神の目的とエホバの証者(その11)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第9章 1914年にすべての国が終る
トム: 1914年がついにきて第一次世界大戦が始まったとき,エホバの証者たちの天下になったと思うがね。
ジョン: かならずしもそうではありませんでした。その年の最初の数ヶ月のあいだ,宗教指導者や他の者たちは,ラッセルとものみの塔協会に多くの嘲笑をあびせていました。なぜなら,その初期の月々には,エホバの証者が期待していたようなことは,何も異邦人の国民に生じなかったからです。
マリア: もちろん,このことは証言のわざを中止させませんでした。なぜなら協会はその年の秋に終りがくると期待していたからです。1月までには「創造の写真 ― 劇」の準備は完成し,4月までにはその12組を31の都市に送り出しました。報告によると毎日3万5000人以上の人が,この異常な作品を見聞きして感心していました。a
ジョン: そのとおりです。しかし,その年がだんだん進んで,欧州中は緊張の空気がみなぎっていても,暴力がおこらなかったので,御国の音信に対する嘲笑は増加してきました。しかし,諸国民や諸国家が,いま第一次世界大戦と呼ばれるものにどんどん突入して行ったとき,大変化が生じました。戦争直前の最初の数ヵ月間,はなはだしい不安の期間が欧州にのぞみました。しかし,その年の7月27日から8月までの時は,世界を震動させた驚きの期間でした。戦争が始まり,それとともに諸国民に苦難がのぞんだため,彼らの期待していた苦難の時とくらべ合わせて,エホバの証者のわざがいま顕著なものになることはとうぜん理解できます。
典型的な一般新聞の反応は,指導的なニューヨークの一新聞「ザ・ワールド」にあらわれました。この新聞の日曜雑誌欄のところに,人目をひきつける見出し「1914年にすべての国が終る」の下に,長い特別記事が掲載されました。ここにその記事の一部を掲載します。
ラッセル牧師の「万国聖書研究生たち」の計算によると,1914年は預言者ダニエルの語った「苦しみの時」である。この年は,400万部も売れた「時は近づけり」という本の中で地の国々の滅亡の時と預言されていた。
欧州で恐ろしい戦争が始まったことは,特別の預言を成就した。ここ25年,『千年統治黎明派』として良く知られている『万国聖書研究生たち』は,伝道士や出版物を用いて,聖書に預言されている怒りの日は1914年に始まると世界に宣明していた。旅行をしている幾百人という福音伝道士たちは,『1914年に気をつけよ!』と叫んでいた。この奇妙な信条を代表する彼らは,『神の御国は近づいた』という教理を宣明しながら,国内をあまねく歩きまわった。……
幾百万という人々は,これら福音伝道士の言葉に耳を傾けて聞いたはずであった……また,彼らの宣伝は宗教的な出版物や,国内の幾百という新聞を通して,講演や,討論,研究クラス,活動写真によってなされたのであるが,一般の人は「千年統治黎明派」というような運動が存在していることを知らない……
チャールス・ティー・ラッセル牧師は,1874年から聖書のこの解釈を説いてきた……ラッセル牧師は1889年に次の言葉を書いた,「強力な聖書の証拠から判断すると,この世の国々の最終的な終りと神の御の完全な設立は,西暦1914年の終りまでに達成されることはたしかな事実と考えられる」。……
しかし,苦難が1914年に頂点に達すると言うことは,奇妙であった。おそらくラッセル牧師がきらびやかな派手な書き方をせず,非常に落ちついた,高等数学式の書き方をしたためであろうか,ともかく不思議な理由で一般の世界は彼のことをほとんど認めなかった。彼の「ブルックリン幕屋」にいる研究生たちには,このことは期待されていたことであり,この世は苦難の日が過ぎさるまで,神の警告に耳を傾けて聞いたことは一度もなく,また決してないであろう,と言う。……
そして,1914年には戦争が来る。それはすべての人が恐れていた戦争で,決しておこることはないと考えられていた戦争だ。ラッセル牧師は「私があなたがたにそう言った」とは語っていない。また彼は現代の歴史に合わせるため預言を訂正しているのではない。彼と彼の研究生たちは,10月まで待つのをいとわない。彼らは10月こそ1914年の真実の終りであると考えている。b
トム: 世界大戦が始まった後でも,すべての人はこの預言を受けいれなかったと思います。
