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  • 神の目的とエホバの証者(その6)
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1960
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  • 良いたよりは欧州に達する
  • 制度を強める
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1960
塔60 11/15 437–438ページ

神の目的とエホバの証者(その6)

「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10 新世訳

良いたよりは欧州に達する

トム: アメリカ合衆国以外の国における最初のわざは,あなたが前に言われた「考えるクリスチャンのための食物」(英文)という冊子を英国で配布することでしたか。

ジョン: 記録から見るとそうです。もつともカナダは別です。英国では,数年たたぬ中にいくつかの小さな群れが,集まつて聖書研究を始めました。興味が増加してきたので,協会の会長ラッセルは1891年に最初の海外旅行することに決定しました。それは,この興味を刺激して,カナダおよびアメリカ合衆国外のわざを拡大するためでした。彼の旅行は,2ヵ月かかりました。ラッセルと宣教者の群れは,アイルランド,ベルファーストに向かつてニューヨークから出航しました。ベルファーストで友人たちと会い,それからスコットランドのグラスゴーおよびエジンバラにある他の群れや歴史的な場所を訪問しました。彼はさらにロシア,トルコおよびエジプトを旅行してから,英国に戻り,そしてニューヨークに向かいました。a

この旅行報告は,当時良いたよりをひろめるわざについて興味深い点を述べています。彼は次のように書いていました。

ロシアで真理が聞かれそうな状態は見られない,……イタリア,トルコ,オーストリア,あるいはドイツで収穫の希望を持たせるものは一つもない。……イタリア人は法王制度の有害な影響下に長くいたため,フランス人のように公然とした不信仰に急速に向かいつつある。……しかしノルゥエー,スエーデン,デンマーク,スイス,そして特に英国,アイルランド,スコットランドは,収穫を待つている国々である。b

ラッセルが前もつて見たごとく,1890年代および1900年代の初期に,真理が自由にひろめられたのは,この後者の国々でした。ラッセルは英国における緊急の必要を認めて,ロンドンに文書の保管所を直ちに設置しました。c それから,1900年に協会はアメリカ合衆国外の最初の支部事務所を開きました。これも英国のロンドンにありました。d

トム: スカンジナビアの国々,英語を話さない国々ではどうでしたか。協会の文書はそれぞれの言葉で得ることができましたか。

ジョン: 最初は,そうではありませんでした。協会の文書は英語だけで出版されました。しかし,ラッセルの海外旅行の後,ドイツ語,フランス語,スエーデン語,デンマークーノルウェー語,ポーランド語,ギリシャ語,そして後にはイタリア語でいろいろな本や冊子を出版する取り極めが設けられました。それで,次第次第に良いたよりは世界にひろまり,他の国や言語の人々のところに伝えられるようになりました。1903年に支部事務所はドイツに開かれ,e翌年には別の支部事務所がオーストラリアに開かれました。ひとりのエホバの証者は1903年にその大陸に派遣されていました。f

トム: その時までには,数の面から見ると,どんな拡大がなされましたか。

ジョン: 1891年1月の「ものみの塔」(英文)3頁にある言葉は,当時交わつていた人の数の概算を示しています。

ものみの塔の毎月の配布は,平均1万部である。すると,1万5000人の読者がいると推定しても,間ちがいではない。世界の全地に散在しているこの読者のうち,受け取る手紙から判断して,約4000人は主に全く献身しており,最善の能力をつくして主をたたえるために自分の才能を用いていると推定する。……そしていま生きている4000人が主にまつたく献身して忠実であるなら,そして過去10年間にそのような発展を遂げたのであるなら,過去10年間に,毎年の平均400人であると示す。

わざが始まつたばかりの当時では,それは毎年かなり良い増加を表わし示していました。

制度を強める

この増加の結果,制度をさらに強化して,定期的な大会により制度と交わる者たちを霊的に建ておこすことは必要であると,判明しました。すでに述べたごとく,大会は1879年以来の主の夕食に関連して行なわれていました。しかし,1893年にはピッツバーグ以外のところで最初の大会を開くことは適当と思れました。したがつて,イリノイ州シカゴ市で開催する国家大会のために1893年にはいろいろの取り極めが設けられていました。ちようど同じ時,コロンビア博覧会すなわち世界博覧会がシカゴ市で開かれていました。この世界博覧会があつたため,鉄道はシカゴ市まで運賃を割引きしていました。証者たちは,これを利用して大会に出席し,それからもし望むならば大会後の数日を滞在してコロンビア博覧会を見ました。その報告は,興味深いものです。

出席者の数は,約360人であつた。……(毎日の朝の祈禱集会の)後に,1時間半ぐらいの話があり,それから昼食のために休憩した。それから午後の部として2時から5時までは,一般の人々の質問に答える時間であつた。最後の日は,聖書文書頒売のわざのためにプログラムが組まれた。そして大会の終了後の1日は,いく人かの経験を積んだ聖書文書頒布人(開拓者)は,成功しない人や始めたばかりの人々と共にとどまり,聖書文書頒布学校を開いた ― 教訓を与え,方法,行儀,言葉について良い仕方と悪い仕方を指摘した。……〔約50人の聖書文書頒布人は出席した〕シカゴのカルバリ洗礼派教会は,親切にも我々が彼らの洗礼所を使うことを許可した。そして,合計70人は,水の浸礼をうけることによりキリストの死にあずかる洗礼を象徴した。兄弟と姉妹の数の割合は,だいたい同じであつた。その年齢は17才から70才にわたつていた。g

別の面のわざも開かれました。1894年,協会は制度を強めて,成員をいつそう密接にむすびつけるため新しいプログラムを始めました。その年から始めてものみの塔協会の有能な時間極めの代表者20人は,週末になるとピッツバーグから派遣されました。それは公開集会を開き,新しい会衆すなわち「教会<エクレシア>」を建てるためでした。h

もちろん,これは全く新しいわざではありません。ラッセルと他の数名の者が初期の会衆を訪問したことについてお話したことをおぼえておられるでしよう。全くのところ,会衆を訪問するわざについての最初の知らせは,1879年12月の「シオンのものみの塔」(英文)8頁内の「伝道」という見出しの下に,小さな記事として出されました。それは次のように述べています。

定期的に寄稿する人として我々の表にその名が記されるほとんど全部の兄弟たち,および編集者と「シオンのものみの塔」に記事を出さない他の3人 ― 彼らはその教えに同意一致している ― は,収穫の主が道を開くところならどこでも良いたよりを伝道している。彼らの奉仕に対する要求を,この事務所に送ることができる。

1897年,このわざはさらに進歩して「巡礼のわざ」と呼ばれるものが始まりました。その年に会衆を訪問する奉仕は,3人の全時間奉仕者に限定され彼らは一つの会衆から別の会衆へと定められた道順に従つて旅行し,それぞれの群れと1日か2日かを過ごし,彼らと集会をしたり,あるいは霊的な滋養物を与えました。このわざは兄弟たちにとつて大きな祝福になりました。なぜなら,それは多くの面で会衆の考えを一致させ,伝道の使命を成就するために彼らをいつそう密接にむすびつけるための援助になつたからです。「シオンのものみの塔」(英文)と時折りの通信をのぞいては,巡礼の訪問だけがこれらの会衆とピッツバーグiの本部事務所とをむすぶただ一つの連結でした。年月が経つにつれて聖書研究生の会衆の数は増加して,協会はさらに多くの巡礼を派遣して制度的な一致を保つことが必要であると悟りました。1905年には25人jいて,1917年までには93人が奉仕していました。k

マリア: ジョン,あなたは協会が受けとつた手紙について一度お話ししましたね。多分,トムとロイスは極めて興味深い手紙がしばしば「ものみの塔」に出版されたことを知りたいと思うでしよう。その一通を読んで見たいと思います。それは特別に興味深いものです。

