神の目的とエホバの証者(その59)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
ロシヤの証者は信仰を見出して守る
しかしソ連政府が鉄のカーテン背後における兄弟たちの精力的な伝道活動に気づかないはずはありません。「雲のようにむらがる証者」という意義深い見出しを掲げたワシントン・ポストの社説をごらん下さい。
ロイス: それは使徒パウロが聖書の中で昔のエホバの証者を呼んだ言葉ですね。あなたがいらした最初の晩,その聖句を読んだのを覚えています。
ジョン: 覚えていて下さいましたか。それはヘブル書 12章1節です。さてこれがその社説です。
ナチスドイツの支配者と同じく,共産主義ロシヤの支配者がエホバの証者に頭を悩ましていることは,プラウダ紙がエホバの証者のことを大きくとりあげて非難している事から分かる。証者はシベリヤ,カーガンなどの遠隔地を含むソ連邦領内全域において改宗者を得,政府に抵抗する,大がかりな地下運動を行なっている模様である。
プラウダは,この運動がアメリカ資本主義の最も反動的な分子から資金を得ており,その目的は,ソ連人民に柔弱と忍従の気風をうえつけて革命的プロレタリアートの世界的勝利をはばむか,おくらせようとするにあると,いう書き方をしている。その述べるところによれば,この運動を組織しているのは「元戦犯,ファシスト協力者,ゲシュタポ通報者」などで,ドイツの強制収容所において教育され,訓練されてきた。
これらの者が強制収容所で主義を吹き込まれたというのは,いわれのない事ではなさそうだ。
ロイス: 〔話をさえぎって〕でもそれは本当ですね。ソ連の捕虜が強制収容所でドイツ人の証者から真理を聞いた経験を沢山お聞きしました。
ジョン: そうです。それを実際に裏づける証拠がここにあるわけです。これは信仰を見出した霊的には若いこれらのクリスチャンがロシヤに帰ってのち,忠実と熱心を示したことを証明しています。
トム: それは戦争中アメリカの兵士が生死の問題に直面してはじめて抱いた信仰心とは違って,純粋の信仰であることを物語っていますね。
ジョン: 社説の記事はこう続いています,これらの収容所を生き残った,ほとんどすべての人が,収容所にいれられた証者の勇気と忍耐,おどしや苦しみにさえ耐えるその力を証言している。ドイツ人の証者と同じく,国家の支配を反キリストのものと見,歴史の黙示的な見方を受け入れた多くのロシヤ人捕虜が,これを見て感銘を受けたとしても驚くにはあたるまい。
いずれにしても,イエス・キリストの再臨がすでに長いあいだ歴史的な事実であり,目に見えないその支配が間もなく地上の目に見える国となって,サタンから出た,現存するすべての国が近くハルマゲドンの戦いで滅ぼされてしまうとする ― 証者の千年統治の教えは,全体主義,独裁主義形態の政治に支配される人々に大きく訴えるものであった。従って鉄のカーテン背後の信者を10万人以上とみる証者の側の推定も,信用するに足りる。またソ連邦の集団農場や工場において,証者が共産主義の圧倒的な支配と宣伝に抵抗していると非難したプラウダの記事にも真実性を認め得る。証者のがん固さは,アメリカにおいてその兄弟が兵役と国旗敬礼を強硬に拒否したのとも似たものであろう。a
プラウダの記事を論評したデラウエアー・ウィルミントンの一新聞の社説は,思慮深くも次のように述べていました。
エホバの証者を反政府活動の張本人呼ばわりしているこの国の超愛国主義者には,奇妙な仲間がいる。ロシヤ人も彼らと同じ意見である。しかし超愛国主義者と異なり,ロシヤ人は証者が共産主義化しているとは考えていない。
この社説は,「プロレタリアートの闘争精神を破壊することを目的に証者がドイツの強制収容所で訓練された」というプラウダ紙の非難を述べてのち,私たちの音信がなぜロシヤで改宗者を得ているか,その理由に言及し,更に次のように結語しています。
ロシヤにおいてこのような教えは人民の阿片ではない。せいぜいそれは武力によらない不従順を呼びかけるものに過ぎぬ。しかし圧迫された人々に対するその感化力は伝道者が夢想もしないほど強力なのだ。何にでも資本主義者のレッテルをはるプラウダが,この運動をウォールストリートの極悪な産物と見なしたのは当然であろう。しかしこの考えが馬鹿げたものではあっても,この宗教をソ連の国家にとっての潜在的な危険と見たプラウダは間違っていないかも知れぬ。b
共産主義以外の独裁者の下で信仰を守る
ロイス: エホバの証者が増加し,何者もそれを阻止できない理由がこれでよく分かりました。またヒットラーのような人が,たとえ証者は個人的に害を加えないと知りながらも,エホバの証者を非常に恐れた理由が分かるような気がします。この事を示す強制収容所における例を話していただきましたね。
ジョン: そうです。多くの国,中には共産主義でない国々においても,同様な事態が見られました。ギリシャは共産主義の国ではありませんが,兄弟たちは激しい迫害を受けました。牧師はエホバの証者を共産主義者,無政府主義者,国を守るために武器をとることを拒絶する売国奴呼ばわりし,御国の音信を携えて証者が訪れたならば,証者を避けるのみか,追い返してしまえと人々に訴えました。
独裁政治の行なわれているここギリシャでは,監督官庁の許可なくして公の集会を開くことが法律によって禁止されており,我々にこの許可が与えられることは決してない。従って我々は個人の家で集まるが,ここでも警官がしばしば踏み込んで兄弟,姉妹を警察に連行し,布教活動のかどで訴えている。「ものみの塔」をポケットに持っていたり,あるいはエホバの名を口にしたのを他の人に聞かれたため,路上で逮捕される兄弟が出ている。
十字架をきって偶像にせっぷんすることを拒絶した二人の兄弟が打たれて殺されたとき,迫害は最高潮に達した。c
しかしここでも役人の中には,だれが騒ぎの張本人かを知っている人がいました。ギリシャの支部の僕の経験はそれを物語っています。
南ギリシャのある島で兄弟たちは,牧師の手によるひどい迫害を受けている。兄弟たちは「ものみの塔」を研究したという理由で,次にはだれかに真理を証言したという理由で,更には雑誌を配布したというかどで法廷に引き出された。しかしたいていの場合,これらの告訴には根拠がないという理由で兄弟たちは釈放された。ある時,警官がこの地区にやってきたとき,牧師は急ぎ走り出て警官を迎え,エホバの証者が増加していると言って不平を申し立てた。警官の答えて言うには,「証者を増加させているのは,あなたがた牧師ですよ。福音を伝道して自分で証者をさがせばよいでしょう。断っておきますが,時おり証者を法廷にひっぱってきて騒ぎをおこすことは,もうやめて下さい。あなたがこのまえ訴えてきた証者は釈放されました。その人々はそれから村の真中のコーヒー店に行って『ものみの塔』を読んでいましたよ。もういちど言いますが,責任を負うべき者はあなたがたです。あなたがたの迫害のために,証者がふえるのです。以前,エホバの証者はこの村にいなかった。でも今はいます。そのうちにあなたがたは,法廷の判事さえもエホバの証者にしてしまうでしょう」。d
このようにしてギリシャにおけるわざは続けられました。ドミニカ共和国は別の例です。アメリカのすぐ南西にあるこの「共和国」は,1950年6月21日付でエホバの証者を禁止しましたが,e1956年8月17日になって何らの理由も公表しないまま禁令を解除しました。この期間に御国奉仕者は217人が469人に増加しています。f しかし1年たたないうちに警察は一部の兄弟たち,とくに会衆の僕を逮捕して乱暴な仕打ちをし始め,1957年7月24日に再び禁令が下ると共に,1957年8月3日にはアメリカ人宣教者10人が国外に追放されました。その中には1945年以来ドミニカ共和国に在住していた者もいます。
ドミニカ政府のこの強硬な措置に対し,1957年8月24日,メリーランド,バルティモアの大会に集まった3万3091人の代表者は請願を採決しました。この請願はドミニカのエホバの証者がどんな目にあったかを述べ,ドミニカの独裁者ラファエル・レオンダンス・トルヒロ元帥に対し,ドミニカ政府の威厳を示してエホバの証者に対する禁令を解除するように願ったものです。g
この請願は他の多くの大会および全世界のエホバの証者の会衆によって採決され,また請願と宣教者の追放は世界に広く報道されました。
1957年「生命を与える叡知」地域大会
トム: この決議を採決したバルティモアの大会はどんな大会でしたか。
ジョン: それは1957年の「生命を与える叡知」地域大会のひとつでした。これについて年鑑は次のように述べています。
ヨブ記,詩篇,箴言,伝道之書,ソロモン雅歌について,それぞれ特別な話が行なわれた。話の進むにつれて期待が高まり,遂にヘブル語聖書新世界訳が発表されて聴衆は大いに喜んだ。
黙示録冒頭の3章をとりあげたシンポジウムは,会衆の監督すなわち「星」として兄弟たちに奉仕する者にエホバが委ねた務と責任を強調した。霊的な宴の最高潮は,時宜にかなった公開講演「諸国民のいやしは近し」であった。この話をおさめた冊子も発表された。
これらの大会は,多くの兄弟たちにとって新しい賛美の生活にはいる端緒となるであろう。「必要の大きなところで奉仕する」ことがすすめられたからである。円熟した兄弟を必要とする他の国に大ぜいの兄弟が移り,そこで職を得て,御国のわざの拡大を援助できるようにと希望している。アメリカにおける大会は3万3091人を集めて開かれたバルティモアの大会を最後に閉幕したが,この大会ではドミニカ政府に宛て,わざを禁止し,多くの兄弟を苦しめていることに対して抗議する決議が採決された。14ヵ国における40の大会に集まった人の数は37万5000人に上り,エホバへの献身を象徴する浸礼を受けた人は,8070人あった。h
拡張をつづける御国の施設
「ものみの塔」と「目ざめよ!」を印刷する13階建の新しい工場が,1956年に完成しました。この工場の建設は雑誌配布の大きな増加を物語っており,その上にそそがれたエホバの祝福にすべてのエホバの証者が喜びました。1956年9月22日号「目ざめよ!」(英文)は写真入りで次のように報じています。
緊急に必要なこの新しい印刷工場の基礎工事は,1955年6月9日に始まった。神の御国のすばらしい音信を印刷する大輪転機をすえつける,強固な鋼鉄とコンクリートの建物の建築は以来すすめられ,遂に完成を見た。
新工場の床面積は19万2000平方フィートである。これは2つの旧工場を合わせた16万2000平方フィートを3万0000平方フィートも上回っており,100パーセント以上の拡張になる。
「ものみの塔」,「目ざめよ!」の配布数が大きく増加しているため,更に多くの印刷機を注文して新工場にすえつけることが必要になった。i
1958年奉仕年度の末に協会は,2台の新しい印刷機の引渡しを受けた。増大する聖書文書の需要に応ずるために使用される高速度輪転機はこれで合計13台になる。j
しかしこれが拡大のすべてではありません。ブルックリン工場とほぼ時を同じくしてカナダの支部が落成し,1956年5月25日に献堂式が行なわれました。k カナダで配布される英語の「ものみの塔」と「目ざめよ!」は,すべてカナダの工場で印刷されることになりました。同じ頃英国のロンドンで建築のすすめられていた支部と印刷工場は,l1959年には運営を始めました。ここから英連邦の大部分に協会の英語の雑誌を供給しています。1957年8月31日には,デンマーク,コペンハーゲンに建設された支部と印刷工場の献堂式が行なわれました。a
また「幸福な新しい世の社会」と題する上映時間1時間の新しい映画が製作されました。これは1955年の「勝利の御国大会」のおもな出来事をまとめたもので,1956年6月15日から,全世界の巡回大会において映写されることになりました。b
1957年4月15日,協会の放送局WBBRが売却されたことも,いっそうの拡大を物語っています。それは目的をはたし,神の御国の事柄をすすめるのに大きく役立ちました。この放送局が設置された1924年,ニューヨーク市の5区,ロングアイランドおよびニュージャシー州の一部をも含む地域に約200名の会衆がひとつあったに過ぎません。この小人数の人々が何百万人に伝道しなければならなかったのです。しかし放送局の売却された時,ニューヨーク市内の会衆は62を数え,伝道者の人数は,322名の開拓者を別にして7256名に達していました。
たしかにニューヨーク市においては,良い証言が行なわれていました。ご存知のようにここでは1950年と1953年に1回ずつ,2つの国際大会が開かれ,1955年には地域大会が開かれています。
この3つは全部ニューヨーク最大のベースボール,スタジアムであるヤンキー・スタジアムで開かれました。1953年の大会の時には40マイル離れたトレイラーの町に4万9000人を収容したうえ,なおスタジアムは満員になったため,成長をつづける新世社会が二,三年後にこのような国際大会を開くことのできる場所があるだろうかと,すべてのエホバの証者は考えました。そして1956年12月15日号「ものみの塔」763頁に次の言葉が出たのです。
あとわずか19ヵ月です! 今から1年半あまり後にエホバの証者は,国際大会を開く予定です。どこで? ニューヨーク市。何時? 1958年7月27日から8月3日まで。いまから貯金して,出席を計画しましょう!
全世界のエホバの証者は,信仰をもって準備を始めました。来週そのことをお話ししましょう。
[脚注]
a (1)1959年3月21日付,ワシントン・ポスト。
b (ク)デラウェア,ウィルミントン,1959年3月26日付ジャーナル・エブリディ イブニング,16頁。
c (ヤ)1947年度年鑑,150,151頁。
d (マ)1959年度年鑑,168頁。
e (ケ)1951年度年鑑,148頁。
f (フ)1957年10月22日号「目ざめよ!」第38巻,8頁。(英文)。
g (コ)フに同じ。1958年度年鑑,67頁。
h (エ)1958年度年鑑,66,67頁。1957年「ものみの塔」(英文),617-619頁。
i (テ)1956年9月22日号「目ざめよ!」(英文),第37巻,16,17頁。
j (ア)1959年度年鑑,79頁。
k (サ)1956年9月8日号「目ざめよ!」(英文),第37巻,24頁。
l (キ)1956年度年鑑,103頁。
a (ユ)1958年1月8日号「目ざめよ!」(英文),第39巻,15頁。
b (メ)1956年6月,「通知」,1頁。