神の目的とエホバの証者(その36)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
収容所は神をたたえる唇をつぐませることに失敗
ジョン: 囚人がドイツのいずれかの刑務所についたとたんから,「手ほどき」が始まります。それは囚人をもう少し言いなりになるようにするためのものでした。特にエホバの証者は要注意人物と見なされたのです。証者たちが逮捕収容されている期間中,エホバへの信仰を捨てさせ,他のエホバの証者との接触を中止させるための努力が払われました。秘密警察の者と収容所の責任者たちは宣言書を用意していて,それを証者たちに示し,署名するなら自由を与えると告げました。その宣言書の文面は次のようです。
私は聖書研究生の国際協会が,偽りの教理をひろめ,宗教活動の背後にかくれて国家に有害な目的を追求していることを認めました。
私は,それでこの制度からまったく離れ,彼らの教理を捨てました。私は,このいつわりの教理を伝える者,あるいは聖書研究生らしい者をすぐ警察に引き渡すことを約束します。私は,聖書研究生から渡された全部の聖書をもよりの警察に提出します。
将来,私は国家の法律全部を尊重し,国民社会の一メンバーになります。
私はまた,今日署名したこの宣言書に違反したときは,再逮捕を覚悟しております。a
言うまでもありませんが,エホバの神権制度との交わりを断念するこの宣言書に署名した証者はほとんどいませんでした。
ひとりの兄弟は,刑務所で5年服役した後に,別のおそろしい収容所で次のような典型的な「歓迎」を受けたと述べています。
毎日,毎日私はゲシュタポの尋問を受けました。私は信仰を否認する宣言書に署名しなかったため,ふみつけられ,つばをかけられ,たたかれました。それから私はオーストリア,マウトハウセンの死の収容所に移されました。銃剣を手に持ち,犬共をつれたSSが駅で私たちを待っていました。私たちは狭い道を行進して収容所にはいりました。犬は囚人のふくらはぎをかむよう訓練されていたので,囚人は悲鳴をあげました。収容所の前で私たちは整列しました。ある者は列の中から出るようにと呼ばれ,逮捕された理由を問われました。そして,耳のところを棍棒でつよくたたかれたので,地面に倒れてしまいました。b
7人の兄弟たちは,ハンブルクに近いノイエンガム収容所に到着したとき,3度,鋼鞭で25回づつ打たれたのです。鋼鞭は,革の中に縫いこまれた鋼の杖で,牛皮鞭よりも強烈なもの,恐ろしいものでした。次のように報告されています。
彼らが到着すると,SSのひとりは,「大間抜けはどこにいるか」と大声で叫びました。だれも答えませんでした。「聖書の虫共はどこにいる?」また返事はありません。「お前たちの中にエホバの証者はいないのか」。7人全部は同時に「ここにいます」と答えました。彼は最初の兄弟に近づき……鋼の鞭で自分のはげ頭をかるくなぜながら,「お前はどのくらい聖書研究生でいたいのか」とたずねました。その兄弟は,「私が死ぬまで」と答えました。「フーム」その兄弟は鋼の鞭で25回打たれました。それから,2番目,3番目,そして最後まで順に打たれました。SSはふたたび最初の者のところに行って……「さあ,お前はまだエホバの証者か」。「はい,私が死ぬまで」。ふたたび彼は25回も鋼鞭で打たれました。それから,2番目,3番目,4番目,そして7番目の兄弟まで順に打たれました。SSは3度目に〔最初の兄弟に〕行き,「さあ,いつまでお前はエホバの証者でいるつもりか」。こんな仕打を受けた人の感情を述べることは,やさしいことではありません。しかし,この兄弟は,ふたたび「死ぬ時まで」と答えました。この兄弟と他の者たちは3度,鋼の鞭で25回づつ打たれました。c
この「手ほどき」には,しばしば付加的な拷問が加えられました。この兄弟は次のように述べています。
私はそれからベルリンに近いザクセンハウセン収容所に転送されました。…数時間ひざを曲げてサクソンあいさつ(くびのうしろで手を折りかさねる)をすることが必要でした。収容所の沐浴といえば,あつい湯と冷水が交互にホースで私たちにかけられました。沐浴の後スポーツを強制されました。もちろん,ふつうの意味のスポーツではありません。むしろ,殺人行為と同じものでした。心臓病にかかっていた多数の囚人は,地面で死んでしまったからです。3人のSSは私たちが吐くまで,「立て! 横になれ! ころがれ!」と命じました。その地面は,ほこりまみれの真黒な石炭がらのある所でした。1時間かそれ以上こうする場面を想像してごらんなさい。それから,どんな天候のときでも集合地に列をくずさずじっと立っていなければならなかったのです。その苦しみを想像して下さい。d
