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  • 自由の神
  • キリストを通してもたらされる自由
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1991
塔91 2/15 30ページ

自由

絶対的な無制限の自由を持っておられるのはエホバ神だけです。エホバ神は全能者,宇宙の主権者なる支配者,またすべてのものの創造者だからです。(創世記 17:1。エレミヤ 10:7,10。ダニエル 4:34,35。啓示 4:11)他のすべてのものは,与えられた能力の限界内で動いたり行動したりしなければならず,エホバの定められた種々の宇宙的な法則に服さなければなりません。(イザヤ 45:9。ローマ 9:20,21)例えば,重力について考えてみてください。さらに,様々な化学反応,太陽の影響,成長などをつかさどる諸法則や,道徳律や,人の自由に影響を与える他の人々の権利と行動についても考えてみると,神のどんな創造物の自由も,相対的な自由であることが分かります。

限定的な自由と束縛との間には相違があります。神の定められた限界内で自由であることは幸福をもたらしますが,被造物,不完全さ,弱さ,あるいは間違ったイデオロギーに束縛されると圧制や不幸が生じます。自由は,自己決定とも区別されるべきものです。つまり何が正しく何が間違いかを,神の律法を無視して自分で決めることとは違います。自己決定は他の人々の権利の侵害につながり,問題を引き起こします。そのことは,かつてエデンで蛇がアダムとエバに抱かせた独立的でわがままな精神の引き起こした結果を見れば分かります。(創世記 3:4,6,11-19)真の自由は,法律つまり神の律法の拘束を受けます。その律法は,正しい,築き上げる,有益な仕方で個人を十分に表現する余地を与えており,他の人々の権利を認めてすべての人の幸福に寄与します。―詩編 144:15。ルカ 11:28。ヤコブ 1:25。

自由の神

エホバは自由の神です。エホバはイスラエル国民をエジプトにおける束縛から解放されました。そして彼らに,神のおきてに従う限り,窮乏に陥ることはないであろうとお告げになりました。(申命記 15:4,5)ダビデはエルサレムの住まいの塔の内にある「心配のない状態」について語りました。(詩編 122:6,7)それでも,律法には,人が貧しくなった場合,その人は身を売って奴隷になり自分と家族のために必要物を備えることができるという規定がありました。しかし,そのようなヘブライ人は,奴隷として七年目を迎えたとき律法により自由の身になることができました。(出エジプト記 21:2)ヨベル(50年ごとに巡って来る年)には,その地においてすべての住民に自由がふれ告げられました。ヘブライ人の奴隷は皆解放され,人はそれぞれ自分の相続地に帰りました。―レビ記 25:10-19。

キリストを通してもたらされる自由

使徒パウロは,人類が「腐朽への奴隷状態」から自由にされることの必要性について述べました。(ローマ 8:21)イエス・キリストは自分を信じたユダヤ人にこうお告げになりました。「わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子であり,また,真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」。イエスは,アブラハムの肉の子孫であるというだけの理由で自分たちには自由があると考えていた人たちに対して,彼らが罪の奴隷であることを指摘し,こう言われました。「それゆえ,もし子があなた方を自由にするならば,あなた方は本当に自由になるのです」。―ヨハネ 8:31-36。ローマ 6:18,22と比較してください。

クリスチャン・ギリシャ語聖書は,キリストの追随者たちのことを自由な者たちとして述べています。パウロは彼らが「下女の子供ではなく,自由の女の子供」(ガラテア 4:31)であることを示しており,その自由の女を「上なるエルサレム」と呼んでいます。(ガラテア 4:26)次いで,パウロはこう勧めています。「キリストは,このような自由のために[「彼女の自由をもって」,参照資料付き 新世界訳聖書 脚注]わたしたちを自由にしてくださったのです。ですから,堅く立って,再び奴隷のくびきにつながれないようにしなさい」。(ガラテア 5:1)当時,偽ってクリスチャンであると唱える人たちがガラテアの諸会衆と交わっていました。それらの人は,ガラテアのクリスチャンたちをそそのかし,キリストに対する信仰ではなく律法の業によって義を得ようと努めさせることにより,キリストにおけるその自由を放棄させようと腐心していました。そのようにすれば彼らはキリストの過分の親切から外れ落ちることになる,とパウロは警告しました。―ガラテア 5:2-6; 6:12,13。

初期クリスチャンが享受した,罪と死への束縛からの自由や恐れからの自由(「神はわたしたちに,憶病の霊ではなく,力と愛と健全な思いとの霊を与えてくださったからです」)は,良いたよりを宣明する点での使徒たちのおくすることのない話し方やはばかりのないことばに示されました。(テモテ第二 1:7。使徒 4:13。フィリピ 1:18-20)彼らはキリストについてのこのはばかりのないことばを,貴重な所有物,神の是認を受けるために培い,守り,保つべきものと認めていました。それはまた,祈りに含めるのにふさわしい事柄でした。―テモテ第一 3:13。ヘブライ 3:6。エフェソス 6:18-20。

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