ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔77 2/1 88–92ページ
  • 「野獣」崇拝 ― 真のクリスチャンがそれを拒否する理由

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 「野獣」崇拝 ― 真のクリスチャンがそれを拒否する理由
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 「野獣」の正体
  • 初期クリスチャンは堅く立つ
  • 今日の「野獣」崇拝
  • 二匹の凶暴な獣と戦う
    啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!
  • 海から上って来る獣
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
  • 何が世界平和を阻んでいるか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1974
  • 「ヨハネへの啓示」と神の敵たち
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2022
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 2/1 88–92ページ

「野獣」崇拝 ― 真のクリスチャンがそれを拒否する理由

あらゆる人種や国籍に属する,おびただしい数の男女が,七つの頭を持った野獣を崇拝している様を想像することができますか。それは奇妙な質問と思えるかもしれません。しかしそれは,作り話の領域からではなく,現実から引き出された質問です。中でも特に悲劇的なのは,他の人々に無理やり「野獣」を崇拝させようとして,残虐行為に訴える人がいるという点です。

クリスチャン使徒ヨハネは,西暦一世紀当時,その「野獣」を幻の中で見ました。ヨハネはそれを描写してこう書いています。「わたしは一匹の野獣が海から上って行くのを見た。十本の角と七つの頭があり,その角の上には十の王冠があったが,その頭には冒とく的な名があった。さて,わたしの見た野獣はひょうに似ていたが,その足はくまの足のようであり,その口はししの口のようであった。そして,龍は自分の力と座と大きな権威をその野獣に与えた」。(啓示 13:1,2)その権威がどの程度のものであるかについて,こう記されています。「あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられた。そして,地に住む者はみなそれを崇拝するであろう」― 啓示 13:7,8。

「龍」の正体が何であるかに関して,疑問の余地はありません。前述の聖句の少し前で,使徒ヨハネは「大いなる龍」に言及して,「初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれ,人の住む全地を惑わしている者」と呼んでいます。(啓示 12:9)しかし,悪魔から権威を受ける「野獣」とは一体何ですか。

「野獣」の正体

長年にわたって聖書学者たちは,この問題について深く考えてきました。その一人であるチャールズ・ジョン・エリコットは,19世紀に,聖書全巻を網羅する全八巻の注釈書を編集しました。「エリコット聖書注釈書」の縮約版の中には,『海から上って来た野獣』について次のような説明が載せられています。

「海は,不安定な人類の大集団を象徴している。大小の波のような各個人は,この海洋のような人間の大集団を構成し,衝動や情欲に振り動かされている。……野獣は常にこの世の王国の象徴である。つまり,情欲や利己心の上に築き上げられた王国である。その野獣は七つの頭を持っていたので,その王国の数は七である。我々は,後に七つの山が出てくるのを読む。これらの世界強国は,その力と安定性のゆえに山と呼ばれ,各々別個のものではありながら,龍の霊,すなわち義の王の支配に飽くまで敵対する霊によって霊感されているゆえに野獣の頭と呼ばれている。[啓示] 17章10節には,五つは倒れ,一つは権力を有しており,七番目はまだ現われていないと書かれている。ゆえに,我々は鍵を握っている。六番目の頭はローマ帝国である」。

この注釈は聖書そのものの提供する手掛かりに基づいています。聖書は,海,または水を,「もろもろの民と群衆と国民と国語」を表わすものとして語っています。(啓示 17:15)また,「邪悪な者たちは,静まることのできない時の荒れた海のようで,その水は絶えず海草や泥を浮かび上がらせる」とも記されています。(イザヤ 57:20,新)その「海」から出て来た獣については,聖書のダニエル書がその正体をはっきりさせるのに役立つ情報を提供しています。そこには四頭の獣,すなわちしし,くま,ひょう,そして恐るべき姿をした生き物が描かれています。それら四頭の獣は,王または王国であることが明らかにされています。ししはバビロンを,くまはメディア・ペルシャを,そしてひょうはギリシャを象徴していました。(ダニエル 7:2-7,17,18)使徒ヨハネが啓示の書を記した時までに,バビロン,メディア・ペルシャ,そしてギリシャの世界強国は,それらに先立つ強国であったエジプトとアッシリア同様すでに倒れていました。したがって「野獣」は,世界強国エジプトから始まって連綿と続く七つの頭によって人類を支配してきた強大な政治体制を象徴しているに違いありません。

