神の目的とエホバの証者(その56)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第34章 御国支配の40年を終えて50年目を迎える
ロイス: 今まで3ヵ月のあいだ,話していただいた事は思いもかけないほど,重大な出来事ばかりでした。実はあの最初の嵐の晩,マリアとあなたがいらした時,私は懐疑的でした。もちろん世界の情勢が一向によくならず,私の子供の時分とくらべて世の中が変ったことは知っていましたが,実際の原因と結果をつきとめるほど,この問題を真剣に考えたことはありません。今度のお話を聞いて考えをあらたにしました。
ジョン: それはよかったですね。というのは,エホバの証者の現代歴史のうち今晩の話は1954年と1955年を中心にしているわけですが,ここで私たちは現代史上,最も重大な出来である神の御国の誕生に注意を向けるからです。イエス・キリストが御父の右にあって王となり,支配する「神の国」は,1954年の10月1日頃,敵の只中における支配の40年目を終えました。1914年,第一次世界大戦の最中に支配を始めた神の国は,第二次大戦後,御国に敵対してきた東西両陣営の「冷戦」のさなかに40年目を終えました。神の目的の時と季を知るエホバの証者は,歴史上の出来事の発生に周期性を認めて1954年に関し,不吉な預言をした一部の宗教家に加わるとなく,御国の40年目を迎えました。エホバの証者は御国奉仕にいっそう働くことを計画しつつ,1954年を迎えたのです。その年の年鑑は次のように述べています,
エホバの御国の40年目を迎えたいま,手をゆるめることができるだろうか。そうではない。むしろ今を去る1900年以上の昔,イエスが杭につけられたことを思い起こすべきである。イエスは宗教家と政治家との陰謀によって苦しめられ,殺された。それはイエスの弟子たちにとって打撃であったに相違ない。この耳目をひく出来事が起きたのは西暦33年であった。イエスの弟子たちにとって事態は暗黒であった。彼らはそれよりも前,イエスによって伝道のわざに遣わされたのである。しかし時を経て五旬節の後,弟子たちはひるむことなく家から家に伝道をつゞけた。さてこの組織制度の終りの時にあたり,今まで何年にもわたって良いたよりを伝道してきた我々は,手をゆるめるべきだろうか。活動をやめて引退すべきであろうか。そうすることはできない。1914年,1918年,1931年,あるいは以前のどの時にまして,いま我々は御国をはっきりと認めることができる。我々は御国の力を感じ,その働きを見ている。ゆえにイエスの使徒たちと同じく,我々はエホバ神の栄光ある御国の音信を宣明し,教えつゞけなければならぬ。前途には大きなわざがある。新世社会はこれをなし遂げるであろう。a
1954年3月,アメリカが太平洋で新型の水爆を実験した時にも,エホバの証者は将来に対する恐れを抱きませんでした。心を騒がせることなく,彼らは更に多くの奉仕者を野外に送り出して設立された神の御国にいっそう大きな証を立てました。その年の3月,アメリカでは15万4367人の奉仕者が伝道活動を報告し,b翌4月にはこの最高数を更新する16万9015人が報告しました。c 他の国においても増加が見られ,1954奉仕年度の終わる8月末には全世界で58万498人の伝道者という最高数に達しました。これは前年にくらべ,一躍6万516人の増加です。d
移り変わる時を証しする
キリストの治める神の国のみが永続する平和の時代をもたらすとの証拠が全地にわたってますます明らかになるにつれ,万国の願わしい者が新世社会に集まり,神の目的の中に位置を占めるようになりました。エホバ神とその御約束に対する信仰のゆえに,彼らはそうすることを選んだのです。この世の「知者」は,このような信仰を持っていません。これら「賢い」人の多くは,時のしるしを見ていますが,その意義を理解していません。1955年3月1日号「ものみの塔」は「終りの時」と題する記事の中で次のことを述べています。
