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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1980
塔80 11/1 24–28ページ

ロラード,勇気ある説教師たち

ジョン・ウィクリフaの死は彼の敵に大きな喜びをもたらしました。彼の教えが引き起こしたさまざまな問題に悩まされることはもうなくなるだろう。人々に対する支配を回復し,ウィクリフの著書や英訳聖書をわきに押しやってしまうこともできるだろう。敵の希望はそういうことであったかもしれません。しかしそれは実現しませんでした。ウィクリフの追随者のロラード派が,彼の仕事を引継いで遂行する決意を一層固くしていたからです。

「ロラード」というあだ名は前からありました。その始まりはオランダで,14世紀にさかのぼります。しかしこの名前が実際に表面に出て来たのは,ウィクリフが死んだあとのことでした。このあだ名は中期オランダ語「lullen」(英語の「lull」はこの語から来ており,古くは歌う,鼻歌を歌う,または詠唱するという意味があった)に由来しており,したがって『神を賛美する者』という意味を持っています。怠惰な放浪者またはのらくら者を意味する中世英語「loller」(ラテン語形でlollardus)には,賛美するという考えも混じっています。しかし,ロラードたちがなまけ者などでなかったことは,イングランド全土に神の言葉を勤勉に伝えたことからもわかります。

第二のウィクリフ聖書

ウィクリフの聖書の翻訳は聖書に対する欲求を生み出したので,それを満たすことが必要になりました。それと同時に,伝道の際にその聖書を使っても,訳文が理解しにくい場合が多いこともわかってきました。それで,聖書の音信を一般民衆の使う言葉にするために,改訂の必要が生じ,ウィクリフの追随者が何人かその作業を援助しました。それを指揮したのは,ウィクリフの最も親しかった仲間,ジョン・パーベイと思われます。

第二のウィクリフ訳の序文には,翻訳に用いられた原則がいくつか述べられています。それによると,ラテン語本文はそのまま受け入れられたわけではありません。なぜなら,何世紀もの間に誤りや改悪が入り込んでいたことに翻訳者たちは気づいたからです。そこで古い版を集められるだけ集めて比較しました。それは,「ある程度正しい一つのラテン語聖書を作り,それから改めて,欄外注のついたその本文を研究しなおす」ためです。それは,そのころでは聞いたこともない方法でした。ラテン語本文をより純粋なものにするために,翻訳者たちはむずかしい単語や句の最も正確かつ的確な意味を知り,また用いられている文法を理解することに努めました。そして最後に,「原文にあたう限り忠実に」訳し,そのあとさらに訳文をチェックして誤りを正すようにしました。―イギリスの六欄聖書,29ページ。

その結果,英語の熟語を用いながらしかもラテン語の意味を保とうとする努力が見られる英訳が完成しました。現存するこの改訂版の数が初版のそれより5倍も多いということは,その改訂版が人々に好まれていたことを物語っていると言えるでしょう。この訳の単語と句の多くはティンダルの訳に取り入れられ,したがって欽定訳にも取り入れられました。

少し比較してみれば,この二つのウィクリフ訳の違いがわかります。ヘブライ 1章1節と2節前半の現代訳はこうなっています。「神は,昔には,多くの場合に,また多くの方法で,預言者たちによってわたしたちの父祖に語られましたが,これらの日の終わりには,み子によってわたしたちに語られました」。最初のウィクリフ訳は次の通りです。「幾度にも幾様にも,かつて神,預言者にて父祖等に宣たまひき。比の終に至り,御子にて我らに告げらる」。2番目のウィクリフ訳の原文では,英語の慣用句を用いることによって理解しやすくなっています。それを日本語に訳すと次のようになります。「かつて預言者に由りて多くの方法で我らの先祖たちに語り給いし神は,この末の世には御子によりて,我らに語り給えり」―「わたしたちの聖書と古代写本」。

初期の英語聖書の多くは大型で装飾が施されています。そのことは,聖書を用いた人々が裕福な,教育のある階級であったことを物語っています。しかし,後のウィクリフ訳の場合は,一般の人々が使えるように,そしてポケットの中やマントの下に隠せるように作られた,行間の詰まった小型の聖書が少なくありません。小型で飾りのない聖書は値段が安く,日常語の聖書を所有していることでもわかると強い権力を持つ宗教当局者ににらまれて危険だった時代には,実用的でもありました。

全国を巡る説教師たち

ロラード派の説教師たちは,いくらか身の保護となり歩くのに助けともなる重いつえを持って,ほとんど徒歩で旅をし,専らより安全な田園地方を回りました。村や小さな町に着くと,その土地の騎士か大地主が,その話を聴くよう人々をたいていは戸外に,または小屋とか納屋,あるいは大きな家の広間などに呼び集めます。そして1冊の説明書と聖書が回されますが,時には聖書の一つか二つの書だけの場合もあります。遍歴説教師が次の村に去ると,人々はそれらの文書を次々に回して熱心に読み,論じ合います。そうした集まりでは聖書の朗読が行なわれただけでなく,自分で聖書を読める人が多くなるように,読み方を教えることもなされました。

聖書は教える事柄の裏付けとしても用いられました。説教師の訓練に当たっては,ウィクリフ自身が,70人の弟子を遣わす際にイエスがお与えになった簡単な指示に従う必要を強調していました。(ルカ 10:1-11)ロラードたちは食物と宿泊所に関しては友人たちの世話になることになっていました。彼らの服装は質素で,たいていすぐにそれとわかる赤褐色のマントを着ていました。神の言葉を聴いた人々の多くはそれを信じました。それでロラード主義は,オックスフォードおよびレスターシャーからイングランド中部諸州,ウェールズ国境地方,イングランドの西部へと広まっていきました。そのころは,一つの地域に住んでいた人々は,聖書の勉強を強く望んでいた人々と一緒に学ぶことができました。

これはその一つの例です。「ニコラス・ベルワードは同宗派の一人で,新約聖書を持っている。それは彼がロンドンで4マルク40ペンスで買ったものである。そして彼は前述のウィリアム・ライトおよびその妻マージュリーに教え,彼らと共に1年間働き,前述の新約聖書を勤勉に勉強した」―「フォックスの活動と不朽の業績」

14世紀の残りの期間中にロラードの活動は拡大しつづけたものの,ほとんどはローマ・カトリック教会内にとどまっていました。別の団体を結成することなど当時は聞いたこともないことだったのです。ウィクリフは常に教会を内部から改革することに努め,追随者たちもしばらくの間彼の目標に従って活動を続けました。しかし,国内でロラードの影響が増大するにつれ,論争はいよいよ大きくなりました。ロラード派の説教師たちの論議には,ウィクリフの文書に見られるようなきめの細かさがありませんでした。彼らは霊場もうで,迷信,免罪符,聖人,聖堂,像の使用などを容赦なく非難しました。幾人かの著名なロラードは,自分たちがもうこれ以上教会にとどまれないことに気づきはじめました。とはいえ,教会の威力は非常なものだったので,説教師の中には,捕らえられると,破門されることを恐れて新しい信仰を捨てる者が少なくありませんでした。教会当局が加える迫害のために,運動は地下に潜ることを余儀なくされました。

1395年にはロラードは,もっと永続的で合法的な改革を行なうことを目ざして,ロラードのおもな信仰箇条を記した建白書を議会に提出しました。その建白書はまた,セント・ポール大寺院や他の有名な教会の扉に打ちつけられました。これに激怒した司教たちは国王リチャード二世にその処置を要請しました。国王は首謀者をおどして服従させ,議会は請願を却下しました。その時から司教たちは,ロラードたちを弾圧するためのさらに明確な布告を求めようとしました。

迫害の増加も効果なし

15世紀に入ってもロラードには依然として有力な友人たちの支持があり,その助けによって攻撃をかわすことがしばしばでした。しかし新しい王ヘンリー四世は,ローマ教会のお陰で権勢を得た人物でした。父親のジョン・オブ・ゴーントは,ウィクリフの最も忠実な友人の一人でしたが,ヘンリー・オブ・ランカスターは全く逆でした。1401年に議会を通過した法令は,異端者焚殺に対する支持を実際に司教たちに与えるものでした。