収容所の生活
収容所の生活はほんとうに苦しいものでした。エホバは忠実な僕たちを支えました。
露天で全裸になり,沐浴をうけるまで2時間も待たなければなりませんでした。そこで私たちの頭の毛はそり落されました。病気の疑いをかけられた者たちは,スミで胸のところに円と十字が書かれて,後にその人の姿は二度と見られませんでした。こんどはシャワー沐浴場になっているガス室に行きました。囚人たちがしらべられて頭の毛をそり落されるまで,四方八方から氷のように冷い風が通風機を通して吹きこまれました。二日か三日の後に,窓は開かれて,二包みの囚人の衣服が投げこまれました。ひとりはパンツを,他の者は帽子を,さらに他の者は上衣をとるという具合でした。約2週間,このことは毎日繰り返し行なわれて各人はやっとひとそろいの衣服を持つことができました。
この期間中,事務所で働く囚人たちが私たちのところに来て,私たちの所持品を取って行ってしまいました。用紙には,この収容所が死ぬところであって生きるところではないと書かれていました。他の兄弟たちは事務所で働くそれらの囚人を通して,私がその収容所についたことを知り,夜になるとただちに二人の兄弟が私を交互に訪問し,暖かい衣服とパンを持ってきてくれました。この隔離所にいた最後の週のうち,私たちは労働隊に編成されました。約450人が,小さな部屋で眠らねばならなかったので,ひとつの藁ブトンに6人が眠る始末です。ひとりのあたまがこちら側で,別の人のあたまがあちら側という具合です。ぐるぐるまるめた衣服と木履はまくらになりました。まくらにしないと,盗まれてしまいます。まったく悪の巣のようでした。私はこんなに悪いことを経験したことはかつて一度もありません。朝起きると,夜のことがおそろしく思えました。幸いにも,これは1週間しかつづきませんでした。もし,だれかが不平の言葉をつぶやくなら,群れのキャプテンは人の上を走ってきて,その不平の聞こえたところを牛皮鞭で気の狂ったように打ちました。不平をつぶやいた人を打とうが,打つまいが,彼はそんなことにはむとんちゃくでした。
約2000人と一緒に私は,外部の小さな収容所に転送されました。マウトハウセン収容所には,そのような収容所が21あるとのことでした。グロスラミングで私たちは道路をつくりました。私は毎日,体重が減少して,3ヵ月後にはすっかりつかれ果て,足には水がたまりました。いよいよ死期の近づいたことを示すしるしでした。毎日,大勢の人は栄養失調で死にました。他の者たちは疲れはてて倒れてしまい,その場で死亡しました。働いているときは,1分といえども休息することは許されませんでした。職業的な犯罪者や他のやじ馬たちは,SSに任命された監督でした。これらの連中は「動け! 動け!」とどなりつづけていました。私たちは午前4時30分に起床し,いっしょに洗面し,ベッドをたたんで部屋を清掃した後は,部屋に戻ることは禁ぜられました。もしベッドが規定どおりにたたまれないなら,牛皮の鞭で25回叩かれるか,血が出るまで打たれました。午前6時頃,ミルクのはいっていないコーヒーが出されました。前の晩のパンがあまっているならそれを砕いてコーヒーの中に入れて食べました。それから作業場に向かって出かけました。作業場に行くまで30分の徒歩で,仕事と言えば,土地を掘りあげたり,石をくだくことでした。12時になると,わずかな量の馬肉かソーセージのはいっている黄かぶらのスープ1クォートを給せられました。朝のミルクなしのコーヒーとその昼のスープだけが,午前4時30分から午後9時までのまる1日の食物の全部でした。そして大ていの場合,立ったまま食べなければなりませんでした。午後6時になると,収容所に戻りました。その日死んだ者や疲れ果ててしまった者をかついで帰ることが必要でした。私はしばしばヨブの次の言葉を考えました。「かしこでは,うみ疲れた者も,休みを得,捕われ人も共に安らかにおり,追い使う者の声を聞かない」。(ヨブ 3:17,18,新口)他の者はみな重い石を収容所に持ち帰り,集合地のまわりを石でぐるりと取りかこみました。