イエス・キリストが地上で生活していた間に起きたある出来事は,権力の地位にある獣的な強国の背後にいる者が確かにサタンであることを示しています。聖書にはこう記されています。「悪魔は[イエス]をとりわけ高い山に連れて行き,世のすべての王国とその栄光とを見せて,こう言った。『ひれ伏してわたしに崇拝の行為をするならば,わたしはこれらすべてをあなたにあげましょう』」。(マタイ 4:8,9)サタンは『世の王国』を支配していたので,それらの国々をイエス・キリストに提供することができました。神のみ子は,悪魔がそれらの王国を提供する立場にあるということを否定しませんでした。実際のところ,イエスは後日弟子たちに,「この世の裁きがなされています。今やこの世の支配者は追い出されるのです」と告げました。―ヨハネ 12:31。

啓示の書は,悪魔に操られた「野獣」の崇拝者になるようにとの圧力が地上の住民に加えられることを明らかにしています。わたしたちは,すべての人,つまり「小なる者と大なる者,富んだ者と貧しい者,自由な者と奴隷」が強制され,『その右手や額に印を受けさせられ,またその印,つまり野獣の名もしくはその名の数字を持つ者以外はだれも売り買いできないようにされる』ということを知らされています。―啓示 13:16,17。

獣の「印」は,それを持つ人が「野獣」に属しており,野獣に全き支持を与えていることを示すものとなります。「エリコット聖書注釈書」は,『[その印は]こうした専制的な世界強国の根本方針に対する黙従を意味しているに違いない』と述べています。

ここで一つの問題が起きます。真のクリスチャンは,「野獣」に無条件に黙従することができますか。その人がエホバ神と主イエス・キリストに対する忠節を保とうとするなら,そうしたことはできないはずです。啓示 13章8節は,『子羊の命の巻き物には,野獣の崇拝者たちのうちのだれの名も……書かれていない』と述べています。

初期クリスチャンは堅く立つ

「野獣」の第六番目の頭であるローマに対する初期クリスチャンの行動は,彼らが前述の事柄を堅く信じていたことを示しています。もちろん,それらクリスチャンたちは権力を持っている当局者たちに不敬な態度を示したわけではありません。彼らは,ローマ帝国が神の許しによって存在していることを認めていました。その上,政治当局者たちは神から与えられた良心をある程度持っており,それゆえクリスチャンを含む,すべての人にとって有益な事業を行なっていました。そうした事業の中には,司法制度の維持,道路の建設維持,犯罪や不法な暴徒からの保護などがあります。ゆえにクリスチャンは,明らかな良心をもって,税や貢を収めたのです。彼らは,決して世俗の権威に対する反逆を引き起こしたりはしませんでした。―ローマ 13:1-7と比べてください。

死の脅しに直面してキリスト教を捨ててしまった人々でさえ,自分たちが模範的な生活をするよう教えられていたことを認めています。プリニウスは,トラヤヌス帝にあてた手紙の中にこう記しています。

「密告者によって名を挙げられた他の者たちは,いったんは自らがクリスチャンであることを認めましたが,後ほど,以前は確かにクリスチャンであったが,ある者は三年前,他の者はそれよりももっと前,中には20年も前にそうした信仰を捨てた,と宣言してその主張を覆しました。それらの者たちすべては,閣下の像と神々の彫像とを崇拝し,同時にキリストをのろいました。犯罪あるいは罪過を形成するかどうかは疑問ですが,以前自分たちが信仰を告白していた宗教の性質について,彼らの語った事柄は以下のとおりです。すなわち,彼らは定められた日に集まることを習慣にしており……厳粛な誓いでもしたかのように,いかなる邪悪な行為も犯さず,盗みや強奪や姦淫に携わらず,決して約束を破ったり,援助を求められたときに出し惜しみしたりしないなどという規定で自らを束縛しているのです」。