ジョン: そうです。イエスは,このはげしい苦難の時は末の日に来る,と預言しました。しかし,終りの時が来たことを示すすべての証拠があっても,大ぜいの人はその証拠をうけいれないということも聖書中に示されました。たとえばペテロは,次のように述べました,「終りの時にあざける者たちが,あざけりながら出てきて,自分の欲情のままに生活し,『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから,すべてのものは天地創造の初めからそのままであって,変ってはいない』と言うであろう」。c
良いたよりの伝道はつづく
ロイス: それはいろいろな感情がまじり合った時であったにちがいありません。
ジョン: その通りです,証者たち自身も認識できなかったたくさんのことが生じました。1914年前の40年間,彼らは聖書的な啓発によって,この年を指摘してきました。d さて,実際の証拠は,彼らが聖書研究を通して到達した結論を証明するように見えました。それで,彼らは次のことを確信しました,すなわち1914年10月1日は,異邦人の諸国家が地上で行使していた主権に対するエホバの寛容の期間2520年を合法的に終らせたこと,および「全国民の終り」は合法的に1914年に来たということです!e それで,証者たちは聖書に予告されていた状態が実現するのを見てよろこぶとともに,この世にもたらされた悲しみと苦難はよろこびをもたらしませんでした。また,神の御国の反対者からうけた迫害は,彼らを幸福にせず,そのわざを容易なものにしませんでした。
キリスト教国の牧師たちが,合法的な「全国民の終り」の証拠をうけいれる,ということは期待すべきではありません。むしろ,彼らはますます当時の問題に没頭し,諸国家の戦争の努力に介入したので,世界支配の論争を決する神の力に人々が頼ることにたいしてすこしの忍耐も同情をも持ちませんでした。どの国の教会も,権力をにぎっていた国家の政府を支持しました。他の国で同信仰を持つ者たちが,戦闘の反対側にいたという事実にもかかわらず,このことは行なわれたのです。そして,クリスチャン兄弟たちと認められる者たちは,いま戦場で敵対し合うようになりました。
トム: エホバの証者は戦争について何をしましたか。
ジョン: 彼らは戦争に参加することを拒絶しました。この苦難の時を指し示す預言を判断した証者たちは,神が戦争のそれぞれの側を支持しているという牧師たちの混乱した主張をうけいれることができず,またうけいれようとしませんでした。
証者たちは欧州で生じた状態に十分気づいていました。実際のところ,ジャッジ・ルサフォード自身も,戦争が始まったとき欧州にいたのです。ルサフォードが協会の法律顧問という地位についてから,彼は公開の聖書講演者としてアメリカ中を広く旅行し,特別な要求に応じて多くの大学で講演し,またアメリカや欧州の大ぜいの聴衆の前で話しました。1913年,彼は妻を伴ってエジプトとパレスチナおよびドイツを訪問しました。ドイツでは彼は合計1万8000人の聴衆に講演し,スイスでも講演しました。f
1914年,彼はパストー・ラッセルの代表として再び欧州に旅行しました。パストー・ラッセルは,健康も衰え,それに不安な世界状態の故にアメリカ合衆国から離れるのをのぞみませんでした。この資格を持ってルサフォードは第一次世界大戦が始まる数日前にドイツで聖書の講演をしていました。彼がハンブルグから英国に行く船に乗っていたとき,英国はドイツに宣戦を布告しました。それでルサフォードは,その年に起きた混乱の目撃者でした。彼はアメリカ合衆国に直ちに戻らず,1914年9月まで英国にとどまっていました。異邦人の時が終りに近づくにつれてどんな事態が生ずるかをくわしく見るためでした。戦争の始まった最初の月々を英国の証者たちと共に過ごしてから,彼はアメリカ合衆国に帰りました。
欧州で戦争が行なわれ,アメリカ合衆国がその戦争に介入していないとき,証言のわざに関連する他の事柄は,真の自由の擁護者たちの注意をひきました。1915年,パストー・ラッセルは別の討論の挑戦をうけました。この度は,カリフォルニア南部のバプテスト派牧師を代表するジェイ・エッチ・トロイの挑戦です。パストー・ラッセルは,健康が思わしくなかったのでジェイ・エフ・ルサフォードを代任させました。ルサフォードは,バプテスト派の信者として育てられてきたので,この任命をすぐに受け取り,連続の討論が行なわれるカリフォルニア州,ロサンゼルスに向かって出発しました。g 聴衆の合計は1万2000名で,1万名ははいれなかったものと推定されました。
