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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
塔62 12/15 764–767ページ

神の目的とエホバの証者(その52)

「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10新世訳

2度目の権利への請願

この報告の言葉にたがわず,カナダの兄弟たちは真の崇拝を擁護するための勇敢な戦いをつづけ,2年後には再び請願書を回しました。最初の請願を回付したときには,もしそれがエホバの証者のためにする事だと知っていたら,大ぜいの人は署名しなかつたに違いないと非難した人がありました。1948年の9月と10月に行なわれた第2回目の運動のときの請願は,エホバの証者の迫害に特に注意をひき,請願文の中には「エホバの証者」の名前が2回出ていました。そのうえ「自由のための戦い」と題するパンフレットを家の人にまず渡してから,署名をすすめたのです。そのパンフレットには,エホバの証者に関する多くの事実と,権利の保証を求めることの必要を示す実例がのせられていました。900万の人口を持つカナダで,このパンフレットは149万部も配布されました。

署名の数という点で,この運動の成果はどうでしたか。「1949年の2月8日,ウィニペッグ北部選出のアリステア・ステワート議員は,11フィートの高さに積まれた請願状の山を指し示すことができた。それには62万5510人の署名があった」aのです。すべてのカナダ人を益するこの戦いの先陣をつとめたことに対し,カナダ全国の世論はエホバの証者にきわめて友好的なものでした。

遂に1950年,「ケベックの燃える憎しみ」を配布したかどで逮捕された一エホバの証者の事件が,カナダの最高裁判所に達しました。扇動および名誉毀損の文書配布という,おだやかならぬ刑法上の罪を問われたこの証者は,ケベックの法廷で有罪とされていたのです。その裁判の模様は次のようでした,

配布者の一人,アイメ・バウシャーの公判は,1946年の12月,ケベックのセント・ジョゼフ・デ・ビュースにおいて予審が始められた。次に憎しみと疑いの空気の中で,カトリック信者のフランス人アルフレッド・サバール判事係り,カトリック信者たちの陪審によって裁判が行なわれたが,判事のやり方は不公平をきわめ,被告の弁護をことごとに妨害して高飛車に出た。判事は,被告を有罪にするため,エホバの証者に対する陪審員の偏見に訴えた。事実,判事が不法に振舞ったことも手伝って,事件は最高裁の審議を受ける結果になったのである。公判中,真実の問題点をかくしてしまった混乱と偏侠は,ケベック市の控訴裁判所のレトウルノおよびガリポール判事が公判の係り判事を叱責したとき,明るみに出た。この異議が出たことだけで,事件はケベック市からオッタワの最高裁判所に移った。b

扇動誹毀の罪状をそゝがる

つづいて起きた出来事は前例のないものです。1949年5月31日から6月3日にかけて,事件はカナダ最高裁判所の5人の判事の前に提出され,c1949年12月5日,3対2で意見の分かれたまま,エホバの証者に不利な判決が下されました。d しかし9人の判事全員による事件の再審を申し立てたところ,きわめてまれな事が起きました。再審が許可されたのです! 1950年12月18日に判決が下されたとき,この事件をはじめて審理した判事のうちで免訴を主張したのは2人だけでした。法廷は5対4で免訴の判決を下しましたが,それは最初の審理に加わった5人の判事の1人で,アイルランド系のカトリック信者の一判事が以前の意見を変え,見下げられた少数者であるエホバの証者の権利と自由を擁護する立場に立って票を投じたためです。このバウシャー対国王の事件の意見書から二,三の重要な点をひろってみましょう,

この事件は,平和を愛好する柔和なカナダ人にかかわるものである。彼らは,許可なくして聖書およびクリスチャンの教義に関するパンフレットを配布し,個人の家また土地において宗教的礼拝を行ない,クリスチャンの交わりをしたこと,および彼らがクリスチャンの宗教の真理と信ずる事柄を教えるために,講演会を開いたこと,つまりカナダ人のおかされざる権利と当然に認められてきた権利を行使しただけなのに,個人また暴徒から暴行され,その聖書と文書は破られたり捨てられたりした……

被告の行いは正常のものであり,明らかにされた限り被告は善良な市民である。そしてプロテスタントおよびローマ・カトリックのいずれとも明らかに異なるクリスチャンの宗教に少なくとも共鳴している。しかしその根本は同じであってキリスト,および神と人類に対するキリストの関係につながるものである……

……彼らの主張通り,その行いはすべて平穏なものであって,彼らの見解に従えば,キリスト教の光と平安を人々にもたらす方法に従って事が行なわれたという事実は否定できない。つまり彼らの行いは合法のものであった。e

