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  • わたしたちの王国宣教 1998
  • 副見出し
  • あなた方の光を人々の前に輝かせなさい
  • クリスチャンの良い振る舞いは人々を引きつける
  • 家から家の宣教活動で
  • 地域社会の一員として神の教えを飾る
  • 王国会館
  • 社会の有用な資産となる
わたしたちの王国宣教 1998
宣 98/9 3–6ページ

立派な振る舞いによって神の教えを飾る

1 創世記の記録によると,『神は人をご自分の像に創造され』,それを「非常に良かった」と評価されました。(創 1:27,31)そうです,人類はエホバ神にとって貴重な価値ある存在です。最初の人間夫婦が神に反逆した後も,エホバは最大の属性である愛に動かされ,希望を失った人類を救出する手段を講じられました。人類という世を深く愛されたエホバは,人類が回復された楽園でのとこしえの命を持てるようにされました。

2 神と共に創造のみ業に加わったみ子も人類に対してみ父と同様の関心を抱き,「わたしが親愛の情を抱く事柄は人の子らに関してであった」と述べました。(箴 8:31)地上での3年半におよぶ宣教活動に携わったイエスは,サタンの世の一部とならないように注意深く行動しながらも,ご自分の愛情を人々に注がれました。イエスはどんな人をも敵とはみなしませんでした。真理の光が人々の心を照らさないようにしているのはサタンと宗教指導者であることを知っておられたからです。イエスは,地域社会や人々からご自分を隔離せず,人々の中に出かけて行き,真理について語り,立派な業を行なうことによって,ご自分を明らかにされました。

3 わたしたちは,エホバとイエスの示された立派な模範に目をとめ,教訓を学び取りたいと思います。例えば,野外奉仕でわたしたちは異なった宗教の背景を持つ人に会うかもしれません。そのような場合,偽りの宗教と決めつけてかかるべきではありません。歴史を通じて人々は多くの試練に遭い,様々な疑問を抱きながら生活してきました。人々は自分たちの神々に助けを求めたり,宗教感情をいろいろな仕方で表わしたりしてきました。人々はそうした宗教を,問題を解決しようとする誠実さと努力の表われであると評価しています。そうした背景を理解した上で,その宗教は不正や悪のゆえに嘆き悲しむ人の真の助けとなっているでしょうか,人々をより幸福にしているでしょうか,と問いかけることができるかもしれません。

4 同様に,先人が今日まで積み重ねてきた知識や英知,芸術や思想,戦争と平和に関する歴史などをことごとく否定するのではなく,神がもともと人間にお与えになった無限の可能性とアダムから受け継いだ罪の深さによるものとして受け止め,人々の努力と関心を,回復される楽園での生活や世界政府ともいうべき神の王国に向けることができるでしょう。

あなた方の光を人々の前に輝かせなさい

5 イエスは弟子たちに「あなた方の光を人々の前に輝かせ,人々があなた方のりっぱな業を見て,……父に栄光を帰するようにしなさい」と勧められました。(マタ 5:14-16)光を輝かせることに含まれる重要な業の一つは,義の宿る「新しい天と新しい地」を招来する神の王国の良いたよりを他の人々に分かつことですが,忘れてならないのは社会を益する立派な活動もそれに含まれているということです。エホバの証人は聖書教育を通して,人々が聖書の高い道徳を実践し,社会の貴重な資産となるよう助けることに関心を抱いています。証人たちはまた,法律をよく守り,政府や行政当局者に敬意を払い,「誉れを要求する者」には誉れを帰するよう良心的に行動します。(ロマ 13:7)子供たちについて言えば,親は学校当局や担任の先生に喜んで協力し,子供たちが学校での勉強に真剣に取り組むよう援助します。なぜなら,学校教育が,責任感のある男女を社会に送り出すことに寄与していることを認識しているからです。同時に子供たちに愛情を注ぎ,健全な社会の基盤の一部になるよう家族生活を重視します。

6 エホバ神に倣い,自分自身のように隣人を愛するようになるとき,わたしたちが『量りかごの下で隠れるともしび』となることはありません。人々は,その立派な振る舞いのゆえに天の父に栄光を帰するようになるのです。―マタ 5:14,15。

