神の目的とエホバの証者(その57)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
1955年は一致した行動で始まる
1955年を迎えて,設立された神の御国の,敵の只中における支配は50年目にはいりました。エホバの導きの下に証者たちは確信を抱いて前進しました。御国伝道者の野外活動に一般的な導きを与え,全世界の伝道活動を更に統一するため,64頁の新しい奉仕の冊子,「親密一致の伝道」が1955年1月1日に発表されました。
「親密一致の伝道」を発表するのは協会の喜びです。この新しい冊子は,「エホバの証者に対する神権制度の助言」にかわるものです。これによりエホバの民はいっそう緊密に協力し,エホバが新世社会を今後とも発展させるにつれて,互の関係を更にはっきり理解できるでしょう。
この冊子には伝道のわざに一致して働くことが終始,強調されています。これは世界的な規模のもので,すべての国において会衆と孤立した群れを問わず,献身したエホバの僕のすべてに適用されます。すべての人は一致して働き,エホバの御目的をはっきり理解するように善意者を助けなければならないからです。この冊子によってエホバの証者は御国のわざのあらゆる面で最新の教訓に従うことができ,宣教を全うするために努めつゝ,理解し合うことができるでしょう。a
1955年のはじめ,法廷において重大な判決が下されました。1月7日,スコットランド,エジンバラ地方刑事裁判所はウォルシュ対検事総長事件の判決を下し,エホバの証者は宗教宗派であるが,その開拓奉仕者と会衆の僕は,1948年英国兵役法の定める宗教の「正規の奉仕者」ではないとの要旨を述べました。この判決の不利な部分は,エジンバラ高等司法裁判所に上訴されましたが,1955年7月21日,3人の判事全員の一致した意見により不利な判決が下されました。b そこで事件は英国の終審裁判所であるロンドンの上院に提訴され,1956年7月19日に次の判決が下されました。
今年ウォルシュ事件の聴聞が上院で行なわれた。5人判事の法廷は,エホバの証者に牧師と平信徒の区別がなく,従って他の人にまさる霊的な地位を与えられるいわれがないとの理由で,エホバの証者の中に「正規の奉仕者」はいないと述べた。従って宣教を天職とする開拓者も,法律の定めによって牧師の得る特権を与えられないことになった。エホバの証者の会衆を監督する奉仕者も同様である。兄弟たちはこの判決に落胆するどころか,エホバによって「任命され」ていることが決して空しくないことを証明しようとの意気に燃えている。c
1955年のはじめ,当時まで協会の行なったもののうち,最も広範な特別配布運動が全世界で始められました。世の宗教組織全部に対する裁きとして,「キリスト教国それともキリスト教 ― 世の光はどちらですか」と題する音信が宣明されたのです。1955年4月3日,全世界にわたり30ヵ国語でこの題による同一の講演会がいっせいに行なわれ,この運動の幕は切って落されました。講演の終りに同じ題の32頁の冊子が発表され,出席者全員に無料で配布されました。全世界では50万人以上がこの力強い講演を聞くために集まっています。1955年2月10日付の会長の手紙によると,この冊子は10ヵ国語で1000万冊発行される予定でしたが,協会の支部の熱心な要望にこたえて実際には30ヵ国語で2100万冊以上も印刷されました。d
冊子配布は講演会につづいて始められ,何千人の善意者がはじめて配布に参加しました。これにより62万5256人という伝道者最高数が4月に報告されています。善意者は大いに目ざめ,4月7日,木曜日晩の主の夕食には87万8303人という前例のない大群衆が集まりました。しかし,このうち天国に召された人々の残れる者であることを表明したのは,1万6815人だけでした。e
4月と5月のあいだにこの冊子は88ヵ国に達し,わずか2ヵ月間に驚くほど多く配布されました。それはエホバの証者が禁令下にあったドミニカ共和国,アルゼンチン,スペイン,ポルトガル,東ドイツなどにおいても配布されたのです。やや時を経てキリスト教国の教職者は直接に注目を浴びるようになりました。f
エホバの証者が1月から4月まで行なった「ものみの塔」の予約運動においても,この「電撃的」配布と平行して4月末までに40ヵ国語で56万2228の予約が得られました。これは1939年,5ヵ月にわたって行なわれて以来,例年の運動で,今回はその17回目でした。第1回の運動では9万3000の予約がアメリカで報告されています。g 「慰め」の予約運動がはじめて行なわれたのは1938年のことで,そのときアメリカにおいて3ヵ月間に7万3006の新しい予約が得られました。h
勝利の御国大会
御国支配の50年目を迎えた1955年は,新世社会の最大の大会が開かれたという点でも特筆すべき年です。6月22日,水曜日に始まったこの大会は,8月28日,日曜日,何千マイルも離れた場所で成功裡にその幕を閉じました。
トム: 大会は順を追って各地で開かれたようですね。それは1951年の清い崇拝大会と同じ仕組のものでしたか。
ジョン: そうです。ただ規模がはるかに大きなものでした。10週間の期間に開かれた13の大会に合計40万3682人が集まって講演を聞き,1万3016人が浸礼を受けて献身を象徴しました。発表されたおもな出版物は,ヘブル語聖書新世訳第2巻,「奉仕者になる資格」「あなたはハルマゲドンを生残って神の新しい世にはいれる」です。年鑑を読んでみましょう。
北半球の夏が始まると同時に,エホバの証者はイリノイ州シカゴに集まり,5日間の好天に恵まれて「勝利の御国」大会の幕を開いた。日曜日午後(6月26日),巨大なコミスキイ・パークには4万2116人が集まって,「神の御国による世界支配は近し」と題する講演を聞いた。
その後何週間にもわたって大群衆が世界各地に集まった。心を躍らす大会の2番目はブリティシュ・コロンビアのバンクーバーで開かれ,次いで大会の舞台はアメリカで最大の大会となったカルフォルニア州ロサンゼルスに移り,次にテキサス州ダラスをへて最後にニューヨーク市に至り北アメリカ大陸における大会の幕を閉じた。西半球における最大の大会は,世界的に有名なヤンキースタジアムに5万5009人を集めて開かれた大会であった。エホバの証者がここで大会を開いたのはこれで3度目であるi
「第二次世界大戦における連合軍の進攻以来おそらく最大のもの」といわれた「アメリカ人のヨーロッパへの集団移動」jなるものが,つづいて行なわれました。
二隻の客船アロサ・クルム号およびアロサ・スター号のほか,42台の飛行機がものみの塔協会によって貸切られた。客船は浮かぶ大会会場となり,乗船者の益のために特別なプログラムが準備された。
新しい集まりの場所にむかって進む
最大の大会となったのは,ドイツ,ニュールンベルグの巨大なツエッペリンワイズで開かれたものでした。第二次世界大戦以来,エホバの証者がこの施設を利用するのは,これで3回目です。ヒットラーは1週間のラリーの会場としてこれを建築し,ナチの力と威信を示そうとしました。k
エホバの証者を根絶しようとしたヒットラーの第三帝国の手で激しく迫害されたドイツのエホバの証者にとって,また御国の設立以来40年目の御国の音信にとって,8月14日,10万7423人が集まって心をふるいたたせる講演,「神の御国による世界支配は近し」を聞いたことは,何と大きな勝利だったのでしょう。別の時「兄弟のよしみと善意のうちに開かれた〔エホバの証者の〕おだやかな集まり」について,ある論説記者の書いた言葉はツエッペリンワイズにおけるニュールンベルグ大会にもあてはまるものです。
疑いなく今は最も危険な時代である。しかし武器もなく,おだやかな人々が歴史上いちばん危険な時代に登場した。破壊者が時代の脚光をあびるのは常であるゆえに,この人々はそれほど目立たなかったかも知れないが……。
しかしそうとも言えぬ。一見したところ無力な,陰険なところのないこの人々の中には,何か不思議な力がひそんでいるように見える。アティラやヒットラーのような流血の侵略者の中に成功をおさめた者があるだろうか。どんな場合にも彼らは汚名の記念碑を残した。しかしこの「無力な人々」は彼らの墓を乗り越えて新しい集まりの場所にむかって進んで行く。
そこで柔和な人々は実際にあやうきにいるのではない。彼らの持つ約束された遺産を奪おうとすることこそ,最も危険な賭けなのである。l
たしかにエホバの証者は前途の危険を恐れていませんでした。年鑑は大会に関する記事を次のように結んでいます。
このすばらしい「勝利の御国」大会をもってエホバの証者の奉仕年度は終了したが,エホバが容れるところのないまでに大きな祝福をそそぎ,1956奉仕年度のいっそうの拡大を目ざす制度の態勢がととのえられたことには,少しの疑問もない。すべての国民,民族,言語の中から「大ぜいの群衆」が崇拝のためエホバの宮に来つつある。新世社会はその人々を受け入れ,至上支配者に専心の献身をささげるように教え,援助することを願っている。a
部分的な報告によれば,各国における大会の閉幕後,25万7124冊に上る冊子「キリスト教国それともキリスト教 ― 世の光はどちらですか」が証者の手によって教職者およびおもな出版物の編集者に宛て,送られました。この冊子を受け取ったことに対する反応は,怒りあるいは悲しみを表わしたものから,条件つきの賛成あるいは好意にみちたものに至るまでさまざまでした。b
第二次世界大戦後10年を経た1955年までに,毎年2回,25回にわたってものみの塔ギレアデ聖書学校に学生が入学しました。1943年のギレアデ創立から1955年夏に至る12年半のあいだに,59ヵ国から2721人の学生が入学し,そのうち2631名が所定の課程を終えました。病気,学業不成績その他の理由で落伍したのは90人です。2487人が卒業証書を授与され,144人は学業成績が所定の水準に達しなかったので卒業証書を授与されていません。課程を終えた者のうち,1136人はアメリカを除く58ヵ国から呼ばれた奉仕者で,1495人はアメリカ国籍を持つ者でした。なお833人が独身の男子,796人が独身の女子,既婚者は1002人となっています。さて1955年当時,これらの宣教者はどこにいて,何をしていましたか。
