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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1973
塔73 11/1 666–670ページ

現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本

先回の記事では,1949年に東京と神戸で最初の宣教者の家が設けられたことが説明されました。今回の報告は,神戸の家から行なわれた活動に関する記録から続けられます。

神戸の初期の家庭聖書研究の幾つかはすぐれた実を結びました。メルバ・バリーは,日本で初めて証言をした朝,ほんの数軒訪問した後に高木美代という婦人に会い,親切に迎え入れられた,と語っています。高木婦人は,宣教者たちがぬかるみの原っぱを通って自分の家に来てくれたことに感激しました。再訪問の時,ふたりは和英辞典と首っ引きでお互いの話を理解しようと懸命でしたが,やがてそれは非常にすぐれた研究になりました。今日では,いっしょに聖書研究に参加していた隣人と高木美代のふたりは王国奉仕者として働いており,そのうちのひとりは10年以上も正規開拓奉仕に携わっています。

日本での証言には,一風変わった問題が伴います。宣教者は,できれば,聖書研究の際にちゃぶ台の前であぐらをかいて座わることに慣れるようにしなければなりません。家に上がる時には靴をぬがなければなりませんから,靴下はきれいか ― 穴があいていないか ― などに注意しなければなりません。宣教者のひとり,ロイド・バリーは,家庭聖書研究を終えて帰るために玄関に出たところ,泥棒に靴を持って行かれていた,ということもありました。

神戸に派遣された宣教者たちが到着してまもなく,日本で最初の神権的な大会が取り決められました。場所ですか。それは,広々とした幾つかの部屋と,4,000平方㍍以上の敷地を持つ神戸・垂水の宣教者の家でした。大会の間,40人以上の人びとが宣教者の家に泊まりました。庭とポーチは炊事場や簡易食堂となり,大きな居間は大会会場になりました。ドン・ハズレットは近くの風呂屋でバプテスマを施し,3人の新しい伝道者がバプテスマを受けました。日本人は非常に熱いふろに入ります。お湯があまりに熱かったので,ハズレット兄弟は中に入ったとたん飛び出てしまいました。兄弟の両足はまるでエビのように真赤になっていました。バケツで何杯も水を加えて初めて,ハズレット兄弟は新しい兄弟たちにバプテスマを施すため改めて湯船に入ることができました。

大会は,日本人にとって最も忙しい時期である12月30日から1月1日にかけて行なわれたにもかかわらず,非常に良い支持が見られました。1950年1月1日の日曜日に神戸の垂水小学校の講堂で行なわれた大会の公開講演を,合計101人の人びとが聞きました。この最初の大会に出席した人びとの何人かはその時以来引き続き進歩を遂げました。その中には東京の年若い一女学生が含まれていました。彼女は,前号の記事の中でふれた三浦勉の妻,つまり三浦康子夫人として現在日本支部で奉仕しています。

1950年の2月には,神戸の宣教者の家にいた5人のオーストラリア人宣教者に,ロイス・ダイア,モリ・ヘロン,モイラ・ウェルシー・スミス,グレース・バグナール,ノラ・ストラットンの5人のニュージランドおよびオーストラリアから来た姉妹たちが加わりました。これらの姉妹たちの経験をすべて書き記すなら,何冊もの本ができ上がるでしょう。西オーストラリア出身のロイス・ダイアの日本での証言の開始は危なっかしいものでした。自分では,「わたしは戸別に説教しています」と人びとに言っているつもりでしたが,発音が正しくないために,「わたしは戸別に咳をして回っています」となってしまいました。その時,彼女は実際に風邪を引いていました。

ことばの問題のため,神戸の集会は数か月間英語だけで行なわれました。しかし,1950年4月1日の記念式のさいには,ひとりの関心のある人に通訳をしてもらうことができました。そこで,すべての人を記念式に招待したところ,180人という予期していた以上の人が出席して,宣教者の家の3つの部屋と廊下は満員となり,窓越しに話を聞かねばならない人もいました。話のあと野外奉仕の取り決めが発表されました。翌朝,35人もの新しい人が野外奉仕に参加するためにやって来て宣教者たちを驚かせました。それぞれの宣教者が3,4人を伴って奉仕しました。しかし,このことは会う人びとに強い印象を与える点で役立ちました。