私はまた「しらみ退治」について述べたいと思います。私は数度それを経験しました。1週ごとに,私たちは調べられました。もししらみが多くいることが分ると,バラック全部が消毒されました。真冬,温度が氷点下のとき囚人は全裸になって衣服をバラックに残しました。それから,戸や窓はみなしっくいで塗りつぶされ,囚人は全裸で丘の上の浴室まで雪中行進しました。そこで酸性の液がふりかけられましたがそれは激しくピリピリしました。この後,囚人は120ガロンの冷水でいっぱいの大水槽に飛びこみました。2度水中にはいって,やっともえるような感じがなくなりました。それから,ちょっとからだをふいて,全裸のまま300ヤード程歩き,バラックに戻りました。バラックは藁でしきつめられ,すこしあたたかくなっていました。バラック内の換気が終わるまで,私たちはそこにいました。この「しらみ退治」が行なわれて後には,いつも栄養失調の囚人たちが数人死にました。e
エホバに助けられる
そのように餓死寸前の状態にいては,抵抗力も弱まりました。しかし,神の忠実な僕たちは力をどこから得るかを知っていました。ひとりの兄弟は,このことを次のように述べていました。
毎日,食物がなく,重労働をしなければならなかったため,体力は目に見えて弱まりました。私はそのような状態にいたので,ほとんどからだを動かすことはできませんでした。収容所に行進するとき,ふたりの兄弟は私の腕の下を支えて助けてくれました。しばしば私はひとつかみの砂をのみこんで,空腹感をまぎらわせました。他の兄弟たちもそうしていました。それで,私たちはあらんかぎりのことをして生きつづけようとつとめ,サタンとSSの者たちを偽り者と証明しようとしました。彼らは,「お前たちのエホバはどこにいるのか。エホバに助けてもらうが良い」としばしば言っていました。エホバはすばらしい方法で私たちを助けて下さったと,言わねばなりません。しかし,私たちは一つのことを切望しました。それはもう一度思う存分に食べてみたいという願いです。一度も空腹のつらさを知らぬ人には,この苦しさが分らないでしょう。毎日300グラムのパンとカブラダマのスープ ― エホバにより祝福された日以外は,ほとんどあぶらみのないもの ― だけで生きつづける人はひとりもないはずです。1週に数度,血のソーセージが給せられましたが,私たちはそれを拒絶し,けっきょく,食物は何もないことになりました。「『人はパンだけで生きるものではなく,エホバの口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」と,イエスは言われませんでしたか。私はその言葉を深く認識するようになりました。それはほんとうに私たちの生命を支えてくれた霊的な食物でした。以前に聖書をいっしょうけんめい研究した者は,立場をつよく保ちました。あたまの中に記憶したものを思い出すことができます……
恐ろしい空腹感に打ち勝つための助けは霊的な食物であったと,私は言わねばなりません。他の兄弟たちもこのことを確証することができます。f
エホバの証者に対しては,特別の憎しみが示されました。そのことを示すものとして,一兄弟の次の報告を読んで下さい。
もちろん,私たちが不動の立場を示したので,収容所の所員たちは私たちを罰しました。それで,幾年ものあいだ私たちには食物を買うことが許されませんでした。ところが,手紙用紙の上部には「収容所内ではなんでも買える」と書かれていたのです! なんと皮肉なことでしょう。政治犯,職業的な犯罪者,なまけ者,そして道徳的に堕落した者たちは,収容所内にあるものをなんでも買うことができました。パン,ジャムそして他のものを買うことができ,新聞を読むことも許されました。
毎月4頁の手紙2通という文通規定も私たちには適用しませんでした。毎月5行だけの「手紙」1通が許可されただけであり,それには次のようなスタンプが押されていました,「この囚人は現在でもがんこな聖書研究生で,聖書研究生の邪教否認を拒絶している。このわけで,この者からは他の者の持つ文通の自由が取りあげられている」。このスタンプは姉妹たちの手紙にも使用されましたが,手紙を書いた者が忠実を保って制度にかたく従っていることを証明するものでした。それで,私たちは手紙の内容にあまり興味を持ちませんでした ― 5行では何も書くことができないでしょう ― しかし,そのスタンプはいつも私たちをよろこばせました。g
姉妹の証者たちは耐え忍ぶ
姉妹の証者たちもドイツ帝国の「支配者」たちから残酷な処置を受けました。婦人収容所のあるものは,男子の収容所と同じくらい悪いものでした。
