神の目的とエホバの証者(その58)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第35章 雲のようにむらがる現代の証者は忠実な歩みを進める
トム: ポーランドのエホバの証者が共産主義者から受けた迫害のことをお聞きして思い出したのですが,朝鮮動乱の話はまだ出ませんでしたね。そのとき韓国のエホバの証者はどんな状態でしたか。第二次世界大戦前,朝鮮に出先事務所がおかれたということを前に聞きました。
ジョン: そうです。1931年にそれは二人の兄弟の手で運営されていました。しかし御存知の通り,1939年から1945年までわざは全面的に禁止され,1945年になってようやく禁令が解除されましたが,朝鮮におけるわざを監督していた兄弟は死にました。刑務所から釈放される時のきたとき,奉仕できる兄弟は半数だけで,あとの人々は獄死したり,あるいは病気になっていました。
8年間にわたって朝鮮の兄弟たちは制度との連絡を絶たれていましたが,それでもある兄弟たちは伝道すべき善意者が大ぜいいることを知っていました。それであるだけの文書が集められ,たちまち配布されました。ついで,1948年,協会は訓練された宣教者を朝鮮に派遣することをきめ,ものみの塔ギレアデ聖書学校を卒業した最初の二人が1949年8月9日に到着しています。宣教者はさっそく兄弟たちを組織して野外奉仕を始め,最初の月に8人の参加を見ました。
朝鮮動乱のあいだ宣教者は日本に引きあげを余儀なくされ,共産軍の京城占領と共に兄弟たちは逮捕されました。しかし3ヵ月後に釈放され,京城が2度目に共産軍に陥る前,南に逃れる人々と共に兄弟たちも避難民となって散らされました。間もなく大邱,釜山,大田,群山などに新しい会衆が組織され,1951年11月になってアメリカ人宣教者の一人が朝鮮に戻ると共に朝鮮の兄弟たちは再び組織されて1953年8月には407人が報告しました。1953年9月1日,京城に支部がおかれ,急速な増加を見ることになったのです。宣教者がはじめて到着してから10年後の1959年には,最初の8人から3456人にまで増加していました。その間における戦争にもかかわらず,このような増加が見られたのです。a
第二次世界大戦後におけるヨーロッパでのわざの拡大にも,大きな困難が伴ないました。これは共産主義の勢力が強かった国々でとくにそうです。ついで1948年以降,ロシヤの鉄のカーテンが次第にヨーロッパにおりるにつれて,何千人のエホバの証者は多くの面でナチス時代の迫害よりも激しい迫害にあうようになりました。強制収容所から釈放されて3,4年を経たか経ないうちに,多くの証者は再びこのような悪魔的収容所あるいは鉱山に強制的に送られ,なお悪いことにシベリヤに追放された者もいました。東ドイツだけでも男女とも1016人の証者が合計6865年の刑期を宣告され,1953年までに殺された人の数は14人に上っています。b 1958年にはなお440人が刑務所にいました。c
別の例はポーランドの証者たちの悲劇的な物語です。第二次世界大戦のはじまる前,狂信的なローマカトリック教職制度の激しい迫害に耐えて,すでに何年ものあいだ勇敢な地下活動をつづけてきた1039人の証者がいました。d ナチスの専制から解放されたのは喜びでしたが,それもつかの間のことでした。公の活動が自由になると,この国における神権的な崇拝はただちに再組織され,1946年に奉仕者の人数は6994人の最高数に達しました。e いっそうの拡大を目ざして組織するのを助けるため,f1947年にはギレアデの宣教者が到着し,その結果,1948年には1万385人の奉仕者が活発に伝道していました。g この人数は驚くことに1950年には1万8116人にまで増加したのです。h
ついで1950年,ポーランドは鉄のカーテンの背後にはいり,エホバの証者はその年に禁止されました。6月21日に支部が閉鎖され,重立った人々は逮捕されて長期の刑を宣告されました。会衆内の僕たちの大多数,他の兄弟たちが国中で逮捕され,残されたのは年老いた婦人,8ヵ月以下の幼児を持つ母親だけでした。これらの兄弟たちの多くは間もなく労働キャンプに送られましたが,伝道はそこでつづけられました。ギレアデ卒業の宣教者は追放され,ポーランドの証者は以前の「カタコム」活動に再び戻ったのです。それはエホバの新世社会に避難の場所を求める多くの「他の羊」のために,クリスチャン崇拝の光を掲げつづけるためでした。i
チェッコスロバキアの証者も,クリスチャンの自由のために戦う真の戦士であることを示しました。1938年,ヒットラーが自由を奪う前に1166人の活発な奉仕者がいました。j ヒットラーの弾圧下にあって証者は地下にもぐり,エホバ神の忠実な僕たちは限られてはいても交わりをつづけていました。1945年,ヒットラーの没落と共にわざは急速に復興され,k1946年には1209人の証者が活動しています。l 1948年,チェッコスロバキアが鉄のカーテンの背後に消え去った時,ここでも証者は禁止され,11月末に支部が閉鎖されたほか,大ぜいの兄弟が逮捕されました。a しかし収穫のわざはとどまることなくつづけられて,1950年には2882人がエホバの御国を活発に伝道しており,bその数は1951年には3705人に増加しています。c
時間があればユーゴースラビアd,ブルガリア,ハンガリーe,ルーマニアfなどの共産主義国にいる証者についても,同様な経験を物語ることができます。ロシアにおいてさえ,1948年には8000人以上のエホバの御国の奉仕者がいて数多くの巧みな方法により聖書の伝道をつづけていました。g また何千人の証者がシベリアに追放されたと伝えられています。1954年についてみると,これら鉄のカーテン背後の国々で6万4123人の証者が活動しており,h1959年までにはこの数が12万3000人に増加しています。i いま協会では,鉄のカーテン背後の各国政府にその国土に住む真のクリスチャンの数を知られないため,各国別の数字を発表していません。
ロシアの共産主義指導者に請願
ロシアのエホバの証者がひどい仕打ちを受けていることは,1956年,全世界で開かれた地域大会において世界の注視を集めました。「目ざめよ!」は次のように述べています,
エホバの証者の1956年度地域大会の著しい特色は,ソ連のニコライ・ブルガーニン首相にあてた請願が提出されたことである。これはたいてい土曜日の晩に行なわれた。請願は鉄のカーテン背後とくにロシアとシベリアにおける証者の待遇に関するものである……
最近の報道から明らかになった,ロシアとシベリアにおけるエホバの証者の迫害の程度がまず述べられている。j
マリア〔話にはいる〕: ちょっとごめんなさい。請願と決議にあげられていた数字がここで興味深いと思いますが……
ジョン: そうだね,ではそこを読んでごらん。
マリア〔読む〕:
過去の2年間に,有名なニュース通信や,母国に送還された人々のもたらしたロシヤのニュースによると,(1)ボルクタ収容所内には,約2000人のエホバの証者が居るか,もしくは今まで居りました。(2)1951年の4月の初めに,バルチック諸州からベサラビアまでに至る地域で,約7000人のエホバの証者が逮捕され,トムスクとイルクックのあいだ,およびシベリヤのバイカル湖近くの辺地に貨車で移送されました。(3)ヨーロッパ・ロシヤからシベリヤにかけて,また北は北極海にまで至る地,更には北極のノバヤ・ゼムルヤ島にもある50以上の収容所に,エホバの証者が収容されています。(4)これらの多くの証者たち,特に前に述べました7000人の多くは,シベリヤ抑留の最初の2年間に栄養不足のために死にました。k
ジョン: ありがとう。「目ざめよ!」の報告は次のようにつづいています,
請願は,政府が客観的な調査を行ない,証者を釈放し,他の国々におけると同様な組織を持つことを許すように願い,またロシヤの証者がアメリカ合衆国にある統治体と連絡を保ち,宣教に必要とする聖書文書の出版と輸入を許可するように願うものであった。l
ついで請願は事実の陳述にうつり,エホバの証者の活動とその聖書的な理由を述べ,政治的利害や背景は少しもないことを言明し,これらのクリスチャンは聖書の教えを固く守るゆえに世界中で認められていることを指摘すると共に,ソ連政府は,イエスの弟子がイエスの名のゆえにすべての国民から憎まれ,迫害されると語ったイエスの預言を成就する責任を負うことを望むだろうか,との問を投げかけていました。そしてマタイ伝 10章16節,24章9節が引用されています。再び「目ざめよ!」の記事を読むと,
結論として請願は,エホバの証者の統治体の代表がソ連政府の代表と会談することを提議し,証者の代表がこの目的およびエホバの証者が抑留されている収容所を訪れる目的でモスクワに行くことを提案している。そして次のように述べていた,
「現在のところ,我々の為し得る事は,ロシヤの刑務所,懲役収容所,および追放者収容所にいるエホバの証者の事柄を全世界に知らせることです。信仰を同じくする我々の友であり兄弟である彼らの状態を世界に知らせるのは,我々の義務であります。しかし,貴下ロシヤの政府が,エホバの証者をそのような場所から自由に釈放し……た,ということを我我は世界に告げたい,と望むものです」。
請願はすべての大会において熱心に迎えられ,満場一致で可決された。1956年6月下旬から1957年2月にかけて,これは199の大会において46万2936人によって可決された。大会責任者4人が出席者に代って請願書3通に署名し,1通をブルガーニン首相に,1通をその地のソ連大使に,1通を協会の本部に送った。更に請願書は報道機関にも提出され,一般にも報道された。a
アメリカだけでも1500に余る新聞がこの請願に関する記事を載せました。ついで1957年3月1日,全部をまとめた請願が,ものみの塔協会の理事7人の手によって署名され,ソ連政府に送られました。共産主義者はこれを受け取ったことについて一言もせず,回答を寄せることもしませんでした。
[脚注]
a (イ)協会の会長事務所に送られた1959年4月の報告。
b (ロ)1954年度年鑑,161頁。
c (ハ)1959年度年鑑,126頁。
d (ニ)1940年度年鑑,160頁。
e (ホ)1947年度年鑑,214頁。
f (ヘ)1948年度年鑑,188頁。
g (ト)1949年度年鑑,22頁。
h (チ)1951年度年鑑,26頁。
i (リ)(チ)に同じ。242頁。
j (ヌ)1938年度年鑑,128頁。
k (ル)1946年度年鑑,119頁。
l (オ)1947年度年鑑,118頁。
a (ワ)1950年度年鑑,141-143頁。
b (カ)1951年度年鑑,24頁。
c (ヨ)1952年度年鑑,246頁。
d (タ)1944年の130人から1954年の1164人に増加。(1955年度年鑑,271頁)。
e (レ)1946年の837人から1954年の3265人に増加。
f (ソ)1946年の2191人から1954年の6072人に増加。(1954年度年鑑,240頁)
g (ツ)1949年度年鑑,223頁。
h (ネ)1955年度年鑑,38頁。
i (ナ)1959年4月,協会会長事務所の報告。
j (ラ)1957年4月22日号「目ざめよ!」(英文)第38巻,24頁。
k (ム)1957年「ものみの塔」214頁。
l (ウ)1957年4月22日号「目ざめよ!」(英文)第38巻,24頁
a (ヰ)1957年4月22日号「目ざめよ!」(英文)第38巻,24頁。