを持つている堕落した人間に共通な誘惑の象徴であるというのです。しかし,聖書はサタンを霊者として語つており,反逆をする以前に彼は完全で正しかつたが,反逆の後は悪魔サタン蛇および龍で知られよるうになつたと語つています。彼は天でヱホバと話を交し,地上のヨブをなやましました。またモーセの屍についてミカエルと争いました。不正の原則,または悪の化身はそれらのことをすることができません。(エゼキエル 28:14,15。イザヤ 14:12-15。黙示 12:9。ヨブ 1:6-19; 2:1-7。ユダ 9)黙示録の12章は,天でなされた戦争について語つていますが,その際ミカエルは天からサタンを追放しました。もしサタンが肉の誘惑であるならば,天には決していなかつたことでしよう。肉と血は天に居らず,誘惑されることはないからです。(コリント前 15:50)この教理を信じている人は,このように言います。つまり,ここの天は政治的天または地の支配者たちであつて,サタンが追放されるというのは悪が人間政府から清められる時であるというのです。しかしそのようなことはあり得ません。もしそうであるならば,それは人間によろこびをもたらすでしようが,しかし天からサタンの追い落されたことは人間に災を意味しました。『地と海とは災いである。悪魔は自分の時の短いのを知り,大きな怒りをもつてあなた方のところに来たからである。』― 黙示 12:12,新世。
16 (イ)サタンは抽象の悪の力ではなく,また肉の誘惑でないと何が証明しますか?(ロ)これらの宗教は,どんな偽りの根拠を持つていますか? それらが排除されることにより,表の上で幾つの宗教が残りますか?
16 悪の抽象の力を,どのようにして人から追い出すことができますか? イエスおよびユダヤ人は悪鬼たちとその支配者サタンについて論じたとき,そのような抽象の事を考えていなかつたのです。(マタイ 12:24-27)罪の考えを抱くとき,それは体内に悪魔を持つと言う事や,他の人が私たちの誘惑になるとき,その人は私たちの悪魔であると言うことは,つまり私たちの戦はただ血肉に対するものと言うことです。肉の誘惑と,目に見えぬ悪魔および悪鬼たちのあいだには特定の区別がなされている故に,そのような考えは間違いです。『悪魔の手立てに対しかたく立ちなさい。なぜならば,私たちは戦を行つているのである。その戦は血肉に対するものでなく,……天の場所にいる悪い霊の力に対しての戦である。』(エペソ 6:11,12,新世)これは,争がただ肉の誘惑だけであるということを全く否定するものです。一見してヱホバは悪い霊者を創造されたように見えるためこれら宗教家たちは,それを避けようとし,実体の悪魔はいないと主張します。悪魔は完全なものに創造されたが,自由の道徳自主者であつて,自ら悪しき者になつたということを彼らは理解し得ません。彼らの考え方によると,アダムは悪い者である故に,実体のアダムを信ずべきではないというのです。アダムは悪魔と同じように,完全に創造されましたが,自分自ら悪くなりました。それで,実体の悪魔を信じないことは,聖書に基いているものではなく,自分自身の判断で決められたものであり,その考え自体矛盾しておりまた間違いのものです。残つている13の宗教の中よりこの教理を信ずる3つの宗教を取り除くと,10の宗教が残ります。
聖書と等しい権威,あるいは聖書以上の権威?
17 聖書と同等また聖書以上と考えられる権威は,クリスチャンの備えを全うするのに必要なものですか?
17 この10の宗教の中4つの宗教は,宗教的な導きということについて,聖書と同等または聖書以上の権威があると言います。正しい宗教を選ぶのは『律法と証詞とを求む』ことによるのですから,聖書がこのような見方を許すかどうかを見なければなりません。ヱホバの御言葉を明確にして,崇め,そして,御言葉に背景を与えて,その成就の歴史を述べ,あるいは御言葉についての私たちの理解を深めるところの口の言葉または書かれた言葉以上に,私たちは,聖書以外の何ものをも必要としません。理解がなされるとき,聖書はクリスチャン奉仕に全き備えを与えるものです。『聖書はすべて神の霊感をうけたものであつて,……それは神の人があらゆる良い業に対して十分の備えができて全く備えられた者になるためである。』聖書はヱホバの霊感をうけた真実の御言葉です。ヱホバ以上のもの,あるいはヱホバと同等である他のどんな権威がありますか?―テモテ後 3:16,17,新世。
18 聖書に何かをつけ加える宗教は,どのように罪を犯しますか? それらを排除すると,幾つの宗教が残りますか?
18 ヱホバはこう警告しました『あなた方は私があなた方に命ずる言葉に何かをつけ加えてはならず,またそれから取り去つてはならない。』しかし,ユダヤ人はヱホバの言葉につけ加え,自分たちの宗教的な言い伝えを築きあげました。その言い伝えは,神の言葉を説明して富ましたものと考えられましたが,しかし実際には聖書と矛盾するものだつたのです。イエスがユダヤ人に次の如く話された通りです『あなた方は,なぜ自分たちの言い伝えにより神のいましめを破るのか? ……あなた方は自分の言い伝えにより神の言葉を無にしている。』イエスは彼らについてこうつけ加えました。『彼らは人のいましめを教えとして教えている』聖書を無のものにする言い伝えを認めて従うことにより,彼らは実際に神の言葉を棄て,次のように予言されていた結果をもたらしています『彼らヱホバの言葉を棄てたり。彼ら何の智恵あらんや。』賢明であると証するどころか,彼らは嘘言者であると証明いたしました。『その言に加うることなかれ。おそらくは彼なんぢをせめ,又なんぢを偽る者となしたまわん。』パウロは『書かれていること以上に行つてはならない』という神の規則を指摘しました。(申命 4:2。マタイ 15:3,6,9,新世。エレミヤ 8:9。シンゲン 30:6。コリント前 4:6,新世)しかし,残つた10の宗教のうち4つの宗教は書かれた事以上に行い,この規則に違反しており,そしてそれらの宗教を棄てることは聖書からも支持されています。僅か6つの宗教が残ります。
判然としない宗教
19 どんな聖句によつて偽りと証明されるいかなる見方は,一つの宗教以外のすべてを排除しますか?
19 この6つの宗教の中,5つの宗教は定まつた教理の見解を持たず,それぞれの成員は好き勝手に信ずると言います。『信仰の一致』を示すどころか,各自自分勝手な解釈をして混乱を呈しています。そのような宗教の成員は,どうして『みな一致して語り』『同じ思と同じ考えにしつかり結ばれる』ことができますか?(コリント前 1:10,新世)そのような判然としない宗教は,疑つている人のようです。『その人は,ヱホバから何かをいただけると考えてはならない。彼は判然としない人であつて,すべての道に不確かである。』聖書の著者は不確かでなく,その御言葉は判然としています。正しい宗教に疑問の謎はありません。真の宗教は,かつてのイスラエルのようではありません。『あなた方は,私たちが今日ここでしているように,自分の目に正しいことをしてはならない。』キリストの兵士は,不明瞭で漠然とした音信ではなく,はつきりとした確信のある音信を持つています。『ラッパの音がはつきりしないならば,誰か戦闘の準備をするだろうか?』(ヤコブ 1:7,8。申命 12:8。コリント前 14:8,新世)『私たちが信仰の一致に達し,神の子の正確な知識を得て,全く成長した人,キリストの全きに属する十分の成長に達するまで』特別な備えは正しい訓練とクリスチャンの円熟を確かにします。『それは,私たちがもはや幼児ではなく,人間の悪企みによるいろいろな教の風に吹きまわされたり,もてあそばされたりすることのないためである。』(エペソ 4:13,14,新世)違つた信仰を含む判然としない宗教は,『正確な知識』または『一つの信仰』に達せず,ヱホバから是認をいただくなどは期待できません。その迷い動揺することによつて,これら5つは取り除かれ,もとの251の宗教の中ただ一つの宗教だけが残ります。
一つの正しい宗教
20 どんな正しい宗教は残りますか? そう言うのは,なぜ自惚れでありませんか?
