神の目的とエホバの証者(その23)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第17章 拡大した施設を用いて人々に自由を知らせる
ジョン: たしかに1927年は奉仕の年でした。大会のときでも,最初から終りまで奉仕が強調されました。そしてまたその年の初めには,文書を用いる日曜「運動」が,アメリカの各会衆によって始められました。それは文書を配布するときにその寄付をうける運動でした。それについては,たぶん来週,もうすこしお話しします。
その年,聖書文書の印刷は急速に進歩しました。その年に,ベテルから徒歩で約10分の117番アダムス街に特別に建てられた工場で印刷が始められたからです。2月に工場に移転し始め,3月1日までには完了しました。1928年の「年鑑」(英文)に出版された協会長の年次報告は,この拡大を示しています。私はいまその詳細な報告を読みたいと思います。それには制度とともに進歩していたこれらの兄弟たちの献身した精神が示されているからです。
ついでですが,1926年の年間報告を載せた1927年版の年鑑は,協会が装ていした最初の本です。これ以前には,協会会長の年間報告は,毎年の終りに「ものみの塔」誌に出されました。冊子の形式で出版された1922年後でもそのようになされていたのです。1926年の報告からは,それは装ていされた「年鑑」(英文)として発行され,しかもきわめて詳細な報告がなされたのです。また1年の毎日のためと,週1度の祈りの集会のための聖句と注解も載せられました。聖書研究の資料出版についての次の報告は,その進歩を示すものであり,私たちをはげまします。いま,その報告に耳を傾けてみましょう。これは1928年の「年鑑」(英文)から取られています。
1926年の年次報告の中で,協会は土地を買って,新しい工場の建築を始めたことが述べられていた。a この建物は,完成して2月には使用を始めることができた。印刷機や製本の機械類が運びこまれて,仕事が始まった。この工場は,約30メートル平方の土地に建てられて8階建である。荷物を運ぶエレベーターと人を運ぶエレーベーターもあり,明るくまた換気も良い。本や冊子の製造と発送にはもってこいの工場と言える。また,この工場内にある事務所の仕事をするにもたいへん具合が良い。過去6年間,本部で働いていた人々にとって,この建物と設備は実によろこばしいものであった。
過去数年間の兄弟たちの本の印刷術と製本術の進歩は目ざましいものである。始めたときには,兄弟たちは機械の使用について何ひとつ知っていなかった。彼らは学ばねばならなかった。始めたばかりのときといまとを比較してみると,次のような例がある。協会のために大きな印刷機がドイツでつくられ,ブルックリンに送られてきたが,bその機械をすえつけるためにドイツから専門技師を招くことが必要であった。この専門家と数人の他の助手たちは,2ヵ月かかってこの機械をすえつけて,機械の使用を始めた。それから2年たたぬ中に,協会はそれと全く同じ型の印刷機をドイツで買い,アメリカにもってきた。工場内の一兄弟と数人の助手は,その機械を組立てたが,その仕事は3週間で行なわれた。多数の人々は,兄弟たちの為し得ることに驚嘆している。この世の人々は理解できない。しかし,主に献身している者たちにとっては,それは明白である……。
本と冊子をつくるための機械の組み立てと操作に奉仕した兄弟たちは,主に献身した清い心をもってよろこび進んで行なった。この世の人には,そのようなことがとうてい理解できない。その結果は,主の奉仕を行なうすべての者を大いに励ますものである。ふつうには,そのような機械を取りあつかう者たちは,そのことを知る者の徒弟になってすこしづつ学ばねばならぬ。それでも最善の仕事をしようという正しい精神が彼らの動機ではない。主に全く献身して,学ぶ気持に燃え,主に頼って最善の努力をつくす者は,主の援助に依存する。このことの証明は,本や文書の発行のための協会の工場が拡大したことに見られる。
マーチン兄弟は,ニューヨーク,ブルックリン,アダムス街117番にある工場と事務所の監督である。彼は,印刷の仕事の進歩には,その最初から深い興味を持っていて,参加した。この年の終りに協会の会長に送った報告の中で彼は次のように述べている。
