ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔95 8/1 25–29ページ
  • ねばり強さの報い

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • ねばり強さの報い
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1995
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • ねばり強さの模範
  • 祈り続けることには報いがある
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1979
  • この「終わりの日」における祈り
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1979
  • エホバは「ご自分に求めている者に聖霊を」与えてくださる
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2006
  • どれほどの決意がありますか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1965
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1995
塔95 8/1 25–29ページ

ねばり強さの報い

そのギリシャ人の女性は西暦32年当時,フェニキアに住んでいました。娘が非常に重い病気にかかっていたので,治す手だてを必死に探していました。病人をいやす力があると評判の,見慣れない外国人がフェニキア地方にやって来たことを聞きつけたこの女性は,ぜひその人に会って,助けてもらおうと心に決めました。

その人に会うなり,ひざまずいて,「主よ,ダビデの子よ,私に憐れみをおかけください。私の娘はひどく悪霊につかれています」と懇願しました。ギリシャ人の女性はそう言って,娘をいやしてほしい,とイエスに頼み込んだのです。

そうするためにはどれほどの勇気と謙遜さがその女性に求められたか想像できるでしょうか。イエスはある程度の権威を持ち,名声を得ていた人物でしたし,少し前には,自分の居所はだれにも知られたくないと思っていることを伝えておられました。イエスが使徒たちをフェニキアに連れて来たのは,休息を取る必要が大いにあり,幾らかでも休むためであって,信者でない異邦人の間で奉仕するためではありませんでした。それにイエスはユダヤ人で,女性は異邦人でした。ユダヤ人が諸国民をさげすんで諸国民と交わりたがらないことをこの女性は知っていたはずです。それでも,子供を治してもらおうと固く決意していたのです。

イエスも使徒たちも,その時に助けを求めるのを思いとどまらせようとしました。イエスは最初,彼女に一言も話そうとはされませんでした。しかし,この女性が何度も執ように叫ぶので,使徒たちはすっかり腹を立てて,「彼女を追い払ってください。あとに付いて来て,叫びつづけていますから」とイエスに言いました。

ところが彼女は,いやとは言わせず,イエスの足もとに平伏すると,「主よ,私をお助けください!」と言ったのです。

イエスは,イスラエルの子たちに対するご自分の主な責任を指摘すると同時に,この女性の信仰と決意のほどを試して,思いやり深く,「[イスラエルの]子供たちのパンを取って小犬[異邦人]に投げ与えるのは正しくありません」と言われました。

彼女は,自分の民族に対して否定的なことを言われたにもかかわらず,感情を害することなく,「そうです,主よ。けれど,小犬も自分の主人たちの食卓から落ちるパンくずを食べるのでございます」と答えて,謙遜な態度でねばり強く懇願しました。

イエスはそのギリシャ人の女性の信仰をほめ,嘆願を聞き入れて,彼女のねばり強さに報われました。家に帰り,すっかり治っている娘を見たこの女性がどんなに喜んだか,想像してみてください。―マタイ 15:21-28。マルコ 7:24-30。

1世紀のその女性と同様,わたしたちも,エホバを喜ばせてエホバの恵みを得る努力をねばり強く続ける必要があります。ギリシャ人の女性の場合のように,「りっぱなことを行なう点で」ねばり強さを示すことには十分な報いがある,と聖書は保証しています。―ガラテア 6:9。

ねばり強さとは何でしょうか。それはなぜ必要なのでしょうか。この特質を失う,つまりあきらめたり降参したりしてしまう要因としてどんなものが考えられるでしょうか。創造者であり父であられるエホバに仕える点で今,ねばり強さを示すなら,どんな報いを期待できるでしょうか。

ある辞書は,ねばり強さを示すという意味の英語の動詞,“persist”をこう定義しています。「障害や警鐘や妨げをものともせずに,ある目的,状態,もしくは企てを確固として,また断固として守ること。……存続すること; 持続すること」。

聖書はエホバの僕たちに,ねばり強く神のご意志を行なうよう繰り返し強く勧めています。例えばわたしたちは,「ですから,王国……をいつも第一に求めなさい」,「りっぱな事柄をしっかり守りなさい」,「たゆまず祈りなさい」,りっぱなことを行なう点で「うみ疲れて」はなりません,と命じられています。―マタイ 6:33。テサロニケ第一 5:21。ローマ 12:12。ガラテア 6:9。

