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  • あなたは黙想しますか,それとも空想にふけるだけですか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1984
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1984
塔84 5/1 27–30ページ

あなたは黙想しますか,それとも空想にふけるだけですか

夕方になってネゲブの焼けつくような暑さも涼しくなったとき,イサクという名の若者は自分の天幕を出,「静かに思い巡らすため」野を散歩していました。イサクが何を考えていたのか聖書は述べていません。しかし,むなしいロマンチックな空想でなかったことは確かです。イサクは近く結婚することになっていましたが,それは新たに重い責任が生まれることを意味しました。この結婚によって生まれる子供は,約束の「胤」,すなわちメシアに至る家系を継ぐのです。ですから,イサクがさまざまな事柄を頭の中で整理する時間が必要だったのは当然のことと言えます。しかし,らくだの一隊がやって来るのを目にして黙想を中断したとき,イサクの胸はどんなに高鳴ったことでしょう! たくさんのらくだの中の1頭に乗っていたのは,自分の花嫁リベカだったからです。―創世記 24:62-67; 22:17,18。

この物語の印象的な部分は,すべてのクリスチャンが習慣にしていなければならない事柄の一つ,すなわち黙想です。「黙想する(meditate)」という語が聖書に数回しか出てこないのは事実です。しかし神の言葉は,物事をそのように深く思い巡らすことの必要をたびたび強調しています。「これらのことをよく考えなさい[「黙想しなさい」,欽定訳]。それに打ち込んで,あなたの進歩がすべての人に明らかになるようにしなさい」と,使徒パウロは勧めました。―テモテ第一 4:15。

思いを「脱線」させないようにする

有益であることはよく分かっていても,ほとんどの人にとって黙想するのは難しいことです。大抵の人はただ空想にふけるほうを ― 下流に漂って行くボートのように,何を考えるでもなくただぼんやりと思いを漂わせているほうを ― 好むかもしれません。もし休んでいる時にそうするのであれば,気分をくつろがせるのにたいへんよいでしょう。しかし,クリスチャンの集会の時や,勉強している時に,あるいは仕事時間中にそうするなら,空想にふけることは車のエンジンのアイドリングと同じになります。燃料を浪費するだけでどこへも行けません。

ではどうすれば思いを「脱線」させないでいられるでしょうか。クリスチャンの集会に行く前には,食事の量を少し控えるとよいかもしれません。たくさん食べると眠気を催すことがあるからです。ノートを取ることも注意を集中する助けになります。しかし最も重要な要素は思いの訓練です。わたしたちは話し手が言葉を出すよりもずっと速く考えることができます。ですから,その話が右の耳から入って左の耳に抜けるままにせずに,話し手が次に何を話すか予想してみることです。話し手の論議についてゆくようにし,話し手が用いる聖書的論議に注目します。そしてのちほど話の要点をじっくり考え,将来の使用に備えて自分の霊的倉に収めるようにします。イエスはこう言われました。「善良な人は自分の心の良い宝の中から良いものを取り出し……ます。心に満ちあふれているものの中から人の口は語るからです」― ルカ 6:45。

あるいは読書をするときに,思いが「うまくかみ合わない」傾向があるかもしれません。もしそうであれば,勉強の時間を短くし,その代わりに回数を増やすようにしてみるのもよいでしょう。言うまでもなく,自分が学んでいる事柄の真価を認識することは重要です。もしその認識が不足しているために思いがさまようのであれば,わたしたちの天の父が箴言 4章20節から22節で言われていることをよく考えてみましょう。「我が子よ,わたしの言葉に注意を払え。わたしのことばに耳を傾けよ。……それをあなたの心の中に保て。それは,これを見いだす者たちにとっての命であり,その全身に健康を保たせるものだからである」。

エホバの言葉に細心の注意を払うかどうかは生死にかかわる問題です。そしてエホバの言葉が正しい事を行なう原動力となるためには,エホバの言葉が心の奥深くにしみ込んでいなければなりません。そこで役立つのが黙想です。黙想の伴わない聖書通読は,さっと通り過ぎてすぐに乾いてしまうにわか雨と同じで,一時的にはさわやかな気分にさせますが,永続的な益をもたらしません。黙想は,土にしみ込んで植物の生長を促す,絶え間なく降る雨のようです。ではどうすれば黙想することを学べるでしょうか。

黙想することを学ぶ

あなたは小さな野花をつくづくと眺めてその均整や美に驚嘆したことはありませんか。あるいは星を仰いでそのさん然たる美しさに胸のときめきを感じたことはありませんか。実は,それも簡単な形の黙想で,人はそれによって創造者エホバ神への崇敬の念を深め,感謝の心を厚くするのです。(詩編 8:3,4)そういう機会に恵まれるなら,そうした健全な事柄をじっくりと考えてみてはいかがでしょうか。

しかし,さらに深い黙想をすることもできます。あなたは牛がにれかむところ,つまり反すうするところを注意して見たことがありますか。「反すう」するということは黙想するという意味でもあります。しかし,牛は胃の中に何もなければ反すうすることができません。同様にわたしたちも思いが空虚であれば黙想することができません。したがって聖書の研究には価値があります。というのは,研究すればするほど「そしゃく」すべき霊的考えが多くなるからです。そして,たとえ自分は勉強が苦手だと考えていても,努力するにつれて勉強が次第に容易になり,より楽しくなるのに気づくでしょう。新しい考えが既知の考えとつながります。無関係のように思えていたいろいろな考えが次第にまとまって一貫した型になっていきます。「理解ある人にとって知識は容易なものである」と,ソロモンが述べた通りです。(箴言 14:6)しかしそれには時間がかかります。そして,もし今のところ神の言葉の研究が自分の生活における主要な喜びの一つとなっていないなら,今からすぐにでもこのことを深く考える,つまり黙想してみてはいかがですか。

『なぜ自分には霊的食欲がこんなにもないのだろうか。恋愛小説とかテレビやラジオのメロドラマのような精神的糧にならないものを摂りすぎているのだろうか。霊的に自分を弱くする交わりの影響を不必要に受けているのだろうか』と自問してみましょう。この問題についていま深く考えてみるなら,必要な調整を行なうのに役立つでしょう。

今日わたしたちは聖書を持っていますが,初期クリスチャンたちにとっては,聖書の写しを手に入れることは容易ではありませんでした。それでも彼らは神の言葉を正しく扱うことができました。(一例として使徒 7章2節から53節でステファノが聖書の専門的意見を述べているのに注目してください。)集会で聖書が読まれるとき,また時々自分で聖書を読むときに,彼らは学んだ事柄をできるだけ多く記憶しようと努力したに違いありません。

あなたも同じように,少なくともかぎとなる聖句は記憶するように努力してきたでしょうか。覚える気になれば実際にはそれほど難しいことではありません。簡単なテストとして,次のなじみ深い聖句を思い出せるかどうか試してみてください。マタイ 24章14節,創世記 3章15節,啓示 21章3,4節,詩編 83編18節,ヨハネ 17章3節,テモテ第二 3章1-5節。

「夜警時の間に」

詩編作者は,聖書を学ぶことの利点を少なくとも一つ指摘しています。「わたしが長いすの上であなたを思い出したとき,夜警時の間に,わたしはあなたのことを思い巡らします」。(詩編 63:6)夜なかなか寝つかれないときにはよく取り留めのない空想にふけるものです。しかし,ダビデのように,「わたしの口のことばとわたしの心の黙想とが,あなたのみ前に快いものとなりますように」と祈るほうがどれほどよいか分かりません。(詩編 19:14)聖句を暗記している人のほうが,この祈りに一致した行動を取りやすいでしょう。

それからまた,夜中に目が覚めて,ひどく憂うつな気持ちに悩まされることがあるかもしれません。そういう時には,出エジプト記 34章6節にある,「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神」というような,霊感による聖書の言葉をゆっくりとかみしめながら繰り返すと,心をさわやかにする有益な効果がすぐに表われます。また,ひどく心配な事があって眠れないときには,次のような慰めの言葉を思い出すとよいでしょう。「何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,一切の考えに勝る神の平和が,あなた方の心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」― フィリピ 4:6,7。

問題を解決する際の助け

今の時代には問題がたくさんあります。例えば親は絶えず難しい決断に直面します。子供の教育や健康,衣服,クリスチャン会衆における進歩,友だちの選択などは心配な事柄の一部にすぎません。無数にあるように見える可能性の中からどのようにして最善の道を選び出すのでしょうか。性急な判断をして後悔するのはよくあることです。ですから聖書は,「義なる者の心は答えるために思いを巡ら(す)」と述べているのです。―箴言 15:28。

黙想をするにはその対象となる事実がなければなりません。ものみの塔協会の出版物はそのような事実を豊富に提供します。経験を積んだクリスチャンの親や会衆の長老たちの助言を考えることも,釣り合いの取れた物の見方をするのに役立ちます。

黙想は信仰の試みを切り抜ける助けにもなります。例えば,聖書の特定の箇所,あるいは預言の理解が変わることが時々あります。聖書の箴言 4章18節には,「義なる者たちの道筋は,日が堅く立てられるまでいよいよ明るさを増してゆく輝く光のようだ」とあります。でも中にはこうした進歩改善に心を乱される人がいます。しかし「義なる者たち」は,『忠実な奴隷』が間違いをしたと性急に結論するのではなく,じっくりと黙想し,その新しい聖書的真理を吸収します。

忍耐するための助け

『悪魔はあなた方のうちのある者たちを次々に獄に入れるであろう。それは,あなた方が十分に試されるためである』と,イエスは警告されました。(啓示 2:10)突如,聖書もなく力になってくれる仲間のクリスチャンもいない,不潔な刑務所に入れられれば,大きな精神的打撃を受けるでしょう。

数年前のこと,南アフリカで年若いエホバの証人の一グループが,クリスチャンとして中立の立場を取ったために,何か月もの間独房に入れられたことがありました。幸いに彼らは聖書を持つことを許されましたが,そのうちの一人は,「あまり多くの事を暗記していなかったので,もし聖書がなかったならわたしは“力尽きて”いたでしょう」と言いました。ところが別の証人は黙想はせずにせっせと聖書を読んでいましたが,霊的に次第に弱くなっていくのを感じました。それで読んでいる事をもっと深く思い巡らすようになりました。そうしているうちにその人は,エホバへの祈りをもって始め,それから聖書の節を読み,そして次の事柄を熟考すると気分が浮き立ってくるのを知りました。『これはどのように適用できるだろうか。この危険はどのようにすれば避けられるだろうか。この点はエホバを知るのにどのように役立つだろうか。ほかにどの聖句がこの点と関係しているだろうか』などです。どんな結果になったでしょうか。悲惨な状態のもとにあったにもかかわらず,「わたしの人生で,これほど信仰を強められる経験をしたことはありませんでした!」と,その人は言っています。

「一日じゅう」

信仰の試みに面していても,あるいは日常生活からくる心身の消耗を経験しているだけであっても,エホバの忠実な僕たちの態度は,「わたしはどんなにあなたの[神の]律法を愛していることでしょう。それは一日じゅうわたしの思いとなっています」と述べた詩編作者の態度と同じでなければなりません。(詩編 119:97)実際に「一日じゅう」黙想することは事情が許さないかもしれませんが,それでも,神の言葉に従うよう絶えず心がけていなければなりません。

祈りや黙想の機会を得ることに努められたイエス・キリストから教訓を得ましょう。(マタイ 14:13)もしイエスがその必要を感じてそのための時間を作られたのであれば,わたしたちも今日そうすべきではないでしょうか。

[27ページの図版]

ぼんやりと空想にふけるよりも,細心の注意を払うよう思いを訓練するほうがずっとよい

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