神の目的とエホバの証者(その28)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第20章 電波の戦いは新しい分野を開く
ジョン: ラジオ放送局WBBRが戦術上の要地にあったので,ニュージャージー地方の地方官吏の行なった不法行為を妨げることができました。協会は「キングス・シアター」として知られる訓練をうけたラジオ演出者たちの群れをベテルに持っていました。これらの兄弟たちはラジオ講議とラジオ・ドラマの訓練を仕込まれていました。年月の経つにつれて,彼らはルツ,エステル,ヨセフとその兄弟たちその他の聖書のドラマを放送しました。ラジオ聴取者たちはその放送を大歓迎しました。しかし,いまはニュージャージーでの戦いに「キングス・シアター」を用いて,逮捕された兄弟たちを援助することになりました。a その一例は,1933年6月の「特別なブルティン」に表われた次の発表文です,
「エホバを侮る」は,最近ニユージャージー州,サミットでの兄弟たちの裁判についての再演であって,6月18日,日曜日の朝WBBRのスダジオから放送されるであろう。
それはこういう風に行なわれました。法廷での裁判が行なわれて,分団伝道運動をした伝道者が裁判をうけるとき,速記に巧みな証者たちが,その集会に出席して,その裁判の言葉を記録しました。多数の裁判官たちは,カトリック信徒でした。彼らは法廷でも偏見を公然と示したのです。多数の者たちは粗野な言葉を使用し,その宗教的な結びつきすらばくろしました。宗教家たちは,背後にいて証者たちに対する反対をかくそうとしていたのです。法廷で取りかわされたわいせつな言葉はみな速記者たちにより書き取られました。また巧みな出演者でもある別の兄弟は,同じ裁判に出席していて,判事の声音,抑揚とか,検事のごうまんな言葉などを研究しました。その目的は法廷の手続きをできるだけ正確に再演出することでした。
裁判が済んで数日の後には,キングス・シアターは法廷の景を実に正確に再現して放送することができました。それから良い結果を得るために指定された時間にニュージャージーの人々がラジオを聴くようにするための特別な努力が払われました。人々はニュージャージー州のカトリックの都市で行なわれていた正道の腐敗を知ってたいへんびっくりしました。時たつ中に判事たちはこの大がかりな宣伝が彼らと誤導された警官および検事たちの上に向けられるのに恐れを感じ,エホバの証者を扱うときはいっそうの注意を払うようになりました。
3つの嘆願状は差別扱いに抗議
この電波についての戦いの行なわれていたとき,証者の使用した別の合法的な手段は,嘆願状の権利でした。1933年の後半から1934年にかけてエホバの証者は,ワシントン・D・C・のアメリカ国会に宛てる全国的な嘆願状を回布し,ラジオでの言論の自由を抑圧しようとしたカトリックのおどしと脅迫に強く抗議しました。家から家のわざを幾週間もして事実を一般の人々に知らせ,嘆願状に署名するようお願いしました。その結果,241万6141の署名が得られたのです。
それから1934年1月24日,ワシントンに嘆願状を提出する段取りになりました。嘆願状は国会の地域別に分類されて,国会議員か上院議員に提出されることになったのです。435人の国会議員および96人の上院議員に署名したものを渡しました。その包みは箱に入れられ協会の大型トラックでワシントン・D・C・に運ばれたのです。近くの兄弟たちはこの配布に参加するよう招待されていました。大多数の国会議員は10時から11時までの間に事務所に来て,郵便物をうけ取り,それから正午に始まる国会の審議をすることが知られていました。各兄弟は,ひとりの国会議員あるいは上院議員に割当てられていて,嘆願状を渡すときの紹介の言葉について助言をうけていました。そして,包みの中の名前と共に手紙を手渡したのです。兄弟たちはいろいろの自動車に乗って,上院議員や国会議員の事務所のある2つの建物に行きました。嘆願状の全部は,数分内で手渡されました。
公共福祉に影響するプログラム放送に妨害を加える差別待遇,ボイコット,およびおどしという方法を撤廃させるための法案が国会に紹介されました。協会は,代弁者により,その嘆願状を支持する数多くの証拠を提出しました。国会はひとつの法律を施行し,すべての電気通信をひとつの新しい行政機関,連邦通信委員の管轄下に置きました。この委員は9人によって構成され,アメリカ合衆国内のすべてのラジオ施設は,この委員の管轄にはいります。それはラジオ放送を指導して規則や規定を述べ,ラジオ電波における崇拝の自由を守るためでした。b
トム: それでは,状態はずっと良くなったでしょう。
ジョン: ところが,事実はそうではありませんでした。1934年10月4日ものみの塔の協会の会長は,ワシントン・D・C・のこの新しい連邦機関の前に出頭して,事実を報告しました。彼は特定な例とか,統計を用いて,カトリックの圧迫が私たちの崇拝の自由と公共の益のためのラジオの使用をはなはだしく害したと報告したのです。エホバの証者の放送についてローマ・カトリック教職者が妨害したため,1934年の放送数は,前年にくらべてずっとすくないものでした。1934年には2万743の講演が放送されました。それはいちばん多く放送された1933年にくらべて3040もすくないものでした。c
連邦通信委員がいろいろの証言を集めてから,事実は明白になりました。それでも,彼らはほとんど手を打とうとしなかったのです。言論と崇拝の自由のための戦いは続けられ,別の嘆願状がアメリカ中で配布されました。この嘆願状も国会宛てにつくられ,228万4128の署名をもって1935年の1月に提出されました。d 1935年になると放送の合計の数は減少しつづけ,前年度よりも2536も放送は減少しました。その年に放送できた数はわずか1万8287だけでした。
次に1935年5月30日から6月3日まで,ワシントン・D・C・で全国大会を開催することが決定されました。6月3日,ルサフォード兄弟は連邦通信委員の前で語る予定でした。それで,兄弟たちに必要な霊的な食物を与える他に,この大会でルサフォード兄弟の出頭を支持することは適当と思えました。2万人以上の人々は,6月2日の日曜日になされた「政府」と題する時機にかなった彼の公開講演を聞きました。それは,ワシントン講堂で行なわれたもので,一斉に全世界に放送されました。
翌日,協会の会長は予定通り,連邦通信委員の前に訴訟事件要領書を提出し,言論の自由を守るために処置をとるよう要請しました。e しかし,国会に提出された2番目の請願状や協会の会長が提出した訴訟事件要領書とも,なんらの考慮も受けませんでした。
1936年の初期ローマ・カトリックの一司祭は,ペンシルバニア州ヒラデルフィアの一ラジオ放送局に手紙を書きおくりました。その手紙の文調や目的は,アメリカ全国のラジオ放送局に送られた幾百通もの手紙とちがっていません。しかし,この特定な手紙は一連の事件の口火を切りました。注意を向けるのにふさわしいものです。その文面は次の通りです。
ヒラデルフィア,北ブロード・ストリート・714番,ブレスト・サクラメント・ホーリー・ゴーストのアウア・レイデイ教会。1936年2月15日ヒラデルフィア・W・I・P放送局,ギンベル兄弟。
謹啓
カトリック牧師および前述の教会の牧師として私は教区民の名のもとに次のことに抗議する。すなわち来る日曜日の午後3時あるいは他のいかなる時にもジャッジ・ルサフォードの話を放送することに抗議するものである。このように抗議する理由は,ジャッジ・ルサフォードがカトリック教会を攻撃し,カトリック教会の教えを攻撃し,カトリック教会の教えをいつわって示し,宗教的な憎しみと偏見をかもし出すからである。もしこの日曜日の午後ジャッジの話が,放送されるなら,私の名前をあなたの勘定リストから取りのぞいてもらいたい。私はギンベル兄弟の店で,今後何も買わないだろう。おどろくことは,あなたがそのような放送を許して,あなたのお客の大多数を公然とした侮べつと嘲笑にさらしているこである。あなたが必要な処置を取ることを希望する。敬具。ジェームス・ジェイ・フラーク・パストー。f
ヒラデルフィアのローマ・カトリック教会の最高権威者,デニス カージナル・ドハティーは,クラーク氏の手紙を支持して,ジャッジ・ルサフォードの放送がつづけられるなら,「さらに強烈な手段」をとるとおどしました。左記の手紙は彼の事務所から送られたものです。
ヒラデルフィア・サマーストリート1712,大法官庁。1936年4月30日。該当者へ,
ヒラデルフィア・ブレスト・サクラメントのアウア・レイデイ教会の教区長,ジェームス・ジェイ・クラーク牧師の手紙につき,デニス・カージナル・ドハティー閣下に相談したところ,同閣下はその手紙を全く支持され,その抗議に参加するもるものであると,私に告げた。さらに,もしジャッジ・ルサフォードの放送がつづけられるなら,彼はさらに強烈な手段を取ると言われた。
デニス・カージナル・ドハティーは,ヒラデルフィアの大司教であられる。〔署名〕ジェイ・キャロル・マッコーミック・ヒラデルフィア管区の尚書」g
このボイコットのおどしと「さらに強烈な手段」というおどし言葉は,ギンベル兄弟たちの弱味である経済面をつきました。彼らはそれまでの10年間エホバの証者と気持良い関係を結んでいましたが,このおどし戦術に屈してしまい,ジャッジ・ルサフォードの聖書講演の放送を中止しました。
ジャッジ・ルサフォードとものみの塔聖書冊子協会も反撃しました。この高圧的な処置を一般に公表すると共に,デニス・ドハティー・ジェームス・ジェイ・クラーク・ジェイカロル・マッコミク,そしてヒラデルフィアのローマ・カトリック管区法人に対して10万ドルの訴訟2つを要求しました。h また,ヒラデルフィア地方のエホバの証者は,請願状を回布して,WIP放送局がジャッジ・ルサフォードとローマ・カトリックの高職者との議論を取りきめるよう要求しました。11万9558名の署名したこの請願状は,1936年9月1日,ギンベル兄弟に渡されました。しかし,それに対しては何の処置も取られませんでした。5つのヒラデルフィア新聞紙は,次のような文面の有料広告文を印刷するのを拒絶しました,
11万9558名の署名した人々のために次のことを公表する。すなわち,ペンシルバニア放送会社(WIP放送局)の社長ベネディクト・ギンベルには,昨日の午後ものみの塔聖書冊子協会の弁護士がヒラデルフィア・ギンベル・ラジオ放送局WIP宛の左記の請原状を提出したのである。
ここに署名した貴局の良き聴取者は長いあいだ貴局の放送を楽しんで聞いた。ものみの塔プログラムのジャッジ・ルサフォードの話も楽しんで聞いたのである。ところがローマ・カトリック教会高職が貴下に強い圧迫を加えたため,WIPはもはやそれらの話を放送しないと,我々は知らされたのである。それらの抗議は,ジャッヂ・ルサフォードが「その教会の教えを悪く表わし,宗教的な憎しみと偏見をかもす」という主張に基いている。
ジャッジ・ルサフォードは,いかなる制度の教えをも悪く示していないと多数の人は信ずる。カトリックの高職者が反対しているのであるから,彼らの教えを公開で論じ,WIPで放送して見てはどうであろうか。ジャッジ・ルサフォードは一方の例に立ち,ローマ・カトリックの高職者は反対の側に立って論じ合うとりきめである。人間の救についての聖書の教え以上に一般人の興味をひき,便益なもの,および必要なものはない。それは当面の問題である。公正な心で物事を判断する人は,格別の興味を示している。したがって我々は,そのような公開の論議が取りきめられ,かつジャッジ・ルサフォードの話がWIPで放送されるよう貴下に請願し,希望するものである。i
さて,このヒラデルフィア請願を支持するものとして,全国的な運動,第3番目の最終的な企てがなされ,言論の自由という大切なことについての政府の無活動に抗議することになりました。この請願は,次のような文面でした,
アメリカ合衆国の連邦通信委員およびラジオ放送局への請願状。
ローマ・カトリックの新聞は,ジャッジ・ルサフォードが人間の救いについてのカトリック教会の教えを悪く示していると理由を申し立てて,同氏のラジオ放送に抗議を立てている。幾百万という人々は彼がカトリック教会の教えを悪く示していないと述べ,さらに他の多くの人々は真理が何であるかについて当惑している。
人類の救いは,すべての人にとつて極めて肝要であり,我々はその事の真相を論理的に,かつ十分に論議されるのを聞きたいとのぞむ故,またこのことは一般人の興味を引くと共に人々の便利と必要をはかるものである故,そして,これと類似の請願状がヒラデルフィア・ラジオ放送局WIPに提出された故に,我々はこのことについての公開討論を取りきめるよう強く要求するものである。その討論の一方はローマ・カトリック教会の高職者,他方はジャジ・ルサフォードである。我々は,連邦通信委員が,1934年の通信法第303条(節)にもとづき,その権威を行使するよう請願するものである。すなわち,このことにつき「一般人の益のためラジオをいっそう大きぼに,かつ効果的に使用することを励ます」ことである。我々は,アメリカ合衆国のラジオ放送局が署名者の住む地の放送局だけでなく,全国的にその対論を放送するように請願するものである。
第3番目の全国的な請願は集計され,263万人の署名者たちは,広範囲にひろまったおどしとボイコットという反アメリカ行動に抗議を申し立てたのです。この請願は,1936年11月2日,ワシントン・D・C・の連邦通信委員に提出されました。j 幾百万人の署名者たちのしたこの要求は,ふたたび無視されました。k
[脚注]
a (イ)特別なブルティン,1933年の6月
b (ロ)ブルティン(英文)1934年3月
c (ハ)1935年の「年鑑」(英文)36,37頁。
d (ニ)1936年の「年鑑」(英文)56,57頁。
e (ホ)1936年の「年鑑」(英文)56,57頁。
f (ヘ)「黄金時代」(英文)17巻,1936年7月15日,649頁。原文複製
g (ト)(ヘ)と同じ。648頁。原文の複製。
h (チ)「黄金時代」(英文)第17巻1936年8月26日,739-752頁。
i (リ)「黄金時代」(英文)17巻。1936年9月9日,781,782頁。18巻,1936年10月7日,10-13頁。
j (ル)「黄金時代」(英文)第18巻,1937年1月13日,132頁。
k (オ)「インホーマント」(英文)1936年,9月。