実際のところ,ローマ帝国は,法を遵守するそのような人々を少しも恐れる必要はありませんでした。ところが当時,クリスチャンであるということを告白するだけで,死に当たる罪とされたのです。クリスチャン関係の事件を扱うことに関するプリニウスの手紙に答え,トラヤヌス帝は次のように書き送りました。

「密告者によってこれらの者たちを狩り出してはならない。しかし,告発されて有罪が宣告される場合には,処刑せよ。ただし,次の制限を加えるものとする。その者がキリスト教の信仰告白を捨て,そのあかしとして我々の神々に祈願をするなら,彼らの以前の行動がいかに疑わしいものであれ,その悔い改めのゆえに放免される」。

そうです,わずか一回のちょっとした動作が,処刑されるか否かの分かれ目となり得るのです。多くの場合クリスチャンは,在位中の皇帝の像の前にある香壇で,一つまみの香をたけば,自分の命を救うことができました。しかし,真のクリスチャンは妥協しなかったのです。彼らは,「野獣」の六番目の頭の願いに屈しませんでした。

今日の多くの人々にとって,真のクリスチャンの立場は意味をなさないかもしれません。「キリスト教の始まり」と題する本には次のように書かれています。

「皇帝崇拝の行為は,皇帝の像の前に置かれた香壇にわずかばかりの香か数滴のぶどう酒をふりかけることにあった。当時からずっと離れてしまった現代の見地からすれば,その行為は……礼節,尊敬,そして愛国心などの表われとして,国旗や国の著名な政治家などに挙手の礼をすることと少しも変わらないように見えるかもしれない。一世紀のかなり大勢の人々もそれと同じように考えていたとも思われるが,クリスチャンはそうではなかった。彼らは,そうした事柄すべては宗教上の礼拝の一部であるとみなし,皇帝を神として認めることになるゆえ,神とキリストに対する不忠節な行為になるとして,そうした行為を拒んだ」。

しかし,「野獣」の第六番目の頭はなぜクリスチャンの良心を尊重しなかったのですか。クリスチャンを恐れる必要は少しもありませんでした。彼らは,「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」という主の命令を守っていました。(マタイ 22:21)ところが,「野獣」の第六番目の頭は,自分が当然受けるべきものを受けるだけでは満足せず,神に属するものまで手に入れようとしたのです。前述の本は次のように続けています。

「彼らが拒んだゆえに,[クリスチャン]は政治的に不忠節な民とみなされた。クリスチャンが迫害された理由は,皇帝崇拝に加わらないため,国家の敵であるとみなされたことにほかならない。そうした崇拝こそ,ローマ帝国を構成する多岐多様な分子を結び付けて,真の一致をもたらしていたものだったのである」。

結局のところ,問題となっているのは国家に対する政治的忠節,すなわち国家を神よりも高め,国家を最高の権威とする忠節である,という点に注目してください。「野獣」の第六番目の頭は,臣民がカエサルを崇拝する限り,その信仰告白に異議を唱えませんでした。しかし,人が天地の創造者に対して専心の献身をささげることは許しませんでした。ゆえに第六番目の頭は,自らを神の地位に据え,神として認めるよう求めました。真のクリスチャンは,そうした横柄な態度にとてもついて行くことはできませんでした。彼らは,国家よりも高い権威,すなわち神とキリストに申し開きをしなければならないと考えていました。