神戸における伝道のわざはよく進歩し,その結果,1950年4月に会衆を組織することが可能になりました。同奉仕年度の終わりまでには,この会衆は60人の伝道者を報告していました。それらの伝道者の幾人かは,今日に至るまで,特別開拓奉仕や巡回奉仕を行なっています。やがて集会の出席者はふえて,宣教者の家の居間に入りきれなくなったので,家の前の広々とした芝生の上で数か月間集会を行ないました。上は青天井で,瀬戸内海から吹き寄せる新鮮な微風は換気の役目を果たしました。奉仕会の出席は120人以上にもなり,神権宣教学校には20人以上の地元の男子が入学していました。

神戸会衆の最初の監督,パーシー・イズラブは勇敢にことばの問題に取り組みました。彼の話を聞いていた人びとすべてにとって忘れることのできない話のひとつは,ヨハネ伝 21章15-17節に基づいた話でした。文法学者でないイズラブ兄弟は,ことばの意味を少しばかり取り違えて,イエスはペテロに ―『わが羊を牧え』ではなく ―『わが羊を食え』と言われた,と3度述べて話を力強く最高潮にもってゆきました。聴衆は要点をつかみました!

朝鮮戦争が勃発したために,1950年の6月に朝鮮から空路日本にやって来た8人の宣教者が,突然神戸の宣教者の家に現われました。そうです,神戸の宣教者の家には18人の宣教者の家族を収容するに足る部屋が備わっていたのです。また,神戸はなんとよく伝道されたのでしょう。広大な市街地は第二次世界大戦中の空襲で石とがれきの原と化していましたが,主の「ひつじ」は防空壕の中から,掘っ立て小屋の中から,そして再建された家々の中から見いだされました。1950年8月には,神戸に留まっていた16人の宣教者は合計359件の家庭聖書研究を報告しました。

1950年に神戸地方を襲った最初の台風は,それまでに経験した最悪のものとして宣教者たちの記憶に残っています。日曜日の朝,宣教者はみな戸別伝道に出かけていました。しかし,風がますます大きなうなり声を上げ始めたので,全員は各自の区域から家に帰り始めました。何人かは家に帰ることができましたが,他の宣教者たちは深夜過ぎにずぶぬれになって帰ってきました。ひとりの姉妹は7時間も電車の中に閉じ込められていました。また,他の宣教者たちは強風に耐えそうながっちりした構えの駅の構内に避難していました。宣教者の家では40枚以上の屋根瓦が吹き飛ばされ,さらに波状の鉄板の屋根覆いが強風にあおられて幾枚か外を飛んで行くのが見えました。階段のところにあった窓からは風が吹き込んできました。滝のように流れ込む水を防ぐために,それらの窓に急場しのぎの板が打ちつけられました。嵐が去り,最後の宣教者が無事に家に帰ってきた時はほんとうにほっとしました。

イルマ・イズラブは宣教者の家の近くの,ある医師の家族と聖書を勉強しました。宣教者のひとりノラ・ストラットン姉妹が病気になった時,その医師は,彼女が死ぬまで1年以上にわたり医療を施してくれました。しかも,その医療費を全額協会に寄付しました。そして同医師は,宣教者の家の海を隔てた向い側にあって,昼も夜も光り輝いている灯台を指さし,「この宣教者の家は,ちょうどあの灯台のように,このあたりの人びとの霊的な光のみなもととなるでしょう」と言いました。彼の言ったことはなんと真実だったのでしょう! 仏教の迷信的な慣行を突破して,真理は神戸地方で驚くほどの拡大をみました。そしてこのような拡大の中で,宣教者の家は1954年4月に市のさらに中心部に移りました。神戸の宣教者の家から証言が行なわれた区域には,今では11の会衆があり,1972年7月にはそれらの会衆は合計730人の伝道者を報告しました。そのうちの76人は全時間の開拓奉仕者でした。