親愛なるルサフォード兄弟,主の工場の中で,主の援助の下に「黄金時代」(英文)27号をたくさん印刷することができたのは,実にすばらしい時でした。しかし,いまとなっては,それはずっと昔のように思えます。事態は急速に進歩しています。しかし,それでもわずか7年しかたっていません。しかし,この7年間に,主のわざについてはなんとすばらしいことが行なわれたのでしょう。
特別号400万部を何台の自動車で発送したか,私は忘れました。しかし,ともかく,それは莫大な量でした。それはみな1台の大きな輪転機,いまでも「古い戦鑑」となつかしく呼ぶ機械でつくり出されたものです。あの古い戦鑑は,私たち全部にとって,良い友でありました。
あなたは戦後すぐに大きな輪転機を求めようとされましたが,そのような機械はアメリカに数台しかなく,しかもその全部は仕事に忙しく使われていたので,幾ヵ月ものあいだとうてい買えそうに思えなかったことを御記憶でしょう。そのときには,待つ方が良いように見えました。
しかし,適切な時に主は戸を開かれました。大きな輪転機が,私たちの手にはいりました。しかし,私たちはこの機械の組立てや,操作については何も知っていませんでした。しかし,主は彼にすべてをゆだねている者を援助して早く悟りにいたらせて下さいました。そして,ほとんど数日と言いたいぐらい,まったくのところ数週間という短時間のうちに,私たちは印刷機の操作を始めることができました。いまでも,その印機は使用されており,その製作者たちは,とうていできないと思える仕事をしています。
あの戦艦を最初に据えて使用したところは,ほんとうに小さな印刷工場でした。現在のきぼや環境と比較するとき,全く小さなものです。工場の床面積は,わずか3000平方フィートで,しかも3階に分けられていました。そして,印刷物の生産のために働いた人の数は,わずか27人の兄弟でした。主の援助があったからこそ,わざをすることができたのです。その号以前では,私たちの印刷は外部の商社によって行なわれ,いつでも彼らに依存せねばなりませんでした。
冊子の日
「戦艦」印刷機を使用して,冊子が印刷できないかとあなたがたずねられたとき,それは主のわざにとって大なる日でありました。最初,それはとても不可能のように思えました。たとえば,その機械を製造した者たちもそんなことはできないと言いました。いままでに一度もされたことはないし,験してみるのは無益だと彼らは言いました。しかし,私たちは験してみて,その結果はあなたの御存じの通りです。
昔の1920年,あの「戦艦」印刷機を冊子印刷に使用し始めたころ,1日の冊子印刷数は平均して1000冊だけでした。しかし,翌年には1日平均は3000冊で,1923年までには6000冊となり,1926年までには1日平均約1万冊以上となり,いまでは毎日の平均は1万5000冊です。この冊子はみな同じ機械でつくられるのです。経験を積みかさね,主の祝福をうけることによって,このような結果を得ることができました。
御存じのように私たちの冊子はみな針金で綴じられています。私たちの最初の綴じ機では,ふたりが働いて1日に2000冊くらいを綴じることができました。しかし,改良された綴じ機は,別々に綴じるかわりに一度に二つを綴じるので,上手な者なら2人で,めいめい1日に2万5000冊の冊子を綴じることができます。
冊子の折りたたみについても類似の進歩が見られます。御存じのように,折りたたみの機械は私たちが発明したもので,非常に態率の良いものです。この機械ではふたりの兄弟が働くことによって,手で折りたたんでいた12の兄弟たちは別の仕事をすることができるようになりました。最初,この機械を用いて上手な兄弟は1日1万冊の冊子を折りたたむことができました。今日では,手と目と筋肉を上手に使う兄弟は,同じ機械を使って1日に3万部を折りたたみます。すばらしい進歩です。
本の日
私たちが本を印刷して製本することはできないだろうかとあなたがたずねられたとき,それは,最も重大な意味を持つ日でございました。それは息の根もとまるほどの考えでした。なぜなら,植字,電気鍍金,印刷と製本全部の仕事を意味したからです。また使用を知らない機械を20台以上も使わねばなりません。大部分の機械は,私たちの知らないものですし,私たちは12以上の新しい仕事を学ばねばなりません。しかし,戦後は本製造の値段があがっているので,それは最善の方法に見えました。
あなたはコンコード通り18番にある6階建の建物を借りました。(二つの階には借家人が住んでいました)そして,1922年の3月1日に私たちはそこに移りました。あなたは私たちのために,植字,電気鍍金,印刷,製本の機械一式を購入してくれました。その中のあるものは中古品でしたが,大部分は新品で私たちは仕事を始めました。
それ以前に私たちの仕事をたくさん引きうけていた大印刷会社は,私たちのしていることを聞いて,その社長が見に来ました。彼は新しい設備を見て,賢明そうにもこう言いました「あなたがたは第一級の印刷設備を持っておられるが,その使い方を知っている人はひとりもいないようですな。6ヵ月もたたぬ中に,この全部は屑同然になってしまうでしょう。そして,あなた方のために印刷をしていた人々が,やはり仕事に慣れているし,うまくやれることが分かるでしょう」。
それはもっともらしく聞こえましたが,主のことを度外視していました。主はいつでも私たちと共におられました。製本の仕事が始まったとき,主はずっと製本業をしていたひとりの兄弟を私たちのところにつかわされました。彼の援助は,そのときいちばん必要でしたし,たいへん役立ちました。彼の援助もあり,また学ぼうとつとめていた兄弟たちに主の御霊が働くことによって程ない中に私たちは本をつくることができるようになりました。
最初は本の生産は早くできませんでした。本を早くつくることはできません。しかし,私たちが製本した最初の1年間に,1日2000冊を製本しました。そのときにはそれはずいぶんたくさんのように思えました。翌年には1日に3000冊を製本しました。そして,1924年には1日に5500冊に増加しました。1926年には1日に8000冊を製本しました。そして,いまでは新しい機械を用いて,1日に1万冊から1万2000冊を製本しています。
ドイツから購入したばかりの新しい輪転機を使用することにより,いまは1日1万8000冊から2万冊の本をつくることができます。しかも,働く人の数はうんと増加したわけではありません。
兄弟たちが本を縫い始めたときは,1日に500冊をことができました。しかし,いまではたいへん上手になったので1日に3000冊を縫うことができます。このためには手と目を良く使い,朝から夜まで一生懸命はたらかねばなりません。この種の援助は,どんな費用を払っても,外部からは得られません。私たちの工場を見学する人々は,兄弟たちの働く速度に驚嘆しています。この世の人々は,それほどのすばらしい仕事に対して,いったいどれほど巨額の賃銀が支払われているのかと,考えています。
工場の日
いままでの中で最大の日は,あなたがこの土地を買って,この建物の建築計画を始めた日でした。いまはこの建物は批評家さえも,世界印刷業の中心地,ニューヨーク市内にある最上級の印刷工場のひとつと認めているほどです。私たちもこの新しい工場に対して同意見です。印刷工場として完備している建物です。
この建物の綜合設計は,私たちの仕事のためには完全なものです。仕事はみな重力により上から下に動いて行きます。それは自然の順序でなされます。いちばん上の階には事務所があります。次の階では活字を組みますが,それは理にかなうことです。活版は次の6階に行き,そこで印刷が行なわれます。郵送の仕事と冊子の仕事は5階で行なわれます。製本は4階でなされます。保管は3階です。発送は2階です。紙の保管,ガレージ,そして動力機械は1階にあります。まったく至れりつくせりです。
本や冊子の出版数が増加したにもかかわらず,私たちの工場で働く人数すなわち実際に本をつくる人の数は20人から95人に増加しただけです。改善された機械,多くの経験,一段と良くなった工場の施設は変化を生ぜしめました。そして,すべてのことの上に主の祝福は注がれていました。もし主の祝福がないなら,私たちの努力はほとんどむだでしたでしょう。
印刷業者や他の一般人の賞賛をうけた私たちの新しい建物の一特色は,建築が完成したとき,電灯線と,動力管がみな床の中にはいっていたことです。それで,それらはひとつも見えません。時折り機械がつけ足されて行きましたが,新しく線をひくことは必要でありませんでした。新しい機械の置かれるところは,建物が建造中に計画され,すべての準備がととのっていました。