記録をしらべると,北アメリカ12ヵ国で働くギレアデ卒業者は663人を数え,そのほか144人が大西洋,カリブ海,地中海諸島の国々に,340人が南アメリカに任命されています。ヨーロッパでは278人が伝道しており,アフリカには108人が34ヵ国にいます。アジヤにおいては18ヵ国に186人が散在し,太平洋諸島で神権的な務に励む宣教者は85人いました。
宣教者の働く国々における拡大すべてが,宣教者の精力的な活動によるものではないにしても,進んだ神権的訓練を受けたこれらの宣教者が時間を惜しまず人々の家で熱心に伝道したことは,わざを進める大きな力となり,また他の人に対する手本ともなりました。ギレアデ創立前の1942年,北アメリカには7万5589人の伝道者がいました。これとくらべて1955年における伝道者の人数は23万6124人を数え,人口922人当り1人のエホバの証者という割合になっています。大西洋,カリブ海,地中海諸島についてこれを見ると,971人に1人の証者がおり,伝道者の総計は1942年の1297人とくらべて1万9615人に増加しています。南アメリカにおけるこの比率は余り高くなく,6435人に1人のエホバの証者,合計して1万8800人がいるに過ぎませんが,それでも1942年当時の807人にくらべれば著しい増加です。ヨーロッパにおいては22万7374人の証者で1746人に1人の割合となっています。しかし1942年には2万2796人でした。アフリカ大陸は1942年の1万70人にくらべて1955年には9万8146人の伝道者を数え,2068人に1人の証者という比率を示しています。アジアは「暗黒」大陸と言えるでしょう。1955年における伝道者の総数は4541人で,28万人に1人の証者がいたに過ぎません。しかし1942年にはわずか406人の証者がいただけです。太平洋諸島では1942年の4275人が1955年までに3万8325人に増加しており,2800人に1人の証者という比率になっています。
大ぜいの群衆が集められていることは明らかです。第二次世界大戦中,とくにヨーロッパにおける増加は著しいものでしたが,世界的に見ると,とくに1945年以降,増加の著しいことが分かります。たとえばアメリカについて見ると,1956年度年鑑はこう述べています。
アメリカのエホバの証者は,かってない最高数18万7120人の伝道者が良いたよりを伝道したことを考え,1955奉仕年度中に与った特権に喜んでいる。過去の年月を回顧すると,1940年には5万8000人の伝道者がいたに過ぎない。それから1946年まで,その年を含めて7年間,伝道者の人数は5万8000人から6万6000人であった。それ以来,多少の差はあっても毎年約1万2000人の新しい伝道者が加わって,着実な増加がつづいている。c
1942年には全世界で11万5240人のエホバの証者が良いたよりを伝道し,1945年にはその数が14万1606人であったことにも留意して下さい。1956年度年鑑は更にこう述べています。
過去10年間を振り返ってみると,エホバ神が御自身の見える制度を用いて50万人の善意者を集め,養われてきたことを見て感慨をあらたにせざるを得ない。このすべての人々は自分の立場を表明し,資格を持つエホバの証者であることを証明した。新世社会は10年のあいだに50万人の増加を見たのである。d
このようにして御国支配の50年目を迎えたエホバの証者は,64万2929人を数えたことになります。将来の発展は確実でしたが,増加する反対にも直面しました。新聞およびラジオの報ずるところによれば,ポーランドでは1955年3月,5人のエホバの証者がアメリカのスパイとして偽りにも告訴され,長期の徴役を宣告されました。マルコ伝 13章9節およびルカ伝 21章12節は,この「終りの時」にあってなおエホバの証者の上に成就しつつありました。
[脚注]
a (レ)1954年12月「通知」,1頁。
b (ソ)1955年「ものみの塔」(英文),329-332頁。
c (ツ)1957年度年鑑,101頁。
d (ネ)1955年3月-6月,通知。
e (ナ)1956年度年鑑,40頁。
f (ラ)1955年6月,通知,2頁。
g (ム)1940年度年鑑,57頁。
h (ウ)1939年度年鑑,62頁。
i (ヰ)1956年度年鑑,42,43頁。
j (ノ)1955年8月5日付,星条旗紙,ヨーロッパ版。
k (ク)1956年1月8日号「目ざめよ!」(英文)第37巻,13頁。
l (ヤ)1958年10月,アメイジイング,第32巻,5頁。
a (マ)1956年度年鑑,43-45頁。
b (ケ)マに同じ。288頁。
c (フ)1956年度年鑑,66,67頁。
d (コ)フに同じ。286頁。
[158ページの図版]
ギレアデ聖書学校構内を上から見る; 中央,本館; 左上,図書館