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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
塔62 9/15 573–575ページ

神の目的とエホバの証者(その46)

「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

刑務所から戻る

伝道を大きぼに拡大する機会が生じました。広島と長崎で原子爆弾が突然爆発したこと,そして連合軍が欧州を席巻したことにより第二世界大戦は終結しました。戦後,幾千人ものエホバの証者が廃虚から出て,収容所や刑務所から戻り始めたとき,自由の戸は広く開放されて伝道活動は新しく躍動し始めました。欧州にいた証者たちは,早速刑務所から家路につく途中でも伝道し始めました。a

特にドイツでは,収容所からの解放は,多くの場合,よろこばしいものであると共に危険なことでもありました。戦争が終わりに近づくにつれて,官憲はロシア軍の進出を恐れ,アメリカ軍につくことを決定しました。このためには,収容所内の全員が移動しなければなりません。ここに1945年4月21日から5月5日までザクセンハウセン収容所の撤退に関する,身も心も引しまるような記録があります。この目撃者の報告は,協会の綴りの中に収められており,その一部は「ものみの塔」(英文)b中に出版されました。その報告の抜率に耳を傾けて聞きましょう。

ロシアの軍隊がドイツに侵入したとき,収容所の役人は恐怖に包まれました。収容所から撤退してアメリカ軍に向かう逃走の準備がなされました。かねてこの日を期待していたエホバの証者は,脱出が始まるとき一つの群れにいることを決意しました。彼らは一つの集会所を定めて,必要な計画を立てました。それは良いことでした。出発の前夜,収容所内は大混乱でした。この収容所には2万人から3万人の囚人が入れられていたのですが,そのほとんど全部の人がその夜泥棒になりました。収容所の指導者はユダヤ人から品物を奪い,暴動を起こした囚人たちは収容所の指導者から品物を盗み,盗んだ者たちも,品物を盗まれ,あらゆるところで人々は盗み合っていました。この夜,1万2000個の赤十字の包みは盗まれました。鬼畜化した看手たちは囚人たちを鎮圧しようとして,その夜は多数の者たちが鞭で打たれて殺されたり,銃殺されました。

この時,主の民はどこにいましたか。彼らは洋服店にかくれていて安全でした。こう報ぜられています。

主の民はみな一緒にいて,看手たちの指示を待っていました。その間,私たちは他の場所にいた病気の兄弟たちをこの洋服店に連れて来ることに努力を傾けました。何一つ残さずに品物を全部持って来ました。ともかく,何でもすべてのものを持って行こうと思ったのです。ある者は「ものみの塔」,他の人々は聖書や別の書物を持ってきました。それから,長年のあいだ行なわれなかった最初の御国大会を開きました! 私たちの集会は,静かな平和に満ちるものでした。他の場所で盗んでいる囚人たちが銃殺される音は,私たちの集まり妨害しました。しかし,それは,ひじょうに祝福されたもので,私たちは救いの来ることを知って気持が強まりました。以前,私たちはこの日のことをしばしば語って来ました。

脱出が始まる

翌朝,脱出が始まりました。600人ずつの群れで行進しました。最初チェッコ人,次にポーランド人,次に違った国籍の人々,最後にドイツ人が行きました。これらの中には幾人かのエホバの証者がいました。二人以外のエホバの証者全員は,その群れから抜け出して,洋服店にいた兄弟たちに合流することができました。エホバの証者は一致して,いちばん最後に出かけました。

エホバの証者の数は,わずかに230名だけでしたが,他の者は彼らに参加することが許されませんでした。なぜですか。証者が証言するからですか。いいえ,この逃走のときに,それは問題になりませんでした。役人たちは盗んだ品物を車に積んで,証者たちの隊伍の中に入れました。彼らは証者たちだけを信用したからです。彼らは証者たちが盗人でないことを知っていました。迫害者たちとの交渉においても,神の民が神の律法に従い,盗むことが禁ぜられていると,彼らは知っていました! この劇的な点において,ふたたび報告に耳を傾けて下さい。