20 残つているその一つの正しい宗教は,ヱホバの証者の宗教です,私たちは自惚れてそう言うのではありません。もちろん,私たちは正しいと信じます。どのカトリック信者も,どの洗礼教会派の者も,どのメソヂスト派の者も,どの英国教会派の者も,どの宗教の者であつても,各自自分の宗教は正しいものと考えます。そう考えることは自惚れではありません。それと別に考え,実際には信じないものを信ずると主張することは,偽善であります。しかし,私たちの信仰は,宗教指導者や,宗教制度に基づかず,聖書に基くかたい基礎を持つべきです。しつかりと固持する前に,私たちの宗教が『律法と証詞に』従つて語つていることを確めるべきです。『すべての事を確めなさい。正しいことをしつかりと持ち保ちなさい。』自分の宗教が正しくないものを教えていると知るならば,私たちはその宗教を棄てるべきです。前述の排除の仕方は,一つの偽りの教理だけに基いて種々の宗教を落しました。しかし,実際にはそれら偽りの教理は,多くの理由で落ちるのです。前述の事は証拠を一寸示しているものにすぎません。さらに聖書を調べると,絶対の確証を得ます。―テサロニケ前 5:21,新世。
21 偽りの教理は取り除かれねばならぬと,どんな象徴的な表現は示しますか?
21 宗教的虚偽のみにくい建物を打ちこわし,心ひきつける真理の視界を閉ざされないようにすべきです。そのようなものを心に思わず,むしろ真理の新しい建物といれ代るべきです。エレミヤが『あるいは抜き,あるいは毀ち,あるいは滅し,あるいは倒し,あるいは建て,あるいは植えしめん。』と命令されたように,正しい宗教は偽りの宗教を抜き,そして真の宗教を植えねばなりません。偽りの信仰は,真理の道に横たわる躓きの石であり,真の崇拝に戻るために『土をもりて大路を設け,石をとりのぞく』ことが必要です。ヱホバの御言葉は『磐を打ち砕く槌の如く』であります。私たちはヱホバの言葉を持ち,神と共に歩もうと努めるときに,私たちを躓かせる躓きの石を粉砕しなければなりません。石をとりのぞくことについてのその聖句は,主としてキリストが1918年宮に来て以後,油注がれた残れる者が真の崇拝に戻つたことに適用されます。しかし,その原則は他の羊の集まりをいま躓かす宗教的虚偽を取り除くことにも適用されます。それで,三位一体が人を躓かせて,ヱホバはあらゆるものの最高者であることを見させず,また魂不滅は人の目を眩ませて,魂は死ぬという聖句を見させず,また聖書になにかを加えることによつて私たちを躓かせ,聖書は矛盾していて未完成のものと信じさせるならば,あるいは又他の偽りの宗教的な教えが真理の把握を妨げるならば,私たちは聖書を槌のごとくに用い,これらの妨害を粉砕することができます。―エレミヤ 1:10。イザヤ 62:10。エレミヤ 23:29。
22 誠実のみで人を救うでしようか? あなたの答に対してどんな例証がありますか?
22 人は自分の宗教に誠実であるならば,その宗教がどんなものであろうとも救われるという信仰をある人はここで挿むことでしよう。この信仰は真ですか? ある人にはもつともらしく聞えますが,しかし『ただ律法と証詞とを求むべし。』聖書はこの点について,こう証言しています『人のみづから見て正しとする道にして,その終りはついに死にいたる途となるものあり。』(シンゲン 14:12)誠実は是非とも大切なものです,しかし誠実だけでは不十分です。譬て言えば,3人の子が黒板で2に2を加えると仮定します。一人の子は3の答を出し別の子は4の答を出しもう一人の子は5という答を出します。先生はその3人の子の全部を良いと言いますか? 子供たちが,答えを出すのに誠実であつたと言うのを聞いて,先生は及第させますか? むしろ,間違つた二人の子に教科書を見させ,もつと勉強させようとはいたしませんか? この二人の子が本当に誠実であるならば,もつと勉強してその誠実を示し,ついに正しい答を学んで,先生から良いと言われませんか? ヱホバは教科書である聖書を備えられました。聖書を研究し,正しい答を学び,その答を他の人に話すようにヱホバは言われます。聖書の研究を拒絶して,正しい答を学ばず,かえつてどんな宗教でもうけ入れ,そして誠実は自分を救うと満足気に言う人についてはどうでしようか? それらの人は本当に誠実ですか? むしろ,それらの人は怠けていませんか? 研究を拒絶し,正しいことを学ぼうとしない生徒を先生は及第させるでしようか? いまや明瞭にされているヱホバの真理を故意に無視する者たちは,たとえ誠実であるという矛盾した主張をなそうとも,ヱホバから是認をいただくことはできません。
23 真実に誠実な人は,ヱホバの証者に対して,どのように答え応じますか?
23 ヱホバは今日地上に教える制度を持たれています。真理を求める誠実な人々は,その教えを聞くべきです。取り除かねばならない偽りのものは何であるかを学ぶだけではなく,その後に入れ代る真のものは何かをも学ぶべきです。偽りの宗教を出して後に,人は自分の保護と救のために真の宗教で充ちねばなりません。(マタイ 12:43-45)ヱホバの証者は,真理を求める誠実な人を誰でもよろこんで助けます。ヱホバの証者が真理をたづさえて家から家へ行き,誠実な人を見出すと,費用や義務を要求せずに,人々の家庭で聖書研究を行うことを申し出ます。彼らは聖書を用い,何が偽りであるかを証明するだけでなく,何が真であるかをも証明します。それは誇りや偏見を取り除き,自由の心で『律法と証詞を求め』たがいに論じることです。誠実な人はこのことをいたします。自分は正しいと誠実に信ずるならば,彼らはますますもつてそういたします。なぜならば,その訪問している人を援助して,正しいものを見させたいからです。彼らは援助を与えているか,または援助をうけるにしても,どちらの場合であつても,真実に誠実な人は幸福です。
24 ある人は,自分の宗教を選ぶ際,どのように愚かな行をいたしますか?
24 理智の心を用い,正しい宗教を選ぶために,個人の研究は必要です。医者,化学者,技術者,そして教育家は何年も研究しなければなりません。真実のクリスチャンになろうと誠実に願う人も又研究しなければなりません。それは極めて大切なことであつて,他のいかなるものよりも重要なことです。多くの人は正しい宗教を選ぶことに失敗しているというだけでなく,彼らは実際に自分で宗教を選ばないのです。両親か友人によつて宗教が選ばれているか,または社交の理由か業務の益のために宗教が選ばれています。このように選択を偶然に任すとき,それは丁度251ある宗教の福袋に手を入れて,目かしされたままでも正しい宗教を取り出そうと期待することと同じようです。5つの銃室が空であつても銃丸が一つ連発拳銃の銃室に入つていて,それから旋廻室が廻り,銃丸がどこにあるかを知らずに銃を頭にあてて引金をひくというロシヤ・ルーレットの遊びは馬鹿者のすることとあなたは考えます。全くその通りです。それは愚か者のするゲームです。それにしても,その運は6の中5つです。しかし,でたらめに宗教を選ぶことは,永遠の生命を得るかどうかを賭博することです。しかも,ここの研究から分るように,正しい宗教をつかむ運は251の中わずか一つだけです! なんと愚かなことでしよう!
25 ヱホバをよろこばせようと望む誠実な人々は,いまどんな道をとりますか?
25 運に任せる必要はありません。ヱホバは御自分の御言葉,聖書を備えられています。聖書を研究して下さい。何が偽りであるかを証明し,偽りのものを棄てなさい。真のものは何であるかを証明し,それをしつかりと保持しなさい。麦から藁を取り分けなさい。水の混ぜられた葡萄酒を識別しなさい。泥のような濁りの虚偽を取り出し,ただ真理の清い水のみ残るようにしなさい。聖書を研究し,真理を学び,ヱホバの民と交り,そしてあなた方の創造者に奉仕して讃美を捧げることにより,『ヱホバの恵ふかきを味い知つて』ください。次のヱホバの招待の言葉に耳を傾けてごらんなさい。『ああなんじ謁ける者ことごとく水に来れ,金なき者も来るべし。汝らきたりてかい求めてくらえ,きたれ金なく価なくして葡萄酒と乳とをかえ。何ゆえ糧にもあらぬ者のために金を出し,飽くことを得ざるもののために労するや,われに聴き従え,さらばなんぢら美物をくらうを得,脂をもてその魂をたのしまするを得ん。』偽りの宗教のために栄養不足になり,ついに死んでしまうよりは,正しい宗教を持つて霊的に強くなりなさい。『生命を選びなさい。そうすれば,あなた方とあなた方の子孫は生きることができるであろう。すなわち,あなた方の神であるヱホバを愛し,彼の声を聴き,彼にかたくつき従いなさい。なぜならば,彼はあなた方の生命であり,あなた方の日を長くすることができるからである。』― 詩 34:8。イザヤ 55:1,2。申命 30:19,20,新世。