神の目的とエホバの証者(その35)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10新世訳
逮捕される危険を冒しても羊を養う
ドイツには多数のエホバの証者がいたので,ドイツ国内のエホバの証者の活動は盛んでした。同時に逮捕された証者の数も多かったのです。ナチ収容所の所長や警備兵は,残酷で非人道的な仕打をしたことで,有名でした。しかし,ドイツの証者たちは,逮捕の危険に面しても手をゆるめませんでした。また一時的な便宜のために中立という聖書的な立場を捨てて妥協するようなこともしませんでした。これらの兄弟たちは,主の羊を見出して養うことと,互いに霊的に援助し合うことを決意しました。
1934年に至って,ドイツのエホバの証者は失職しはじめました。その理由は,彼らが投票しなかったこと,あるいはヒトラー万歳を唱えなかっただけでなく,彼らが5月1日の祝いに参加しなかったことにありました。1936年,10月,国粋社会党の闘争機関紙,アングリフは,ドイツ全土のエホバの証者を失職させることを要求しました。a
1935年の「主の夕食」を祝ったときエホバの証者を見つけ出して逮捕するために特別の努力がなされました。そのことは次の秘密命令からも分かります。
1935年3月20日,ベルリン秘密国家警察IRI3637ノ35。没収した聖書研究生の文書から判断して,油注がれた群れは1935年4月17日の午後6時以後に集合して,エホバの名前とイエス・キリストの犠牲を記念する祝いをするであろう。そのときに,不意打ちを食わせるなら聖書研究生の役員逮捕に成功するだろう。この処置の結果に関する報告をのぞむ。(署名)ハーツマン。
主の死の記念式を祝っていたとき,「役員」だけが逮捕されたのではなく,その集会に出席していたものはみな逮捕されました。個人の家で二人か三人集まったところでも,秘密警察にスパイされ,隣人たちに密告されました。その場合,逮捕された者たちは,ドイツの法廷で,エホバの証者に対する禁止令を破った者と宣告され,罰を受けました。b
兵役を拒絶した証者たちは,収容所での長期の服役を宣告され,兄弟たちは収容所内に閉じこめられました。また「ヒトラー万歳」を唱えなかった者たちは国家に対する反逆行為をしている者と見なされ,きびしい宣告を受けました。協会の出版物を持っただけでも,かならず刑務所に入れられました。エホバの証者の子供たちは,両親のひざもとから引きはなされて,ナチの家庭に預けられましたが,その子供たちはヒトラーの青年活動に参加しようとせず,ひどい圧迫を受けても忠実をしっかり守りました。1933年から1945年にかけてヒトラーは証者の全部を逮捕しようとしましたが,いつでも証者の半分ぐらいしかつかまえることができませんでした。つまり,約1万名が逮捕されても,ほぼ同数の1万名は捕えられずに地下運動を行い,熱心な,しかも注意深い証言のわざを行ないました。葬式は,逮捕されていない証者たちの大きな公開集会の機会になり,そこで彼らは聖書の講演を聞き,短時間の交際を楽しみました。夜とか,森林の中で小さな秘密集会が開かれました。また,アメリカの「ものみの塔」誌に出版されている最新の霊的な食物の一部は,謄写版で印刷され,いろいろの経路を通って彼らのところに届けられました。c
戦禍に会った国々の兄弟たちは,このような試練を受けても,他の羊を見つけて養うことが彼らの第一の義務であることを忘れませんでした。信仰を抱いていた彼らは,エホバ神に忠実を保っただけでなく,敵に取囲まれてもわざをつづけたので,逮捕されたり告発されたのでした。見つけ出された善意者たちは,霊的に養われて真理により強められ,伝道の必要を認めて神の正義の新しい世の良いたよりをひろめるのに参加しました。
ドイツの一兄弟は,次のことを報告しました。すなわち1934年と1935年中,彼は真理に深い興味を抱いた夫婦を見出して,彼らの家で研究をしました。彼は毎週定期的に訪問して,一緒に「ものみの塔」を研究しました。彼が1936年に逮捕されたとき,彼の妻は研究をひきつぎました。しかし,彼女も間もなく逮捕され,3年の刑を言渡されました。
新しく興味を抱いたこの夫婦は,神の御言葉を知りたいと切望しましたが,いまは二人だけ残されてしまいました。しかし,約250マイル離れたところに住む一兄弟の住所を知っていたので,その妻はわざわざそこまで行って「ものみの塔」の謄写版刷りを1部入手し,他の人々のためにも幾冊かを入手しました。そして後日,力を得るにつれて,名の知られている兄弟がほとんど全部逮捕されて後,ドイツ国内の広範囲の場所に「ものみの塔」を配布するわざに参加しました。彼らに始めて真理を伝えた兄弟は,次のことを報告しています。すなわち,彼は,1945年に刑務所から釈放されて後,その二人の住んでいたところを訪問しました。ところが,その家は,直撃弾を受けて,全燃していました。人々に尋ねてみたところ,その婦人は証者たちに熱心に協力したため,夫といっしょに逮捕されてしまったのです。その二人はミューニッヒの刑務所に入れられました。夫は頑として彼の立場を守ったためなぐり殺され,妻は死刑を宣告されて斬首されました。いろいろの状況から照らし合わせてみると,この忠実な二人は,水の浸礼によってエホバ神への献身を象徴する機会もなかったのです。しかし,ふたりは神と仲間の人間に仕えたいという気持ちでいっぱいだったため,そのわざのために生命をささげたのでした。
兄弟たちを霊的に養いつづける
この経験を語った兄弟自身も,エホバの証者に文書と霊的な食物を供給したとき,しばしば危険な状態に落ちこみ,かろうじて逃げのびることができました。彼の責任は,ドイツ南西部の会衆全部の世話をすることでした。1935年中,彼は2度逮捕されましたが,釈放され,1日おきに警察に出頭することが要求されました。その間,この兄弟はしばしば汽車で600マイルから800マイルを旅行して数多くの会衆を訪問し,それから48時間以内に戻って警察に出頭しました。彼は次のように語りました。
心臓がどきどきするような事態がしばしば起こりました。幾度か私は追跡されたので逃げ出して,旅行の予定を急に変更することが必要でした。私が逮捕をまぬかれたのは,ほんとうに奇跡的と言えるものでした。あるとき,私はアパートにいて,ちょうどわなにかかったねずみのような状態におちこみました。3人の警官がすでに部屋の中にいたのです。それでも私はどうにか逃げることができました。その期間中,寝台で眠れたことなどまずありませんでした。ほとんどいつでも汽車の中で眠りました。d
ついにこの兄弟はひそかに逮捕されました。エホバの証者の母親のひとりが,たまたま街路にいて,彼の逮捕されるところを目撃したので,この兄弟を「消して」親しい者たちのあたまに疑いと混乱を残そうとした警察の努力は失敗しました。この時から終戦まで,彼はいろいろの収容所に入れられました。そして,いく度も尋問をうけ彼から他の兄弟たちの名前を聞き出そうとした警察は彼を迫害しました。あるとき,彼はドイツ南西部のゲシュタポに質問され,4ヵ月半のあいだ下着を変えることを許されませんでした。いく度も彼を「処分する」取決めがつくられましたが,それは最後の瞬間に変更されました。約5年間,彼は証者たちとすこしも連絡が取れず,聖書もありませんでした。それは彼の心を打ちくだくためでしたが,彼はしっかりと忠実を保ちました。
兄弟たちに霊的な食物を与えることは,危険な仕事でしたが,証者たちの地下活動で大切な役割を占めていました。一時に1部か2部が国境を越えて運ばれ,それから,地下運動の指導者たちは,信頼できるメッセンジャーを通して,いろいろの場所に送り,それを騰写版印刷しました。そのような場所には騰写印刷機が穴倉,屋根裏などに備えつけられていました。まず見つからないような部屋の壁の中にすえつけられていたのです。ドイツの数人の兄弟たちは配布用の「ものみの塔」を準備した理由で起訴され,死刑に宣告されて処刑されました。
伝道の仕事は地下活動の性質を帯びるものでしたが,兄弟たちは良く組織されました。このひとつの例は,1936年9月,スイス,ルセルンの大会で採決された決議の配布でした。約2500名のエホバの証者はドイツからこの大会に出席することができました。そしてそこで採決された決議は,1936年12月12日,ドイツの大都市で配布されたのです。各伝道者は,20部入り小包を持って定められた区域に決議を配布しました。どの決議も郵便箱か戸の下に置かれました。人々に直接手渡すことは許されなかったのです。証者は決議を家のところに置いて,すぐに近くの通りの別の家に行きました。このようにして,30万部の決議は,12月のこの土曜日の5時から7時までの2時間足らずの中に30万部も配布されました。
そのとき,ドイツにおける地下活動を監督した兄弟は,この配布にまつわるひとつの挿話を話しています。この話は,彼を逮捕した政府の役人のひとりが彼に告げたものです。
午後5時,配布の仕事が始まりました。15分後に,そのことは警察に知らされました。そして15分後には,ベルリンの警官はみな街頭に出ました。すると,ハンブルク・ミューニッヒ,ライプチヒ,ドレスデン,そしてルール地方や他の多くの市から電話がかかって来ました。運動が始まって1時間たたぬ中に,警官やSSのパトロールはこれらの都市に出動して,配布者を捕えようとしました。しかし,ひとりもつかまらなかったのです。……
警察は町内の家を一軒残らず訪問して,パンフレットをすぐ渡すようにと要求しました。ごくわずかな人しかパンフレットを持っていたに過ぎず,大多数の人々は何のことかすこしも知らなかったので,あたかも市民全部が聖書研究生と結託して,聖書研究生にある種の保護を与えているような印象を受けました。やましい心をもっていた政府とその「強い腕」にとってこの印象は当然なもので,破壊的な効果をあげました。e
伝道するために「弾薬」を供給する
ドイツのひとりの兄弟は,広範囲にわたって警察に追跡されました。幾度もつかまりそうになりましたが,警察は彼の人相を知らなかったので危く難を避けることができました。彼の仕事は,逮捕がたえずなされたために生じたギャップをうめるため,各会衆を管理して再組織することでした。彼は次のようにその経験を話しています,
ある時私は「備え」という本のはいっている重いかばん二つを運んでいました。この本はトリエル近くの国境を越えてボンとカッセルに運ばれたものです。夜おそく,私はボンに到着して,用心深くそのかばんを会衆のしもべの家の穴倉に置きました。翌朝,午前5時30分,ベルが鳴りました。だれでしょうか。それは家宅捜査に来たゲシュタポとSSでした。会衆の僕は……私のへやの戸を叩いて,訪問者のあることを告げました。とうてい逃げられそうもないので,私たちは何が生ずるかを待つだけでした。彼らが私のへやに来たとき,何の用事で私がそこにいるかとたずねたので,私はライン川の舟旅をして,ボン市の植物園に行きたいと思っていると簡単に答えました。彼らは私の身分証明書をしらべてから……意味ありげに私に戻しました。それから,〔会衆の僕に〕洋服を着て,彼らといっしょに来るようにと告げました。
〔会衆の僕が〕後日,私にこうお話してくれました。彼らが警察署に着いたとき,警官はこう言いました,「お前の家には,もう一人の男がいた。あの男はいまどこにいるか」。「連れてきませんでした」。「何だと! 連れてこなかった! お前は馬鹿者だ!」「連れてきましょうか」。「連れてくる? お前の来るまであの男が待っていると思うか」。もちろん,私は長く待っていませんでした。私はかばんのひとつを持ってカッセルに行きました。
私がそこについたとき,会衆の僕はこう言いました,「ここに滞在なさることはできません。すぐに行ってください。ここ八日間,ゲシュタポが毎朝私を訪問しています」。私たちはこんな風に手筈をしました。つまり彼が私より50ヤードほど先を歩いて,文書の置ける場所まで私を案内することです。美しいチェストナット通りを200ヤードも歩いたか歩かないうちに,ゲシュタポが私たちの方に向かってやって来ました。彼らは彼に侮べつにみちた態度でニヤリと笑いましたが,別段彼を尋問しませんでした。50ヤードうしろの私は良く見ることができました。文書は助かりました。
この兄弟は,かつて兄弟であったひとりの人に裏切られたため逮捕され,自動車でベルリンに連れて行かれました。3時間から4時間かかったその旅行中,彼は絶えず叩かれました。彼はこう報告しています。
ベルリンのプリンツ-アルブレヒト-ストリートにあるゲシュタポの地下室に到着したとき,私は物が言えませんでした。ここで,最も残酷な方法の尋問が二日半つづきました。ひとりが私に質問し,二人が私をしっかりつかまえ,もう一人の男は重いゴムの棍棒で私を絶えず打ちました。そのような拷問は,二日半のあいだ休みなしにつづいたのです。それから,彼らは私のところに紙を持ってきて,すべてのことを書くように,また私といっしょに働いていた兄弟たちの名前を書くようにと命じました。彼らがもどって来て,エホバだけに責任を感じているために兄弟たちの名前を書かぬという私の言葉を読んだとき,残酷な仕打がまたつづきました。私は地下室に連れて行かれましたが,ひどい痛みのために休むことができませんでした。また尋問が行なわれました。こんどはひとつの頭蓋骨がへやのテーブルの上に置かれていました。2時間のあいだ彼らは気が狂ったように私を打ち叩きました。ところが,突然彼らは打ち叩くのを中止して,厚さ約4インチもある書類をテーブルの上にほうり出し,われわれはもう知りたいことは知っているのに,おまえがいつまでも打たれているのは愚の骨頂であると言いました。私は大急ぎで頁を繰ってみましたが,私の行動をそんなによく知っていたのにはびっくりしました。……質問は全部で43日つづきました。それから,私はマイン川の流域にあるフランクフルトに連れて行かれ,特別な裁判を受け,5年の入獄を宣告されました。
2年の後,国家の検事と刑務所の一高官が私を見に来ました。その目的は,私の考えを変えさせて,信仰を否認させるためでした。もしそうしたなら,私は釈放されるでょう。彼らの努力は水泡に帰しました。激怒した彼らは,「あいつのあたまをおので割ってやる」という捨ぜりふを残して行きました。刑務所に5年いて後の私の目方は,わずか105ポンドだけでした。f
多くの場合,兄弟たちは2年から5年の入獄を宣告されました。しかし,刑期が過ぎると釈放されたわけではありません。特に戦争が始まってからは釈放は望めませんでした。ベルリンは,エホバの証者を釈放してはいけないという命令を出しました。エホバの証者は収容所あるいは破滅の収容所に入れられたのです! エホバの力によってのみ多数のエホバの証者は生きて戻ることができました。
[脚注]
a (ホ)クロイック ゲゲン ダス クリステンダム(1938年チューリッヒ。ユァロッパベルラグ1939年パリ リーデル版)
b (ト)(ヘ)と同じ。99頁。また1935年10月9日,第17巻の「黄金時代」(英文)7頁をみなさい。
c (チ)1942年の「年鑑」(英文)167,168頁。
d (リ)ものみの塔協会の綴り
e (ヌ)ものみの塔協会のつづり
f (オ)ものみの塔協会の綴り