それから合図が来ました,「エホバの証者の全員,出発準備!」それで,私たちは身仕度しました。病気の姉妹を車の上にのせ,それから5人ずつの群れをつくって,門からゆっくり出て行きました。5年から9年前にはいった門をいま始めて通り,生きて出ることはないと思った場所を去りました。悪魔と彼の代理者たちも私たちが生きて出ることはないと考えて,しばしば私たちにそのことを思い起させました。しかし,主はそのことにつきちがった考えを持っておられました。ザクセンハウセン収容所を後にした。私たちの心にあふれたよろこびは,言葉で言い表わすことができません。

ザクセンハウセン収容所から出かけて1時間して後,ロシア軍がその場所とオラニエンブルグ収容所を爆撃した大爆発をながめ,その音を聞きました。ロシア人は彼らのすぐ後を追いかけて来ました。ナチの警備兵はひじょうに恐れて,隊伍におくれた者やつかれ果ててしまった者を銃殺しました。夜明けになると,死体が路上に横たわっているのが見えて来ました。短い距離の中に300人の死体が数えられました。アメリカ軍のところにたどりつくまで,幾千人もの人が殺されました。報告はこうつづいています。

約230名の兄弟,姉妹の隊伍の中から65歳から72歳の年齢の兄弟たちがいたにもかかわらず,ひとりとして,いちばん弱い者も,路上に倒れませんでした。彼らはみな忠実に立っていました。神権的な霊と取決め,そして主の御使が私たちを保護してくれたことがはっきり目撃されました。

最初の二日間,昼も夜も強行軍で,食事も休息もほとんどありませんでした。大ぜいの人々は体力が衰えて,ふらふらになってしまいました。しかし,はげしく爆撃されたネウルピン市に到着したときは,休息が予定されていました。幾千人もの囚人たちのための宿舎などはひとつもなく,大騒動と混乱が起こりました。しかし,証者たちはみな,幾人かの献身した婦人たちの友好的な隣人の家に宿泊できました。この婦人は,囚人になっていた証者のひとりを戦争前から知っていたのです。彼らは200人以上の証者を大よろこびで歓迎し,その夜は納屋に宿泊させました。隣人たちは,これらの囚人がみなエホバの証者と知って後にはじめて同意してくれたのです。人々はエホバの証者を泊まらせただけでなく,朝になると食事すら出してくれて,囚人の監督たちをびっくりさせました。人々は他の囚人が納屋に泊まることを恐れました。なぜならそのような囚人は手あたり次第,なんでも盗んで掠奪したからです。しかし,人々は,神の御国を証言して,家の人を慰めたエホバの証者を信用しました。他の囚人たちがどのように食物を得たかについて,次のように報告されています。

「ドイツ軍隊」に会いました。その軍隊の移動から,私たちが前線に近いことを身に泌みて感じました。道の両側には囚人の死体が横たわっていました。飛行機の攻撃で家々は破壊され,飛行機は炎上しており,そして馬の死体もありました。ロシア人とウクライナ人の囚人たちは,野獣のように隊伍からこの馬の死体を目ざして抜け出し,ナイフや指でもって死んだ馬の肉片を切り出し,ある者はそれを料理して食べ,他の者は生のまま食べました。彼らの手と顔は血まみれになりました。じゃが芋の袋でも同じことでした。彼らはじゃが芋を盗もうとしました。すると看手は彼らを銃殺し,しばしばじゃが芋の袋の上には死体がごろごろしていました。

この道すがら兄弟たちは証言をする機会を見出しました。多くの場合,軍人に証言したのですが,軍人は注意ぶかく証言を聞き,金銭や品物で証者を援助する程でした。証者のために寄付を集めた軍曹のひとりは,「みんな元気を出しなさい。もうすこしすれば,救われるよ」と言って証者たちを励ましました。証者たちは農夫からパンと牛乳,粉,じゃが芋,そしてバターのついたパンさえももらいました。ひとりの農夫は,捕われているエホバの証者が与えた御国の音信にたいへんよろこんだので,最後のパンを彼らと分け合った程です。

4月29日,彼らは4日間滞在した大きなブナの森から出発しました。そして,ふたたび行進が始まったのです。次の数日は,他の日と同じようでした。囚人の大多数は空腹に悩み,暴動を起こしていました。一方エホバの証者は良いたよりを人々に伝道し,かわりに食物が与えられて祝福されました。その報告によると,恐ろしい空腹が収容所内にひろまりました。草,薬草,木の皮そして木の根も料理されて食べられ,毎日100人から110人が死んで行きました。

変らざる忠実は実をむすぶ

それから最終的な出来事が来ました。つかれ果てたこの囚人隊は,シュエリンの森に到着しました。アメリカ軍は囚人より6キロか7キロ前方にいて,ロシア人は囚人のすぐ跡を追いかけて来ました。囚人たちの中にはひじょうな不安がみなぎりました。ナチの「英雄たち」も恐れおののき,かって悪しざまに迫害した証者たちを「仲間」と呼びました。中心的な収容所の責任者は逃げてしまい,少数のSS警備兵がのこっただけです。彼らは囚人内の大混乱を収拾することができず,夜の中にひそかに逃げてしまいました。9年来はじめてエホバの証者たちは看守の警戒を受けぬ自由の身になりました。彼らは森の中に「幕屋」の小屋をつくり,以前と同じように生活しました。ふたたび報告を読んでみます。

夕方,飛行機の大空襲が両方の側から始まりました。そして,砲撃もいっそうはげしいものになって来ました。それは炸裂し,爆発しました。また機関銃の掃射音も聞こえて来ました。生々しい夜になるように思えました。一方,ロシア人とウクライナ人の囚人たちはSSの兵器を手に入れて,新しい危険が始まりました。私たちはいっしょに集まって,一同祈りをささげ,横になって,次の日の来ることを静かに待ちました。収容所の陸軍少佐からロシア軍が急速に進撃しているということを聞かされました。私たちは決定を下す必要に迫られました。アメリカ軍までの道のりは,約6キロでした。森林の収容所では大混乱が起こりました。夜はくらく,だれもかれも走りまわり,鉄砲の音がだんだん近くに聞こえて来ました。証者たちの中でさえ,かなりの不安動揺が起こりました。

私たちは一つの群れになって祈りをささげエホバに対する確信と信頼を述べました。それから,私たちは再び横になり,まわりの大混乱にもかかわらず,朝の来るのを待ちました。主の御使は,私たちを見守り,一切の悪から私たちを守りました。翌日になって分かったのですが,このコースは正しい道でした。前夜,ナチの陸軍少佐から与えられた出発命令は,実は暗やみにまぎれて大ぜいの囚人を殺すことが目的でした。大ぜいの囚人は戻って来て,SSに射撃されたと私たちに告げました。朝が来ると,多数の囚人は路上で殺されたり,傷つけられていました。

5月1日の午前11時頃,私たちはシュエリンに向かって出発しました。これはSSなしの私たちだけの取決めでした。大通りの様子は形容不能です。自動車の無限の列,あらゆる種類の車そして人々はみなアメリカ軍の方に向かって進んで行きました。私たちはすこしづつ進んで行きました。そして,6時間たって,出発地から約10キロはなれた休息地に到着しました。軍隊の車輛,自動車,逃亡中の老人たち,兵士,男女と子供たち,その全部はロシア軍からアメリカ人の方に逃げて行く人々でした。大通りや道沿いの畠には,あらゆる種類の鉄砲,弾薬,装具,紙,本,自動車,車輛,こわれた自動車,人間の死体などがごろごろしていて,なんとも言えぬ大混乱の様子でした。不安気な人々の顔には,絶望,悲しみ,,そして恐怖がまざまざと示されていました。人々は終りの日おそろしい経験とみじめな失望を身に泌みて感じていたのです。そこで私たちは気の狂った悪鬼的な人間による不敬虚な支配制度の終りを目撃しました。これは12年間存在していたが,結局無になった巨大なシャボン玉のようでした。