この判決はカナダ裁判史上で最重要なものの一つに数えられています。それは「王の神権」という中世の教えから打ち出した足かせ,ケベックの法務長官や判事たちが暗黒時代の英国の穴蔵から掘り出したスター・チェインパー(高等裁判所)時代の治安維持法を,完全に砕いてしまいました。

しかしこの記憶すべき判決によって,ケベックの戦いが終ったのではありません。デュプレシスは,全く同じ法律に基づく誂毀の罪状で他の何万という事件を告訴することをやめませんでした。f しかし憎しみに燃えたローマ・カトリックのとりで,ケベックにおいて,真の崇拝のために戦った人々は,大きな前進の歩みを進めました。この運動の始められたわずか4年前に,会衆の組織はフランス語のものが8つ,英語のものが10,合計18に過ぎず,その下に組織されていた兄弟たちは約300人でした。さてこのような反対に直面しながらつづけられた4年間の伝道の成果を見てごらんなさい。1950年には21のフランス語のものと15の英語のものを合わせて36の会衆の組織があって1000人を優に越える兄弟たちの必要をみたしていました。神を崇拝する自由のための戦いの最前線に立ってその一翼をになったのは,83人の正規開拓者と81人の特別開拓者でした。特別開拓者のうち63人はギレアデの卒業者です。g エホバの証者が優位な地歩を占めつつあったことは間違いありません。

ケベックの検閲法に対する戦い

ついで1953年には,ケベック市とケベック州において二十年にわたりつづけられた戦いの最高潮をなす,別の勝利が得られました。1933年のこと,ケベック市は,エホバの証者による聖書および聖書文書の配布を禁止する目的で検閲法規を制定しました。それは次のように定めています。

ケベックの路上においては,警察署長の事前の許可なくして如何なる本,パンフレット,冊子,ビラをも配布してはならない。h

ケベックの兄弟たちは1947年にこの法令に攻撃を加え始め,崇拝の自由を不当に束縛するものとして,この法令の無効宣言を目ざし,ケベック市を相手どって訴訟を起こしました。公判において判事は,被告がプロテスタント,カトリック,ユダヤ教の牧師を喚問することを許し,宗教組織の信条と実践のあり方についての証言が行なわれました。公判はほとんど2週間つづきました。i そこで敗訴になったエホバの証者は,ケベック控訴裁判所に上訴しましたが,ここでは意見の一致を見ず,1952年5月13日,多数意見により,検閲法は有効との判決が下されました。それからカナダ最高裁判所に上訴された事件は,1952年12月9日から7日間にわたって審議されました。

カナダの最高裁判所で審議された基本的な問題は,許可を受けなくても伝道できる権利でした。この画期的な事件が持ち出される前には,カナダの立法者,弁護士,判事も,カナダには信教の自由を保証する成文法がないと言ったことでしょう。この訴訟事件の最中に意外なことが発見されました。使われてはいないが,まだ有効な,崇拝の自由に関する法律が発見されたのです。この法律は1852年にカナダ議会を通過したもので,ちょうど100年を経た1952年にエホバの証者ははじめてこれをカナダの最高裁判所に持ち出して論じたことになります。

ロイス: 法律を作って忘れてしまうことがあるんでしょうか。とにかくそれが制定されたいきさつは何でしたか。

ジョン: そうですね,1852年にこの法律が制定されるずっと以前,英国では7年戦争のあいだ,カトリック教徒と新教徒のあいだに大きな宗教的争いがありました。このカナダの法律は,それよりもずっと古く(1763年の)パリ条約の後,条約の定めを履行する目的でロンドンの英国議会を通過した元来の,崇拝の自由に関する法律を単に再び制定したものです。それは英国において7年戦争のあいだ,カトリック信徒の経験したような宗教的迫害からケベックのフランス語を話すカトリック信徒を守るためでした。1867年にカナダの最初の4州が併合されたとき,この法律の効力はなくなりませんでした。以来これは使われなかったために,忘れられてしまったようです。それは40年間というもの,オンタリオの法令全集にのせられませんでした。ケベックでは印刷されてはいたものの,一度も使われなかったのです。この昔の法律は次のように定めていました,

あらゆる宗教宗派の法律上の同等を認めることは,植民地立法の広く認められた原則である……ゆえに次のことを宣言する……信教と崇拝の自由な享受は,それが放縦な行いの言訳にされたり,州の平和と安全を害する行為を正当化するのに用いられるのでなければ,この州の憲法および法律によって,州のすべての英国臣民に差別なく許される。j