宣教者のわざは名古屋で開始される

朝鮮から移ってきた8人の宣教者,つまりドンおよびアーリーン・スティール,スコットおよびアリス・カウンツ,グラディスおよびグレイス・グレゴリー,ノーリン・ミラー,そしてフロー・マンソは1950年10月以降,神戸市から160㌔ほど離れた名古屋市で新たに購入された宣教者の家に住むことになりました。この広々とした宣教者の家は畳やふすまなどのある典型的な日本家屋でした。ふすまや障子で仕切られた日本家屋の各部屋では,近くにいる人を無視する,あるいはそこに人がいないと思い込むという,一種の哲学理念を持つことによって初めてプライバシーが得られます。これに慣れるには幾らか時間がかかりました。宣教者たちはよく冗談に,「私の部屋のセミプライバシー(プライバシーが完全に保たれないこと)」について話したものでした。名古屋の宣教者たちも,彼らより先に来ていた他の宣教者たちと同様に,おもに野外における苦しい経験や間違いによって日本語を学ばなければなりませんでした。

名古屋の宣教者たちは,人びとのあいだに封建的な家族制度が依然として非常に根強く存在していることを知りました。50歳を過ぎた男(もしくは女)の人が,聖書を勉強することを父親,あるいは母親が許してくれない,と言いました。80歳から90歳の全く力のなくなった老人が依然として家族を治めている場合もありました。婚家に嫁いだ娘は事実上しゅうとめの奴隷になりました。ある年配の姉妹はこの習慣を実際的に,また親切な方法で活用し,自分が正規開拓奉仕をしている間,嫁に家事をしてもらいました。こうして,その年配の姉妹は今では15年以上も開拓奉仕を続けています。やがてその姉妹の夫,息子,そして息子の嫁,つまり家族の全員が真理を受け入れ,真に一致した家族になりました。

グラディス・グレゴリーは宣教者の家のすぐ近くに住んでいたある家族との聖書研究について次のように述べています。戦時中,その家の主人は軍隊におり,母親は近くの小さな畑で野菜を栽培していました。また,彼女は赤ん坊を背中におんぶし,ふたりの子どもの手を引いて,何㌔も離れたいなかに歩いて米の買い出しに行ったものでした。着物を着,髪をうしろに束ね,ひやけした顔のその母親は,30過ぎとは思われないほどふけて見えました。宣教者たちが訪問した時,家族全員がそれを待っていたことがわかりました。そして,家族の聖書研究が始まりました。その家族は名古屋における最初の伝道者のグループにはいります。その家の母親とグレゴリー姉妹は非常に親しくなりました。母親はグレゴリー姉妹から真理を学び,グレゴリー姉妹は母親から日本語を学びました。初めのうちは,グレゴリー姉妹の日本語はその婦人の発音に似ていると言われましたが,後には,彼女の日本語のほうがグレゴリー姉妹の発音に似てきて,英語の鼻声がまじるようになりました。この家族は仏教徒でしたが,寺が爆撃されて仏像がなんの保護にもならないことが明らかになった時,他の場所に真理を求め始めました。そして,ものみの塔協会の宣教者が来た時,彼らはその真理を見いだしました!

公開集会の終わり頃にひとりの青年がやって来ました。宣教者はその人と聖書研究をすることを取り決めました。今日では,かつてのその青年宇佐美英治は名古屋の都市の監督であり,協会の大量のビラを印刷しています。別の宣教者は杉浦勇という青年と聖書の勉強を始めました。この青年はラジオ講座で英語を学んでいました。彼も名古屋における初期の伝道者のひとりになりました。それ以来,杉浦兄弟はギレアデ学校で訓練を受け,巡回および地域監督,また王国宣教学校の教訓者として奉仕し,今では沼津のベテル家族の一員です。

日本の2番めの神権的な大会は1950年10月に名古屋で開かれました。この時も宿泊者の大部分が宣教者の家に泊まりました。快適な休息を取るために,何人かの日本人の伝道者は,神戸のような遠い所からでも自分の寝具を持ってきました。その大会は,“さつまいも”大会として知られるようになりました。なぜでしょうか。配給のお米が最初の食事でなくなってしまったため,その後の2日間の主食はさつまいもだったからです。

ちょうど10年にわたるすぐれた奉仕が行なわれた後,1960年8月に名古屋の宣教者の家は売却され,宣教者たちは他の場所へ移りました。名古屋の宣教者の家を通してりっぱな証言が行なわれた証拠として,宣教者たちが最初に奉仕していた区域に,今では10の会衆があり,1972年7月には71人の開拓奉仕者を含む合計608人の王国奉仕者が奉仕を報告しました。

商業都市大阪へ

神戸の東に位置している大阪は聖書の真理に関して長い歴史を持っていました。すでに記したように,石井治三夫妻が1928年に最初に真理を学んだのもここ大阪でした。しかし,この地域に入った,ものみの塔協会の最初の宣教者たちはひとつの問題にぶつかりました。大阪から来た,真理に留まっていると称する一群の人びとが,1950年の正月に神戸の垂水で開かれた最初の大会に出席しました。しかし,正月を騒々しく祝うこととか,それらの人びとの生活態度全体は,彼らが聖書の原則から遠く離れてしまっていることを示しました。彼らの“指導者”はかなりの報酬を得て,水をふりかけるバプテスマを施していました。その指導者を排斥しなければならなくなった時,そのグループの人びとのほとんどは独自の道を歩みました。大阪の小さな会衆を監督し強めるために,神戸の宣教者のひとりエドリアン・トムソンが毎週何日か大阪に行く取り決めが設けられました。

1951年3月21日に,ギレアデ学校第15期生の5人の宣教者の姉妹が日本に到着し,大阪に宣教者の家が開かれました。当時の朝日新聞は,それらの姉妹たちを歓迎して,「咲きほこる桜の花の中に,天から天使たちがやってくる」と述べました。この新聞記事に引き続いて,宣教者たちは多数の手紙や聖書研究を望む学生,会社員その他の訪問者にてんてこ舞をしました。晩には,宣教者の家のほとんどすべての部屋で聖書研究が行なわれました。当時人びとは非常に貧しかったのですが,彼らの寛大な態度や喜んで与えたいという精神には心暖まるものがありました。彼らは花と花瓶を持ってきて,宣教者の目と心を楽しませるためにそれを生けてくれました。慣習に従って,何かの理由で聖書研究をやめたいと思う時にも,彼らは贈り物を持ってきました。ある日,ひとりの男の人がやってきて,妻が妊娠したため妻のもとにいなければならないので聖書の勉強をやめたいと申し出ました。そして,お別れの贈り物として,荒々しく触手をつき出している生きたタコを大きなつぼの中から引き出しました。

大阪で宣教者のわざがちょうど開始された時に,勝田夏江という日本人の新しい姉妹が宣教者の姉妹たちに加わって奉仕しました。彼女は宣教者たちから開拓奉仕に携わるよう励まされました。その結果,勝田姉妹は自分の経営していた店を売り,以来20年以上にわたって開拓奉仕を行なっています。初期の時代の他の人びとも同様に,今日に至るまで開拓奉仕を続けています。大阪での激動の波を忠実に乗り越えた約10人の兄弟たちは再浸礼を受け(このたびは完全に水に没する浸礼で無償でした),エホバのみことば聖書に示されている義の原則に全く従うべく心を定めました。その中のひとり,志賀音吉兄弟は今でも大阪の都市の監督であり,他の何人かの兄弟たちは会衆の監督です。

1951年6月からは,桃原真一兄弟の家族が東京から大阪の宣教者の家に移りました。そして,桃原兄弟は大阪会衆を監督しました。宣教者が大阪を離れた1953年2月までに,多くのりっぱなわざが宣教者たちの手によって成し遂げられました。そしてその後も,大阪におけるわざは成長を続けました。初めに宣教者の家の区域であった地域には,現在18の会衆があり,1972年7月には132人の開拓者を含む746人の伝道者が奉仕を報告しました。

港湾都市横浜で

1951年の春に,ギレアデ学校第16期生の英国およびオーストラリア出身の宣教者15人が日本に到着しました。4人の独身の兄弟たちは東京支部の宣教者の家に配属され,3組の夫婦と5人の独身の姉妹たちは,5月1日に,協会が購入した横浜市妙連寺の大きな日本家屋に移りました。この家で,それら宣教者たちは幾つかの問題にぶつかりました。以前の家主がその後7週間にわたって,11部屋のうちの3部屋を使用していました。そこで,主人が仕事から戻った時,宣教者たちは毎晩彼にいろいろ質問しました。それはたとえば,「お米はどこで買うことができますか」というような質問でした。それは非常に簡単な質問のように思えましたが,主人にはわからなくて妻を呼ばねばなりませんでした。彼女は母親と話し合い,母親は近所の家に聞きに行きました。そして,ふた晩後に,「お米は配給です」という答えが帰ってきました。実際,食べ物の大半は配給でした。宣教者たちは配給の申し込みをするために写真を3枚ずつ持ってはいろいろの事務所に行かなければなりませんでした。こうして,米,砂糖,茶などの配給帳を手に入れました。