哲学者,科学者,賢人,そして歴史家というような,この世の「知者」の多くが,1914年以来に非常に変化が生じていると目覚く認めているのは,興味あるものです。哲学者バートランド・ラッセルは,そう古い昔ではありませんが,こう言いました。「1914年以来,世界は災難にむかって酩酊してよろめいている。」1945年3月30日付ワシントン・タイムズ ― ヘラルドの社説は,こう述べていました。「歴史において,全く『正常な』後の年は,第一次大戦の始まる前年,1913年であった。」原子爆弾の世界の指導的製造者の一人,ハロルド・シー・ウレイ博士は,次のように言いました。「我々は1914年以来,平和な世界を有してはいない。」(1951年12月9日,クリーブランド・プレイン・ディーラー)1954年8月1日,ピッツバーグ,サンテレグラムの社説記者は,こう述べました。「40年前に,世界は『黄金時代』から,血なまぐさい戦争の特色をもつ火山時代へと,一夜にして進軍した。」
1954年8月7日の日付であるカナダ・アルベルタのエドモントン日報の社説は,それ以上にこう説明しています。「20世紀の歴史が書かれる時に,戦争が欧州で一般普通になったあの日,1914年8月4日は,第二次世界戦争の勃発の日や,最初の原子爆弾の投下の日よりも,大きく見えるようである。その8月の日は,歴史の分割線であったと,我々は認め始めている。平和,進歩,そし安全の時代が終って,戦争と革命の時代が始まった。」コロムビア大学のバーナード単科大学,歴史学の準教授は,これと同じ観察をなし,1951年7月号の「科学日報」の中で,こう時きました,「我々の時代で転換点をなす年は,広島の年ではなくして全く1914年である。いまになってこそ我々は判るのであるが将来が第一次世界大戦以来,我々は混乱した過渡期に入ったのである。しかして,我々はその只中にいてよろめき,もがいているのである。」
さて1954年8月1日号のニューヨーク・タイムズの新聞は,2つの世界大戦を比較して,次のような結論に達しました,「第一次大戦は,歴史においてより大きな変化をしるしづけた。それは,一般平和の長い時代を閉ざし,暴力の新しい時代を始めた。第二次大戦は,その時代の中にあって,ほんの余事にすぎない。世界は,1914年以来に,新しい性格を持った。つまり国際的無秩序の性格である。…それで,第一次世界大戦は現代歴史の転換点である。」e
この記事は次のように意味深い言葉を述べています。
指導的権威者の用いた「現代歴史の転換点」「暴力の時代」「戦争と革命の時代」そして「火山時代」というような言葉を聞いて,嘲笑者たちは竦然とし,分別のある正しい考え方をすべきであります! 物事は,創造の最初の時から全くそのままであるなどということは,決してありません。「終りの時」が来ています。「最後の日」のしるしは,目に見えて明らかなことです。1914年以前の歴史で,これらすべてのことが,一時代の中に一度に起ったということはありません。f
訓練計画のはじまり
神と隣人に対する責任を十分に認識していたエホバの証者は御国奉仕の40年を終え,確信を抱いてその50年目を迎えました。そしてハルマゲドンに不意に襲われることのないよう,更に大ぜいの人が安全を求めて急ぎ逃れるのを助けたいと決意していました。
これはいっそう緊密な個人の組織と野外宣教の拡大を意味します。そのため協会では,巡回および地域の僕の会衆訪問を強化し,また能率の向上を図りました。すでに新世社会の大会においてこの準備が完了し,広範なプログラムは1953年9月1日から始められました。御国伝道者各人の宣教改善をはかるこのプログラムに関して,大会の報告は次のように述べています。
大会,水曜日の朝,エヌ・エイチ・ノアは家から家の訓練計画を発表して聴衆を涌かせた。この計画に大きな役割をはたす地域および巡回の僕は中央前部の席に座って,「すべての僕のおもな務」― 定期的な家から家の奉仕者となるようにすべての伝道者を助ける ― を説明するノアの話に耳を傾けた。
「すべての人が家から家に良いたよりを伝道できなければなりません」と,ノアは語った。これがおもな目的であり,今後すべての巡回の僕は家から家の訓練に留意するであろう。
組織の能率を改善するため,いくらかの変更が実施された。巡回の僕は一定のスケジュールに従うことが定められ,再訪問と研究を含めて家から家のわざに毎月最低100時間を費やすことになった。週の間に巡回の僕は,家から家に伝道できる円熟した人を選び,その人々が新しい,未経験な伝道者と一諸に働くようにとりきめ,訓練計画を組織する。
地域の僕は今後,巡回の僕と共に2週間過し,その奉仕を観察して必要な助言を与えるようにする。g