ジョン: どうぞ。1894年に新しく興味を抱いた人の手紙のことを考えているのでしよう。

マリア: そうです。その手紙です。〔読む〕

謹啓 ― ニューヨーク替為6ドルを同封します。私方に1年分の「ものみの塔」と「千年統治黎明」の書籍を送つてください。

この書籍を注文する次第をお知らせします。約2ヵ月前,ふたりの若い婦人〔ものみの塔の開拓者〕が,それらの本を売るために私の〔法律〕事務所に来られた。名刺をいただいたとき,私はたいへん忙しく,ともかく婦人が本を売つておられるので3冊だけ求め,いくらかの援助をしてあげたいと思つた。しかし,いまではこれらの婦人は「大いなるよろこびのうれしい知らせ」を私にもたらしたと私は信じます。私はその3冊の本を家に持つて帰つて,別に気にかけませんでした。しかし,数週間前私にすこしの余暇があつたので,私は第1巻を読み始めました。それはたいへんおもしろかつたので途中で中止することができませんでした。その結果,愛する妻と私は,つよい興味を持つてこれらの本を読み,それを知り得た機会は,神から与えられた大きな祝福と考えています。それらの本は,ほんとうに聖書研究を助ける「援助の手」です。これらの書物の研究に表わし示されている大真理は,私たちの地的な野望をことごとくひつくり返しました。すくなくとも,キリストのために何かをする大きな機会を認めた私たちは,これらの書物を配布したいと思います。最初に,私たちにいちばん近い親族や友人たち,それから読みたいと思いながら買うことのできない貧しい者たちの間にくばりたいと思います。そのわけで,これらの余分の書物を求めるわけです。……敬具,その他。l

この手紙には,1894年,弁護士ジエー・エフ・ルサフォードという署名がついていました。

ロイス: それは興味深いことです。それはジャッジ<判事>・ルサフォードにちがいありません。ルサフォードの名前なら,私は少女の時から知つています。私の父は,ルサフォードのラジオ放送が好きでしたが,私の母は好みませんでした。もちろん,それはルサフォードがその手紙を書いてからずつと後のことです。

ジョン: そうです。ルサフォードは12年後にエホバに献身して,1907年にはピッツバーグの本部すなわち「聖書の家」で協会の弁護士に任命されました。パストー・ラッセルが死んだとき,彼は協会の二番目の会長になりました。

[脚注]

a (オ)ラッセルは,次のような場所へ訪問しました。デンマーク,コペンハーゲン,ドイツのベルリンとライプチヒ。オーストリアのウィーン。ロシアのキシネフ。トルコのコンスタンチノープル。ギリシャのアテネ。パレスチナのエルサレム。エジプトのカイロ。そこで彼はピラミッドを見ました。イタリアのローマ。スイスのベルン。フランスのパリー。ベルギーのブリユッセル。オランダのアムステルダム。英国のロンドンとリバプール。この両都市のそれぞれの場所でラッセルはニューヨークに戻る前に150人の人々に話しました。(1891年のものみの塔(英文)95,148頁)。

b (ワ)同上ラッセルの海外における新教徒の宣教用についての観察については1892年の「ものみの塔」(英文)3-7頁。1891年の「ものみの塔」(英文)148頁。

c (カ)1891年の終り頃,パターノスター街62番地(1892年の「ものみの塔」(英文)2頁)。

d (ヨ)イースト・ロンドン,フォーレストゲイト,ジプシー・レイン131番(1900年の「ものみの塔」(英文)146頁)。

e (タ)1903年の「ものみの塔」(英文)197,454頁。

f (レ)同誌,386,455頁。1904年の「ものみの塔」(英文)82頁。

g (ソ)1893年の「ものみの塔」(英文)60頁。

h (ツ)1894年の「ものみの塔」(英文)393頁。

i (ネ)1897年の「ものみの塔」(英文)309頁。

j (ナ)1905年の「ものみの塔」(英文)375頁。

k (ラ)1917年の「ものみの塔」(英文)374頁。

l (ム)1894年の「ものみの塔」(英文)127頁。

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