日常生活の雑事をこなすために,ねばり強さはわたしたちがだれしも持っていなければならない,また培わなければならない特質です。ねばり強さがなければ,真実の永続的な価値ある事柄は何も成し遂げることができません。赤子が立って,初めてよちよち歩きをしようとする時のことを考えてください。1日で立って自由に歩き回れるようになる子供はまずいません。わたしたちは皆,赤子のころ,おそらく何度も試みては失敗し,やっとある程度上手に歩けるようになりました。初めてころんだ時,もう挑戦するのはやめようと思ったなら,どうなっていたでしょうか。いまだに四つんばいになってはい回っているかもしれません。価値ある目標に到達し,それに応じて技術を向上させたり,自尊心を強めたりする上で不可欠なのは,ねばり強さです。よく知られていることわざにもある通り,「勝利者は決してあきらめない。あきらめが早い者たちは決して勝利者にならない」のです。

長年開拓奉仕をしている人たちは,特別な能力もしくは才能があれば必ず成功するというわけではないことに気づいています。成功するにはがんばり通すこと,エホバのご意志を十分に行なおうとする決意,一時的に妨げとなるもの,失意にさえめげない勇気が必要です。とこしえにわたって神の祝福にあずかるという目標にはっきり焦点を合わせつづけなければなりません。

エホバの恵みを得ようと努め,命を得る競走で勝利を収めようとしているわたしたちすべてには,ねばり強さ,根気強さ,忍耐が必要です。これらの特質がないなら恐らく,エホバの恵みも,真の命という報いも得損なうことでしょう。―詩編 18:20。マタイ 24:13。テモテ第一 6:18,19。

霊的な活動とその他の責務を比較した場合,クリスチャンにとってねばり強さを発揮しにくいのは,多くの場合,霊的な活動のほうです。家族の物質的な必要を顧みるために世俗の職場で一生懸命働き続ける一方で,妻や子供たちとの定期的な聖書研究を司会する段になると,『疲れ切って』行なえない人もいることでしょう。多くの人にとってクリスチャンの業をねばり強く行なうのが非常に難しくなる要因にはどんなものがあるでしょうか。

一つの要因は,自分の失敗や弱さに起因する落胆です。自分の犯した間違いをくよくよ考えつづけるなら,エホバはわたしたちが犯したもろもろの罪を許してはくださらないと感じて絶望し,あきらめてしまうかもしれません。

別の要因は,不道徳や不正行為や憎しみの見られるこの世的な環境です。(ヨハネ第一 2:15,16)世の影響力によって損なわれる「有益な習慣」の一つは,クリスチャンとしてのねばり強さです。―コリント第一 15:33。

神聖な奉仕に対する一般の人の反対や無関心は,宣べ伝える業におけるねばり強さを弱めることがあります。わたしたちは挫折感を感じて,区域の人たちは全く真理を望んでいない,と結論するかもしれません。そのために,『伝道して何になるのだろう』と考えてしまい,宣教奉仕という大切な特権を手放すこともあり得ます。

この世に見られる放縦の精神の影響を受けることもあります。ほかの人は皆,楽しんだり気楽にやっていたりしているように見えるのに,どうしてわたしたちはこんなに骨折ったり犠牲を払ったりしなければならないのでしょうか。―マタイ 16:23,24と比較してください。

エホバのご意志をねばり強く行なうには,クリスチャンの人格を身に着け,肉にではなく霊にしたがって生活しなければなりません。(ローマ 8:4-8。コロサイ 3:10,12,14)物事をエホバが見ておられるように見れば,重要な霊的活動を続行することができるでしょう。―コリント第一 16:13。

ねばり強さの模範

エホバは,数々の厳しい試練をくぐり抜けてご自分に対する忠節と忠実を示しつづけた僕たちの,励みとなる模範をたくさん与えてくださっています。それらの模範を考慮するなら,どうすればクリスチャンとしてのねばり強さを培い,発揮できるか,またなぜそれが非常に価値ある特質なのかが分かります。

最も偉大な模範を示されたのはイエスです。イエスはエホバのみ名を高めるために非常な苦しみを経験されました。聖書は,イエスのねばり強い専心の行為を注意深く調べるようわたしたちに勧めて,こう述べています。「こうして,これほど大勢の,雲のような証人たちに囲まれているのですから,わたしたちも,あらゆる重荷と容易に絡みつく罪とを捨て,自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか。わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスを一心に見つめながら。この方は,自分の前に置かれた喜びのために,恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え,神のみ座の右に座られたのです。そうです,罪人たちの,自らの益に反するそうした逆らいのことばを耐え忍んだ方のことを深く考えなさい。それは,あなた方が疲れて,あなた方の魂が弱り果ててしまうことのないためです」― ヘブライ 12:1-3。

命を目指す競走は全力疾走の短距離競走ではなく,長距離競走です。ですから,わたしたちにはキリストが示されたようなねばり強さが必要なのです。走っている最中はほとんどゴールの決勝線が見えないかもしれません。きつい全行程中,ゴールに向かって精神的な努力を続けるには,心の目にゴールがはっきり見えていなければなりません。イエスは自分の前にそのようなイメージを置いておられました。つまり,「自分の前に置かれた喜び」を思い描いておられたのです。