3トンの荷物エレベーターのする仕事は,1階から6階の印刷室まで紙をはこぶことです。そのところから,紙は本や冊子となって,順番に下に行き,ついに発送室にまで来ます。
1階の表玄関と1番上の階は,ひじょうに美しく仕上げられているので,工場で働く者にも訪門者にも快い気持をおぼえさせます。14人乗りのエレベーターは私たちの必要を十分にみたして,数分内に全員は工場から出ることができます。ニューヨーク市内で,これほど良い暖房装置があり,かつ,照明と通風の良い物は他にありません。c
ルサフォード兄弟は報告をさらにつづけてこう述べています。
ブルックリン工場について言えることは,ドイツのマグデブルグ,dスイスのベルンにある協会の製本工場についても言える。e マグデブルグのは,ブルックリンほど大きなものでなく,スイスのはさらに小さい。しかし,それぞれはすばらしい仕事をしている。働いている者の数と,使用されている道具から判断するとき,すばらしい仕事をしていると言える。主はそこにいる兄弟たちに御霊をそそぎ,彼らの努力を祝福した。そのことは,それぞれの国からの報告からも分かる。f
ベテルの拡大
トム: あなた方はベテルの大きな建物に移ったとも言われませんでしたか。
ジョン: そうです。しかし,住所は同じところです。ベテルの家は再建されて大きくなりました。しかし,これは本部の施設がはじめて拡大したわけではありません。おぼえていらっしゃると思いますが,1909年に協会はコロンビア・ハイツ124番にあった褐色砂石の古いビーチャー邸を購入して,執行事務所と住居にしました。それから,その年の10月にはこの邸の隣コロンビア122番の類似の建物を入手することが必要でした。翌年の1910年,「さらに多くの部屋が必要になり,うしろのファーマン通りと下コロンビア・ハイツにあった建物も用いられ,その基礎の上に5階建のものをつけ足して9階建の建物にしました。背後にこのようなつけ足しをした7階は,コロンビア・ハイツの建物の1階と同じ高さになりました。g
1926年に始まった拡大は,1928年の「年鑑」(英文)で論ぜられています。
ブルックリン本部で働いている者の数は,いまでは200人近くなっている。このわざに従事している者を適当に世話するには住む場所が小さくなり過ぎていることは全く明白だ。従って,場所を拡大する方法と手段が講ぜられた。1926年の12月,コロンビア・ハイツ124番の隣の土地が購入された。そして,1月上旬にはコロンビア・ハイツ122,124および126番にあった三つの建物はとりこわされ,新しい建物の建築が始まった。その建物は,いまは完成に近づいている。それは9階建であって,地下室もあり,約80の部屋がある。これはその土地のうしろにある建物につけ加えられたものだ。新しい建物のちばん上の階には協会の本部事務所が設置される。正式の住所は,同じくコロンビア・ハイツ124番である。この場所全部は,協会の目的を達成するためだけに使用される。快適な部屋が備えられることによって各人は主の栄光のためにいっそう効果的に奉仕することができると希望される。h
翌年には家の運営についていっそう詳細な報告がなされました。次はそれからの抜すいです。
ベテルの家は……いまは約120の部屋を持ち,近代的な施設がととのっている。主の奉仕に働く人々を収容するのに適当な場所である。もちろん,家はぜいたくな設備を持っているわけではない。しかし,それは快適である。約180名がベテルの家にいる。その大部分は青年だ。その目的は良く働く人々を気持よく住まわせることにある。ふたりが一部屋にいる。各部屋には二つのシングルベッドが備えられているので各人は自分のベッドを持つ。個人的な研究用にテーブルや電灯もある。
集会所もあり,兄弟たちはそこに集まって音楽を聞いたり会話をしたりする。図書館もあるので,夜しずかに研究したい者はそこで研究することができる。音楽室もあり,放送番組の準備として,声楽や器楽の練習や実践に使用される。これらの部屋は,前述の目的のために毎日使用される。他の部屋にはタイプライターがあり,兄弟たちは放送の話や講演の準備にそのタイプライターを使用することができる。
ベテルの家には,家の管理人がひとりいる。彼の事務所は,1階入口のうしろにある。彼は家の事を一般的に,かつ詳細に監督する。家にはいる者は,管理人かその補佐に報告し,記帳することが要求される。記帳の目的は,管理している者にたれが家のなかにいるか,どの部屋に割りあてられているか,なぜそこにいるかを知らせるためである。このことはお客だけでなく,この家に住む者たちも必要である。管理事務所の仕事は,食糧の買い入れ,食事の準備,食物を給すること,家の清掃,そして家での一切の仕事の管理をふくむ。彼の指示の下に良く組織された補佐たちがいる。各人は主に献身しているゆえ,心からよろこんで自分の分を果たす。
日課
ベテルの家の生活が秩序正しくなければならぬことは当然である。そうでないなら主をよろこばすことはできぬ。この目的のために家を管理するための規則が設けられている。奉仕するためベテルの家にはいる者には印刷された規則集が渡される。彼にはそれらの規則を研究して従うことが要求される。朝の6時30分,起床の合図が鳴る。すべての人はすぐに起床して,沐浴し,1日の準備を整える。午前7時,朝食の合図が鳴り全家族は食堂に集まる。会長が出席するときは,彼が朝の奉仕を行なう。彼が欠席するときは,別の者が代行するよう指定される。
朝の礼拝では,その日のために前もって選ばれた歌を歌う。次に祈りが捧げられる。この祈りは,司会している者か,あるいは彼が指名する者によってささげられる。このあと,家族のある者は食物の上に祝福を祈る。その後,朝食が給せられる。また,朝の奉仕中,日々の聖句が読まれ,家族の成員は自由にその聖句を論ずる。特にエクレシアの長老たちがする。論議も終わり,「年鑑」(英文)中の注解を読むことが終わってから,会長は日々の聖句を特に適当な二,三の言葉でまとめる。i それから家族は起立し,祈りでもって解散する。
朝8時には,家族全員がそれぞれの義務を熱心に行なっているものと期待される。ある者は洗たくし,他の者は靴を直し,洋服にアイロンをかけ,他の者は食物を準備して,別の者は料理する。他の者は皿を洗い,食堂に注意をはらう。一方,さらに別の者は家のこまごました仕事をする。各人は,割当てられた仕事を忠実に行なう。いつでも主に対して行なうようにする。彼は主のわざをするために必要な奉仕をする。ベテルの家にきて奉仕をする人は,最初に質問用紙に記入する。その人は主に全く献身していること,および協会のしているわざに全く一致していることを言明せねばならぬ。その目的は,家族の成員が全く調和し,目的をひとつにして働くことである。つまり,神の御国の福音を宣明することである。奉仕しない者はこの家にいることができないであろう。
正午になると,食事をするためと聖書質問の論議のために1時間が設けられる。家族の者あるいはこの家を訪問する者は,だれでも聖書の質問をすることができる。司会者はいろいろの兄弟を指名して,その質問について注解させる。また,その論議に参加したいとのぞむ人は,みな自由に発言することができる。その結論として,司会者はその質問に対する注解の諸点をまとめる。夕食のときも同様なことがなされる。実際食堂で食事が給せられるときは,聖書研究をする時である。時間はそのように用いられねばならない。
月曜日の夜は,「ものみの塔」の中心記事を研究する。この集会には家族の者だけが出席する。たいていの場合,この集会は,協会の会長により司会される。j
トム: まあ,一分のすきもない予定ですね。しかし,働く人が自分の仕事にそれほどまでの大きな関心を寄せたので印刷方法が急速に進歩したのも当然でしょう。
[脚注]
a (イ)1927年の「年鑑」(英文)50,51頁。
b (ロ)1927年の「ものみの塔」(英文)48頁。
c (ハ)1928年の「年鑑」(英文)37-43頁。
d (ニ)1928年の「年鑑」(英文)92-96頁。
e (ホ)同 126-128頁。
f (へ)同 44頁。
g (ト)1946年8月12日の「メッセンジャー」(英文)14頁。
h (チ)1928年の「年鑑」(英文)26頁。
i (リ)後になって歌は歌わず,聖句の討論の後に祈りがささげられ,それから朝食が給せられた。
j (ヌ)1929年の「年鑑」(英文)26-29頁。