そこで生じた一つの出来事は,ジェイ・エフ・ルサフォードの法律的なあたまの良さを示しました。討論の始まる数日前,ルサフォードはトロイと取極めを設け,人物について論じないことを保証するため,36万円の約定金を両方の側が出すことにしました。こうすると,討論は聖書の事だけに限定されます。両方の側はこの保証に署名しました。
それから数日の後,新聞に伝えた宣伝的な言葉からトロイは人物について話し,特にパストー・ラッセルについて話をして彼をそしる下心がある,ということが分かりました。ルサフォードは,最初の討論の始まる3分前まで待って,舞台に出ていなかったトロイと援助者たちを傍の部屋に来てもらいました。そこでルサフォードはトロイにこう告げました。「御記憶のことと思いますが,私たちは36万円の保証金をつけて,人物について話し合うことをしないと協定しました。しかし,あなたの新聞の会見から判断すると,あなたは演壇上でパストー・ラッセルを非難攻撃するものと考えられる。もちろん,おのぞみなら,そうしてもけっこうだが,しかしそうするなら,私はあなたの保証金を取る」。すっかり虚をつかれたトロイは,「彼の名前を言ってもいけないのですか」とたずねました。ルサフォードは,「だめです」と強く答えました。トロイはこの討論の機会を利用してラッセルを個人的に非難しようとたくらんでいたので,これはまったくびっくりすることがらでした。そのため,準備した資料は,この場合不適当なものになりました。討論が始まってしばらくの間,彼はたいへんな苦労をしたのです。
この討論の全部は,ルサフォードの圧勝に終りました。ルサフォードは,後にこう報告しまた。
昨夜,討論が終ってのち,大ぜいの人は私のところに来て,「私は長年バプテスト派の信者でしたが,ここで始めて目が開きました。あなたは私に光をもたらした」と告げました。非常に多くのカードが毎夜提出されました。h
写真 ― 劇は称賛され,反対された
ロイス: ちょっと話していただいた創造の写真 ― 劇はどうなりましたか。マリアさん,それは1914年の1月までには映写されたと言われましたね。
マリア: そうです。7月には英国に到着し,9月には欧州大陸で映写が始まりました。ドイツ,スイス,フィンランド,スエーデン,そしてデンマークなどです。そして10月までには,世界を半まわりしてオーストラリアとニュージーランドにつきました。
これはほんとうにたいへんな仕事でした。いまのように音声の再生装置が進歩し,ハリウッドの「雄荘な」映画が上映されているとき,その仕事がどれほどたいへんであったかは,ちょっと分からないでしょう。その製作の際に直面した一つの問題は,創造の最初から現在と将来にいたるまでの世界の歴史を示す良い芸術的な絵を入手することでした。入手し得たあらゆるものは,劇の主題に適合されました。しかし幾百枚という原画やスケッチをつくることが必要でした。ステレオプティコン・スライドは,それから準備されたのです。それにこれらの絵は手で着色された美しいものでした。そのあるものは,パリや英国で描かれたものです。ラッセルは,次のように報じていました。
「劇」に関連する仕事の量について,神は親切にも我々の目に覆いをかけ給った。最初,それに要する時間,金銭および忍耐について前もって知っていたなら,我々はそれを始めなかったであろう。しかし,この「劇」にともなう大成功も,我々は前もって知らなかった。i
これらのセットは第一次世界大戦が欧州で始まる前に準備されたので,欧州大陸の多くの場所で映写され,途方にくれた大ぜいの人々に慰めをもたらしました。j すくなくとも,4部に分けられた20セットが準備され,毎日80の都市で映写することができました。その映写にあたって,1914年だけでも会衆は5400万円から7200万円の費用を負担しました。
ユーレカ劇と呼ばれる別の作品も会衆で上映されました。これはスライドと写真劇の音楽および講演のレコードで編成されていたものです。フイルムは使用されませんでした。が,人口が比較的にすくない地方で映写するとき非常な成功を収めました。k
ロイス: 写真 ― 劇をぜひ見たいと思いますね。マリアさん,あなたのお話しによるなら,それが人気のあったのも当然のようですね。
トム: 正統派の牧師たちは,この企画に反対の言葉を多く言わなかったと思いますが,ジョンさん,その点はどうですか。
ジョン: それとは反対なのです。たいへんな反対がなされたのです。多くの場所ではその上映を全く禁ずる努力がなされました。ある牧師たちは,日曜日の上映だけに反対していました。劇場は日曜日には一般世俗の映画を上映しません。そのような事件は,アイダホ州で起こりました。しかし,その州の最高裁判所は,協会に勝利を与え,日曜日の上映はつづきました。l