今日の「野獣」崇拝

現代でも,エホバの証人として世界的に知られるクリスチャンの団体は,一世紀のクリスチャンが「野獣」から受けたと同じような事柄を経験しています。例えば,アフリカの国マラウィについて考えてみましょう。そこでは,国民すべてが同国の唯一の政党である“マラウィ会議党”の党員になるよう求められています。わずか75円相当の党員カードは,携行者が『支配政党の原則』,中でも終身大統領H・カムズ・バンダ博士に『黙従』することを示しています。マラウィの国民は,“党員カード”の購入をどのようにみなすべきですか。1975年8月27日付の公式回状にはこう書かれています。「これは,この国の国民である我々が,終身指導者ヌグワジ[バンダ博士]に対して,このマラウィの国を発展させてくれたことに対して感謝の意を表わす一つの方法である」。したがって,“党員カード”を買わないことは,感謝の念の欠如,ひいては終身大統領バンダ博士に対する不忠節な行為とみなされます。“党員カード”の購入を拒む人が,同胞を本当に愛し,法を守る市民であるという事実は全く顧みられません。マラウィ政府の見地からすれば,そうした人は犯罪者であり,法の保護を受けるに値しません。

その結果,良心のゆえに“党員カード”の購入を拒む男女は,恐るべき迫害の的となっています。家を焼かれ,財産を没収された人は少なくありません。彼らは,しばしば意識不明になるまで容赦なく殴打され,性的暴行を含むショッキングな侮辱行為を受けました。殺された人もいます。幾千人もの人々は強制収容所に追い集められました。幼子は母親から引き離され,中には十分な世話が行き届かなかったために後になって死んだ子もいました。

多くの人は,“党員カード”を買って問題を避けたほうがはるかによい,と言うかもしれません。もちろん,エホバのクリスチャン証人は,自分たちの立場をすべての人が理解してくれるとは期待していませんし,他の人々に自分たちと同じ良心的な異議申し立てを行なわせることに関心を抱いているのでもありません。その点に関して彼らの望んでいるのは,道徳的に清く生活し,言行両面で同胞に対する関心の深さを示し,神に専心の献身をささげる自由を得ることだけです。

エホバの証人である彼らは,他のいかなる関係よりも勝って,自分と神およびキリストとの関係を大切にします。いかなる政治制度に対してであれ無条件に支持を与えていることを示すなら,その人は聖書の教えに反して行動していることになります。聖書の教えによると,人間の政治機構すべては,イエス・キリストの手中にある王国がそれに取って代わるときまで,神の寛大さによって存在することが許されているにすぎないのです。(ダニエル 2:44; 7:13,14)エホバの証人は,神とキリストに対してのみ,絶対的な忠誠を尽くすことを約束しました。ゆえに,いかなるものであれ,彼らがそれとは別の行動を取るとすれば,それは不忠節な行為ということになります。そうした行為は,神とキリストに当然与えるべきものを取り去ることになり,それゆえ「野獣」に対する崇拝を行なう結果になるでしょう。

その上,命のための備えは,政治国家からのものではなく,神からのものです。クリスチャン使徒パウロは,ルステラの人々にこう語りました。「過去の世代において,神は諸国民すべてが自分の道を進むのを許されました。とはいえ,ご自分は善を行なって,あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもってあなたがたの心を存分に満たされるのですから,決してご自身を証しのないままにしておかれたわけではありません」― 使徒 14:16,17。

ゆえに,神の備えを享受することが,政府当局に対する定められた忠節の表明(例えば,支配政党へ強制的に入党させること)にかかってくるとすれば,国家は自らがすべての良いものの源であると偽って唱え,自らを神としていることになります。自発的にであれ,強制されてであれ,こうした点で国家の政策を支持する人々は,「野獣」の崇拝者になっています。そうした人々は,野獣が真の神を無視すること,また神に専心の献身をささげる人々に対して野獣が加える残虐行為に賛意を表していることになります。

ゆえに,なぜ真のクリスチャンが「野獣」を崇拝できないか,また,崇拝しないか,という質問に対する答えは簡単です。野獣にはそのような崇拝を受ける資格がないからです。求められている行為がいかにささいなことに見えても,クリスチャンがそのような崇拝とかかわり合いを持つなら,それは神とキリストに対して不忠節になっていることを意味します。真のクリスチャンはむしろ,命の与え主,およびそのみ子の王国に対して破ることのできない専念を示します。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする