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  • 現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1973
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  • 東京におけるいっそうの拡大
  • 日本の新しい地域への拡大
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1973
塔73 12/1 730–732ページ

現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本

前号の「ものみの塔」誌では,ものみの塔協会会長N・H・ノアの2度めの日本訪問と時を同じくして,1956年4月21日から23日まで開かれた大会についてお知らせしました。この号ではその後のできごとについてお伝えします。

4月21日,土曜日の午後,425人の聴衆は「クリスチャンは幸福でなければならない」というノア兄弟の話を胸をときめかせながら聞きました。当時日本で奉仕を報告していた567人の伝道者の大半がそこに出席していたにもかかわらず,広々とした会場では少ない感じがしました。しかし,974人の熱心な聴衆が,「人類の創造者のもとに全人類をひとつにする」と題する公開講演を聞くために出席して,会場がほぼいっぱいになった時の兄弟たちの喜びは大きなものでした。それから11年後の1967年4月に,日本の14ある巡回区のわずか1つがこの会場を使って大会を開いた時,814人が公開講演に出席しました。その間に日本におけるわざはなんという発展を遂げたのでしょう。

ノア兄弟の今回の訪問の最高潮を成したのは,以前同兄弟が日本から2万㌔もかなたの大西洋上の飛行機の中で証言したさいに取り決めたある訪問でした。その時のノア兄弟の席は,2万5,000人の学生を擁する東京の早稲田大学の大浜総長のとなりでした。エホバの証人のわざについて聞いた大浜総長は,ノア兄弟に,日本に来る時,早稲田大学の教授と学生に講演をしてほしいと言いました。その講演は4月25日水曜日の午後,大学の講堂で行なわれることになり,ノア兄弟はここで386人の教授と学生から成る耳のこえた聴衆に通訳を通して話をしました。話の後に,教授たちはノア兄弟とその同行者をお茶に招待しました。そのさいに彼らがしたたくさんの質問から,教授たちがノア兄弟の話から深い感銘を受けていたことがわかりました。

人口1,147万5,000人を超す,世界最大の都市東京は,おおぜいの伝道者が真理を携えて効果的に網羅することが必要です。1956年にノア兄弟が訪問した時には,東京の3つの会衆に16人の宣教者と開拓者,そして111人の伝道者がいたにすぎません。これほど広大な区域が,どのようにして徹底した証言を受けられるようになったのでしょうか。

東京におけるいっそうの拡大

1954年5月に,ドン・ハズレットの援助のもとで,東京・千代田区の飯田橋駅近くに新しい宣教者の家が開かれました。この宣教者の家で最初に奉仕した一群の新しい宣教者は,宣教者のだれもが直面する,ことばの問題をかかえていました。彼らに日本語を教えてくれる人はいませんでしたし,その地域に日本人の伝道者はひとりもいませんでした。それらの宣教者がたどたどしい日本語で聖書研究を始めることができたのは,またそのうちの何人かが宣教者の家の集会に出席し始めたのは,エホバの霊の助けにほかなりません。やがて,これらの宣教者たちは日本の各地に17の会衆を組織しました。今では,東京だけで35の会衆があります。

ドンおよびメーブル・ハズレットはこの宣教者の家に住んで,1954年からハズレット兄弟の亡くなった1966年2月20日まで忠実に伝道奉仕を行ないました。ハズレット兄弟は支部および宣教者の家以外にある最初の王国会館の建築に率先しました。それは東京・新宿の王国会館で,東京の市ケ谷会衆も用いています。この王国会館は最近,出席者を十分収容できるように増築されました。他の会衆もこの先例にならい,今では,東京の渋谷,久ケ原,三鷹,蒲田,奥沢,大森,葛飾,阿佐谷,足立にりっぱな王国会館が建っています。

最初に千代田の宣教者の家にいたアデライン・名幸は,宣教者たちが戦わなければならなかった大きな問題のひとつは先祖崇拝であった,と述べています。名幸姉妹の会ったある婦人は,苦行をすることによって先祖の霊を慰めることができると考え,寒い冬のさ中でも4時か5時に起きては冷水をかぶっていました。義父が死ぬと,彼女は夫や子どもの世話をあとにして,毎朝義父の仏前にご飯とお茶を供えるので,家庭の中がうまくいっていませんでした。しかし,名幸姉妹との家庭聖書研究のさいに,死者にではなく,生きている人に仕えるべきであることがわかりました。彼女は仏壇を壊し,その家庭は聖書のもとに一致のきずなを強めました。夫は主宰監督となり,この夫婦はしばしば短期間の開拓奉仕を行ないます。娘は10年にわたって特別開拓者として奉仕し,現在は巡回奉仕に携わる夫とともに奉仕しています。

アデライン・名幸のパートナー,リリアン・サムソンは,阿部孝司という20歳の青年が配達の仕事をしていたある商店での聖書研究について述べています。阿部青年はその聖書研究に気がつき,それについて質問しました。彼自身すぐに聖書を勉強し始め,驚くほどの進歩を遂げました。集会に出席するために,その青年はそれまでの仕事をやめて,給料の少ない別の仕事につきました。そのため,彼は家族から勘当されました。しかし,彼の忠実な態度に注目したある兄弟は,彼が開拓者になれるよう,パート・タイムの仕事を提供しました。彼は自分の歩みをちゅうちょしたことはありません。12年の豊かな経験を味わった後,阿部兄弟夫妻は現在,地域の奉仕に携わっています。

千代田の宣教者の家にいたドンおよびメーブル・ハズレットや他の宣教者たちから真理を学んだ多くの人びとは開拓者になりました。中には後に東京ベテルで奉仕するようになった人もいます。この地域にあった最初の会衆は幾度も分かれて,初めに千代田の宣教者たちが奉仕していた地域には現在9つの会衆があります。

ノア兄弟の訪問と東京・中野の大きな成果をもたらした大会に続いて,会長はその地域に新しい宣教者の家を購入することを取り決めました。そして,1956年10月1日に,しっかりした宣教者精神をいだいているジェリーおよびヨシ・当間が中野の宣教者の家に移りました。6日後に,8人の新しい宣教者が到着し,家具が届くまでの間床の上にふとんを敷いて生活しました。しかしすぐに,宣教者たちは野外奉仕に非常に忙しくなり,また当間兄弟姉妹から大きな励ましを受けました。明るい態度の当間兄弟夫妻がどこかに任命されることは,それがどんな場所であっても大きな拡大のしるしのようでした。そして,中野の場合もそのとおりでした。宣教者の家が開かれた当時は,中野の宣教者の家で小さなグループの集会が開かれてはいたものの,東京・渋谷会衆の集会に出席するため,宣教者たちは1時間もかけて出かけて行きました。しかし,16年そこそこで,その小さなグループから15の会衆が生まれ,890人以上の伝道者が報告しています。

ノア兄弟の訪問の4年後,ミルトン・ヘンシェルが地帯の監督として日本支部を訪れました。ちょうどその時期にあたる1960年4月7日から10日にかけて,東京のまだあまり証言のなされていない別の地域にある世田谷区民会館で大きな成果を収めた大会が開かれました。公開講演には1,717人が出席しました。その同じ日曜日の晩に,ヘンシェル兄弟は出席している1,397人に記念式の話をしました。初めて,世田谷地方で大規模な証言がなされ,それに続く大きなわざが待ち望まれました。協会は現在,世田谷に新しい宣教者の家を購入し,今日に至るまで,6人の宣教者がその家に住んで,奉仕のわざを続けています。

日本の新しい地域への拡大

1949年から1957年まではもっぱら,本州の大都市において王国の業を確立するための集中的な努力が払われました。しかし,他の地域も王国の業の開始を待ち望んでいたのです。横浜と京都にあった,協会の大きな宣教者の家は1957年に売却され,宣教者たちは他の都市の比較的小さな宣教者の家に散っていきました。1957年に,協会は新たに広島,札幌,福岡,熊本,鹿児島そして佐世保に家屋を借り受け,それを宣教者たちの家にしました。この時までに,日本には62人の宣教者がいて,東京支部または12の宣教者の家のいずれかで奉仕するか,または地域もしくは巡回の業に携わっていました。

(この続きは次号に載せられます)

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