崇拝の自由を拒否するカメルーン
逮捕された婦人たちは打たれ,一婦人はひどい暴行を受け,5度も息が止まった。なかには病人もおり,絶望視されている。
男子は残酷にも意識を失うまで打たれ,ある者は,最初20回,次に100回打たれ,さらに3度目にも相当打たれた。
偽りの告発を受け幾百人もが逮捕され,留置所の,便所のない独房に一週間余拘禁された者もあれば,小さな換気口がわずか16個しかない長さ2.5㍍,幅2㍍,高さ3㍍の独房に12人が監禁された。何日間も食物や傷の手当てを受けなかった者もいる。
一国の政策のために,こうしたまた同様の多数の事件が生じています。どこでですか。こうした残忍な事柄は,ナチ強制収容所の状態を描写したものですか。それら犠牲者は凶悪な犯罪者ですか。
いいえ,ここに掲げるのは,最近のアフリカ,カメルーンでのできごとです。この恐るべき蛮行の犠牲者はだれですか。犯罪者,つまり殺人犯,暴徒,盗人,暴力革命家どころか,平和を愛する最も正直な市民なのです!
このすべては,1970年5月14日付,ラ・プレス・デュ・カメルーン紙,第1面の大見出し,「昨日,署名された大統領令により,カメルーンのエホバの証人の結社は禁止さる」という重大な事態に達しました。
次いで同紙はこう報じました。「昨日,署名された国家元首の布告により,エホバの証人として知られる団体は正式に解体され,……同団体の諸活動は,カメルーン連邦共和国全土で禁止されることに至った」。
平和を愛する秩序だったふるまいで,世界的に知られている宗教団体に対して,カメルーン政府はなぜそうした過酷な処置を取ったのですか。エホバの証人は政治問題で中立を守り,政治問題に関与しないため,政府に反対しているとして告発されたのです。
大統領選挙
カメルーン連邦共和国の大統領は回教徒のエル・ハジ・アフマドゥ・アヒジョで,同大統領は,1970年3月28日,一般投票の97.65%を獲得して3選され,5年の任期を務めることになりました。新聞は一斉に,大統領選は大成功を見,投票はきわめて「良心的かつ完全な自由のもとに」行なわれたと評しました。
しかし,カメルーンには真の自由がありますか。すべての人が自由であるとは言えません。エホバの証人は,カメルーン国家同盟の一部党員から重大な圧力をこうむっているからです。証人たちが政治問題に関与しないため,熱狂的な一部党員の怒りを買い,選挙演説の中で,やり玉にあげられました。
たとえば,3月20日,立法院の古参議員で,エホバの証人の大反対論者アンドレ・フーダは,アコノリンガの“ラ・プラス・デ・テンデパンダス”で,エホバの証人を公に激しく攻撃しました。フーダの演説の一部始終を聞いた,ある証人によれば,同氏は,「アコノリンガに“マカ”族(かつての人食い部族)の者がいるなら,エホバの証人を自由に食べてさしつかえない」と語りました。
証人たちに加えられた圧力
選挙の時期に際し,証人たちに影響を与えようとして種々の圧力が加えられました。アコノリンガの一証人はこう報告しています。
「ルイ・マンダン知事は,3月28日,選挙当日,午前7時に知事室に出頭するよう,エホバの証人全員に命令しました。証人たちは命令に服しました。投票所の門を開く合図のサイレンが鳴るや,車に乗って先頭に立ったマンダン知事は,証人たちの身分証明書全部を手にかかえて,100㍍ほど先の投票所まで自分のあとについて来るようにと合図しました。強制投票をさせようとする知事の意図を知った証人たちは,車について行くのをやめ,家に戻ってゆきました」。
その晩と翌日,数人の証人たちが逮捕されたのです。会衆の監督奉仕者はこう書いています。「その晩の9時,旅団長の手で逮捕された私は,留置所の個室のセメントの床で裸のまま眠りました」。この監督奉仕者は,4月22日まで監禁されました。
アコノリンガの別の証人はこう書いています。「3月23日,ニウングとムフォゥモウの副官ニコラ・ブーンディが知事のもとに来て,私の面前で私も他の証人も雇ってはならない,と私の雇い主に命じた旨,述べました。3月25日,ヤウンデから戻ったマレダン知事は,私たちふたりに,毎日,午前午後,出頭するようにと命じました。
「知事は言いました。『これは重大なことなんだぞ。おそくとも明日までには答えてもらうぞ。おまえは聞いているのか? どっちなんだ,投票するのか,しないのか?』。
