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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
塔76 6/15 360–364ページ

幸福な家庭生活 ― どのようにして築き上げたか

ジョセフ・アレンの語った経験

将来を正確に見定めようとして失敗する人は少なくありません。仮に,カナダのモントリオールに住む育ち盛りの少年であったころ,わたしが将来七人の子供の父親となり,現在味わっているような祝福や平安を享受するようになる,と告げる人がいても,きっとその人を信じなかったことでしょう。

ともあれ,わたしの生い立ちについて書くことにしましょう。若いころわたしの身の上に起きた事柄は,将来自分がどんな父親になるかに影響を及ぼしたからです。わたしは1923年に生まれました。父と母は1912年に英国からカナダに移住し,わたしが生まれるまでに一男三女をもうけていました。二年後には弟が生まれ,その結果,家族の子供の数は六人になりました。こうして,わたしは大家族の中で育ちましたが,その経験は後年,自分のもうけた大家族を扱う際に役立ちました。

その時わたしが学んだのは,家族全員が平和にむつまじく暮らしてゆくには父親が頭の権を行使する必要がある,ということでした。語る言葉だけではなく,文字通りの「懲らしめのむち」を使って,しつけられたことはたびたびありました。父が仕事に出掛けている間は,母が家族の規律を守るのに必要な責任を果たしました。わたしたちは母の右手に対して深い敬意を抱いていました。その手で母は革ひもを巧みに操り,わたしたちがベッドの下に潜り込む寸前に命中させたものです。母は太っていてベッドの下まで追いかけて来られなかったので,そこは格好の避難所となっていました。

大家族として,わたしたちは一緒に働くことを学び,各々家庭内外の異なった雑事を割り当てられていました。わたしの最初の仕事は,勝手のよく分かった場所,つまりベッドの下に潜り込んで,バネとL字型の鉄材すべてのほこりを払うことでした。大きくなるにつれて,毎日食卓を整えたり片付けたりすること,それから皿洗い,家具のほこりを払うこと,じゅうたんに掃除機をかけること,床や屋内の階段を洗ってワックスをかけることなど,より責任の重い仕事が与えられました。当時わたしは,子供にこんな仕事をさせるなどもってのほかだと思っていました。しかし子供の時に受けた訓練は,後日,自分の子供たちを訓練する際に大いに役立ちました。

自分の家族を養わねばならなくなった今振り返ってみると,世界恐慌の間ずっと,わたしたちに必要なものを備えるため,両親がいかに苦労したかよく分かります。父は労働者で,戸別にパンを配達し,いつもなんとか栄養のある食事を三回食卓に出してくれました。父はまた子供たちの霊的な必要にも注意を払い,わたしたちすべてが日曜日に教会へ行くよう見守りました。

年上の子供たちは教会の礼拝に出席し,わたしたち年下の子供たちは日曜学校に通いました。わたしは,父と母がなぜ子供たちと一緒に教会へ行かないのか,いつも不思議に思っていました。ある日のこと勇気を出して,その理由を父に尋ねてみると,そうした事柄は十分やってきたので,もう必要ない,というのが父の答えでした。幾年もの間,わたしにはそのことが理解できませんでしたが,今になってみるとよく分かります。

親元を離れて所帯を持つ

やがて成年に達するころには,胸を躍らせるような広い世界へ足を踏み入れる準備ができていました。わたしは何をするつもりでしたか。当時は第二次世界大戦が猛威を振るっていたので,当面すべきことは決まっていました。家族が軍用列車によって初めて引き離されたときの涙にぬれた家族の顔と自分の感じた恐れを,今でもはっきり覚えています。

その時わたしは17歳でしたが,それから海軍ですごした四年間はあっという間に過ぎ去ったように思えます。そして,1945年12月には除隊になりました。幸いなことに,健康状態も良く,少し年を取り,いろいろなことが分かってきました。家族の再会を祝って,両親を含む家族全員がクリスマスの日に教会の礼拝に出席することになりました。

それまでの数年間に,宗教に対するわたしの見方は変わり,宗教と一切かかわり合いを持ちたくないと思うようになっていました。以前の父がそうであったように,わたしも啓発されていたので,宗教を必要としていないと考えました。若いころわたしは教会で積極的に活動し,祭壇の傍らで僧職者を助けて列席者にパンとぶどう酒を供することまでしていたので,家族の者にはその変化が理解できませんでした。しかし,母を喜ばせるために,とにかくその日は行くことにしました。実際,教会に行って本当によかったと思いました。その晩教会で,わたしの人生で大きな役割を果たすことになった人,つまり後日わたしの妻となった人に紹介されたからです。

わたしは,それまでの四年間にわたる軍隊の訓練から,状況に素早く反応することを教えられていました。その時も素早く行動し,五か月後の1946年5月にわたしたちは結婚しました。わたしが成年に達してから教会に足を踏み入れたことは,結婚式の日を含めて,わずか数回しかありません。

わたしたちはモントリオールから田舎の方へ引っ越し,復員軍人土地周旋委員会の援助で2,000平方㍍の土地を購入して“夢のマイホーム”を建て始めました。わたしは製紙工場で電気技師として働いていましたが,余暇の時間は家を建てることに専念していました。妻は依然として教会に行きたがり,時折り時間を見付けては行っていました。妻はわたしにも出席するよう幾度も勧めました。家の形が整ってゆくにつれて,わたしたちは部屋を幾つ作るか,子供が幾人欲しいかを話し合いました。そして,七人ではなく,二男二女の合計四人の子供をもうけることにしました。しかし,物事は思い通りになるものではありません。結婚三年目に長男が,そして二年後には次男が生まれました。次は女の子が生まれる番でしたが,驚いたことに三人目も男の子でした。

1952年当時,フランスの影響の強いケベックの小さな町で,英国系のプロテスタント一家にとって見通しは明るいものではなく,またとても“健全”とはいえない状態でした。この点は同僚の態度からも明らかでした。事実上すべての人はローマ・カトリック教徒でしたが,わたしたちは英国国教会の信者でした。そこで,家を売って,幾年も会っていない,結婚している姉の住むバンクーバーに引っ越すことにしました。1952年6月,わたしたちは車に家財道具すべてを積み込み,ケベックとカナダ東部に別れを告げ,それっきり二度と同地に戻ることはないと思っていました。

驚くべき変化 ― どのようにしてもたらされたか

バンクーバーに住むようになって三年後,そして四男が生まれてから,エホバの証人が家に訪ねて来ました。エホバの証人の訪問を受けたのは,その時が初めてでした。それがきっかけとなって,わたしと妻はやがてエホバの証人になったわけです。どんないきさつでそうなったかお話しすることにしましょう。

妻は,四人の育ち盛りの男の子を抱えて,子供たちに与えられる家庭での訓練や懲らしめが十分でないと考えていました。そのために,家族で英国国教会と交わり,同教会に通う必要があると感じていました。わたしはそれに激しく反対しました。わたしはどんな宗教ともかかわり合いを持ちたくなく,自分の子供を育ててゆくのに外部からの助けなど必要ではないと思っていました。わたしは,この次教会へ行くのは自分の葬式の時だという点を強調しました。しかし,妻が教会に行きたいと思い,子供たちを連れて行きたいのなら,それは妻の自由であり,自分は邪魔をするつもりはないと告げました。

妻は,その言葉を額面通りに受け取り,教会に出掛けて行きました。わたしは家で幼い子供たちの子守りをしていました。時たつうちに,妻は毎週日曜日家に帰って来ると,牧師がどんなにすばらしい人であるかを,とても巧みに話すようになりました。そして,教会の資金を集めるために,教会のホールでトランプ・パーティーを開くことや夕食会を催すことなどを説明しました。また,教会の婦人会に入りたいので,わたしにも教会の男子のクラブに入ることを考慮してくれないかと嘆願しました。さらに,クリスチャンの信仰のうちに家族が一致を保つために,思い直して教会へ来てもらえないか,と尋ねました。

わたしはそうした説得すべてに抵抗し続けました。そして,すべての人がただ盲目的についてゆく退屈な教会の礼拝などでなく,聞くに値するような話がなされることを証明してくれなければ教会には行かない,と妻に告げました。教会が神について学ぶ場所であるという考えは,ずっと昔に捨て去っていました。教会で本当に聖書を使うことはありませんでした。確かに牧師は日曜日ごとに,聖書から数節を読みはしましたが,その意味を説明したことは一度もありません。ですから,聖書に何が書かれているのか全く分かりませんでした。

わたしたちの家のどこかに,ジェームズ王欽定訳聖書が置いてありました。それを読もうとはしましたが,内容が理解できなかったので,一ページも読まないうちにやめてしまうのが常でした。結局その聖書の間に美しいバラの花びらをはさんで,家の中の安全な場所にしまい込むことになりました。それはちょっとした葬式でした。

しかし,妻の執念は実を結び,わたしはやがて根負けして一緒に教会へ行くようになりました。教会へ行ってオルガンの演奏を聞くほうが,毎週日曜日,妻が教会から帰って来たときに“奏でる”騒音に耳を傾けるよりもましだと考えたからです。約六か月というものも,何事もなく順調に過ぎ去りました。それから妻は,わたしを真底から動揺させました。もう教会へは行かないとこう言うのです。「あなたが行きたいのでしたら,どうぞご自由に。でも,わたしはもう教会へは行きません」。

わたしはあぜんとして,「なぜ,一体どうしてなのか」と尋ねました。すると妻は言葉を続け,エホバの証人と聖書を研究してみて,長い間英国国教会の信者であった期間に学んだ事柄と比べて,自分が学んでいる事柄に驚くようになった,と述べました。妻は一緒に腰を下ろして,聖書に書かれている事柄に耳を傾けるよう勧めました(この時までに,聖書は再び妻にとって重要なものとなっていたので,妻は聖書をよみがえらせていました)。

一時間足らずのうちに,神のお名前はエホバであり(詩 83:18),わたしたちの住むこの時代は聖書の中で「終わりの日」として語られており(テモテ第二 3:1-5),ハルマゲドンとは邪悪な体制に対する全能の神の戦いであり,それが非常に近いことを学びました(啓示 16:14-16)。さらに,家族そろって地上で永遠に生き,平和と安全な状態の下で幸福のうちに結び合わされ,み子イエス・キリストを王とするエホバ神の王国の下で完全な状態を享受できることをも知りました。―詩 37:9-11,29。啓示 11:15,17; 21:3,4。

わたしは以前に,そのようなすばらしい事柄を聞いたことは一度もありませんでした。それは信じられないほど良い事柄でした。そして悲しいかな,わたしは信じられませんでした。妻に激しく反対はしなかったものの,嘲笑することはしました。無知のゆえに,わたしは妻を「エホバ」と呼んで,自分はその狂信的な宗教とかかわり合いを持たないということを妻に思い起こさせたものです。もし妻がその宗教に入りたいのならそれは構わないが,自分は真っ平だと思いました。

妻は,神の言葉から学んだ事柄でわたしの知識欲をそそりましたが,わたしは教会に何とかしてとどまろうとしました。しかし,その執着心が弱まってゆくのを常に感じていました。妻は「霊の剣」を振るい,わたしはついに敗北しました。しかし実を言えば,自分が敗れたのをこれほどうれしく思ったことは一生を通じて一度もありません。わたしは教会をやめて,聖書研究を始めました。そして,神の被造物すべてが生き返る春,1956年3月31日に,わたしと妻は北バンクーバーの王国会館で水のバプテスマを受け,あたかも生き返ったように,エホバとその王国の関心事のために生きるようになりました。

家族に祝福がもたらされる

それ以来わたしたちは,霊的な面は言うに及ばず,物質的な面でも口で言い表わせないほどの祝福を受けてきました。これは単にありきたりの宗教ではなく,マタイ 24章14節に従って王国の「良いたより」を全世界に宣べ伝える業を成し遂げるために,エホバ神がエホバの証人を用いておられることを悟りました。わたしたちは,この愛あるクリスチャン家族の一員になりたいと思いました。

「ものみの塔」と「目ざめよ!」両誌は,家庭生活において神の言葉の助言を理解し当てはめるようわたしたちを助け,子供を首尾よく育ててゆくのに必要な助けを備えてくれました。例えば,わたしたちは,従順や懲らしめの本当の意味,およびエホバがご自分の愛する者を懲らしめられることを理解するようになりました。また,子供たちを教えること,および子供と一緒に時間を過ごすことの重要性を学びました。―ヘブライ 12:5-11。申命 6:4-9。

こうしたことの結果,家族はいつも物事を一緒に行なって楽しむようになりました。男の子たちは,下の子を含めて,家を建てる際に大きな助けとなりました。子供たちが学校に上がる前は,わたしの電気関係の仕事によく連れて行ったものです。わたしたちは結局二人の娘に恵まれましたが,妻は,裁縫や料理,そして他の家事を行なうよう娘たちを訓練することに大きな喜びを見いだしました。もっとも,文字通りの懲らしめのむちが必要な場合もやはりありました。わたしたちは,エホバが人体の中で最も肉付きをよくした箇所にむちを加えました。―箴 23:13,14。

大会 ― 家族の楽しみの時

わたしたちがこよなく愛した,クリスチャン活動の別の面は大会です。特にエホバの証人の地域大会を首を長くして待ち,毎年の休暇の予定に必ず組み入れました。わたしたちは,米国およびカナダの多くの大都市を訪れ,またエホバの様々な創造物を楽しみ,その上ものみの塔協会の工場や農場をも訪問しました。このすべては,子供たちの見聞を広める実際的な方法となりました。

わたしたちが出席した中でも際立っていたのは,1958年にニューヨーク市で開催された大会です。バンクーバーからニューヨークへ向かう途中,わたしたちは米国ワシントン州スポーカンで車を止め,子供たちに車の中にいるよう告げて,少しの買い物をしに行きました。車に戻ると,子供たちは一人の男の人が近付いて来て話し掛けたことをわたしたちに知らせました。そして近くの店にいたその人を指差しました。するとその人は手を振って車に近付いて来て,わたしたちの車のバンパーにはってあった,ニューヨーク大会を宣伝するステッカーに気付いたことを述べ,自分もエホバの証人であることを明らかにしました。その人はわたしたちを自宅に招待して,ビフテキをごちそうしてくれました。夕食が済んでからクリスチャンの交わりのひとときを過ごし,一晩十分に休息を取りました。

さらに旅を進め,ワイオミング州ラスクで,バンパーのサインは,スポーカンで経験したのと同じような祝福をもたらしました。その日,車のエンジンが大きな音を立ててノッキングを起こしました。バンパーのサインに気付いた,その小さな町のあるエホバの証人は,自分がエンジンを修理するので,一晩泊まってゆくよう勧めました。その人は郡の機械工で,修理に必要な工具をすべてそろえた大きな修理工場に出入りできることが分かりました。翌朝,エホバの民が互いに対して示す愛ともてなしに感謝しつつ,再び旅を進めました。その精神は,ニューヨーク市のヤンキー野球場とポロ・グランドに集まった25万人の代表者たちの間で一層よく見られました。

王国の業の拡大にあずかる

大会から帰ると,好奇心を抱いた同僚が,なぜそれほどの費用を使って,遠方へ旅行してまで宗教的な大会に出席するのかと尋ねました。そのような集まりの重要性,および神を恐れて清い生活を送る大勢の人々との気持ちの良い交わりなどについて説明すると,その人は自然と聖書に関してさらに多くの質問をしました。わたしは,聖書と共に,ものみの塔協会の備えた各種の出版物を使って,そうした質問に答えました。その人はわが家の蔵書に深い感銘を覚え,自分もその出版物すべてを手に入れたいと言いました。その人と聖書研究が始まり,彼は間もなくわたしたちの霊的兄弟になりました。その同じころ,義理の母も関心を示すようになり,やがて彼女もエホバの証人になりました。

わたしたちは,エホバの証人になってから20年の間に,王国宣明者が著しく増加するのを見てきました。その結果,数多くの新しい王国会館が建てられるようになりました。わたしたち一家は,少なくとも四つの王国会館の建築,およびバンクーバー地区の巡回大会で用いるための大型可動式調理場二つの製作に携わりました。カナダ東部に戻ってからは,王国の関心事にあずかる機会は増加しました。

今ではパートタイムの仕事をするだけで十分なので,トロント近郊の新しい大会ホールの建築に携わる特権を得て喜んでいます。また,昨年中,トロントのベテルで約四か月間働くよう招待され,工場の大規模な増築と新しい王国会館の建築を手伝うことができました。こうした各種の建築計画すべてにおいて,ひたすら神と仲間の人間に対する愛に動かされて自分たちの技能と時間を自発的にささげる男女と共に働くことは,報いの多い経験となってきました。これはわたしにとって,間近に迫っている,約束された新秩序での生活の先触れとでも言えるものとなりました。

保護された一家

世界情勢が悪化し,この体制が急速に退廃するにつれて,多くの人の家庭生活は悪い影響を受けています。しかし,エホバとそのクリスチャンの組織に感謝すべきことに,わたしたちの家庭は保護されてきました。聖書の原則と助言を当てはめることによって,わたしたちは世の数々の誘惑に陥らずにすみました。その結果,わたしたち一家はそろって真の幸福を味わっており,神への奉仕に心ゆくまであずかっています。

四人の年上の息子たちは,熱心なクリスチャン婦人と結婚し,それぞれクリスチャン会衆内で長老や奉仕のしもべとしての務めを果たしています。長男は配偶者の助けを得て,ここオンタリオで全時間の開拓奉仕を楽しんでいます。次男とその妻は,現在,ケベック州の王国宣明者の必要がより大きな土地で奉仕しています。その下の二人の息子も幸福な結婚をして,カナダの西部に住んでいます。わたしたちの元には,まだ二人の娘と一番下の息子がいますが,その三人も兄たち同様,神の言葉に対する深い愛と認識を示しています。そのうちの二人は,すでに水のバプテスマによってその愛と認識を公に示しました。

家族のある者は遠く離れた所に住んでいますが,エホバの組織のもたらす一致によって,わたしたちはいつも結び合わされているのを感じます。特に,平和と安全のうちに地上で永遠に生き,エホバ神の王国の下で完全な状態を享受するという,聖書に基づく希望によって結び合わされています。確かに,詩篇 37篇37節(新)の次の言葉は,わたしと家族の者たちにとって特別な意味を持つようになりました。「とがめのない者を見つめ,直き者に目を留めよ。その人の将来は平和なものだからである」。

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