ソーマー事件の勝利

ケベックの検事は,エホバの証者が宗教宗派ではなく,その文書伝道は法によって保護される崇拝の行為ではないこと,ローマ・カトリック教会に対するエホバの証者の批判は,「放縦な行い」であり,検閲法規に従わないことは「州の平和と安全を害する」ものであると主張し,遂に1933年のケベックの法規は,検閲の手段ではなく,交通法規であると言い出しました。しかしその主張は認められず,最高裁判所の判事は5対4の多数決でこれらを拒否し,1953年10月6日,エホバの証者に有利な判決が下されました。これは20年にわたる戦い,そしてこのテストケースについて言えば6年にわたる法律の戦いの真実の勝利でした。

新聞の論調はこの判決を一斉に支持するものでした。いくつかの社説をお目にかけましょう,

崇拝の自由の勝利

制限を受けることなく路上で文書を配布するエホバの証者の権利を擁護したカナダ最高裁判所は,この国の良心の重荷を取り除いた。宗派を問わず,また2大言語グループのいずれに属するとも,自由を愛する市民は,意見を間接に押しつぶそうとする傾向のあったことを憂慮してきた。ローリエ・ソーマー氏事件の判決により,とくにケベックにおいては市条令違反にかかわる約800の類似の事件が告訴取下げになるであろう。カナダの如何なる地域においても,宗教的見解をひろめる活動を許可制にすることはできなくなったのである。これは近年において州内あるいは全国的に市民の権利を明確にした二,三の判決の一つである。自由国家においては,如何なる問題であれ,少数者が多数の意見を変えようとする自由を認めなければならない。カナダ国民は,自由をそぐような偏狭に対してカナダの法廷が目付役をつとめていることを誇りとしている。k

信仰の自由

カナダの最高法廷は,多数意見によって,カナダにおける市民の自由の根抵となる重要な原則を確立した……すなわち,州あるいは市の如き下級の立法機関は,居住地にかかわりなく,憲法がこの国のすべての市民に保障する権利と自由を束縛してはならないということである。……ケロック判事は,問題の条令が広範囲にわたるもので色々に適用できるという重要な点を指摘した。これによると検閲者(この場合に警察署長)の許可がないものはいっさい配布できないことになる。問題は文書の内容である。この条令は政党や新聞の弾圧にも利用され得る。このように大きな権限を市の一役人に与えることは,その権力が行使されたか否かは別問題として,基本的な市民の権利を明らかに侵害するものである。これは決して憲法制定者の意志ではなかった。l

宗教の自由

エホバの証者にかかわる事件に対して最高法廷の下した判決は,宗教上の信念を実践する自由という大切な原則を打ち立てた……この原則を維持することは,称賛に値するものであろう……人の崇拝に干渉するのは悪である。干渉を受ける者の固守している信仰が一般に人気のないものであるという事実は,問題外なのだ。a

トム: ケベックの役人は,これに対してどうしましたか。最高裁判所の判決を尊重してそれに従いましたか。

ジョン: いいえ,とくにデュプレシス首相は従いませんでした。これはカナダの支部の僕の報告です,

1953年10月6日,カナダ最高裁判所はケベック州および市にかかわる検閲問題に対して判決を下しました。これはフランス語版をも含めて1953年11月22日号「目ざめよ!」を広く配布することにより全国的に知られるようになりました。この判決はケベックのデュプレシス氏を後退させる効果がありました。次に彼の悪名高い,不公平な法案38号がケベック州議会に提出されました。これは最高裁の判決を無視し,エホバの証者の圧迫をはっきりと目ざしたものです。法案は下院と上院の審議を経てのち通過し,早急に州法となりました。私たちに敵対する者たちは満足したことでしょう。しかしそれは長つづきしませんでした。デュプレシスとその法案に対する差止めの訴訟手続きが早速とられ,事件は係争中です。法案は現在のところ効力を持たず,ケベック州における御国伝道のわざは順調に進んでいるので,望み通りの結果が得られたわけです。

宣教者と特別開拓者は,おもにケベックにおいて福音の伝道にひきつづき励んでいます。今年の末にはケベックの19の土地から56人の宣教者が報告しており,それによるとケベックにおいて強固な神権的地歩が固められつつあります。時おり暴力や役人の干渉があり,宣教者に友好的な態度を示す人々は脅迫されたりします。しかし心の正しい人々が大ぜい真理の側に立っています。b

1959年がかなり経過しても,法案38号の件は,ケベックの法廷で係争中でした。c

形勢は逆転

それで偏狭に包まれたケベックの空気は,急速に吹き払われて行きました。青空があちこちに見え始め,以前に最も困難だった区域においてさえ,日光がさし始めました。カナダの支部の僕が協会の会長に書き送ったこの経験を聞いて下さい,