「知事は右手でテーブルをたたき,投票するのかしないのか,と4回尋ね,私が黙っていると,憲兵隊に電話をかけて,私たちを連行するよう要請しました。3月17日から28日まで,私たちに投票させようとして,知事は圧力を加えましたが,3月28日午後6時,選挙終了とともに投票拒否のかどで告発されることはなくなりました。ところが,私たちは投票反対を唱えている,つまり“棄権を勧めている”として,知事は再び私たちを告発しはじめました。私は他の11人の証人とともに,小さな換気口がわずか16個しかない,長さ2.5㍍,幅2㍍,高さ3㍍の独房でその夜を過ごしました」。
行使された残忍な手段
エホバの証人の旅行する一代表者は,その経験をこう報告しています。「3月26日の晩の9時半,入口のドアを荒々しくたたく音がしました。だれですか,と尋ねると,『旅団長(オングーヌ氏)だ』との返事なので,戸をあけると,『おまえはここで何をしているのだ。……身分証明書を出せ』と言われました。書類は全部整っていました。『おまえの投票カードはどこにあるのだ?』『私は持っておりません』。『どうしてだ?』『まだ一枚も届いていないからです』。
「命じられるまま彼に従い,憲兵隊のもとに行った私は,そこで,パンツ一枚を除いて,衣服を全部脱げと命じられました。私が寝た独房には,アコムの会衆の証人たちが8人いました。翌朝,私ともうひとりの証人は,隊長の車を洗うよう命じられ,一方他の証人全員は,隊長所有のピーナツ畑のかきね作りを割り当てられました。
「3月27日,午後10時30分,同じ隊長に呼び起こされ,こう言われました。『明日は投票に行くつもりか,行かないつもりか? 投票に行かない者はみな,厳罰に処されるのだぞ』。返事をするかしないうちに,私は再び同じ独房に閉じ込められました。隊長は憲兵隊全員を率いて,証人たちをそれぞれの家から集めはじめ,ついに合計45人を逮捕しました。
「3月28日,選挙当日,証人たちは独房で歌をうたっていました。憲兵隊の独房で私たちの歌を聞いたオングーヌ隊長は,憲兵隊全員と,私の知っているかぎりでは最も凶悪な,“なぐり屋”というあだなの兵士を連れてきました。隊長の命令一下,その兵士は情け容赦なく私たちをなぐりはじめたのです。私たちはパンツ一枚にされました。私は首のうしろに一撃を受けて,何分間か無意識になり,その後,続けざまに何度か打たれて,意識を取り戻しましたが,棒で打たれた私たちの背中は傷だらけになりました。
「こうして打たれて傷つけられたにもかかわらず,病院で手当てを受けることもできず,8日間,からだを洗おうにも水さえもらえず,2日間は食べ物も与えられませんでした。その後,草刈りや,町の清掃をさせられ,3週間半後,トラックでドゥジャとロボの知事のもとに送られました。途中,大雨が降り,寒くなりました。一行の中の何人かのクリスチャン姉妹のひとりは妊娠8か月の人でした。4月19日,日曜日,私たちは知事に呼び出されて会議室に行った後,釈放されました」。
エホバの証人が最もひどい仕打ちを受けたのは,サングメリマの町で,そこでは合計92人の証人たちが逮捕され,留置されました。そのうちのある証人はこう報告しています。「それは3月28日の大統領選挙のちょうど5日前,3月23日でした。メッソク会衆のふたりの証人が,“棄権を勧める”集会を組織したとして告発され,サングメリマの混成機動隊(カメルーンで最も恐れられている警察隊)に連行されました。そのひとりは年齢のゆえに釈放されましたが,もうひとりの特別開拓者は……拘留されました。
「選挙の翌日,エホバの証人全員を逮捕するための恐るべき計画が立てられ,証人たちの名簿が,毎日,混成機動隊に送られ,サングメリマの同機動隊の5つの独房は証人の男女でいっぱいになりました。
「ドゥジョゥムの幾人かの証人は,血が出るほど打たれたあげく,裸のままセメントの床の上を引きずり回され,後にトラックでサングメリマに移されるまでの8日間は,(便所がないため)独房内で大小便をせざるをえませんでした。ほとんど歩けない老人や,子どもを連れた何人かを含め,45人余の証人が護送されました。あまりにも悲惨なありさまに同情した,県の当局者は,翌日,証人たちを釈放したほどです。それら証人たちは,サングメリマ,ベングビス,ゼテレからの仲間のクリスチャン兄弟姉妹たち80人余がすでに留置されているのを知りました。
「サングメリマの混成機動隊の5つの独房をいっぱいにした証人たちは,4月21日まで,ひとりずつ尋問され,同日,全員,知事官舎の広い会議室に集められ,ビセヌ知事の話を聞かされて,6月7日には全員投票に行くこと,さもなければ再び全員逮捕されるだろう,と警告されました」。
エホバの証人の特別全時間奉仕者のひとりは,ベルトゥアで選挙終了直後に生じたことをこう報じました。そこでは30人余の証人が逮捕されました。「4月2日,木曜日は終日,ある人たちがひとりずつ警察に連行され,尋問されました。朝早く尋問を始めた旅団長は私たちのクリスチャン兄弟の最初の人に自分の考えを押しつけることができないのを知るや,ベルトゥア中隊の副隊長を呼びました。その人はたいへんひどい態度を取り,尋問中,証人たちを容赦なく打つよう,憲兵に命じました。最もひどく打たれたのは,(年がまだ若くて投票できない)わずか19歳の,ベラボの若い証人と,ディアングの別の証人でした。私たちの受けた質問すべてからすれば,彼らの目的は,選挙をしないようにと私たちを教えたかどで,ものみの塔協会もしくは,その代表者のひとりを私たちに非難させることでした。
「そうした仕打ちをまる一月受けた後,私たちは独房に入れられ,副隊長の命令で,食物も水も与えられずに,まる2日を過ごすことになりました。前述のふたりの若者はあまり打たれたため,その夜は動けませんでした。
「4月5日,日曜日,ベルゥアの証人は全員釈放されました。憲兵隊のもとで過ごした13日の間,隊長から送られた2度のわずかな食事以外,食べ物は与えられませんでした。私たちの喜びは,私たちみんなが忍耐する決意をしっかりいだいていることです」。
結社禁止までのいきさつ
こうした残忍な圧迫を受けたのち,選挙終了後,証人たちは政府高官と話し合って,聖書に基づく証人の立場を釈明する努力を払いましたが,いずれも成功しませんでした。
事態の重大性を考えて,4月13日,ドアラのエホバの証人の法人団体の3人の主要な成員がアヒジョ大統領に親書を送り,その高位の職権を行使してエホバの証人に対する迫害を中止させていただきたいと請願し,その中で,証人の代表を首都ヤウンデに派遣して大統領に問題を提出し,証人の活動と目的を説明したいと提案しました。
4月21日までには,逮捕されたクリスチャンの大半が釈放され,証人たちは喜びましたが,23日後,逮捕者は前より少数ながら,さらに逮捕が行なわれ,その後,5月13日まで無気味な静けさが続きました。
次いで,カメルーンのエホバの証人の結社は全面的に禁止されたとのニュースが,突如,いなずまのように全土に伝わったのです。そのニュースがラジオで発表された翌日,ドアラの新築間もない,ものみの塔協会支部事務所に警官が踏み込んで,事務室,文書の保管室,証人たちの集会施設を封鎖しました。
5月15日,金曜日,早朝,支部の監督は,請願書を提出し,大統領に会見するため,ドアラをたってヤウンデに向かいましたが,その時すでに,エホバの証人の宣教者全員に対し,5月20日までに国外へ退去するよう要求した命令に国防長官が署名したとは知るよしもありませんでした。翌16日,土曜日,同代表がドアラに戻ってみると,支部の建物はふたりの武装警官の見張りを受けていました。そして,支部の要員は全員,5月17日,日曜日の晩まで軟禁され,いっさいの出入りを禁じられました。しかし,警官はおおむね,宣教者を親切に,また,敬意をもって扱いました。
しかし,この間,証人たちは,送付した手紙に対する受領通知を政府当局から一度も受け取りませんでした。それらクリスチャンは一通の返信も得なかったのです。代表者が自分たちのために語る機会を少しも与えられぬまま,すべてが秘密裏に運ばれました。
5月20日,カナダ人5人と一ナイジェリア人の6人の宣教者が国外に追放され,この時までに支部事務所に報告された,エホバの証人の逮捕者数は335人に達しました。
国会議員選挙と,いっそう残忍な仕打ち
エホバの証人が逮捕され,打たれたのは,3月28日の大統領選の前後だけではなく,6月7日の国会議員選挙も,再び証人を攻撃する機会とされ,多くの証人が逮捕されました。マンジョの一証人はこう報じています。
「6月6日,土曜日,ムーサ・ムベロ副知事が一連の逮捕活動を開始させ,ある証人は選挙前日,逮捕されました。75歳の婦人が何人か憲兵隊に連行され,ひどい仕打ちを受けました。そのうちの病身の婦人たちは生き残れるかどうかが安じられています。