クリスチャンの良い振る舞いは人々を引きつける

7 エホバの証人の数が少なかったころ,一般の人々はわたしたちの活動に,それほど注目することはありませんでした。しかし,今や伝道者の数は22万人を超えており,あらゆる階層の人からなる,大きな宗教グループに成長しました。近年,わたしたちは教育関係者や地方行政に携わる人々を訪問し,地域社会での証人たちの活動や信条について知らせ,証人たちが社会における有用な存在であることをアピールしてきました。一方,人々も家から家や街路で証言活動に携わる証人たちや,職場や学校における証人たちの振る舞いに,以前にも増して注目するようになりました。ペテロは1世紀のクリスチャンに対して,「諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい」と述べ,わたしたちの振る舞いが地域社会の人々からふさわしく評価されるようにと勧めました。―ペテ一 2:12。

8 証人たちが世一般とは異なり,礼儀正しく振る舞うことができるのはどうしてでしょうか。鍵となるのは隣人愛です。一権威者は礼儀についてこのように書いています。「振る舞いに関する最も優れた規則は,聖パウロが博愛について行なっている見事な論述,つまりコリント人への第一の手紙 13章の中にある。これらの規則は,服装の細かい点や,表面的な礼儀のことは少しも扱っていない。そこで扱われているのは,感じ方と態度,親切,他の人々に対する思いやりである」。ここで言及されているのは,パウロがクリスチャンの愛のさまざまな面を詳細に説明しているコリント第一 13章4節から7節の部分です。

9 パウロが強調した幾つかの点がどんな結果を生み出すかを考えてみましょう。『辛抱強く親切な』人は,他の人と接する際に忍耐と敬意を示します。『みだりな振る舞いをしない』とは,言い換えれば“上品に振る舞う”ことで,「上品」とは,「趣味の良さ,たしなみの良さ,質の良さの規準にかなっていること」と定義されています。ですから,礼儀の最も大切な要素は神に倣ったクリスチャンの愛です。言い換えれば,クリスチャンとしての礼儀は,単なる目的のための手段でも,自分に有利なときに身に着けるようなものでもありません。むしろ,他の人との接し方,わたしたちの態度,振る舞い,習慣的な行為などに示されます。わたしたちの礼儀は,わたしたちが他の人々をどれほど気遣い,どれほど深く愛しているかを示す目安です。

10 他の人の権利や資産を尊重することも良いマナーの表われです。ある場所では,他の人の所有物に対する敬意が驚くほど欠けています。ある人々は若者の蛮行に眉をひそめていながらも,紙くずやその他のごみを公園,街路,公共の建物の中などに投げ捨てます。一方,証人たちは聖書の教えを通して他の人の権利や資産に対する聖書の見方を学び,自分の思いを調整してきました。しかし,道路を広がって歩いたり,個人の所有地や庭先で車をUターンさせたりすることは,他の人の権利や資産に対する侵害であり,無作法な振る舞いと言われても弁解の余地はありません。イエスは「自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」と教えられました。(マタ 7:12)わたしたちはこの黄金律をしっかりと心にとめ,振る舞いに十分気をつける必要があります。

家から家の宣教活動で

11 ここ数年,人々の考えや気質は大きく変化しました。バブル経済の崩壊に拍車をかけるように,教育現場が混乱し,人々の道徳心や価値基準はすっかり変わってしまいました。加えて,宗教全般に対する警戒心はますます強まっています。そのため,聖書に基づくどんなにすばらしい音信を耳にしても,関心がわかず,「関わりを持ちたくない」と考える人さえいることでしょう。しかし,世の中が悪くなればなるほど,人々の考え方や心も変化し,証人たちの訪問を心待ちにするようになる人がいることも事実です。わたしたちは,人々に改宗を迫るためではなく,柔和な人,すなわち謙遜で心の正直な人や霊的な飢えをおぼえている人たちを捜し出すために人々を訪れます。

12 わたしたちの宣教には様々な目標があるということを覚えているのはよいことです。出版物を配布すること,証言することは目標のほんの一部にすぎません。家の人と親しくなること,人々にやさしい気遣いを示すこと,人々が関心を持つ共通の話題を話し合うこと,証人や聖書に対する偏見があれば,それを取り除くことなどが別の目標となります。わたしたちは「神を見倣う者」として,区域においてエホバの特質を目に見える仕方で表わすのです。―エフェ 5:1。

13 ある姉妹は,隣近所に住む人たちを自分の区域と考え,善行という種を少しずつまいています。直接聖書から証言しないとしても,普段から家や家の周りをきれいにし,子供たちと一緒に時を過ごし,学校で授業参観があれば積極的にそれに参加し,地域社会の一員として良い関係を保っています。近所の人を奉仕で訪問するときは,すでに顔見知りであるだけでなく,親しい関係が確立されているため,よそ行きの証言ではなく,その人に合わせた非公式タイプの証言を行ない,気軽に聖書を調べてみるよう勧めています。

14 別の主婦は,個人的な関心を示すことが宣教に大いに寄与することを経験から学びました。区域に親しみ,個人的な関心を払っているため,訪問する家々で健康や家族を気遣う純粋な関心を示す親しいあいさつをしています。また,この姉妹は奉仕をしているときに道ですれ違う人によくあいさつをします。老人が坂道で自転車を押しているのを見ると,近づいて声をかけ,手助けを申し出ます。この姉妹は奉仕区域でよく知られているため,人々はこの姉妹の証言によく耳を傾けます。この姉妹はエホバとイエスの愛を見倣っているのです。

15 訪問の際に道理をわきまえることも大切です。家の中で生じ得る様々な状況について考えてください。三交替勤務のため日中休んでいる人,病気で休養を取っている人,ぐずっていた赤ちゃんをやっと寝つかせた主婦などがいるとしましょう。故障しているのでない限り,一度チャイムやインターホンを押せば,家の人には来客があることが分かります。もし,家の人が出てこないのであれば,留守宅として記録に取り,別の時間帯に訪問するか,短い手紙を書き残してくることもできます。人々のライフスタイルや個々の事情が分かれば,思いやりのある接し方ができるようになります。

16 一方的に証言したり,とにかく何かを配布しなければならないと考えたりする必要もありません。家の人が「今は聞きたくない」と言うならその人の気持ちを尊重し,たとえ冷たくあしらわれたとしても,気遣いの言葉をかけることができます。「また次の機会に」,「さようなら」という言葉だけでなく,「悪い風邪がはやっています。風邪を引かないように気をつけてください」,「良いお子さんのようですが,今後の成長が楽しみですね」といった言葉を残せるようであれば,家の人にさわやかな印象を与えることができるかもしれません。しかしその場合,わたしたちの言葉が心から出ている必要があります。このような愛ある気遣いは,いつの日か家の人の心を開くことになるでしょう。

17 宣教に携わる際,パウロの述べた愛の定義の中にある「不義を歓ばない」という要素を銘記しておくことは大切です。わたしたちは,『はとのように純真さを示す』べきですが,不純な動機を持って近づこうとする人や敵意を抱く人たちに対しては,「蛇のように用心深く」あり警戒心を働かせるべきです。(マタ 10:16)異性を度々訪問することの危険性や訪問拒否の家に入らないようにという愛ある警告を無視すべきではありません。

18 家から家以外の様々な分野の奉仕にますます多くの兄弟姉妹たちが加わるようになってきました。公園や駐車場で証言がなされており,普段音信に接することのない多くの人が,出版物を受け取っているのは大きな喜びです。人々はしばしば,くつろいだ雰囲気を求めて公園を訪れます。そのような場所で,あたかもチラシを配るかのように雑誌を提供するならどうでしょうか。それは良いマナーとは言えません。同じ公園でくつろいでいる人の一人として,そこに居合わせた人とゆったりとした会話を交わし,自然な形で証言に移るなら,それはふさわしいことです。

19 景気が悪いため,商店主は営業に悪い影響が出ると思われる要素に敏感になっています。スーパーの駐車場や店の出入口付近で幾人もの奉仕者がお客に雑誌を配布するなら,商店側から営業妨害と受け止められるかもしれません。スーパーの駐車場や店などでの証言は,会衆の取り決めた活動として幾人かで行なうより,一買い物客として,個人のレベルで行なうほうが優っているでしょう。

地域社会の一員として神の教えを飾る

20 わたしたちの音信や宣教活動に携わる動機がどれほどよいものでも,一般社会のルールを守らないとすれば,これまで築き上げてきた良い評判が崩れ去ってしまうことがあります。王国の大義のためであれば,多少のルール違反であっても許してもらえると考えてよいでしょうか。もしそう考えて行動するなら,証人たちは利他的な愛を説きながら,実際には利己的な人だと受け取られかねません。(「王国宣教」,1998年7月号,2ページをご覧ください。)公共の,あるいは他の人の資産に敬意を示すことによって,世にあって光を輝かせることができます。

21 全地に広がる美しい楽園の希望を宣べ伝えるわたしたちには,当然のことながら責任が生じます。わたしたちの住まいは,すっきりした外観の家や手入れの行き届いた庭になっているでしょうか。家の中や個人の部屋はきれいに保たれ,整理整頓されているでしょうか。もし野外奉仕に熱心に携わっていてもこの面でよい証しになっていないのであれば,わたしたちの宣べ伝える音信は説得力を欠くものとなります。隣人への愛は,このような形でも表われるのです。

22 パウロは,『すべての人に対して,良いことを行なおうではありませんか』と勧めました。(ガラ 6:10)わたしたちは,良心的な市民として恥じない生活を送りたいと決意しています。自治会は,地域住民が日常の社会活動を自主的に運営するための組織です。住民,また王国会館を所有する会衆として,自治会費を納めることは当然の務めと言えます。ごみ拾いや廃品回収の予定,地域の環境福祉のための会合が自治会を通して知らされるなら,喜んで協力します。もし,大切な神権的活動と重なることがあるなら,地域社会のこの種の行事にどの程度参加するかに関して,種々の要素を考慮した上,各自が判断しなければなりません。

23 ある兄弟は,自分にできないことをきちんと説明した上で,自治会の役員を引き受けることにしました。ある証人たちは,自治会の世話役にクリスチャンとしての自分の予定や活動状況を知らせ,清掃を予定されている時刻よりも早く始め,割り当てられた分をきちんと果たしました。家族を愛し,地域社会の一員としての務めを果たし,さらに奉仕活動を通して見知らぬ人に愛を示す証人たちの自己犠牲的な働きは,確かに地域社会における貴重な資産と言えます。―箴 31:15,20。

24 近所の人が亡くなり,葬式が執り行なわれることがあるかもしれません。一切関わりを持たないとすれば,未信者の家族や近所の人たちにどのような印象を与えるでしょうか。礼儀をわきまえ,アガペー愛を培ってきた兄弟たちは,「汚れのない崇拝の方式」をしっかりと守りながらも,愛する者を亡くした隣人に対して同情心を示し,近隣の人たちからの良い評判を得ています。(ヤコ 1:27)近所でだれかが亡くなったなら,早速その家を訪問し,家の人を優しく気遣うと共に,いつでも力になりたいという気持ちを伝えることはよいことです。偽りの宗教と何ら関係がないことを確認した上で,家の人に代わって使い走りをすることさえできるかもしれません。葬儀が終わった後,ころあいを見計らって遺族を訪問し,ふさわしいようなら,「愛する家族を亡くしたとき」のブロシュアーを配布することもできるかもしれません。こうして,人類の世に対して善を行ない,エホバに倣うことにより,証人たちが平和な家庭を乱しているとか,地域社会に貢献しないといった非難が根拠のないものであることを示すことができます。―ペテ一 2:15。

25 地域社会の人々を気遣うわたしたちは,ボランティア活動をどのように見るべきでしょうか。クリスチャン会衆は,エホバ神を主権者と認め,神のご意志を行なうことに無条件の献身を表明した兄弟姉妹によって構成されています。地方ごとの会衆であれ,世界的な兄弟関係からなる会衆であれ,主要な関心は会衆の頭であるイエス・キリストの指導の下に,真の神エホバのご意志を行ない,その方に崇拝をささげることです。したがって,わたしたちは大々的なボランティア活動によって世から評価されることを目指してはいません。もちろん,地域社会で災害が生じるような場合,信仰の友だけでなく,一般の被災者や災害地での支援活動に援助の手を差し伸べることがあります。しかしながら,会衆全体で田植えの手伝いをしたり,農作物の収穫のためにボランティア活動を行なうことはクリスチャン会衆の本来の目的とは一致しません。

王国会館

26 地域社会の人々との距離を縮め,彼らの中で真理を実践し,キリスト教の価値を宣伝するために何ができますか。王国会館の建設と使用に注意を払うことができます。詩編 148編は,み使いをはじめすべてのものがエホバを賛美するように勧めています。そしてその中には,太陽,月,山々など無生の創造物も含まれています。わたしたちが崇拝のために用いている建物には大きく「エホバの証人の王国会館」という名称が記されています。では「エホバ」のみ名の付されているこの建物は本当にふさわしくエホバを賛美するものとなっているでしょうか。長老団は王国会館の内部だけでなく,外観が美しく整えられていることにも目を向ける必要があるでしょう。ペンキが剥げ落ちていたり,道路を行き交う人が投げ捨てたたばこが放置されたりしているならそれはとても残念なことです。

27 ビルのテナントを王国会館として使用している場合はどうでしょうか。その場合も内部だけでなく,ビルの玄関付近も十分に清掃しておくことは大切です。ある会衆は花や観葉植物を王国会館の外に置くことによって,美観を保つようにしています。また,定期的に行なう清掃では外観や周囲にも十分の配慮が払われるべきです。「エホバの証人の王国会館」という名前の付されたこの建物が,24時間いつでもエホバを賛美し,人々への無言の証しとなるようにしたいものです。

28 王国会館をすでに所有している会衆が駐車場を確保するよう努めることは賢明です。王国会館に隣接した場所か,ある程度離れた場所に駐車場を確保することができることでしょう。また,夜間や早朝を含めた集会前後に,車の乗り降りの際にドアを静かに閉めたり,路上での立ち話を控えたりして,周辺の住民に気遣いを示すのは良いことです。長老たちは,駐車場や駐輪場の確保,車の乗り降りなどの状況を把握する必要があります。駐車台数が限られている会衆では,兄弟たちが車に乗り合わせるなどして,近隣の人たちに配慮を示すことができるかもしれません。

29 王国会館を所有する会衆では,長老たちが自治会の責任者を周期的に訪問し,感謝の言葉を述べると共に,近所の人たちに迷惑となっていることがないかどうかを尋ね,指摘事項があれば良心的に改善していくよう心がける必要があります。

社会の有用な資産となる

30 わたしたちは真のクリスチャンになるよう人々を助けることにより,最善の事柄を行なえます。しかし,『光を人々の前に輝かせる』ことにはクリスチャンの生活全般が関係しています。わたしたちは,野外奉仕で礼儀正しくし,他の人の権利を尊重することに加えて,自分の住んでいる地域,働いている場所,買い物に行った先の人々に同情を示しているでしょうか。それらの人々の福祉に ― 霊的な必要だけでなく,自分が無理なく助けを差し伸べることのできる事柄であれば他の必要にも ― 関心を払っているでしょうか。イエスはそうされました。そうすることにより,人々に王国について教える道を切り開きました。もちろん,わたしたちはイエスのように文字どおりの奇跡を起こすことはできません。しかし,ちょっとした親切な行ないが偏見を打ち砕くという,いわば一種の奇跡を起こす場合も少なくありません。

31 確かに,わたしたちはクリスチャン愛に基づく振る舞いにより,神に誉れを帰すことができます。そして,「道理をわきまえない人たちの無知な話を,あなた方が善を行なうことによって封じるのは,神のご意志……です」という使徒ペテロの言葉の真実さを証明してゆくことができるのです。―ペテ一 2:15。

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