ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔85 4/15 23–25ページ
  • 喪の習慣 ― あなたはどう見ていますか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 喪の習慣 ― あなたはどう見ていますか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 喪の悲しみはふさわしい
  • どんな喪の習慣?
  • 忠実であれば祝福を受ける
  • 死者をいたむ
    目ざめよ! 1975
  • 葬式の習慣に対するクリスチャンの見方
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
  • 神が不快に思われる慣習に用心しましょう
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2005
  • 喪,嘆き悲しむ
    聖書に対する洞察,第2巻
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
塔85 4/15 23–25ページ

喪の習慣 ― あなたはどう見ていますか

人類は歴史上ずっと死という共通の苦しみを経験してきました。しかし,いかに長い間の付き合いであっても,死が遺族に及ぼす破壊的な影響は和らいではいません。自分の生活の一部だった人が亡くなったことを知ると,必ずといってよいほど,深い悲嘆とやるせない喪失感にとらえられ,その感情は長い間消えません。

宗教は死がもたらす悲嘆を和らげるはずですが,大抵の場合にそれとは正反対のことをします。土地によっては,死が遺族にもたらす悲嘆が恐怖心に変わるようなところもあります。死んだ両親や親族は今では執念深い霊になっていて,然るべき服喪の儀式を行なってその霊をなだめなければその霊にとりつかれる,と言われます。また,クリスチャンの家族に死者が出ると,特別な服を着るかどうか,他の人々が期待するような儀式を行なうかどうかなど,土地の習慣に関して決定を迫られることがあるかもしれません。

エホバ神は,人類の間から死という痛ましい経験を除き去る日が来ることを約束されました。(啓示 21:4)その日が来るまでの間,神はご自分のみ言葉聖書を,『わたしたちの通り道の光』として与えてくださいました。(詩編 119:105)どのように行動するのがふさわしいか確信のない場合にはいつでも,聖書は神がわたしたちにどう行動するよう望んでおられるかを示してくれます。(イザヤ 30:21)身近な人の死という最も悲しい時について,聖書の与えている導きを考慮してみることにしましょう。

喪の悲しみはふさわしい

既に述べたとおり,愛する人が死んだ時に深い悲しみを覚えるのは自然なことです。しかし,クリスチャンは復活のあることを知っています。ですから,希望のない人々がしばしば示すような,絶望感に打ちひしがれた狂気じみた悲嘆を味わうことはありません。(テサロニケ第一 4:13)死は確かに一時的な別れを意味するとはいえ,必ずしも永遠の別れを意味するものではないのです。

例えば,アブラハムはサラが死んだ時に,『サラの死を嘆き,泣いて悲しみ』ました。(創世記 23:2)息子のイサクは,「母を亡くした後の慰め」を必要としていました。(創世記 24:67)死んだラザロの友人や親族の悲しみは非常に大きく,イエスご自身「涙を流され」ました。(ヨハネ 11:35)そのような深い悲しみの時に,遺族の友人たちがやって来て慰めるのは愛のある行為です。―ヨハネ 11:31。

しかし,喪および遺族を慰めることに関する聖書の記述の中に,死者をなだめるということが一度も言われていないのに気づかれるでしょう。神の僕たちは,死者が眠っていて,無意識だということを知っていたのです。(ヨハネ 11:11-14。伝道の書 9:5,10)死者は死後の世界で苦しんでいることも,執念深くて危険な霊に変わってしまうこともありません。(詩編 146:3,4)ですからエホバの民は,周囲の諸国民に倣って死者に関する間違った考えを反映する事柄を行なうべきではありませんでした。―申命記 14:1; 18:10-12。

今日でも,『死者に敬意を表する』ということで一般に行なわれている事柄を検討する際には,その習わしが現在,何を意味しているか見定めなければなりません。それは現在,偽りの教えや何らかの迷信と結びついていますか。結びついていれば,クリスチャンはそれに従うべきでしょうか。―ローマ 13:12-14。

どんな喪の習慣?

