神の目的とエホバの証者(その37)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
刑務所の中での組織された伝道
兄弟たちは,収容所内の他の人々に一生懸命に良いたよりをひろめました。また,伝道の機会をにがさずにとらえました。新しい霊的な食物を受け取ると,それをよろこんで,仲間の囚人たちと分かち合いました。次のような例があります。
新しい兄弟たちが,時折り収容所に入れられると,他の場所で得たものみの塔からの新しい考えが持ちこまれました。そのおかげで,私たちは真理におくれることがありませんでした。霊的な食物がなくなると,私たちは新しい食物を送って戴きたいとエホバに祈りました。その翌朝ひとりの新しい兄弟が収容所に到着しました。この兄弟は,義足をつけていて,その足の中に1938年の10月15日号および11月1日号の「ものみの塔」がかくされていました。その「ものみの塔」の記事は,「地をみたせ」という題でした。私たちはほんとうによろこびました! 敵に見つけられる時まで,私たちは人目につかぬところで定期的に「ものみの塔」の研究を始めました。しかし,その場所が見つけられてからは,私たちは大収容所の他のいろいろなバラックに入れられました。なぜですか。それは,収容所内の他の人々に,学んだ事柄を伝道するためでした。
証言のわざはすぐに組織されました。各人は十分のわざをして,その活動を定期的に報告しました。程なくして浸礼が行なわれました。主の夕食式さえ祝われました。象徴物もちゃんとありました。これはみなベルリンに近いザクセンハウセン収容所内でのことでした。しかし,サタンも私たちのすきをうかがっていて,時折り戦術を変えました。私たちには責任のある仕事が与えられていました。私はテイラー部にまわされ,以前,私を苦しめていたSSは,私を彼の従者にしました。私が意志をまげずに頑張っていることが,気に入ったと,彼は言いました。
私が,ポーランド人だけのバラックで,ポーランド人の一兄弟と一緒にいたとき,この兄弟は私の通訳になってくれました。夜になると私たちは講演をしました。多数の若いロシア人が話を聞いて,後になって浸礼を受けたいと申し出ました。私は服を仕立てる仕事場で,話の準備をしました。参考資料として「ものみの塔」をそこにかくしておいたからです。「ものみの塔」は窓のない小室にかくして置きました。私はS兄弟に,見張りをして,SSがはいってくるなら合図をしてもらいたいと頼んでおきました。
ちょうど私が一生懸命に研究していたとき,部屋の戸がとつぜん開いて,オベルシュトルムフェーレルが私の前に立ちました。そのときの彼の顔が今でもありありと思いおこされます。彼はこう言いました。「この連中は幾年もここに閉じこめられていたのに,外部の者以上に活発に活動している。お前は『ものみの塔』をどこから手に入れたのか」。―「死亡したオランダの兄弟が私に呉れたのです」。この小室は徹底的に調べられました。しかし,なにもかも見つけ出されたわけではありません。たとえば,私の聖書は発見されずにすみました。私は彼に従って死の家と呼ばれる懲戒バラックに行かされました。彼は,「さあ,お前はくたばってエホバのところへ行け。お前の宣伝活動もおしまいだ」と言いました。彼は,私を特別に監視するようにとの命令を出して行きました。でも私ひとりがそこにいたのではなく,程なくして〔3人の他の兄弟たち〕もそこに連れてこられました。私たちは互いに励まし合いました。なぜなら,ロシア人〔軍隊〕が近くにまで来ていたので,釈放の日が近づいていたからです。収容されていた者がその地を去る約2週間前に,私たちは死の家から釈放されました。私たちは,この場所をも知ることができた特権に対して,エホバに感謝しました。この場所はいつでも人々で一杯でした。衛生状態はきわめて悪く,しらみや南京虫で一杯でした。しかし,ここでも証言がなされねばならず,私たちがその場所に行ったのも,そのためでした。
もちろん死なずにその場所から出られたときはうれしいでした。a
収容所の中でも伝道活動が行なわれたのです。その記録は,状況の如何を問わず善意者に良いたよりを伝えることに関心を持つすべての人々をはげますものです。
収容所は失敗でした。証者たちの忠実を砕くこともできず,信仰否認宣言書に署名させることもできませんでした。また,神とその御国をたたえる彼らの舌を閉じることにも失敗したのです。収容所の中でも証言のわざが行なわれたと,いろいろの報告は述べています。ブヘンワルド収容所に関する一報告によると,ものみの塔誌は収容所内でつくられたということです。また,SS警備兵がナチ主義から転向して,エホバ神に献身し,以前の犠牲者であったエホバの証者と共に苦難を受けたという例もありました。次の記録は,1945年6月9日付のもので,スウェーデンに住んでいたドイツの避難民の報告です。
仲間の囚人から集めた証拠によると,エホバの証者は収容所内で最悪の待遇を受けました。〔ベルギー〕フランダースから来たひとりの証者は,次のように書いています,「生きたいという強い望み,全能のエホバ神に対する希望と信頼,そして神権政府への愛を保つことによって,はじめてこのつらさを耐え忍び,勝利を得ることができた。―ロマ書 8:37」。
ハンブルクに近いノイエンガム収容所では,1943年の初期,極秘のうちに伝道大運動が計画されました。収容所にいる人々に証言をするため,十分に組織された運動が計画されたのです。幾人かの兄弟は文書をつくり,収容所内で使われているいろいろの言語で証言のカードが書かれました。特別の「奇襲隊」が形成され,組識的な方法で収容所内の者たちに証言がなされました。このようにして,収容所内の全部の人は音信を聞きました。興味を示す人々には再訪問がなされ,書籍研究すら始められました。そして,ロシア語やポーランド語への通訳のおかげで講演をすることもできました。
このように強力な証言を組織的に行なったことは,敵の怒りを招きました。しかし,敵の反撃は失敗に帰したのです。その年の終り頃,エホバの証者を同じバラックに入れておかないで,あちこちのバラックに分散させよとの命令がベルリンから来ました。これはわざを妨害するどころか,かえって,証者たちが他の囚人と接触する可能性を増大させました。かくして,各ブロックはあますところなく伝道され,善意者たちは定期的に教訓をうけたのです。特別な証言の期間が取決められました。その結果,神権政府と証言のために費された時間は増加しました。興味を持ったある人々は証言に参加し始めました。……
忠実な伝道のむすぶ実
この収容所では,「神の御国についてのニュース」と題する新聞が,エホバの証者により発行されました。この新聞はいろいろのことを知らせましたが,オランダ,ベルギー,フランス,スイス,英国,その他の国における伝道のわざの進歩をも知らせました。……
証者たちが特別の迫害を経験したとき,証言のわざはいっそう拡大し神権政府は勝利を得ました。ある収容所で当局者たちは強制的に証者たちに軍事的な仕事をさせようとしましたが,それは失敗しました。証者のうちのひとりは,連れ出されて銃殺されました。収容所内の他の者が彼の勇気を見,彼がよろこばしそうに友人に手を振るのを見て,強い感銘を受けました。その結果,10人の仲間の囚人はエホバの側に立ちました。……その収容所内では合計300名の人が真理を受けいれましたが,その中の227名はロシアの青年でした!b
ある日,口頭伝道の劇的な場面が示されました。収容所当局は,囚人全部を集め,彼らがみな見ているところでひとりの兄弟を壁の前に立たせました。もし彼が神の御国についての宣伝を中止しないなら,銃殺されると告げられました。それから,彼にマイクロフォンが渡されて,収容所の命令に従ったことを発表せよと言われました。彼は壁を背にし,射撃隊を前にして立っていました。その緊張の一瞬,4万人の囚人は息をこらして彼を見守りました。彼はマイクロフォンを手にとって,話し始めました。妥協の言葉? そうではありません! 彼はエホバの証者のひとりでした。彼はその機会を利用して,天の御国について証言しました。彼は銃殺されて,地を鮮血で染めました。しかし,その報告の結論は次のように述べています,「それにもかかわらず,兄弟たちは音信を宣べ伝えました。そして,多数のロシア人は真理を受け入れ,洗礼によりその献身を象徴しました」。c
他の多くの報告も,囚人たちが真理を受けいれたことについて述べています。たとえばレイベンスブルックの一収容所では300人のロシア人とウクライナ人がエホバの御国の側に立ちました。伝道と教えるわざを行いつづけた結果,収容所内の不幸な人々が大勢真理を受けいれました。男も女も,神のみこころを行なうためにエホバ神に献身し,水の浸礼によりその決定を象徴しました。ある収容所では,水たるで洗礼が行なわれました。一報告は次のように述べています。
収容所内でも熱心に伝道することにより,大ぜいの善意者を見出しました。その中の多数の者は受洗したいという希望を表わしました。エホバは私たちの努力と祈りを祝福して下さいました。おかげで,懲戒バラック内でも洗礼式を2回することができ,26人が受洗しました。その大部分は年の若いロシアの娘たちでした。この収容所で過ごした間,70名の善意者は洗礼を受けました。d
ときおり,善意者たちは劇的な状況の下で立場を守りました。たとえば,ある朝の行進のとき,エホバの証者の全員は特別の調査を受けるため,数歩前に出るようにと命ぜられました。報告は次のように続いています。
ごく最近音信を聞いたばかりの19歳の青年は,彼の属する隊列から前に進み出てエホバの証者の中に立ちました。彼は収容所の所長のところに連れて行かれ,鞭で25回打たれました。その青年はこう答えました,「私は今日エホバの側に立ちました。私の決意は,25回の鞭打ちぐらいではくじけません。たとえ私は殺されても,この決意を永久に変えません」。所長は大声で叫びました,「鉄棒を持ってこい! 10分たたぬ間に,こいつはエホバの証者をやめるだろう」。若い兄弟はこの仕打にも耐え忍びました。後日,彼はもっとも熱心な伝道者のひとりになりました。e
イエスの死の記念式を行なえと,イエスは命じました。収容所内にいるエホバの証者は,その戒めに従い,年に一度その日を祝うために集会しました。
私たちは午後11時に洗濯室に集まるように告げられました。ちょうど午後11時,私たち105名は集まり円形に立ちならびました。中央には白布のかけられた足台が置かれ,その上に象徴物がのせられていました。電灯をつけると,見つけられるおそれがあったので,ローソクの光が使用されました。私たちは,穴倉に集まった原始クリスチャンのような感じがしました。それは厳粛な祝いでした。私たちは御父の聖名を立証するためあらん限りの力をつくすという御父への熱烈な誓を新しくしました。また,神権政府のために忠実な立場を保ち,神に受け入れられる生ける犠牲として,私たちのからだをよろこんでささげるという決意を新しくしました。f
ラベンスブルック収容所でも記念式の夕食が祝われました。その収容所にいた姉妹たちも,1945年の記念式の準備に参加しました。出席者は163名で,その中109名は象徴物にあずかったとの報告です。懲戒バラックにいた者たちも参加することができました。g
この世の人は証者たちに感嘆
これらの収容所でエホバの証者の受けた仕打やこれらの忠実な神の僕たちがその信仰をしっかり保ちつづけたことは,世界中に知れ渡りました,「キリスト教に対する十字軍」と題する本 ― この本から報告のいくつかを読みました ― は,ナチの支配した最初の5年間にエホバの証者におよんだ迫害のことを述べていました。それは,1938年チューリッヒのユアロパーベルラグによって出版され,1939年にはパリのエディションズ・リーダーが出版しました。世界的に有名な著者,故トーマス・マンは,1938年8月2日に,スイスのベルンにある「ものみの塔協会」の支部事務所に手紙を送りましたが,その手紙の一部は,次のようでした。
私はこの本の中の恐ろしい記録を読んでつよく心を動かされた。人間の堕落といとわしい残酷さについて述べるこれらの記録を読んでいる中に,嫌悪といまわしさの入りまじった感情が私の胸中にみちた。その本の中に述べられている異常な残酷さは,筆舌につくしがたいものである。信仰をかたく守った無罪の男と女はその恐ろしい苦しみを経験したのである。h
有名なフランスの著者,ジェネビエベ・タボイス夫人は,1939年10月28日の手紙の中で,この本について次のように注解しています。
第4世紀のときのように,われわれは野蛮主義の侵入を経験する。しかし,アッチラの軍隊も,ナチ主義やファシズムを信奉する者にくらべると比較にならない。しかし,『山を動かすこの信仰』は,この20世紀の野蛮主義にも打ち勝つのである。それについては疑いをさしはさむ余地は少しもない。今日,その信仰の故に殉教の苦しみの死をとげる者たちは,軍隊の先頭に立つ将軍よりも,大きな奉仕をするものである。
この出版物に対して,感謝の意を述べたい。このおそろしい迫害に唖然とすると共に,その迫害に耐える人々に感嘆せざるを得ない。i
スイスの新教の牧師ティ・ブルパチャーは,次のような意味深い言葉を書きました。
ドイツの教会論争は,正統派のキリスト教国にとって有利なものである。ところが,ここに人目に立たない一つの群れがある。彼らは最前線に立って苦しみを受けている。自称クリスチャンたちは,決定的な大試練のときは失敗してしまうが,これらの知られざるエホバの証者は,クリスチャン殉教者として,良心の抑圧と異教的な偶像崇拝に対し,敢然として反対の立場を保っている。怒り狂うナチ悪鬼共に対して立ち向かい,信仰に従って敢然と反対した者たちは,大きな教会でなく,むしろ侮べつされ,嘲笑されたこれらの者たちである。将来の歴史家は,いつの日かそれを認めねばならないであろう。彼らは,エホバの証者として,またキリストの御国の代理者として,苦しみを受け血を流す。彼らはヒトラーと鉤十字の旗の崇拝を拒絶する。これら特異なクリスチャンたちは,神の御名の故に苦しみをうけることをふさわしいと考える。彼らは,エホバの証者という立派な称号を守る方法をたしかに知っており,謙遜にそのことを証明したのである。誠実な気持ちでこの記録を読む者たちは,虐待されたこれらの聖書研究生を新しい角度から見るようになり,二度と彼らを偽善的にさばかないであろう。j
1938年2月6日付のブエノスアイレスのドイツ語の雑誌「アルジェンティンシエス・タグブラット」は,ダカウ収容所にいるエホバの証者について,次のような記事を書きました。
彼らは泰然自若としてあらゆる罰を耐える。そして,自分たちの目的を達成するため,仲間の囚人の中で働いて成功を収める。k
1939年7月15日,南アフリカ,ナタールのデイリー・ニュースの中で,エム・スチュアート氏は次のように報告しました。
一般には知られていないが,「ビベル-ホルシャーズ」〔聖書研究生あるいはエホバの証者〕は,ドイツ帝国内の唯一の障害になっており,ヒトラーは彼らをとりのぞくことができなかった。……しかし,明滅することのない光のように,このクリスチャンたちの小さな群れは信仰をしっかり保ちつづける。それはミューニッヒの君主の脇腹を刺すいばらであり,彼の死を告げるための生ける証である。l
フランスのジャーナリスト,ジーン・フォンテノイは,オラニエンブルク収容所内の見学を許されました。詳細にわたる報告が「ジャーナル」の中に掲載されました。その中のある部分は,スイスの新聞セント・ギャラー・タグブラットに再び掲載されました。このリポーターは,エホバの証者に対する刑務所長の言葉を述べて,それから次のように書いています。
この話しを聞いてから私は考えざるを得なかった。後になって,お昼に私はふたたびこの聖書研究生のことに言及して,こう語った,「ここには450名の聖書研究生がいる。だが,彼らはここにいるべきでしょうか。彼らの大部分は,良い人々,無害の人にちがいない。私には彼らが聖人のように見えた。すくなくとも,無害の人のように見えた」。
収容所見学団に同伴したベルリンの一役人は,ドイツ国内の聖書研究生が文書を印刷する秘密の場所を見つけるのはむずかしいと述べた。彼らは名前や住所を知らせようとしないし他の仲間を裏切ろうとしない。ハンブルクで250名が逮捕されて,紙や印刷機が没収されたとき,雑誌の配布は中止されると考えられた。ところが,それから2週間たたぬ中に,雑誌は前と同じく発行された。以来,警察はその発行所と雑誌配布人を見つけることができなかった。a
他の多くの人々 ― その中のある者たちは仲間の囚人でした ― は,エホバの証者が信仰をかたく保ちつづけた強い献身について語りました。当時のフランス政府の長官,ドゴール将軍の姪も,そのひとりでした。協会に宛てた手紙の中で彼女は次のように述べていました。
私はラベンスブルック〔婦人〕収容所でお会いした聖書研究生について,私の証言をお伝えすることを幸いに思います。
ほんとうに私は彼らに感心させられました。彼らは種々の国籍の人々でした。ドイツ,ポーランド,ロシア,そしてチェコスロバキアという具合で,その信仰のために大きな苦しみを受けました。
最初の逮捕は10年前に始まりました。そのときにこの収容所に入れられた大多数の者は,ここで虐待されたために死亡したか,または処刑されました。
しかし,私はそのときの生存者の中の幾人と,ごく最近に収容所に入れられた他の囚人と知り合いになりました。彼らはみな真の勇気を示し,遂にはSSの者たちも彼らを尊敬するようになりました。彼らはその信仰を否認したなら,直ちに解放されたでしょう。ところが彼らは反抗をやめず,書物やパンフレットを収容所内に持ちこむことにさえ成功しました。しかし,そのため,彼らの中の数人は,絞首刑を宣告されました。
私のいたバラックで,私は3人のチェコスロバキアの聖書研究生と知り合いになりました。彼らは,当局に抗議するときは,同じ信仰を持つ他の者といっしょに,点呼に応じようとしませんでした。彼らはその決意を否認しようとしなかったため,鞭打たれたり犬に噛まれました。私はその悲しい場面を目撃しました。
さらに,その信仰をしっかり守る彼らの大多数の者たちはいつも,戦争に直接関係する仕事を拒絶しました。そのため,彼らは虐待され,殺されたりしました。
御希望通りに,詳細なことをお伝えできないのが残念です。私は健康の理由で,しばらくのあいだ山にいなければなりません。しかし,ここにお伝えしたことが御希望にかなうものなら,幸いでございます。
〔署名〕ジェネビーベ・ドゴールb
忠実な告別
今日の午後,いろいろお話しした報告は,いままで発表された全部の報告,あるはものみの塔協会の綴りにあるものの一部に過ぎません。時間が限られているので,もっと多くの報告についてお話しすることができませんが,しかし,今日の話のしめくくりとして,もう一通のお手紙を読みたいと思います。これは,飾り気のない言葉で収容所内の者が収容所外にいた愛する者への無私の愛を示しています。死刑を宣告された一兄弟が彼の妻に宛てて書いた胸の張りさけるような手紙です。
愛するエルナへ: 今夜は私の最後の夜です。私に対する刑の宣告は読まれ,私は最後の食事をしました。お前がこの手紙を読むころ,私の生命はなくなっているでしょう。死のとげはとりのぞかれ,死は打ち負かされたことが分かります。もちろん,大多数の人にとってこれは実にばからしいもの,愚かなものに見えるでしょう。しかし,そんなことはたいして重要ではありません。全能の神の御名が立証され,人類がそれを見る時が来るでしょう。なぜ神がいままでそれをしなかったのかと彼らがたずねるなら,神の力がいっそう効果的に表わし示されるためであることをわれわれは知ってます。
それで,愛するエルナよ,私といっしょに生活を共にしてくれたことを感謝します。いろいろの生活環境において,お前はいつでもよろこんで私の伴侶になってくれた。そして,最後まで私からはなれずに苦しみを共にしてくれた。私はいよいよ最後に来た。そして,お前が将来の生命を受けるのにふさわしく重荷に耐えるようにと祈る。私にあびせられた非難は,すぐにお前にもあびせられるだろう。それで,私はもう一度お前の安らかな,輝く目を見よう。そして,お前の心から最後の悲しみをぬぐいとろう。苦しいかも知れぬが,あたまをあげてよろこびなさい。死をよろこぶのではなく,神が彼を愛する者たちに与える生命をよろこびなさい。
愛と真実の友情をもって心からのあいさつを送る
愛する夫よりc
[脚注]
a (ワ)ものみの塔協会の綴り
b (カ)「コンソレーション」(英文)1945年9月12日第26巻,11,12頁。
c (ヨ)「コンソレーション」(英文)1946年1月16日第27巻,9頁。
d (タ)(ヨ)と同じ。
e (レ)「コンソレーション」(英文)1945年9月12日,第26巻。
f (ソ)「コンソレーション」(英文)1946年1月16日,第27巻,8頁。
g (ツ)(ソ)と同じ。
h (ネ)1939年10月18日号第21巻の「コンソレーション」(英文)5頁を見て下さい。
i (ナ)ものみの塔協会の綴り
j (ラ)1939年10月18日の「コンソレーション」(英文)第21巻,5頁。
k (ム)ものみの塔協会の綴り。
l (ウ)1939年11月15日「コンソレーション」(英文)第21巻,3,4頁。
a (ヰ)1939年10月18日「コンソレーション」(英文)第21巻,56頁
b (ノ)1946年の「年鑑」(英文)135,136頁。
c (イ)(イ)1945年9月12日「コンソレーション」(英文)第26巻,5,6頁。