1954年のあいだ,月を追って訓練計画の詳細が「通知」に発表され,支部組織の中に採用されました。h これによりすべての会衆において訓練計画が実施されるようになり,経験と資格のある奉仕者が,不定期あるいはそれほど成功をおさめていない伝道者,また新しい人に最も効果的な伝道の方法を教えるとりきめが説けられました。
戸口で3分から8分の聖書の話をすることが特にすすめられ,これは改善された伝道方法の一部となりました。i 御国奉仕のこの基本的な面で能力を改善するにつれて,今度は再訪問の面,すなわち善意者を再び訪問して10分から15分の聖書の話をすることが次第に強調されました。j
これと時を同じくして,街頭でまた家から家に「ものみの塔」と「目ざめよ!」を配布するわざが強調され,あらゆる機会に雑誌を配布することがすすめられました。この雑誌配布は1940年2月に始められたものです。k その結果,雑誌の需要が飛躍的に増加し,1954年6月,マサチューセッツ州ボストンで開かれた大会のおり,協会の会長はブルックリンにある協会の9階建印刷工場から道を隔てたところに13階建の印刷工場を新築する計画を発表しました。これはおもに雑誌の生産と発送に用いられます。
20年間にブルックリン印刷工場の「ものみの塔」および「目ざめよ!」の生産が急速に増加していることを見ても,新工場の必要は明らかです,1934年,協会が生産した雑誌は373万8545冊でした。1944年までにその数は1789万7998冊に増加し,1954年には5739万6810冊というぼう大な数に達しています。1953年から1954年までの1年間には,841万冊も増加しました!l 1955年の春までに新工場の基礎工事が始まり,夏の終り頃には土台が完成しました。a
トム: 1954年,ボストンで開かれたのは全国大会でしたか。
ジョン: いゝえ,それは一連の地域大会のひとつでした。1954年6月24日,マサチューセッツ州ボストンにおける大会をかわぎりに,4日間の地域および全国大会が夏のあいだ世界各地で開かれました。これはパキスタン,タイ国,インドネシア,韓国などを含め,6大陸と海洋の島々で開かれています。b
ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会が1884年12月13日,法人化されてから丁度70年目にあたる1954年,協会は登記事務所の建物をペンシルバニア州ピツッバーグに新築,完成しました。その所在はパークマンアベニュー,ビゲロウブルバード4100です。c
1954年9月4日,協会の役員によって献堂式が行なわれ,1954年10月1日,金曜日,会長を司会者として協会の年次総会がはじめてこの建物で開かれました。出席した820名の人々は500名を収容する講堂と地下室の付属講堂をいっぱいにしました。当時のものみの塔聖書冊子協会を構成する484人のメンバーについて,次の興味深いことが述べられています。
法人のメンバーは全地にわたる新世社会をよく代表するもので,その国籍は29ヵ国を含み,アメリカの48州とコロンビア行政区,合計して69ヵ国において奉仕している。この人々は円熟しており,その3分の2は残れる者である。その平均年令は60歳に近く,12人を除いては,1940年以前から御国奉仕に携わっている人々であり,大多数の人の奉仕は25年以上にわたっている。世界各地に散在しているため,その大部分は委任投票を行なった。d
[脚注]
a (イ)1954年度年鑑,27,28頁。
b (ロ)1954年5月,「通知」。
c (ハ)ロに同じ。1954年6月。
d (ニ)1955年度年鑑,38,42頁。
e (ニ)1955年「ものみの塔」,86,87頁。
f (ホ)ニに同じ。87頁。
g (ト)エホバの証者の新世社会の大会報告,1953年7月23日,21頁。
h (チ)通知。1953年9月,1頁。1954年6月,1頁。
i (リ)チに同じ。1953年11月,1,2頁。1954年3月,3頁。1954年5月,3頁。
j (ヌ)チに同じ。1954年11月,1,3,4頁。
k (ル)チに同じ。1940年1月,4頁。
l (オ)1955年度年鑑。72頁。
a (ワ)1956年度年鑑,70頁。
b (カ)1954年ものみの塔(英文),713頁。
c (ヨ)1954年ものみの塔(英文),745-747頁に記事と写真。
d (タ)ヨに同じ。746頁。