ジョン・パーベイは1401年に裁判にかけられ,信仰を取り消しました。しかし別の著名な指導者,ウィリアム・ソートリーは,司祭が聖別したあとでもパンはやはり物質のパンであって,全質変化などしないという確信を変えませんでした。二日にわたる論戦ののち,彼はロンドンのスミスフィールド牛市場で木にかけられ,焼き殺されました。こうして勝利を収めたにもかかわらず,カンタベリーの大司教トマス・アルンデルは,慎重に事を行ないました。州によってはロラードに対する支持は依然として強かったので,それらの地域の司教たちは,あえて迫害の指揮を執ろうとはしませんでした。1410年に,ウスターシャー州,イーブシャムの仕立屋ジョン・バッドビーが杭につけられた時など,若い皇太子ヘンリーは直々にやって来て,考えを変えさせようとしました。一度は薪の束が取り払われたこともありました。しかしいかなる説得も効を奏せず,ついに火がつけられました。その皇太子は,ヘンリー五世として王位に就いたときも,父の政策を継続する決意をしていました。彼は著名なロラード,サー・ジョン・オールドキャッスルを捕らえました。そういう例があれば,異端の弾圧がもっと効果的に行なえると考えたのです。

オールドキャッスルがロンドン塔からの脱走に成功したとき,彼の支持者たちは彼を守るために武装蜂起しました。これは彼らが犯した最大の誤りの一つでした。というのは,彼らは戦争をキリスト教の原則に反する行為として否定していたからです。ロンドン近郊のエルサムで王を誘拐することに失敗した彼らは,ロンドンのセント・ガイルス・フィールズまで進み,他のグループに合流しました。しかし彼らは全部捕らえられ,敗れました。オールドキャッスルは逃げて3年間逮捕を免れていましたが,1417年についに捕らえられ,火刑に処せられました。それ以後ロラードたちは武力による干渉は二度と行なわず,政治の舞台にものぼりませんでした。迫害は増え,さらに多くのロラードが焚殺されましたが,彼らの伝える音信を食い止めることはできませんでした。ノーフォークにおいてさえ,十字軍を起こした司教スペンサーが死ぬが早いか,その音信は燎原の火のごとくに広まりました。読み書きを教える学校が数多く開かれ,許可されていないあちこちの集会所には人々が群れ集いました。

迫害の焦点となったのは聖書の使用でした。1229年のトゥールーズ会議で制定されたある法令で,平信徒が日常語の聖書を所有することは一切禁じられていましたが,イングランドではあまり実施されていませんでした。しかし,聖書の翻訳は司教の許可を得なければできないことになっていました。1408年にカンタベリー聖職会議は,聖書のどの部分も翻訳してはならない,また何人も「ジョン・ウィクリフ以後の時代に書かれた本,パンフレット,もしくは説明書を公にも,個人的にも読んではならない。これに違背する者は正式破門に処す」という法令を出しました。この法令は1414年につくられた,英語聖書を読む者を有罪とする法律によってさらに強化されました。それを読む人々は,土地,家畜,家財を没収され,生命を奪われることになっていました。

地方に行くと他の法令を出す司教たちもいました。その点で目立ったのはサマーセットとリンカンシャーでした。リンカンシャーでは,「ジェームス・ブリュースターが,小さな英語聖書を持っていたために罪に問われ」ています。アグネス・アシュフォードは「山上の垂訓の一部」をある人に教えました。6人の司教の前に連れ出されたときアグネスは,そういう事柄は自分の子供にさえ教えないようにということを特に警告されました。

大陸におけるウィクリフの教え

一般民衆は聖書を公然と読むことはできませんでしたが,高い権力の座にある者にはそれができました。リチャード二世の妻であったイングランドのアン王妃は,ラテン語の聖書と,彼女の母国語であるボヘミア語の聖書を持っていました。その結婚は1382年に彼女の兄弟ウェンツェスラウス王が,教皇の勧めに従って承諾したものでした。教皇は自分の目的を達成することを望んでいたのですが,その結果は予期しなかったものでした。アン王妃は間もなくウィクリフの文書のことを耳にするようになってその一部を入手し,同時に英語の四福音書も手に入れました。そしてそれらに好感を抱きウィクリフの支持者になりました。王妃を訪問するプラハの宮廷の人々は,ウィクリフの著書の一部をボヘミアへ持ち帰りました。プラハ大学も,依然ウィクリフにかなり好意的であったオックスフォード大学と手を握りました。

そういう接触があった結果,ジョン・フスがジョン・ウィクリフの著書を読むようになりました。プラハ大学に学んだフスはやがて同大学の総長になりました。1403年には,ウィクリフの教説に関する一連の講義が行なわれました。ウィクリフの教えは当局の非難を浴びていましたが,フスは講義を続けました。1409年,ついに教皇アレクサンデル五世は調査を命ずる教皇大勅書を発布しました。フスとその追随者たちは破門され,200巻にのぼるウィクリフの文書が焼却されました。しかしボヘミアは全土にわたり,フスとウィクリフの教えで燃えており,王は教皇を支持しようとはしませんでした。1410年に教皇が死亡し,次いで翌年プラハの大司教が死んだので,フスは息を抜けるその機会をさえ利用して伝道を続けました。

1414年,皇帝ジギスムントは,破壊的な教皇大分裂を解決する目的で,コンスタンツ宗教会議を召集しました。ウィクリフの文書の警戒すべき影響力が再び議題にのぼりました。教皇庁は今や,遠く離れた二つの国,イングランドとボヘミアにおける結果を見ることになったのです。フスは皇帝から通行権を与えられていたにもかかわらず,1415年,有罪を宣告され火刑に処せられました。ウィクリフはその時代の異端の指導者と宣言されました。彼の著書は焼き捨てられ,彼の遺体は墓から取り出されて“神聖な基地”の外に捨てられることになっていました。しかし,リンカン州の続く二代の司教はそれをあまりにもはしたない行為と考えたので,それが実行に移されたのは1428年のことでした。その年にウィクリフの遺体は発掘されて焼かれ,灰は近くのスウィフト川の水の上にまき散らされました。一部の人がこのいやしむべき行為に象徴的な意味を付して見たのは当然でした。川の水がウィクリフの灰を大海に運んだように,彼の教理は世界中に広がって行きました。

1572年に出されたある推薦状の中では,ウィクリフは火花を起こし,フスは石炭に火をつけ,ルターは燃えるたいまつを高々と掲げたというふうに表現されています。16世紀は,中世の暗黒時代に発達した口伝や偽教理の一部が宗教改革によって除去された時代でしたが,この時代に表面に浮かび上がった思想や理念の多くは,もとはと言えばウィクリフから出たものでした。ロラードたちは暗黒時代を生き残りました。ルターの文書がイングランドに入って来たとき,ロラードの諸会衆は新しい運動に没入しました。教理が非常によく似ていたのです。

徐々にですが聖書は束縛を解かれていきました。その束縛のために,少数の恵まれた富裕な人々を除けば,聖書はすべての人にとって閉ざされた本だったのです。わたしたちは今日,先人が示したであろう勇気に感謝しているでしょうか。彼らは聖書を,読みかつ研究する価値のある本 ― 本当に自分たちの国,自由,命に値するものとして大切にしました。苦闘の末獲得された聖書を研究する自由はわたしたちにとって重要なものになっているでしょうか。聖書の勉強を始め,その真理を他の人に伝え,活動的な信仰を表明して初めてわたしたちは,その自由は自分にとって重要なものだと言うことができます。

[脚注]

a 「ものみの塔」誌,1980年10月1日号に掲載された,「ジョン・ウィクリフ聖書の擁護者」をご覧ください。

[28ページの図版]

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