是非お知らせしたい,おもしろい経験があります。それは法廷の下した判決から兄弟たちが益を得ていることを示しています。これはモントリオールのある分会で起きました。ここは牧師が何時でもエホバの証者を監視している難しいところです。日曜日の朝,戸別訪問の最中に,牧師は若い者たちを集め,エホバの証者に圧迫を加えてその区域から追い出そうとはかりました。そこで兄弟の一人は牧師に向かい,我々にはこのわざを行なう権利があること,これ以上の妨害を受けるならば警官を呼ぶと告げました。牧師は,「警官を呼ぶがよい」とうそぶき,兄弟は警官を呼んだので,警官が早速やって来ました。牧師は警官を説得して証者をその地域から追い出させようとしましたが,兄弟の一人は,エホバの証者にこのわざを行なう権利のあること,それは法廷の判決により支持されている事であって,牧師の干渉すべき筋合いのものでないことを警官に説明しました。警官は,エホバの証者のしていることが合法である旨を牧師に告げましたが,牧師はそれに聞こうとせず,「法廷の目から見て合法であろうと,彼らは我々のとりきめに一致していない」と論じました。事の是非を正して話そうと努めても,牧師が聞かないのに腹を立てた警官は,訳のわからないことを言うなら警察署まで来てもらいましょう,と言いましたが,牧師は一向に動ぜず,議論をつづけたので,警官は言いました,「車に乗って下さい。本署に来てもらいましょう」。d

ロイス: これほど形勢が逆転するとは,思いもよりませんでしたわ。でもエホバの証者が人間に従うよりも神の御心を行なうことに熱心であったからこそ,こういう結果になったのですね。

ジョン: そうです,しかもこれはエホバの証者がケベックで得た勝利の全部ではありません。きわめて不利な事態にもめげず,彼らは確固とした立場を守ったので,伝道活動をつづける自由が保証されたばかりか,清い崇拝に対するその立場の正しいことが証明されました。

「神とキリストおよび自由に対する,ケベックの燃える憎しみ」のパンフレットを使った運動に対し,ローマ・カトリック教会が報復に出た一例について前にお話したことを覚えていらっしゃると思います。それはカナダの支部の僕が協会の会長に送った年次報告にしるされている事件です。報告はこう述べていました,「1946年12月4日,『教会』の手先でファシスト気質のモーリス・デュプレシス,ケベック首相は,兄弟たちの保釈金を用立てたというだけの理由で,あるエホバの証者が手広く営んでいた商売を故意につぶした。これがかえって彼とその一味の敗北を招いたのである」。e

この兄弟はモントリオールで有名なレストランを経営し,391の事件の保釈金を用立てました。それだけの理由でデュプレシスは,この兄弟の持つ酒類販売の免許をとり消したのです。フランス色の濃いモントリオールの町でこれは,デュプレシスがレストランの入口に錠をおろしてしまったのと同様,商売にとって大きな打撃でした。カナダの支部の僕の言う,意外にも首相の敗北を招くものとなったのは,カナダ全国に湧き起こった世論でした。しかしデュプレシスの偏狭な仕打ちが,あたかも平手打ちのように彼の身に痛手となって振りかかってきたのは,その後のことです。

[脚注]

a (ル)「目ざめよ!」(英文)第30巻,1949年5月8日号,5頁。

b (オ)「目ざめよ!」(英文)第32巻,1951年3月8日号,3,4頁。

c (ワ)「目ざめよ!」(英文)第31巻1950年4月8日号,3-9頁。

d (カ)右に同じ。9頁。

e (ヨ)〔1951年〕S,C,R,265,285,291。

f (タ)1952年度年鑑,107頁

g (レ)1951年度年鑑,123頁。

h (ソ)「目ざめよ!」(英文)第34巻,1953年11月22日号,4頁。

i (ツ)「目ざめよ!」(英文)第30巻,1949年1月22日号,3-7頁。4月8日号,21-24頁。

j (ネ)カナダ旧州の185年の法令,14-15ビクトリア,C,175。

k (ナ)オッタワ,オンタリオ,イブニング,シチズン,1953年10月7日。

l (ラ)トロント,オンタリオ1953年10月8日付グローブ,アンドメイル。

a (ム)モントリオール,ケベック,1953年10月7日付ヘラルド。

b (ウ)1955年度年鑑113,114頁。

c (ヰ)1959年度年鑑113,114頁。

d (ノ)カナダ支部の手紙,A/AS 1959年1月27日,259号。

e (ク)1948年度年鑑,101頁。

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