神の目的とエホバの証者(その49)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
大会の諸問題を克服する
さて1946年の大会について,もう少しお聞きしたいと思います。もし私の観察に間違いがなければ,エホバの証者が今までに開いた大会は,組織の成長と発展という面から見て,著しい特色であったと思いますが。
ジョン: その通りです。大会によって,広く交わることの必要と制度と個人が物の見方を広くする必要がみたされ,また信仰と真の崇拝の行いをすすめる霊的な励みが与えられました。1918年までは,毎年開かれた大会も,どちらかと言えば地方的なもので,出席者の人数が4000人を越えたものはありませんでした。a 1919年から1937年までについて見ると,ひとつの場所で開かれた大会に,いちばん大勢の人が集まったのは3万人でした。それは1937年9月19日,アメリカ合衆国オハイオ州コロンブスにおける大会で,その時には「安全」と題する公開講演が行なわれました。b
この時期における大会は,それほど国際的な性格をおびたものではありません。アメリカ合衆国以外の国から出席できた兄弟は,ほとんどなかったからです。この事は1938年から1944年まで続いた第二次世界大戦中も同様でした。大戦中には,色々な都市で同時に開かれた大会をラジオと電話の施設を用いて連絡する多都市大会が,英語を話す国々において幾つか開かれています。このとりきめにより,おもな話に関する限りは,証者たちが国際的な結びつきを持つようになりました。しかし遠く離れた各地に集まった人々が,互に交わることはなかったのです。これらの大会のうち,いちばん出席者の数が多かったのは,1938年,英国ロンドンを中心の都市として開かれた大会で,公開集会の出席者総計は,15万人でした。c
大会の準備と計画という点で多くの経験が得られましたが,時に1941年のミズリー州セントルイスおよび1942年のオハイオ州クリーブランドの大会は,この面で得るところの大きかった大会でした。これを背景として,第二次世界大戦後の期間にもつと大規模なものが計画されました。それは世界各地の代表がひとつの場所に集まる,本当の国際大会という案でした。この大会は,1946年8月4日から11日までオハイオ州クリーブランドで開かれ,「国々の民の喜びの神権大会」と呼ばれました。市営スタジアムおよび周辺と隣接の市公会堂が大会用に貸切られ,合衆国の各州はもちろん,合衆国以外の32ヵ国から代表が集まりました。大会の出席者数は,最終日の日曜日に最高数に達し,会場を埋めつくした8万人の聴衆が,「平和の君」と題する,協会の会長の話を聞きました。
このような大群衆が,クリスチャン崇拝のために8日間ひとつの場所に集まることには,多くの問題が伴いました。もちろん大きな問題は宿泊です。効果的な方法がすでに何年にもわたり,次第に編み出されてきましたが,それは1944年,ニューヨーク州バッファロウにおいて厳しい試みに会うことになりました。そのとき,私たちの大会と時を同じくしてアメリカ在郷軍人会が大会を開き,ホテルの宿泊施設をひとり占めにしてしまったのです。それで宿舎の大部分は個人の家に求めねばならず,大会の宿舎部門はその組織を総動員し,最大限の能率を発揮して宿舎探しのために,町を6回も回りました。その結果は,宿舎が得られただけでなく,証者の泊った家の人々が興味を抱いたという点でも満足すべきものでした。d
宿舎の取扱い方は,1946年,更に進歩を見せ,その後すべての国内および国際大会で用いられた方法が確立されました。大会の始まる何週間も前に大勢の開拓者と,土地の会衆の全部の兄弟たちが,家々を訪問し,また旅館を訪れて宿舎を予約しました。
その他の宿泊施設と給食
この大会で設けられた別の宿泊施設は,居住自動車と天幕のための土地でした。1937年のコロンブス大会と1941年のセントルイス大会のとき,アメリカおよびカナダの大勢の証者は,このような施設が便利で,費用もかさまないことに気づきました。そこでクリーブランド大会の時には,大会の期間中,市の郊外に広い土地を借りて,整然とした町を作り,通りを設けて,天幕また居住自動車のための区画を作りました。一夜にして出現し,大会の期間中つづいた2万人の証者のこの町には,衛生,給水,10マイルに及ぶ電線その他の付属設備が設けられ,この「町」の交通整理と行政は,550人の証者の自発奉仕者の手によって行なわれました。これらの証者たちは,行政官庁の定めた衛生規則に従って,すべての事を行なったのです。拡声装置が設けられ,会場に行けない「トレイラー・キャンプ」の人々のためには,大会のプログラム全部が会場から中継されました。
大会を運営した人々の別の大きな問題は,1日3度の食事を何千人の大会出席者に出すことでした。以前の大会の経験から見て,簡易食堂の仕組みが最も実際的であり,クリーブランドの大会では,軍隊で使われているのに似た,プラスチック製の仕切りのある皿を使うことによって,能率を著しく改善できました。5台の自動皿洗い機を用いたので,一度使った皿はすぐに再び使用されました。何千人の大会出席者は列を作り,立ち止まることなく給食の列に誘導されると,そこでナイフ,フォークをそえた皿を受け取り,自発奉仕者の手によって皿の各部分に調理ずみの食物が入れられます。それから人々は他の部屋に導かれ,腰の高さの食卓に皿をおいて,立ったままで食べるのです。このようにして,給食設備を早く回転させることができます。大会の他の部門と同じく,簡易食堂でもすべての仕事は,自発的に,また,無報酬で兄弟たちのために働いた自発奉仕者の手によって行なわれました。この大会では,大会の運営に必要なすべての部門で1000人以上の人々が働きました。
励みを与える話と新しい出版物
大会の毎日はそれぞれの主題に従って進められ,8月4日,日曜日の初日の主題は,「収穫する者の喜びの日」でした。その日の晩,大会司会者の公式の歓迎の辞につづいて,協会の副会長は「収穫,世の終り」について話しました。これは,マタイ伝 13章にある,イエスの麦と毒麦のたとえをくわしく説明したものです。すべての人が見,また知っている事実から,神の天の御国の級の収穫は西暦1918年以来すすめられてきたことが証明されました。しかし以来時を経た今日においては,地上の生命の希望を持つ主の「他の羊」が集められて,収穫は補足されました。収穫の行なわれるこの「終りの時」は,全き終りに近づいていることが,はっきりと証拠づけられました。
8月5日,月曜日,「福音擁護の日」には,大会会場のあちこちで外国語の集会が始められました。大会中,全部で17の外国語が使われたのです。大会のこの国際的な特色を更に示したのは,2階座席の正面に20の国の言葉で掲げられた標識でした。それぞれには「国々の民よ,主の民と共に喜べ ― ロマ書 15章10節」と書かれていました。これはその年の聖句だったのです。英語の標識は,スタジアム最奥の屋根なし観覧席にそってそのわん曲した正面に大きな文字で掲げられていました。その日の午後,協会の弁護士は「法廷における正しい振舞い」について,有益な話をしました。
大会の基調をなす話は,8月6日,火曜日「勇気の日」に協会の会長によって行なわれました。大会の報告は,この話を大きく採りあげています。
それは勇気にあふれた,戦いを挑むような音信で……大戦後における諸国家の連合がキリスト・イエスによって地を治めるエホバの神権的政府に対する,世界をあげての返信であることを明白にした。その音信はこの国際的な反逆をまっこうから攻撃している。それは悪鬼にあやつられた世界のこのような反逆を支持しようとする一般の動きに同調すまじきことを証者に告げるエホバの警告を,強調したからである。反逆はかならず打ち砕かれて,不面目な最後に至る。この大謄な話は,この大会の基調すなわち「神が我らと共にいます」ゆえに,反逆の打ち砕かれる時まで,大戦後の時代において,キリストによるエホバの御国を公に擁護しつづけるための「勇気」ということを,高らかに述べた。これは主の民の勝利を意味する。e
その日の晩,「奮起させる召しに対する答え」と題する話の最高潮に,会長は最初の「目ざめよ!」である1946年8月22日号を発表しました。ブルックリンにある協会の工場からその20万部が運ばれてきていました。この雑誌は,「慰め」に代るものです。f
新しい備えといっそうの拡大
8月8日,木曜日,「伝道者の備えの日」は驚きの日であり,戦後におけるわざの拡大を証明するものとなりました。午後の話の中で,協会の会長は「すべての良いわざに備える」と題する384頁の新しい本を発表して聴衆を喜ばせました。しかしこの時以来,エホバの証者が使うために準備されたのは,これだけではありません。「再建と拡大の問題」と題する晩の話の中で,会長はそのことを示しました。
6年にわたる世界大戦のあいだ,証言するための努力は少しも停滞しなかった。戦争の終結と共にヨーロッパにおいて再建のわざ,拡大のわざが直ちに進められ,ヨーロッパ各地の「ものみの塔」の支部は組織的,生産的な機構を持つものに編成された。しかし野外一般においては,10月15日以降,新しいものが始められようとしていたのである。野外においてはそれぞれ20の会から成る巡回区が作られて,巡回の僕が兄弟たちに奉仕することになった。そして6ヵ月おきに巡回大会が開催されることになった。この事が明らかにされたときの喜びは,実に大きなものであった! いまや御国を宣明する最大の運動が前途にある! 世界的な御国の文書の需要に応ずるため,ブルックリンの工場を拡張することが必要である。増員された工場および事務所の要員のため,新しいベテルの家を建築しなければならない。「ものみの塔」放送局WBBRも改良を必要としている。g
トム: 巡回大会のこのとりきめは,8頁にわたる「制度の指示」の改訂に関連して,先週あなたの言われたものですか。
ジョン: そうです。これは1946年のこの大会において発表されました。新しい工場とベテル拡張の計画は,大きな熱意を以て迎えられました。これを発表した時に会長が説明した通り,工場施設の使用は限界に達しており,生産の増加は不可能でした。1927年に工場が建設されたとき,紙の年間消費量は829トンであったが,2700トンにも増加していたのです。大会の報告は更に次のことを述べています,
アメリカにおける需要に加えて,近い将来には外国に輸出する文書の生産も必要になるとの事実に照らして,理事会は協会に残された道が現在の工場施設の拡張以外にないとの結論に達した。この目的で協会は,アダムス街117番地所在の工場の周囲の土地をすでに買収し,現在の工場に隣接して10階建の工場の建築計画が建築家の手によって進められている。これは来る数年間に必要とする印刷を行なうのに十分の大きさのものであろう。
工場の大拡張に伴い,必要となる更に多くの自発的な働き人は,ベテルの家に住み,食事をすることになる。従ってコロンビア・ハイツ124番地にある現在のベテルの家も拡張が必要になろう。そのうえニューヨーク市は,現在のベテルのうしろにスーパーハイウェイを建設することになっており,現在のベテルの建物のうしろ側を50フィートの巾にわたって取りこわすようになる。そのためベテルの収容能力は更に小さくなる。これに対処するため,理事会はコロンビア・ハイツを24番地に隣接する土地の購売を決定した。h
大会の国際的な性格は次の日にも,はっきりと示されました。
8月9日,金曜日は,国々の民の喜びの大会が,すべての民の大会となった日である。これはその日の主題に従ったもので,プログラムが「すべての国々の民の日」という主題に合うように組まれていたためである。まず水のバプテスマに関する話があって,2600人以上のあらたに聖別されたエホバの証者が洗礼を受けた。その中には色々な国々の人がいる。午前,午後,夜のプログラムは,一種の続きものになっていて,「すべての国々の民」という主題を終始,聴衆に銘記させた。午前のアラスカに始まって晩のアメリカ合衆国に至るまで31ヵ国の代表がそれぞれ経験を語って,聴衆を喜ばせた。しかし「すべての国々の民の日」は,「国々の民の喜び」という大会の名称とも完全に調和していた。すべての報告は,代表者を通してエホバの民と共に喜んでいた諸国民の喜びを伝えていたからである。事実,大会全体は,「あらゆる国民,民族,国語」の人々が神の民と共に喜び,一致を保って働いていることを如実に示すものであった。諸国家は国家的な障壁を除いて人類を一つの世界に一致させ,この核時代における滅亡を回避しようと空しく努めているが,その努力は水泡に帰している。しかしエホバの御霊のき働によって,エホバの見える制度の人々は,多くの異なった国々の者であっても一致しており,国家的また民族的な障壁は存在しない。i
この日の別のおもな出来事は,288頁のスペイン語の聖書索引が発表されたことです。これは聴衆の中のスペイン語を話す証者たちによって熱心に迎えられました。
8月10日,土曜日,「神の真実の日」になりました。その日の午後,協会の会長は6万7009人の聴衆に向かって話しました。「神を真とすべし」と題するこの熱烈な話の中で,エホバの証者の教義上の立場が確立されました。この話の終りに,6万7009人の熱意にあふれた聴衆は,イザヤ書 8章9,10節に述べられた神の御命令に従うとのエホバの証者の決意を表明した決議を,大きな声で一斉にハイと答えて可決しました。
すなわちキリスト教国の人々に加わって,人々の不安と恐れをしずめるための世界をあげての反逆を擁護することを拒絶し,西歴1914年以来のキリストによる神の御国に代って世界の支配を人間の手に委ねようとする企てを拒絶する,
また
「公衆の前でも,また家々でも」聖書教育のわざをすすめることによって,律法と証し,神の言葉のすべてを人々に示すことを決意する,というものでした。―イザヤ 8:20。使行 20:20。j
ついで「神を真とすべし」と題する新しい本が発表され,集まった人々は喜びに湧きました。
大会の最高潮は,8月11日,日曜日,「宇宙の平和の日」でした。その日の午後,大会会場とトレイラー・キャンプに集まった8万人の聴衆に対して,協会の会長は広く宣伝された講演「平和の君」を話しました。その要約は大会を報じた「ものみの塔」に出ています。k
この話の全文は「メッセンジャー」に掲載され,出席者はその20万部を早速求めました。その日の晩,閉会の言葉の中で会長は,オーストラリアとアジアで開かれる全国大会を発表し,会長の出席が予定されていることを述べ,またカリフォルニア州の太平洋岸で開かれる1947年の大会についても発表しました。
大会のあと,大勢の支部の僕また海外の支部の仕事に任命された他の人々が,各国における御国の事柄につき,3日間にわたって協会の会長と協議するため,「ものみの塔ギレアデ聖書学校」に行きました。巡回の僕の兄弟たちに対するわざ,地域の僕のわざ,事務所の機構,開拓奉仕,宣教者の家,一般的な拡大など,多くの事柄が討議されました。この会議には54人の兄弟が出席し,その多くは大会後間もなく始まったギレアデ第8期のクラスにはいりました。l
[脚注]
a (テ)1911年「ものみの塔」(英文)371頁。
b (ア)1938年度年鑑(英文)47-56頁。
c (サ)1938年10月5日号「慰め」(英文)第20巻18頁。
d (キ)1944年10月25日号「慰め」(英文)第26巻7,8頁。
e (ユ)1946年「ものみの塔」(英文,)299頁。
f (メ)1946年8月12日付「メッセンジャー」(英文),21頁。
g (ミ)1946年「ものみの塔」(英文)301頁。
h (シ)1946年8月12日付「メッセンジャー」(英文),28頁。
i (モ)1946年8月12日,「メッセンジャー」(英文),27頁。
j (セ)1946年「ものみの塔」(英文),303頁。
k (ス)(セ)に同じ。304頁。
l (ン)右に同じ。