最初,関心のある人はみな宣教者の家に来て聖書の勉強をしました。ある姉妹は1日に11もの聖書研究を行なっていました。後に宣教者たちは,午前中は努めて戸別訪問のわざを行なうようにしましたが,それでも11人の宣教者が合わせて300もの家庭聖書研究を報告する月が少なくありませんでした。印刷された文書はごくわずかしかありませんでした。各宣教者は聖書研究用に,“神を真とすべし”の本の各章を日本語で謄写版刷りにした用紙を3,4枚持っていました。研究が進んで,さらに先の章が必要になると,宣教者たちは互いにそれを交換しました。これらの用紙を用いた研究があまりに多かったので,関心を持っている人びとは予習用にそれを借りることすらできませんでした。

横浜の宣教者の家の最初のしもべ,ゴードン・デアンは日本で初めて司会した研究のことをはっきり覚えています。その人は英語がほんの少ししかわかりませんでしたし,デアン兄弟は日本語がほんの少ししかわかりませんでした。ふたりは謄写版刷りの用紙を勉強するよりも,辞書を勉強しているように見えました。

1952年3月1日に横浜会衆が組織され,集会は宣教者の家で行なわれました。そのすぐあとに,開拓奉仕への招待が兄弟姉妹に差し伸べられました。江藤恵次郎という年若い学生がデアン兄弟のもとにやって来て,大学をやめて開拓者になりたいと言いました。しかし,江藤兄弟はからだに障害があり,片方の足が曲がりませんでした。デアン兄弟は,足が痛むかどうかを尋ねました。「少し痛みます」と,彼は答えました。デアン兄弟は彼に開拓奉仕ができるとは考えませんでしたが,青年は「開拓奉仕をやってみました」。ほどなくして江藤兄弟は,当時すでに夫を亡していた母親の江藤百合子および同兄弟の姉弘子とともに特別開拓者に任命されるまでになりました。この家族は川崎,横須賀,静岡,水戸,そして小田原に新しく会衆を設立することに貢献するなど,非常にすぐれた働きをしました。その後,身体障害者である同兄弟は7年間巡回監督として奉仕することができました。彼の奉仕した会衆では,からだのぐあいが良くないために奉仕に出ないという口実を見つけることはだれにもできませんでした。

横浜の宣教者の家は1957年の9月に売却され,宣教者たちは他の場所へ移りました。しかし最初に,宣教者たちがこの家を拠点として奉仕した区域には,現在4つの王国会館と11の会衆があり,1972年7月には,135人の開拓者を含む646人が奉仕を報告しました。

ものみの塔協会の会長の日本訪問

会長の日本訪問は1951年4月24日から5月8日にわたり,日本のわざを組織し発展させる点でひとつの里程標となりました。ノア兄弟は,火曜日の晩に羽田の航空基地に着くと,45人の宣教者と他の好意ある人びとの熱心な歓迎を受けました。夜おそかったにもかかわらず,ノア兄弟は東京支部の王国会館に行き,今回の東洋の旅行に関する話をして出席者を楽しませました。4月26日の木曜日から,日本で3番めの神権的な大会が東京,神田の日本医師会会館で開催され,宣教者や日本人の兄弟たちは4日間にわたり,非常に教訓的なプログラムに従って話や実演を行ないました。その大会の最高潮は,最初の晩に,「ものみの塔」誌の日本語版の発行が発表されたことでした。大会出席者は大会中の野外奉仕で用いるために,1951年5月1日号のこの「ものみの塔」誌を求め,1,000部の雑誌全部がまたたくまになくなりました。今後は各号2,000部ずつ印刷される予定であることが発表されました。約22年後の1972年10月15日号の日本語の「ものみの塔」誌の印刷部数は31万5,000冊でした。

(この続きは次号に載せられます)

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