私は,写真 ― 劇の反対についての報告をしらべるようにとマリアに頼んでおきました。マリア,私たちに読んで聞かせる報告がありますか。
マリア: ございます。これはジャッジ・ルサフォードが「教会の天における大いなる戦争」(英文)と題する冊子の中で述べているものです。
ミシシッピー州,ロウレルがその所だ。「劇」の管理支配人ニコルソン氏は,この場所のオペラ・ハウスを所有者テイラー氏から借りて,その場所で写真 ― 劇を上映することにした。この二人はオペラ・ハウスの前に立って,宣伝の仕事を準備していた。テイラー氏は,そのようにすばらしい映写が自分の家で行なわれることによろこび,大満悦であった。そこへちょうど,その地の指導的なメソジスト派の牧師が通りかかった。この牧師は,そこでは「伝道士組合のボス」と言われている者だ。
この牧師は,どういうことが行なわれるかを知り,たいへん怒って,ニコルソンの顔前でげんこつを振りまわし,怒りにみちた口調でこう叫んだ,「この町でそんなものを上映するなら,ものすごいけんかを覚悟しろ。さっさと町から出て行け,早く出ろ」。この脅迫をうけても,ニコルソンはびくともせずに上映の準備をすすめた。牧師の組合は,ただちに会合を開き,監督派の牧師をのぞくすべての牧師は激怒して,パストー・ラッセルと「劇」を非難した。この監督派の牧師は,宗教的な寛容と普通一般の礼節を保つようにとつよく主張した。この組合は「劇」とパストー・ラッセルに反対の決議を通した。それから市長と警察署長を訪問して,「劇」管理支配人にその町での上映禁止を通達するよう説得した。
牧師の組合は電灯会社にその勢力をおよぼし,電流の切断および「劇」に使用する電気の供給を中断するうに説得した。また,オペラ・ハウスの所有者テイラー氏にも彼らは大きな影響をおよぼしたので,彼は掲示板にはらせておいた広告案内を破った。写真 ― 劇の管理支配人は,町の指導的な弁護人ビーボーズ判事のところへ行き,彼の援助を求めた。彼は「オールド・スクールの弁護士」で権利を擁護するためにはよろこんで戦う。彼はただちに電灯会社と町の役人に,彼らに対する訴訟を起こすと通達し,彼らの権力の不当な行使を抑制した。
これは町の役人と電灯会社をびっくりさせ,牧師たちは弱腰になった。彼らは写真 ― 劇の上映禁止のための努力をこれ以上払うまいと決意した。市長は管理支配人に「どうぞ上写しなさい。ただ,我々と牧師たちをけなさないように」と告げた。彼らは結果を恐れていた。つまり人々が映画を見て,その映画が非常に悪く言われていた,ということを知るのではないか,と恐れた。人々は映画を見にきてよろこび,その中のある者は,「牧師が反対したのが,理解できない」と言っていた。a
トム: この年月中,あなたがたは難しい状況の下にいたようですね。反対は1914年前よりも悪くなったと思いますか。
ジョン: その通りです。わざは1914年に最高潮に達しました,しかし,1915年と1916年中は,反対,嘲笑,および世界的なわざの分裂のため,証者たちの伝道活動は次第次第に減少しました。b
この世の諸国民に対する終りの時は始まりました。しかし,エホバの民は,エホバが彼らのために備え給うた立場とわざに対して十分の準備態整ができていませんでした。それに加えて,彼らが知る以前に多くの試練,試験が彼らを待ちうけました。悲しみと非難の時は,始まろうとしていました。
[脚注]
a (イ)1914年の「ものみの塔」(英文)106頁。
b (ロ)1914年8月30日,ニューヨーク「ワールド」日曜雑誌欄4,17頁。
c (ハ)ペテロ後 3:3,4,新口。
d (ニ)1914年の「ものみの塔」(英文)371頁。
e (ホ)1952年の「ものみの塔」(英文)260,261頁。
f (ヘ)1913年の「ものみの塔」(英文)319頁。
g (ト)1915年4月,トリニテイ講堂で4晩。1915年の「ものみの塔」(英文)143頁。この討論の全文は,1915年4月22-24,26日のロサンゼルス「トリビューン」を見なさい。
h (チ)1915年の「ものみの塔」(英文)143頁。
i (リ)1914年の「ものみの塔」(英文)372頁。
j (ヌ)同じ,142頁。
k (ル)1914年「ものみの塔」(英文)373頁。
l (ヲ)州対モリス(1916年2月23日),28アイダホー599。159,296頁。
a (ワ)ジェイ・エフ・ルサフォード著「教会の天における大きな戦い」(英文)(1915年)12,13頁。
b (カ)115年「ものみの塔」(英文)371頁。
[92ページの図版]
写真 ― 劇とユーレカ劇の機械