後になって聞いたのですが,私たちの出発もちょうど良い時でした。キャンプから出発後2時間して,SSの警備兵たちは森をぐるりと取りかこんで,森の中に残っていた者を一人残らず射殺したということです。(陸軍少佐のインチキな命令に従って,それ以前に出発した者も殺されたのです)全部で360人から400人の囚人が銃殺されました。

すでに学んだごとく,他の国々でもエホバの証者はナチの占領下で苦しみました。たとえば,オランダではドイツ軍の収容所内に約400人の証者たちが入れられていました。その中,約50人の証者たちは収容所内で殺され,数人は収容所内の病気で死にました。しかし,収容所に入れられなかった者たちは伝道を忙しくしていました。5年間にわたるナチの占領が始まる前に,317人のクリスチャン奉仕者はオランダで伝道していました。第二世界大戦が終ったときには,地下にもぐったこれらの奉仕者の熱心な努力により,1945年には2166人が野外で活発に奉仕していました。

益を交互に交換する

独裁者たちの残酷な支配下にあっても,エホバの証者は耐え忍びました。そのことを示す報告がたくさんあります。また解放された証者たちが家から家に伝道したときに,心打つような歓迎を受けました。そのことを全部お話しする時間はありませんが,一般の人々はかって囚人だった証者たちを見て,死人からよみがえされた者のように感じました。

奉仕のための再組織が始められ,証者たちを会衆に集めて,野外のわざに活発にする努力が払われました。各国々で支部事務所が再開され,健康に恵まれた僕たちが巡回の僕になったり,兄弟たちの神権的な必要物をまかなうことはぜひ必要でした。兄弟たちは苦しい戦争の経験を経て,霊的に強められました。しかし,物質的には貧しかったため,印刷の仕事を再開し,印刷した文書や他の聖書の手引を供給するために,一時しのぎの設備が必要でした。食物や衣服は2番目に考慮されました。主要な目的は,戦争の辛さを経験したこれらの国々に生命を与える聖書の食物を与え,霊的な滋養物で再び建ておこすことでした。先ず,証者自身を建ておこし,次に霊的に餓死しかかっている善意者たちを建ておこすことが必要でした。物質的な面において,すべての国々が,戦争の災難を受けた国々ほど困ったわけではありません。そのような国々に住む証者たちは,ただちに世界的な救援運動を組織しました。それは1946年1月に始まりました。アメリカ合衆国,カナダ,スイス,およびスエーデンにいた幾千人もの証者たちは,自発的に不幸な兄弟たちに衣服や食物を買うための金を寄付しました。この救援計画は2年半つづけられ,オーストリア,ベルギー,ブルガリア,中国,チェッコスロバキア,デンマーク,英国,フィンランド,フランス,ドイツ,ギリシャ,ハンガリー,イタリー,オランダ,ノルウェー,ヒリピン共和国,ポーランドそしてルーマニアにいる証者たちを援助しました。送り出された衣類は105万6247ポンドに達し,食物は71万8873ポンドに達しました。その他,12万4110の靴も送られました。この品物全部の価値は,132万2406ドル90セントです。

金銭的な価値を考慮することに加えて,これら必要な品物を集めたり配分したりするのに費された数多くの愛の時間を考えねばなりません。たしかに,兄弟たちはそれぞれの祝福を分け合いたいという愛を示し,それは互に有益でした。一つの面で物質的な益が与えられると共に,そのお返しとして別の面では忠実をしっかり保った不滅の記録が与えられました。

多くの国々で文書の配布は禁ぜられました。しかし,戦争中の世界において証者たちは第一世界大戦中のとき以上に多くの活動をしました。証者たちが熱心に野外奉仕をしつづけたことを示すいちばん強い証拠は,活発な伝道者の数が増加したことです。第二世界大戦までの伝道者最高数は,7万3469名でした。しかし,1940年から1945年までの第二世界大戦中,伝道者の最高数は,ほとんどその2倍にあたる14万1606名でした。

[脚注]

a (タ)1946年の年鑑(英文)133頁。

b (レ)1945年の「ものみの塔」(英文)268-272頁を見なさい。

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