ラベンスブルック婦人収容所の出来事は,カトリックSSがエホバの証者に対してなした悪行を示しています。この婦人収容所内には,真理にはいっていた50人のポーランドの婦人,15人のウクライナ人,10人のチェコスロバキア人,10人のハンガリー人,25人のオランダ人,2人のベルギー人,500人のドイツ人,300人の若いロシアのヨナダブ級がいました。彼らは収容所内で真理を学んだのです。ここでは約1000人のクリスチャンの婦人がカトリックの「煉獄」の苦しみを受けました。……点呼は午前5時になされました。……一日中これらの婦人は強制労働をさせられました。彼らは建物の基礎を掘ったり道をつくったり,石炭を運んだり,荷物部屋で重いトランクや箱を扱かったり,バラックを建てたり,他の多くの仕事をさせられました。そのような仕事は,栄養失調で,十分の衣服を身につけず,虐待されてきた人々にはとうていできないほどつらいものでした。495人のエホバの証者は,弾薬箱の製造を拒絶したため,彼らは8週間の暗所入獄を宣告されました。(窓のない独房に監禁されるという意味)h
忠実な証者たちは,看守や他の囚人から極悪非道の苦しみをうけましたが,苦しみはそれだけではありませんでした。アウシュビッツ収容所で生き残ったひとりの婦人の証者は,ほとんど形容不可能の状態を次のように述べています,
ラベンスブルックの収容所に3ヵ月居て後,私は約100人の他の姉妹といっしょに1942年6月アウシュビッツ収容所に転送されました。その旅行は汽車で二日かかりました。私たちはボロ布の衣服を身にまとい,木靴をはいていました。この収容所にはしらみがいっぱいいて,のみによる害は言葉には表わせないほど悪いものでした。
もし病気の者がいるなら,ただバーケナウに送られるだけでした。そこは,実に悲惨なところでした。ひとりが死ぬと,他の病人はただちに同じベッドに寝かされました。なにもかもしらみで一杯であり,排せつ物でおおわれていました。付そい看護は,信用できない囚人たちによってなされました。この収容所は「死」の収容所と呼ばれました。なぜなら,幾万という人々がそこで死んだからです。ユダヤ人の子供たちは生きながらに火の中に投げこまれました。ユダヤ人たちは,自分の妻や子供たちをガス室に追い込むことを強制されまた。6週間かかって彼らは大きな墓を掘り,それから無意識状態の女たちをそこに投げこみました。そして,なにもかも火で燃されてしまったのです。墓を掘った者たちは6週間後は自分が投げこまれるということを知っていました。その墓は,昼も夜も燃えました。アウシュビッツにも五つの火葬所がありました。
しかし,チフスで死んだり,「火葬される」ことは,ねずみに食べられて死ぬより,はるかに幸福な死でした。それを考えるだけでも血のこおる思いがします。エホバの証者の中のある者は,生きていても体力がひじょうに弱くなっていたので,自分のからだを守ることができず,ねずみにかじられて死んでしまいました。可愛想なことは,生きながらにねずみに食べられた忠実な証者たちは,貧乏で,力のない婦人でした。きがと拷問のため,ひじょうに弱くなっていて,この最も憎むべき敵ねずみに対して自分の身を守ることができなかったのです。i
たがいの福祉を求める
エホバの証者は,真のクリスチャンに要求される正義の原則に献身しています。それで,収容所でも信用の地位を与えられるにふさわしいことがすぐに認められました。
エホバの証者がもっとも勤勉で,良心的な人々,そして正直な人々であることは,収容所内でひろく知られていました。この理由の故に,司令官や他の士官たちは,証者にひげをそってもらいました。なぜなら,エホバの証者がひげを剃りながら彼らのくびを切るようなことをしないことを,彼らは信じたからです。エホバの証者が彼らの安全をおびやかさないということも彼らは知っていました。それで,証者たちは逃走の危険のあるところでも用いられたのです。……ほとんどすべての証者たちは証言をする十分の機会を持っていました。それで,見張りから司令官にいたるまで,また収容所内の他の囚人たちは,エホバの証者の希望について十分に知りました。j
多くの場合,兄弟たちは信用されたので,たとえ看守たちが残酷な仕打をしても,彼らはその信用を裏切ろうとしませんでした。その点を示すひとつの経験談があります。
1943年12月22日,私たちは有蓋貨車にのせられて,オランダとベルギーを経由して北フランスのセント・マロに送られました。この旅行中,オランダからの一兄弟は次のような経験をしました。この兄弟の仕事は汽車が止まっているとき,いろいろの車輛に食物をはこぶことでした。とつぜん,汽車は出発して,彼は乗りそこねました。それで彼はオランダに取りのこされました ― 彼の住んでいたところからあまり遠くないところでした。彼は何をするべきですか。逃げますか。しかし,SSが聖書研究生のひとりが逃げたと知るなら,汽車にいる他の兄弟たちには何が生じますか,彼は汽車を追いかけることにしました。保線工夫の家に行ってまず十分の食物を取ってから,トロリーで追いかけ,貨車が止まったとき,それに飛びのりました。そのときまでSSは,彼がいないことに気づきませんでした。これは良い証言になり,彼の行為は他の兄弟たち全部の立場をかたくするのに役立ちました。セント・マロに,数日滞在して後,私たちは舟に乗り,チャネル・アイランドのアルダニイに連れて行かれました。k
ブッシェンバルト,ラベンシュブルック,ザクセンハウセン,ダカウ,ベルセン,その他のような収容所で,エホバの証者はとうてい耐えることのできないような待遇を受けました。ところが,そのような場所は,エホバの証者の国際大会の会場にもなりました。なぜなら,ドイツのエホバの証者,ロシア,ポーランド,チェコスロバキア,オランダ,ベルギー,フランス,ノルウェー,その他の国々からの捕虜がそこにいたからです。ドイツの兄弟たちは,こっそり輸入した「ものみの塔」を利用して霊的な交わりを保ちました,そして,「ものみの塔」を順番に手渡して行ったのです。ドイツの兄弟たちは刑務所や収容所にいるドイツ人でない同僚たちにたいし,愛の援助を与えることができました。共に苦境になやむ証者たちが国際的な家族関係を保つことによって,収容所内の奉仕の特権に霊的に目ざめることができました。また,解放の日が来たあかつきには,神の神権的な崇拝を拡大する計画も立てられたのです。
収容所に入れられていた期間中,兄弟たちは密接な関係を保ち,あらんかぎりの手を打ってたがいのつらさを軽減し,霊的な食物を分かち合いました。ここにひとつの例があります。
1943年の初期,ラベンシュブルック収容所からの一姉妹はブッヘンワールド収容所に転送されました。それは,外国の王女,ビクター・エマニュエル3世王の次女マハルダ姫の世話を見るためでした。この姉妹には霊的な食物が供給されていないと,私たちは知っていました。私はいわゆる貴族の囚人たちのいる場所を取りかこむ特別なかこみのところに達することができました,そして見張りを説得して,毎週この二人の婦人に会うことを許してもらいました。そのため,兄弟たちから集めた50マルクを払うことが必要でした。そうするため,私はそこで仕事をする特別な許可が必要になりました。
私は電気技師でしたので,その仕事をする許可をこっそりもらうことができました。このようにしてその姉妹の福祉を守り,王女にも証言することができました。
1944年8月24日,私たちの収容所は同盟軍の飛行機で空襲されました。空襲の目的物は,囚人たちが使用されていたDAW兵器工場でした。この空襲のため多数の囚人とSSは殺されました。私たち証者たちは,この危険な幾時間をやっと生き残りましたが,工場に近いところに住んでいた姉妹の安否を気づかっていました。後に分かったことですが,彼女と王女と高位の士官たちは,SSの護衛のもとに塹壕の中に連れて行かれました。その日に約600の爆弾が投下されましたが,その一つは,塹壕のすぐ近くのところに,落ちて,塹壕全部をうずめました。私たちの姉妹をのぞいて他の全部の人は殺されてしまいました。私たちは,けがひとつ受けなかった彼女を塹壕から引き出すことができました。なんとすばらしい救いなのでしょう! 私たちは感きわまって泣き,エホバに感謝しました。私たちの仲間の中で死者は二人,けがをした者はわずか12人だけでした。l
[脚注]
a (イ)「慰め」(第26巻・1945年9月12日)
b (ロ)ものみの塔協会の綴りの中にある一目撃者の報告から。
c (ハ)ものみの塔協会の綴りにある目撃者の報告から
d (ニ)(ハ)と同じ。
e (ホ)ものみの塔協会の綴りの中にある一目撃者の報告より
f (ヘ)(ホ)と同じ。
g (ト)(ホ)と同じ。
h (チ)1946年の「年鑑」(英文)137頁。
i (リ)1946年1月16日第27巻の「慰め」(英文)
j (ヌ)クロイック・ゲーゲンダス,クリステンタム,105頁。
k (ル)ものみの塔協会の綴り。
l (ナ)(ル)と同じ