「驚いたことに,副知事は家々を回り,証人たちの農園にさえ踏み込んで証人を捜し,逮捕しています。この捜索は日夜,行なわれています。この攻撃で先頭に立っているのは,ムーサ・ムベロ副知事と国家同盟支部のパスカル・ワンシ部長です」。
6月7日,国会議員選挙直後,ナンバの女性の一証人はあまりひどく打たれたため,5度も息が止まってしまいました。もうひとりは3度意識を失い,ある男子の証人は,20回打たれたあげく,王国会館の入口でさらに100回打たれ,その後ふたたび打たれました。
他の多くの町や村でも証人たちは脅迫を受けたり,打たれたり,投獄されたりしました。同様の迫害が,アボング・ムバング・アヨス・ベラボ・ディアング・ベングビス・ビピンディ,ディザングェ・コブドンボ・ミンタ・ヌドウム・ソンムベングェ・ゼェテレその他・カメルーン内の数多くの場所で何度も繰り返され,2度の選挙の前後,数週間で逮捕件数は400件余に達しました。
なぜこうしたひどい仕打ちがエホバの証人に加えられたのですか。
証人の活動が禁じられたのはなぜか
国会議員選挙の3週間後,アヒジョ大統領は,ドアラの新しい党本部の落成式を行ない,その際,エホバの証人の結社の禁止に言及し,次のように言明しました。
「この宗派は,国外勢力にあやつられ,かつ,中傷と汚辱を弄する組織的活動によって,カメルーン人民が自由意志に基づいて採用した諸制度の転覆を目ざす破壊活動のおおいとして用いられていることが明らかにされた。独立達成の際,破壊活動の多大の悪影響をこうむった国では,こうした活動を認めるわけにはゆかない」― 1970年,6月26日付,ラ・プレス・デュ・カメルーン紙。
しかし,そうした非難ははたして真実ですか。エホバの証人は,政治に関しては全く中立であり,同時に,誠実かつ正直で,法を守る良民として世界的に知られています。一例として,カメルーンの証人たちの活動を見てみましょう。
多年,カメルーンの証人たちは,友好的な人びとに,神の天の王国の良いたよりを伝え,1962年には法人団体が設立され,拡大する組織を監督するため,ドアラに支部事務所が開設されました。以来8年間,神の王国の良いたよりは,1万2,000人余の証人たちの手で,ほとんどすべての町や村に伝えられ,カメルーン全土の人びとは,証人たちは神の王国の伝道に専念しており,政治には干渉せず,したがって,決して破壊活動は行なっていないことを見聞きしてきました。
ではいったい,カメルーン政府をして崇拝の自由を拒否させたのはだれですか。政府高官はもとより,大統領がこの点で重大な責任を負わねばならないのは確かですが,責任を負うべき人は政治家だけではありません。カメルーンの他の教会の僧職者についてはどうですか。1970年5月15日付,ラ・プレス紙の「証人の結社はなぜ禁止されたか」と題する記事を読んで,あなたはどう思われますか。その中で記者はこう評しています。「この[エホバの証人の]改宗活動が行き渡るにつれ,多くの人々,なかでも,“エホバの証人”によって教区民を誤導されている教会の当局者がうれしく思わないのは明らかである」。
しかし,カメルーンの法律はなんと述べていますか。
カメルーンの法律
積極的に投票することをカメルーンの法律は要求していませんが,そうするようエホバの証人は要求されました。選挙法,第69号LEは確かに,「棄権」させることを禁じています。ところが,証人たちは投票に行かないので,「棄権を勧めている」として再三非難されました。しかし,そうした理由で正式に告発された証人はひとりもいません。実際,選挙前また直後でも,法廷で事件が審理されたことは一度もありません。
エホバの証人が人びとに勧めているのは,政治ではなく,神のことば聖書です。しかも,カメルーンで25年余そうしてきたのです。選挙の際,戸別訪問にせよ,どんな場所で伝道するにせよ,投票しないようにと人に告げたこともなければ,いかなる政党また候補者に対する反対デモにも加わりませんでした。エホバの証人はどんな候補者に対しても,支持もしくは反対のいずれをも唱えません。カメルーンだけでなく,どこでも,そうした事がらには干渉しません。
では,エホバの証人はなぜ投票しないのですか。なぜなら,キリストによる神の王国を人類唯一の希望としているからです。また,イエス・キリストが追随者に関して天の父に話されたとおり,『我の世のものならぬごとく,彼らも世のものではない』のです。(ヨハネ 17:14。ヤコブ 4:4)証人たちは,イエスの模範と,『世のものではない』ようにとの助言に,誠実に従うよう努力しています。神とイエス・キリストの是認を得ることが,証人たちにとっては何よりも重要なのです。しかし,みずからはそうした見方を取っても,人が投票するのを妨げたり,そうする人に干渉したりするのはまちがいであると信じています。実際,証人たちは,他の人が投票するのは当人の自由であることを認めるのにやぶさかではありません。