この世のある人々の間では,妻や夫に先立たれた人は特別な服を着て,1年間喪に服さなければならないとされています。その間,多くの面で自由が制限されます。この習慣はキリスト教の信仰と矛盾しないでしょうか。

親族を失ったクリスチャンの服装や行動がある期間控え目になるのは理解できることです。(サムエル第二 13:19; 列王第二 6:30と比較してください。)しかしそれは,地域社会の人々が死者についての非聖書的な信仰と結びつけて考える服を長い期間着ることとはかなり異なっています。夫を亡くしたクリスチャンがそのような習慣に従うことを拒んだときに,“不運”が巡って来るとか,死んだ夫の“霊”が腹を立てて災いをもたらすなどと,親族や近所の人々から脅されたこともありました。そういう迷信的な人々は,雨が降らなくなることや不作になることをも恐れるかもしれません。

夫を亡くしたある人がさまざまな習慣に従わなかったところ,息子から「お父さんの霊が安らかに眠れない」と言われました。別の場所では,部族の酋長がその付近一帯からエホバの僕たちを全員追い出すと言って脅しました。土地の人々の中には非常に腹を立てて,地元のクリスチャンの集会場を金てこや斧で破壊した人々もいました。さらに別の地域では,夫に先立たれたあるクリスチャンが裸にされ,部族警察によりシャンバク(むち)でひどく打ちたたかれました。

夫に先立たれたそれらのクリスチャンたちは,近所の人々が期待するような事柄をなぜ行なおうとしなかったのでしょうか。“体裁”を保つために土地の習慣に従っても,別に大した害はないと考える人もいるかもしれません。ある習慣については,確かにそのとおりかもしれません。しかし,クリスチャンが“先祖の霊”をなだめるために行なわれる風習に従うとしたら,どのようにみなされるでしょうか。昔に,そのような習わしに従った人々は,イスラエル人の社会にも,初期クリスチャン会衆にもとどまることを許されなかったという点を忘れてはなりません。―申命記 13:12-15; 18:9-13。コリント第二 6:14-18。ヨハネ第二 9,10。

その理由の幾つかを考えてみましょう。一つの点として,そのような風習に何らかの形で従えば,キリスト教ではない宗教を支持し,事実上促進することにさえなるでしょう。そして,心の中では依然として偽りの宗教から離れていないことを示す結果になるでしょう。―啓示 18:4。

エホバの証人は聖書を教えていることで世界中どこでもよく知られています。証人たちが強調する聖書の真理の一つは,死者には意識がなく,地獄で苦しむこともなければ,地をさまよって自分の子孫を損なう力もないということです。聖書は,「死んだ者には何の意識もな(い)」と述べています。(伝道の書 9:5)この教えは幾十万もの人々に慰めとなってきました。ですから,大抵の地域社会の人々は普通これらのクリスチャンが死者をなだめるための風習に従うことは期待しません。

では,真のクリスチャンが親族や近所の人々の圧力のために,キリスト教にもとるような喪の習慣に従うことに同意するなら,どんな事が起きるでしょうか。クリスチャンたちは自分たちの宣べ伝えている事柄を本当に信じてはいないのではないかと近所の人たちは思うのではないでしょうか。また,ほかの分野でも妥協させることができると考えるのではないでしょうか。そのことに疑問の余地はありません。こうして,多くの良い業が損なわれ,人々をつまずかせることになるかもしれません。―マタイ 18:6。コリント第二 6:3。

ですから,エホバの証人の会衆の長老たちや他の人々は,親族を亡くしたばかりの人々にできる限りの援助を差し伸べます。キリスト教に反するさまざまな習わしに従わせようとするいかなる圧力にもめげず,真理の側にしっかりと立てるよう助けるために,必要ならいかなる援助をも惜しみません。―コリント第二 1:3,4と比較してください。

そのような助けを受けながら,あるクリスチャンがキリスト教にそむくような喪の習慣に従うようになるならどうしたらよいでしょうか。長老たちは親切な態度で行動するでしょう。使徒パウロはこう諭しました。「兄弟たち,たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも,霊的に資格のあるあなた方は,温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め……なさい」。(ガラテア 6:1)弟子ヤコブはさらにこう述べています。「わたしの兄弟たち,もしあなた方の中のだれかが惑わされて真理からそれ,別の人がこれを立ち返らせるなら,罪人をその道の誤りから立ち返らせる人は,その人の魂を死から救い,多くの罪を覆う,ということを知りなさい」― ヤコブ 5:19,20。

神ご自身が,「ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれる」ということを覚えておくとよいでしょう。(ペテロ第二 3:9)長老たちはまず,誤った道を歩む人を正道に戻すよう一生懸命に努力するでしょう。大抵の場合,深い悲しみに近所の人々への恐れが加わって,その人を誤った道へと追いやったことが明らかになるに違いありません。親切で思いやりのある助けによって,その人が以後,『自分の足のためにいつもまっすぐな道を作って,なえたところが脱臼したりすることがないように,むしろそこがいやされるようにする』のが望ましいことです。―ヘブライ 12:13。

しかし,あるクリスチャンがキリスト教にそむくような喪の習慣に従い,仲間のクリスチャンの助けを退け,キリスト教にそむく道を何としても歩み続けようとするなら,長老たちは,そのような習わしによって見守る人々が混乱させられたり,クリスチャン会衆に誤った習わしが導入されたりすることが決してないよう,行動を起こさなければならなくなるかもしれません。自分の先祖を崇拝する人はだれであれ,もはや真のクリスチャンではありません。ですからこの事実をすべての人がはっきりと認識できるような措置を取らなければなりません。―コリント第一 5:13。

忠実であれば祝福を受ける

この重要な問題において忠実であれば良い結果が生まれることを知ったクリスチャンは少なくありません。スリナムのクリスチャン婦人,エドウィナ・アパソンは自分の経験を次のように語っています。「ある時,聖書研究を司会していたところ,衝撃的な知らせが入りました。エホバの証人でない長男が抗議デモに参加していて射殺されたというのです。その悲しい出来事が引き金となって,さらに大きな圧迫が加わりました。親せきの者たちから,『喪のしきたりにも従わないなんて,それでもお前は息子に対して母親らしい感情を持っているのか』と言われたからです。しきたりによれば,髪を切って頭を白いスカーフで包み,何か月もの間喪服を着け,1年間はわざとゆっくり歩み,口をおおって小さな声で話さなければなりません。こうしたことすべては,母親が本当に悲しんでいることを人々と“死者の霊”なるものに示すためです。けれども,そのようなことをすれば,私が伝道していたことは無駄になり,神に対する清い良心を失うことは請け合いです」。ですから,エドウィナは妥協しませんでした。

別の男の人は自分の死んだおばが夜,定期的に自分のところへやって来ると言い張りました。この人はおばさんが何を望んでいると思ったのでしょうか。「川端でおばのために犠牲をささげることです」とその人は答えました。犠牲をささげなければどうなりますか。死ぬかもしれません。生前,このおばさんは非常に優しい人でした。ところが,死んでからは,恐ろしいけんまくで脅しつける暴君のように振る舞うと考えられていたのです。それがほんとうに同一人物であり得るでしょうか。それで聖書を用いて推論することにより,この男の人も,この男の人と同じような考えをもっていた他の人々も,死者に対する恐れから解放されました。この人々は,幻や声や亡霊のようなものは,堕落したみ使いたち,すなわち悪霊たちの仕業であることを学んだのです。―コリント第二 11:3,14; エフェソス 6:12と比較してください。

エホバの僕たちは,神が定めてくださった道にとどまれば,最終的には永遠の命という祝福に至ることを知っています。(イザヤ 30:21)サタンはこうかつで人を欺くような手段を絶えず使って,エホバの僕たちをつまずかせ,その道からそれさせようとしています。(ペテロ第一 5:8,9)サタンはエホバの僕たちが愛する人の死を嘆いている時に特に攻撃に屈しやすいことを知っています。しかしクリスチャンはどんな圧力を受けようとも,あらゆる事柄においてエホバに忠実を保つことを決意しています。ほかの事柄と同様この点においても,クリスチャンは「自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。(使徒 5:29)こうしてクリスチャンはエホバ神に対する自分たちの専心のほどを実証し,死や嘆きが「もはやない」新しい体制での命という報いを神が与えてくださることを待ち望めるのです。―啓示 21:4。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする