神の目的とエホバの証者(その25)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第18章 エホバは御自分の民に対する彼の目的を示す
ロイス: ジョンさん,先週のお話で1922年から1928年までエホバの証者が七つのさばきの宣告をしたことを知りました。またパンフレットとか冊子のかたちでそれらの宣告が幾百万部も発行されたことも知りました。しかし,サタンに反対し,エホバを支持する宣告の場合同じことがなされたかどうかはお話しになりませんでした。
ジョン: 講演と決議の両方は「国民の友」(英文)という冊子に発表され,アメリカ合衆国と外国では数多くの言語で540万部以上も配布されました。a それは真の崇拝を守るための強烈な打撃でした。
ミシガン州デトロイト市のこの大会で「和解」と「政府」と題する本が発表されたとき別の強烈な打撃がサタンの世界に対して加えられました。「政府」という本は,この世の政府の弱点をばくろするとともに,エホバがそれらの政府に対する滅びを宣告された理由をも示しました。同時に,エホバの神権政府をこの世の人々の真実の希望として擁護しました。それで,この本も証言のわざでふたつの目的をはたし,人々が生命をうけるにふさわしいかあるいは滅びをうけるにふさわしいかを示します。
エホバは御自分の民を復興させて活発な賛美をささげるようにされました。それだけでなく,真理を復興して神の御心を理解させることによって彼らを大胆にさせ,敵の門にあっても真の崇拝を守らせることができるようにしました。これらの活発な戦士たちのなかには,眠気はすこしもありませんでした。背教の宗教とその手下共との妥協ということもありません。活動の時であって,エホバの証者は献身的に奉仕しようという強い気持でいっぱいでした。
トム: 協会は,エホバの証者の行なっていた運動にラジオを大きぼに用いましたか。お話しによると,いくつかの大会のときラジオ放送網が使用されて公開講演が放送されたとのことでした。
ジョン: 1928年来の戦いでは,ラジオは大切な役割を果たしました。協会はこの公共通信の手段を使用する可能性を早くから認めて,1922年には協会のラジオ放送局を建てるため,ニューヨーク市のスタテン島に土地を購入しました。ついにいくらかの困難の後に,1924年2月24日,協会の会長は「ラジオと神の預言」と題する大切な講演をして放送を開始しました。b この放送局は,WBBRとしてアメリカ政府により許可され,最初500ワットで放送しました。3年後には,1000ワットに増加されました。c 30年以上ものあいだ,この放送局は非営利の教育的な放送局としてニューヨーク市街地区,および近接のコネチカット州やニュージャージー州に放送されました。その配置という点から見ると,それは国際的な声であって,イタリア,ローマにいるイタリア人と同じ数ぐらいのイタリア系の人々,アイルランド,ダブリン市にいるアイルランド人よりも多い数のアイルランド系の人々,そしてパレスチナ全国にいるユダヤ人よりも多いユダヤ人たちは,その放送を聞くことができました。放送局は,ついにニューヨーク,ブルックリン,コロンビア124のベテルの家に設置され,1948年には政府の許可の下にその放送出力は5000ワットに増加しました。d
第1世紀のクリスチャンの先駆者のように,エホバの証者は御国の活動を拡大する新しい発明品をすでに利用しました。初期クリスチャンたちは,新しいコデックス・スタイルの写本の利点をすぐに認めました。これは現代の本のような体裁のもので,クリスチャンたちは以前に使われていた使用しにくかった巻本よりも,コデックス・スタイルの写本を使用し始めました。e それでエホバの証者はラジオの強力な効果を認めました。当時,エホバの証者の数はすくなかったので,最少限の時間で最大の数の人々に真理を伝えるため,ラジオを効果的に使用しました。
マリア: 1924年には,アメリカ合衆国中で本や冊子を家から家に配布して,毎週の伝道に従事していた証者の数は1064名だけでした。f もちろん,全世界で主の夕食の記念式の報告に出席した6万5105名が真理をうけいれたと示されました。g これらの人の大多数は,冊子や講演のビラを配布し,友人知己に偶然の証言をしました。しかし,組織だった家から家の奉仕はまだ大きぼに行なわれていませんでした。ラジオは一瞬のうちに幾千人という人に真理を伝えることができるので彼らにとっては,大きな助けになりました。
トム: WBBR以外の放送局も使用されましたか。
ジョン: はい。あるとき協会は六つの放送局hを所有して,運営し,また二つの他の放送局とも特別な契約をむすんで宗教の番組時間の全部を専有しました。i もちろん,WBBRは中心的な放送局でした。しかし,イリノイ州バタビアのWORDも良く使用されました。
ものみの塔放送網
トム: しかし,WBBRを運営する前に,あなた方はラジオを使用しませんでしたか。
ジョン: そうです。1924年にはラジオはまだ幼籃期でした。しかし,ジャッジ・ルサフォードはWBBRの運営が始められる2年前に初めてラジオを使用しました。1922年4月16日,彼はペンシルバニア州フィラデルフィアのメトロポリタン・オペラ・ハウスから公開講演を放送しました。翌日,フィラデルフィアの「レコード」(英文)には,詳細な報告が掲載されました。その一部には次のように述べていました。
世界の千年統治が来るとラジオは発表。ジャッジルサフォードの講演はメトロポリタン・オペラ・ハウスから放送された。この話は送信所に送られた。音信はベル電話会社の電線によって幾マイルも遠くにはこばれ……北ブロード・ストリートのWGLラジオ電話放送局に伝えられた。j
御国の音信のラジオ放送は,少きぼな始まりでしたが,それから北アメリカと南アメリカ,欧州,アフリカ,そしてオーストラリアにひろまりました。1927年以後の10年間に幾百という放送局は利用されました。最初は,すでにお話したように,1927年カナダ,オンタリオ州トロント市での国際大会のための特別なN.B.C.商業網でした。ものみの塔放送網,あるいは「ホワイト」放送網は,ミシガン州デトロイト市大会のために特に組織されました。それは非常な成功を収めたので,協会はカナダとアメリカ合衆国に毎週30の放送局の使用を決定しました。ニューヨーク市のスタテン島にあるものみの塔放送局WBBRのスタジオから1時間の番組が取りきめられました。毎日曜日の「ものみの塔」時間にはジヤッジ・ルサフォードの講演があり,協会専属のオーケストラは初まりと終りに音楽を奏しました。このような生の放送は,1928年11月18日に始めて行なわれ,1930年までつづけられました。k
この放送は御国を良く宣伝しました。そしてアメリカ合衆国内やカナダ国内の兄弟たちは一般の人々に1週1度の「ものみの塔時間」を聴くよう励ましました。しかし,この放送のためにルサフォード兄弟の多くの時間は取られてしまい,彼が各地を訪問し,大会を組織することは不可能になりました。ついに1931年協会は録音のプログラムを放送することに決定し,250の放送局はルサフォード兄弟の録音された講演を放送しました。これらはルサフォード兄弟の都合のよい時につくられ,ラジオ放送局の便利な時に放送されました。かくしてさらに多くの放送局が御国のわざのために利用されました。l
これら15分の講演は,非常な成功を収めました。便利であったというだけでなく,それらはずっと安いものでした。協会は,多数の放送局を同時にむすびつけるための電話料金を払わなくても済んだからです。1932年「録音チェーン」と呼ばれたこのラジオ放送は,340局にひろまり,1933年には408の放送局が協会によって使用されて,六つの大陸全部に良いたよりは伝えられました。a
この1933年は,ラジオ放送の絶頂に達し,2万3783の聖書講演が放送されました。たいていの場合,これらは15分間の電気録音の話でしたが,bそれから難問題がおきたのです。
トム: それらの講演が1922年から1928年までの七つの大会のときの講演のようでしたら,問題にぶつかるのは当然かも知れませんな。
ジョン: もちろん,善意者はこれらの講演に真実の慰めを見出しました。しかし,ジヤッジ・ルサフォードはいまこそ背教の宗教を徹底的にばくろしなければならぬと確信していました。かくして,ハルマゲドンがこれらの偽りの制度を終わらせるまえに,神を真実に愛する者たちは出て来て,その立場を取るでしょう。
ロイス: 私の母は,いつでもその講演に反対していました。しかし,父がそのことで母と議論すると,母はいつでも歩いて出て行ってしまうだけでした。父は教会に行ったことは一度もないのですが,聖書の言葉をたいへん良く引用することができました。母は父の議論に言い返すことができなかったので,いつでも怒っていました。
定期的な日曜証言は新しい問題を提出
ジョン: ラジオ運動については多くのことが言えます。しかし,2,3の他の大切なことについても知っていただきたいと思います。アメリカでは1927年の初期に家から家に書籍や冊子を寄付で配布する毎日曜日のわざが始められました。c この新しいわざにはすぐに応答がありました。d それを示す手紙が1通あります。
親愛なるルサフォード兄弟: 〔1927年〕6月12日,私はニュージャージー州プレインフィールドの友たちに奉仕する特権にあずかりました。公開集会を開く代りに1時間の伝道運動する方が良いと思われました。
朝の話のすぐ後に35人の友たちが野外のわざに参加して,240冊の本が売れました。それはほんとうに1時間の「公開集会」でした。
友たちはよろこびでみちあふれ,みな公開証言に参加したことを感じていました。証言は良いものでした。友たちはみな愛を伝えています。またエホバが神であるという真実のあかしを地上で与えたいという望みを言い表わしました。キリストにあって,あなたの兄弟,エヌ・エッチ・ノア。e
この手紙を書いた人は,1942年に協会の3番目の会長になりました。この日曜日の伝道ということについて,良いたよりに反対する者たちは猛烈な反対をはじめました。
1928年,ニュージャージー州サウス・アムボイで,日曜日に良いたよりを伝道した幾人かのエホバの証者は逮捕されました。エホバの証者に対して反対の銃砲が発射されてから,10年間にわたってその戦いはつづけられました。証者たちはこの戦いを「ニュージャージー州の戦い」としばしば言いました。しかし程なくして反対の前線はあちこちに拡大し,ついにはほとんど地上の全地にまでひろまりました。
ロイス: いちばん反対したのは以前と同じく新教徒の群れでしたか。
ジョン: 新教徒の群れも反対しました。しかし,いちばん強い反対は,あるカトリック行動の群れから来ました。これらの群れの大部分は1920年の初期に始まり,半宗教的な組織運動であって,ローマ・カトリック教職制度の社会的理想,政治的理想を各地でひろめるために推進しました。1921年までにはそのいくつかがアメリカ合衆国で活動し治めました。これらの逮捕が1928年に始まり,1929年にまで続いたとき,エホバの証者たちは,神のいましめに反対する人間政府への従順ということについて強い立場を取りました。
トム: 実はその点をおたずねしたいとかねがね思っていました。サタンの世に属する政府に関して,エホバの証者の取る強い立場について,いまお話しになりましたね。あなた方は,政府に対する関係をどのように説明しましたか。先日ひとりの人と話をしたのですが,その人はエホバの証者を批判していました。エホバの証者は投票しないのに,裁判沙汰になると法廷を利用するということですね。それはどういうわけですか。
ジョン: 法廷の裁判をしてもらうのに投票しなければならない,ということはありません。市民でなくても法廷で裁判してもらうことができます。法廷は主として税金で支えられており,エホバの証者は税金を払います。エホバの証者は政府の備える合法の保護の益をみな受ける資格を持ちます。税金で維持される火災や警察の保護をうける資格もあるのです。
昔の使徒たちは,個人の権利を守るためにローマ政府の設けたすべての保護手段を利用しました。パウロにはローマは最高法廷であるカイザル自身に訴え出ました。パウロは,自分は天の国籍を持つ者と認めていましたが,ローマ市民としての権利をも利用しました。それは個人的な利益をはかるためでなく,神のわざを拡大するためでした。それでエホバの証者は同じ立場を取りました。パウロはローマで刑務所の縄目をうけていたこと,および彼と共に苦しみにあずかった兄弟たちについて語りました。それは,「良いたよりを擁護し,合法的に確立すること」でありました。f
ロイス: この期間中,エホバの証者はどんな教理的な立場を取りましたか。
ジョン: それはロマ書 13章1節にもとづいていました。神のいましめに反対の行動をして人間政府の権威に人々を従わせようとした者たちは,しばしばこの聖句を悪用し,悪い意味に解釈しました。
ロイス: その聖句をおぼえています。それは上なる権威に従うことですね。読んで見ましょう,「すべての人は,上に立つ権威に従うべきである。なぜなら,神によらない権威はなく,おおよそ存在している権威は,すべて神によって立てられたものだからである」。
トム: それを聞くと人はこの世の政府に従わなければならないようですね。
[脚注]
a (イ)1929年の「年鑑」(英文)65頁。
b (ロ)1924年の「ものみの塔」(英文)82頁。358頁。1950年の「ものみの塔」(英文)268頁。
c (ハ)1948年の「ものみの塔」(英文)207頁。
d (ニ)(ハ)と同じ。
e (ホ)ユドガー・ジエー・グッドスピード著「キリスト教は印刷される」(英文)(1940年)75-77頁。
f (ヘ)1948年の「ものみの塔」(英文)208頁。
g (ト)1924年の「ものみの塔」(英文)290頁。
h (チ)WBBR,ニューヨーク,スタテン島。WORD,イリノイ州バタビア(1924年に開始)CHUC,カナダ,サカチワン,サカツーン(1925年に開始)CKCY,オンタリオ,トロント。CHCY,アルバータ・エドモントン。CFYC,ブリテイッシユ,コロンビア,バンクーバー。(これら三つのカナダ放送局は1926年に開始)1925年の「ものみの塔」(英文)357頁。1927年の「年鑑」(英文)41頁。1928年の「年鑑」(英文)32,33頁。1928年,カナダ政府は四つの放送局に対する放送許可の再発行を拒絶しました。1929年の「年鑑」(英文)35頁。
i (リ)KFWM,カリフォルニア,オークランド(1925年開始)WHK,オハイオ州クリーブランド(1926年開始)「ものみの塔」(英文)1925年,357頁。1927年の「年鑑」(英文)41頁。
j (ヌ)1922年の「ものみの塔」(英文)180頁。
k (ル)1930年の「年鑑」(英文)34-39頁。
l (ヲ)1932年の「年鑑」(英文)
a (ワ)このように主として本部の兄弟たちの活動により,アルゼンチン,オーストラリア,カナダ,中国,キューバ,フランス,南アフリカ,エストニア,ウルグアイ,アラスカ,ハワイ,フィリピン群島およびアメリカ合衆国に音信は広められました。
b (カ)1934年の「年鑑」(英文)60-64頁。
c (ヨ)1927年の「ものみの塔」(英文)63,233頁。
d (タ)1929年の「年鑑」(英文)58頁。
e (レ)1927年の「ものみの塔」(英文)233頁。