エホバの証人はカメルーンの憲法を犯してはいません。すぐれた文章で書き表わされたカメルーン憲法は第1条でこう述べています。
「カメルーン連邦共和国は民主的かつ非宗教的,社会主義国家である。わが国は,全国民の法的平等を保証し,世界人権宣言ならびに国際連合憲章に明示された基本的自由を固守することを確言するものである」。
これで明らかなとおり,カメルーンの市民はすべて,法律によって守られています。信教および集会の自由は法律によって保証されています。ところが,事実上,カメルーン政府は崇拝の自由を拒否したのです!
証人たちは政府を脅かすものではない
どんな政府もエホバの証人を恐れる必要はありません。カメルーンの証人たちが政治的中立を保っているからといって,他の政府の手先になっているわけではありません。アメリカ,ヨーロッパ,アフリカその他,世界中どこでも証人たちは,政治問題に関与しません。したがって,「国外勢力にあやつられて破壊活動」をするものではありません。
不当な影響を受けてエホバの証人の活動を禁じた政府がほかにもありましたが,後に前述のことを認め,証人たちの法的身分を回復させました。たとえば,1941年,オーストラリアはエホバの証人の活動を禁じました。その後,事件は高等法院のスターク判事のもとで審理され,両者の論議に耳を傾けた同判事は,高等法院全体で問題を考慮すべきであるとの裁定を下しました。こうして事件の諸問題を審理した高等法院は,1943年6月14日,エホバの証人は破壊活動には全く無関係であるゆえに,国家にとって少しも危険ではないとの判決を下しました。a 証人の活動に対する禁止を解除するにあたり,同高等法院は,ウィリアムズ判事を通じて,エホバの証人の奉ずる「全く無害な原則と教理」について述べ,こう付け加えました。
「エホバの証人の宗教はキリスト教である以上,その協会を不法団体とする布告は,キリスト教の原則および教理を唱道することを不法行為とし,同時に,キリストの降誕を信ずる者によって行なわれる,教会の礼拝をもすべて不法集会とするものである」。
カメルーンのエホバの証人の結社を禁ずるのは,その国でも同様の意味を持つものとなります。
そのうえ,証人たちは,前述の非難にあるような政府に対する「中傷を弄する活動」に少しも携わっていません。事実,60か国語で3,000万部印刷され,最も広く配布された,エホバの証人たちの聖書の手引きは,そうした活動に携わるのはまちがいであることを明確に教えています。「とこしえの命に導く真理」と題するその本は,人間の建てた政府に関し158ページで,こう述べています。「神がそれら諸政府の支配を許しておられるなら,クリスチャンはどうしてそれを妨げる必要がありますか。……政府に対してしかるべき敬意を払(う)……のは良いことです」。エホバの証人がこのことを教えるのは,確かにどんな政府をも害するものではありません。
以上の事実からすれば,カメルーンの証人たちのわざが禁止されたこと,およびその理由として指摘された事がらは,正当な根拠に欠けていることがわかります。
カメルーンの損失
カメルーンの証人たちの活動が禁じられたことは,国民と統治者の双方に益をもたらすどころか,国家に大きな損失を招くものです。また,崇拝の自由を拒否することにより,世界中でその威信が傷つけられます。
残忍非道な仕打ちをもって,聖書で訓練された良心をクリスチャンに強制的に犯させようとする政治支配者たちの品位は失墜します。
また,一般国民は霊的な慰めと教育を大いに失うことになります。証人たちは,まさにそうしたものを人びとに与え,かつ,カメルーンの人たちに読み書きを教えることにも携わってきたからです。
証人たちの結社禁止措置は,聖書を討議する有益な機会を,誠実な市民からはく奪するものです。この点に関し,1970年6月14日付,レ・エフォール・カメルーナイ紙上,J・P・バイエミはこう評しました。
「エホバの証人が認可される前,家庭や隣近所,また公の場所や乗物の中で聞かれる会話といえば,それはもっぱら,お金・女・男・酒などの話だったが,証人たちが独自のやり方でこうした事態を変えるのに成功したことだけは,証人たちの功績として認めなければなるまい。かつては,クリスチャンが聖書の問題を論じ合うことなど,めったに耳にしなかったのである」。
神のことば聖書の諸原則以上に国民の道徳を向上させるものはありません。エホバの証人は,聖書の深い理解を得たいと願う人すべての道徳的かつ霊的な成長を図るために尽力しています。今やエホバの証人がそうした高い道徳基準を自由に教えられないのは,カメルーンにとって,きわめて重大な損失といわねばなりません。
あなたはご自分の意見を表明できます
平和を尊ぶクリスチャンに対する,こうした残忍な仕打ちをどう思われますか。彼らの伝道活動は禁止されているのです。聖書を個人的に討議することさえ禁じられ,貴重な個人の自由は無視されています。崇拝の自由を愛する世界中のエホバの証人および他の人びとは,こうした専横な処置を黙認することはできません。
平和を愛するクリスチャンに敵してカメルーン政府が講じたあさましい措置を非とする声に,ご自分の声を和したいと望まれるかたは,あなたの国に駐在するカメルーン大使か,その側近者,あるいは前ページに掲げられている,カメルーン政府高官に手紙を書いてください。
そうした専横な措置に失望させられていること,エホバの証人はどこでも政治には干渉しないこと,また,証人に対する非難は事実無根であることを説明してください。カメルーン憲法の保証する,人間の尊厳と信教の自由に対する,政府要人の敬意の念に訴えてください。カメルーンとアフリカの名声にかかわることとして政府高官に訴えてください。罪のないクリスチャンが虐待されている事実に世界中の人びとが注目していることを,カメルーンの大統領や高官に知ってもらうべきではありませんか。平和を追い求めるクリスチャンに対する措置ゆえに,自国民はもとより,世界中の誠実な人びとの間で自分たちの声望が失われていることを,それら政府高官に知らせるべきではありませんか。
あなたのしたためる訴えが,カメルーンにおける崇拝の自由の回復に寄与しますように。
[脚注]
a 法人,エホバの証人アデライド会 対 オーストラリア連邦(1943年),67C・L・R,116,124。
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カメルーン政府高官の一覧表
His Excellency
El Hadj Ahmadou Ahidjo
President of the Federal
Republic of Cameroon
Palace of the President
Yaoundé, Federal Republic of Cameroon
Honorable Salomon Tandeng Muna
Vice-President of the
Federal Republic of Cameroon
B.P. 964
Yaoundé, Federal Republic of Cameroon
Mr. Enoch Kwayeb
Minister of State in Charge of
Territorial Administration
B.P. 993
Yaoundé, Federal Republic of Cameroon
Mr. Félix Sabal Lecco
Minister of justice
B.P. 1126
Yaoundé, Federal Republic of Cameroon
Mr. Raymond Ntheppe
Minister of Foreign Office
Ministry of Foreign Office
Yaoundé, Federal Republic of Cameroon
Mr. Vroumsia Tchinaye
Minister of Information
B.P. 1054
Yaoundé, Federal Republic of Cameroon
Mr. Michel Njine, Ambassador
Cameroon Mission to the United
Nations
688 U.N. Plaza
New York, N.Y. 10017
[25ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
アフリカ