今日のクリスチャンの場合,その喜びにはどんなことが含まれるでしょうか。その一つは,少数の人にとっては天での不滅の命,多くの人にとっては地上での永遠の命という報いです。また,エホバの心を喜ばせ,神のお名前を神聖にすることにあずかったという自覚から来る満足感もその喜びの一つです。―箴言 27:11。ヨハネ 17:4。

その喜びにはエホバとの親密で喜ばしい関係も含まれます。(詩編 40:8。ヨハネ 4:34)そのような関係は人を元気づけ,命を保たせるもので,忍耐強く競走してあきらめてしまわないための力となります。さらにエホバは,ご自分の僕に聖霊を注いでその関係を祝福してくださり,結果として,喜びも,喜びに満ちた活動も増し加わります。―ローマ 12:11。ガラテア 5:22。

ねばり強く信仰を保ったヨブの模範を考慮するのは有益です。ヨブは不完全でしたし,自分の置かれている状況がよく分かりませんでした。ですから,時々,自分を正当化したり絶望したりしました。それでも終始,自分はエホバへの忠誠を保ち,エホバを決して捨てないという固い決意を表わしました。(ヨブ 1:20-22; 2:9,10; 27:2-6)エホバは,ねばり強く専心を貫こうとしたヨブに報われ,霊的および物質的祝福を注ぎ,永遠の命の希望をお与えになりました。(ヨブ 42:10-17。ヤコブ 5:10,11)わたしたちも,現在の生活の中でヨブのように多大の苦しみや喪失感を味わうかもしれませんが,忠実に忍耐するならエホバが祝福してくださることを確信できます。―ヘブライ 6:10-12。

現代のエホバの証人は全体として,クリスチャンとしてのねばり強さを発揮してエホバのご意志を行なって来ました。例えば,家から家の業など公に宣べ伝える活動がねばり強く行なわれているので,エホバの証人と彼らが伝える音信は世界中で注目されるようになりました。反対や試練をものともせずに良いたよりを宣べ伝えるエホバの証人の熱心さや断固とした態度は,メディアで何度も取り上げられてきました。その中には,「だれもエホバの証人からは逃げられない」という落ちまで付いたものもあります。―マタイ 5:16。

エホバはねばり強く努力する証人たちに,宣教における実の増加という恵みを与えてこられました。1960年代のイタリアの機知に富むある証人たちが経験した事柄に注目してください。その当時,5,300万人余りの国民に約1万人の証人たちが伝道していました。人口6,000人のある町には証人が一人もいませんでした。そこを訪れた兄弟たちは宣教に対する敵対的な反応に直面しました。

兄弟たちがその町へ行って伝道するたびに,町の女性ばかりか男性までが大勢で少年たちをかき集め,証人たちの後について行って口笛を吹いて騒ぎ立てるよう,けしかけたのです。その数分後,兄弟たちはやむなくそこを去って別の町へ行きました。兄弟たちは,その町の住民全員に少なくとも一度は徹底的な証言をしようと努力し,雨のひどい日にだけその町で伝道することにしました。少年たちに煩わされることがないのではないかと思ったのです。町民は雨にぬれてまで伝道者の邪魔をする気のないことが分かりました。こうして良い証言がなされ,関心を持つ人々が見いだされて聖書研究が新たに始められました。その結果,その小さな町に活発な会衆が設立されたばかりでなく,天気の良い日でも宣べ伝える業がなされるようになりました。エホバはその地域をはじめイタリア全土のご自分の証人たちのねばり強さを引き続き祝福され,今ではこの国に20万人を上回るエホバの証人がいます。

正しいことをねばり強く行なうなら,大きな報いがあります。エホバの証人は神の霊の力により,人類史上前例のない偉業,すなわち,幾十億もの人々に戸口やその他の場所で王国の良いたよりを宣べ伝えるという偉業を成し遂げることができました。(ゼカリヤ 4:6)そして,聖書の預言が成就して,エホバの地上の組織が驚くべき成長を遂げ,力強くなっていくのを目のあたりにする喜びを味わいました。(イザヤ 54:2; 60:22)証人たちは神に対して正しい良心を抱き,永遠の命の希望を大いに喜んでいます。そして,なによりも,創造者であられるエホバ神との親しい関係を楽しんでいます。―詩編 11:7。

[25ページの図版]

イエスは謙遜な態度でねばり強さを示したこのギリシャ人の女性に報いをお与えになった

[26ページの図版]

今日のクリスチャンの前に置かれている喜びの中にはパラダイスにおける命も含まれる

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする